2017年03月

2017年03月30日

カント価値論、牧口価値論は、双方ともに必要であった。
しかもそれは1人の人間の内面にである。

ではその牧口の創価思想が、どのように変節されたのか?
それは戸田の思想から導き出されたものだろう。
僧俗和合。ある意味では正しい思想だっただろう。
しかし理想の哲学と現実の社会とを隔離してしまったのは、戸田自身だったといっていいだろう。

僧といういわば真理や学者的態度をもつ者と、そうしたものより利害得失にさとい庶民を融合させようとしたことは、最大の誤りだったといえよう。

いわゆる、難しいことは頭のいい人達にまかせて、我々庶民は上からいわれたことを素直にやって利(価値)を生みだしていけばいいんだ、という思想を創価会員に植え付けたということだ。

本来、僧の受け持つ部分も、庶民の受け持つ部分も、一人の人間の内面において成熟してこそ、牧口の価値論は理想どおりに運用されたことになる。

つまり、利は庶民がうけもつ、真は僧がといった具合に、
本来一人の内面において行うべき鍛錬を、真の部分だけ他人に任せてしまった。そう、この時点で創価は外道の道をゆく結果に陥らざるを得なかったのだ。

草創の時代はまだそれでも良かっただろう。
戸田をはじめとする教学力のある人々がいたからだ。僧たちと比べても負けない人たちがいたからだ。
ゆえにまだ創価というひとつの枠にしぼっても、真と利はひとつの枠内にあったといっていいだろう。

しかし戸田は、そんなに会員を急激に増やす必要はないといいながらも、結局は無理な数を求める折伏運動へと舵を切った。この地点から、創価は凋落への道を歩みだしたのだろう。

戸田自身とその側近は、たとえ75万世帯の折伏が成功したとしても、真と利が共存しているように教学を教えることはできると判断していたのかもしれない。
しかし、その読みは甘かったといっていいだろう。

歴史が証明しているように、民衆というのは集まれば集まるほど愚衆化するという、民衆のもつ負の側面を甘く見過ぎたのだろう。
いわば、ハンナ・アーレントが提唱した「悪の汎用さ」を甘く見ていたのだ。
会員が増えれば増えるほど、「わかりやすく」教学を学ばせようとする。
しかしこのわかりやすくはともすると学びの質を下げていくことにつながる。
多くの人が理解できるような方法をとると、高い次元で真理を学ぶことから遠ざかりざるを得ないのだ。

政治界に公明党を送り出したことも、戸田の大きな誤りだろう。
政治は政治家に任せて、民衆は民衆のやるべきことをやればいい。
間違いだ。
一人の人間の中でこのふたつは共存しあって、はじめて意味をなすものだからだ。
真と利がそうであるように、政治的感覚と庶民感覚もまた、一人のなかで成熟してはじめて、意味をなすからだ。
それを分けてわざわざ公明党を作ってしまったところに大いなる陥穽があったのだ。

だから、昨今の創価会員は平気な顔をしてこういう。
難しい政治のことは頭のいい公明の議員さん達にまかせて、我々庶民は公明からいわれたことに素直に従って支援してればいいんだ、と。

だからこそガンジーの言葉にわたしは重みを見たのだ。
「今日からは政治にも何にも頼らず、自分だけを頼みにして生きていきなさい」
という言葉に。

これは何にも頼るなと言う意味ではないだろう。
政治的なことも、庶民感覚の生活もすべて、自分の責任ととらえ、自分で全てを変えていこうとするくらいの気概で生きなさいということだろう。
実際、ガンジーはそうしたことを体現してみせたわけだ。
そういうガンジーだったからこそ、あれだけ多くの人を惹きつけたといって過言はないだろう。

例えばマザー・テレサ。
彼女が創設した修道会「神の愛の宣教者会」は、彼女が亡くなったとき、会員はわずか4000人だったわけだ。
それでも、マザー・テレサは世界に多大な影響を与えたのだ。
彼女が亡くなったとき、その4000人ほどの会員は世界各地で活動し、123カ国の610箇所にわたっていたそうだ。
計算してみると、一か所の施設に会員はわずか6.5人ということになる。
なんとこじんまりとしたものだったのだろうか。

ガンジーにしても同じことがいえる。
彼が暗殺されるまでに所有したものは以下のものだけだそうだ。

・一冊のバガヴァッド・ギーター
・インド綿布の衣とぞうり。
・眼鏡と入れ歯。
・竹の杖。
・糸車。毎日これで糸を紡ぎ「働かない日に食べるパンは、盗んだパンである」という信条を実践した。
・いわゆる「見ざる言わざる聞かざる」の三猿の像。日本人から貰ったものという。
・人と会う約束の時間に遅れないための、インガーソルの懐中時計。紐で首にかけていた。
・携帯用便器。インドの衛生状態の不備を憂慮し、ガンジーがいかに衛生を重んじているかを示す意味があった。
・食事のための乳をとるヤギが1匹。
・習字用の鉛筆と、古い封筒を切り開いた練習用紙。

もちろん文明化した我々が彼を見習うことなど今や無理がありすぎる。
だが、心の質を高めていくことはできるのではないだろうか。
例えそれがマザー・テレサの創設した「神の愛の宣教者会」のように数千人であったとしても。

公称827万人いようが、心の質が濁っていれば、それは数だけの存在であり、また数をたよりに正しいといいはるような、何でも多数決で決めてしまうような悪しき民主主義と変わるところなどないだろう。

牧口の目指したものは個人がいかに人格的完成を目指していくかであり。
結果として人格を完成した個人が周囲に大きな波動を広げていくというものだったのだろう。
だから牧口は創価教育学会に学者ぶる僧侶など必要としなかったのだし、自分が日蓮信徒だったとして、日蓮正宗がすでに形骸化していたことを鋭く見抜いていたのだろう。
だから、真に自分の志に共感してくれる数少ないメンバーで細々と会を運営していきたかったのだろう。
正宗の数百年の伝統や方法論や固定化してしまった教義は、牧口価値論からしたら、邪魔なものでしかなかったのだろう。

初代はこんなにも素晴らしいのに、その初代の偉大さがわからず、初代のなしたことを壊していったのが、戸田時代の創価学会といって過言はないだろう。

だからといってその創価に救われた人もいただろうし、これからも救われたと感じる人もいるだろうが、少なくとも私はそうなるとは思えないだけのことだ。
そもそも依存して救われようと思うこと自体、外道思想なのだから。
ともあれ、誰にとっても、自由は自分の心が選びとれることには変わりはない。

ガンジーは言っている。
わたしの人生は何よりも真理を追求するものである。そして、見出した真理を確かめるために自分自身を実験台として、ときに失敗し、ときに成功してきたのだ(趣旨)――と。

そう、これこそが「自分自身に生きる」ということに他ならないのだ。

私はある本を読んでから、この2年その本から湧きだした難題を考え続けた。
その本とは、トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』である。
芸術家のトニオは、美のなんたるかを理解できない庶民を見下していた。
しかし、見下すことが悪いことだと気づいていて、彼のなかで起る内的葛藤は日増しに強くなっていく。
結果、最終的には芸術(美)を庶民に理解させていくには、庶民の中に飛びこんでいくしかないという結論に到達する。

感動のうえにも感動した一冊だ。一面的には正しいと思えた。方法論としてはこれしかないだろうと確信した。
しかし、それでいいのか? と私は自分にずっと問い続けたのだ。
そしてその答えは否だった。

自分の中に芸術とはなんたるかを理解する心をもち、また同時にそれを理解できない庶民感覚を育てることこそ、真の意味でトニオの苦悩を解決できる唯一の方法だったのだと気づいたのだ。
真と利の関係も同じだし、政治と民衆の関係も同じだ。
要約すれば、こうした生き方は、完成された人格を目指して、自分自身に生きること以外にない。


ガンジーが信念とした非暴力は、無形の心がまずそうあることを根本としているのだ。
生きとし生けるすべてに危害を加えないというのは、たしかにアヒンサーの一部にちがいありませんが、それはアヒンサーの最低限の表現です。アヒンサーの要諦は、いっさいの邪念や、過度の焦燥、虚言や、憎悪、人への遺恨、等々によっても損なわれます。世の人びとが必要とするものを独り占めして手放さいのも、アヒンサーを冒涜する行為です。

ipsilon at 15:29コメント(0) 

2017年03月29日

興味のある方は、以下URLをブラウザのボックスにコピペしてPDFのページを読んでみてください。
www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/03/2009_36_hikaku_15_shibuya.pdf

論文の要旨はこういうことだろう。
カント価値論(真・善・美)は難解にすぎ学者向けすぎた。
それを庶民にもわかるようにするには、真を利(利害得失)とする必要があるとしたのが牧口。

しかし総合的に見れば、世の中には学者もいるし、庶民もいるのだから、どちらの価値論も必要だ。
そう提唱しているのが論文の著者、渋谷仙吉という人。
絶対数的には庶民ですがね。だから庶民が理解しやすくという牧口の思想展開には大きな慈悲があると思います。

カントのあらわした書物を読んで、価値論を理解することは一般庶民には困難なことだ。
だから真を利とした価値――つまり利害得失でもって――見させれば、庶民にも価値の意味がわかる。
そしてそうした利をもって価値を見させる視座に立たせたうえで、学者の立場といえるカントの価値論へと視点を進め、利から真を知る作業へと進む。
しかしその真は何かしらの価値を生む存在(行為・行動)ではなく、真はそこにただ存在するだけであるから、それでは価値は生み出せない。

しかるに牧口価値論(利)によりカントの価値論に辿りついたならば、また牧口価値論に視座を戻し、今度は真を知ったうえで、庶民が学者クラスの英知を働かせて、(大)善を作りだす運動をしていくべきだ。
恐らく、牧口の夢想した価値論の実際の運用とはそういう形だったのだろう。
そうい意味で見れば、戸田が宗門という宗教学者と庶民という僧俗和合を目指したことは、牧口の思想の現実化であったと評価していいだろう。しかし、それを池田氏と阿部氏の双方が破壊しあったわけだ。どちらが悪いとは私は見ていない。同罪であるだけだからだ。

だが、こうしたこと。
カント価値論と牧口価値論が循環し、真が利を高め、また利が真を再発見させるという循環サイクルこそ理想であるということをはたして創価学会総体が理解し理念として実践してきたかといえば、相当にあやしい。

いわんや、「利」――つまり利害得失ばかりを追い求めて真を蔑ろにしてきたであろうことは、もはや現実が証明しているといっていいだろう。

池田氏が学べ学べと絶叫のように叫んできたとしても、悲しいかな庶民は庶民であった。万般について、また思想哲学について学ぶ人は少なかった。
真の追及などどうでもよかったのだ。ただただ功徳やら福運やらというご利益があればよかったのであろう。
まあそれが庶民というものなのだから、それはそれで致し方ないんでしょうけどね。
かくいう私だって、そういう時期はありましたから。
でも、何度もこのブログで書いてきたが、私はある日突然、唱題していて「今は哲学を学びなさい!」という命令とでもいうべき声を自分の中から聞いて、そういう方向に舵を切ったのですがね。
むろん、その証拠は記事としてちゃんと残っている。

かといって池田氏が真を追求せよとばかり号令をかけていたかといえばそうではない。
とにかく学会は絶対だ、とにかく信じればいい、とにかく師弟だ、とにかく学会活動すればいい、とも叫んできたのだ。
どちらにしろ池田氏はやりすぎた、煽り過ぎた、発破をかけすぎたのだというのが私の今の見解だ。
もっとゆっくりとしたペースで学会は発展すればよかったのだろう。だがそう言ってみても、後の祭だろう。

さて、煽りというものの効果を仏法で見てみてはどうだろうか?

当然、煽りは焦りとスピードアップや効率化を生む。そしてそれは忙しいということを理由に無意識に人間的な心を喪失していく現象となる。
焦りは地獄。まあわたしも創価関係の書物からそういうことを学んだわけだが、その当の池田氏が激励という美名のもとに、一番会員を煽り、焦らせてきたということに気づいたとき、愕然としたわけだ。
会員の主体性などそっちのけ。「とにかく勝つんだ! 勝利だ! 勝たなきゃ意味がない! 負けることは惨めだ!」とね。

その煽りはもう常識を超えていて、あのような指導を日々繰り返し読んでいたら、これはもう自分の意思とは無関係に洗脳をされ、焦らされても仕方なかったのだろう。脅迫観念になってしまってもおかしくない煽りかたであっただろう。
もっとも、蛇足だが、人間に自由意思など存在しはしませんがね。

いやだからこそ、煽りが危険なのですがね。ヒトラーもそういうやり方をしたのです。煽り、人々の中に「このままではいけないのかもしれない……彼のいうとおりにしないと」という恐怖を生み出したのがヒトラーの手法であり、池田氏の激励は、それに近いレベルだったんだと思いますよ。

ともあれ、わたしがもっとスローダウンして、多くのことをするのではなく、数は少なくても質の良い生活を送るべきだと気づかせてくれたのは、エクナット・イーシュワランの『スローライフでいこう』という一冊の本との出会いだったのですがね。
このイーシュワランはガンジーの振舞いに直接触れ、教えなども受けている人だ。
まあ、まずわたしはガンジーの『獄中からの手紙』をお勧めしますけどね。
内容も素晴らしいのだが、それ以前に、獄中という過酷な環境にあって、こうも心安らかに思想哲学を同志と語れたガンジーの安心立命たる心のあり方に感動しますからね。内容なんてすっとぶくらいのものでしたよ。

究極、瞑想にしろ、内観にしろ思索にしろ、つまらない考え事にしろ、普段の生活にしろ、余裕をもって、ひとつひとつ丁寧に行ない、「一点集中」することだけが大事なんだというのが、その本から学んだ最大の収穫だったのですがね。
それは唱題においてもそうであったことは、いうまでもないだろう。

本を読むときは本だけを読む。音楽を聴きながら本を読むとかいった「ながら」を自分の生活の中から一掃する努力をしてきたのだ。
それはもう大変でしたよ。今では身についてしまったが、はじめは音楽を流しながらなにかしていないことに強烈な違和感を抱いたりもしたが、続けていくと、無音というか自然にそこで鳴る音以外ない環境で読むほうが、内容をきちんと把握できるようになってきましたけどね。
まあ、煙草だけはいまでもどうしようもない悪癖なんですがね。


ともあれ、そもそも仏教というのは一見すると矛盾をはらんだ教えである。なぜなら、仏教はTPOに合わせてその場その時、そこにいた人物に見合った説き方をしている物語挿話形式であることを見れば、それは一目瞭然なことですがね。
だから仏法を実践した池田氏の発言を纏めて読むと、明らかに矛盾する発言があっても異常なことではないが、それを指標として実践・行動としてきた会員たちは、どうも「極端」であったとしか言えないだろう。もちろん利害得失ばかりを追い、真実など顧みようとしなかったというような形で極端であったのだ。

だから私は、三代会長が悪いのでもなく、会員たちが悪いとも思っていない。どっちもどっちであり、究極的には、多くの会員が「主体性」というものを失っていると見ているだけのことなのですがね。
随自意。仏法の根幹を忘れて、仏法者であるとかいってもね……。
でも少なくとも私は、主体性のないロボットにはなりたくないと考えたから、さようならをするわけだ。
自分の頭で考え、自分で決めて、自分の道を征こうということだ。

日蓮はいっていますがね。
行学の二道をはげみ候べし、と。

だがしかし、こうした日蓮遺文のたった12文字すらきちんとしてこられなかったのが、学会であったのだろう。
行行の二道を歩んできたのが学会。学ぶとしても池田氏の指導と学会指導からしか学ぼうとしない偏狭さ極端さが、創価を社会的に非常識な人間集団にしたのだろう。

まあ私はさようならをしたからいいのだが、どんな形になろうと学びを通して、いかなる価値を生むのが最善か? を考えるために、またこういう記事は書くことがあるやもしれないが、それは別に誹謗中傷でも、謗法でもないと考えている。
そう見える人にはそう見えるだけのことである。

私が出来ることは、自分のやってきたことを発信というか、告白することだけなのですからね。

ちなみに故人は敬称を略し、生存者には敬称をつけている。
別に呼び捨てにしてもいいだろという見下しなどではないことをお断りしておきます。


(追記)
今朝、起き掛けに気づきました。

カントの価値論、牧口の価値論、その双方が必要という卓見は、仏法でいえば、六識側からの改革(命の洗浄)と九識側からの改革(命の洗浄)が必要ということになる。

一応、池田氏の指導にはそういうことがはっきり明言されていて、その典型が、政治権力側からの改革=九識側から、庶民の草の根側からの改革=六識側からの改革だということ。
無論、すべては当てはめであるから、この論理はあらゆる項目に適用することができる。

組織の場合、上意下達と下意上達が必要になり、
日蓮仏法にあてはめれば、自行の唱題が九識側からの命の洗浄にあたり、化他行は六式側からの命の洗浄にあたる。

多くの宗教が化他を重視するのは、六式側からの洗浄のほうが、生命が清らかになったことを本人が感じやすいという理由に過ぎない。
だが、意識層=六識側、無意識層=九識側という生命は、無意識層が8割〜9割だということを考えれば、正しい本尊、正しい戒壇、正しい題目ということがいかに重要であるかは理解できよう。
いわば勤行・唱題というのは、意思をもって無意識層に働きかかける瞑想(命の洗浄)といったものなのだから。
その瞑想の正しい仕方さえ探求せず、学びあうこともなかったのが創価ですよね。
だから正しい本尊がなにかもわからないから、思考停止して、執行部の会則変更に素直に従えてしまうわけだ。

そうした三大秘宝すらきちんと理解せず、外道のように、なにか自分の外側にある偉大な力(創価執行部認定の曼陀羅御本尊)から御利益を受けたいというような姿勢で、利他ばかりを重視していたなら、仏法を行じているとはもはやいえないわけだ。
執行部が認定した本尊に功徳を求めるということは、すなわち執行部を信仰の対象とする、外道信仰に他ならない。

本尊とは自らが納得し、自分の主体性をもって選びとるものであるからだ。
それを内道というのだから。

この御本尊まったく他所に求む事なかれ、ただ法華経を保ち南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉弾におわします成り(日蓮)

ここでいわれている法華経とは、正確にいえば「法華経の心」であり、生きとしいけるものが幸福でありますようにという慈悲心である。

しかし創価はどうだろう?
日顕撲滅とか、共産党は悪だとか、下手をしたら阿部氏を呪い殺すような祈りをしてきたんじゃないですか?
それは日顕氏に限らず、創価に反逆者・仏敵と認定された人たちに対してもそうでしたよね。
でありながら、一切衆生の幸福を願っているとか、世界平和だとか、恥ずかしげもなく言えちゃう厚顔さはなんなのでしょうね。
釈尊が説いたといわれる経典には、まずはじめに怒りや怨みを捨てろ、つまり地獄界から離れろと教えていますが、創価はここをどう説明するんでしょうね。

池田氏の場合、「反転攻勢」などという美辞をつかって宗門への怨み辛みを散々ぶちまけてきたわけだ。
無論、阿部氏側も、怒りにまかせていきなり破門勧告を送りつけたりと、どっちもどっちですがね。
双方とも、怒りに呑み込まれ、いつまでも相手を敵としか見れなかった。
殺人鬼のアングリマーラさえ正しい教えに導いた釈尊、また「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり」と捉えた日蓮とは雲泥の差ですよね。
それで日蓮仏法を正しく継承しているのは創価学会以外にない! とか言える厚顔さはなんでしょうね。
だから私などは最終的には外道信仰に陥っている創価の人であろうと、そういった人々を瞿伽利尊者として敬える自分になるつもりだが、自身の内的信仰においては、外道信仰を自分に認めるわけにはいかないだけである。

悪知識に身を浸していたら、自分も悪になる。
だから離れるというのが、端的な理由ですがね。

池田氏は指導でこのようなことをいっている。
自分の外側にある悪を責めて、自分の内側にある悪を滅するのです、と。
おやおや、仏法は内道ですから、自分の外側に悪があると思うこと自体、完全に仏法に違背する外道ですがね。
庶民にわかりやすく指導したかったからそういう言いかたになったのは理解できますよ。
でも間違いを教えちゃあいけないでしょ。


日蓮にしても、釈尊にしても、そういう外道の祈りはしてないと思いますけどね。
私などがそう言えば、日顕や共産党をも救ってあげたいという慈悲で祈っているんだと言いわけするのだろうが、本当にそういう心で祈っていて心が変わったならば、言動も慈悲深くなるわけだが、一向にそうならないのはなぜだろうか? 本心からして彼らに怨念をもっているからでしょ。いやそれ以前に意識の部分すらそうだからでしょ。簡単にいえば感情という虚妄にだけしがみついてるだけのことですよね。
無意識層にある原体験を変えていくのには時間がかかるから致し方ないとしても、せめて意識くらい改革すればいいのに、感情論でものを言わなければいいのに、それもしてこなかった。
惨憺たるものじゃないですか……。

一応、池田氏は、「嫌いな人の幸福も祈っていきなさい。少しづつでもいいのだから」とも言ってますが、創価会員同士でさえ、口汚く罵り合う現実はどう説明するのですか? それも何年にもわって。もうそれは怨念のレベルですよ。
そう言えば、学会員だからって完璧じゃあないからねと言いわけするんでしょ。
創価は自己正当化ばかり。だから、さようならなんですよ。

そもそも日蓮の誓願というのは、見返りを求めないものである。無償の慈悲です。
簡単にいえば、叶わないと理性的に判断していても、そうするんだ、そう信じ抜くんだという誓願ですよね。
なのに、努力すれば叶うことを願掛けのように祈っていること自体、日蓮仏法ではないわけだ。
100項目願いを書いて、やれいくつ叶ったとか。お百度参りと同じじゃあないんですか?

創価は絶対である、公明を信じればいい、池田氏の指導はすべて正しい。
楽でいいでしょうが、そういう信は、いわば自分の外側から得たもの(知識)を拠り所としていますよね。
だから外道なんです。

あらゆるものを疑い、自分のしてきた、、、、、、、「体験」や「思索」だけを頼りとし、それで自分の中に残った「これは信じられるかもしれない……」というものを信じようとする。
さて、そのときに内面に起る恐怖。これがいかなるものか体験したことはありますか?
これは信じられると思うけど、もしも間違ってたらどうしよう。でも自分としては精査し尽してきて残ったものだし、でももし間違ってたらどうしよう。この恐怖、この臆病に負けない人こそ、心の王者だし、まさに内道をゆく人じゃあないのですか?

日蓮はいっている。
臆病にては叶うべからず――と。
自分が信じたものを信じきれるか、が大事なのではないだろうか。
創価はそういうことも教えていない。学会と師匠を信じればいいといったレベルだ。
それでもって「信」こそ大事なのだと絶叫してきただけでしょ。

スターウォーズのヨーダでさえ、こいうことは言ってますがね。
「これまで学んできたことを捨てるのだ」と。
それにさえ執着するな、と。
もちろん捨てちゃいけないこともあるんですがね。
つまり精査し続けていくことが大事だと。
捨てるべきは、先入観・固定観念・偏見だと。

苟日新、日日新、又日新(大学)
(まことに日に新たに、日に日に新たに、また日に新たに)


学んだことさえ捨てる。
そういうことを本当に理解し実践しようとしていたのは、創価の中では、牧口だけだったのかもしれませんね。

それが「今日より明日へ」という言葉でもあったのでしょうがね。

だから私は創価を捨てるんです。
ポイっ!

ipsilon at 19:54コメント(0) 
私がクオリアこそ生命そのものじゃあないのか? と気づいたのは随分前のことだ。
そしてそのことを私なりに伝えようとして書きはじめたのが【宇宙シリーズ】という小説。
もっとも【宇宙シリーズ】は、クオリア=生命の本質ということを伝えるために、光=生命という構図をとった。しかしそれではあんちょこ過ぎると考え、あえて光を「暗黒物質」というものに置き換えて物語ってみたものだったりするわけです。

しかし、書いているうちに、あれもこれもと欲が出て、メインのテーマが霞んでしまったことは反省すべき点だったと自己批判していたりするわけで。

ともあれ、生命の本質、釈尊が探求した真実とは、結局のところ「クオリア」なのではないか? と考えたのは私からすれば、相当昔ということである。

クオリア……これ、説明困難なんですよ。
ここが比較的わかりやすく説明されてますね。
少し長い記事だが、順をおってわかりやすく説明されているものなら、ここですかね。
リンク先の記事は(9)まであるので、なかなか読みごたえはあるだろうが、生命とは何か? という我々が抱える問題が根本的であるという意識がある方なら、思わず最後まで読んでしまうのではないだろうか。

私などリンク先の記事を読んでいて、結局はさ、クオリアなんて科学的にも論理的にも解明できないんだからさ、仏法でいうとろこ「あるがままに見ていけばいいだけ」だよねという言葉が脳内で繰り返されたんですがね。
乱暴な言い方をするなら、俺にはそう見えたんだから俺の勝手。それを誰がどう見ようとそんなことは問題ない! だって誰も同じものを同じように見て感じることは出来ないんなら、それぞれが自分が見て感じたことを信じればいいだけだからな! でもって、それぞれが感じたことを認め合えばいいだけ。それで世の中平和になるじゃん!! ということになろう。
もっともその見て感じたりするものが、邪見であったり錯覚であったりするから、世の中から騒乱がなくならないわけで……。しかも、その邪見錯覚に執着したり、見て感じたものを無理に統一しようとするからたちが悪いし、意見がぶつかりあって争うんでしょうがね。

差異を認めあえばいいだけ。
俺にはこう見えた! あたしにはこう見えたのよ!
そうか、それならそれでいいよな。違って見えようが問題ナッシングっ!
これでいいじゃない。認めあえば平和になるじゃん!
そのために必要なのはただ一つ、言論・表現の自由だけでしょ!?
だから共謀罪は駄目なんですよ!!


それはともかく、ではこの世界で最も普遍的な性質をもつものは何かと考えたとき、私が見つけ出したのは「光」だったのですよ。
例えば光速度不変の法則とかね。
だがしかし、現在では光の速度は減速させられることも実験証明されているんですがね。
しかしそうではあっても、光のもつ粒子性と波を同時にかね備え、粒子であるとも波であるとも言い切れない性質はまさに仏法の空に相通じているんだから、やっぱり普遍的なものの代表は光しかないだろうと考えざるを得なかったわけだ。
もちろん、「場の法則」などは、それよりはるかに空を理解するにはわかりやすい科学的題材だと思いますけどね。

それに、日蓮の御書にはこうあったのだから。
「人間は死んだら光を放つ(趣旨)」と。

多分、生きていても光を放っていると私は思ってますがね。
それを、あの人は神々しいとか輝いているとかいうんじゃないですか?
後光が差してるとかもいいますしね。
つまり、生命の本質は光だ。私は今でもそう考えざるを得ないと思っているわけだ。

人間の生命に限らず、生命の本質が光であるならば、人は決してといっていいくらい自分自身を知ることは出来ないだろう。
なぜかなら光速というのは、質量が無限大になるわけだから、人間が体内のどこかに光を内包しているならば、その部分は光速にあるわけで、その状態とは、質量無限大=ありとあらゆる宇宙の物質と同化しているということになるのだから、自分=宇宙になり、そこに自分など存在しえないからだ。

もちろん、意識(認識)という部分だけに限っていえば、自分は間違いなくここにあると感じ、そう結論することもできるのだが。
そういう観点で考えると、釈尊は生命の本質を探究したにしても、結果いえることは「あるがままを受けいれなさい」としか結論できなかったことには肯けるわけだ。

もちろん意識(認識)できる部分に関しては正しい認識をしなさいと言っているのだろうが。
それが八正道のまずはじめにある「正見」なわけだ。
もちろん正見といっても、クオリアのリンク先を読んだ方ならわかるだろうが、究極的にはすべては主観的でしかないのだから、自分が感じ、思い、認識したとおりのものをあるがままに受け入れるという方法しかないわけだ。

そして当然のごとく、クオリアという主観というのは個々人によって違うというか、自分が感じたもの以外(他人が感じたもの)を絶対に知ることができないということなのだ。
このことを遥か昔に気づいたのがソクラテスであり、「無知の知」として有名なあれだ。
当然、釈尊もそれに気づいたということが、多分仏の覚りだろう。イエスももちろん気づいたのだろうし、老子・孔子なども気づいたのだろう。
そして、近現代でいえば、それをきちんとした理論に仕上げたのがカントなわけだ。

wikiというのは嘘も書かれているが、でもそれなりの情報が記載されている。
そこなんかを読んでみると、クオリア探求は仏法でも行われていたことも触り程度だが書かれてはいましたよ。

ようするに仏法でいうなら、クオリアってのは「五蘊」を総合的にまとめたものということになるのだろう。

色・受・想・行・識。

色=ある現象を体験すること。
受=その体験の感じ方は個々人によって違う。つまり主観的である。正確にいうならば「的」という語句は必要ないかもしれないが。
想=その主観的感受性から導きだされる思いや想念(もちろん錯覚や邪見もある)
行=思った想念から起こした行為・行動。(もちろん無意識の行動もここに含まれる)
識=行為・行動した結果生命に刻まれる記憶。(いわずもがな、無意識に行なったことも記憶に刻まれる)

ときに我々はこの識という記憶を(悪)業とか呼んで嫌っているのだが、自分で作りだした識(業)なんだから、嫌っても仕方ないのですよね。受け入れるしかないの。
どうしても嫌だというなら、自分が刻んだ記憶を自分で書き換えて、自分にとって愉快であるとか価値的なものにすればいいということ。つまり「煩悩即菩提」がそれだろう。だから、書きかえには「厳しい自己批判はもちろんのこと、努力や自己鍛錬や自己訓練が必要」なのであって、煩悩がそのまま菩提になるわけではないわけだ。

ともあれ、すべては主観であり、かつその主観的なものは当然個々人で違う。
だったら、誰であっても、自分自身に生きる以外に方法はないでしょ。
こうなるわけだ。
でも、これを信じられる人、信じて実践できる人は本当に僅少なのが現実。


昨夜、ブッダイエスのことを学ぼうと思い、You tube で動画を観た。

ブッダも素晴らしいけど、キリストも素晴らしいですね。ひとりの人間として。
イエスの場合、あまりにも神格化、神秘化されすぎな部分はありますが、一人の人間という視点で見ると、えもいえぬ感動があると思いましたよ。無論、ブッダも神格化されているが、イエスほどぶっ飛んではいませんね。

なぜ殺されるとわかっていながら、イエスはエルサレムに向かったのか?
イエスが自分の身命を犠牲にして、民衆、ユダヤの司祭たち、ローマの権力者たちに悪事(嫉妬・怨恨などなど)を体験させることによって、人間の中にあるどうしようもない極悪を自覚させようとした。
人間の中に極悪はある。だが、わたしが体現して見せたように、赦しなさい、と。
そうすれば世界から一切の争いは消え失せる。天の国に至る(争いのない理想の世の中になる)と説いたのですね。
イエスがあそこまでして教えても、未だ人類は「許す(赦す)」ことがなかなか出来ないのでしょうがね。

私、エルサレムの神殿について露店で金儲けしてる連中のところで、イエスが大暴れする挿話大好きなんですけどね。はじめてこの挿話を知ったときは、「イエスさん、どうしたん? なんか癪に障ることでもあったの?」とか思ったんですがね。

でも真意はこうでしょう。
「てめーらこのやろう! 宗教を金儲けの道具にするんじゃねーよ!」というイエスの痛烈な批判だった。
そのカッコよさといったら、あるいみ爽快感すら抱いてしまうわけで。
でもイエスさん、暴力はいかんと思うよ! あくまでも言論でいきましょうよ! みたいなね。

イエスが大工だったというのも興味深いですね。
人間が文明の中で生きていくに際して、まずもって絶対的に必要な家を作る仕事ですからね。いわば、生きていくための根本・基盤ですからね、家は。
家を作るといっても、ただ作るのではないでしょう。その土地の性質、気候風土や慣習、周囲の自然環境や住環境、その家に住む人たちの気持ち。ある意味で匠な大工になろうとしたら、総合的にものが見えなければならないと言えるでしょうからね。

そうそう、ブッダの場合、「死者を出したことのない家から芥子をもらってきなさい」。イエスの場合、「これまで罪を犯したことのないものは名乗り出よ」という挿話。これも本質は同じことをいっていて、感動というか吃驚しましたよ。
ようは個々人が個々人の内面(体験)をつうじて考えれば、受けいれざるを得ないものは受け入れざるを得ないのであり、そういったことで他者を責める命を滅する(冥伏させる)ことができるのだという説きかたが同じとかスゲーな! みたいなね。

また、イエスにしろブッダにしろ、臨終のせまったときに口にした言葉が本質的には同じというのも凄いですね。

「わたしのことなど心配しなくてもよい。それよりも、あなた自身とあなたの子どもたちのことを考えて生きていきなさい」と。つまり、自分自身に生きなさい、と。
それをまた当時卑しいとされていた女性たちに言っているあたりは、イエスの中には男女平等の精神があったということですしね。

「法を依りどころとし、自らを依りどころとせよ。すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」(大般涅槃経)



何にしても、ブッダ、イエス双方の動画でガンジーの言葉が紹介されているのがまた素晴らしい。
そう、ガンジーというのはありとあらゆる宗教を取り入れ、自分にとって素晴らしいと思うものは、宗派の枠を取り払い、「自分の信仰」を作りあげていった人だ。
つまり、一宗一派や一教祖がつくりあげた教義に拘るのではなく、自分は自分の立場で、自分の中に総合宗教を作りあげていったわけだ。

私はガンジーのような生きかたこそ、理想であると信じている。
むろん、釈尊もそういう生きかたを目指したのだし、日蓮にしてもそうなわけだ。
だから彼らは様々な宗教や思想のよい部分を、包摂していったわけで。


議題変わって――。
日蓮は攻撃的だったのか?

今のわたしは、ある部分ではそうだったと思っている。
ただしそれは言論の部分で攻撃的だったのであって、むしろ日蓮を迫害した浄土宗とか権力のほうが暴力という力を用いたという部分を見れば、彼らのほうがよほど攻撃的だったと結論している。

しかし法華経に説かれる「言辞柔軟」という語句に照らし合わせたとき、また八正道にある「正語」を鑑みたなら、日蓮は攻撃的であったと結論せざるを得ないし、そこに日蓮の限界、釈尊に及ばない部分があると私は見ている。
無論、言論・表現の自由という観点を加えてみれば、言辞はさほど問題にすべきものではないという面もあるのでしょうがね。

動画の中でもいわれているのだが、釈尊は相手が無茶苦茶なことをいおうが、一旦まず認めて受け入れてから法を説いたという姿勢。これこそ最高最善の人間の理想であると思うわけだ。
攻撃的であったか? を検証するにしても、日蓮一人を見て判断することは結果、不正確な判断に至ると思うわけだ。物事はすべて相対的であるのだし。

かくいう私など、もちろんまだまだそういう境地からはほど遠いわけだが、その境地への努力は怠りたくないと強く思っている昨今だ。

ipsilon at 11:33コメント(1) 

2017年03月28日

「立て琴ひき(涙と共に)」

涙と共にパンを食べたことのないものは、
悩ましい夜々を床の上で、
泣きあかしたことのないものは、
おん身たち、天の力を知らない。

おん身たちは私たちをこの世に送り、
哀れな者に罪を重ねさせ、
苦悩にまかせて、かえりみようとしない。
どんな罪でもこの世で報いがある故に。



ゲーテってほんと素晴らしいね!

かくいうわたしも涙とともに食べ物をたべたことはある。
そう、自殺未遂して意識を取り戻したあと、はじめて食物を口にしたあの時だ。
忘れもしないし、忘れそうになったり、慢心していると気づけば、思い出すようにしていく。
「ご飯が、こんなに美味しいものだったなんて、知らなかったよ……」
そう一人つぶやきながら、ポロポロと涙をこぼしながら食べたんだな。

人生というのは理不尽で、下手をしたら何一つ思い通りになどいかない。
けれども、どうしようもない不幸や苦悩さえ、人間はそこに意味を見出し、
その報いとして、生きるための価値を生みだす。
仏法用語でいえば「忍辱」ね。

起こった出来事に意味などない。勝手に起ってるだけだからね。
それに意味を持たせ、価値という報いにしていけるのは、人間だからだ。

人間ていいな!
にーんげんって! イイナ!



ipsilon at 18:54コメント(0) 

2017年03月27日

わたしが歩きたいのは仏の道である。
創価の大道でもないし、池田氏崇拝の道でもなければ、三代会長崇拝の道でもなく、また、曼荼羅への唱題行を通じて他力本願的に願いをかける、お縋り信仰の道でもない。ましてや創価公明信仰などでは決してない。
わたしが歩きたいのは仏の道なのである。
したがって、その道を誤らせたり、迷わせるものから離れることにしたのだ。

この結論に至るまでも簡単ではなかったですがね。
三年、四年と真剣に、それこそ真剣に思索してきたわけだから。ある意味、世間から自分を乖離させてまでそうしてきたんですからね。いえば苦行をしてきたとさえ言える。

日蓮本仏論。嘘だと気づきました。
創価は嘘を教えてくれました。

そもそも本仏といったものを立てることで、全衆生に開かれていた仏法を閉じさせ、特定の人物を崇拝し、信仰の対象にするという一神教のキリスト教的――つまりは外道信仰――に陥ることに気づいたからだ。

池田氏や戸田、牧口からも様々学びましたが、すべてが正しいとは思っていません。
正しいことも言っているが、それと同じかそれ以上に、誤った思想哲学を作りだして、それを人に弘めた事実は否めないでしょう。

そもそも創価の歴史をよく眺めれば、牧口からして大きな誤りを犯していると気づいた。
価値論だ。
カントの「真・善・美」を「利・善・美」にしてしまった時点に、もう既に禍根があったといっていいだろう。

真実など知らなくていい。真実を知ったところで、それを活かせなければ意味がない。だから真ではなく利である、と。
一聴すると、正しそうに聞こえる。だが誤りだ。

そもそも考えてみるがいい、真実を知らずして、どうやってその真実を利として活かしていけるのだ?
不可能だ。ここにカラクリがあるわけだ。

いやそれ以前に仏法に説かれる三諦は、空・仮・中であるが、これはいいかえれば「真理・慈悲・智慧」であるのだから、牧口がカントの「真」を「利」に変えてしまったことは、根本的な誤りとさえいっていいのだ。
もっといえば、最終的には仏法は真理も慈悲もすべて智慧という中道一実として顕れるのであるし、それを日蓮は七文字の題目(曼陀羅)として顕したのですからね。
だから、一応は三大秘宝と説かれるが、集約すれば一大秘法になるわけだ。
いえば執行部が行った会則変更では、この一大秘宝という言葉も今後使用しないと、いわば一大秘宝を否定するようなことをいい出したわけだ。

つまり三大秘宝の本門の本尊とは真実のことであり、本門の戒壇というのは慈悲であり、本門の題目とは智慧のことになるわけで、真実も慈悲も集約すれば、本門の題目である七文字に含まれるということになるわけだ。つまり本尊を知るとは、宇宙の真理を自覚することにほかならない。
しかし牧口はそれを捨てたわけだ。いくらすべてが本門の題目に含まれるといっても、あまりにも乱暴なやり方であり、いわんや末法の衆生が正しい信心に辿りつくためにと考えたならば、あまりにも無謀だったといえよう。
そして学会もまた本尊(真理)というものを蔑ろにしてきた。
だから簡単に会則変更で本尊義という宗教組織にとってもっとも大事な部分をころころと安易に変えられるのだ。そういうレベルが創価教学だ。

牧口自身は、類まれな努力を重ね、真を知ったのであろう。しかし知ったとしても、それを現実に活かすためには、知っただけでは駄目なんだと気づけたからこそ、そう言えたわけである。

だが、真実を知りもしない一般人が牧口の言うことをまに受けて、価値論を取り入れたとしたならば、当然のごとく真を知ろうとしないまま、利を追求しようとすることになる。
ここに創価学会という教団・組織がはじめから崩壊する萌芽があったのだ。

真を知らず利ばかりを追い求めるとは、すなわち「現世利益」重視主義である。
その後、学会の歩んだ歴史を見れば、学会がいかに真に疎く、現世利益ばかり求めていく形になっていったかなど、明瞭なほどに読みとれる。
様々な嘘、改竄、ありえない路線変更などなど、枚挙にいとまがない。

原田会長の「財務こそ大善」などといった発言は、その典型だ。
もちろん、それは池田氏の代にもあったことだし、戸田の時代にもなかったとは言えない。

しかし牧口の思想は思想として高い評価はできる。
彼が、個人として自分はこういう思想哲学をもって生きたいんだと思い、自分の志に心底共感してくれる同志しか求めなかった姿は、ある意味ではガンジーと相通じる部分があるからだ。
だから牧口は宗門と一緒になることを強く忌避した。

しかし、それでは現実に仏法は興隆しないと考えたのが戸田だ。
その後の歴史は今さら語る必要はないだろう。

そして戸田が開いた僧俗和合を、ある意味で破壊したのが池田氏だ。
もちろん、阿部(日顕)氏側にも落ち度はあろうが、どちらかが一方的に悪であると決めることなど、仏法に照らして考えれば、それはおかしいと簡単に気づけることだ。
簡単なことなんだな。気づいてしまえばね。

結局、仏の道というのは――
釈尊とはいかなる境地にたっしたのか? 釈尊が観心した世界とはいかなるものかを、個々人が個々人の立場にあって追求することに過ぎない。
これを仏教用語的にいえば、それは小乗の考え方だとなる。自分だけ救われれば他人はどうなってもいいという利己的思想だ、となるわけだが、本当にそうだろうか?

そもそも釈尊は自他に境はないと説いている。
であるならば、自分個人が救われれば他者も救われることになる。
この論理から考えれば、大乗の思想というのは、自分と他人は違う存在という、釈尊の教えに根本から逆らったものであることなど、簡単に読みとれるわけだ。

それに釈尊は衆生を「救う」ために法を説いたのではない。いおうと思えば、救うという言いかたもできるが、正確にいえば、衆生があらゆる執着から離れ、正しくものを見て「自由」を得られるようにと法を説いたのだから。

そもそも、大乗仏教はそんなに優れているのですか?
そんなことはないですよ。
小乗と大乗の違いとは、
小乗=個人が真実の自由への覚醒を目指す。
大乗=個人だけでやると時間がかかるから、みなで真実への覚醒を目指すために、智恵を出し合っていこう。
という違いに過ぎない。
しかし大乗には問題点が多い。誤解や偏見、先入観をもちあい依存しあい、結局は自分で自分を厳しく見つめることから離れていくという面だ。

だが、仏法の歴史はそこさえ歪め。
小乗は自己中、大乗は多くの人を救済しようとしているから、大乗のほうが偉い、みたいに論理を歪曲し、本来歩くべき仏の道を形骸化させてしまったのだ。

簡単にいえば、小乗とは、個人が釈尊の辿りついた境地にいたるためにはどうすればいいかと、思索し、瞑想し、自分の生命を内観していくこと。
大乗とは、そんな面倒なことをしないで、釈尊そのものを信仰の対象にして、拝むことで、誰もが釈尊の境地に辿りつけるのではないか? ならそのほうがいいだろうという運動であるだけだ。

だから、大乗運動というものには、はじめから問題点があったのだ。
瞑想も、思索も、内観もせずして、ただ釈尊を拝めば、釈尊と同じ境地になれるわけがないからだ。
感応すれば釈尊と同じ境地になれる。そうとも言えるが、では正しく感応する方法を教えているかといえば、少なくとも創価ではそういうことは教えていない。

そして創価が教えてくれた信心だとか教学というのは、ことごとくこの大乗方式なわけだ。
これでは20年信心しようが30年信心しようが、覚りなど決して開けることはないと気づいたのだ。

創価にいて、唱題のときに瞑想し、思索し、内観しなさい。そう教わった人、いるんですか?
恐らくいないでしょう。
わたしはいわゆる二世で、生まれてこのかた創価にいたが、そういうことを教えてくれた人は、唯の一人もいませんでしたからね。
むろん、言うまでもないかもしれないが、そういう瞑想・思索の正しいしかたは天台の説いた「止観」であるわけだが、創価はその点を完全といっていいくらい無視している。
むしろ戸田などは、天台流の講義をやって罰をうけたなどと言って、止観を顧みていくことを怠った部分さえあるわけだ。

日蓮がどのように止観し自分を内観したかなど、誰にも知る由はないが、少なくとも日蓮だって天台から学び、止観を活用したであろうことなど、当然あったことといっていいだろう。

仏教の歴史を見てみればいい。
天台にしろ、竜樹にしろ、日蓮にしろ、まずは徹底的に瞑想、思索、内観、そして膨大な経典を学ぶことによって、自身が真とはなんぞや? 釈尊が内観した真実の世界とはいかなるものか? を徹底的に追及したんですよ。
三人が辿りついた境地は同じ。でもそれを論理や形あるものとしてあらわしたら違うものになった。
天台は一念三千、竜樹は空(くう)、日蓮は題目と曼陀羅本尊になったということ。
だが三者が辿りついた境地は本質的には一致している。空がそれだ。

でも創価では、そういうことをほとんど教えていない。
創価が教えてくれるのは、日蓮信仰と池田氏(三代会長)崇拝。
そして「現世利益」だ。
ここに仏法としての根本的誤りというか、過誤があるのだ。

愚かな人はわたしにいった。
そんなに政治を変えたければ、立候補しなさい、と。

立候補して議員になった瞬間、わたしは庶民の立場を離れ、否が応でも議員、すなわち権力の側に立ったことになるんだ。
だからそういう立場で庶民のためにということは出来なくなるのが必然なんですよ。
そういうことすら考えられずに公明を応援していればいいというのが、創価脳でしょ。

議員を生みだせば生みだすほど、庶民である我々の立場が権力者に犯されて、自分たちが苦しむことになることすら気づかず、議員を生みだしてきたのが創価ですよ。

だが、賢明なガンジーは言っている。
今日からは政治とかなんとかに一切頼らず、自分を頼みにして生きていきなさい(趣旨)と。

教団も同じだ。
諸行無常の世界にあっては、組織は必ず形骸化する。
教団を作った瞬間にもう形骸化ははじまっているのだ。
いかなる組織も、諸行無常の法に逆らえず、形骸化することは避け得ない。
いくら池田氏が、創価だけは形骸化しないとか豪語しようと、それは諸行無常の法に反する豪語でしかないからだ。
そのことに気づけば、歩くべき道はひとつしかないと気づける。

かつて、天台や竜樹、日蓮がしたように、釈尊が内観した真実の世界とはいかなるものか? を自分なりに探求し、出来るかぎり体得・体現し、そうして見た世界を、知りえた世界を、知りたいと思う人に伝え残していくことである。
それが、仏の道である。
いいかえれば釈尊の境地を自分の中に甦らせるという実践である。

いわば、日蓮仏法とは、日蓮の心眼をお借りして、釈尊が極めた最高善の境地を自分の中に観て、そこから智慧を得て、瞬間瞬間に見合った行いをしていく才覚を身に着けるということになる。
だが理想は、日蓮さんの心眼をお借りしないでもそういうことが出来る自分になることであるわけだ。
まあこれは末法の今では相当に難しいであろうが、不可能だとは言えないだろう。
参考にあげたリンク先をお読みになればわかるが、その方など、曼荼羅御本尊も釈尊の到達した境地を垣間見るための「指標」であると言っているわけだ。
もちろん、他にもこのような境地に至った人がネット上で発信をしていることなど、意外なくらい多い。
ようは御本尊すら絶対視していないといっていいだろう。
だから現実的には、御本尊を絶対視するのではなく、日蓮さんにはそう見えたのか……でも俺にどう見えるかは俺自身が確かめるしかないよね。一応今は、日蓮さんのこの曼陀羅を参考というか指標としてね、といったような真剣な思索の唱題こそ正しいといっていいだろう。

だからといって、自分が観たように人にも見えるのだというようなことを言うべきではない。
そういうことをすると、「そうか、そんな風に見えるのか」とか「そう見えるようになることが信心がある証拠か」などと先入観を持ってしまうのが愚かな人間というものだからだ。
だから、本来小説『人間革命』で描写されたような、戸田が唱題していて御本尊が大宇宙に見えたなどという表現はするべきではなかったともいえる。それこそ桜梅桃李であり、人それぞれ観えるものは違うであろうからだ。

間に人をかいすな。そう考えれば、天台にしろ竜樹にしろ日蓮にしろ、釈尊の間にはさんではならないのだ。
もちろん、釈尊の境地に達するための参考として天台などの思索したものを助けとすることはかまわないだろうが。

するってーと、あんたは釈迦本仏論かい?
そうといえばそうなるが、釈迦本仏論といったところで、それは特定の個人を信仰の対象とするのでもなければ、個人崇拝でもない。

そもそも釈迦というのは目覚めた人という意味ですからね。
人間として生まれて、もっとも人間らしく生きる生きかたに気づき、死ぬまでそういう生きかたを貫く人のことなのだから、偶像崇拝でもなんでもない。
釈迦以前にも目覚めた人はたくさんいたであろうし、釈迦以後にもいた。現在だって世界を見わたせば、そこいらじゅうに目覚めた人はいるだろう。そういうことだ。人間として最高最善の生きかたをしている人に釈迦と「名づけた」だけなのだから。
だが日蓮本仏論はそうではない。あれは日蓮崇拝に過ぎない。

じゃあ曼陀羅御本尊の意味は?
あの曼荼羅は、日蓮が内観した釈尊の生命の状態を顕しているのだから、それはそれで意味があるのだ。
だからといって日蓮の顕した曼陀羅が完璧で、絶対に間違いがないかと問えば、間違いないとは言えないだろう。

結局、今のところは、日蓮が顕してくれた曼陀羅をもとに、わたしはわたし自身を内観し、これこそ真実であるというもの(釈尊が辿りついた境地)を、自分の中に観て信じることでしか、わたし自身に安穏は訪れない。

そう気づいたということ。

そして、わたしにとって創価学会とは、いまや、そういう生きかたの邪魔をするものでしかないということだ。
だからといってわたしは創価を恨んだりはしませんけどね。
なんだかんだいっても、今のこの段階に辿りつくには、創価から学んだことも多いのだから。

さようなら、創価学会。
いまは素直にありがとうとさえ言えないのが正直なところですよ。

なににしても、この短い記事で全てなど語ることはできないのです。
その点は、読者には申し訳なくも思うのですが、致し方ないでしょう。

参考その1
参考その2
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参考その4

犀の角のようにただ独り歩め(釈尊)

ipsilon at 16:36コメント(68) 
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