2016年05月

2016年05月31日

こと、いわゆるバリ学会員というのは、共産主義や共産党を毛嫌いしている人が多い。
しかし、これはただの偏見でしかない。そしてそういう偏見を平然と真顔で主張している恥ずかしさに気づいていない。

そのことだけは、しっかり書いておこうと思う。
例え、批判と言われても構いませんよ。
言うべきことはいいます。ただそれだけです。

どこのブログとは直接名指ししませんが、共産主義=暴力悪という構図を書きまくっていた。
読んでいて、その偏見の酷さに、これが学会員のレベルなんだろうなと辟易した。
もっとも、こんなことは今にはじまったことじゃないですけどね。

そもそも、純粋な原理原則としてのマルクスの理論は、現在一般に知られている、ソ連や北朝鮮などの共産主義とは違う。まずそのことを知らないらしい。

これは自由民主主義陣営にもある理論だが、共産主義の基本的な論理は、富裕な層だけが得をするおかしな構図を正すためには、富の再分配が必要である。そういう論理ですよね。
しごく当たりまえ、かつ正当な理論ですよね。

特にそれで損をしている、搾取されているのは、プロレタリア階級――つまり労働者階級であり、得をしていいるのはブルジョア階級である。
だから、プロレタリア階級は、そうしたことをしっかり自覚し、権威・権力という力を持つ、ブルジョア階級に対して、権利獲得のためには、果敢に戦っていかなければならない。そういう理論です。

だがしかし、その為には暴力・テロ、なんでもありでOKなどと、マルクスは言っていない。
マルクスの主張は、権威・権力をかさに、暴力や軍事力を使ってでも、ブルジョア階級は、自分たちの富を守ろうとするだろうから、プロレタリア階級はそうした力と戦う覚悟が必要であるというのが、彼の主張なわけですよ。
しかし、これを歪曲した人がいる。いわゆるレーニン、スターリンという輩なわけだ。

そもそも、こうした原理原則と、実際行なわれ、歪曲された共産主義を混同して、共産主義=暴力革命を推奨しているとか言っているのが、いまの学会員のレベルってわけです。

では訊こう。
自由民主主義陣営は、わが陣営を守るために、これまで一体なにをしてきたんですか?
アメリカしかり、英国しかり、よく見てみればいいですよ。

そう、自国や自陣営にとって都合の悪い国家には武力行使。
あげく傀儡政権を仕立てていったじゃないですか。
ありもしない大量破壊兵器があるとか難癖つけて。日本もそれに賛同しましたよね。
スターリンのやった共産主義と何ら変わり有りませんがね。
いや、もっとたちが悪いですよね。

自由民主主義陣営=富裕なブルジョア国家じゃあないんですか?
アメリカやイギリスが、自分たちより豊かな国に戦争しかけましたか? ありえませんね。ないでしょ。
ようするにマルクスの言ってた通りのことが起こっているわけですよ。
ブルジョア階級は自分たちの富を守るため(確保するため)なら何でもするよ。テロも暴力も、無論、謀略だってなんでもする。その通りじゃないですか。
下手したら、自国の大統領だって平気でぶち殺すのが自由主義陣営のしてきたことですけどね。
北朝鮮と何も変わりませんよ。

ではなぜロシアでスターリンのような人物が現れたのか?
簡単な理論ですよ。歴史を知っていればね。
どこの国の王侯貴族より、ロシア皇帝の力が巨大だったからでしょ。
富を独占している貴族や富裕層の力が絶大で、粛清や暴力が当たり前だったのですから、プロレタリア階級が、権利を求めてそれと戦おうとしたら、当然、手段を選んでいたら勝てない。そう考えたのは、人間の思考としては極めて普通ですからね。
ロシア皇帝は「ツァーリ」と呼ばれ、恐懼の的だったわけですからね。

フランス貴族は時間をかけて、権威権力が瓦解していったことは、スタンダールの小説などからも読みとれます。だから、スターリンのようなやり方まで発展しなかっただけのことです。
それでも、ナポレオンという暴力的英雄を必要としたのが事実ですよね。

ではここで、自由共和制は素晴らしいのか? そこを考えてみましょう。
われわれは愚かなもので、自分のいる陣営は素晴らしい。そういう偏見をもちがちですからね。
どうですかね、米国にしてもフランスにしても、また日本にしても、革命という名の暴力によって、政変がなされてきたのが歴史の事実じゃあないんですか?
日本人は、中国はいつも暴力革命だとかいって貶してますが、日本だって大差ないじゃないですか。
戦国時代から先を見れば、簡単に気づくことですよね。
いやそれ以前だって酷いものですよ。裏切りと殺し合いばかりですよ。権力の中枢にいた人々はね。

つまり、自分らのことは棚にあげて、共産主義や共産党は悪。
ご立派なご理論でございますことよ。
しょせん、こんなレベルなんですよ、世界平和とかいってる学会員でもね。
結局、自分のいる陣営の立場でしかものを見れないってことですね。
相手の立場にたってものを見るのが大事。そういう先生の指導をまずもって、実践できていない。

恥を知って欲しいですね。恥を。まじめにね。

それ以前に、日蓮仏法者であるなら、主義・主張をこえて、生命尊厳を訴えるのが筋。
まず、権力者がもちいる、力の行使を非難するのが筋。
それがなんですか、共産主義は悪だ! という主義の違いでものを言うという恥ずかしさ。
結局は、自分(自陣)可愛さからの主張じゃないですか。
というか、主義の違いで云々するなら、ニューハーフに人権はないという理論も成り立つんですけどね。

ほんと、恥ずかしいですよ、勉強不足のうえに、我見偏見まみれで、これが正しいんだとか主張しているのって。
創価の看板どころか、日蓮仏法という法を下げているわけですからね。

大事なのは、暴力は駄目だという、この一点じゃあないですか。

共産党が、ああなったのにも理由があるでしょ。
戦時中、共産党員やプロレタリア階級の人たちが、何人投獄され、拷問を受けて死んでいったか知ってて書いてるんですかねぇ?

はじめに権力を行使して、酷いことしたのはどっちなんだか、よーく考えてみればいいですよ。

すべては原因と結果ですからね。
暴力によって虐げられたことがあるから、革命に暴力を使っていいと思うわけですよ。
虐待をうけて育った子どもが、親にそうされてきたんだから、自分の子どもにも暴力を用いてもいい。そう自然に考えるようになるのと同じなんですけどね。

はじめに自由主義を気取った連中が、暴力的なことをしなければ、かつての暴力的だった共産党は起らなかったわけですよ。その事実には全くふれず、ただもう共産党憎し、共産党は最悪という言い方しかできない、偏見には呆れる以上に、むかっ腹が立つんですわ!

だが、いまだにそうした愚人どもは、自分らのやってきたことを棚にあげて、未だに暴力革命家を育てようとでもしているのか、徹底的に共産党を目の敵にしているわけです。

なかなか愚かというか、究極のお馬鹿ですよね。
ブーメランになって、最後に暴力を振るわれるのは自分たちだということも気づかずにね。
究極的に見れば、共産党や共産主義を悪という人の心の奥底には臆病、すなわち相手への恐怖があるんですよ。

臆病にては叶うべからず

臆病だから、恐怖があるから、相手を批判して攻撃するんですからね。
恥かしい限りです。

どこかで齧って学んだ知識だけでものを言わないほうがいいですよ。
自分の頭で考えない人は、そうなるという見本ですけどね。


現在、日本も格差が広がっている。
ということは、富裕層は必死になって自分たちの富を守ろうと、権力にすりよっているということ。
その通りのことが起こってるじゃあないですか。
経団連を見てもそう。

政治の世界しかり。
1%の富裕層が、金ばらまいてやるから、それで我慢しとけ貧乏人ども。ごたごた言うなら粛清すっからな。そういう主張がまかり通ってるじゃないですか。阿保くさい。
だから、安倍政権も力を行使して、自分らを守るために、機密保護にはじまり、昨今ではついに報道の自由にまで圧力を加えてきてるわけですよね。

そんな安倍政権と仲良しこよしの公明党。
支持する気にもなれません。

ああそれから野党は烏合の衆とか書いてましたね、そのブロガーさん。
ようは見下してるんでしょ。

自分らだって野党だったことあったんじゃないですか?
でも、いざ与党になって権力の座につくとさ、こうなるって見本ですよね。慢心。傲慢。
すなわち、権力の魔性に食われてるって証拠でしょ。
一番恐ろしいのは権力の魔性。ありとあらゆる魔性が消えても、最後の最後まで残るのが権力の魔性。先生の仰るとおりですよ、ほんと。

烏合の衆であろうが何であろうが、無限の可能性を秘めた尊い人間であることに変わりはないんですけどね。
そう主張してゆくのが、本物の創価魂だし、日蓮仏法者だと、わたしは確信してますけどね。

小林節さんへのディスりも結構見かけますが、どれも低レベルな批判ばかり。
しょせん学者は学者。政治家には向いてない。
つまり、相手を立場とか肩書で見てるってことでしょ。愚かですね。

あとは、団体の名前が悪い。「怒り」とかマイナスイメージだとかね。
そういう見方をしてるのはあなた個人の見解。
そうじゃない見方もあるんですけどね。

そもそも、瞋恚は善悪に通ずるものなり
ということすら、身で読めていないってことですよね。
だからマイナス思考しかできないってわけ。

ああほんと、情けない。

ipsilon at 23:41コメント(61) 
いわずと知れたエアロスミスの名曲。



デビューアルバムですでにこんな深い歌詞を歌っていたというのが凄いのだが……
わたしにとっては、鬼束ちひろが精神的に追いこまれて活動を一時休止したあと復帰し、激痩せした体を折りまげながら、全身全霊で歌っていた姿が心に焼きついている。

それぐらい歌詞の意味は深いんですけどね。
しかしいたってシンプルで当たりまえのことでもあるのだが……。

Yeah, I know nobody knows
Where it comes and where it goes

そうさ、俺も、誰も知らない
どこから来て、どこへゆくのか


Lived and learned from fools and
You know it's true
All the things come back to you

生き、学ぶってことは
愚者からも賢者からもできる
それが真実ってもんだ
しょせん、すべては自業自得ってわけさ


Sing with me, just for today
Maybe tomorrow, the good Lord will take you away

さあ歌おう! 今日のために
明日は、神に召されるかもしれないから……

Dream On Dream On Dream On
夢見ろ、夢見るんだ、夢見るんだよ……


しかし、夢といっても、空想や妄想や、ましてや正邪の確かでない知識や情報にもとづく夢なんかじゃない。
無論、夢とは、経済的富裕や出世や地位や名誉を得ることなどでは決してない。
いやそれがわたしの夢だという人は、欲望の奴隷になっているだけのこと。
そんなものが、自己実現――納得や満足――もっと言えば自己超克であるはずがないからだ。

キリストだってそういうことは言っている。
人はパンのみにて生くるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉による。

――と。

とはいえ、この神の言葉をどこに求めるいるかで、勝負は決まるんですがね。
それが自分の内側から湧いてきたものであれば、宗教宗派に関わらず、わたしはその人はその人にとって、正しい生き方をしていると思いますけどね。
しかし、それが知識であるとか、学問であったら意味はない。
そもそも学問とは、自分がいかに物事を感じているかを自分で観察するために行うものだろうが、世間ではそういう感覚の人は非常に少ないのが現実ですがね。

ともあれ、動画の冒頭でスティーブンがいってる言葉を聞けば、「夢見る」という意味の本当のところはすぐにわかるだろう。
スティーブンの思う、夢を描くということは――

Express yourself !

ということだ。

つまり、自分自身を表現しろ! ということ。
ちなみに、Express は、知識や情報という借り物から自分を表現するのではなく、自分の中(心)から出てくるもの―つまりは智慧―個人的体験、経験に基づくものという意味がちゃんとある。
実はここが非常に大事なのだが、なかなか気づけないものなんでしょうね。
それ以上に、それを実践すること、夢に生ききるということは難しいんでしょうね。

そもそも、自分が何をやりたいのかをはっきりと、自分自身で感じなければいけませんからね。
そのためには、自分の心を、内側をしかと見つめるしかないわけで――。

所詮、自分に嘘をつかず、人にも嘘をつかず、謙虚に誠実に自分自身に生きるしかない――。
それが、Dream On なんでしょうね。

一番を歌いおわったところで、スティーブン、思いあまちゃったんですかね。
なにが伝えたいかわるだろ! なんて叫んでますね。
そう、叫んでも叫んでも、夢を見るという本当の意味ってね、シンプルで当たり前なことなのに、伝わらないんだなぁ。
悲しいかな、本当に伝わらないんだな。
だからこそ、彼は全身全霊で歌ってるわけで――。うーむ、切ない。

だから歌詞にも「俺と一緒に歌うんだ」というのがあるわけで。
一緒に歌ったところで、まったく同じ体験はできなくても、何かしらそれぞれが心に感じるものがあるはずだ。
「だから歌うんだよ、俺と」
と、スティーブンは伝えたいわけよね。

てことで、とりあえず歌ってみなさい!

ipsilon at 19:57コメント(0) 

2016年05月22日

迷ったなら、悩んだなら原点に還れというのは、わたしなりの哲学だ。
だから、本を読む意味、感想を書く意味を見失いそうになったり、本を読むことに疲れを感じると、大体においてわたしは、昔読んで楽しかった作品、感銘をうけた哲学書を読むことにしている。

少し前に、青春時代に貪るように読んだ、ムアコックのファンタジー『エルリック・サーガ』に還ったのもそういうことだし、栗本薫を読んだのも、また今回フロムの著作を読むのも、わたしにとってはそういった意味がある。

そうして本を読んできて、自分なりに、読む意味、感想を書く意味を、少しづつ突き詰めてきた。
読むのはIN、書くのはOUT。簡単にいえばそうなる。だが、それだけでは、わたし個人の内的充実でしかありえない。
読んだ、面白かった、感想をちゃんと書いた。それだけだ。
ではなぜ、読み、かつ書くのか? フロムの著作を読みはじめて、その理由がはっきり自覚できた。
ようするにこういうこと。
学会の中での本当の訓練とは何か? と考え、先生の振る舞いを見る中で気づき、確信しつつあったことでもあるが。

先生と戸田先生、また水滸会、華陽会、そうして師匠たちが力を込めて行ってきた学びというのは、常に本が学ぶ側と教える側の間にあると気づいたのだ。
会合だって本来先生のお心にあるのは、そうした会合のはずだ。
それが決まったお題の作品ではなく、大白であったり、御書であったり、今必要なテーマであるだけだ。
しかし、今の現実を見ると、個人個人が感じたことを話すことは禁忌といった空気があるといえるだろう。
この御書はこう読まなければならない、といったひな型を講師が講義する形式と化したとしか、わたしはこれまで感じてこなかった。

今さら言うまでもないが、先生はこんな形式主義をきちんと言葉で否定されている。
個人個人が、読み、感じたことを素直に話しあえばいいんですときちんと言われているんですがね。
ただし、決して断定してはいけないと、固く釘をさされている。
自分はこんな風に感じた。こんな風なことを思った。それはOK。
これはこうだ! これはこうとしかいえないんだ、というのは駄目ということですね。
わたしも、ついつい熱くなって、そういう表現が口をついて出ることはあるんですけどね。

ともあれ、今の現実は、講師が「これはこうです」という講義をすることが多いので、いえば、本末転倒してるってことなのでしょうね。

閑話休題――。

ともあれ、本を読むことはInputであり、自分が物事をどう感じているかを知ること。
感想を書くことはOutputであり、自分が感じたことを言葉で表現することである。
つまりは、個人的に読み、書くということは、自分を客観視しているといえる。
もっと細かくいえば、読むことは自分のものの感じ方を自分で客観視することであり、書くということは、その感じたものを他者に伝わる様に、これまた客観的に見て、言葉で表現するということだからだ。

しかし、その感想を伝えあわなかったなら、(当たり前にある)自分と他人の感受性の違い、あるいは、なぜ同じところに共感したのかという不思議から、人間だれしもがもつ永遠普遍性のある哲学や、永遠普遍的な優れた人間性がいかなるものかも知ることはできないだろう。
それは淋しい人生ですなァ……などと、わたしなどは思うわけですがね。

もちろん、そういした感想の伝えあいをせず、ただ面白かったとか、あれは好み、これは好きじゃないといった、「感情」だけを伝えあっていたなら、先にあげた、自他の違い(自分の個性、相手の個性)や、その違いすら乗り越える永遠普遍性に気づくこともないだろう。
つまり、そういう関係は好みに左右された、大袈裟にいえば妄想の世界での関わりになるからだ。
だからゲーテなどは、こうしたディレッタントを嫌悪しているわけです。

結局のところ、わたしが求めていたのは、そういう感情的な部分ではなく、互いに客観視しあえる関係だとは、薄々気づいてはいた。
だから、同じ本を読んでいないと、まず会話が成り立たないという思いは、日々に強くなっていった。だから、読書メーターでも共読本の部分以外、ナイスするのはどうかな? と考えるようになっていた。
お義理も大事だけど、義理はしょせん義理ですからねェ。
またたとえ、互いに興味のある作品があったとしても、双方がその本を読んでいなければ、結局そこで高度な会話を交わすことは不可能だと確信しはじめてもいたのだ。

しかし、フロムの本を読みはじめて、少し感覚がかわった。
こう素直に思ったのだ。
「こういう本こそ、是非とも、若い人たちに読んで欲しい」と。

これまでも、わたしの中には後継の人材を育てたいという気持ちはあった。
あったし、若い人と関わったときは、いつもそういうことを意識して関わってきたつもりだ。
しかし今回、そうした気持ちが、本を読み、感想を書くことに真剣にならせていたと気づいたのだ。

むろん、半ば無意識であろうと、わたしはこれまで、自分が読んで面白かったという「感情」の記事だけで終わらせてきたつもりはない。なにがしか、誰かが読んだとき、少なからず哲学をつくりあげる糧になるようにという意識をして書いてきたつもりだ。
結果がどうだったかをここで問うつもりはありませんけどね。

所詮、読書にしても感想にしても、「体験」を通じてしか伝えあうことも、語りあうことも出来ませんからね。
ということは、少なくとも、最低条件は同じ本を読んでいるかどうかということになるのですから。
もちろん、互いに客観視しあえる人同士であれば、同じ本を読んでいないとしても、きちんと語りあうことは出来るはずなんですがね。


ともあれ、読みはじめたフロムの『生きるということ』もまた、素晴らしい本であることは、冒頭の数節を読めばすぐに判断ができた。

原題は『To Have Or To Be ?』であり、直訳すれば、『持つべきか、あるべきか?』 になろう。
もちろん内容は題名どおり、生きるにあって、持つ様式を重視するのがいいのか、あるいはある(存在という意味)様式を重視するかという問いであり、その問いに対するフロムからの提起である。

この2つの様式を説明するのは、そう簡単ではないが(最終的には読んでもらうしかないが)、ようするにもつ様式というのは、現在よくみる、資本主義の構造である。
物、金、資産、財産を持ち、それを「消費することで充実を得よう」という生き方。知識も持つ様式に含まれる。
哲学的にみれば、自分の外側に幸福を求める生きかたであり、相対的幸福である。
翻って、ある様式というのは、必要以上に物や金を持たず(余剰は他人に与え分かち合い)、自分(実際は自他)の内的充実を得ようとする生きかたであり、絶対的幸福といえよう。智恵はある様式に含まれる。
『愛するということ』で言えば、低俗な恋愛は恋人を「持つ」ことに価値を見出すという思想と重なるんですがね。

また、「ある」とは自分らしくあるということでもあるのだが、フロムの視点は鋭い。
仏法は、「ある」という様式すら浅いと見ていると本書で語っているからだ。
なぜかなら、仏法はすべてを変化するもの(諸行無常)と見ているから、所詮あるといっても、それは「永遠の過程」でしかないのだから、「ある」ことは不可能だと見ていると解説している。
だから仏法では、「ある」は、「なる」と表現するのが正しいと語っている。
つまり、平易な言い方をすれば、なる様式というのは――
なりたい自分になる(なろうと努力しつづける)ということだ。
つまりは、無上道――。決して頂点のない道を歩むことなのだ。

『愛するということ』で言えば、恋人とどんな関係に「ある」のかが重要という意味で重なっているわけです。

ともあれ、わたしが思索し辿りついた答えも、所詮、「いま・ここ」は永遠の過程なんだから、結果に拘ることは愚かってことだったわけなんですがね。
昨今話題になった戦争法案についても、シールズの奥田君が言った「過程がおかしい」から声をあげてるんです、という部分に一番共感しましたしね。

ともあれ、本書はこうしたテーマにそって、哲学や社会構造の変化(つまり歴史)や、人類史――人間が「もつ様式」と「ある様式」をどう評価してきたか――などから、ふたつの様式を徹底究明してゆく。

昨今、自由経済主義は終わりを迎えるといわれはじめているが、その理由も、この本を繙けば、薄々感じとれることでしょう。

持つ様式というものには限界があるからだ。
人間の欲求には限りがないからだ。
しかし、地球の資源も、自然の循環にも限度はあるわけです。
だから、限界を迎えたとき、人類は必然的に「ある様式」を選ばざるをえないということ。
グローバル化がどんなに進もうと、経済的発展が望めなくなってきた今の時代こそ、いよいよ、もつ様式を棄てて、ある様式を選ばざるを得ない時代なのだ。

先生の訴えられていた、「持続可能な」という視点が重要になってきたということですけどね。

ところがしかし、現代人は、自由経済主義という鎖に繋がれ、誰もがなかば無意識にもつ様式へと突っ走ていることに気づいていない。むろん、国家がおこなっている教育も、もつ様式を推奨する人間をつくる方向で、これまで来ている。TAX in Heaven しかり、経済感覚を喪失した公人しかり、大企業の偽装や誤魔化ししかり、こうしたことは、全てもつ様式を推奨してきた社会構造から生まれでてくるものですからね。

社会で働くにしても、いまだ「生活のために稼ぐ」というもつ様式の感覚しかない人も多いとしか見えない。
休日を過ごすにしても、週のうち6日働いたんだから、日曜日は何もしないのがいい。だらけていい。
つまりこれは、もつ様式にどっぷりつかっているから、休日をなりたい自分になる時間に使おうとしないという弊害なのだと、フロムはわれわれ庶民の生活を例にして、わかりやすく警告してくれている。

こうした時代だからこそ、若い人達に、なかば無意識に作り上げられた、もつ様式を棄てて、ある様式に生きることに目覚めて欲しいと、わたしは思ったのだ。
そうした、ある様式の時代をつくるのは、今の若い世代以外にいないからです。

大人? 老いた人? 知りませんがな。
大事なのは後継の人材ですよ。
もつ様式、つまりは欲望の奴隷になっている大人や老いて頭の固くなった人なんて、いまさら知りませんがな。
自分で何とかするのが大人ですからね。

自力で頑張ってください!
わたしも自力で頑張りますから。



よく、夢を持とうとか言うが、こういう言葉つかいをするのは、もつ様式に無意識にではあっても、毒されているのだそうだ。なにかというと「持つ」という言葉を使ってしまうのは危険信号だそうですよ。

自分の考えで夢を持つのではなく、自分の心に夢があるかどうかが問題なんだそうですよ。

小学校に通っていた頃に、あれ持った? これ持った? あれ忘れてない? とか散々言われた記憶があるんですが、人間それくらい無意識に社会に毒されているということですよね。
うっせーなとか思ってましたがね。

今日も元気でいってらっしゃい!
子どもが子ども自身で「ある」ことを望む母なら、きっとそんな言葉を出掛けにかけるんでしょうね。

昔はやったTVドラマ『ひとつ屋根の下』で出てきた台詞。
「そこに愛はある、、のかい!?」ってのも、大好きだったんですけどね。

ipsilon at 21:42コメント(0) 

2016年05月21日

少し、言葉選びに難があったので、一部修正しました。

とにかく素晴らしい一冊。読んだほうがいいですよ。
あまりに内容が広範囲にわたり、高い次元にあるので、記事ですべてを網羅するのは不可能ですから。

わたし個人のことで言えば、二十数年前に読んでわからなかったことが、今は様々な経験、特に苦しく辛い経験を重ねてきたこの十年でほぼ思索し、気づいて実践してきたことであったことが嬉しかった。
それに尽きます。

ともあれ、フロムの言葉は、今のわたしの価値観とほとんど一致していますし、いえば先生の指導ともぴったり重なっているので、彼の言葉を抜き書いておけば、感じとれる人は十分に感じとれることでしょう。

一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。

自分の役に立たないものを愛するときはじめて、愛は開花する。
キリスト教にもあるじゃないですか、「汝の敵を愛せ」とね。
自分に親切にしてくれる人、あるいは関わることで自分が得をする人を愛するのなんて簡単なんですよ。
しかしそれは本当の愛ではないということです。

利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。
何回もブログ記事で書いてきたことです。
人に難癖をつける人は自分を愛しておらず、憎んでさえいるから、そうした自分の感情を相手に投影して、相手に難癖をつけたり、憎しみの言葉をぶつけるんですよ。わたしにすれば、今さらの理屈ですがね。

現代人は過去か未来に生き、現実を生きていない。
説明も面倒なくらい、ずっと言ってきたことです。「いま・ここ」って何回記事に書いてきてことか。

(真に愛するということは)二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身から逃避するのではなく、自分自身と一体化することによって、相手と一体化するということである。
存在の本質とは、生命の中心にある、揺らがぬ芯のようなものと、フロムは言ってました。

愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。
だから、愛する技術は誰も教えようがない。その通り!

よくできた恋愛映画に憧れたり、恋愛のモデルケースはコレだ! なんて本を読んで学んでも、全く役に立たないということですし、思い描いた恋愛など、ただの妄想に過ぎないということです。もっと言えば、ナルシシズム(自己陶酔)なだけ。学ぶにしても、そういう方法をとると、好事家(ディレッタント)になるよと警告していた。ゲーテと同じこと言ってますね。ちなみに、ゲーテもわたしも好事家大嫌いというね。でもディレッタントの人をよく観察しているとね、あれはもう中毒になってるようにしか見えないんですよねェ。

フロムは愛する技術を身につけるには、規律をもつことが大事だと言ってはいるのだが、それは、そのことをやらずにいると、ちょっぴり物足りなさを感じる程度がいいと言っている。
やらないでいると、苛々したりするようになったら、それは中毒ってことですよね。
ツイッターでつぶやかずにはいられないとか。規律じゃなくて、中毒でしょ。

もっとも、その規律も社会のシステムに便乗して(自分の外側にあるものを利用して)、規則正しい生活を作っても、それは偽物であり、真の規律は自分がやっていて楽しいことを規則正しく繰りかえし、能動的に自分で作りあげるものだと言っている。
もちろんこれは、楽しいことだけをしろという意味ではない。社会生活を送っていれば、やりたくないことも、やらざるをえないものもあるからだ。つまり、いかなるものも、いつでも楽しんで出来る自分を作るということが、規律であると、フロムは述べているのだ。

他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖に関わりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できるようにならなければならない。
このことも何度も、何度も、それこそ何度もここに書いてきた。
他人も環境も、すべて自分が自分の中に作り上げたイメージですよ。だから、自分の外側に存在する他人や環境(つまり、ものそれ自体)については、一切知れない。
カント哲学を引き合いに出しては、何千文字もこれまで語ってきたことです。

知れないなら、聞けばいい。簡単なんですけどね、それが出来ないのが人間。
聞けないという心理に潜んでいるのは、恐怖でしょ。嫌われたらどうしようとかいうナルシシズムでしょ。
言い返されたらどうしようとかいう自分が勝手に自分の中でつくった言い訳でしょ。
だからフロムも愛するためには「勇気」が必要であると言っているわけです。

それと同時に、信念――「信じること」も重要だと言いきっている。
無論、根拠なき信念と、理路整然とした信念があるといっている。
前者は妄信を生み、後者は生産的関係を生みだすのは、今さらいうまでもない。
前者は権力にすりより、後者は必ず権力と衝突するとも言ってましたよ。
フロム、素晴らしい哲学者です。

一日にいくつも記事を書くと、丁寧にという部分にまで神経がいきとどかない。

他にも大量にいいことが書かれていて、とても抜粋などしきれない。
一人になれない人は、本当に愛することは出来ないとか、ものごとは集中してやるのがいいとか。
ようするに、自分自身を最も集中して観察できる状況というのは、一人になったときだからということ。
だから、自分を見つめている人は、必ず一人の時間を作る人といえるし、いつでも誰かとワイワイしないといられない人は、ほとんど自分を見つめていないという場合が多いわけです。
そういう人は、ナルシシズムに溺れ、自己客観視はもちろんのこと、自分の周囲をありのままに見れていないから、当然、自分はもちろんのこと、周囲のことも真に愛せるはずがないということ。

でもすべて、これまでわたしが悶絶しながら悩み、考え、これが正しい生き方だと思うといって、ここに書いてきたことでした。

ながら族をやめるとか、言いはじめたらきりがない。
しかしながら、わたしにとっては再読には計り知れない価値があったということだ。

これまでやってきたことを、ここまで全肯定された哲学書はなかったですからね。
それが、あのフロムだというところが嬉しかったりしますが、だからって舞いあがりませんけどね。

一応、愛する技術を獲得するために必要なものを箇条書きしておきます。

・規律
・集中(一人の時間を持つ、自分に対して敏感になる)
・忍耐
・勇気
・信念


どれも、何度も耳にしてきた言葉でしょうけどね。
そうそう、「勇気」と「蛮勇」は違うよともちゃんと言ってました。
もうなんて言うか、ほぼ全編、学会指導みたいな一冊でしたよ。

ipsilon at 19:26コメント(3) 
そうきましたか、フロムさん。
第2章まで読み終えたが、深すぎて、ここでいろいろ説明することには意味がなさそうだ。

はじめてこの本を読んだ頃、よくわからなかったのは無理もなかったと実感した。
この数年間に徹底して学んできたことが書かれているので、今のわたしは何の事をいっているか理解できるが、この本『愛するということ』は、相当に哲学や宗教史などを学んでいないと理解すら不可能かもしれない。

第2章で語られるのは、あのソクラテスの「無知の知」だ。
すなわち、宗教でいう、神に到達するとか、真実を知るということは、「人間理性にとっては原理的に絶対に不可能であるということを知る」という話をしているくらいですからね。

そして、そういう理論を学問として向上させてきたのが西洋哲学。
それなら――知れないなら――知る必要はない、大事なのは正しい、真実に見合った行い(生きかた)をすればいいと説いてきたのが、東洋哲学であると。

しかし、その双方のいずれかに偏るべきではないと思う。
正しく生きることが最も重要だとしても、正しく生きるとはどういうことかを知らなければ、正しい行いなどしようがないからだ。

そこに、東洋哲学だけでも駄目、かといって西洋哲学だけでも駄目という、総体観が必要なことが理解されるはずだ。

もちろん、知ることと行うことは、ある意味で一体である。
知らないで行ったことで、正しいことを知れる場合もあるからだ。
ようは、仏法はそういう実践(数多い失敗をする過程で正しいことを学びとっていく行為)を勧めているわけだが、そういうことだと知らないで信仰すると、西洋哲学のように、何が正しいのか!? ということを論理的に突き詰め、その頂点には無知の知があることを知り、「なーんだ、知れないなら頑張る必要ないじゃん」死んだあとも神仏まかせでええやん」という諦めの思想にゆきついたいり、思想の頂点が無知の知であることすら理解できず、「自分の思想が一番正しいのだ!」という傲慢さを自ら生みだし、周囲をも威圧して苦しめるわけだ。
現実を見れば、正しい信心をしてるんだから、絶対に間違うな! みたいな恐ろしい思想を押しつけてくる人もいるわけです。
違いますでしょ。数多い失敗をする過程で正しいことを学びとっていくのが信心だと、わたしは確信してますからね。それが寛容であるということですしね。

フロムはこうしたことを実にうまく話している。
重要なのは思考ではなく行為である。(中略)正しい思考が究極の真理ではなく、したがって救いの道でもないとしたら、自分とはちがう原理に到達したほかの人びとと争う理由はない。暗闇で象について説明するように言われた人びとの話は、この寛容をじつに巧みに表現している。
象の鼻にさわった人は「この動物は水ギセルのようです」と言い、耳にさわった人は「この動物は扇のようです」と言い、足にさわった人は「この動物は柱のようです」と答えたという。


おいおい、そんなことしてないで、満天の太陽のもとで、象を見せてあげなさいよ! と突っ込みを入れたくなったが、人間というものをよくわかった一文だと思う。
個人個人の感受性の違い、そうしたものを大事にすればいい。また、個人個人が見れるのは真実の極一部であるとか、本当にうまい比喩ですね。
つまり、真理とか真実という言葉や思考で縛ろうとすることは不寛容であり、それは救いの道でも何でもない。
それは、最後には思想統制や言論統制を生むというのが、よくわかるのではないだろうか。

簡単にいえば、真実を知るということは「無知の知」に目覚めることであり、何も知りえないということを知ることである。
そんな状態で正しく生き、正しい行いをするためには、知るのではなく、感じるしかないとか、とりあえず行ってみるしかないとしか言いようはないだろう。
無論、そうしたことを感じるべき場所は、自分の内側であることは、いまさら言うまでもない。

つまり――
抑妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり、然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る……云々(一生成仏抄)

これを平易にわたしなりに言えば――
とりあえずさ、正しいとか間違ってるとかね、行ってみないとわからんよ。
だから、とりあえずやってみるといいですよ。
けどね、かくいうわたしも何が正しいとか間違ってるかは、わかんないの。
だって人間の理性というのはね、何が正しいのか知ることが出来ないということを知ってることが、一番賢いってことだからね(心も及ばず語も及ばず)。
そんな訳だから、僕がまず行ってみたらと言ったからといって、それをやってみて、何が正しいからわからなかったとしても、僕を恨まんでくれ!(←御書で、大聖人よくこれ、言ってますよね!)
最終的には、君が行ってみたうえで、何が正しくて間違っているかは、君自身が決めて信じるしかないってことね。もちろん、信じない自由もあるよ。
だけど自分が行ってみて、「こうなんじゃないか!?」ということを信じられなかったら、自分が生きている意味、存在価値はないよね? だから、自分の中に芽生えた「これは正しいかもなァ」というものは、信じたほうがいいんじゃない? と僕は勧めるけどね。
無論、これは僕自身にも言えることだけどね。
一応、ぼくが行ってみて感じたことは話せるけど、それが君にとって正しいとは言えないし、例え僕の経験を話してみたところで、それはあくまでも参考でしかないんだけど、聞きたいというなら、お話しますよ。
ガハハハハハ! みたいな感じでしょうね。
とても無責任なことを言っているし、自分のことは自分でやれよ! って空気感満々ですが、これが本当の意味で相手の人生に責任をもった言い方ですし、正しい仏法なのですよ。


ようするに、ここまでの流れを整理すると、孤立という淋しさからの合一。それが愛を生む。だが愛にも色々な形がある。母性愛、父性愛、兄弟愛、歪んだ愛、嘘の愛などなど。しかるにその頂点にあるのは、「無知の知」を心得たうえでの愛であるということになろう。

知ったつもり、わかったつもりになるのが、一番危険だということですね。
何事も、知識としては、絶対に断定はできないということですね。

ipsilon at 13:10コメント(0) 
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