2016年10月

2016年10月25日

最近、つまみ読みしたなかで、「やっぱそうですよね!」と益々自分のやってきたことに確信が湧いた先生の指導に出会ったので、紹介しておこうと思う。

本のタイトルは『私の人生観』です。


これまでの、時代を変えてきたのも、常識と道理なら、悩み多い、現代世界を変えるのに、最も、大事なのも、これ以外にないと考えるのである。
もちろん、極論すれば唱題が何につけても一番大事である。食事をすることも、寝ることも、適度な運動をすることも大事ではあるが、やはり最優先は唱題である。

しかし、こうした考えはえてしてお縋り信心になりやすい。だから、最も大事なのは唱題だけど、それと同じくらいに常識と道理にみあった衣食住の生活を正していくことも大事という、どちらともいえない、どっちも大事という観点に立つことが理想なのではないかと、わたしは考えている。鶏と卵の関係みたいだと思うわけです。

唱題をすれば、あら不思議! それまでなかった食欲が湧いてきたりするんです。
じゃあ唱題を優先して、いけばいいのか? そうともいえませんよね。もう腹減ってて動くのも億劫……。そんな時に無理して唱題しても価値的ではないわけです。それならとりあえず何か食べたほうがいいわけです。
つまり、今ここで何をするのが一番いいのか? を常に考えながら、今は卵(唱題)、今は鶏(食事)と賢明な判断をするのが理想ではないか。そう考えているわけです。


(戸田先生から)当時、教わったことは、一つ一つの知識としては、いまでは、あらかたわすれてしまった。ただ、先生が、私に教えてくださったときの、物の見方、そして日常生活の中での思考法、といったものだけが、いまも脳裏に深く刻みこまれている。先生は、決して単なる結果としての知識を教えるのではなく、つねに、なぜそうなるのかという、考える術を重んじられた。
先に述べたわたしの考えも、ようするにこういう先生のいわれる、考える術を重視するところからの答えなわけだ。

何があっても唱題が一番重要。こういうふうに決めつけて見るのは、「結果としての知識」に過ぎないということになろう。日々が、変化の連続であるというなら、結果としての知識に執着することが愚かであることなど、賢明な人ならすぐに気づくのではないだろうか。

何が起こっても毎回おなじ判断をする。そういうのが得意なのはロボットなので、彼らに任せておけばいい。そんなロボットでさえ、最近はAIだとか騒がれて、柔軟な判断ができる方向に技術は進もうとしている。
であるからこそ、様々な変化に対応し、その時々に見合った正しい判断をしていける人間に生まれられたことが幸せだなぁと思うわけである。

ipsilon at 02:39コメント(0) 

2016年10月24日

記事全文――。

噂やデマのうちはまだいいんですよ。
でも、こうして権力の横暴が「現実」となって現れはじめたときには、もう既に相当のところまで来てしまっている。
歴史はそういうことを証明しています。

特定機密保護法から先、様々な前兆があったのに、「大丈夫、大丈夫」とか、「学会と公明を信じてればいいの」とかいって、前兆を見逃してきた罪は重い。

不沈船と豪語されていたタイタニック号が氷山に激突して沈没したときも、小さな不具合が何度も現れていた。
そこで気づいていれば、あのような大事故にはならなかった。先生の指導にそういうのがあります。
そういうことを、よーく考えてみるといいんじゃないですか。

最も恐ろしい権力の魔性、つまりこれこそ「悪」という勢力と戦わないでいて、いなむしろ媚びていて、なにが正義なんだかねぇ。
マックス・ウェーバーはこういっている。
近代国家やそれ以前のあらゆる政治団体は、暴力を背景とした「人間の人間に対する支配関係」である。したがって、その存続には、被治者の服従が必要である。

沖縄じゃ今現実に政治が暴威を振るってるんですよ。しかと認識しなさいよ。
Superお花畑の学会員さんたちはさ、いつまで「服従」してるつもりなんでしょうね。
お目出度い方々だとしかいえませんがね。

沈まぬ船なんかないんですよ。それと同じように腐敗しない権力や団体もないんです。
いい加減に目覚めないと、大変なことになりますよ。
あなたがたでなくとも、あなたがたの子どもや孫たちがね。


右翼や権力がどれだけ酷いことしてるか、認識したほうがいい。
暴力ふるわれてきたのは文子さんのほうなんですけどね。

ipsilon at 01:57コメント(0) 

2016年10月23日

第一篇から第三篇までで上巻となっている。
ゆえに、第三編でルソーのこれまでの教育法(というよりも教導といったほうが適切かな)は、大きな変化は見せない。

基本、「自主性」を生かして「本人に体験させながら」というスタンスを忘れずに読めば、12歳までは感覚を鍛える期間。15歳まではその感覚を生かして判断力を養わせていく期間であると。
まあそうですよね、物事を判断するには、判断するための材料、情報を正確に読みとれなければいけないわけで、それゆえに感覚を鍛えてきた意味が判断力に大きく役立つということだから。

ただし、注意しなければいけないのは、15歳までは物事を「主観的に感得」させ、判断させていくべきだ、と。
ルソーのいう主観的とは相対的ではないこと。つまり、物事を比較――自分と他人を比べるような感得・判断――をするのではなく、その物事を見て「自分は、、、どう感じたか」「自分は、、、どう判断したか」ということを鍛え、養っていくべきだ、と。

一応、上巻の最後で、そしてここから先(16歳〜)が、物事を比較して社会性――自他の関係性や中道でものを見る徳性――を身につけていく時期になる、と前置いて上巻は終わっている。

考えてみれば当たりまえのことを語っている。
まずもって自分がものをどう見てどう判断しているかを自分で認識できなければ、自他の比較や関係性が正しく読みとれるはずなどないのだから。

しかし、わたし自身が歩んできた道を顧みてみても、まず、こうした教育を受けてきた人は極少数だと思えた。
自分の感覚・判断力を養う時期である幼少期から、すでに両親や周囲による押しつけや決めつけ教育、あるいは「べき論」を叩きこまれてきたことに思いあたったからだ。ようは、ある時期まで、わたしは他人の価値観で人生をいきようとしてきて、そのことで非常に苦しんできたということだ。
だが両親や周囲はいかなる形であれ、出来ることをしてくれて、ある年代まで育ててくれたんだからいいじゃない。感謝すれば、とね。いまさら文句をいっても過去は過去ですからね。

両親が日々生活していくだけで大変だっただろう状況で、ルソーの『エミール』を読んで、ちゃんと育ててもらえなかったから……などと愚痴っても、今さら何も解決しないわけで。
だから、今になってオジサンになっても、自分の出来ることをして、自分を作りなおしているわけで。

しかし、それも無意味ではないと思う。
なぜかなら、『エミール』を読んでいて、――これはルソー自身が自分を作りなおすために自分をエミールだと見て再教育をしているということを強く感じたからだ。
ルソーは自分の幼少期から少年期を具体的に語り、自己認知療法をしたのではなく、あえてその自己認知を理想の教育論として著したんでしょうね。
というか、そういうところがやはり凄いわけで。

もはや何度もいってきたが、わたしはここに自分史を書きながら、自己認知をして自分を再発見し、矯正してきたのだが、ルソーの場合、それを自分のためだけにするのでなく、世の人々のためになる方法で行ったというね。
そういうところが自分のことしか考えられない、わたしのような一般ピープルと、社会貢献という形にして世に問うている偉人たちの違いなんだなぁと、お口あんぐり。
カントが感動した気持ちもわかるというもの。
まあ、寛容に見れば、わたしも自分のための自己認知している姿を、ここにリアルタイムで書いてきたのだから、それなりに価値はあると勝手に思うことにしますけどね。


さて、自己満はほどほどにして、以下に感じ入った部分を抜き書いておきます。


存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要なのだ。
ルソー、頭いいですね。世界にあるものを全て知るなんて無理。だったら有用なものを見極めればいいんだよ、と。逆のいい方をすれば、ムリ、ムダ、ムラを省くことで、人生の凝縮度が上がるといえばいいんでしょう。

無知はけっして悪を生みださなかったこと、誤謬だけが有害であること、そして人はなにか知らないためにではなく、知ってると思っているために誤ること、そういうことを忘れずに、たえず心にとめておくがいい。
ここは注意が必要だろう。ルソーのいう「無知」というのは、感知も認識もしてないという意味であり、「誤謬」は意識的に感じてはいなくても感じたものを無意識に誤って受け取っているという意味で読んでほしい。
つまり、鈍感な感覚のままのほほんと過ごしていて半ば無意識に感じたことで、思いこみや誤認をしている場合が多い、と。だから五感を鍛えて、意識的に物事を感じていれば誤謬は防げるのだと。

しかし、意識的に五感を使って生きると疲れる。いやだからルソーはくどくどと、だから頑健な肉体をつくることが大事。だから、食いものに気をつけろといっているわけで。そして、なかにはそれでも疲れるという体質の人もいる。それなら題目あげて生命力をつければいいじゃん、ということになるんですがね。ある意味、運動して飯食ってが先。題目あげても寝てばかりいたら、頑健な体にもならないし、食わなきゃ体力も……というわけだ。
思考や行動で道理を尽くすのが先であり、それでも補えない無意識な各人の資質や思考の傾向性を補正していくのが祈りだということです。

なにやら、祈ってれば何でもうまくいくとか思ってる学会員も多いようだが、題目は魔法の呪文じゃあありませんからね。


かれは学問から学ぶのではなく、それをつくりださねばならない。かれの頭の中に理性のかわりに権威をおくようなことをすれば、かれはもはや理性をはたらかせなくなるだろう。もはや他の人々の臆見に翻弄されるだけだろう。
ここでいわれている理性とは、正確にいえば智慧に近いといっていい。でなければ「つくりだす」ことは出来ないからだ。理性はあくまでも判断であり、智恵は判断に基づいてどう行動するかという部分であるからだ。
智慧には無意識の部分もあるが、智恵は比較的意識的に働かせているものと考えれば、この文脈のいわんとしていることは読みとれるのではないだろうか。

余談だが、トルストイが『人生論』でさんざん、人間は理性的に生きなければならない、といいまくっているのだが、この理性もどちらかというと智慧のことをいっていたりするわけで。


自分のうちからあらゆる道具をひきだし、自分はできないことがわかったあとでなければ、けっして他人の助けを借りないようにならされていくほうがよい。
意味がつうじるように、若干語尾を書き変えておきました。
いますよね。自分で調べたり努力するまえに、何でも人に聞いちゃう人って。いわゆる教えて君ですね。
だからって「ググレ、カス!」とかいうのも良くないと思いますけどね。

そんな場合――
かれがまちがったことをしても、そのままにしておき、誤りを訂正してやるようなことはせず、なんにも言わず、自分で誤りがわかり、それを自分で訂正するまで待っていることだ。
――と、ルソーはいっている。
しかしこれがなかなか出来ない。とくに年令がいけばいくほどね。早く気づかせてあげないと死んじゃうよ……やはりそういう相手への思いが湧いてしまうのが人情。
でも、ルソーのいってることが正しいですね。ようは、教育には時間がかかり、忍耐は必要だということですね。だからこそ、生まれたときからきちんと育ててあげたほうがいい、という結論になるわけで。
もっとも放置ではなく、知らん顔をしつつ「んーそれはどうかなぁ? 間違ってるんちゃう?」といった匂わせは必要なのでしょうがね。


けっしてほかの子どもとくらべないこと。
大人になれば、どうしても比べられるのは致し方ない。しかし子ども時代はそうしないほうがいいですね。
わたしも良く覚えています。親にいわれたことを。小遣いが少なくて、買いたいものが買えない。そんなときにいったものです。
「母ちゃんのケチ!」
すると母は、
「家には家の事情があるの。他の家と比べて、あれがないこれがないいっても仕方ないの」
「……」
みたいな会話。
でも、そうして育ててもらったので、わたしは比較的嫉妬もしないし、羨望の気持ちが案外薄いことを自覚しているわけで。


人間であり市民である者は、だれであろうと、自分自身のほかにどんな財産も社会にあたえることはできない。
けだし名言。是非におよばず!
助言のつもりであろうと考え方を押しつけたり、あるいは何でも金で解決しようとする人。あれは嫌ですよねぇ。
お前が直接行動して俺に出来ることしてみろよ! 少なくともそういう姿を見せてみろよ! って腹立ってくるんですわ。
ははは、熱くなってしまったようです。ごみんご!


かれの仕事が仕事そのものによって評価され、かれがしたことだからといって評価されないようにしよう。
これもまた世の中に蔓延っている悪弊ですね。あの人がいうなら信じる! とかね。そんな偏見ばかりです。しかし、大事なのは誰がいったかではなく、いったことが正しいのか正しくないのかなわけで。そこを見誤っている人は結構多いですね。
いわずもなが、そうした行動に人間を走らせるのが好き嫌いというわけです。
大好きな人のいったことなら、間違ってても「そうかもしれない……」とか思い、大嫌いな人のいうことは、十人が十人「それは正しいよ」といおうが、間違ってるように思える。


現実の関連にもとづいてのみ観念を形づくる精神は堅実な精神だ。表面的な関連に満足する精神は浅薄な精神だ。さまざまな関連をあるがままに見る精神は正しい精神だ。それを見そこなう精神は正しくない精神だ。現実性も外見ももたない架空の関連をつくりだす者は気ちがいだ。比較をしない者は愚か者だ。
ルソー、ときどきとても辛口なんです。そこが面白い。とにかく自由にいいたいことを言う。思いついたらいってるから、いきなり関係ない話とかもする。ややこしいけど、人間味があって惹かれるものがあるんです。


かれがするあらゆることについて、「なんの役に立つか」を、そしてかれが信じるあらゆることについて、「なぜ」を、かれが見いだすことができるなら、それでわたしは十分だ。
簡単にいえば、それをすることが有用であり――社会(自他や環境)にとって価値を生みだすことであり――かつ、自分が納得してやっているというのが大事ということでしょう。
案外このへんもおざなりにされてますよね。
「なんでそんなことしたの?」
「だってやりたかったんだもん!」
「だからこうしろといったじゃない!」
「そんなふうにいわれても……」
みたいな。やりたかったとか、子どもかよ! 理由になってねーよ……とかわたしなんかは思うのだが。

もうそれ、縁に触れて沸騰してくる情念に振り回されるだけじゃん……と見ていて思うことは多々ある。
縁に紛動されてるだけじゃないの?……みたいなね。
目的観を鍛えていかないとですね。



ルソー曰く、子ども時代にはあまり格言ばっか追いかけるのも良くないそうで。
格言というのは、非常に観念的であり、子どもはほんとうは理解していないのだとか。大人も似たようなものでしょうがね。
じゃあどうすればいいかといえば、下手で回りくどいとか、しちメンドクサイとかいわれようが、つっかえようが、どもろうが、気づいたら何度も同じことをいっていようが、自分の気持ち伝えたいことを自分の言葉で話していく。あるいはアウトプットしていくといいのだとか。
そうしていくうちに、意識してやってさえいれば、表現力や伝達力は上達はするのだから……と。
もっとも会話としてそうするなら、そういう会話をできる友人が絶対的に必要なんでしょうね。

面倒くさがらずに聞いてくれる友。もうそれだけでありがたい存在だと思えてくるわけで。
そして、こんなメンドクサイ記事を読んでくれていることも、非常にありがたいわけで。


♪モキュ モキュ りんごターイム!
って――この方、MrSuperMOQ さん、すっげー楽しそうに生きてて、動画見てるだけでこっちも楽しくなる。
声、キモイ……とかいろいろコメントされてるんですが、それも楽しみつつ、ありのままの自分で、いい感じなんですよ。

そんなこんなで、写真集『うさぎのモキュ様』まで出してしまったというね。

そしてどうでもいいことかもですが、わたしがかなりファンだったアナウンサーの杉崎美香さん。
結婚して子ども生まれてるの知って驚きましたー!
でも、幸せそうで、なんだかこっちも嬉しくなったわけで。生後3か月になって、人見知りしまくってるとか。

モキュもImaiさんも、赤ちゃんも美香さんもかわいいわけで。


再び『エミール』の内容に戻って――。
第三篇、つまり12歳〜15歳の期間に必要な読書は、ダニエル・デフォー『ロビンソンクルーソー』一冊だけで充分だとルソーはいっている。
無人島で一人暮らして、自分に出来なおかつ有用なものはなにか? ということをまず問うべきだということが大事なのだと。

その後、社会にでて覚えることは、自分に出来ること+道具をつかって出来ること、または誰かと協力しなければできない事をみきわめる下地を、こうした本で養いなさいということになろう。

ということで『ロビンソンクルーソー』も読みたいわけで。
そしてこのタイトルは先生が『若き日の読書』のなかで推薦している1冊でもあるわけだ。
じじじ、時間が足りない! じじじじ、時間が欲しい!!
そして老眼が辛い……。

あと上巻を読んでこれだけは伝えておきたいというのがもう一点ある。
それは、欲望と出来ることのバランスを保ってさえいれば、人間はそれほど苦痛を感じないということ。
大人になればなるほど、欲望は肥大化するのが普通。想像力も妄想力も膨らみますからね。しかし、一人の人間に出来ること、一人の人間の持っている力や時間は有限なわけで。それゆえに、自分の力量より欲望のほうが大きくなる。これが不幸を感じる原因である、と。

つまり、有用なこと出来ること、物理的限界などを考察して自分の力量にあった程度に欲望を制御することが大事であるとルソーはいっているわけで。
簡単にいえば「自分がいま出来ることをする」「なるだけベストを尽くす(でも6割勝利でいい!)」「無理し過ぎない」とでもいえばいいでしょう。
自信過剰、過度な自分や他人への期待、そして完璧主義こそが苦しみのもとである、と。

いえば完璧主義などというものは、欲望どおりにいかないと、これは運命なんだ……とかいう諦めに陥るということでもある。自分の出来る範囲、この世界(宇宙)の法則を知っていれば、例えうまくいかなくとも、なにか人知を超えた運命とかいうものには抗えないのか……といった妄想や観念に憑りつかれて絶望することもないわけだ。

重力の法則がいかなるものか知っていれば、飛行機事故にあっても、たまには墜落するんだよと受け入れられるわけで。それを殊更に「俺の運命はこんなんじゃない!」とかいってるのは愚かなことなのです。
地震や自然災害もある意味ではそういうことなのですが、これは依正不二(主体である人間と客体である環境は一体不二)という観点があるので、すべてを受け入れるわけにはいかない部分もあるのですが、ある意味では受け入れるしかないのでしょう。
自然災害のほとんどは人為的災害だということに気づいていれば、受けいれがたいということですし、自然災害は人為的に避けることもできるということなんですがね。

ああそれから、主観的な感受性・判断力を養う時期には、他人と比べるのではなく、昨日の自分より今日の自分、今日の自分より明日の自分という観点を意識させてあげなさいとも語っていた。
まさにこれ、仏法の思想。
そんなことからも『エミール』が単に子どものための教育論ではなく、自分自身に生きるための教科書であることは伝わるのではないだろうか。

ipsilon at 16:38コメント(0)ルソー『エミール』 

2016年10月22日

素晴らしい! 完璧すぎる! いうことなし! だからギリシャ古典を読むのはやめられない。
以下に読書メーターにアップした感想を。

ネタバレ シェイクスピアも霞んでしまうギリシャ古典戯曲、畏るべし! アリストテレスが絶賛したのが肯ける完璧さ。人は運命に抗えるのか? 真実を知りながら隠したテイレイシアス、察しながら刹那に生きようとしたイオカステ、真実の一部を知っていた羊飼い、そして徹して真実を追求しようとしたオイディプス王。人々の現在・過去・未来が交錯する三叉路に立ったとき、運命の輪は完成する。世界の表層を知り、国に平和をもたらせ勝利と栄光に輝いたとしても、汝自身のこのこ世の使命とは何か? をしらなければ悲劇は必然だとソポクレスは物語り、歌う。

運命は避けられないものか? 答えは否と読んだ。なぜならオイディプスは過ちを犯しているからだ。思慮のない怒りを発し、権威を奪われることを恐れ、権力をかさにきて脅したのだから。真実を追及するのはお辞めなさいという忠告に耳を貸す賢明さがあれば、彼の運命は違ったものになったはずだ。真実を知ることより、今ここに平和をもたらそうとする現実を優先するのが王となるものの宿命であり使命ではないだろうか?


古典戯曲でありながら、法華経にも見られる韻文からなる本編の間に、詩歌を挟む形式は極上の美といえる。

正しい人間は「時」のみが良くこれを顕すものであるから。これに反してよこしまな者は、ただの一日にしてあなたの前に、その正体を暴露するであろう。

最近、読む本の選択に大きな影響力ともなている、100分de名著でも紹介されている。
100分も見てられねーという方は、ここでもどうぞ。

最後の数行が凄い! 全身の毛がゾワゾワするくらい鮮烈!

何もかも、思いどおりにしようとのぞんではならぬ。かちとった支配の地位も、生涯あなたを見すてぬものではなかったのに。

されば死すべき人の身は はるかに最期の日の見きわめを待て。
何らの苦しみにもあわずして この世のきわに至るまでは、
何びとをも幸福と呼ぶなかれ。


真実を語ることが必ずしも正義とはいえない。
真実を知り、公にあらわすことで、自分も周囲全ても不幸にすることもあるのだ、と。
つまり、運命にうち勝って生きるということは、己とその周囲の運命を知っても、決して口外せず、たった独りで地獄の苦悩を抱きつづけなければならないのである、と。

冒頭にでてくるオリーブは平和の象徴、月桂樹は勝利と栄光という隠喩であろう。
かつて平和であったテーバイが旱魃、死産、疫病に見舞われているのに、個人的な真実(出生の秘密)を追求したのがオイディプス王。
王となった使命を忘れたがために、彼とかれを取り巻く者たちに悲劇が訪れたのだ。

完璧な善を目指そうとしても、それは独善であり、極悪と表裏一体なのだ。
ものごとを全て正邪善悪だけで見たり、自分個人の幸福と国家や民衆の幸福のどちらが重要かも弁えず、我が行動を選ぶと、世界に悲劇をもたらすという寓意がなんとも見事。



出生の秘密とかいってもね、しょせん過去は過去。
そんなもん知ってももう変えられないんですな。
よってオイディプスの産みの母であり、妻であるイオカステちゃんのいってることが正しいの。
「忘れておしまいになってくださいませ。何もならぬことでございます」
これが正しいのじゃー!

んまあ、オイディプス王の正義を追求する完璧主義な気持ちもわからなくないんだけどねぇ。
はぁーやるせないことこのうえなし。


現代人もまた、運命としてあらわれている、生命の法則を知らないから、これを偶発的なものと考えるのであって、根本的な生命の法を知ったとすれば、ごく当たりまえのこととして理解できるようになるはずではなかろうか(池田大作『私の人生観』)

汝の運命の星は、汝の胸中にある(シラー)

ipsilon at 07:32コメント(0) 

2016年10月21日

ようやく第二篇を読みおえた。内容は濃く、一つのものごとを多角的に説明するルソーなので、正確に理解するのが大変だった。
ともあれ、抜き書きながら、思い出しながら、記事にしていってみようと思う。


自分の意志どおりにことを行なうことができるのは、なにかするのに自分の手に他人の手をつぎたす必要のない人だけだ。そこで、あらゆるよいもののなかで、いちばんよいものは権力ではなく、自由であるということになる。
一応この第二篇は、少年期という時期について書かれているのであり、具体的には言葉で観念を伝えあえない時期にあたる。実際はかたことを話すようになってから、12歳までということになっている。
しかし、抜き書いた部分を読めば、『エミール』の内容が、「子ども」の教育についてだけではなく大人、ひいては人間一般にまで当てはまることは推察できるだろう。


大人は教育によってそこなわれた子どもにほかならないのではないか。それこそまさに防止しなければならないことだ。子どもに対しては力を、大人にたいしては道理をもちいるがいい。それが自然の秩序だ。賢者は法律を必要としない。
誤解すべきでないのは、「力」という語句の意味である。ここでルソーのいう力とは、自分の能力でできる範囲のことを指している。つまり、少年期に自分の力で出来ること、できないことを体験をもって学んだ子どもは、後にそれを言語化し、自ずから道理を見極められるということになろう。
つまり学問とか書を読むということは、豊かで自然な感受性を訓練しえたあと、それを言語にし、観念としていくための学びであるということになる。

それにしても、最後の一文はじつに名言であると思う。なんでも法律にして解決しようとする世相になりつつあるし、実際公明山口代表はそう公言して憚らなかったわけだ。
道理をわきまえた政治家の出現こそ、戸田先生・池田先生が出現を願った政治家のあるべき姿である。だがしかし……というわけだ。


一人の人間をつくることをあえてくわだてるには、その人自身が人間として完成していなければならない、ということを忘れないでいただきたい。


あらゆることにおいてあなたがたの教訓が、ことばによってではなく、行動によって示されなければならないということを忘れないでいただきたい。


子どもにふさわしい唯一の道徳上の教訓、そしてあらゆる年齢の人にとってもっとも重要な教訓、それはだれにもけっして害をあたえないということだ。よいことをせよという教訓でさえ、右の教訓に従属していなければ、危険で、まちがった、矛盾したことになる。
上記3点は、是非もないことだ。


いそいで獲得しようとしないものはきわめて確実に、そして速やかに獲得される。
幼いうちに色々教えたほうがいい。ルソーはそれこそ間違いだと断じている。言葉への観念がまだしっかりしていない少年期に無理やり言葉を教えることは、かえって子どもがもつ自然の観念を歪めてしまうのだと、繰り返し述べている。だから、寓意のある絵本を読み聞かせる必要もないし、ましてや読んだあと、この物語にはこういう教訓があるなどと語り聞かせることは、害悪しか残さないとルソーはいっている。

やりたいように、やりたいことをやらせとけ、乱暴なようだがルソーはそれが少年期の教育の大前提だと断じている。
もちろん、放置しろといっているのではない。傍にあって危険なものは片付けておくとか、決して支配と従属(これは後に依存や共依存という形の害悪となって現れ、自主自律、独立心を阻害することになる)を感覚的に憶えさせてはいけない、そうした点にもきちんと触れている。大事なのは言葉という観念でものを教えるのではなく、子ども自身が体験を通じてものごとを知っていくことなのだと。
教育が大事なのではなく、本人自身が「知っていく」ことが重要なのである、と。

またここでいわれている観念というのは、Aに対してBはこうした作用や働きをしているといった関連性や関係性、また相対性を指していわれている。つまり、少年期の子どもというのは、これは林檎である。これはナイフである。これは触ると危険であるといった思考と感受性がほとんどなので、林檎の皮をむくにはナイフは有用であるが、使い方をあやまると、怪我をして危険であるという関連性の部分までは理解できないので、そうしたことを無理じいして教えることは、子どもの自然な感受性を歪め、混乱させ阻害することになるといっているのだ、と。

なにもこれは子どもに限ったことではなだろう。しかし、残念なことに、少年期に周囲からこうした観念教育をうけてきた大人は、既に感受性が歪み、混乱しているわけだから、ものごとを道理で見ることができなくなっているのだ。そして、その歪みを矯正するには、12歳までの少年期と比較して、単純に二倍の期間を要すると考えてみても、24年かかることになるわけで……。
つまり、焦って教える(知る)ことは有害という意味を、ここではっきりさせているのだ。
そしてまた、少年期に受けた自分の歪みを意識せず、矯正しようとしない大人は、どうしようもない不自然な人間であるといっているのだ。


ここまでで、とにかく体験をもって感受性を育てることが最重要ということをルソーは述べている。そしてここから先は、実際にどのように感受性を育てていけばいかを、具体的に述べてゆく。

しかしその前に、ルソーは重大なことをいっている。
そのことは、100分de名著をご覧になれば、詳しく説明されている。
だが、この番組はルソーの言葉をいささか歪曲しているので注意がいるだろう。
ルソーは観念として、「所有」の概念だけは教えなければならないといっているのであって、番組内でいっているような「正義」といった言葉は一度も述べていないということ。あくまでも「所有」であることは注意が必要である。
テレビ番組とか、副読本の害悪はこういうところにある。著者がいってもいないことを、いかにも書いてあるように伝えてしまう。だから、正しく知って思考するためには、原著を読むしかないということになるのだが……。

しかし、ここは深読みするととても重要な観念を教えるべきだとルソーはいっているのだろう。
それは、番組の例え話に出てくる、エミールと先生、そして園丁の関係だ。
(本の中では庭師ではなく園丁という言葉になっている)

ようするに、園丁を自然、そう捉えてみるとわかりやすいだろう。人間は自然の一部であり、その一部を借りてなにがしかを所有しているのだということである。従ってここでは、ソラマメを育てるにしても、自然の法則に反する行為であれば、ソラマメは滅茶苦茶にされる――自然災害に遭う――という自然の摂理を述べていると考えられるだろう。
所有といっても、人間に許される所有は自然の摂理の中で許される範囲であるということになろう。

もちろん狭い範疇で見れば、自分と他人のあいだの契約や約束ということも教えているのは確実だろうが、どちらかといえば、ルソーの述べていることは自然の摂理の中での所有という概念を伝えようとしているといえるだろう。

また、番組中で語られている、ルソーは「褒めることを推奨していない」という解説も眉唾ものである。
ルソーは繰り返し述べている。支配と服従の関係を作ってはいけないと。このことはきちんと言葉にもされており、褒めることで子どもは「服従」を憶え、褒められること――つまり媚びること――をしようとしはじめるから、褒め過ぎてはいけないとはっきり述べている。
大事なのは子どの自発性をもっとも尊重することであり、周囲が褒めることで自発性を阻害するなら、必要以上に褒めなくてもよいといっているのだ。



人間の悟性にはいってくるすべてのものは、感覚を通ってはいってくるのだから、人間の最初の理性は感覚的な理性だ。それが知的な理性の基礎になっているのだ。

非常に大事部分です。わたしが何度もいってきた「感受性を高めあう」というのは、結局はこういうことなんですけどね。もっと端的にいえば五感をフルに使う。そしてそうしたことが出来ていないなら、知的な理性はその上にのっているのだから、いくら学問や教養を蓄えても意味がないということだ。

ルソーはこのあと、触覚・視覚・聴覚・味覚・臭覚それぞれについて、また二つの感官の併用法について、非常に細かく述べている。


感官を訓練することはただそれをもちいることではない。感官をとおして正しく判断することを学ぶことであり、いわば感じることが学ぶことだ。わたしたちは学んだようにしか触れることも見ることも聞くこともできないからだ。
五感を使えばいいってものではない。それをどう使うか? 何のために使ってるのかが大事であり、正しい使い方もあるわけだ。


人間は三種類の声を出す。それは、話す声つまり音節のある声、歌う声つまり旋律のある声、それから感動的な声つまり強調の声だが、この最後の声は情念の語ることばで、これはまた歌や話を活気づける。子どもは大人と同じようにこの三種類の声を出すが、大人のようにそれらを混ぜあわせることはしない。

五感の使い方は、声の部分にある極々一部しか抜き書かないが、ここは驚くくらい詳細にわたって述べているので、もう読んでもらうしかない。
そもそも、こんな記事でなにがしかがわかったつもりになられては困るのです。

細かく言えば、人間は視覚をもっとも使っているが、視覚こそ最も錯覚を起こすものであるから、できれば触覚(皮膚感覚)と併用して視覚のもつ錯覚を見抜くべきであるとか。
味覚と臭覚を比べると、臭覚の機能は非常に弱いだとか、聴覚をもちいて音楽に対する訓練をすべきなのに、楽譜を習わせることでかえって聴覚と視覚の関係に混乱をもたらすことは愚かであるとか。
肉食は本来人間の自然性に逆らっている。犬にさえ素手で勝てない人間が、それより大きな牛や豚や羊を食う事が自然に反する。どうしてもそうしたいなら、素手で捕獲できる動物だけにしろ。また解体も自分でやってその気持ち悪さを知ったうえで食えとまでいっている。

なぜかなら、ライオンのような動物は、自らの肉体を使って狩猟し、肉を砕いて食べているのだから。それが自然なことだから、と。
だから、人間はもともとは草食動物なのだ、と。
木の実とか食ってればいいんだ! などなど。素手じゃ犬にも勝てないくせに、なにを偉ぶって肉を食わない豚や牛を殺して、しかもそれを食ってるんだ? 人間は彼らを二重に辱しめているとまでいっている。

いささか、そこまでは……理想論すぎます! ともいいたくなるが、いっていることは正論であり、なかなかに興味深かったですよ。

なぜ食べ物の話になるのかといえば、健全な感受性は、健康で頑丈な肉体でないと育たないし、またその能力を発揮できないのであり、その頑丈な肉体を作るのは、食物であり、食べることに他ならないからという流れで、ルソーはこういった話をしているのです。しかし、そこだけ抜き書くと、なにやらルソーは菜食主義の変わったおっさんみたいに見えるわけでしょう。


恩師戸田城聖先生に師事してからも、この『エミール』は、先生と私のあいだで、幾度となく話題になった。
そのときの会話の一々は覚えていないが、戸田先生の恩師牧口常三郎先生もまたルソーを愛読されていた話を伺ったことがある
(池田大作)

因襲の久しき教育と云へば、自ら知識の伝授と心得たのは邦の東西を問わぬ状態で、おもえば希臘ギリシャの昔、ソクラテースが知識は伝授することはできぬと道破して居たのであるが、今に尚ほ此の謬が改まって居らないのによる。入学試験制度の結果といふ事も出来やう(牧口常三郎)
『若き日の読書』より。


ここで牧口先生のいわれている知識の本意はもちろん「智慧」のことである。

ipsilon at 13:22コメント(0)ルソー『エミール』 
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