2016年01月

2016年01月31日

 もう鴎外レベルになると、わたしなどがあれこれ言うような代物ではない。
 シェイクスピアのように、起った事実をそのまま(シェイクスピアは戯曲形式だが)書いてるいるということぐらいしか言えない。

 例えば、シェイクスピアは物事が起こる前には必ず現実的な前兆があると書いている。作中でいえば魔女とか幽霊という表現ですが、これを個人が自分だけで見るという表現ではなく、多数が同じものを同時に見るという表現で、そのことを伝えている。
 鴎外の『山椒大夫』もちゃんと姉弟が一緒に同じ夢を見るという不思議な表現で、そういうことを伝えている。
 またその表現の部分が(解説にもあるが)、異常な緊張感をもって書かれているのです。
 もうそういうところからして「すっげーなー……(ため息)」的な言葉しかでてこない。

 『高瀬舟』『阿部一族』では、安楽死、殉教(自決)という、人間にとって最も重要な生命尊厳に斬り込んでいながら、事実だけを坦々と描いていく様によって、読み手に問いかけが迫ってくるというのが凄い。

 同意を求める文章を読めば、人間心理というものは、肯定ないし、否定へと心は働きやすい。しかし、事実だけを綴って見せることで、肯定とも否定ともつかない心情が湧きあがり、「一体、自分はどっちと考えるんだ?」という問いが自然に湧いてくるという寸法。

 結局のところ、安楽死にしろ殉死にしろ、ケース・バイ・ケースという答えがでてくるのではないだろうか。
 もちろん、殉死の場合、生命尊厳の仏法に照らせば、絶対だめ! 何があってもだめ! とわたしなどは確信するわけですがね。
 殉死と不借身命は違うよとでもいえばいいだろうか。死ぬ気になって無私になり相手に尽くすのと、相手のために死ぬのは違いますからね。不借身命とは、簡単にいえば物や金で相手に尽くすのではなく心と体(行動)で相手に尽くすという意味だとわたしは捉えている。

 心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財つませ給うべし(崇峻天皇御書)


 安楽死は……これは難しいです。出来る限り相手の意志を尊重してあげたい……くらいしかいえません。
 こんな気持ちになるからこそ、信仰の必要性というものを感じるのだと思うんですがね。
 人間が勝手に決められないことが、この世にはある。要はそういうことですかね。

 また『寒山拾得』では、宗教や信仰に対する態度には3通りあるということを提示していて、これはなかなか説得力がありました。というか、鴎外ははっきり宗教をしっかり持っていない人は無頓着、あるいは盲人といってますけどね。
 『山椒大夫』のラストシーンも盲目だったおっ母さんの目が見えるようになって終わるのですが、それは目が見えるようになったというのではなく、心が通じ合ったということであり、見えるようになった云々は表現法の一つだとわたしは捉えましたけどね。だから、ラストシーンで泣きそうになりましたけどね。

 盲目の乞食のようになった母がうたった歌。

 安寿恋しや、ほうやれほ。
 厨子王恋しや、ほうやれほ。
 鳥も生あるものなれば、
 う疾う逃げよ、わずとも。


 どんな悲惨な境遇になっても、命の奥底で子どもを思う親心の火は消えないんでしょうね。

 
 全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着な人である。
 つぎに着意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教に入っても同じことである。こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。つづめて言えばこれは皆道を求める人である。
 この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念あきらめ、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。


 どんなに尊敬する思想をもっている人がいても、それをただ尊敬しているだけなら、盲目と同じ。
 自分自身の行動、振舞いで、実体験として、尊敬する人の模倣をしていくうちに、自分の立場や境涯にあった自分なりの道を探求するやり方が見えてくるということだろう。

 ともあれ、鴎外の作品はほとんど「青空文庫」で読めるので、気になる人は読んでみてくださいとしか言えません。


 『最後の一句

 「お上の事には間違はございますまいから」

 つまり、相手がどんな人であろうと、自分は信じぬくんだ! という強い信念が、父親を死刑から救ったわけですよね。
 相手を信じる自分の強い信念が、相手を動かしたということですよね。
 ただし、そこには父親が死刑になるのを止めたいという、生命尊厳の思いがあるわけです。
 金が欲しいとか、そういうのじゃあないというところに注意がいるのでしょう。
 何でもかんでも相手を信じればいいというものではありませんよね。

 お父ちゃん殺さないで! お父ちゃん殺すんだったら、あたしら(兄弟四人)が身代わりになります!
 そういう気持ちはきっと通じる。そういう信ですよね。
 なぜ母さんはそういうことを考えつかなかったのか? 大人は欲に汚れてしまっている場合が多いからです。あるいはすぐに諦めるからでしょうね。
 その点、子どもは純粋ですからね。長女に問われて、死ぬことがどういう意味かわからない子どもが素直に、「うん、いいよ」と答える。
 子ども心は、美しい!




ipsilon at 18:29コメント(0) 
 仏法者であるなら、このように生きるのが望ましいという詩。

 
     ことわざ(Spruch)

 だからおまえはすべてのものの
 兄弟姉妹にならなければならない、
 ものとおまえがすっかり溶け合って、
 自分のものと、ひとつのものとを分かたなくなるように。

 星ひとつ、木の葉ひとつが落ちても――
 おまえが一しょに滅びるようでなければならない!
 そうなったら、おまえもすべてのものと一しょに、
 あらゆる時によみがえるだろう。


――『孤独者の音楽』とその前後より。


 別に仏法者でなくとも、このように生きたほうがいい、というのがわたしの思想ですがね。

 滅び=蘇りであるということ。寂滅即蘇生とでもいえばいいか。
 もっと簡単に具体的にいえば、「いま・ここ」に徹して生きる。一点集中、自分の為すべきことをなす、今できることをするなど、言い方はいろいろある。
 だけれども、そういう感覚は多分、体験することでしか実感できないと確信している。
 このことは、何千冊の本を読んで考察したところで理解も洞察もできないと思う。
 そしてなにより難しいのは、自分のしていること、自分の心の動きを常に自分で監視することだろう。
 なぜ難しいのかといえば、それは過去の情景を思いだして反省するのではなく、「いま・ここ」でしていることに関しての監視であり反省であり、即善処という瞬間瞬間への対応といっていいレベルだからだ。

 わたしは三年くらいで、ようやくそういう習慣が身に付きつつある。それぐらい毎日、ド根性で積み上げて、自分を作らない限り、これは容易ではないと思っている。

 ヘッセは別の詩で、目標に向かって歩くことを止めたと歌っているが、ようするにこれはそのことなんですね。
 所詮、あらゆるものは破壊、再生の連続である。それに気づけば、一時の栄誉栄達とか結果とか目標に固執したり執着することの馬鹿らしさに気づくからだ。
 例えば、人間の肉体を形つくる、約60兆の細胞というのは、10年もすれば全て再生されて入れかわっているわけです。なのに精神的に10年前の過去に拘り、いつまでも後悔していても仕方ないというふうに言えるでしょう。肉体は常に再生しているのに、心(意識や思考)は過去に執着して固執する。これでは、肉体と精神のバランスを自ら破壊しようとしていることになるからです。だから、過去に拘らないというのは、ある意味で非常に大事だと確信しています。

 無論、目標はモチベーションを保つためには有意義である。
 だが人間というのは愚かなもので、無意識に目的を手段化してしまうものだ。
 例えば、死ぬまでに読むべき100冊という課題に挑戦するにしても、必死になりすぎたり、目標に目がいきすぎれば、「何のため」に読むのかを忘れ、とにかく冊数を読むという手段に目的がすり替わってしまうという感じといえばいいだろうか。

 大事なのは、自分にとって価値ある読み方ができたか、あるいは自分にとって価値的な本との関わりができたかであり、読んだ冊数ではない、というのがわたしの考えかただ。
 もちろん、面白くない本に、その原因があるのではなく、面白くないと思ってしまう自分の心のありかた、感受性に問題があるのである。そのことに気づかない限り、価値的な読書はできないといっていい。
 なぜかなら、主体者は常に自分であるからだ。
 自分が本を開かない限り、本は読めないからです。自分が字を追わない限り、内容は頭に入ってこないからです。
 基本、人間と人間との関わりもそういうものなのだが、人間や動物というのは、相手のほうから関わってくるという部分があるために、主体者が自分であるということを忘れるのだ。
 そして、「こうなったのは、あたしのせいじゃない……」と責任を人のせいにするわけですね。

 あらゆる状況にあっても、主体者は自分です。




ipsilon at 14:55コメント(0) 

2016年01月30日

 ヘッセは転換期のわかりやすい詩人といえよう。
 彼は作家ではない。あくまでも詩人なのだ。ここ、テストに出ますかね!

 ヘッセの上半期を3つの言葉であらわせといわれたならば、わたしはこう答える。
 「憧憬」「感傷」「青春」と。

 限りなく、生れたばかりの無垢で純粋な生命を追い求めた時期。それがヘッセの「青春」であり、その青春が二度と取りもどせない嘆きゆえに「感傷」に打たれ、無垢で純粋な生命に「憧憬」を抱いた。
 それがヘッセの上半期といえよう。
 だから青春期とでもいえばいい時期の詩や作品は重く、切ないものが多い。

 しかしそれは、永遠に失ってしまった青春の輝きや、無垢で純粋な生命を自分の中に取り戻そうとする、魂の巡礼のようにも見えるのだ。
 どこかにある、必ずあるはずだ……そういう微かな希望を見つけようと、絶望的な闇の中を歩きながら歌った詩人。いや、歌わずにはいられなかった詩人。生まれながらの詩人。
 それがヘッセの前半生だと思う。
 そして彼は見つけ出す。自分の中に永遠の青春が、永遠に純粋で無垢なるものがあることを。
 これがヘッセの後半生。

 その光があるように感じはじめた時期に書かれたのが『デミアン』だ。
 ヘッセの一大転換点といえよう。


 彼はやみの中を歩いた(Er ging im Dunkel……)

 彼は、黒い木立ちのかさなる影が
 彼の夢を冷やすやみの中を好んで歩いた。

 だが、彼の胸の中には、光へ、光へと
 こがれる願いが捕らえられて悩んでいた。

 彼の頭上に、清い銀の星のこぼれる
 晴れた空のあることを、彼は忘れていた。


――『ヘッセ詩集』50ページより。


 「憧憬」「感傷」「青春」の中にあっても、ヘッセの目は曇っていたわけではない。
 自分の中にある光が、夜空で輝く星と同じであることに気づいている。
 我即宇宙、宇宙即我。小宇宙である自分と大宇宙である天空に、同じ法則が息づいていることを、直感的に感じとっていたのだろう。

 ともあれ、前半のヘッセの詩は、感傷的になることを誘うような美句が並んでいるので、味わうには少し注意がいるかもしれませんね。センチメンタルになるということは、理性を失うということだから……。
 だがしかにそこには人間の心が自然と発露させる感情の美しさが溢れてもいるのだが……。



 人生とは真夜中を歩きながら、星を探す旅に似ている。
 わが星を見出した人は、幸福である。
 わが星がなにものをも公平に照らす太陽であることに、
 間違いはないのだから。

 ヘッセは空に浮かぶ雲が大好きだった詩人だ。
 何ものにも抗わない雲。それでいながら雲は雲でありつづける。時々刻々と形を変え、とらえどころもなく、常に変化の連続を迷うことなく受け入れているのが雲。
 そう、そういう柔軟な心でいられることこそ理想であると、彼は気づいていたのだろう。
 詩人の感性というのは、敏感である。だからこそ傷つきやすくもある。
 前半生のヘッセはその傷つきやすい心をもてあましてしまう姿を、そのまま詩にしてわれわれに見せてくれているといえるのだろう。




ipsilon at 13:23コメント(0) 
 ネタバレ 死者を悼むことに対する天童荒太なりの答えがきちんと文字にされている。亡き人の善い部分を覚えておくという行為は、いま生きている人々の良い部分を見ていくという部分に繋がるから、と。そうなったらどうなるの? 世界から憎悪が薄れてゆき、その連鎖が止まるかもしれない。しかし生者にはもうひとつの視線が必要なのだろう。悪い部分を改善していくためには悪を直視しなければいけないという部分だ。大事なのは憎悪に呑み込まれない自分を作ることなのだろう、友人たちとともに。日記の開始日が12月7日というのに意味がある気がする。

 12月7日の翌日はあの戦争がはじまった日である。はじめてしまってはいけない。だから7日にしたのではないかと思った。作中に登場する聾唖の女性・遥香とのやりとりに真実があるのだろう。二人が意志の疎通をするためには、顔や手のしぐさを見つめあうことが必然となる。そのことで見えないものが見え、文字にできないものを伝えあえる。見えないものを見る目(心)こそ大切なのだという表現が秀逸だった。蓮の花とネコの出産も実にうまい表現といえよう。


 遺族や、遺された周囲の人たちが、恨みつらみを吐き出すことを、こちらのエゴで抑えることがあってはいけないだろう。受け止めることも、ときには大切だと思う。
 受け止めてなお、覚えておくのは、亡くなった人の輝いていた日々のことだ。

 そう「ときには」でしょうね。なんでもかんでも恨みつらみを聞いてあげればいいというわけではないと、わたしは思っている。もちろん、受け止めなければこの人は潰れてしまう……と感じるときは、受け止めればいいのでしょう。でも、自分で制御できそうな愚痴や文句をいってる場合は、わたしのように傲慢な輩は、「それを僕にいって何か解決するんですか?」と突き放すんですけどね。ハハハ、冷酷。
 でもこれ仕方ないんですよ。20代の頃、飲み屋で愚痴、文句ブーブーだったわたしに、先輩がいってくれて今でも心に突き刺さっている一言なのだから。そうなんです、言ったからって何も解決しないのです。
 すべては時(ケース・バイ・ケース)なんでしょうけどね。


 故人が見聞きしたものと同じ景色や音や風景などを、本当に共有できるはずはない。
 これはなにも、生者と死者に限ったことではないだろう。生者同士であっても、ある人と全く同じ環境を共有できることはありえないわけです。
 でもあるんですけどね、そういう瞬間は。それは一緒に同じ目的を見つめて、一緒に何かするという瞬間です。それが見えれば、自分の知らない相手の過去を根ほり葉ほり聞いて必死に同情したりすることが大事なのではなくて、いま・ここで、一緒になって一つの目標に取り組むなかでの喜びや同苦にこそ意味があることは、肯けるのではないだろうか。


 その地で亡くなった人は、その人にまかせればいいのだから。
 これは日本にいて中東の紛争で亡くなった方への気持ちをいっている場面。
 なんか冷たいねと思われる方もいるのだろが、わたしはそうは思わない。自分が日本にいて何もしてあげられないというのなら、死者を丁重に葬って悼んでくれる人が、その地にも必ずいると信じることが大切だという意味だと感じたから。
 そんな考えは……というのなら、直接現地にいって直接関わるしかないのである。
 そうした関わりができもしないのに、自分ならこうやってあげたいとかいう気持ちばかりを優先するのは、わたしには傲慢としか見えない。
 だったら、出来ることといったら、死者を丁重に葬って悼んでくれる人が、その地にも必ずいると信じることではないだろうか。


 配慮がたりないことと、愛情がないことは同じではないと思うんです。
 太宰もそんなようなこといってましたね。
 愛は、この世に存在する。きっと、ある。見つからぬのは愛の表現である。その作法である。
 ――ってね。
 ようするに、現実の行動や振舞いだけみて、その人に落ち度があると見るべきではない。愛はあるんだけど、現実の配慮(行動)が追い付いていなかったり、その表現が下手だってだけですよ。
 けれども、人はその配慮とか表現ばかりを見て、あの人は薄酷なんだと決めてしまう場合が多いのだと思うわけです。
 言葉や振舞いはもちろん大事だが、その奥にある心を見つめられる自分でいたいものですね。


 わたしは実は筆談がとても苦手なのです。相手の方は、書かれる字ばかり見て、肝心の話し相手であるわたしを見てくれません。
 心療内科に通っていたことがある。でもそこの先生、いつもカルテばっか見て話す人だったんですよ。それでも僕は心を見るよと思ってしばらく通っていましたけど、いつまで経ってもカルテしか見ない。それで行くの辞めたんですけどね。(どっちが医者でどっちが患者なんだろう? とか思ったものですよ)
 ある知り合いは近所に新しく開業した内科にいって、一度も顔を見ない医師の振舞いに触れて、
「二度と行かないと思ったし、行ってない」
 とかいってましたけどね。
 うん、気持ちはわかります。
 ネットでも時々ありますね。記事やコメントに書かれた言葉だけ見て、こっちの本当に伝えたい心を見てくれていない場合とかね。
 例え批判的なコメントであろうとさ、何かを伝えたいという行動を起こしてくれた相手の心根を見れば、そんな腹も立たないはずなんですがね。もっともはじめから悪意でしてくるコメントもないわけじゃないですけどね。


 あなたの悼みは亡くなった人の善きことだけを覚えます。でしたら、生きている者も、善きことだけを覚えて、生きていいのかもしれない。死に踏み出そうとしたことより、生きるほうを選んだことを胸に抱えて、歩いてもいい、そう思えたのです。
 これは自殺未遂した遥香が語った(といっても作中では手話)言葉です。
 かくいうわたしも未遂経験者なので、この気持ちはわかります。
 もう無理してでも善く考えなければ生きていけないというところまで、追い込まれたと感じた人でないと、こういうのは理解しずらいのかもしれませんね。
 作中の遥香は電車のホームで一歩踏み出したことがあるという、いわば「心の自殺」であって、わたしのように実際に薬物を過剰摂取して救急車で搬送、3日意識なしとは違うんですが、それでもやはり自殺は自殺なんだと今回は思えた。
 ちょっと前なら、そんなの自殺っていわねーんだよ! とか傲慢に思ってましたけどね。
 でも今もやはりそれは少しあります。まあ一歩でも行動に移したんだから、考えただけという空想・妄想とはまるっきり違うレベルなんですけどね、遥香の場合も。
 でも違うんだなァ。そういう一歩はなんとなくしてしまうもので、マジで死んでやるってのはそこから高い壁を衝動的にせよ超えないとできないんだな。
 けど、追い詰まったなら、もう善い面だけ見て生きたる! って気持ちでいないと無理という気持ちはすごくわかるつもりですよ。
 何にしろ、本気で死のうとすることには、並大抵ではないエネルギーが必要なんですよ。
 だったら、その並大抵でないエネルギーを生きるほうに向けたほうがいいよっていうのが、今のわたしの考え。

 天童さんは天童さんなりに、人は唯一の存在。そこに生者や死者という境目はないということも訴えているが、これはそう簡単に伝えられるものじゃないですね。
 わたしが最もそれを感じた本は、飯塚訓『墜落遺体』ですけどね。JAL123便、御巣鷹山といえば、思い出すのではないでしょうか。
 何度もここでは紹介してるんですが……。

 123便にせよ、福知山線の脱線にせよ、911にせよ、今じゃ謀略がどうの云々。亡くなった人の命を悼むより、その周辺にある枝葉ばかりの情報が発信されてる現状。これが生命軽視の思想の現れでなくてなんだというのでしょうかね。溜息……。

 何にしても、最後の最後で、天童荒太は「ありがとう」という気持ちが一番大事なんじゃないか……とさらりと文字にしていたことが、心に残った。




ipsilon at 12:29コメント(0) 

2016年01月29日

 『池田大作全集85 スピーチ集』で学んだことに触れておきたい。

 北方領土云々。そういうことで争うことを先生は望んでおられない。
 むしろ、日本とロシアとの人間交流や支え合いを希求されていた。

 冒頭、北海道が「自然」豊かな土地であると先生は話をはじめる。
 「自然(妙法)に還れ」とはルソーの中核をなす思想だ。ゆえに冒頭の挨拶にあって、先生がこれからなにを話されんとされているかは明確であろう。

 そして、日露人間交流の事実として、2つの例を引かれている。
 通商使節ラスクマンと漂流者大黒屋光太夫
こうだゆう

 そして北海道の少女とトルストイとの交流(手紙のやりとり)という事実だ。

 いうまでもなくトルストイは自然派の大家であり、先生も、若き日から繰りかえし愛読されている作家である。
 先生が語られた挿話はこういったものである。
 
 トルストイは、病気療養中(日露戦争が終わって3年(敗北したロシア政府の感情や国内状況を想像してほしい)。自身が他界する2年前)にもかかわらず、その手紙(北海道の少女が送った)を翻訳して読み、返事を口述筆記した。そして自筆のサイン入りの写真とともに送った。
 「あなたの親切なお言葉に、ことのほか感激し、そのような遠い国に住む人々との、このような精神的結びつきの証に接して、大いに喜んでおります」

 
 そして先生はこのことについて、こう仰っていた。
 「精神の結びつき」「精神の向上」――トルストイは「心こそ大切」と考えていた。

 では、信心を持とうとするものにとって、具体的にいって「精神の向上」とは何か? といえば、
 月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし(聖人御難事)
 であると、先生は明確に仰せだった。

 そして、さらに具体的にいえば、題目は何のためにあげるのか? を先生はトルストイの言葉で教えてくださっている。
 真の文明人とは、人生における自己の使命を知得する人のことである。
 と。
 またこれはいいかえれば、「何のため」に生きるべきか、「人生の意義」とは何かを自身に問うことであると仰せられている。

 簡単にいえば、またいいかえれば、朝の勤行のときに、「今日、自分の為すべきことが明らかにわかる」または、誓願し、決意できるということになるのだろう。


 そしてまた精神派の巨頭、ドストエフスキーの言葉も引用され、「何のため」をつねに確認し、それに向かって進む「精神闘争」が重要なことも語られている。
 生きた魂は生命を要求する、生きた魂は機械学に従わない(ドストエフスキー)

 つまり、自然派、精神派という二元論でものを見るのではなく、双方を同時に活かしきる生き方があるんだ、ということを先生は示唆してくださっているわけです。いいかえればこれは、全てを活かしきっていけばよいということであり、多を一にしてものを見るというゲーテの思想でもある。もちろん、あらゆる事象を一因一果にまで高めてものを見るという仏法の精神でもある。一因一果といえば結果は一つなのか? と疑問に思われるのだろうが、そうではない。なぜかなら、一因一果はいいかえれば、「諸法実相」であるからだ。つまり妙法に則って生きれば、妙法に則った結果が厳然として顕れるということであるから、「諸法実相」は一因一果ともいいかえられるわけである。

 畢竟、これを人間社会にあてはめていえば、自然派とは「真心には真心」で応えていく、また、どこまでも「(目の前の)一人を大切」にするということであり、精神派とは、自然派な自分であろうとする、倦まず弛まぬ努力(精神闘争)であるということになろう。

 「心」を結ぶのが仏法、「心」を通わせるのが仏法である。
 その反対が魔である。官僚主義。組織主義。機械のような、心の通わない傲慢さが、民衆を不幸にする。


 官僚主義どころではない。先生は明確に「組織主義」、つまり組織に言われるままに唯々諾々することなかれと言いきっているのだ。組織を維持するための人間になるな。人間のための組織を作れ! と仰っているのだ。

 所詮、こんなネットブログで出来ることなど、たかがしれている。
 しかし、わたしは常に一人一人と向き合うつもりでいる。またそうしてきたつもりだ。だから、リコメとか、阿呆みたいに長い文章を書いてきたつもりだ。ある意味、ちょっと迷惑なくらい長いリコメも平気でする。
 なぜかなら、一人一人個性があり、一人一人に見合った対応をしてゆくべきであるのが、当たりまえのことだからだ。(その当たり前ができないのがまた凡夫でもあるのでしょうがね)

 しかし、記事というものは残酷なものであり、そうした一人一人を無視したり、軽視して、みんなでこれをやればいい! といった画一的かつ機械的な切り文な主張や表現に陥りやすいのだ。
 そのことに気づいて記事を書いているならまだいいが、無感覚でそういう機械的なことをやっていることに、なんともいえない恐ろしさを感じるのだ。

 だから、わたしは自分のやったこと(に対して思ったこと、感じたこと)に関してのみ、語るようにしている。
 あくまでもつもりですから、完璧ではありませんがね。

 先生のスピーチは見事なまでに法華経の経典どおりの行動なわけです。
 まず序説でこれからする話をちょっと見せる。つぎに正説として本題を語り(社会的、歴史的事実、事例を引き、譬喩を自由奔放に駆使されている)、そして最後に流通説を語り、皆で幸福になっていきましょうとスピーチを終えられる。
 こんな素晴らしい、経典どおりの行動をされている先生を見本としていきたいものですね。
 
 せめて、そういった流れのある記事をかいていきたいものです。



 真剣ほど強いものはない。物事に真剣に取り組んでいいる姿ほど若々しく美しいものはない。
 『女性に贈ることば 365日』1・29日付より。



 

ipsilon at 15:47コメント(0) 
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