2016年12月

2016年12月30日

あまりにも有名な言葉だが、うっかりイプシロン。これの意味なんかも、今日のこの日までちゃんと考えたことがなかったことに気づいて我にかえった年末です。さすが自称「うっかりん」だけある!

「働かざるもの、食うべからず」というのは、wiki によると、もとは聖書にある言葉なんですね。

新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節。
If any would not work, neither should he eat.

ようするに何がいいたいかというと、なーんだ、これもまた「超訳」だったのかよーということを認識したということなですね。

「働かざるもの、食うべからず」の本当の意味は――
働ける状態状況にあって、怠けて働こうとしないものは、食ってはならぬという意味。
簡単にいえば、仕事をもっているのに、あるいは仕事が出来る状態にあるのに怠けるようなものは、食う資格がないということ。
病気をしたり云々、働きたくても働けない状態状況にあるのに、働けという意味ではないということだ。

なぜ、こうなってしまったのかにも原因はあるらしいが、詳しくは wiki を見てもらえばその辺のことはわかるので、細かい説明は省きますけどね。


これと同じように、「目には目を、歯には歯を」も間違って覚えている人が多いんでしょうけどね。
これの原典はハンムラビ法典。
本来の意味は、何か行動をおこすとき、その行動の責任は最後は廻りめぐって自分に帰ってきますよ。だから、行動を起こすまえに、よく考えなさいという意味。
ようするに、犯罪防止への呼びかけの言葉だったのが、昨今では誤解され、「殺したやつは、殺されるべき」といった「べき論」がまかりとおってしまってるわけだ。ああ、恐ろしや。

そもそも、私は死刑反対ですけどね。
あんな制度に頼って、家族の復讐を果たそうという他力本願が厭だ。
遺族の気持ちを考えろというなら、だったら仇討ち制度復活でいいでしょっていいますよ。
国家権力に頼って、自分じゃー何もする気なし。そんで殺したやつは死刑になって当たりまえだとかおかしいもん。
そんなに憎いなら、江戸時代の制度を復活させて、自力で復讐させてあげればいいだけのこと。
犯人探しに20年だろうが、30年だろうがかけて復讐すればいいじゃない。その間、まともに仕事もできなくなるし、生活なんて最悪になるかもだが、道理としては、仇討ち制度のほうがまともだからだ。

まあ、菊池寛の『恩讐の彼方に』でもお読みになれば、復讐のくだらなさは感じられると思いますけどね。


ともあれ、「超訳」のような例は、枚挙にいとまがないだろう。
だから「超訳」は恐いし、先入観・偏見・思い込み・刷り込みは恐いわけだ。


というかつい昨日知ったのだが、殺人とか殺生というのも縁によって起こる。なんか仏法ではそう説かれているようなことを知った。いやまあ考えてみればそのとおりなんですけどね。全ては縁によって起こっているわけですからね。

もちろん、その縁に触れて因果が薫発されてのことだが、一念三千の論理に鑑みて考えてみると、殺生を行なう命というものは、いかなる衆生(生きとしいけるもの)の中にもあるのだから、仏法では殺生を禁じているわけではないということが本義らしい。それが殺生戒の本当の意味。――あのね、ちょっと驚いた。

ようするに、縁によってはどんな善人善良な人であっても、殺人を犯す可能性はあるのだから、それをもって「お前は殺人犯だ!」などと悪人を排除するのは、不寛容であり、それは仏法の教えではないということらしい。
じゃあなぜ殺生戒とかあるんだよって疑問ですよね。

つまりはこういうことでしょ。
縁によって起こしちゃうんだから、そういう悪縁に近づくのは止めなさいというのが、本来の仏法なんですね。
わっかりやすーい!
これ、ひろさちやさんの本をチラ読みしてて知ったんですけどね。

そもそも生きとしいけるものそれ自体に善悪の分別は存在しない。行為によってそれが現れてくるのだが、その行為も見る人の立場で善悪は簡単に入れ替わるため、なにが善でなにが悪かと決めることは不可能。ひろさちやさん曰く――「善悪とは社会が決めるものであって、個々人が決めることは不可能」なんだと。
菊池寛の『恩讐の彼方へ』もようはそういうことを伝えんとしてるわけですよ。
殺人は社会的なこと、だから犯人を殺しても何も解決しないし、何も価値的ではない。そうではなくて、社会的に罪を負ったと自覚して、犯人が社会的に貢献することで罪を贖う。これが本筋だよと語っているわけです。

この「社会的」というキーワードは私の中ではとても響いたわけです。
社会的に悪が増えるとどうなるか? 当然、社会的に制裁を受けることになる。つまり、政治家から一般庶民にいたるあらゆる人が知らぬながらも悪事を行ない続ければ、政治家から一般庶民に至るまで、社会的な制裁を必ず受ける、と。こうやって考えると、自界叛逆難(内戦)も他国侵逼難(戦争)も社会的な出来事なのであるのだから、決して間違っていないとわかるんじゃないですかね。

わたしが今の学会に賛意を示せないのも、そういう部分が大きい。自画自賛ばかり、というか自画自賛しかしてない。聖教新聞がその典型。外部の声? 佐藤優氏とかですか? 二枚舌どころか三枚舌に褒められても仕方ないんですけどね。
何にしても、先生が公式の場に出られなくなってからというもの、創価の社会的評価はどんどん低下する一方ですからね。安保法案の閣議決定のあった一昨年からこっち、創価のことを良く知らない人でさえ、おかしいよ……と声をあげてることを見過ごすのはどうかと思う。

このブログをはじめたころはブログ村ももっとずっとまともだった。アンチ勢力はあっても二、三サイト。だが今じゃどうでしょうか。「創価・ブログ」ってキーワードで検索してみればいい。八、九割はアンチブログですから。
こういう社会的実態からして、創価がいかに落ちぶれたかなど一目瞭然なんですがね。


ともあれ、ようは信心の実践的な意味でいえば、悪を引きだす縁を遠ざける以外、悪を犯さないでいることはできないわけだ。
そのための唱題なんですね! 今さらながら、すごく納得できたんだな。

福運をつけるとは、ようするに自分にとって善智識になる縁に出会いやすくするということなんでしょうね。
なるほど、なるほど。とても良くわかった! いまさらながらで恥ずかしいかぎりだが。

学会でこんなこと教えてくれたことない。いつも「べき論」ばかりだった。
ひろさちやさん曰く――「そういうやりかたは儒教的であり、仏法を破壊しているんだ」と。
一般の仏教学者のほうがよく知ってるとかさ、面白いよね。
いえばね、昨今の人々の論理展開を見ていると、ほんとうに「べき論」が多いんですよ。
でもってこれ、幕末維新の時代に勃興した、儒教の「陽明学」に則ったものに見えるわけです。
例えば韓国。なぜ彼らはああも自己中に見えるのかといえば、儒教の思想が根本にあるからなんですね。つまりは考え方の基底部が「べき論」なんですよ。もっとも一神教にもそういう「べき論」が強くあるんですけどね。
ともあれ、先に述べたとおり、昨今の日本もどんどんそういう方向に舵を切っているので、このままいけば間違いなく戦争ですね。だって世界中が「べき論」をいい出したら、その先には衝突しかないのは自明の理ですからね。

そんなのいや。だから叫んでいる。
だから自分で学んでるんです。人を変えようとするまえに、まずは自分から。当たり前のことでしょ。
だから、一つ一つ丁寧に調べてるんです。


そうそう、狂信・妄信学会員さん、これもちゃんと説明できるんですよね?
自公政権、ひいてはアベノミクスは成功した。景気は回復した。嘘八百なのバレちゃいましたね。通産省だけがやっていたなんて言い訳はいりませんからね。
騙されちゃーいけないんですよ。

ipsilon at 20:56コメント(2) 

2016年12月29日

昨今、書店で平積みにされている翻訳ものに、「超訳――」というものがある。
ていうか超訳ってなに? と真面目に考えたことはなかったが、どうも買う気が起きなかったのは本当のところだ。
頁を開いて繰っていくと、なんとなく翻訳が好きになれない気分を感じたわけだ。

それというのは、それなりに本を読んできた人なら、わかるのだろうが、文章というのは前後の「文脈」によって、そこの部分の意味がきまってくるからだ。
ゆえに「超訳――」と呼ばれるものは、前後の文脈のわからない一文をズドンと載せて、しかもその部分をかなり意訳しているということを知らずに読むと、それなりに弊害があるものといっていいだろう。

直訳は原語をそのまま訳したものである。意訳は直訳により訳された言語に違和感が生じるので、それを補正しようとするものだ。
そして超訳は意訳をさらに進め、現代的な要素を入れつつ、比較的大胆に意訳するものと考えればいいだろう。
原理主義者にいわせれば、意訳している時点で、原文の意味を損なっている恐れがあるといわれそうだが、それは確かにあるだろう。

では、意訳や超訳はいけないのかというと、そうともいいきれない。
なぜかなら、ぎくしゃくした直訳というのは、叙述それ自体に魅力がなく、また意味が直感的に伝わりにくいからだ。
しかし、魅力的であろうが、直感的であろうが、誤読をまねく恐れがあるのもまた事実だろう。

まあ、わたしがいつもいうところの表裏一体、物事はすべて二面性をもつということですね。
どっちがいいともわるいともいえない。TPOの問題だし、選ぶ権利は主体者であるわれわれにあるということ。


ようするに、何がいいたいかといえば、意訳・超訳ものというのは、「入門者向け」だということであり、極力原文に近い直訳は「玄人向け」といえるのだろうということ。

しかしこれ、どうだろうか。
入門者にはじめから誤解の恐れのあるものを手に取らせるというのは……。一度身につけてしまった先入観や偏見はそう簡単に覆せない危険があるのではないだろうか。

たしかに、知りたいという欲求を起したのに、どの本も「玄人向け」というのも困る。読んでいくうちに知りたい気持ちが萎えて、途中棄権してしまったなら、せっかく知ろうとした好奇心を壊してしまうからだ。


ようするに、わたしはこう考える。
所詮、こんな直訳、意訳、超訳などといった小手先の枝葉末節でわかりやすさを求めていることに問題があるのだ、と。

自分の言語読解力のなさを棚にあげて、意訳や超訳に頼るのではなく、自分が成長すればいいだけだろう。
ははは、偉そうなこといっちゃった!

でも、そういうものだと思うのです。
「読書百遍、意自ずから通ず」。わたしは先生が御書の拝し方を教えてくれている文で、この故事に出会ったのだが、いま調べてみたところ、この原典は『三国志』であり、本当は――
「読書千遍、其の義自ら見る」らしい。

え……千遍ですか!……。10倍になってますが……。

無論、この故事には、何度も読めば直訳であろうが、意味は文脈から推して自ずから見えてくるというものであろうが、転じては、乱読をさけ数は少なくともいいから、遅読でもいいから、良書古典を繰り返し読みなさいという意味もあるそうだ。
まあそうれはそうですよね。何千冊も読もうが、その書物が伝えんとする意味すら薄くしか読めないのなら、何冊読もうが、自分の骨肉にはならないわけですからね。
また直訳で意味がわかりづらくとも、繰り返し読むことで文の心が見えてくるし、翻訳の違いがあっても、その本が伝えるエッセンスはきちんと読みとれる読解力を養えば、翻訳に拘りすぎる必要もないわけだ。
かくいうわたしも、昔は How To 本、大好きっ子だったので、ほんと偉そうなこといえないんですがね。

しかしなにかこう、ここまで話してくると、意訳とか超訳というものに頼ろうとする現代人の精神力の乏しさを感じざるを得ない。
確かに、世に溢れている入門書だとか、いわゆる「超訳――」の類を見ていると、中には意訳しすぎのものもあるようだし、文脈など考慮にいれず、ただ面白おかしく興味が持てる部分を抜き出しているものなどをよく見かけるわけだ。
それの全てが悪いなどとはいいはしないが、なんだかなァと思うわけだ。

客体に頼って、主体者が無精をしようとする。文明の利器は便利なものだが、それは畢竟主体者の人格形成や理解力の向上を妨げる大きな要因ではないだろうか。


創価の文切型指導にもこうした弊害が多々見られる。もちろんそれはアンチにも同じことがいえる。
いえば、極右=極左なだけなんですね。ナチスとスターリン主義。政治体制は違えど、どちらも全体(独裁)主義だったというのと同じだ。

そして狂信・妄信学会員の場合、御書の一部だけを抜きがいて(わたしもやってきたが)、さも正しいことをいっていると豪語する。
その実、間違ってたりするわけですよ。

例えば、「冬は必ず春となる」。
法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候(妙一尼御前御消息)

文脈をわきまえるなら、引用するにしても、ここまで載せるのが筋だろう。でないと意味がとれないからだ。
「法華経を信じる人は冬のごとし」なんですよ。つまり辛い事ばっかだということ。
そして冬が春になるということは、何も苦悩がなくなって安穏になるという意味ではない。
よく読んでみればいい。
法華経を信じている人は、必ず成仏できると大聖人は仰せなわけだ。しかも大聖人はきちん法華経(方便品第二の偈文)の経文を引かれておられる。完璧ではないか! なのに狂信・妄信学会は自分勝手な解釈をして、自分勝手に指導に使ってきたわけだ。「祈りは必ず叶うんだよ!」とか「悩みは必ず解決するよ!」という意訳をしてね。もうこれ、謗法レベルでしょ。だって大聖人の御金言を捻じ曲げてるんだから。

大聖人、苦悩がなくなって安穏になるなんていってませんからね。

そして成仏とは、全ては自分のことである。全ては自分の中にある因果によって起こっている。全ては自分の責任であるという峻厳なまでの自覚の境地に立つことである。世に見える一切合切に関して、決して「責任転嫁しない」という境地に立つことである。戦争が起ってるのも自分のせい、自然災害が起こってるのも自分のせい、飢餓で死んでいく人がいることも自分のせい、虐待で苦しんでいる人や動物がいることも自分のせい、他人に誹謗中傷されるのも自分のせい……etc.
すべてを自分の責任と自覚すれば、世の中に見えるあれこれに対して、愚痴や文句など毫も出るはずがないのだ。
「ちくしょー、せっかくここまで買い物にきたのに、お目当てのものがないじゃなか!」
馬鹿か自分! お前がちゃんと在庫している店を探す下準備を怠っただけやないか! 悪いのはオイラ……でも、ちょっとしょんぼり〜みたいなね。よし! 今度から来る前に電話でも入れて在庫を確認するべし!
人間はこうやって失敗から学ぶべきじゃあないでしょうか。


ようするに、「超訳」には弊害の危険がつきまとっているといえるということだ。
そういうわたしも『超訳 仏陀の言葉(白取晴彦)』には随分お世話になったが、結局購入した「超訳」ものは、いまのところこの一冊だけだったりする。


昨今も、レディ・ガガがヒラリー応援団として「Love Trumps Hate」とプラカードを掲げたのに、これを
「トランプ嫌い」とか誤訳してしまったお馬鹿な騒動があった。所詮超訳というものは、下手をすると、誤訳になりかねない下地をもっていることを知っておくのも無意味ではないだろう。
ちなみに「Love Trumps Hate」は、「愛は憎しみに勝る」だそうだ。


聖教の抜き書き、大白の抜き書きで正義を語るなかれ。
本当に正しいと主張するなら、「法華経」の原典から話をはじめるのが根本義であるし、文脈をわきまえた「御書」の提示が必要なわけだ。
それ以外は、誤訳まがいの「超訳」でしかないと思っておくのがよろしいのではないだろうか。
いわば、先生の指導であっても、あくまでも大聖人の御金言を現代風に意訳している心があることを絶対に見逃すべきではない。自分勝手な得手勝手な解釈など、まさに言語道断である。


余談だが、この「超訳――」ブームの裏には、出版業界の思惑もあるようだ。というよりはいまだ著作権の切れていない作家のものを編纂して「超訳」して、それには著作権があるという意味ではあるのだが。
確かに道理としてはそうだろう。でもなんだかなァ。いまだ著作権さえ切れていない作家のものなら、原典で読んでもふつうに理解できるんじゃないの? だってそれというのは50年〜70年経っていないのだからね。というのがわたしの考えなわけだ。

それにしても、古典文学や思想哲学といった人類の共有財産までも意訳して商売にする浅ましさたるや。
わたしはちょっと「超訳――」ブームなるものに辟易している。便利で手にとり易いのは認めますけどね。

もちろん、何でもかんでも「神!?」とかいう軽薄さも大嫌いだ。
でもそんな世の中にしてしまったのはわたしだ! と自覚すべきが仏道修行なのだろう。

険しいかな――無上道。実にストイック。

ipsilon at 16:38コメント(9) 

2016年12月28日

それから (岩波文庫)
夏目 漱石
岩波書店
1989-11-16



読書メーターに書いたレビュー。

ネタバレ 自分自身に生きるのか、社会的因襲にいきるのか、どちらが幸福なのか? 多くは両者の中庸を好むのであろう。しかし真に幸福になりたいというなら、それに見合った不幸を背負う覚悟がいる。その意味で、世間すべてを敵にしても一人のために生きようと決断した代助は、あっぱれだと思う。漱石の則天去私の精神が如実にあらわていよう。しかしその自然とは如何なるものと問うたとき、はじめて自然のもつ偉大さに気づけるのではあるまいか。梅子の志、門野の気安さ、そして代助と三千代の自己犠牲心。畢竟真実の人間愛の底には「憐み」があるのだろう。

代助という名前も自然の代わり身となって助けると見ると、落着くところに落着くきがした。三千代は三千年に一度咲く優曇華。こんな個人的考察を語らずとも『それから』は漱石のロマンチシズムが溢れていることに間違いはない。八方塞がりの一方だけを開けておき、代助と三千代をその道へいざなうのは流石としかいいようがない。ふたりの名前に「代」があるのも憎い演出と見るべきか? うーん、ロマンティックな漱石さん。


レビューはここまで。


『三四郎』からはじまる三部作の第二部が『それから』。
しかし、内容や意味するものの深さ広さ、問いかけていることの難題さは、そうとうに重々しいものである。
『三四郎』の続編かァという軽い調子で読むのはどうかと思う。

簡単にいえば、聖書のマタイ福音書にある『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』ということを、漱石が真剣に考えたものといっていいだろう。
このマタイによる言葉は、多くは後半部分が略されている場合がほとんど。だから、人びとの解釈もやはり偏ったものであるといって差支えないだろう。

ここで問題になるのは、神の口というのが人にとっていかなる部分にあたるのかではないだろうか?
わたしならこう考える。神の口=心(意)、と。
ただ心といっても日常感情にのぼってくる心ではなく、胸の奥底のある、宇宙の法則にみあった心であると思う。
そんなわけでわたしの感想には「憐れみ」、仏法でいうところの「慈悲」という言葉を含ませておいたわけだ。

元来仏法では「愛」というものは、強い欲念と執着を生むものであるから、避けるべきものとして教えられる。
漱石もそうした思想に近いといえるだろう。『それから』の中では、ことさら「愛」という言葉をさけ、「自然」という言葉を強調していることからも、そうしたことが窺えるからだ。


ともあれ、非常に重いテーマのある作品であるが、主人公の代助を良家に生まれた御曹司と見て、これを現代のニートという視点で見ることには賛成しかねる。明治当時の言葉でいえば「高等遊民」になるようだが、御曹司であるから人間的悩みがないわけではないし、御曹司には御曹司の悩みがあるからだ。
そうした視点を欠き、殊更に代助を侮辱するのは、ようするに俗世間的嫉妬といっていいだろう。金持ちのぼんぼんが、なに屁理屈こねてるんだ、とりあえず働け! みたいなね。
ゆえにわたしなどは、彼を一人の人間という視点で終始読んでいたことになる。
まあ、こんなことをいったところで、読み方は人それぞれなので、どうでもいいことなのだが……。

しかしそれにしても見事というか、心が痛む作品であった。
現代では自由恋愛などいたって当たりまえのことだが、『それから』が描かれた時代はそうではない。姦通罪すらあり、結婚というものは家と家のものというしきたりがあったり、近代化商業化の煽りをうけて、政略結婚なども多かった時代だからだ。しかし、人と人が真に愛しあうということと、それら世間的なものは本来懸隔されてしかるべきものだろう。だがそうでないことで代助と三千代、またその周囲も苦しむことになるのだ。

多くの読者はその辺りについて頭を働かせるのかもしれない。でもわたしは変人なので案外と違った。
「本当の恋愛ってなによ? 何がベースにあればいいの?」
そう考えたわけだ。わたしがしてきた幾つもの色恋を思い出しながら……。

そこで思ったのは、同じ趣味をもつとか、相性があうだとか、理想のタイプだとか。経済的地盤であるとか云々、そうした感覚ではじまった恋愛にはろくなものがなかったということだった。もちろん、先に揚げたものが不必要というのではない。それもまた大切なのだが、根源的大切さはそこではないと思ったのだ。
ようするに、相手への思いやりや慈悲、もっともいえば憐れみがあった恋愛というのは、心に深く残っていると思えたのだ。とても苦しんでいる、悩んでいるのを放っておけず、何かしてあげたい……。そんな思いからはじまった色恋こそ本物だったのではと思えたのだ。

ただ、ここにはひとつの問題があるとも思った。
わたしの場合でいえば、絶対に出戻りをしようと思わなかったという部分であり、『それから』は出戻りではないが、過去を顧みて実は好きだったんだ……と気づくという、過去から恋愛がはじまるという相違だ。

結局、こういう事実があるゆえに、『それから』の中で進んでゆく恋路が悲惨なものになったのではないかと思ったのだ。今を生きつつ、今のなかで、互いに憐れみの気持ちから寄りそっていくのと、過去に遡って実は……という恋愛は大いに異なるからだ。
過去という「それから」はじめても、すでに過去から流れ、積み上げられた時間によってふたりとそれを押し包む周囲や世界は既に変わってしまっているのだから、上手くいかなくて当たりまえな部分もあるのだろう。
もちろん、出戻りでもうまくいく場合もあるから、すべてがそうだなどというつもりはないのだが。


日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ちあがれない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行きを削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじ張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競走する蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。

虚勢を張らないことですね。自分らしく等身大でありのまま。これが一番。
明治末期を知るにつけ、現在の日本と重なって見えてきた。ということは今の日本は破滅への道に舵を切っていると見えるのが何ともね……。


人と喧嘩をするのは、人間の堕落の一範疇になっていた。喧嘩の一部分として、人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒った人間の顔色が、如何に不愉快にわが眼に映ずるかという点において、大切なわが生命を傷つける打撃に外ならぬと心得ていた。
そのとおり。さすが漱石さん。喧嘩を売るということは、結局は自分で自分を傷つけるだけなのだ。


不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であった。
卓見すぎる! 人と人が信じあえるならば、ある意味では宗教や信仰など不必要だってことでしょ。そりゃそうだ!
人のことをどうしても信じられないから、人間には絶対的に信仰や宗教が必要なのであって、それでもって人や事象を信じられる自分たらんとしてきたのが、人類の歴史といって過言はないだろう。
卓見!


元来意見があって、人がそれに則るのじゃない。人があって、その人に適したような意見が出て来るのだから
前者のような意見をしている場合が多いんでしょうね。いわゆる形式主義。文切り型の助言や忠告がそれ。本末転倒の典型。


いや僕は貴方にどこまでも復讐してもらいたいのです。それが本望なのです。今日こうやって、貴方を呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讐されている一部としか思やしません。僕はこれで社会的に罪を犯したも同じ事です。しかし僕はそう生まれて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出来れば、それで沢山なんです。これほど嬉しい事はないと思っているんです。
いくら過去を顧みて、自分の犯した罪に気づき、相手に復讐され自ら懺悔したとしても、もう過去は取り戻せない。代助ちゃん、そこに気づこうよ!――。そんな思いで彼の声を読んだのだ。
確かに、そういう彼の純粋な心は美しいとも思ったが、過去は過去なんだなァ。
それに人間は生まれながらに原罪をもって生まれてきたという考えかたは悲観的だよ、代ちゃん!
今だ、今しかないんだよ、代ちゃん! 目を覚ませ!! といってやりたかった。


時が過ぎたとき後悔しないためには、今を生ききるしかないんだ!

Right Now !!


読書メーターに登録した既読本が『それから』読了で、ちょうど700冊になりました。書いた感想レビューは425件。
千里の道も一歩から。先は長いが、コツコツいこうと思っております。
なァに、すべての道はローマにだから、そのうちローマに着くことでしょう。

ipsilon at 15:15コメント(7) 

2016年12月27日

三四郎 (新潮文庫)
夏目 漱石
新潮社
1948-10-27



読書メーターに書いたレビュー。

日本初の教養小説であり、青春時代の物語といわれているが、押しつけがましくないため、様々な感想を抱ける作品といえるか。そんなわけで、三四郎=日露戦争に勝利した当時の日本という視点で読んだ。そうすると、漱石が日本の将来に悲観的だったと見えた。美禰子は西洋近代化の象徴であり曖昧模糊としてなんとなく偽善的。与次郎は近代化に突っ走るが虚偽的で結局失敗する。三四郎は粛々として傍観する立場。野々宮は社会や政治、肉親にさえ無頓着な利己主義者。広田は漱石であり、明治とそれからの日本の行く末を見抜いていた人といえまいか。

美禰子とよし子に同じ相手との縁談がもちあがったあと、其々のとった態度がとても興味深く思えた。よし子もまた漱石の審美眼を体現した人物なのだろう。無邪気で一緒にいて居心地悪さや偽善を感じさせない。先のことに囚われすぎず、成るように今を生きていく――ハイドリオタフヒア――。結局のところ西欧主義と、それを追う日本は二頭の迷える子羊であったのだろう。どちらも贔屓の引倒しであったのだろう。

広田が「十一」で語る結婚観は、日本が諸外国の中でどこをパートナーにすればよいのかを漱石が問うた部分といえよう(日英同盟に触れている)。しかしその結末は実に悲しい。宿命的な出会いはあるようだが、両親に先立たれたため結婚しない、と。父親は実の父でないと知り、母は憲法発布の翌年に死ぬという、漱石の明治憲法への着眼に思わず背筋が凍ってしまった。


レビューはここまで。


なるべく時間をつかわないように、という思考で、感想はもうあまり長いものを書くつもりはない。
よって読メ・レビューへの投稿が長くなりネタバレ的なのは、かのサイト利用者に少々迷惑かもしれないが、致し方ないだろう。
なんにしても、わたしの視点は多くの人とは少し変わっているようなので、そう気にする必要もないのだろうが。

それにしてもすごい作品だった。
わたしのように碑ねて穿った読み方をする必要もなく、単純に青春人間ドラマや登場人物の心理に共感し、楽しんで読むことのできる作品であろうが、わたしは感想にあるように感じたのだから仕方ない。
田舎から東京に出てきた三四郎=日露戦争に勝って、なんとか欧米列強、先進国の仲間入りをしたが、もの知らずな青年国家日本。そういう構図がないとはいえないのではないだろか。

様々語っても仕方がないのでこの辺で。


「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」

いくら自分の所属する団体が正しいと思おうが、そればかりに囚われて独善的ならば、しょせん、その程度――利己主義――で終わるまでのこと。そのとおりだろう。


ヘーゲルの伯林ベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。
どんなに高尚な話ができようが、それを体現できもせず、血肉にさえできていなければ、そんなものは、所詮は付け焼刃であり、虚勢にすぎないのだ。漱石さん、僕の耳が痛いんですが……。


政治の自由を説いたのは昔のことである。言論の自由を説いたのも過去のことである。自由は単にこれ等の表面にあらわれ易い事実のために専有されるべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信じる。

新時代、新時代とスローガンばかりは勇ましいが、やってることはいつも同じ。成果主義で自画自賛。わざわざ敵をつくり自分たちが正しいと主張するばかりの独善。まともに心の自由を追求することを顧みない、某団体の妄信・狂信者たちにこそしかと読んでほしいものだ。


それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、万事正直に出られない様な我我時代の小むずかしい教育を受けたものはみんな気障だ。

そうそう。自分が何をやったかも語れずに、他人を批判するのだけは得意。こういうのも、結局のところ、受けてきた教育や身をおいてきた環境からうけた刷り込みによるものでしかない。正直に思いをいっていても、それは自分を見つめてのものでなく、ただ気障に、自分のいる組織やら国が素晴らしいんだと口角泡を飛ばしているにすぎない。ようするに自己中であり、集団的自己中。ゆきつく果ては全体主義という恐ろしい牢獄だけだろう。


朽ちざる墓に眠り、伝わることに生き、知らるる名に残り、しからずば滄桑そうそうの変にまかせて、後の世に存ぜんと思う事、昔より人のねがいなり。この願のかなえるとき、人は天国にあり。されども真なる信仰の教法より視れば、この願もこの満足も無きが如くにはかなきものなり。
生きるとは、再び我に帰るの意にして、再の我に帰るとは、願にもあらず、のぞみにもあらず、気高き信者の見たる明白なる事実なれば、聖徒イノセントの墓地に横たわる猶埃及エジプトの砂中に埋まるが如し。常住の我身を観じ悦べば、六尺の狭きアドリエーナスの大廟と異なる所あらず。
成るがままに成るとのみ覚悟せよ
トーマス・ブラウン『ハイドリオタフヒア』


【滄桑】滄海桑田 の略。「滄桑之変」という語があり、海が畑になったり、畑が海になったりするような世の中の激しい移り変わりという意になる。おそらくそのことを二字にして述べたのだろう。

願望というものは、ようするにそうなれていないから願望を抱くわけだ。
つまり、自己肯定感の貧しさが心底にあるのだ。自信の無さ=願望なわけだ。だから強く多く願望を抱く者は、まずもって自分や生き方に自信がないとい告白しているようなものだ。
同様に、自分たちが正しいと言っていないといられないような人の心底には、自分たちが正しいという確信が薄く、いつも肯定の言葉を吐き散らしていないと不安でならないだけのことだ。
可哀想だが、そういうご本人たちはそれに気づいていないようですがね。



ひゃっは。辛口批評しちゃった。
気分直しに一曲どうぞ。



Que Sera Sera !

呑気が一番! 自然体が一番ですな。
確かに、子ども心というのは、成るようにまかせて生きておるんですなァ。
子どもたちの純粋な目から最も学ぶべきものがあるような気がするなァ。

それにしても与次郎のモデルである鈴木三重吉って人は憎めない人ですね。
『文鳥』でも、身勝手に漱石にあれこれいって、飼わせたあげくほとんど何もしない。本人は悪気なんて全然ないんだけど、なんだか癪にさわる。けど憎めない。周囲をひっかきまわすんだけど、そのことで周囲は様々なことに気づいていったりするんだけど、本人は一向にマイペースなまま。
こういう人ももちろん必要な存在なのだけど、あんまり周りにいて欲しくないなァとか思ってみたり、みなかったり。いたら楽しいような迷惑なような、ね。

ipsilon at 12:43コメント(0) 

2016年12月26日

若い、若すぎるでしょー。享年53歳って。
もうだいぶ、芸能人の死には慣れつつあるような気がしていたのだが、全然そんなことはなかった。
訃報を知ったときは、「嘘だろ!」と声がでた。

中学時代から洋楽小僧だったわたしは、もちろんリアルタイムで聞いてきたアーティストの一人。
大好きだった Queen のフレディー亡きあと、Queen のメンバーとともにステージに立ったこともあったのになァ。
フレディのいないQueen の再結成なんて絶望的のうえでにも絶望的だよな……。でもなんでG・マイケルなんだよ……違和感ありそうだな……そう思ってアルバム(もうCDの時代でしたけどね)を買って聞いたら、嘘だろってくらい違和感なんてなくて、何度も何度も繰り返し聞いたのもよく憶えている。



でもやっぱり、わたしにとって一番思い出に残っているのは、Careless Whisper だ。
プロミュージシャンを目指した短い期間に、本気で練習して本気でカラオケで歌ったから。
もちろん、歌詞もその意味もほとんど憶えてしまうくらい練習した。聴衆のいるスナックではじめの一小節を歌うだけで、幾人かが振り向くくらい美しいメロディーだったしね。
高音部で歌いあげるサビの部分とファルセットは特に難しくてねェ。5回に一回くらいしか納得する歌い上げができなかったんだよね。



他界したのは、12月25日なのかな。
なんというかねェ。今年のクリスマスは彼にとって本当の最期になってしまったのですね。



記事を書いていて、ほんのり涙が滲んでいる。
でも、悲しみを分かち合えるのが、僕ら人間なんだから。

THANK YOU ! Georgios Kyriacos Panayiotou, R.I.P.


at Last――マザー・テレサが毎朝唱えていたという「聖フランチェスコの平和の祈りを」。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、
愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、消えることで人は見出し、
許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。


ipsilon at 19:11コメント(0) 
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