2015年12月

2015年12月31日

 今年のうちにここまではやる。そう決めていたので、これを記す。

 動執生疑どうしゅうしょうぎについてです。


 正説(『方便品第二』から『分別功徳品第十六』の途中まで)を開いて二となす。
(1)に、『方便品』から『安楽行品』に至るまでで、成仏の因(原因)となるものは一つであることを明かす。
(2)に、『従地湧出品』から『分別功徳品』の「是の如き諸人ら、是に於いて疑有ること無けん」までで、果の義の長遠なるの相を明かしている。

 さて、「果の義の長遠なるの相」とはなんぞや? ここがわからない。
 短絡的に考えれば、いかなる実相であろうと、それは成仏した姿であるという意味になろう。
 え? それはないだろう……と思われる方が多いのだろうが、私はそうは思わない。
 なぜかなら、いかなる境遇にあろうと、どんな深刻な悩みがあろうと、そのありのままの姿で成仏するのが日蓮仏法であると、私は学んできたからだ。

 そこで問題になるのが、そう見ようとしない自分のものの見方なわけです。
 病気に苦しんでいる人を見れば不幸だと思うし、悩みに打ちひしがれている人を見れば、可哀想だと思うし、誤った思想に執着しているの見れば愚かだと思うのが人情であるからだ。
 でも、仏法上からいえば、そういう境遇にあっても、ありのままで成仏できるし、していると見るのが仏法でのものの見方だと思う。
 しているという部分は過去。できるという部分は現在と未来という風に立て分けることもできる。

 そうなると、すべては成仏している、ないし成仏への道を辿っているというものの見かたになれるための因は絶対的に必要であり、相手にもその因があると気づかせていく行為が最重要なことにも気づくのではあるまいか。
 もちろんその因は、南無妙法蓮華経という題目であることは言うまでもない。

 
 つづいて正説では、その一因に(1)に関して、開いて四となしている。
(1)三乗を開いて一因一果(一乗教)と顕すことで、それまでの教えに執着していた衆生に、疑いを生じせしめるため。
(2)疑いを抱いた衆生は、その疑いを晴らしたいと請うこと。
(3)広開三顕一によって、衆生の抱いた疑いを晴らす。
(4)因の義を流通する意味を教える。

 ここもなかなか難しい。
 すなわち、疑いを生じせしめるということは即、真実を知りたいと衆生に欲させることになるということ。
 
 非常に辛辣な云い方をすれば、学会上層部からの打ち出しを、何の疑いもなく受け入れて実践・行動するということは、そのことだけで既に、法華経の精神から逸脱した姿としかいえない。

 よく指導では、「たった一握りでも不信があったら祈りは叶わない」とか言うが、私はこういういい方はどうかと、ずっと思ってきた。ことはこう考えれば簡単なのです。
 善悪一如であるなら、信疑もまた一如なのですよ。そこが理解できない人は、疑うこと=悪とか思いこむわけです。もっとぶっちゃけて言えば、無明即法性なのですよ。
 自分のどうしようもなく嫌な部分だとか、相手の大嫌いで反吐が出るような所こそが、最も自分や相手を輝かせるものなですよ。でも、私も含めて、多くの人はそういう見方がまずできない。だから仏道修行をしているわけですよね。
 もちろん、そのためには「即」という部分での実践・行動(ようするに、具体的にいえばお題目)が必要ということですよね。


 そしてここにも、法華経の慈悲はある。
 なぜいきなり「広」開三顕一なのかという部分である。

 まずは「略」で教えないと、理解できない人いるんじゃない? そういう部分をお話したい。

 ようするに、「かならず当に真実を説くべし」という言葉に反応して、すでに衆生は疑いを抱き、そのうえ疑いを晴らしたいと思うのは道理であり、しかしてそこで略を説いてしまえば、それはかえって略への疑いを生じる。もちろん衆生はこの疑いをも晴らしたいと思うのだから、別に略を説いてもいいのだが、師匠の説く側からすれば、それは無下に疑いばかりを生じせしめることになるのでそれはやらない。ではあっても(略を説こうが説くまいが、すでに疑いはあるのだから)、その衆生の求めに随って、仏は「広」を説くのである。

 つまり、ここでも師と弟子は自ずから求めるものは一致しているという「時」にあるということです。師としても時間を無駄にして「略」を教えてから「広」をということもしたくないのです。そして師が最も説きたいのも「広」なのですから、当然「略」などは略してしまうのです。
 いわゆる、『法華初心成仏抄』にある「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし」という意の心はここにあると私は思っている。
 とにかく何でもいいから強引に語っていけというのとは違うと確信している。何度でも云うが、押しつけほど残酷なものはないのである。

 もちろん「広」を説けば、「略」は「広」の中に含まれるのだから、説かずながらも広略ともに衆生の抱いた疑いは晴れるということでもある。

 素晴らしいではないか、法華経。いつでもどこでも一石二鳥みたいではないですか。
 
 そして、こうして「広」を説いたのであれば、自ずからその経は円経(総合的で完全無欠)であるのだから、あとは(4)の流通する義が説かれることも、自ずからということになるわけです。

 法華経の凄さはこの辺ですね。
 一つを説くことで、あとは自ずからすべて正しい道筋が立ってしまうというね。
 であるから、動執生疑こそが大事なのだということがわかるのではないだろうか。

 だがしかし、仏法は無上道なわけです。永遠の向上なわけです。
 だから一度ある理論を信じたなら、それはそのままでいいという論理で生きることは、もう既に仏法の道を外しているということです。
 ゆえに、永遠なる自問自答。あるいは永遠なる動執生疑が絶対的に必要なわけです。
 いうまでもなく、その対極にあるのが、妄信、狂信です。

 無論、こうしたことには実は落とし穴があるんです。
 それが二律背反という例のカントの論理です。
 卵が先か? 鶏が先か? ですね。
 人間はこういう思考をすると、理性的には絶望にしか辿りつかない理性を持っているのです。
 だから、法華経の智慧の門は難解難入であり、「信」によってしか入れないわけです。
 であるからして、法華経によって湧き出てくる答え(智慧)というのは、一見するととんでもない答えだったりするわけです。
 でも、よく自分を眺めていると、そのとんでもない答えに(無意識に)則って行動していたりするものなんですよ(体験談)。
 卑近な例でいえば、「なんで俺、今この本が読みてェんだ? わけわかんねェ」みたいなね。
 あるいは「なんか知らないけどラーメンが無性に食いたい」とか、ありますでしょ。

 だから、大事なのは自分を信じることなのです。自分の感じることを信じることなんです。もちろん自分の頭で考えることも重要なんです。けれどもそれはあくまでも動執生疑を生むための思考なのです。ゆえに最終的には、その理性の限界を超えたところに、法華経の智慧はあるのです。

 昔、男子部時代にこんな指導をしてくれた人がいます。
 ここに家があるんだな。でね、ここにみんな集まってる。じゃあみんなで駅まで行こうということになる。まあ普通の理性的な人というのは、一番近い道とかを考えていくんだよ。だけどね、たまーにさ、人の家の壁を乗り越えたり、人の家の中を通っていくような奴がいるんだよ。でも実はそういう奴が一番正しいんだよ、とね。そういう奴が革命を起こすんだなァ、と。
 えーでもそれじゃあ道理にそぐわないだろうと言うんでしょ。そこがまた仏法の凄いところなんですよ。「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可か」(『観心本尊抄』)にあるように、法華経の智慧(直観)に随ってとった行動というものは、絶対に世法から外れることがないのですよ。だから自分の感覚を信じることが大事なのです。自分の中にある言語化された理論やら理屈を信じるのとは次元が違うのです。そこの部分はむしろ疑いながら真実に近づこうとする思考が要求されるのです。

 ようするに理性なんてものは、所詮、道のある場所に目がいく代物でしかないのです。
 法華経の智慧は道のないところに、道を創る智慧なんですよ。

 こういうことは宮台真司などもよくわかっていて、その典型が、石原莞爾であるとか、三島由紀夫だと言ってるんです。彼らのしたことは、どう理性的、論理的に考えてもおかしい。どうしてそうしたかという理由を論理的に説明しようがないんですね。
 だからこそ、その思想の中核、もっといえば信仰の対象となる本尊が最重要だということの証明でもあるわけです。間違った本尊(思想・宗教)を選ぶことで、自ずから湧く智慧もおかしなものとなり、自他ともに不幸にするということです。

 ともあれ、動執生疑――。
 これは重要であり、最も堅実に真実に近づける道であるといっても過言ではないであろう。

 あそうそう。理性と感情と意(こころ)の関係がですね、最近わかったような気がしていますよ。
 今までは知情意とは調和(バランス)が重要だと思考していたんですね。
 でも法華経を学び『人間革命』の一節が頭に浮かんで、あーそうか、理性と感情が完全に一致したものが意なんだと思ったんですね。
 それが実際にはどういう状況かと説明するのは、今はできませんが、華陽会の女子部と戸田先生の会話にヒントがあったと考えたんですね。
 「きっとあるよ、理性と感情が一致する場所は」と戸田先生はいってるわけです。

 結局のところ、何ごとも言葉にして表現しようとすると、ジャンル分けみたいなことが必要になるんです。
 でも、もともとは一如であり一因一果でしょ。ならさ、知情意全てが一つになる瞬間てのはある。
 つーことはそれが意であり義(ようするに智慧)なんじゃないのかい、とそう考えたわけです。

 無性にラーメン食いたい。これが意であり感情。
 今別にラーメン食ったからって差し障りはないよね、じゃあ食べよう。これは三食目だから食べ過ぎではない。これが理。
 ほーら、見て。知情意全てが一致する瞬間はあるよね。




ipsilon at 21:57コメント(0)『法華義疏』 
 さて、今年さいごの記事は何を書こうかと昨日かんがえた。
 やっぱり最重要なのは安保法制のことかなと思い、その手のことを再度反省できる動画でもとも思った。だが、それは私なりには相当がんばってここに書いてきたのでいいかな、とも思う。

 ある意味では一番大事な本尊論でもいいのだが、いまはそういう気力がない。
 そもそも、今の私は凄まじい懈怠の魔に襲われているのでね。
 法華経というのはすごいもので、必死になって法華経の記事を書きはじめたとたん、いろいろと己心に魔が湧きまくっていることを感じている。
 けど、そんなことには負けはしませんけどね。

 ああもうなにこの小説という『その女アレックス』については散々に酷評はしたが、なぜ今この小説を読むことになったんだ? という自問自答をしてみれば、なるほどそういう必然性があったのね、ということにも既に気づいている。
 ええ、そうです。転んでもタダじゃあ起きないんですよ、私はね。そこは強欲ですからねェ。

 なんで不愉快なのかとか、いろいろと自分が感じたことを自問自答すると、必ずその先にはなにか意味があることはわかるものです。

 それはともかく、すこし忘備録がてらに『ぼくらの気持』にあったミステリーの書き方のことでも書いておこうと思う。


 すなわち、ミステリーの構成要素は、栗本薫曰く、5W1Hと知情意なのだとか。
 知情意というのは、登場人物を描くうえで、彼らを魅力的にする要素といえよう。
 知:彼らはなにを知り、なにに興味を持っているのか。そういうことを描くことで、人物像に深さや広さが出るということか。
 情:人間関係のありようによって、こういうことを云われると彼はこう反応するとかいった、感情面を描くこともまた、人物像に深さや広さが出るということか。
 意:上記したような立場にある登場人物の本音の表現。これもまた、人物像に深さや広さが出るということだろう。

 で、5W1H。
 ようするに、このうちの一つがはっきりすれば、自ずから犯人は特定できるし、5W1Hのすべても自ずから明確になるという意味。

 When――いつ? 殺人が行われたのか? これがはっきりすれば、他がすべてわかるという仕組みのミステリー。いわゆるアリバイもののミステリーがこれにあたる。
 栗本薫は『ぼくらの時代』では、このアリバイ(存在証明)をわざとひっくりかえして、非存在証明と云って話を進めていた。つまり、現場にいなかったことが証明できれば、自分は犯人ではないという意味。だが、ここには二重の意味があって、いわゆるシラケ世代と呼ばれた当時の若者たちの自己存在の主張に欠ける生き方を暗に批判しているところがあったのだろう。さすがは最年少乱歩賞作品と唸った部分でもある。
 俺はこういう人間でさ……といったことを全く主張しないまま、自己の存在を主張するなんて、おかしいよ。そういう意味あいを込めていたのだろう。

 Where――どこで? 殺害された場所がわかることで、他がすべてわかるという仕組みのミステリー。実際の作品では殺されたあと運ばれたとかいった具合に書くことで、トリックを作れるということですね。

 What――なにによって? 事件に使われた凶器がわかることで、他がすべてわかるという仕組みのミステリー。実際の作品では、銃殺なのか、薬殺なのか、撲殺なのかというところか。

 Who――だれが? 説明するまでもない。

 how――どのように? whatと似ているが、凶器ではなく、犯人のもつ特徴がわかることで、他がすべてわかるという仕組みのミステリー。犯人が左利きであるとわかればといったもの。右利きの人が刺すのと、左利きの人が刺すのでは、自ずから状況証拠が違うわけです。そのあたりをトリックとしてつかうということですね。

 そして、Why――なぜ? いわゆる動機というやつですね。動機がわかれば、他がすべてわかるという仕組みのミステリー。これも当たりまえといえば当たりまえです。

 そしてミステリーというのは、こうした6つの要素のいくつかを組み合わせて書かれることによって、犯人を特定しにくくするトリックを持った作品と考えればよかろう。


 『ぼくらの気持』の場合、栗本薫が、登場人物に「大事なのはね、Whyダニットが大事なんだ」と云わせはじめた時点で、私は犯人わかりましたけどね。
 一番動機がないだろうという人物が犯人なんやろ。小説ってのはそういうものだよ。そう予想したわけです。
 けどその人が犯人だとするとバッジの行方は不都合が生じる。でもあの状況でバッジを持ちだせたのは、あの人だけだな。するってーと、犯人には共犯者がいるのね。でもってトリックを解く鍵は、今まで注目を浴びないようにサクっと書かれてきた、紛失した原稿だろ……と私は推理したわけです。
 ええ、見事に犯人も当てましたし、90%推理したとおりの結末でした。

 ミステリーっていうのはこういうものですね。
 いやあなた再読だろ。だったらわかるだろと云うのでしょうが、10代の後半に読んだきりの内容を詳細に憶えているわけじゃあなかったので、そういうわけでもないのですよ。

 で、結局なにが云いたいかといえばですね、5W1Hなんてものは、なにもミステリーだけに重要なものではないでしょ。あらゆる小説というか、まともな小説なら、そういうものをきちんと書いてるよねということを云いたいのです。
 むろんそれに知情意が追加されていれば、なおのこと良い作品といえるということですね。

 だから、『その女アレックス』は卑怯だと云ったんですよ。
 こういうの説明するの面倒だったので、ここまでは書きませんでしたがね。


 ではなぜ、こんなにもミステリーを深く考えた栗本薫が、晩年そのミステリーから離れたのか?
 私はそこを思索しました。
 理由はこうでしょう。
 ミステリーは必ず殺人が起こるものです。そして、そのことによって永遠に知りえない真実が出来あがってしまうからです。『ぼくらの時代』も『ぼくらの気持』もそういう形で事件は終わっているんです。つまり犯人が死んでしまったりすることで、真実の一部がうやむやになっている作品なのですね。別の云い方をすれば、真実は真実なのだろうが、それは推理した人の見た真実に近い事実であって、あくまでも断定できるものではないという形に終わっているのです。

 ようするに、栗本薫は人が死ぬことで真実をうやむやにせざるを得ないミステリーの限界に気づいた。だから晩年はミステリーから距離をとったのではないか。そう考えたわけです。これは、いわずもながだろうが、栗本薫は『グイン・サーガ』シリーズの著者でもあります。

 もちろん、仏法上から見れば、死んでいようが生きていようが、真実は間違いなく厳然と存在するのですから、人が死のうが死ななかろうが真実は示唆できるんです。生死即涅槃であり、生も歓喜、死も歓喜だからです。
 けれども、仏法を知らない人々に訴えていくなら、人が死なないことで真実を語りきる方法のほうが断然に適しているといえるのだと思うわけです。


 どちらにしろ、昨今の作品はやたらに残酷描写があったり、平気で人殺しする描写を書きまくっても売れちゃうわけで。私なんかからすれば悲しい世相としか思えないわけです。

 かくいう私は、これまで40本以上の小説を書いてきたが、直接、人が死ぬシーンを書いたのは、書きはじめてから相当たって、自分なりにそうした生死の問題を考えてから書いたんですけどね。
 忘れもしません。私の書いた小説で人が死ぬシーンを描いたのは『ギガンテスの記憶』の中でですよ。

 『永遠の0』とかを評価している人とかね、気がしれません。
 あの小説のプロローグとエピローグはどうでしたか?
 見事に特攻に成功して、死んでいく姿でしたよね。
 それを平気な顔をして、「あれは特攻を賛美したものではない」とかいえる神経がね、私には理解できない。
 たくさん本を読んでいれば、プロローグとエピローグで作者が何を云おうとしてるのかなんて、すぐにわかるわけですよ。
 少々悪辣な云い方をすれば、特攻は自殺なんですよ。
 宮本輝さんも『錦繍』の中で、自殺だけは駄目だ。そう堂々と書いてましたよ。
 戦争に行った息子たちの中で、一人だけ、生きる希望を失って縊死した息子を語る母の言葉でね。
 4人の息子のうち3人のことは語っていたが、その縊死した子のことだけは口を閉じていたなんて表現をされていました。

 もっとも、そういうことをしようとした私だから、その罪の深さも当然私は深く自省しているんですよ。
 だからこそ、それだけは……という思いも、人一倍強いからこそ、こういうことを書くんですけどね。


 この世界にある真実はたった一つだけです。

 生命は尊極である――。
 これだけです。あとはすべて枝葉末節なんです。

 生命は尊極である。これがわかれば、あとのことはすべて自ずから為すべきことはわかるんですよ。
 栗本薫のミステリー論を借りていえば、
 Life done it ?

 一年を締めくくるにあって、私が一番いいたいことはこれです。
 だからそれを云って今年を〆たいと思ったわけです。

 ただ、そこに、いのち。
 世界の有無ではない。世界はくう
(仏陀)



 一年間、ブログを通し、またメールや糸電話、そして直接会って声を交わしてくださった方々。
 そして草木や犬猫、キモイー来るなー! と叫ばせてくれたゴ〇ブリも含めて、すべての生命に感謝し、心より御礼申し上げます。
 また、来年も宜しきに随いて、お願い致します。
 ありがとうございました。どうか、どなた様も、よいお年をお迎えくださいませ!

 


 いつのことだったか、はっきり憶えているわけではない。
 でもいつだったか学校の授業で教わった、翌檜あすなろのこころ。
 英語にすればmay be tomorrowかな。
 mabyなんてさ、可能性低いじゃん。50%くらいだろ。あすなろもそんな感じじゃん。
 だからあんまり好きじゃない。
 ずっとそんな感覚があった。

 でも今はちがう。
 そんな先ばかり見ないで、明日は、明日こそは、それでいいじゃない。そう思う。
 小さな一歩かもしれない。でもそういう明日こそという心の積み重ねが、本当に明日を作ると思うんだな。

 『ミッドウェイ海戦』に登場させた中檜くんの名前には、僕のそんな思いが込められている。
 中道の精神で、明日こそ――という心が。




ipsilon at 19:25コメント(4) 

2015年12月30日

 後半にあるミステリー小説への蘊蓄がわかりやすい。さすがは評論家、中島梓でもある。
 でも内容は結構マニアック。ロックや少女漫画のことを知らないと、読むのはきついかも。
 今ではBLなんて言葉は当たりまえになっているが、そういうののはしりがあった時代の作品だ。


 ミステリーといえども小説、推理『小説』である以上、そのドラマを演じている人物たちに人間としての興味や共感がもてなかったら論外だ、と思うんですがね。

 古き良き時代を懐かしむのは別に悪いことじゃあない。
 けれど、いつまでもそこ――ホテル・カリフォルニア――にいられる訳じゃあない。
 傷は消せなくても、いつかホテルの扉を開けなきゃならないときは来る。それこそ死にもの狂いになってね。


 こればっかりは、奴がてめェで立ち直るまで、オレたちにできることはもうなんにもないのョ。

 周りに出来ることなんてさ、そう奴ならできるさ。そう信じて待つこと。それだけ――。






ipsilon at 20:41コメント(0) 
 『その女アレックス』を読んでから、非常に気分が優れない。どうして、こういう作品がベストセラーになるのか、理解に苦しんだ。
 それが今の世相なんだろうなと絶望感が募った。おかしいだろ……絶対おかしい、こういうのを面白がれるとかおかしい……。それを自分なりに納得するために『ぼくらの時代』を再読したということ。

 案の定、『その女アレックス』はおかしかった。ということで今回は酷評することになろうから、その手の記事が苦手という方は読まないほうがよろしいかと。

 『その女アレックス』。この作品はそもそも卑怯である。
 おおよそ世評は二分している。しかし、いわゆる一般の読者層(読書メーターの感想)を見る限り、高評価を得ている。
 だがアマゾンのレビューを見ると、かなりの酷評がある。ここも面白いところだ。日々に本を読み、記録をつける人々の読書眼てこういうものなの……と、今回ばかりは相当に辟易もした。
 そもそも本を読む姿勢が、娯楽とか自己満足のためだということが、なんとなく見えたということ。
 そういう意味では、アマゾンのレビューの方が信用できる点に思いいたったことは有意義でしたけどね(レビュー数が少ないのが難点というのもありますけどね)。そして私は、この記事で読メユーザーを敵にまわしたともいえますけど、そんなことじゃ恐れません。

 ではなぜ『その女アレックス』が卑怯なのか説明したいと思う。

(1)著者の自己満足だけで終わっている点。
(2)書き手が事実を自分の都合のままに書き、提示すべき出来事をすべて隠蔽して、そのうえで結末を書いている。(これではミステリーとはいえないし、トリックやタネあかしに意味がない)
(3)小説のもつ大目的「真実」を伝えるという意義を根底から否定している。

 とりあえずこの三点だけでも許しがたい小説への冒涜だが、あげればもっとある。

 もういい、はっきり言おう。『その女アレックス』は糞小説である! 糞も糞。
 多分、これまで読んできた中で最低の小説だ。

 終幕少し前に著者はこう書いている。

 まあ、真実、真実といったところで……これが大事だとかそうでないとか、いったい誰が明言できるものやら! われわれにとって大事なのは、警部、真実ではなく正義ですよ。

 おいおい、正気かァ? 
 ピエール・ルトメールという人は図書館に勤めながら人にものを教えていたということくらいしかわからないが、そうだとしても異常だ。図書に携わっていながらそういう考えが出来ること自体が恐ろしい。

 では聞こう。
 信仰や宗教、思想哲学は何のためにあるんだ?
 数千年前から人類はその「真実」とやらを追い求め、言葉にできないその「真実」を何とか言葉にしようとして散々努力してきたことは無駄か?

 そして、ピエール氏がいうように、「真実」以上に「正義」が正しいというなら、この世界は本当に果てしのない争いがつづく修羅の世界でしかありえないわけだ。
 個人個人がそれぞれの正義とやらを振りかざしたらどうなる?
 アメリカの正義、イスラムの正義、中国の正義、自由主義の正義、共産主義の正義などなど……。
 そうやって誰も彼もが己が正義をふりかざすことによって争い絶えない世界であったんだよ。だからこそ、万人が共有できるたった一つの真実が大事なんでしょ。
 皆がみなその真実が正しいと納得すれば、争いは無くなるなんて、中学生だって気づけることだろ。

 がしかし、21世紀になって、人類はもうそういうこともわからなくなってきているらしい。
 さすがは末法だ。末恐ろしいとしかいいようがない。

 ある意味では正義は必要ですよ。けどね、それは真実に基づいて行使される正義であって、はじめて意味をもつものです。点前勝手な正義など必要ありません。
 そもそもなんだよ、あの結末は……。
 刑事検察側が(つまり筆者が)点前勝手に物的、状況的証拠をつくりあげ、こいつが犯人だったのです! めだたし、めでたしってか。そんなもんミステリーと呼べませんわ。ただの冤罪だし、疑わしきは罰せずという推定無罪の精神の欠片もないじゃないか。
 あげく最後には、そういう職権乱用とか権威を力とする検察のやり方に抗議していた刑事まで同調して、めでたし、めでたし、とね。お笑い草だ。

 翻って栗本薫『ぼくらの時代』はどうか?
 ある意味、超正統派ミステリーでしたね。密室殺人、そして連続殺人という、今では(当時でも)使い古された主題をさらに進化させられないかと喘ぎながら筆を進めていることなど、読んでいればわかった。
 それにそもそも事実の提示がしっかりしている。ここが『その女アレックス』とのまず最大の違いだ。

 大体さ、事件につきまとう事実を隠蔽しておいて、それをトリックだとかミステリーだとかいうなら、そんなものはね、もうトリックでもミステリーでも何でもないんですわ。単なる卑怯。誘導尋問に等しい読書を強いられて何が楽しいんだ?

 そもそも栗本薫なんて、わざわざ事実を提示するために、ここは一人称で書きました。ここは三人称にしましたとかご丁寧に説明までして、徹して事実を読者に提示しておいて、どんでんがえしをしていた。
 それに対して『その女アレックス』がどうかなど、今さらいいたくもない。

 そして栗本薫が最重要視していたのは「真実」です。
 
 もうね、なんともいえませんよ。
 『ぼくらの時代』を書いたとき栗本薫は弱冠25歳ですよ。かたや――。なんなんでしょうね、この差は。

 きみたちみたいに自ら信じた正義の味方もできない――真実を知りたいだけ、なんてセリフは、やっぱりぼくなんかにゃ、似合わんと、きみたちは思うだろうがね。しかしかけねのないところ、ぼくはきみたちを知りたい。(中略)云ってくれなきゃわからない、云わんでわかれといったって、ムリだよ。(中略)じぶんたちの心ではかり、裁き、決定し、そのとおり行動してしまう。赤軍だってそうだ。

 さすが栗本薫だ。
 知れなくても真実を知りたくなるのが人間。それを聞いて理解できなくとも聞きたいのが人間。そういっているわけだ。
 もっとも、最近のひねた私のようなものの見方をしている人間からすると、昨今の世人はその真実に対してどうでもいいというスタンスの人が多い。だから、言葉を交わそうとしない。
 自分の忖度だけで、あの人はああいう人。そう決めてかかるパターンが多々見受けられる。だから、自ら言葉をかけて語りあおうという人がまず少ない。この人はこういう人。だから近寄らないというパターン。ただの偏見じゃんそれってね。

 ともあれ『その女アレックス』の筆者がやったことは、栗本薫の文にある――
 「じぶんたちの心ではかり、裁き、決定し、そのとおり行動してしまう」という行為そのものというわけだ。

 その後に続く日本赤軍とか、何ですか? テロリストでしょ。
 つまり『その女アレックス』はさ、ミステリー小説のテロなわけですよ。そのことに気づかずに絶賛する愚かさ。見る眼のなさ……。そりゃ久しぶりに絶望したくもなりますよ。

 日本赤軍なんて今さら……。愚か者はそういう見方しかしない。でも違うんだな。
 今でこそイスラム原理主義の名を借りたテロに世界は震撼しているが、そのテロの原型(こうすればいいぜ! 既成事実を作って、俺らが正義だと主張し、後から犯行声明出せばいいぜ!)とかいうものを作ったのは、誰あろう日本人であるあの赤軍のメンバーなんですけどね。
 そのことすら顧みず、イスラムテロは許せないとかいう愚か者が多い。

 そう考えれば『その女アレックス』なんていうタイトルが面白がって読まれること自体、末恐ろしいことなのだが、それに気づいている人もほぼいない。なんだろうこの笑える状況は……。平和ボケもいいところだ。

 そもそも何なんだあの宣伝文句やらは。
 ミステリーの常識を覆したとかどうのとか。阿呆かと。
 これまで長年月をかけて先人たちが作りあげてきた手法を全否定して、俺の好き勝手書くからさ、読者もその俺の(思う正義)意見に賛同しろよ的な押しつけ作品が斬新な手法だとかのたまう業界の大人たちの下品さに反吐がでる。

 そう反吐がでるからこそ、私は真実とはどういうものであるかを語っておこう思ったのだ。
 栗本薫がいうように、黙ってたらそのままですしね。云わなきゃ伝わらないからだ。

 ということで、信じたい人は自分の正義を信じればいい。私が信じるのはあくまでも真実だけですけどね。
 点前勝手な正義など、所詮『迷信』ですわ。
 いわずもがな、この曲は『ぼくらの時代』で、真実があかされるシーンでジュークボックスから流れる曲だ。



 トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』を読んでからこっち、必死に自分とは知識的にも智恵的にも差があろうがなかろうが、関わっていく。そうやって庶民の中へ働きかけていくことこそ、芸術家の使命。そう思ってやってきたけど、さすがに辟易した。
 真実なんてどうでもいい。俺の正義こそが第一だ! そういう人たちに何をいっても無駄。
 いまはそうとしか思えない。

【事実】個人個人の立場にあって起こった揺るぎない出来事。
 よって、事実は星の数ほどある。
【真実】万人に共通する永遠普遍性をもって起こる揺るぎない出来事。
 よって、真実はたった一つしかない。

この違いすら気にしないで本とか読んでも意味はない。

【正義】正しい道理。人間行為の正しさ。
 何が正しいのか、すなわち真実を知らずして正義は実践できない。これが道理。

 肝心のアレックスが死んでしまって真実は闇の中なんだから、正義をもって裁けばいい。これが糞小説の言い分。
 肝心の被害者が死んでしまったのだから、真実なんて誰にもわからない。これが栗本薫の主張。

When you believe in things that you don’t understand,
Then you suffer,

わかりもしないことを信じると、悲惨な目に遭うぜ
Superstition ain’t the way, yeh, yeh.
迷信なんてものは……。


 所詮、小説も好みの問題ですからァというんでしょ。
 だが違うんだなァ。だから釈尊はいっている。好き嫌いを棄てろ、とね。
 好き嫌いはすわち偏見を生むだけだから。

 ああそれから『ぼくらの時代』はいい作品ですよ。
 彼らが組んでいるバンド名は『ポーの一族』。これは萩尾望都の漫画なのだが、テーマは永遠に子どもの心のままの人たちを描く作品。
 つまり栗本薫は――
 「じぶんたちの心ではかり、裁き、決定し、そのとおり行動してしまう人」を子ども。
 「かけねのないところ、ぼくはきみたちを知りたい。だから(たとえ誤解されようと嫌われようと)、云ってくれなきゃわからない、云わんでわかれといったって、ムリだよ」と語りかけていける人を大人と見ているということでしょ。
 薫さんの小説ってさ、意外に深いこと言ってるんだよね。その表現の軽さに惑わされないで読むと、この人の作品は深いんだな。
  




ipsilon at 11:46コメント(2) 

2015年12月25日

Q:法華経を序説、正説、流通説と立てわけると、方便品はなににあたるのですか?
A:正説です。
 序説は序品にて説かれました。
 そして正説がこの『方便品第二』から『分別功徳品第十六』の「是の如き諸人等 是に於いて疑有ること無けん」までの十四品半が正説となる。

Q:なぜ『方便品』という題号にしたの?
 内容によれば、これまで説かれてきた三乗(声聞・縁覚・菩薩)の教えが方便だったことを明かして、この法華経こそが真実であると明かすのだから、真実品とか実は真実はこれ品とかいう名のほうががいいのでは?
A:衆生のためです。ひとえに衆生のためです。

 この方便品の題号にある慈悲こそが法華経の心だと私は思いましたよ。
 
 釈尊はこれまで説いてきた法(経典)はみな真実だと言ってきたのです。ですが、ここにきて、「いやあれは方便であった!」と伝えたいからこそ、この品の題号を“方便”とされたんですね。
 意味わかりますか?

 理解しづらいと思いますが、ようするにひとえに、弟子たちの境涯に合わせて“方便”としたということです。
 それに、これまで説いてきたものはみな真実、でもこの法華経こそ「真実の中の真実です!」などと説明したところで、わかりにくい。ゆえに『方便品』とされたのです。
 また、いままで説いてきたものが方便なんだと伝えるために、わざわざ真実を説いている品であるのに、“方便”と言ったということです。

 これが法華経の慈悲であり、なんとも温かい師匠の心だと思います。
 師匠の立場で説けば、当然題号は『如来真実品』とか『真・真実品』とかになるのでしょうがね。
(もちろん、法華経にそういった名の品はありません)
 ゆえに、理論理屈でいえば、『方便実相品』と見るほうが理解はしやすいのだそうです。

Q:では正説(『方便品第二』から『分別功徳品第十六』の途中まで)で説かれている法の大意は?
A:これがまた説明が難しいのです。
 これに二義あり。略開三顕一と広開三顕一と。
 略開三顕一とは、簡略にいえば、これまで説いてきた教え(三乗のための教え「無二無三」)はみな方便であって、法華経で説けば所詮、一つの法(「一因一果」)に納まるのですという意。
 略と広の違いはのちほど説明したいと思います。あまりいっぺんにだと、私も混乱するからです。

 「無二無三」を素直に読めば、言外に「一因一果」である真実があることはわかるわけですが、私のような捻くれ者は「じゃあ真実は四個とか五個あるのかもねェ……あるいは、真実は人の数だけあるんだろうねェ」とかいう奴がいるから、ちゃんと「一因一果」と文字にしたという意味もあるのでしょう。

Q:開三顕一は開くと四つになるらしいけど、それってどういうこと?
A:思いきり簡略にいえば、「開示悟入」です。
 開示悟入とは、開き、示し、悟らしめ、入らしむ、という意味です。
 つまり、これまでの教えは方便(部分観:略=別)でした。これから説く法華経が真実(全体観:豊あるいは広=円)です。というのが「開」。
 三乗を開いて一となす。だから「開」です。

 では真実の教えとはなにか。それがこれ(法華経)です。と示すのが、「示」です。

 そして、その法華経の智慧の門に入るには「信」しかありません。これを悟らせるのが「悟」です。

 しかして、自分だけ悟っても、ただの自己満足ですから、人にも教えてあげましょう! というのが「入」なのです。
 人に教えていく方法も同じです。「開示悟入」です。いきなり信じればいい! とかいうのは乱暴で道理にあっていないことがわかることでしょう。
 「とにかく活動すればいいんだ」と豪語するのは、自分の中で開示も悟りもないのに、「この仏法は凄いよ! だからあなたもやりなさい!」と言っているようなものです。道理としては完全に間違い。
 自分が真実を知り、悟ったうえでなくて、正しく法を教えられる訳がないのです。これも道理です。
 相対性理論を理解していないのに、「相対性凄いよねー。あれは真実!」とか言っていても、信用なくすだけです。それが道理です。 
 相手が小学生なのに、大学生に教える内容を教えても理解できないでしょう。だから、相手の立場にたつ。そういったことが大事だということを最も端的にあらわしてしるのが『方便品』という名ではないでしょうか。

 ですが、「開示悟入」せずに信心に励んでもいいんですよ。小学生にいきなり大学の授業してもいいんですよ。
 ただしその姿はあくまでも「方便」であるからして、人に信用されない一面はあるわけです。そうやって信用を失ってゆき、やがて孤独になる。そうなれば嫌が応でも違う方法でやらないと駄目だと気づくわけです。
 方便も貫けば真実に至るのです。物凄く辛い目に遭いますけどね。
 だから私は、極論すれば妄信している人も狂信している人も決して否定はしません。
 でも痛い思いしないでも真実に至る道はあるよ! と勧めたいだけなのです。

 ともあれ――
 法華経の慈悲の偉大さはこういうところにもあるのです。
 自分だけが覚って満足。これでは小乗になってしまうのです。ゆえに「入」として流通を勧めているわけです。

 また、「開示悟入」を、三段という言い方にすれば、序説、正説、流通説という、法華経の経典そのものであるわけです。
 ゆえに、法華経を読むことがそのまま、自分と他者(環境)の幸福にとって最高のことだということです。
 でも、忙しい現代人が、二十八品も読んでられません。
(読んでられませんとか言い切っている場合じゃあないんですけどね)
 では読んだことと同じ意義(意味ではありませんよ。義です。理論や心では言いあわらせないというのが義です。平易にいえば功徳といえるでしょう)があるようにしましょうとしてくださったのが、日蓮大聖人であり、そのお題目の名をば――
 南無妙法蓮華経。つまり『妙法蓮華経(法華経)』の義に還りましょうというお題目なわけです。




ipsilon at 20:02コメント(2)『法華義疏』 
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