2016年08月

2016年08月31日

いわずもがな、創価学園の指針は
「他人の不幸の上に自分の幸福を築くことはしない」です。

しかしこの言葉の原典は、先生が敬愛してやまないトルストイの言葉であることを知る人は案外すくないのかもしれない。

トスルトイはこういっている。

他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。
他人の幸福の中にこそ、 自分の幸福もあるのだ。


なぜ先生はトルストイの「べき論」である語尾を「しない」という言葉に変えたのか?
そこに大きな意味があるとわたしは確信している。
「〜であるべきだ」などと人にいわれて行ってみても、意味がないからだ。
しない! と自分自身に誓う行為によって、「内発的・自発的」となるからだとわたしは確信している。
そうして「自覚」することが自身の生き方の「責任」にもなるからだ。
それでこそ本物であるし、自身の本性にかなった生き方になるからである。

ゆえに、祈りは「誓願」でなければならない。
御本尊になんとかしてもらおう! 諸天に動いてもらおうなどという依存の祈りでは、自分の中から力を引きだせないからだ。
自分が諸天になるのが好ましいからだ。

ゆえに、御書にはこうある。

釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし(弥三郎殿御返事)――と。


トスルトイは、またこうもいっている。

誰もが世界を変えることを考えるが、
誰も自分自身を変えることは考えない。
――と。


もう何度も貼ってきたけど、こういうことを明確に歌ってるのがマイケル。
そして人生に必要な智慧はそれだけだとわたしは思っている。



人のことを毎日毎日、とやかく口うるさく言っていても意味なんて、まるでない。
自分に今、なにができるのか? それをひたぶるに自分に問いつづけるだけだ。


あまり固い記事もアレなので、太鼓のリズムでも聴いて、なんとなく元気にでもなってください。
見てるだけでスンゲーというか、これは楽しそう! と思えるんじゃないかな。
練習とか努力って凄いですね。





うーむ、才能を無駄に使ってるんじゃない? までも、凄いけどね。

ipsilon at 19:04コメント(0) 

2016年08月26日

8月21日に101歳で逝去されたようです。

100歳を超えても反戦平和を叫んでいた方が、また一人失われたことに際して、むのさんが何を伝え残していきたかったのかという事に耳を傾ける必要が、わたしはあると思っている。







ipsilon at 01:27コメント(0) 

2016年08月25日

これが戦争法の実態でしょ。

わたしは、かなり早い時期に参院選への影響を懸念して、すでに準備も訓練もされていた「駆けつけ警護」への任務派遣が、11月あたりに延期になったことを知っていた。
権力者なんてそんなものでしょ。
つまりそれは、参院選前に自衛隊に対して駆けつけ警護の任務を付与することで、何らかの事件が起こってしまったなら、自公与党は支援を失いかねないと考えたからでしょ。
権力者のやることなど、大体こうした自己保身のうえに立った理論ですわ。

ところで駆けつけ警護って、実質なんのことだかわかってますか?

ようするに他国での武力の行使、、を認め、それを実施にふみきったということじゃないんですか?
つまり日本は、戦後ずっと堅持してきた「専守防衛」という信念を、自ら踏みにじったということだ!

こうした既成事実がすでに現実化してさえ、いまだ公明山口代表の言葉を信じている馬鹿者がいる。
腸が煮えくり返る思いだ。
そりゃあそうだよね。既に9条に違憲の法律を制定したんだから、いまさら改憲は必要ないですよね。
山口代表の言ってることはごもっともということだ!

ともあれ、これまで自衛隊に許されていたのは、原則「武器使用」までであり、それは相手の戦意を奪うことで、自己の生存権を確保しようとする威嚇までだった。
いわずもがな、実は憲法9条ではこの「威嚇」すら禁止されてるんですがね。
ほれこのとおり。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。

普通に考えれば、国連のPKO任務は警護ないし警察任務に当たるだろう。
しかし、それは紛争当事国の両者のあいだにあってのことであるから、厳しい見方をすれば警護ないし警察任務といえども、9条にある「国際紛争を解決する手段」に当たるわけだ。
いわゆる要人警護などのように、自国人の人命を守るという意味あいではない。
いやそもそも、PKOの主任務は紛争当事者同士の休戦状態を維持するための、停戦監視が任務なのだから、これは当然「国際紛争を解決する手段」に当たるといって間違いはない。
こんなことからも、「駆けつけ警護」なるものが、純然たる憲法違反であることなど明確だ。

そもそも「武器使用」と「武力行使」は、法律上意味が違うんですよ。
武器使用というのは、読んで字のごとく、武器を使っていいということ。だからといって、武器を相手に向けて撃っていいとはなっていない。
しかし武力行使は違う。相手に向けて武器を使用していい、ということですからね。

それに「抑止力」とかいって言い訳してましたが、ようはこれだって見方によっては「威嚇」でしょ。
相手に攻撃されないようにと威嚇しておく。動物もよくやりますが、彼らのやってることをなぜか人は「抑止力」とは言いませんがねぇ。素直に威嚇といいますよね。
文言さえ変えれば愚民どもを騙しておけるという権力者の常套手段じゃないの。

精密にいえば「抑止」は見せつけるだけで、「威嚇」は日本海にミサイル撃つとかいった具合に、実際の行為となっているかいないかという立て分けはできるでしょうが、心理的に人間はどちらの行為をされても、
「威嚇されてる……」
ってふつう言葉にしますよねぇ。

「俺はあいつから抑止を受けている……」
なんていいませんからね。

いやもっと精密にいえば、威嚇はこちら側がやる行為であり、相手からしてもやられたとわかる行為。そして「抑止」とは自分から攻撃は控えようという、字のごとくの抑制しようという相手の心理。
ほら、ボロが出た。
相手の心理状態なんてさ、一般社会生活でさえ理解できず、憶測・推測によるしかないのに、そういうものをもって「抑止力」が高まったとかいうこと自体、主観的かつ点前勝手ないい加減で、何一つ客観性のない判断でしかないことが、はっきりわかる。

つまり戦争法とは、自己の生存権を確保するためには、相手を攻撃していいということを隠れ蓑にしたれっきとした違憲の法律だ。

いかなる理由があるにせよ、日本が憲法9条に違反して、他国の領土で必要に応じて先制攻撃も出来るという状態になったということだ。

こんな法律を“安全平和”法制だとか呑気な調子でいえる人間はもはや狂人であるとしかいいようがない。

かつてソ連機が函館空港に強行着陸したさい、そのミグ25を奪還するために、ソ連軍が攻めてくるかもしれないという状況があった。
その時、自衛隊の幹部が実際にいったのはこういう言葉だ。

「(前略)交戦場所は、国民の目の届かない海。敵艦を先に沈めたか、わが艦が先にやられたか、どちらが先に先端を開いたか。国民の目には見えない。わが自衛艦は正当防衛で戦った、と発表すればいい」
――と、海上自衛隊の幹部。

あの時はどうだったんだ? 満州事変の時は?
「相手が先に手を出してきたんだ!」と嘘をいって先制攻撃した、実質の侵略行為じゃないか。


どんなに法律に厳格であろうと、実際の現場では嘘や欺瞞をまかり通してしまうのが人間の常だ。
であるのに、そういうことをわざわざ法律で「やってよろしい」と、してしまったことを全く顧みず、いまだ公明が平和を守るだとか言ってるお花畑な狂人は、自分たちがこのような武力行使への道を開いたことさえ気づいていないのだろう。
相当な無責任体質だと断言せざるを得ない。

そして、いまの日本の「駆けつけ警護」には前例がある。
ドイツの場合だ。

彼の国も、アメリカからの圧力を受け、それに屈し、憲法まで変えて、いわゆる「駆けつけ警護」を実施した。
ISAF、つまりはアフガニンスタンへの派兵だ。

彼らが派遣された任務地域は、いわゆる「非戦闘地域」であり、戦闘は起りえないといわれた地域だ。「後方支援」なんだから安全なんだといわれていた。
だが、実際は毎日のように銃撃戦が惹起し……

結果――55人のドイツ人が落命した。

自国民、あるいは国際秩序を維持するためにという、美しい大義であり建前ではあるが、その結果はどうだ?

ドイツは自国民を55人も死なせておいて、一体何を守れたというのだ?
自国民の生命さえ守れないものが、他国民の生命など守れるはずがない。

こんなことは自明の理であり、明々赫々たる道理であり事実だ!!

というか、こんなものはドイツのISAFの例を持ちだすまでもない。
沖縄戦ですでに実証されている。
日本軍のいた地域でこそ、住民の死傷率が高く、いわゆる集団自決が起こっていたという客観的事実で充分に理解できることだ。

愚か者どもに対して、吐き気がする!!
平和で安全だというなら、いまだ公明がいるから安心だと宣う狂人どもに、まずは「駆けつけ警護」の任務についてもらいたいものだ。
それでもまだ、安全だと言い切れるんですか?
言えるものならいってみるがいい。

そして、もし自衛隊員に犠牲者が出た場合、愚か者どもたちはこういうのだろう。
「彼らの尊い犠牲があったから、われわれの日常の平和は守られた」――と。

それは、師匠が最も嫌っている「他人の犠牲のうえに立った幸福」ではないですか?




中村哲さんは「アフガニスタンのためなら死んでもいい」という信念で、武器を持たずに行動されてきた。

では駆けつけ警護の任務につく自衛隊員にそういう覚悟はあるのか? ないといっていいだろう。
なぜなら、まずは自分の身をまもるための武器を携行していきながら、その国の人たちのためなら死んでもいいという覚悟があるなどと言ったところで、それを見た庶民たちは、誰もそんな理屈を認めはしないからだ。

かつてアフガニスタンは緑豊かな国土だったといわれている。
古くはインダス文明が栄えた肥沃さがそれを如実に証明している。
それを壊したのは戦争でしょ。

ソ連のアフガン侵攻。いわゆる米ソの代理戦争。
そしてアフガニスタンへの対テロ戦争と、人類の環境破壊による異常気象がその原因といっていい。

さて、その肥沃な大地や緑を、銃をもった兵士が守れるのか考えてみるがいい。


そしてこれだ……。
なんがポケモンGOだ。阿呆としかいいようがない。
ゲームに夢中になってて、前見て運転したいなかったとか……。

ブラッドベリィの『華氏451』そのままではないか。
仮想現実の世界に生き、悦楽しか求めない人々。それでもストレスが溜まると、猛スピードで車を暴走させる。
酷い奴になると、そのストレスをぶつける相手を求めて、ひき逃げだってやる。
『華氏451』の世界はそういう情景を描いていましたがね。

似たようなものでしょ。
仮想現実に夢中になってて、運転中にスマホ画面をわき見してて人命を奪うとかね。

こんなことになるのは、わかっていたんじゃないですか?

携帯電話に写メの機能がつきはじめた頃、本屋で本の内容を写メする馬鹿が沢山あらわれ、本屋に並べられた本ことごとくにビニールがかけられ、
「本の内容を写メしないでください」
という注意書きの表示を目にしたときも辟易したものですがね。
最近の人たちは撮っていいものと悪いものの判断もできないんだね……と。

世の中、馬鹿ばっか……。
生きた心地がしない今日この頃だ。

ipsilon at 15:04コメント(62) 

2016年08月24日

人生とは、ふとした縁との出会いによって思いもよらぬほうへと向いていくものだ。
そしてその方向はあながち間違ってはいない。

しかし、突き詰めて考えてみると、なぜそういう縁に自分が反応してきたのか? という問いに対する答えは、いつも同じだ。
よくわからないけど、そう思ったとか、そう感じたんだから仕方ないだろう、みたいな。

ではあっても、その縁に対して敏感な自分を作っておかないと、こうしてわたしが話している内容も、ちんぷんかんぷんなんでしょうけどね。


思えば、わたしのカントとの出会いは衝撃的だった。
唱題をしていていきなり脳内に声の電光が一閃した。
「いまは哲学を学び直すときだ!」――と。
それで素直にその声にしたがって手に取ったのが、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』。

そうして、本に登場する様々な思想家の考え方のなかで、
「この人はスゲー!」
と思ったのがカント。
そんな風にしてそれから3年くらい、ひたすらにカント哲学を学びながら、それを実生活にいかしてきたつもりだ。

しかし、カント哲学を知ればしるほど、その限界の見えてきていた。
彼の生命の認識という次元を、言葉にして他人に伝えることが異常に困難であると感じてきたからだ。

どうすればこの壁を乗り越えられるのか!? 随分と考えてきました。
あの本を読み、この本を読み、思索を繰り返してきた。
でも、どうにも答えはみいだせない。


けれども、あれまあ不思議。
わたしをもっとも哲学に近づけた人、エーリッヒ・フロムの本を最近読みなおしていて、なんとなくゾワゾワするものを覚えたのだ。

フロム曰く――。
「カントは凄いよ。他の人も凄いよ。でもね、いろんな意味で生命を理論理屈ではなく、体現者として正しく表現したのは、恐らくアルベルト・シュバイツァーだね」
という言葉に。
わたしの心は、妙にこの言葉に引っかかっていた。


アルベルト・シュバイツァーといえば、いわずと知れた辺境医療の先駆者である。

今でこそペシャワール会の中村哲医師や、鎌田実さんのような日本人もいるが、シュバイツァーはそうした辺境医療をはじめて大々的に、また一生を懸けて貫き通した人だ。
若かりし頃のわたしは、そういうことを知り、『シュワイツァーの言葉』という本を手に取ったくらいだ。


そして最近、『シュワイツァーの言葉』の頁をぺらぺらと捲ってみたら、面白いことに出会ったのだ。
シュバイツァー曰く――。

「ゲーテ凄いぜ、ゲーテ! まじ凄いぜゲーテ!」
「それと比べたらさ、カントなんてちっこい! んまぁでもね、そのゲーテもカント哲学を真剣に学んで、そのうえで自分自身を作ってるんだけどね」
「でもゲーテの場合、あれはなんというかもう本人の本性(天性)なんだろうね。別のいい方をすれば、素晴らしい両親に恵まれたから彼はああいうように、嫌味ではなく自分を素直に表現できたんだろうね。自分自身をカントのように理論理屈ではなく、かれ自らの言葉で話したり、詩にしたところが何よりも凄いんだと思うよ」
みたいなね。
もちろん、シュバイツァーはこんな軽薄な口調ではありません。
でもビビっときましたよ、この辺りの文言を目でおっていてね。


確かにゲーテの『イタリア紀行』を読んでいて感じてはいたんです。
(なんでこの人はさぁ、こんな好き嫌いが激しくて言いたいこといいまくってるのに、嫌味に感じないんだろう? めっちゃテラフリーダムってくらい好き勝手いってるんだけどなぁ。これがゲーテの本質なんだろうなぁ……)
などとね。

つまりゲーテの文章に触れて、わたしはわたしなりに自分自身の本性に生きる姿とはこんなにも見る人をして楽しい気持ちにさせるのか、ということを感じたんでしょうね。


さて問題はここから――。
じゃあゲーテのように生きるにはどうしたらいいの?
だからってゲーテの真似しても駄目だよね。
うーむ……と。
きっとシュバイツァーは、それを言葉で伝えたくって「カントとゲーテ」をあえて持ちだしたんだろうとは思ったのですがね。


そして多分こういうこと。
カント→やる前に考えて正しいことをするにはまずもって、自分が何をどう認識しているかを知る必要がある。
これが彼の行動哲学の大前提なんですね。
だとすると、行動は思考によって、あるいは自分の持つ知識によって限定されてしまう。
こうなると、無限の可能性という言葉も虚しい。

もちろん、カントの哲学を極限まで考察していれば、それが宇宙生命の法則そのものに到達していることには気づけるはずだが、そこまで行ける人は多分、極わずか。
しかも極限まで考察できたとしても、それはあくまでも知識であり、宇宙生命の法則そのものを体現する方法にはなりえない。
いや、あるにはある。『提言命法』がそれなのだが、しかしこれには大変な矛盾があるというわけだ。

なにが矛盾かなんて説明しませんよ。
どうせ説明したって、誰もわかりませんからね。
簡単にいえば、正義や絶対善というものは無意識層にある。だから、その無意識層にある正義や絶対善に基づいて行動せよ。
「すなわち目的のための目的に生きろ!」
というのが『提言命法』。

けどこれ、矛盾してますでしょ?
無意識のものをどうやって意識して行動を抑制すればいいんだ? 阿保か? カント先生は!!
となるわけです。

もちろん、ゲーテはこのことに気づいたのだろう、「ある時期までカントを真剣に学んでいたけど、今ではどうでもいい!などと言っているのだから。
もちろん、わたしも気づいて、
「うーんカント哲学ってのは実践性がねぇ……」
とも考えてきたわけですがね。

いやだからこそ、創価初代会長の牧口先生が、「真・善・美」を「利・善・美」と書きかえたという視点と、そのわかりやすさには驚嘆の思いがあるのですがね。

となると、カント哲学には弊害が見えてくる。
つまり、行動の前には思考することが重要という視点に執着してしまうと、自分で自分の可能性を狭めてしまうということ。


一方のゲーテ。
まあね、好き勝手に生きてるんですわ。
でも好き勝手に生きて、好き勝手なことを言ってるわけだが、正義や絶対善をいい当ててる!
自分が感じたことを詩に出来るとか、文章にして人に伝えられるということは、体現者として生きているということですからね。
なんでこんなことが出来たんだ、この人は? と、謎は深いわけですよ。

ゲーテの場合、まず行動ありき。考える前に行動する。
そして行動しているあいだに感じて、その感じたことを正義や絶対善として表現する。
いえば、無理だろそれは……矛盾していると見える、カントの『提言命法』を見事に実践してるんですね。

だから凄いんですよ、ゲーテは。
シュバイツァーが褒めるのはよくわかる!

ということは、ゲーテという人は非常に生命が清らかだったんでしょうね。
だから、好き勝手なことをやっていてさえいても、ちゃんと正義や絶対善を感じとって、それを言葉にできたんでしょうね。
もちろん、本人が相当に努力したことも間違いないだろうが。
努力だけでなく、そこには絶望するような労苦や苦悩もあったんでしょうがね……。

ようは、心が清らかなら好き勝手に生きても問題なし!
ってことであり、なおかつそうした生き方が真に社会の手本ともなるのでしょうね。

ではどうやって自分の生命を清らかにすればいいか?
答えはひとつ――

譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発(お)こして、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり(一生成仏抄)

所詮、これしかない!!


フランツ・リストは『ファウスト交響曲』など、ゲーテの多数の作品を音楽化している。
Tasso』もそのひとつ。
わたしの好きな楽曲のひとつですけどね。


どんなに才能があっても駄目。
自分の中に将来への「希望」があってこそ、無意味で無価値に見える過去や現在すら生きてくる。
だから夢や希望を語っていけばいいのに、世の中にそういう人はほとんど見当たらない……。
酷い人になると、世の中の惨憺たる部分をあげつらって批判しているだけ……。
社会が悪い、世の中がおかしい……そういう言葉が氾濫している。

また才能をもっていても、人に会って、そういう「希望」が自分の中にあることを知って花開かせるることが人生の目的だと『Tasso』の中でゲーテは言外に表現しているという。

ともあれ、リンク先の方が書かれているゲーテの言葉――
「人間は人間と交わってのみ自己を会得する。実生活だけが各人にその本来の面目を教える」

という部分がカント哲学にはなくて、ゲーテの生き方にはあった部分だということですよね。
すなわち、牧口先生が「真」を「利」に書きかえた意味はここにあるわけで。

もちろん先生も同じことをいっている。

「人に会っていくことが一番の仏道修行です」(趣旨)――と。

無論、御書にもそうあるわけで――。
正報をば依報をもって此れをつくる(瑞相御書)

まあ世の中には、ネットを介して会ったしまったことが「失敗」だとか宣う人もいるんですがね……と、
嫌味のひとつでも書いておいたりしちゃいます。

そう思う人もいれば、わたしのようにその人と出会って「得」した部分を見ていこうとする変人もいるわけで。
つまり、人と会うという依報によって起ったことを「よく見ていこう!」という自分を作るということ。
なにもそれを「失敗」だったなどと見る必要性はないし、そう見た自分が積み重なっていけば、失敗しない為には、自分の好みの人だけ会っていけばいいという「業」、つまりは思考の癖、ようは思想が自分の中に形つくられるわけですからね。これじゃ無益。

いやまあそれ以前に、ネットであれ何であれ、人に出会って言葉をかけられても、返事すらしない人も増えているわけで。
そしてそういう風潮に絶望感を抱くわけで。

How To本などによくあること。
例えばコメントしたのに返事がなかったからって苛々するな! イラついて損するのは自分。
確かにそういう部分はわかる。

でもよく考えてみたらさ、言葉をかけたのに返事すらもらえないのを許しているってのはさ、そういう人間性を認めるってことになるんですよ。
少なくとも、わたしはそういう人間にはなりたくないと思っている。

もっとも、返事がもらえなくて苛々して損する必要はないけど、だからといってそういう返事の出来ない相手の人間性はやはり認めたくないんですよ。
最近も、なんどそういう目に遭ってきたことか。

で結局そういうことをされればされるほど、こっちはさ、人間不信になって、自分から声をかける気を無くすというね……。
だけならまだしも、わたしに返事はしないでも、他の人には返事とかしてるの見るとさ……そりゃあもう人間不信になるよね。

まあそれも、所詮はお前の宿業だ! とか教条主義の人はいうんでしょ。
違うでしょ。返事しなかったのは相手。わたしの責任の及ぶ範疇ではありませんからね。

ipsilon at 16:46コメント(0) 

2016年08月18日

・昭和63年(1988年) 10月29日
・第9回全国青年部幹部会
・創価文化会館


本スピーチは青年部幹部会であるから、青年部になにを期待されているか、広く捉えれば青年の「心」とはなにかを教えてくださっている。
まず挨拶の終わりに、結論を述べておられると拝したのだが、普通に読んでいたらそこが結論だとは思えないでしょう。

安易な判断で(結婚)相手を選んだ人は、後の四十代、五十代になって、後悔している人も多い。反対に信心がしっかりしている人と結婚した人は夫人の信心にも支えられ、大きく伸びているし、後になって「良かった」という場合も多い。

ここで一応先生は、結婚ということで話をされているが、広く考えれば、「いかなる人と付き合っていけばいいのか?」ということを教えてくださっているといえよう。
しかし、人生や社会はそんなに甘くないわけです。下手な鉄砲、数うちゃ当たるというように、出会いを重ねていけば、善友に出会えるとは限らないわけです(体験談)。

こうしたことを仏法の眼で見てみれば、いくら素晴らしい夫・妻、あるいは友人と出会いたいと思っても、結局のところ自分の境涯に見合った人としか出会えないからです。教学用語でいえば「依正不二」ということですよね。主体者と環境は一体不二であるというあれです。

ゆえに、先生は(当時)数百万人いる青年部に、戸田先生より受けてこられた薫陶を引用して、こう呼びかけられている。

いかなる事件にであうとも、いかなる事態に即しようとも、ただ一人立つということが大事なのです。青年部は、男女二万の数があると思うが、この人々が、二万が立たねばならぬということではなく、一人、ただ一人立てばよい。ただ一人確信をもって立つところに、いっさいの仕事ができあがるのです。
――と。

信心だ、教学だ、活動だ云々いってみたとろこで、全てはかならずこの一人立つという精神が基だということですね。いわんやよき出会いを導くのも一人立った自分であることによって起こる。その先にある結婚にしろ、人間関係にしろ、すべて、一人立った自分という主体者なくして、その主体者が見ている環境に、素晴らしき善友を見つけることも出来なければ、そうした人を友人としていこうと思ったり、夫・妻になっていこうなどとはならないわけです。

そして、そうして一人立った人というのは、今世で味わう様々な苦悩を味わい尽くして成仏すれば、来世には“長者”として生まれ、さらに広宣流布に役立てる立場で生まれてこれるということも、併せて教えてくださっている。

長者とは現代社会でいえば、一国の大統領や大政治家、大学の学長や社長等、社会的に力のある人のことだそうだ。
そしてそうした人たちは信心の世界の言葉でいえば、「梵天」「帝釈」の働きとなって、法華経の行者を守護するのである、と。


しかし、現実の社会を見たとき、どうなのだろうか?
過去世に一人立って成仏し、今世に自ら望んで“長者”となって生まれてきたにもかかわらず、多くの徒輩は純真な信仰をする人々を、ひいては真面目で善良な学会員を餌にして、利用し保身をはかっているではないか。
そういう輩を仏法では「食法じきほう餓鬼」というのである、と先生は因果の法則が悪となって顕れた現実を指摘されている。

社会にあって政治や社会事業、学問や芸術、医学等に携わり、本来、社会の進歩や民衆の幸福に貢献すべき立場にありながら、善意の庶民を食いものとし、自己の営利栄達のみに腐心するのも、広義の「食法餓鬼」といえるかもしれない。
――と。


ではなぜ、本来あるべき“長者”として、梵天・帝釈の働きができないのか? その原因はなんなのか?
それを先生は非常にわかりやすく教えてくださっている。
すなわち、自己を正しく見つめられていないことが原因である、と。

牧口先生の言葉に「認識しないで評価してはいけない」とある。これは、正確な認識もしないで、軽薄にも人を評価し、物事を判断してはいけない、との人生の在り方を教えられたものである。
――と。

われわれは普通こうした指導を、「なるほど、きちんと“相手”が何を思っているのかを知る必要があるな」という教訓として考えるものなのだが、ここに重大な陥穽があるとわたしは確信している。
なぜかなら、その相手を認識し評価を下しているのは相手の言動によってではなく、自分がものごとをどう認識し、評価しているのかという自分の境涯によるからだ。
であるならば、相手をどう認識したかが重要なのではなく、自分がものごとをどう認識しているのかという、自分の物の見方がいかなるものを基準にしているのかを、まず知っておくことが最重要なのだが、このことに気づいている人は、悲しくなるほど少ないのが現実だと、わたしは見ている。

つまり「認識しないで評価してはいけない」というのは、自分が何を基準にものごとを判断しているのかを認識していなければ、相手をきちんと認識することなど、全く不可能だということをいっているわけです。

その自分が基としている判断材料はなにか?
それが欲望であれば、あなたは欲望に支配されている餓鬼である。
それが苦悩からの脱出であれば、あなたは地獄に住んでいる。
それが我見であれば、あなたは私利私欲に生きている。
それが仏法であれば、宇宙生命の「法」を基にして生きている、崇高な生き方である。
そういうことになるだが……。

つまりは、自分自身の中にある「法」に生き切ったものしか、正しい認識も評価もできないということを、先生は教えてくださっているのだろう。もちろん「法」に生き切るとは、信心のことである。


スピーチはつづく――。
このあと、そうした自分自身に生きた実例として、タンゴ歌手のマリアーノ・モーレスや武田信玄を実例としてお話しくださっているのだが、なかんずく、われわれにあっては、

「自分は、この一生を、妙法を流布をしきって終わるのだ」「自分は一生涯、民衆の本当の味方となって、生き抜いていこう」――。
こうまず信心の心を定めることである。

――と、教えてくださっている。

またそうした生き様には様々な急所ともいうべき、押さえどころがあると様々話してくださっているが、ここではその一つだけを抜き書いておこうと思う。

信玄は「人間はただ、自分がしたいと思ったことをせず、いやだと思うことに努めるならば、それぞれ身を全うすることができるものだ」と教えた。
「したいこと」ではなく「いやなこと」に努力していく。


以前、E・フロムの言葉にも似たような表現がありましたね。
「自分にとって役に立たないものを愛することができて、はじめて一人前である(趣旨)」といった言葉ですね。 

結局のところ、自己充実や自己超克を怠っていて、なにかを見て評価したり、批判をすることなど、「信なき(自らを顧みずしての)言論煙のごとし(戸田城聖)」なのである。



最後に先生は、日淳上人の言葉を引いて、そのことを教えて下さり、スピーチを終えている。

今日の人はややもすれば外にのみとらわれて内の心を忘れてはいないかと思われるであります。若し心を忘れて外の形態のみを追うならば、根をはなれた枝葉であり、根のない生活となってしまうのであります。(中略)然らば、心を再建するのは何かと云えば、完璧に正しい宗教により先ずその依処を定める以外に無いのであります。
――と。

いわずもがなだが「完璧に正しい宗教により先ずその依処」とは、自分自身の胸中の肉団におわす妙法蓮華経であり、その妙法に南無していくことが、ものごとを正しく認識する大前提であり、その妙法によってはじめて正しい評価ができるということになるだろう。

そういう自分になるための方途は唯一つ、
一人立つことである!――。


内なる革命なくして、社会に変革をもたらすことなどできない。
内なる眼から外へ――。

On The Inside Looking Out !

しかして、内から外へとはいかなることなのか?

「学と云うは、物をよむにばかりにあらず。己々が道々につけて、まなぶを学とは申也もうすなり」と(信玄)は語った、と伝えられている。
人それぞれが経てきた、さまざまな経験それ自体が、最大の「学問」である。


しかし、そうした幾多の体験を重ねてきていても、その内的体験を見つめなければ、何一つ学んでいないのと同じであると、わたしは確信している。
心ある人は読書ひとつをとっても、それを我が内的体験としていけるとも確信している。

ipsilon at 14:26コメント(0) 
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  • スケッチ アミダラ女王
  • 静止した時間
  • 蝶
  • 祈り
  • チャム・ファウ
  • どこかのお家の猫ちゃん
  • 「みちくさ」
  • ザハロワは美しい!
  • デジ絵「星座と少女」(完成)
  • チュチュがじゃまだよ〜
  • アティチュード
  • 瀕死の白鳥
  • デジ絵「夏の風」(完成)
  • デジ絵「風」(完成)
  • デジ絵 ランカ・リー(完成)
  • 栗木さん 応援イラスト
  • イラスト「天使」
  • 水彩画 愛嶋リーナ 完成
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「graduation 」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「アメジストの祈り」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「初雪」
  • 水彩画 愛嶋リーナ
  • デッサン 愛嶋リーナ
  • 水彩画 アリスとネズミ
  • イラスト アリスとドロシー
  • イラスト 眠そうなネフェルタリ
  • スケッチ 微笑の国の人
  • なんでだろうう? と思うこと
  • スケッチ アソーカ・タノ
  • スケッチ ライオン
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG 缶コーヒー"カフェバニラ"
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • スケッチ 騎士の左腕
  • アーソウカ、、だった!
  • スケッチ 懐かしのアイツ
  • ニャンとも言えない気持ち
  • 旧作 ペン画
  • デッサン ドイツ兵 in 1944
  • 水彩イラスト ニホンカモシカ
  • デッサン アフリカゾウ
  • 水彩画「水辺の豹」
  • 習作デッサン「豹」
  • 旧作 Gジャンガール
  • イラスト「蜜虫」
  • 「ネフェルタリと豹」下絵
  • イラスト「ネフェルタリ」
  • 水彩画 「装身具をといたクレオパトラ」
  • デッサン+色鉛筆 眼
  • スケッチ 「装身具をといたクレオパトラ」
  • 習作 ネフェルタリ 下書き
  • デッサン 眼
  • デッサン途中 布の研究
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • デッサン チャイナドレスの子
  • スケッチ クレオパトラ
  • 水彩画 死せるクレオパトラ
  • スケッチ クレオパトラ
  • デッサン 小野田寛郎さん
  • デッサン 猫
  • デッサン Diane Kruger
  • デッサン ベッキー・クルーエル
  • デッサン 中澤裕子
  • ベッキー デッサン
  • 萌えキャラ 線画 修正 その1
  • 萌えキャラ 下塗り
  • デッサン 杉崎美香 8時間目
  • 習作 フォトショップ 萌えキャラ風塗り
  • デッサン 杉崎美香 6時間目
  • 欝
  • 習作 水彩 その1
  • デッサン 杉崎美香 4時間目
  • 習作 小池栄子 その1
  • 習作 杉崎美香 その4
  • 習作 Face
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 杉崎美香 その3
  • 習作 杉崎美香 その2
  • 習作 その4
  • 習作 杉崎美香 その1
  • 習作 その2
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  • モー様の絵 ハケーン!(笑)
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