2016年11月

2016年11月30日

そういえば、ワグナーの代表的なオペラは一応把握したいと思ってはじめたことが中途半端になっていた。
『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』までは全曲聴いて、『トリスタンとイソルデ』はハイライト的な聴きかたをして止まっていた。

とはいってもひとつのタイトルの楽劇の内容を把握して鑑賞するだけでもう大変なわけで。
しかし、久しぶりに『ニュルンベルグのマイスタージンガー』でそういうことをした。そして感動した!

あらすじはここを読んでもらえばいいだろう。

なんというか登場人物の名前や設定が素敵です。
まず騎士のヴァルターは「支配する」という意味のある名前です。別の読み方をすれば、ゲーテの名作「ウェルテル(Werther)」になるわけで。そしてワグナーがこの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』を作るきっかけになったのは、実在したハンス・ザックスを復興させたゲーテの詩『ハンス・ザックスの詩的生命』だそうで。

しかしワグナーもただものではなく、本当に設定がうまい。
ザックスは靴屋の巨匠(マイスター)なのだが、このオペラには数々の巨匠が現れるわけです。書記官、毛皮屋、石鹸屋、靴下屋などなど。
そしてザックス親方の場合、幾人かの弟子がいるという設定になっている。つまりそれは、ザックスが「人間としての巨匠」(人間を育てる人間こそ巨匠と呼ばれるにふさわしい)という位置にいることが窺われるのだ。そして彼の弟子の数は12人。つまりキリスト12使途を暗示しているわけです。

そして悪役の書記官、この職業設定も面白いですね。ワグナーがいわゆる学者や言葉を弄する人種は簡単に嘘をつくと見ていたことの現れでしょう。

で、ヒロインのエーファ。ようはエヴァ、違う読みでいえば彼女がキリスト教で最初の女・イヴ(Eve)の象徴であることは明確。


ともあれ、騎士ヴァルターは歌合戦に挑むことになるのだが、職業が騎士なんだから、歌を規則にのっとって歌うとか無理なわけです。
そこで靴屋の巨匠ザックスに習って、最後は歌合戦に勝ち、見事エーファと結婚するというのが、あらすじなのですが、ここには重要な意味が隠されているのだろう。

民衆がそれぞれの仕事で自分の技を磨き、騎士は騎士として、愛する女性のためは命を賭してもいいという戦いを「剣や力」ではなく「芸術」である歌で行うということ。
無論それぞれの職種の人々もそうして社会の中で「力」ではなく「自分の仕事」をすることで戦いに勝ち、人生を謳歌しているのが、ワグナーの描いた理想郷、ニュルンベルグとなっているわけだ。

だからある意味この作品にはそれまでワグナーが描いてきた王様や家臣といった、いわゆる権威権力者や政治というものは表現されていない。つまりワグナーはこの作品で政治や権威による支配ではなく、自分の仕事をやりきり、自分との戦いに勝ったものが――自分自身を支配したものだけが――幸福に暮らし、そのことで得られる最大の報酬は愛し愛される夫婦となることだと物語っているのだろう。愛し愛される人間一家の一員になることこそ至高である、と。

別のいいかたをすれば、歌心・詩心のある巨匠(マイスタージンガー=歌い手の巨匠)になることが、人間としての生命の謳歌であると、ワグナーはいいたかったのではないでしょうか。
そして落ちる恋愛も(互いに)ひとめぼれという形で、欲得という穢れのないままでという贅沢さ。
この辺りはワグナーのあいかわらずな処女信仰が如実に現れていますね。
これはもう『さまよえるオランダ人』にしても『トリスタンとイゾルデ』にしても、ワグナーお得意の設定なわけで。
だが、実際のワグナーは好色家だったらしいんですけどね。

ともあれこうした設定ゆえにこの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、「芸術と革命」のオペラといわれているそうだ。
もちろん革命とは政治転覆などを目指すものでもなく、暴力革命でもなく、それぞれがそれぞれに見合った生き方をして、それぞれがそれぞれに幸福になっていける社会を創りだすというワグナーの理想が描かれているわけだ。その代表として、音楽と歌、そして誰もがお世話になる靴、また一番大地に近い靴という職業の巨匠を代表として、主人公・副主人公にしたのだろう。もちろん主人公は靴屋の巨匠ザックスである。

この大地に近い足を香油で洗ってあげるとかいう挿話はキリスト教では有名なことですよね。
もちろん仏教にも弟子や門下になることを希望する人びとが釈尊の足元に拝跪したとかありますがね。
つまりは、本来人を敬うということはそれぐらいの心があってしかるべきだと、イエスも釈尊も伝えてきたということなんでしょう。
昨今じゃあ、俺の足でも舐めとけ! とか、あるいはケツでも……というように、下品な感情を表現するパターンでしばしば見受けられますけどね。

そして日蓮大聖人も法華経の一節を引かれて、「当起遠迎、当如敬仏」(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし)と教え。先生は、「これこそ、日蓮大聖人が『御義口伝』で、「最上第一の相伝」とされた」と語られているわけで。
わたしも時どき馬鹿だ阿呆だ書いてきましたが、最近はホント、そういう言葉を口にすべきではないと自分を厳しく戒めていこうとしてますよ。無論ため口や読み手がフザケと感じるような表現にも注意をはらっているつもりはある。
本当は文章も「です・ます調」にしたほうがいいのでしょうが、これからも小説を書くということを考えると「だ・である」で書いていきたいなとか思うわけで。それに「ですます」というのは、どうも他人行儀というか慇懃無礼というか、冷たいというか、距離をあけようとしてる印象がするから、あまり好きじゃないんですな。
もっとも、時々は「ですます」と「だである」が混ざってるという禁じ手もやってしまってるんですがね。

そうそう戸田先生の指導には、足で直接踏んでいる床に御書とか経本とかを何も考えずに置くな! という指導もありましたね。その足でトイレとかにもいくんだろ? だったら何も考えずに大切なものを床に置くというということがどういうことかわかるだろ? というようなね。
わたしは子どもの頃にそういう話を母から聞いて躾られてきたので、会合で大白を丸めてたり、御書や経本や数珠をさりげなく床に置く人とか見ると、凄く厭だったもので。今もそうですけどね。何でも床にぽいぽい置く人とか見ると、げっそりなのですよ。


話が脱線しました――。
それにしても、ヴァルターがザックスとともに夢で見た歌を完成させてゆく場面は素敵である。
二人で夢を現実にしていくわけですからね。そしてそこには一応師弟といっていいような関係があるわけで。
ザックスは靴屋であっても、人間の巨匠として12人の弟子を持つ存在でもあるわけで。

そのザックスの弟子にダフィトという名の弟子がいるが、これはユダヤの王ダビデと同じ読みができるわけだ。
実はこういうことは第一幕の歌詞の中でさりげなく歌われている。
この辺り、ワグナーの宗教観が滲み出ているように思える。
そうそうエーファの乳母の名前マグダレーネはマグダラのマリアの「マグダラ」ですね。キリストをずっと見守り、死と再生をも見つめていたという証言者の立場ですね。
産みの親がいれば育ての親もいるわけで。社会学で見れば産みの親は実母、育ての親は社会や環境(友人・知人・ことに家族)といっていいでしょう。もちろんふつうは産みの親は育ての親を兼ねていますけどね。だから女性は偉大だし、母は凄いわけですよね。

また、ここでいっている「死と再生」ということを真面目に考えると、キリストが磔にされようが死んでしまおうが、マグダラのマリアの中ではキリストは生前と変わらずに生き続け、教えもまたもちろん生き続けていることをマリアは自分自身の中に見ることで、永遠ということを感得したと捉えることもできよう。そう考えると、自分の一生とまではいかないまでも、半生を共に過ごす夫婦、そして死ぬまで見守り続けてくれる親の存在があるからこそ、永遠普遍ということも感得できるといえるのではないだろうか。
ゆえに親は、母は偉大なんですね。若い頃はね、親ってウザイだけに思えるんですけどね。

そしてかつてのユダヤの王ダビデも今ははじめの女イヴを生んだザックス(ようはキリストの立場)に従い、そしてザックスはヴァルターを人間の王とするために歌の規則を教えていくというわけだ。
この規則もなかなか興味深く、歌っている最中に7回失敗したら失格となるという規則だというね。

こうしたことを思索しながらハイライト的に動画を見てみたのだが、いやいや感動しました。
特に山場の歌合戦の第三幕ラスト間近で、前奏曲のメロディーがリフレインするところとかね。

ちゅーことでトスカニーニの指揮で前奏曲でもどうぞ。



トスカニーニはイタリア人なので情熱的だったらしいのですが。wikiにあるエピソードを読んで大爆笑してしまいました。
短気すぎだってば!! ってね。
でも怒っても根に持たないでカラっとしちゃうところも、いかにもイタリア人ぽいですよね。
それだけ真剣だったから怒った。わかりやすいですよね〜。

以下wikiより。

非常に短気であり、オーケストラのリハーサルの際には怒鳴り声を発することは頻繁にあった。戦前に出演したバイロイト音楽祭では、オーケストラが一音出すたびに「ノー、ノー!」と怒鳴るので「トスカノーノ」というあだ名を付けられていた。しかし当時のオーケストラ団員は仕事に対するモラルが低く、各々が好き勝手な譜読みをしたり、リハーサルを勝手に休み他所でアルバイトをするような者もいた。指揮者が理想どおりの音楽を表現しようとするためには厳しい姿勢を示す必要があった。トスカニーニの癇癪も計算の内で、弛緩した雰囲気に活を入れるのが目的であった。オーケストラが指示通りに演奏すると怒ることはなく、リハーサルは極めて短時間で終わった。

リハーサル中に激怒すると、指揮棒を折る、スコアを破く、インク瓶や懐中時計を地面に投げつける、譜面台を壊したりするということもよくあり、コンサートマスターの指を指揮棒で刺してしまい、裁判沙汰になったこともあった。しかし一通り暴れ終わった後は平然とした顔で「それではリハーサルを始めましょう」と何喰わぬ顔でリハーサルを始めた。また、いかにもイタリア人らしく激しく怒っても翌日には忘れてしまい、まったく後に引くということがなかった。翌日も怒りが残るジョージ・セルとは対極をなし、常日頃からオーケストラの団員との会話を図るなどして人間関係の維持には心を砕いたので憎まれるようなことはなかったという。


ははははー、豪傑!!


ということで、ワグナーのオペラ探求も残すはあと3つ!
はじめての作品『リエンツィ』、『パルジファル』、そして15時間とかある『指環』四部作ですね。
先は長いな……。

あ、ちなみに『ニュルンベルグのマイスタージンガー』は全幕で4時間半くらいの作品です!


そして『ローエングリン』の所感はここ。
『ローエングリン』を予習するはここ。
『さまよえるオランダ人』を読み解くはここ。
『タイホイザー』はエロすぎますよ。はここ。
言葉に出来れば音楽なんていらんのです。(トリスタンとイゾルデ)はここ。
でもってワグナー作品の原典となったのが、ベディエ編『トリスタン・イズー物語』ですね。

記事を読みかえしてみて、よくこんな熱中して鑑賞して記事かけたなあと自分で自分に唖然とした。
でもそういう熱中がある意味大事なんだと思うんですがね。

そして『ニュルンベルグのマイスタージンガー』のファイナルシーン。

やっぱり楽劇は生で劇場で見たいですね!

うーむ、英語の字幕があるだけでもありがたいぬー。意味が心にしみ込んできて泣けた!
なんだよー、エーファめ。最後にパパに月桂冠を捧げるとかよー。涙腺破壊する気かよー!

Our Masters have nurtured Art cerefully, their own way
われわれのマイスターは慎重に芸術を育んでゆく、それぞれ自分の道で。

つまり自分自身に生きることが素晴らしいという歌詞。
そうしたそれぞれの道は、例え貴族であろうと王侯であろうと、他人が進むべき道を知ることはできない。
自分を取りもどせ、ドイツという国にあっても真実にあっても。ドイツにはドイツの征くべき道がある。他国にそうしたのりなど知りようがない。それを取りもどすのだ!(日本には日本の平和貢献の道があるのだ。米国にごたごたいわれる筋合いじゃーないんだ! 誇りを取りもどせ!)
――invoke !  再生を、復活を、ルネッサンスを、ありのままの自分であることを呼び覚ますために、目覚めるために、誇りのために祈るのだ!

そう歌ってるんですな。


全編の動画もありますので、見たい方は「Die Meistersinger von Nurnburg」で検索してみてください。ここじゃなくて You Tube でですよ!
古典的演出もあれば、近現代的演出もありますよ。
わたしのお勧めはやはりバイロイト版(古典演出)ですね。

歌詞はここにあります。
というか、この「オペラ対訳プロジェクト」のサイトの管理人さんは凄いですよ。個人で訳してくださっているというね。その情熱に感動して、ワグナーものを観はじめたときに敬意を表したくてリンク集に勝手に入れさせてもらったんですけどね。

自分はオペラが大好き! そして詩を知りたいんだ! そういう個人的な探求心・向上心がサイトという“カタチ”になっている。そしてそのことで多くの方が情熱に触発されより作品を深く楽しみ価値を見いだしていく。
これこそまさにワグナーの思い描いた理想郷「ニュルンベルグ」という善き社会なんだと思うのです。
これこそ本当の意味で、自分らしく生きることが利他行為に繋がっているよき見本だと思うわけで。


校閲したり誤字脱字のチェックをしながら追記しまくったのですが、最後にひとつ。
ワグナーの作品にはどれにも人間が必ず生命の奥底に秘めている「迷妄」を暗示的に語っているのだそうで。
しかしその迷妄があるからこそ、そいつを打ち破ろうとする「向上せんとする魂」も湧きいずるというね。
そのためにはどうすればいいのかを、ワグナーは生涯をかけて楽劇作品を創りながら突き詰めていったのでしょうね。
ワグナーは、MeisterKunstler(マイスタークンスター=芸術の巨匠) だということですね。

―― Bravo ! !

ipsilon at 13:02コメント(0) 

2016年11月29日

「青年」てなに? と聞かれて、それはこいう意味だよと自信をもって答えられる人はどれくらいいるだろうか?
かくいうわたしも、明快に迷うことなく「こういう意味だよ!」とは、どうやらいいきれない。

ということは、青年とは未だ成熟していないとか、捉えどころがないという意味になるような気がする。
もっとも人間は死の瞬間まで未完成を生きていると考えれば、たとえ老人と呼ばれる年齢になっても青年でいられることはできるとこいえるだろう。

そうなると、その人なりに人生哲学を築きあげつづけているなら、それはもう青年といっていいのではないだろうか。しかし、世間を見ると、ある一定の年齢にさしかかると、考え方が硬直し、その人なりの「べき論」を頑なに固持している場合が多いように思える。

確かに、ある一定の年齢を過ぎて柔軟でいられるようにすることは、難しいことなのだろうが、不可能ではないだろう。そうするためにはどうすればいいか?
常に今を生きていこうとすればいいわけで。そしてそうした結論を鴎外も主人公にいわせているのが、この『青年』という小説である。

生きる。生活する。
答えは簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。
一体日本人は生きるということを知っているのだろうか?。小学校の門を潜ってというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を成し遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間にかくした一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。


鴎外にしてこうである。
これまで多くの本を読んできたが、結局幾多の人々が口にしているのは「今を必死に生きる」以外ないということなのだ。

となると「いかにいきるか?」をやはり考えざるを得ない。
だから、この『青年』という作品では、主人公の純一が自分はいかに生きればいいのか? いな、生きたいと思っているのかを日々の出来事のなかで、内向的またあるいは友人知人を観察することで少しずつ積み上げ、あるときには積みあげたものを書き換えたり修正したり、矯正していこうとする内容になっている。

しかし、その内容がとても深く、わたしなど、「さすが鴎外!」と唸ってしまったのだ。

まずはじめに現れるシーンは純一が人と出会っていく場面だ。
小説という虚偽性のあるものであっても、誰かと出会わなければ物語はかたれないわけで、そういう意味ではまず出会いありきは「普通」なことなのだろうが、鴎外はそこでも大事なことを描写していくのだ。

付き合ってはいけない人、付き合うべき人を見極めるのがまず第一だ、などと。
いわれてみればそのとおりなのだが、これは現代にあっても鴎外の生きた明治にあっても、実は思いどおりにいかないことでもあるところも面白い。付き合いたくなくって付き合わざるをえないという環境はやはりあるわけで。

しかしそうした環境にあっても、自分自身に生きて、自分自身を創りあげていくことで、結果、利己主義を脱し利他的に生きれるようになれば、それは人間的成熟であると鴎外はいっている。

自己が造った個人的道徳が公共的になるのを、飛躍だの、復活だのと云うのだね。だから、積極的新人が出来れば、社会問題も内部から解決せられるわけでしょう。

いえばこういうことを「人間革命」というわけで。
鴎外がここで「(個人の)内部から」といっている部分、また「復活」といったなにやら文脈に不似合を感じる言葉をつかっていることには実は意味があるのだが、それがほどかれていくのが「二十」章といっていい。そしてこの「二十」は非常に洗練された生きるための哲学が語られているので、是非時間のあるかたは読んで頂ければと思う。
全編となるとこれは気合いもいるものだが、一章くらいなら案外読めると思うのです。が、フランス語やラテン語が頻繁に登場するので、注釈がないと意味がとれないところもあるのですが。

ここで純一は、文学にある哲学を語りあえる唯一の友人、大村と様々語りあうのだが、一見すると二人はメーテルリンクの『青い鳥』(わたしは既読)を「唯物的」であると断じているように見えるが、実はそうではない。
彼らは『青い鳥』に唯物的側面もあれば、唯心的側面もあると論じているし、一方だけに偏って生きるのではなく、双方を包含するような生き方がいいのではないか? といったように意見が集約されていくのだ。
もちろん、それが鴎外が生きてきた間に培ってきた価値観なのだろうが。

個人主義は個人主義だが、ここに君の云う利己主義と利他主義の帰路がある。利己主義の側はニイチェの悪い一面が代表している。例の権威を求める意志だ。人を倒して自分が大きくなるという思想だ。(中略)
しかし、人の子としての我は、昔何もかもごちゃごちゃにしていた時代の所謂臣妾しんしょうではない。親には孝行を尽くす。昔子を売ることも殺すこともできた奴隷ではない。忠義も孝行も、我が領略しえた人生の価値に過ぎない。日常の生活一切も、我が領略して行く人生の価値である。そんならその我というものを棄てることが出来るか。犠牲にすることが出来るか。それもたしかにできる。恋愛生活の最大の肯定は情死になるように、忠義生活の最大の肯定が戦死にもなる。生が万有を領略してしまえば、個人は死ぬる。個人主義が万有主義になる。遁世主義で生を否定して死ぬるのとは違う。


つまり、先に抜きがいた「自己が造った個人的道徳が公共的」になっていけばいくほど、我、わたしという個人は消滅していき、自分自身に生きていても自然に利他的になっていくと鴎外はいっているのだ。
ここではニイチェもあげているが、ニイチェは唯物的な生をギリシャ神話のアポロンに、唯心的な生をデュオニソスに見ているとも語っている。

卑近な例をあげれば、親の介護のために死ぬほど苦労しようが、介護する本人が納得してこれこそわが使命と思ってやっているなら、それは個人主義ではなく、実体としては利他主義になるということだ。
政府や政党に忠義を尽くすのもよかろう。宗教団体のために犠牲になることも悪いことではない。しかしそのことで命を投げ出すことになっても後悔はない! そういえるのが本当の個人主義的利他主義であり、自分という一つのを超越した無我ともいえる大いなる生命に生きているということになろう。
換言すれば、我不愛身命 坦惜無上道という釈尊の言葉になろうし、法華経でいえば不自惜身命、また世間的な言葉でいえば、殉教の精神といっていいだろう。恋愛の肯定は情死。これは何度も文学でも描かれている「愛と死」に通じるといっていいだろう。

口では何とでも言えても、では現実政府のために、あるいは特定の政党のために、はたまた宗教団体のために納得して後悔なく死んでいけるという人はどれくらいいるのだろうか?
甚だ怪しいものである。
だから、中村哲さんのように「アフガンのためなら死んでもいい」といい、実際にそれを実践している人が偉大だと、わたしなどは確信するわけです。確信するだけで、そこまでいけない自分がいつもここにいやがる……という葛藤のようなものも、案外いつも持っているんですがね。でも持ってるだけじゃあだめ。実践しないとなんですがね。

そしてこの「二十」章では、もっと重要なことを鴎外はさらりと語っている。

日本で蘐園かんえん派の漢学や、契沖けいちゅう真淵まぶち以下の国学を、ルネッサンスだなんと云うが、あれはただ復古で、再生ではない。
――と。

そしてまたこうもいっている。

これからの思想の発展というものは、僕は西洋にしかないと思う。Renaissanceルネッサンス という奴が東洋には無いね。あれが家の内の青い鳥を見せてくれた。
――と。

ここで大村は人間関係の基本である家族の再生こそ重要だと暗にいっているのだろう。
しかし、勘違いしてはいけないのは、それは家父長制や現自民や日本会議系のいう家族ではけっしてない。
誰かが誰かに隷属し管理統括されなければならないといった「べき論」をそもそも家族というコミュニティにもちこむこと自体、すでに権威主義であるからだ。
それぞれが主体性に則り互いの領分を犯しすぎることなく、上手く依存しあっていく関係、大村のいっているのはそうした関係のことだ。いわばいかほど自分が家族に依存しているかを自覚しあっている関係といっていい。自分が家族に依存していることを自覚できていれば、自ずから感謝の気持ちが湧きあがるというのが理想だろう。
こうしたことは『青い鳥』を読めば、すぐにわかることだろう。

正直、『青年』を読んで一番の収穫だったのはこの「二十」章だ。
こんな抜きがきからわたしが感じたことを伝えるのは難しいことなのだが、わたしはこう思ったわけで。

なに、ルネッサンス? 前にも鴎外は「復活」という言葉をつかっていたが、どういう意味でいってるんだ? なになに? ほうほう、それは自己の中に(元々本来備わっている)神性を取りもどすことを「ルネッサンス」といってるのか!! と。

もうなんというか、次の句が告げませんでした。
だから鴎外は大村に、「日本にはそういう思想はない」といわせているわけです。しかし、本当にそうだろうか? 否である。日本にもそういう思想――実際には宗教――はあるわけで。
それが仏法なわけで。
実はニイチェのあげたデュオニソスという神は一応は酒の神とされているが、彼の辿った道を見てみると、みずからの神性を人々に認めさせることで、結果宗教を宣揚していた面があったりするわけで。
もちろん唯心的なだけではよろしくないのであって、学会指導でいえば、我々は「物心両面にあって幸福になる権利」を有しているわけですけどね。

つまり、わたしは先生の仰られてきた「ルネッサンス」を、凡人だけに、これまでは「復古」という意味でしか考えたことがなかったのだ。しかし、鴎外のこの一節に触れて、「ああ、そうだったのか!!」と発見し、感動したのである。
いわば、私の中でルネッサンス、再生、復活が起ったとでもいえばいいか。

仏法にある「蘇生」という言葉の意味も、凡人のわたしは、それが「我が胸中に元々ある仏性を自らの力で開花させること」とは考えられていなかったということだ。
残念なことには、鴎外が文明開化の明治人だったからか、東洋思想をいさささか見下していたからか、研究不足であったことを露呈していたことが垣間見えたことはちょっとしょんぼりさせられた。だが、それでもわたしの心の中で「神性を取りもどす」という言葉を読んだときに閃いた智慧は、やはり鴎外によるのであって。
だから、読書はやめられないのです。


また先に述べてきたような唯物・唯心、その双方をといった内容は、冒頭から意外と早い時期に違う言葉で提示されてもいたのです。「世間」「出世間」という言葉で。
でもこれ、もとは仏法用語よね……なのに鴎外さんたら……みたいな気持ちになったりもしましたがね。
まあ学会的言葉でいえば第一の文明(唯物論主体)でもなく、第二の文明(唯心論主体)でもなく、第三の(唯物・唯心の双方を包含した)文明を築こうという精神になりますやね。

しかし実際に起ったルネッサンスからはジャポニズムや東洋の思想にさえ目を向けようという流れもあったのだから、鴎外がいうように、「日本にはそういう思想はない」と短絡的にはいえないわけで。ルネッサンスは西洋的なものだけを再生したのではなく、東洋的なものをも再生させたと見ることもできるわけで。
また本当に鴎外が作中で語っているように考えていたかも疑問なわけです。小説はあくまでも虚構の産物なのだから。ようは良く考えればいいわけで、楽観主義で読めばいいわけで。


そして是非とも読んでもらいたい一章をもう一つ推薦するとしたら、「十四」と「十五」をお勧めします。
「恋は盲目」といわれるくらい、自制することが難しい情念や本能的衝動を自ら見極めていく術を鴎外が語っているからだ。
人は時に性愛や恋愛によって人生を破壊さえする生きものですしね。

簡単にいえば、鴎外は付き合うべき異性は「ありのまま」であること、付き合うべきでないのは、「欲念・情念に執着し、それを表情の動かぬ仮面として現してしまっているような人」といっている。
考えてみれば理の当然であろう。
この世にあるものは、常に千変万化を繰り返しつづけているわけで、諸行無常なわけで。だから言っていることや表情、動作に変化のない人は、何がしかに強い執着をもっていたりすると見ていいのだろう。

また、見られていることを意識していても、それを殊更に意識しないで意識して生きているような人こそ「ありのまま」であるとも語っている。
なんだかわたしが文章にするとわかりづらいのですが、鴎外の筆なるものを読めばいってることは見えてくると思うわけで。

作品ではその「ありのまま」の女性をまだ幼いお雪さんに演じさせていることも興味深い。
お雪さん! はっ! わたしも自筆の小説でそんな名前のキャラを描いたぞ! とか思いながら読んだんですけどね。

それはともかく――、子どもの状態(子ども心を維持しつづけている大人)というのは「ありのまま」に近いのだといっているのだろう。
美しい言葉でいえば、見られていることを意識し過ぎるということは「媚びている」のであって、見られていることを意識してはいても、殊更でない自然体を「慎ましい」といえばいいのだろう。
その慎ましい関係には、お互いに欲念などなく、どちらからともなく押したり引いたりしているのだが、そこには無理のない自然な関係がある。押しすぎることや引きすぎることで関係が壊れることのないものだ、といったような繊細な表現を鴎外はしていたりするのですがね。


社会のあらゆる方面は、相接触する機会のある度に、容赦なく純一の illusionイリュージョン(幻想) を打破してくれる。


結局のところ、社会的に生きるということにあって、本当に我々がなすべきことは、こういうことだと思うわけで。
だが哀しいことに、現実の社会で生きていると、少しであろうと誰であれ、幻影や妄想を掻き立てられているわけで。
しかし純一のように感じて生きれば、世間での面倒なことも、すべて自分の幻想を破ってくれるありがたい縁なわけですよね。


ありのままに生きる。
生活する。
人生にあって簡単なようで、最も難しいのはこれですよね。

信心にあって最も簡単な修行法、唱題が最も難しいのと同じ。
もちろん「信」と「行」だけではいけないわけで。「学」も大切なわけで。どれが欠けてもだめ。どれかに偏りすぎてもいけないわけで。

行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし(諸法実相抄)

一文一句とは随力弘通のこと。「今自分が出来ること」という意味であることを忘れないことも大切でしょう。
無理しても意味はないのです。変に肩に力を入れる必要もないわけです。自然体の自分、背伸びしない自分でいればいいのでしょう。

そして、こういう難題に果敢に挑んでいくのが「青年」なのでしょう。
簡単そうですが、今自分で出来ることをするのは、意外と難しいとわたしなどは思っているわけで。



青年、英語でいうと Youth ですね。
歌詞はこんなのだそうですよ。一青年の青春への独白だそうで。

ま、わたしはオジサンなので、青春とかね、もうよくわかりませんがねー。


そうそう、鴎外、こんなこともいってました。
ひとりでいるのが淋しいのではない。孤独が嫌だというのでもない。だから純一は現に二三日なら部屋で本を読んだりして不満のない生活をすることもできたのだ。しかし、一人でいるより二人でいたほうがいい、という心持ちが、不倫相手の坂井夫人のもとに足を運ばせたのである(趣意)、なんてね。

ここ、すごく共感したんです。
「淋しくなんかないもん!」とか言うと、やはり人には強がっているだけと見えるものなのだろうが、実際わたしなども、こういう感覚なんですね。
それを簡単に言葉にすると「淋しい」とか「ひとりは辛い」とかなるだけなんですよ。
ようは、一人でいるより誰かといるほうが、なにがしかの発見ができる可能性があるんですね。
自分だけで何百時間考えていても答えにたどり着けない難問をふいと話してみたら、「そういうことなら、わたしはこんな風に思うけどな」なんて一言で、分厚い壁が破れることってあるじゃないですか。

だから一人でいたくないときというのはあるんですよ。そういう時の心理状態をよく観察してみると、自問自答が行き詰った時であることに気づけると思うんですがね。

別の面でいえば、本を読んで「こんなこと気づいちゃった!」とかいうのがあれば、やっぱり誰かに話したくなるじゃあないですか。もっともそういう気持ちはある種の虚栄心なんですが、友人というのは、それを虚栄心だとは見ないで、こいつ必死に学ぼうとしてるなとか、自分が気づいたことを伝えて役立てて欲しいんだろうなと見てくれるわけで。だから友人はありがたいわけで。

しかし、そういった相手、友人には、作中でも語られているが、滅多なことでは出会えないんですね。
だからまあ、わたしなどある意味自己満足のために、こういうクソ長い記事を書いて、自分で読み返してニヤニヤしてるわけですよ。
そして、そういう楽しみがわかる人が記事を読んでくれて、何がしら得るものがあったなら、それはもう御の字ということなんですけどね。

しかし、こうした微妙なニュアンスを言葉にできる鴎外って凄いなと感心したわけです。
孤独とか淋しいとかいう言葉をつかって、このようなニュアンスを書いている作家は数多くいるのだが、こうも上手く微妙さを語ってるいるのに「俺のいいたかったのはまさにコレよ!」みたいに目が覚めたように感じたわけで。

ipsilon at 13:01コメント(0) 

2016年11月27日

11月28日 追記――。

ここの一文を紹介しようか迷った。しかし迷ったなら、迷わずに紹介するのがいい。
そんなふうに考えて紹介することにした。

ようは、徹底的に戦った者同士でしかわかりあえないことがある。そうした者同士でしか達しえない境地がある。そうすることでしか相手を認め得ないということはある、と。そういうことが戦争の後にしか――体験を通してしか――知りえないことは、実に悲しい人間の現実ではあるが、戦争においてすらそうであるということを知って欲しかったりするわけで。
だからこそ、こうした歴史を知り、起こしてからとか渦中に入ってっしまったなら取り返しようのない殺害や暴力という戦争ではなく、言論や対話という中で徹して戦い、戦いきったものだけが知れる「寛容」の境地に多くの人が達することで、実際に暴力を振るう戦争を阻止できるのではないだろうか。

(かつて敵手同士であったことなど意に介さないような)このようなムードも、そして話題も、私たちがこの本の資料を集めにまわった先々ではどこにおいても同じことであった。空軍大将をはじめとして、いろんな階級のパイロットたち、それに整備員といわず、農家の人や漁師にいたるまで、そしてイギリスでも、自治領諸国でも、ドイツやアメリカでも、みな同じだった。これらの人たちはこの決戦の記録を完璧にするためには、自分の都合など全く意に介しないで多くの時間を割いてくれた。
 かつてのあの勇壮な空の大決戦の思い出がこのようなムードをかもし出すのであろうか。取材中にトラブルを経験したことなど一度もなかった。


この『空軍大戦略』は、決して反戦を声高らかに謳っている作品ではない。
だが、静かに実に静かにして、あの空の大決戦でおこった数々の事実の証言を丁寧に述べた、静かなる反戦の書といっていいだろう。
個人的には、反戦平和を高らかに叫ぶある種偽善じみた本や、筆者の思いが色濃く現れる、ある種思想誘導するような本などより、よほど真実味があり、揺るがない反戦意識――単純に見れば、戦争とは単なる殺し合いにすぎないということ、そしてそのために何故か人間はいかなる貧窮にも耐えようとする馬鹿らしさ――そうした厭戦観を、それも静かな滔々とした反戦意識を醸成する本だと思う。

できれば、陸戦の実態をパウル・カレルの『バルバロッサ作戦(上下巻)』などで知り、空戦の実態をこのリチャード・コリヤーの『空軍大戦略』で多くの人に知って欲しいと願っている。

きちんと話そうと思えば話せるんです。
例えば、チャーチルがとった政策。英第10,11戦闘集団が疲弊に疲弊を重ね、もはや戦力とも呼べなくなっても、彼は未熟なパイロットまで投入して、10,11戦闘集団を前線に張りつけさせたという例。コリヤーはこれをはっきりと、政治的判断であると書いていた。
我が英国はいまだ前線には元気でビンビン戦える戦闘機とパイロットがいるのだ! という政治的示威行為なわけだ。
チャーチルにおいてすらそうだったわけだ。
もちろん、前線の兵士や整備員はこうした政治判断に猛反発して、一度後退させて休暇や部隊の再整備をして、リフレッシュしたあと、また前線に戻って戦ったほうがいい。それこそが道理だと訴えたわけだが、当然、受け入れられなかったわけだ。
こういうところに、戦争という手段にあっても、政治の汚さが露呈しているのだ。
無論それはドイツ軍にあっても似たようなことはあったわけだ。いなむしろ、彼らこそ身内である大元帥、“デブ”のゲーリングによって苦しめられたわけで。

政治悪は戦争すらさらに劣悪なものにして人間の精神、ひいては生命を蔑ろにするということが、この本からははっきり読み取れるのだ。政治悪というものが、いかに非道でどこをさがしても擁護のしようがないほど卑劣なものだということも読みとれるわけです。
まあ、結局のところ、いくら私が思いを綴ろうが、読んでもらえなければ意味はないんですがね。
でも無理はしないでいいと思いますよ。人それぞれ戦争に対する免疫力の違いとかもありますからね。

――追記ここまで。


著者が冒頭、感謝の辞で述べていることに尽きる。

牧場の柵にもたれながらロバート・ベイリーさんは「誰もが怪我しないという条件つきでなら、あのへんの空でもう一度あんな空中戦が見られるってんだったら、私やどんな費やもいといませんな」――に。

悲しいかな、戦争というのは、ことに空中戦というのは、どうやら人間をそうした勇壮な気持ちにさせるらしい。
それはいわば、人間の奥底にある「戦わずにはいられない」の発露のように思える。

しかし、実際にその戦いのなかにあって死を見たならば、やはりベイリー氏のような感情「誰も怪我しないという条件つきなら」という、勇壮とは相反する気持ちも抱くのだろう。

英独どちらの乗員が落下傘脱出しても、差別なく救助して丁重に扱ったという証言がある。
あの時代の人間にはまだ騎士道精神があったとコリヤーはいいながら……
脱出した乗員をなぶり殺しにしたという証言も記述し、落下傘降下中の無防備な人間を戦闘機の機銃で撃ったのを見たという証言も記述している。

漫画『エリア88』で、パラシュート脱出したパイロットをバルカン砲で撃ち殺すシーンを読んだとき、「ありえねー!」とか思ったものだが、実際にあったことのようです。
しかし、コリヤー自身は現代でも騎士道精神があると信じているようだった。

そう、所詮は人間の善性を信じるしかないんですね。
例えどんな修羅場を見ようとも。


(英国本土への)上陸作戦の中止をきいたマルティン・メティッヒ少佐がカジノにむらがる士官たちにいった。
「そんなことならいままでの戦死者はどうなるんだ。いったいどうしてくれるんだ。え?」
誰も一言も発し得なかった。


だから、戦争をするなら勝たなければいけない。違いますよね。
戦争をすれば、必ず勝つ側と負ける側があるわけで。
であるなら、負けた側の兵士はいったいどなるんでしょうね。

だからこそ、戦争などしてはいけないわけだ。
負けたにも関わらず、今の我々があるのは、彼らが必死に戦ってくれたからだなどと言ってはならないのだ。
戦わずに済む方法、敗者をつくらないで済む方法を模索し、そうした努力をしなかったことを糾弾すべきなのだ。


しかしこの邦題『空軍大戦略』ってのは、いい加減なんとかしたほうがいい気がしますね。
同タイトルで映画化されているし、名画といってものだけど、原題のほうがずっといい。
鷲の日アドラー・ターク 英国の戦い』と訳せばいいじゃない。

著者がどちらかの勢力側に偏った視点で語るのではなく、双方から戦いの実相を公平に著そうとしたという意志が原題にはあると思うわけで。
そんな訳で、映画でも最後の空中戦の部分は、ほとんど音楽だけで、ただただ空中戦を見せるという演出はなかなか優れたものだと思ったものです。

映画冒頭では、英軍機が避難する難民のうえでビクトリー・ロールをうち、難民たちが、「あいつは一体なにをしているんだ!?」とボヤク、印象的なはじまりかたなんですけどね。

しっかし、読メ登録数9、感想はわたしで2件目とかね、もう無関心ぶりにお口あんぐりとなったことだけは言っておきたいのです。

まあ、この作品だけは絶対読むとかいって、関連本、副読本まで揃えたのに、買ってからずっと積んでいたわたしが言えたことでもないですがね。

それから、英独航空戦である意味本当に英国を救ったのはポーランド人パイロットたちだったということは、記しておきたい。
303中隊が、一番戦果をあげたのだそうで。
そういう意味ではやはり「世界大戦」であったことが本書からすぐに読みとれた。ベルギー人、アメリカ人、カナダ人、ニュージーランド人……英国空軍はそりゃあもう、戦力になるなら誰でもといっていいくらい飛ばせたわけで。
もっとも、ドイツ軍にしたところで、ドイツ人だけがパイロットではなかったというね。

なんというか、そういう部分からも、戦争ってのは厭だなとつくづく思える読書でしたよ。


英軍パイロットが銃撃され脱出した。しかし墜落した機体が民家に激突。
誰も死ななかったのなら良かったのだが……。そう気にした操縦士に消防隊員がかけたのは、
「心配いらない。誰も死んでいないから」と。
しかし25年後、そのパイロットは消防士が気を配って嘘をいっていたことを知る。

実は女性と幼児が死んでいたのだ。
彼は、25年後に真実を知ったというくだりを読んでいて、もう悲しくてしかたなかった。
25年経って彼は自分の罪に気づかされたんですからね。
戦争ってのは何年もたってからさえ、その人に一生の罪悪感をもたらすわけで。

もっと悲惨な証言もありましたけどね。
脱出したドイツ軍乗員が、追尾していた英軍機のプロペラに当たって粉みじんになった……とかね。
最近はアニメなんかでもそういう残酷な描写をするようになってきましたが、これが現実にあったとなるとね。

ipsilon at 14:30コメント(0) 
はっきりいえば、ブログなんてジャンルはある意味ではもう時代遅れです。
そんなことはわたしだってとうに知ってます。

でも、わたしにはわたしにあったジャンルがあるので、未だにブログなだけ。
いえば、言い忘れや偏ったいいかたをしたくないというだけのこと。

でもね、ブログだけ見ていてはわからない流れというものがあるのは事実。
2014年の安保法制閣議決定以来、もう既にかなりの人が目覚めはじめていることはツイッターを見ればすぐにわかる。

とりあえず、ここでも見るといいですよ。
どれだけの人々が目覚め、おかしいと声をあげているかがわかりますから。
中には、それは強引すぎるんじゃない……とか、一方的な批判だけしてればいいってもんじゃないだろ……というツイートももちろんあるが、その心の奥底にあるのは「平和への希求」であることに違いはないだろう。

そしてこういったツイッターと対照的なのがブログワールド。
いまだ創価万歳な発信、あるいはアンチブログばかり。あるいは信心の話だけしていれば世の中すべて良くなる、平和になるとでも思っている狂信者ばかり。あるいは自分と自分の周囲だけ幸福であるならいいやといった空気がムンムンのものばかり。だから今の現実の世の中のことなんか露ほども語れていない腐れジャンルというわけ。

創価ブログ村を見てみればよろしい。
未だに会員同士で罵り合っている。
今そんなことしてる場合なのか考えてみればいい。

もっともツイッターでも、罵りあいはあるんだけどね。
でも、出来ればそういうのは止めたほうがいいですね。
わたしはあくまでもこういう信念で征く! それだけでいいと思うんですがね。

悪を責めるといったって、究極的には自分の中にある悪を責めるというのが「内道」ですからね。
自分の外にある悪を責めるということは、ようはそうすることで自分を浄化できていなければ悪を責めたことにはならない。

悪を責めながら苛々したり、むかっ腹を立てて、自分の中にある「怒り」を外に出してしまったなら、それは悪を増長させたことになる。こういうこと、もう3年も4年もいい続けてるんですが、未だにわからない人もいますけどね。
かくいうわたしも、そうなりがちなのが自分で一番悔しいことなんですけどね。

悪を責めるって簡単じゃあないんですな。
難しいのだ。

ipsilon at 10:17コメント(0) 
ユング心理学で語られている共時性をまじめに考えてみると、なかなか面白い結論にいたる。
すなわち、この世界にあって偶然の出会いというものは存在しない、と。

仏法でいえばすべての物事は因果の法則にのっとっている。
そして、共時性というものはふつう因果では説明できないが、どうもこれは偶発的ではなく必然的に起こったとしか思えない非因果的な出来事をいうわけである。

しかし、どうだろうか。この因果では説明できないというのは、我々が娑婆世間に見る知識や、一般常識でいう出来事から因果関係を把握できないだけだとしたら。

今日、偶然Aさんと道端で出会った。
ふつう我々はこういうことに因果関係を見ようとしない。
しかし、共時性が実は集合無意識の因果の法則にのっとっているとしたら、Aさんと偶然出会うことは必然だったといえないだろうか? 出会うべくして出会ったといえないだろうか?

当然、「無意識」の法則にのっとっているのだから、我々の意識はそれを「必然である」とは判断しないし、出会ったことに「因果関係」もふつう認めないわけだ。
しかし、仏法ではすべては因果によるといわれているわけだ。

つまり、この世の中に偶然の出会いなど存在しないと考えたほうが道理に見合っているのだ。
そこで問題になるのが、その出会いを生かしているのか? 殺しているのか? ということになろう。


ようは今朝の目覚めで、こうしたことが脳裏をよぎりながら目覚めたというわけ。

つまりはさ、出会いに偶然はない。すべて必然である。
だとしたらだよ、めちゃくちゃ嫌いな人、馬があわない人と出会うのにもさ、意味があって出会ってるってことだよね。
であるならば、その出会いの後をどう紡いでいくかが問題なんじゃね?

出会うという現象それ自体は因果であり避けられない。
しかし、人間には一応自由意志というものがあって、本人同士が(互いあるいはどちらかの一方が)「こいつとは付き合いたくない」と思えば、出会った縁を自らの力で拒否することもできるわけだし、拒否されることもあるわけだ。そうして縁を断絶しあうことは普通に起りえるわけだ。

しかし、こういった互いの自由意志がある問題であってさえ、「すべてはあなたに原因がある」みたいな言い方をする狂った宿業論を強弁する輩に、わたしなんかは随分腹を立ててきたわけだ。
双方に選ぶ自由意志があるのに、そういう部分を見もせず、考えもせずに、「すべては自分に原因があると考えよ!」みたいなね。普通に理性を働かせられるなら、そんな思考になるはずもないんですがね。
まあ残念なことです。


ともあれ、我々の普段の出会いは必然であり、なんらかの意味があって出会っているということを意識しないでいると、単に個人の好き嫌いだとか相手への印象、はたまら利害や損益というくだらないもので、その出会いを無駄にしているのであり、時には必然の出会いであるにも関わらず、相手を敵視して遠ざけるようなことをしているわけだ。
そんな愚かなことをしつつ、「あたしは悪くないもん、悪いのはあっち」とか平気で言っているわけだ。

考えてみると、わたし自身もまた、半ばではあっても目覚めるまでは、そういう生き方をしてきたわけで……40年以上もね……。なんとも情けがない。

先生が「一期一会」を大切にされてきた理由はこれか! とはっきりわかった気がしましたよ。
もっともわたしの側がどんなにこうしたことが真実であると思って生きたとしても、現実には相手にもそういう意識がなければ、必然の出会いを価値あるものにもできないということなんですけどね。
だとしたら、「私は私の道を征く。あなたはあなたの道を征くがいい」、もっといえば「人は変われど、我は変わらじ」という生きかたを貫き通すしかないわけで。

いえば、福運というのは、そういった意味ある出会いをたくさん引き寄せる力。もちろんそれは自分の中にある。縁を自分の外側にあるものと見ている人もいるようだが、それは既に「内道」ではないわけで。
そして、そうして出会った縁をいかなるものにしていくかは、わたしとその出会った人の自由意志にかかっているというわけだ。
しかし、その互いの自由意志があることを無視して「全部あなたに責任がある」とかいう理不尽な宿業論をいうのが、狂信者ってわけですね。
そしてそういうもの言いは、いわれた相手を卑屈にさせ、「全部わたしが悪いのか……」という自己卑下、先生が最も陥ってはならないという自己卑下に陥れるわけだ。

いっくら福運があってたくさんの出会いをしていても、間違った思想や哲学にもとづいて関わりあっていれば、出会った意味を互いが汚しあうことになる。
だから福運も大事だが、それ以上に正しく生き、正しく関わりあうための思想哲学はもっと大事なのだといえよう。

まあ、共時性については何度も経験してきたこと。
例えば、「なんで今この本を読みたくなったかわかんね……」という気分でその本を手に取ったとしても、あとから、「ああなるほど、今読むべき本だったんだね」という意味が薄々わかってくるとかね。

信じる信じないは個々人の勝手ですがね。
もっともわたしは、この共時性ってのは集合無意識あるいは自己の無意識による因果であると確信することにしますけどね。

それだからこそ、出会ったあとにどうするかという自由意志が非常に重要ということに気づいてしまいましたからね。とはいってもその自由意志は互いにあるものであり、相対的であり、ある意味では自分の思い通りにはならないともいえますがね。


考えてみればいい。
大聖人が日興上人に出会われたのが偶然であるのか? と。
戸田先生が牧口先生に出会われたのが偶然なのか? と。
池田先生が戸田先生に出会われたのは偶然なのか? 先生が奥様に出会われたのは偶然なのか? と。
そして我々が先生にめぐり会ったのは偶然なのか? と。

もちろん、先生にめぐり会ったから、それだけで幸福などではない。
その先生とめぐり会ったことで、自分がどういった自由意志を働かせるかが重要なのである。
先生の仰せのままに生きるのか? あるいは我見によって反逆するのか? はたまた仰せに従っているつもりで、かえって先生を貶め汚していくのかは、我々一人一人の弟子の自由意志に任されているわけだ。

だから御書にもそうある。
よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず(華果成就御書)

愚かな弟子となって師匠を地獄に堕とすような弟子にだけはなりたくないものですね。
そんな弟子は、不知恩極まりなしですからね。



この歌詞は目の前で起こっている理不尽なことが共時性によってであると気づけづに、怒りを抱えて生きている愚かな人間を歌っているんでしょうね。
できれば、こんなふうに自由意志を働かせるべきではないんでしょうね。

せっかくの意味ある出会いに「怒り」を用いる、これじゃあ地獄で生きたいと自由意思を表明してるのと同じ。

ipsilon at 09:13コメント(0) 
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