2017年05月

2017年05月30日

譬喩品のつづきです。

長者(仏)とその子どもたち(諸子=衆生)の屋敷が火事になった。
しかし、長者が心底心配して(真心=仏の立場から)すぐに屋敷から出なさいと三度いっても、子どもたちは遊びに夢中で(五濁などに執着し)、燃える火の中からでようとしない。もちろん、この炎とは煩悩のことである。
よって法華経ではこの部分で、人間というのは、自分の煩悩で自分を苦しめていることを明確に述べているわけだ。

そこで困った長者は方便をつかう。
三人の子どもたちが以前から欲しがっていた車が外にあるから、出なさい、と。
その車は、羊車、鹿車、牛車だ。むろんこれは方便の教えである、声聞、縁覚、菩薩のことだ。

かくして、子どもたちは屋敷の外にでる。
屋敷の外は仏の覚りである実智の境涯ということだ。

しかし、そこには三つの車は見当たらない。
子どもたちは「あれ? 車くれるんじゃなかったの?」と。
これぞまさに「嘘も方便!」ですな。

そもそも、羊車、鹿車、牛車は荷物を運べない車なのだが、まあそういう説明は本文にはない。
ようするに、荷物を運べない車というのは、声聞、縁覚、菩薩の道を行じたとしても、それには功徳がないということをあらわすのだそうだ。
そう、ようするに、仏の境涯になることによってのみ、功徳があると法華経は説いているのだ。

おおくの人々は、こういうことさえ知らなかったり、勘違いして、自分勝手に功徳とはこういうものだと言ってるわけだ。
かくいう私も、まあそんなレベルだった。だからこそこうやって学んできたのだ。
ようするに、以前から記事に書いてきたように、成仏といっても、それは相・性・体という部分にしか現れない現症であるということだ。

そうしたことを、聖徳太子はこう釈している。

ゆえに、先ず機を発することを明かし、後に果をもとむることを明かす

――と。

つまり、仏の本懐は「衆生を大乗の機へと導き、覚りの境地に近づけることであって」、車がもらえるという結果、すなわち功徳(愚かな衆生が功徳だと勘違いして、功徳だと見ているもの)は、功徳でも何でもないと言っているのだ。
羊車、鹿車、牛車をあげると言ったのに、外に出たら無かった!
この文こそ、三乗の道には功徳がないということをはっきり譬喩で伝えているわけだ。

ゆえに、仏の本懐はあくまでも、機根を整え、成仏への道へ導くことであり、結果(車)を求めるのは衆生の執着にすぎない、とまあこういうのが本当の法華経の精神なわけだ。
毎日そう声にして誓ってるんじゃないの?
毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身 とね。
仏というのは、いつも衆生をどのようにして、無上道に導けばいいかを思惟している。
そういう意味ですよね。この思い(念)というのは機根を整えるって意味じゃないんですか?

経文にも何度も出てきましたよ。
爾の時、長者は、即ち是の念を作せり。
とね。

考えもしないで、だされた打ち出しに従っていればいいという思考。すなわち思考停止。そのことを、自ら念を作したというんですか?

しかし狂信・妄信創価人はそういう感じでしょ。考えもしないで、結果主義に走り、勝って勝って勝ちまくれとか……。
そういうのは仏の意に叶っていないんじゃないですか?
ゆえに、この場合であれば、功徳とは大乗の教えを聞ける境涯に衆生がなったことを「喜ぶ心」であり、かつまた、衆生が五濁や八苦や煩悩から離れたことを「喜ぶ心」であるわけだ。
なぜかなら、功徳とは先の記事で書いたように――

悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり(日蓮)
――だからです。

その双方を為せたからこそ、ふたつの喜びが生じたからこそ、歓喜の中の大歓喜になるわけだ。
友人が、こちらの助言により、それまで執着していた煩悩に気づき、そこから脱する。
ゆえに自他共に喜ぶともなるわけだ。
でもまあ、狂信・妄信会員というのは、試験に受かったとか、経済的に豊かになったとか、まあそういう方便(羊車、鹿車、牛車)を功徳だと思い込み、喜んでいるわけだ。
憐れであるし、可哀想ですけどね。

結果が出たということは=機根が整ったといえるのだ!
そんな強弁をする人がいそうですが、そういう論理には無理がありますよね。
別に信仰をもっていない人でも、努力すれば結果なんていくらでも出せるわけで、でも出せたからといって、大乗の教えを「これは素晴らしい!」といって素直に受け入れられるかといえば、そうじゃないですからね。


ともあれ、このあと、長者は絢爛豪華に飾られた大白牛車(法華経=一乗妙法)を三人の子どもたちに与えるわけだ。
むろん、この絢爛豪華さこそが功徳だということになる。
これがまたほんと豪華なんだ! 本文を読めば、一乗の境涯と三乗の境涯ってのはこれほど違うのか! ってすぐわかるくらいですよ。

きちんと釈尊の真意がどこにあるかさえ学ばず、法華経を知ったつもりになり、あるいは題号を題目として唱えてさえいればいい、なんていうのは、どうなんでしょうかねぇ。
そんな境地にいて、今は末法だから釈尊の教えは役に立たないと釈尊を見下さす。たいした傲慢ですね。

そもそも、白法隠没というのは、釈尊の説いた法のとおり、“修行できるような人がいなくなる”、という意味だ。
それを歪曲して、釈尊の教えなど役に立たない、むしろ害悪だとか言う。
ようするに、自分たちの命の汚れを棚にあげて、自分たちの修行のだらしなさに目をつぶって、成仏できないことを釈尊のせいにしているわけだ。それこそ念仏思想そのものじゃないか。人のせいにしとけばさぞかし楽だろう。
でもって、日蓮こそ本仏だと宣ってるわけだ。
そうやって釈尊を見下してればさ、そりゃ日本も世界もおかしくなって当たりまえです。

仏法は平等大慧だとかいいながら、日蓮のほうが釈尊より上だとか言ってる時点で、そんなもん仏法でも何でもないわ。
日蓮=釈尊。どっちも凄いねなら、話はわかるがね。

そもそも、日蓮が曼陀羅として顕した題号はなんですか?
妙法蓮華経に還れ! って意味だろうが。
その法華経は釈尊と一体不二なのに、釈尊の教えなど害悪とかいえる神経がわからんわ。こんな単純な矛盾にさえ気づけなくて、成仏できる気になってるとか、おかしいんだよ!


それはともかく、ドイツのメルケル首相は偉いね。
もとはといえば米英のクソどもが、アフガンや中東を滅茶苦茶にして、そのせいで難民が膨大な数になっても、人道的立場をつらぬいて、難民を受け入れてきた。
でももはや国内の不満を抑えつけることは不可能になってきた。

アメリカさん、イギリスさん、あなたたちももう少し考えて協力してください!
メルケルはそう叫びたいのを我慢してきたんだろうに。
なのにトランプとかさ、メルケルと握手すら拒否だろ。どんだけ傲慢なんだよ。
アメリカの身勝手でみんなが困ってるのに、当のアメリカは「そんなもん知るか!」だもんね。

そりゃメルケルさんも言うわな。
今後は米英の協力などあてにせず、自立したドイツになるしかない、とね。
いやいや立派! そう、自立するしかないんですよ。
これは個人にあっても日本にあっても信仰にあっても同じだろう。

もちろん自立と孤立が違うことはいうまでもない。



科学はものずごく進歩している。
もはや因果具時さえ証明しようとしている。

われわれが原子を観察した瞬間、どんなに遠く離れていても、二つの原子の間で情報のやりとりが起こる、と。しかもその情報交換は光速よりも何万倍も早く行われている、と。
ようするにこれは、原子に原因と結果が同時に備わっていることをほぼ証明しているわけだ。
そしてわれわれが観察した瞬間、その因果が現れる。
つまり、われわれがどう見たかでその結果は変わってくるのだ。
だから、正しいものの見方、仏法でいう正見は非常に大事だということだ。
また善く見ていこうという精神が非常に大事になってくるということだ。

そして、われわれが何も観察しなければ、宇宙は無であると。
現代物理学は、もはや「空」を説き明かそうさえしているわけだ。
なのに、未だにネットとリアルは違うとかいう愚鈍な思考しかできないとかね。あまりにも勉強してなさすぎだ。
問題は自分がものをどう見ているか、なんですけどね。

わたしごときの記事を読んで、「なんだこの野郎! 偉そうに!!」と腹を立てる前に、
まずはサルトルの実存主義でも学んでみたらどうですか?

ipsilon at 15:01コメント(0)『法華義疏』 

2017年05月28日

譬喩品の内容は端的にいえば、法華七喩の「三者火宅の喩え」である。

冒頭、舎利弗が自ら覚りに到達する。
序品、特に方便品において仏が説いた理を聞いて覚ったのだから、舎利弗が上根であることがわかる。
舎利弗はそこに集まる衆生のことを思いやり、さらに理をもって釈尊に法を重ねて説くことを請う。

だが、釈尊は舎利弗の覚りを讃嘆し、授記(未来に華光如来になってこれこれの長い時間法を説き、これこれの衆生を済度させるだろうと予言する)をあたえたあと、理によって法を説くことを拒否して、譬喩品を説きはじめる。

まずもって、舎利弗の覚りというものが自発によってなし得たことに注目すべきだろう。
むろんそこには、釈尊との関係性や対話という縁があったのだが、覚りというものは本来、本人が気づいて到達するものだと提示しているのだろう。

仏に至る原因は本人の中にある。しかしてそれを引き出す縁が必要。仏とはその縁(智慧そのもの)なわけだが、その智慧自体は無作なので(働きがないから)、仏は菩薩行を通じて、行為(あるいは言葉)となして、それを縁として本人が覚るという法則が見えるはずだ。

そしてこうしたことを自分だけでやろうというのが、曼荼羅を拝して唱題することにあたるわけだ。
曼陀羅の相貌が、釈尊己心の智慧を授ける儀式になっているのは、そのためであるということだ。
その根本はいうまでもなく妙法蓮華経という縁起の法なわけだ。
このように人の行ない(自他の会話や自己が曼陀羅に唱題する行為)を通してしか、覚れないから人本尊というのももちろん重要なのだが、あくまでも覚るべき法は妙法蓮華経なわけです。
それを弁えもせず、日蓮本仏論など唱えるなど、個人を神格化する謗法以外の何ものでもないということだ。

無論、先の記事で書いてきたように、覚りには喜びだけあるのではなく、それまで執着していた自分を悔いるという二面があるわけだ。
よって、わたしなどは信心していようがいまいが、謝れない人、反省できない人、また自己を良い方向に改めようとしない人は決して信用しないし、関わることを避けているというわけだ。なぜならそれこそ悪縁だからだ。
繰り返し「自分を見つめるしかない」といってきた理由は、自分を見つめていなければ、反省など絶対といっていいほど出来ないからだ。

悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり(日蓮)

つまり功徳とは、自省によって過ちに気づき、それを正せたことを喜ぶということになろう。

社会悪を良くするぐらい自分は善行を働いた、だから嬉しい、よって功徳だ。
こんな考えかたは功徳でも何でもなく傲慢であり、独善だということだ。
自省と是正なき喜びなど功徳でもなんでもないということだ。


といったところで、法華経は比喩品にうつっていく。

釈を読んでいくと、全文これ比喩になっている。
ふつうに本文だけ読んでいたら、ただの物語りなのですがね。

つまり簡単にいえば、「三者火宅の喩え」とは「開三顕一」を物語として聞かせ、中根の人々に舎利弗と同じ境地に到達させようとするのが目的の品になっているのだ。

ゆえに、長者=仏であるが、わざわざ長者がすごく年寄りで、体も衰えているとか物語っている。
これは、長者の長生きを仏の寿命の長さに喩え、仏の智慧とは身体能力や行動力よりもむしろ智慧なのだということを喩えているのだそうだ。

このように、長者とその子どもたち(もちろん子どもたちはわれわれ衆生である)という登場人物自体が法の喩えになっているわけだ。
この設定も奥が深く、釈を読んでいくだけで、思わず仏の慈悲の深さに胸を打たれたのですがね。
「父子」という設定。子どもたちからしたら長者なんてあまり気にもかからない存在だろうが、父の立場にたって子どもへの愛情を考えてみれば、この設定が絶妙なことはわかろう。

そして彼らの住んでいる環境。この設定も見事なまでに法の喩えになっている。
壁がボロボロだとか、梁が腐っているだとか云々。
こういった表現は、われわれが悪縁(壁)に囲まれて生きていることをあらわしているのだそうだ。

同様に、火事になって、長者が子どもたちに「逃げなさい!」と(三回も)言っても、子どもたちが遊びに夢中になって逃げない理由も喩えになっている。
釈ではきちんと仏法用語に置き換えられているが、ここでは煩わしいのでそれはしないが、要するに、衆生の命も濁っているので、衆生自体の中に悪因があるので、仏の実智(大乗)の教えを聞きもしないことを、火事になっても逃げださないと物語っているわけです。

そしてわたしが「ああ、なるほど」と感心したのは、まず長者(仏)は、自分の立場で「逃げなさい」と勧めていることだ。
これはいきなり大乗(実智)に導こうという大慈悲なわけです。
でも衆生は悪縁に囲まれ、衆生自身も悪業に穢れているので、大乗を聞き入れる機根になっていないのですな。
よって三回言っても、子どもは逃げ出さないのです。
そこで、長者はしかたなく権智(方便)を使うのです。

まずは本音で三回ぶつかってみる。
それで自分の本心が伝わらなかったら、衆生の機根をみて方便を使う(相手の立場にたって手段を工夫する)ということですよね。

しかし現実に、こういった忍耐力をもって人と対峙できる人はなかなかいないわけだ。
自分の主張ばかり言い続けたり、全く相手の立場に立とうともしないわけだ。
現実にはまずもって本音で語り合うまでに信頼関係を構築しなければいけないわけですな。

もちろん、わたしがここに書き出したことは比喩品のほんの一部だ。
実際はもっともっと深いんですがね。
門とは小乗と大乗を繋ぐ門であるとかね。だから非常に狭いとかね。

なぜ火事になったのか?
実は比喩品では、それを明かしていない。というか説明すらしていない。
しかし、ありがたいことに『法華義疏』には聖徳太子の釈があるので、とてもわかりやすかった。

なぜ火事になったのか?
なぜかなら、この世界はすべて「空」=縁起によって起こっているのだから、(悪因に悪縁が結びついて)勝手に火事になった(悪果が訪れた)だけだからです。
この説明していない部分こそが、そう法華経の肝心なわけですよ。

なぜ火事になったのか? をもう少し丁寧な言い方で説明するなら、いろいろな(悪)因がありまたそれにいろいろな縁が依って、なるべくして火事になっただけであって、子どもが火遊びをしたとか、ガラス窓がレンズの役割をして太陽光が集まって火が出たとかいった、明確な原因と結果など、「空」の観点(仏の智慧)から見たら、全くもって正しい原因でも結果でもない。そういうことですよね。もちろん権智で見れば、そういった原因結果は防災に役立てることができるのは言うまでもありません。つまり現世利益を考えるなら、権智こそ有意義だともいえるわけです。しかしその権智は実智から生まれるわけです。ゆえに権実不二と見るのが正しい仏法なのです。

しかし実智で見れば、原因と結果というのは、あくまでも因と縁が結びついてひとつの果になっているというだけのこと(法則)なんですね。だから、仏の智慧から見れば、火事の原因など明かす必要もないわけです。

あえて明かすなら、すべては一因一果(一乗妙法)または、すべては因縁によって“勝手に”起こっているとしか説けないのですが、いまだ覚りを得ていない中根の衆生に今それを話しても無駄であり、かえって惑わせるので、比喩品では、なぜ火事になったかについて触れていないのです。

いやはやお見事なものですよ。素晴らしいですよ法華経は。
まあそういったことで、命の汚れた衆生というのは、“勝手に”起こっていることをこれまた自分勝手にこれが原因でこういう結果になると考え、これまた勝手に自分で自分を苦しめているわけです。

しかし、勝手に起ってるなら、ありのままを受け入れれば苦は生じないというのが、仏法(実智=真実)によるものの見方なのですよ。
しかしまあ、勝手にであっても、起こったことを放置していたら、生活自体が滅茶苦茶になるので、起こったことに対処していくのもまた仏法(権智=方便)のありかただということです。

それなのに、権実相対して権は劣だから捨てろなんて教えられてそれを鵜呑みにしていたら、いわゆるこの世のすべての事象は勝手に起ってるんだから諦めるしかない。だったらなにもしないでいてさっさと極楽浄土に行けるように祈祷しようという念仏の思想(現世否定・現実逃避)に堕してしまうわけだ。
この辺をよーく考えてみるといいですよ。

太宰が言っていたことが正しいんですよ。

どのような人でも、生きて在る限りは、立派に尊敬、要求すべきである。生あるもの、すべて世の中になくてかなわぬ重要の歯車、人を非難し、その人の尊さ、かれのわびしさ、理解できぬとあれば、作家、みごとに失格である。この世に無用の長物ひとつもなし。


太宰さん、立派、立派!

ipsilon at 23:58コメント(0)『法華義疏』 
さすがに三度目ともなると、以前読んだ印象もしっかり覚えていたが、自分のものを見る視点があがっていることにも気づけた。

権実相対――。
教義というのは、何かというと勝劣だとか浅深ばかりに拘り、大体においてそういうことが論争になる。
しかし、この権実というのは、仏の智慧からすれば存在しないということが、長行で明かされている。

こう説明しても何のことかはわからないのだろうが。
ずっと前からわたしが使ってきた言葉でいえば「善悪一如」とか「表裏一体」というのが仏の智慧、つまり実智であり、真実。
でもね、これがわからないみたいですね。
そして、勝劣だとか浅深をつけて、善を選んだほうがいいよとか導くのが権智であり、方便なんですけどね。
ゆえに、言葉にした瞬間、それはもう権智であり方便にならざるを得ない。ゆえに実智は言葉では説けない。
そう法華経の本文では説明されているのだが、まあ、これを体得して話せる人は、創価では極僅ですね。

例え戦争法や共謀罪に反対していていても、反対だ、駄目なんだという内容の批判一辺倒。
なんで反対なんだという理由も疎かにしている場合が多い。そしてその理由も断片的な場合が多く、究極的にこうなるからだと訴えている人は少ない。

共謀罪は、人間の内面生活にあってもっとも大切な自由を委縮しかねない。
言葉でいうなら、これが実智に基づいた、ぎりぎり一杯の弁論になるのだろうが。

しかしそういっても、命の濁った末法の衆生のような人々にはピンとこないわけだ。
だから断片的な理由を重ねたり、あるいは比喩例えを使って話したり、あるいは因縁(原因と結果の論証)で、共謀罪に反対の声を上げている、ある程度の数の心ある創価人もいるわけだ。

そう、この断片的な理由を重ねたり、あるいは比喩例えを使って話したり、あるいは因縁で物事を評価してゆくことこそ権智というのだ。

しかし、教義になるとこの権智は実智より劣っていると言って捨てるべきだとか言いだすんだな。
これが本当に困ったところなのだ。

もちろん仏の智慧に到達させるのが仏が世に出現した目的(出世の本懐)だから、それはそれでいいのだが、そこを衆生も極端に受け取ってしまうというわけですね。


わたしはこう思っている。
内外相対からはじまる五重の相対にしても、仏の本心からすれば、権実に差別はない、と。
というか法華経にはそう書かれているし、聖徳太子もそう釈してるんだわ。
太子は「作」の違い、あるいは「鏡」の違いだと釈してましたよ。
まあそうですよね。無作の実智には働きはないですからね。けど権智にはあって、それが力・作・因縁・果報として現れるんですからね。
「鏡」はようするに対鏡、あるいは境涯のことですね。
相手によって説き方が変わるということ。相手が認識できる最大値を見極めて法を説くのが仏だと。

よって権実は而二不二――ふたつにしてふたつにあらず。
あるいは権実不二とね。
けど多くの人は、そこがわからないみたいですね。
つまりは、言葉というものは二面性のあるものの片側しか言いあらわせないんだということなんですけどね。

故に、人間が社会で仏の所行をしようと思っても現実的には出来ないに等しく、仏の智慧、実智といっても、実際は方便=権智の形をもってしか表現できないし、実存させることも出来ないということなんです。

だがしかし、教義などでは簡単に権実相対して実が勝とか教えてしまうから、信者は極端な思考になってしまうんだよ。

善と悪がその典型。
実智で見れば善悪は同じひとつのもの。そこに境目はないんです。
けれどもそれを言葉でいってもわからない。
言葉でいうなら、自由という語句には善も悪も含まれているし、どちらかが良いとか悪いという概念ではないでしょ。

だけど、実際の現実では、こういう自由な状態から、善なる行為などをしてあらわし、悪なる行為などを滅するという菩薩行を行っているわけですよ。
けどちゃんとよく見れば実智と同じものになってるんです。
なぜかなら、善だけ言ってるわけでなく、悪は駄目だだけ言ってるわけでもなく、善悪の関係にバランスをもたらそうとしているからです。

つまり、正しい批判というのは、ただ善であれとか、ただ悪は駄目だという片側だけを叫ぶのではなく、善と悪双方を提示してはじめて実智に見合った方便をしたことになるわけだ。
けど、大概の人の主張を見ていると、善なら善だけ、悪なら悪だけしか追求してないんだな。
仏の智慧からしたら、そんな批判のしかたをするなら、しないほうがいいということになるのですがね。
だってそうでしょ。内心にあるときは善悪の区別がなく調和してるのに、その調和をそのまま外に出さないで、わざわざ調和を乱すような表現をすれば、それは害悪でしかないですからね。

ともあれ、何にしても、権実相対して実を取ればいいという偏った教条思想は仏法ではないのだ。
内外も大小も同じだ。

じゃあなぜそのようになるのかといえば、それはひとえに仏の責任ではないんだな。
仏ははじめから実智だけを教えたいの。でも出来ないんです。
なぜかなら、衆生の命が濁っているからなんです。
だから、実智を説くためには、まず実智に入っていく門である権智を説かざるを得ないということ。
しかしその智慧の門にさえ入るのが難しいのが末法の衆生。
ほらね、方便品にも明らかに末法のためという文言があるんだよ。

そしてこの衆生の命の濁りを仏法では「機根」というわけだ。

機根は三つにわけられる。
上根・中根・下根だ。ちゃんと法華経にあるんですよ。わたしが作りごとしてるんじゃないんです。

上根は、これまで述べてきたような理屈=理を聞いただけで覚れる人。
下根は、因縁(原因と結果)を聞かないと覚れない人。
中根は上と下の間。理や教では覚れない。でも物語性をもつ比喩を聞けば覚れる人。

そして末法の今というのは、ほとんどの人が下根なんでしょ。
しかし、わたしはそういう見方はしてませんけどね。
末法でも上中下、すべての機の人はいると見てます。
同じように、釈尊もそう見たから、あえて法華経でこれまで述べてきた説き方をしてるんでしょ。

正法なんだからこう。像法なんだからこう。末法だからこう。
そういった極端なものの見方を嫌ってるのが仏法だということです。

まあ確かに凄いですよ、上根の機っていうのはね。
方便品に説かれている「十如是」。これだけが実智なわけですから、それを聞いて覚れるんだからね。
わたしには無理。とうてい無理。

じゃあ、十如是はこうなってああなってとか、なんで三回読むのとか説法されて、ああなるほど! と覚れるのが中根。わたしはまだ無理。ある程度はそういうことらしいんだ……くらいはわかるとしても理解したとはとうてい言えません。
ということで、わたしなどはまあ下根でしょうね。
けど世の中にはいますよ。中、上根の人はね。

とにかく「機根」にあわせて法を説くのが仏の慈悲。
けど、そういうことをわきまえず、相手の立場になどたちもせず、日蓮の教義にはこうあるし、池田氏の指導のとおりにやればいいんだ! といって一方的にやってるのが狂信・妄信会員でしょ。
だから、そんなもん、仏法ちゃうわ! って批判してるんだよ。
むしろ仏の思いを裏切る謗法だわ!! ってね。

だって日蓮は末法だから因縁である原因と結果――曼陀羅に向かって自行化他の題目あげれば成仏する――って説いたじゃんと言うのでしょ。
それはそうです。基本的には末法の衆生向けに仏法を教えています。
けれども、日蓮の振舞いを良く見れば、理だけで覚れる人には理を説き、比喩で覚れる人には比喩をつかって法話してるでしょ。
そういうことなんです。

釈尊の時代も日蓮の時代も天台伝教の時代も、まともな菩薩なら必ず衆生の「機」を見極めて振る舞ってるんです。
しかし、そこを見もせず、末法だから折伏だ! 
そういう極端なことしかしてこなかったのが創価でしょうが。
だから、釈尊を見下して、白法隠没だとか言っちゃうんだよ。

違います。
釈尊の説いた法は隠没なんてしませんよ。
隠没するのは釈尊の説いた教えから派生したものや、釈尊の教えを釈したものが隠没すると言われただけです。
より正確にいえば、実智はいかなることがあっても隠没などしないのです。隠没するのは権智だということでしょ。
そういうところをきちんと理解せず、釈尊の法華経など効用なし、むしろ害悪だなんて言ってしまったら、それは大謗法なんですよ。

日蓮は誰のどの経を依処としたんですか? 釈尊であり法華経でしょ。
じゃあ依処としたあとは、それはゴミでありいやむしろ害悪だとか傲慢なこと言うと思うのか?
そんな慢心を日蓮がすると思うのか?
ここをよく考えてみればいい。
だから日蓮本仏論などおかしいと言っているんだ。
日蓮自身が「わたしこそ本仏です」なんて、言うわけがないんだ。

道理で見てもおかしいでしょ。
自分がとても大きな発見をした本とその著者。
読み終わってそこから発見したものが沢山あるのに、発見した俺は神! しかして、その発見のもととなった本と著者はゴミ! いやむしろ害悪だ!!
そんな慢心するのか? しないよ普通。失礼極まりなしだもん。
そんなのは恩を仇で返すというんだよ。
だから日蓮本仏論など、大謗法だと言ってるの。

ともあれ、実智とは己心の覚りであり、内的安穏なんですよ。
そこに住していれば仏であって仏じゃないということ。
つまり、仏とは権智をもって、法を説く対象の衆生がいてはじめて仏だということになろう。

もっとも、言葉を使わず、黙って説くという方法もあるが、これだって環境というものとの関係性があるわけだ。
黙って行って実智を覚れる機根の人がほぼいない末法なのに、そういうのもどうかと思いますけどね。
けれども、河合隼雄なんかはそういう感覚はいいよねと言ってますよね。
「わたしは、なにもしないで生きていたい」とね。
どういう意味かといえば、何か行動に起こすということで自分は、どうしても偏りを生んでしまうということをよく自覚しているからでしょ。
それは素晴らしい境地だと思うんですけどね、わたしは。厳格なまでに自省しているからこそ「わたしは、なにもしないで生きていたい」とか言えるわけでしょ。

だから、自分の頭で考えて、自分の言葉で二面的である両面をきちんと語っていく。
言葉にして発していくのが一番いいだろう、というのがここ数年のわたしの信念なわけだ。

あくまでもネットですからね。
読み手の機根もバラバラですから、非難もあるの。馬鹿だキチガイだと見られることもあるの。死ねとかも言われるの。落ちるとこまで落ちたとも悪口されるの。そんなもん経験済みだからビビらないんです。
それだけのことなんだな。
わたしはわたしの信念(実智というと大げさだが)に生きてるだけ。

ともあれ、機根ですよ、機根。
相手の立場にたてるかどうか。これが出来ているかを自省せずして、自分の都合だけで言動してたら、それはもう仏法ではないということ。
また、悪と後悔が去り、善と喜びを生じさせてはじめて仏法者であり、正しい菩薩行をできているということでしょ。

そのことを方便品から学び直しました。

ipsilon at 09:07コメント(0)『法華義疏』 

2017年05月27日

昨夜からまた『法華義疏』を読みなおしはじめた。
途中で投げ出しては挑戦し、今度が三度目。なぜそうなるかというと、疑問が解消しないからだ。

序品、最大の疑問を呈したのは以下だ。

かつて日月燈明仏という仏が、「妙法蓮華経」を説かれたときには、たくさんの衆生が集まり、仏が三昧(禅定)に入られたとき、二人の菩薩がやりとり(質疑応答)をした。

また、日月燈明仏という仏が、「妙法蓮華経」が説かれた時もそういうことがあった。
またまた、日月燈明仏という仏が、「妙法蓮華経」が説かれたもそういうことがあった。
つまり、日月燈明仏は何度も現れては法を説いていた。
これは釈尊以前にもブッダと呼ばれる覚者はいたということを言っているんでしょ。

そして今、釈迦如来(仏)が、「妙法蓮華経」が説かれるであろう以前に、最後に日月燈明仏が、「妙法蓮華経」を説いたときも同じことが起っている、と。そのときに質疑応答したのは、妙光菩薩と求名菩薩である、と。

法華経は、ここまではっきりした文証をすでに序品で提示しているわけだ。

仏は何度も説法している。その法はすべて名前をつけるなら「妙法蓮華経」である、と。
冒頭、仏が三昧にはいっているときに弟子の菩薩の代表、二人が質疑応答するのも同じ、四種の花が天から降るのも同じ、大地が六種に振動するのも同じ。仏が額から白毫を放つもの同じ。
白毫が一筋なのは、四種の花も六種の振動も(十界は)、一乗妙法に含まれているという意味でしょ。
つまり一念三千だと。

そして、最後に日月燈明仏が法を説いたときに、はじめて「妙法蓮華経」という名が提示されているわけだ。
それまでは「大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くる法」という義は同じだが、名前がどうだったかはわからないというのが法華経の本文にきちんとある。

つまりこれは、釈尊が説く前にすでに「妙法蓮華経」という法はあったということを述べているわけだ。
だから、日蓮がそれを説いたんだから、日蓮が本仏なんじゃないか!! というんでしょ。
それはあまりにも忖度のしすぎです。

あくまでも日月燈明仏は日月燈明仏であって、日蓮が本仏であったなどと証明できるものは、何一つない。
仏はあくまでも唯一であり、何度も(常住して)法を説いてはいるが、同じ人と見るのが正しい解釈だろう。
ゆえに、本仏論でいえば、釈尊以外に本仏はいないということだ。
もちろん人間=仏ではなく、仏とはあくまでも智慧であって、いわば釈尊はその智慧を心身両面にわたって体得した人間、そう――人間であるというのが法華経にはきちんと書かれている。
人間を人間以上と見たり、人間を人間以下と見る思想は、そもそも法華経にはないのだ。
だから人間・日蓮。こう見ていくのが筋なんです。

法華経すらきちんと読まず、他の人師(日有や日寛)が言ったこと(そもそもそれは日蓮正宗の教義)を信じて、正当な仏法だとか宣うのは謗法だ。
日蓮の御書といっても、より正しく法華経を釈するためにあるのであって、その法華経すら学ばず、御書だけ学んでいればいいというのはおかしいのだ。
まあ、日蓮を本仏と信じているのだから、彼らにとっては御書こそ法華経より上位に位置するということになるのだろうがね。
でもそれでは、単なる日蓮信仰であって、仏法でも何でもなくなるわけだ。

いやそもそも、日蓮本人は自分を仏に位置させてなどいない。そんなことは曼陀羅を見れば一目瞭然である。
主題の五時は妙法蓮華経なのだから。でもその下に日蓮て書いてあるじゃんというのでしょう。書いてないのもある。あるいは、端に日蓮と書かれた曼陀羅もあるのだ。それに、署名と花押はそもそも日蓮が本仏であることをあらわすものでも何でもない。
曼陀羅にはきちんと方角があるのであって、それを鑑みれば、主題の下にならざるを得ないということなのだ。
もっとも方角とか上下とか天とか大地とか述べているのは妙法が深く広い、つまり広大無辺ということを讃嘆する比喩でしょう。


何にしても、釈尊が法華経を説法する前に日月燈明仏が説法した場面は謎に満ちている。
質疑応答したのが、妙光菩薩であり、求名菩薩であるのがまず面白い。
そもそも、これも比喩であり、一人の人間の内面を擬人化したものと見れば、同一人物であり、一人の人間の自問自答と見れるだろう。

遍くすべてを照らすから妙光菩薩。いい名前ですね。妙という字には絶という意味もあるそうだ。普通のものと比較できないくらい素晴らしいといった意味だ。壮絶とか絶対とかいった語句を考えてみればそれはわかる。
だから絶妙などという語はトートーロジー(同じ意味の語を並べて、意味をわざと強める論法)といっていいだろう。

そして求名菩薩。
名前をつけなければ、それは認識したことにもならないし、実在するともいえない。
よって求名菩薩という名は、仏が説いた法の名前はなんだ!? ということを徹底的に追及する菩薩といっていいだろう。
そう、日蓮はまさにこの立場にあったと見ればいいだろう。だから日蓮の立ち位置は菩薩なのだ。

まあ、日蓮が説いたところの法(曼陀羅)を拝すという立場に自分をおけば、日蓮=仏となるのも理解はしていいる。
ようは関係性によってものごとは入れかわるのであって、固定した形で見ることは間違いだということだ。
そもそも、妙法蓮華経はそういうこと(空=縁起=一念三千)を説いているのだから、日蓮が本仏であると固定したり断定するのはおかしいと言っているのだ。
いってる意味わかりますか? ようするに常にTPOに見合った見方をするのが大事だということです。

そりゃあさ、わたしらの立場から見たら、日蓮は仏に見えるでしょう。
しかし、日蓮本人の立場にたってみなさいよ。それはおかしいとわかりますから。
つまり、相手の立場にたてないで、自分の立場でしかものを見ようとしないのが狂信・妄信創価会員の致命的なところなんだな。

ま、それはともかく、序品最大の謎ってのはこうした部分ではない。

日月燈明仏の法の説きかたと、釈尊の法の説きかたが違うのだが、そのことを序品では説明していないというところなのだ。

日月燈明仏→補処ふしょの徳蔵菩薩に法を説かず、妙光に対して法を説いて授記し、仏自身は涅槃に入る。
また日月燈明仏は→まず法を説き、入滅し、その後に徳蔵に授記している。
釈尊→文殊に法を説かず、捕処の弥勒(と舎利弗)に対して法を説き、授記は薬王菩薩に授ける。
また釈尊は→まず弥勒に授記し、その後に法を説いて入滅している。

【捕処】仏教用語。元来は一生だけこの迷いの世につながれたものの意。一生所繋 (いっしょうしょけ)ともいう。菩薩の最高の地位で、その一生の間のみこの世につながれ、次の生に仏陀となりうる地位(コトバンクより転載引用)。

瑞相も、説く法も、説く仏も、説かれる菩薩も同じ形式であるのに、なぜ法を説く順番が違うのか?
これが序品の謎である。

そして『法華義疏』で聖徳太子はこの疑問を釈していない。
理由はあるんだろうね。だけどわからない。わからないけど間違いなく理由はある。そう見ている。
いや、聖徳太子はわかってたでしょ。でもそれを言いだす時じゃないとわかってたから。あえて、「理由はわからないけど、理由はあるんだろうね」などと涼しい顔をしていたのだろう。

そう、まさにここに法華経が滅後の衆生のために説かれたものであることがはっきりしているのだ。
法を説く順番は、すなわち正法・像法・末法での違いなわけだ。
ゆえに、日蓮は薬王菩薩とは天台と伝教であると見ているわけだ。

正法→身近な人に説かず、遠い人に説いている。法を説きそれを聞き、仏が入滅しても衆生は得道できた。
像法→身近な人に法を説き、遠い人には説かない(謗法を働くものにはあえて説かない)。まず法を持ちつづけることを誓願させ、そのあと法を説いて、仏は入滅する。

そして末法→上記ふたつの順番をさらに入れ替えればよい。言葉にしないで(無記で)きちんと法華経は残しているのだから、すでに法華経が末法のための法であることなど、序品を注意深く読めばわかるのだ。

したがって、末法は、
身近な人にも遠い人にも説かない(衆生すべての命が濁悪なのだ、説くと謗法を犯すから)。自分で修行して自分で法を見いだそうという人のみが仏の道に入れる。得道できたなら、授記し入滅する。
さあこういうことをしたのは誰か? 日蓮でしょ。
でもって日蓮が師事したのは何ですか? 釈尊と一体不二の法華経でしょうが。
だから日蓮本仏論はおかしいんです。

どこからともなく(大地から)地涌の菩薩が現れるというのはそういう意味でしょ。
序品で大地が六種に振動する。これは六道輪廻からの脱却の兆しのことでしょ。地涌の菩薩が大地を割って現れるというのは、そういうふうに衆生が自発的に自身の中に法を見出していくしかないのが末法だよということ。
そのために鏡があったほうがいいし、所詮原典は法華経だよということと、もはや誰にも法を説いてもらえないよ、自分で探すしかない。だったら仏の智慧を授けてください! 自分で覚りますから! と誓うのが今の時代の修行だよと気づかせるために日蓮は曼陀羅を残したんですよ。ゆえに曼荼羅は虚空会での誓願の場面になってるんでしょ。だから曼荼羅は宇宙の法則をあらわしているのでもなく、生命論を網羅してるわけでもないんですよ。
そりゃね、すべては空だと説いているんだから、生命も宇宙も説き、網羅していると見ることも出来るが、それはおまけみたいなものでしょ。

祈れば何でも願い事を叶えてくれる、ありがたい曼陀羅じゃあないんですよ。
例えそういえても、それはおまけみたいなものなんですよ。
人間というのは、キャラメルだけあっても欲さない、でも、おまけがあれば買っちゃうものでしょ。
だから祈りが叶うとかどうとかは二の次のことなの。方便なんですよ。

だから日蓮は自分を仏だなどと見ていない。地涌の菩薩の上首上行だと自覚したんでしょ。
それが本仏だとか、ただの神格化なんだよ。

なんで天から四種の花が降って来たの?
これは声聞、縁覚、菩薩、仏。
瑞相はそのまま十界になってるんですよ。

ま、自分で法華経を読んで、考えるしかないんです。

こういう優れたサイトもあるんです。
自分で学びもしないで、習ったことをそんまま信じてればいいというのは楽ですけどね。


如是我聞。一時。仏住。王舎城。耆闍崛山中。

このたった一行からも、多大なことが読みとれるんですよ。

聞いたということは、話した人がいる。つまり関係性がないと何も語れないと言ってるの。
そしてそれが現実であるなら、どこで誰がというのが必須。つまりTPOを無視したものはおかしな言論であるとも言ってるの。だから文切り指導とかは駄目なんだ。ちゃんと相手の状況を弁えろと言ってるの。

だから、王舎城。耆闍崛山中とちゃんと書かれているんですよ。
しかし、それ以外の余計なことは書いていない。書いてはいないけど、暗示してるんです。

如是我聞=仏が説いた。仏が説いたものをそのまま聞いた者がいる。

このように、法華経を読むというのは、もうそれだけで大変なんですけどね。
ゆえに、たくさんの釈が書物になっているわけだ。
でもその釈には間違いがあるのが普通。
だったら、自分はどう感じるのか? という視点をもってなるべく原文に近いものを読む以外、正しい仏道には入れないでしょ。

こんな当たりまえのことさえ出来ないのが末法の衆生でしょうけどね。


あ、それからね、法華経の本文にはこうありましたよ。
精進=思惟とね。


【思惟(しい/しゆい】
一般:物事の根本、、を心で深く考えること。
仏教:考えること。対象を分別すること。また、浄土の荘厳を明らかに見ること。
分別は分けて見るという意味ではありません。すべてのものを明らかに見るという意味です。
こういう小さなことさえきちんと考えず、歪曲されて教えられたことを鵜呑みして信じて、池田氏の指導――法のため、人のため、真剣に悩み、祈り、勇敢に戦い続ける人こそ、勇猛精進――に忠実であろうとするのが狂信・妄信。

まず考える。そこが抜けてるんだな。
まあ、狂信・妄信会員を見ていればそれはよくわかる。自分で考えてませんからね。
言われたとおりやればいいという思考停止をして、精進してるつもりになってるんでしょうね。
もっとも池田氏も、文章の中で言外に「よく考えなさい」と示唆しているのだろうが、そういう深い部分を読もうとしないのが妄信・狂信ってことなんでしょうね。

悩めばいいの……え? それは違わない? 先生が本当に伝えたいことはそうじゃないんじゃない?
そうやって反証思考すれば、示唆しているとも言えるわけだ。

少なくとも、戸田はちゃんと指導してたのにね。池田氏よりわかりやすい言葉でね。
青年よ、心に読書と思索の暇を作れ――と。
残念なことです。

「悩む」のと「考える」のは全然違いますよ。
悩むということは思い煩い苦痛にあえぎ、同じところをぐるぐる回っているということ。
考えるというのは、問題を解決するための方法を自問自答するという意味。
池田氏は真剣に悩めっていってるんだな。
わたしはそういうのは嫌なんです。
だから自分の頭で考えるしかないと、百回以上は言ってきたんですよ。

ipsilon at 12:33コメント(0)『法華義疏』 

2017年05月26日

このことは非常に非常に大切なことなので、一応記しておきます。

いまだ日蓮絶対主義を信奉している人々は多いようだが、それは間違いであり、日蓮の真意に違背する大謗法であるからだ。
かくいうわたしも創価学会に騙されて、日蓮本仏論を信じたり、曼荼羅が生命や宇宙の実相を説き明かしたものだと信じていた時期もあった。

しかし、自死を選ぶほどのどん底を経験し、自分の頭で考えるようになって、ようやくのこと正しい解釈ができつつあるようになってきたのだから、偉そうなことはいえない。
だが、自分が正しい解釈に至ったならそれでいいとはいえない。
もしもそう思うなら、それは二乗信仰であり、いわゆる自分だけ成仏できればいいという小乗の思想になってしまうからだ。
それゆえに誹謗中傷されることも恐れず、自身の解釈や信念をこれまで数年にわたってここに記してきたのだ。

まあいい。前置きはこのくらいでいいだろう。

きちんと学ぼうと思えば、今の時代、ネットからでもいくらでも学べる。
しかしそうしたことさえしないで自論に執着している場合が多いのである。
もっとも、わたしの場合、多くは書物から学び、読んだ内容を真剣に思索することだったのですがね。

おおよそ今のところ、相当に精査し自分の頭で考え、きちんと仏法、なかんずく法華経をきちんと解釈している人といえば、このお二方になるだろう。

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
仏教と批判的合理主義

それ以外でも、この方なんかもきちんと物事を見ているだろう。

まあ、興味が湧いたら読んでみてください。
狂信・妄信会員は生理的に受けつけられないかもしれませんけどね。

しかし、批判に耐えうることをきちんと言葉にされていることは事実だ。
文証・理証もしっかり提示していたりもする。

他にもこういったサイトもある。
紹介したページはトップページではないですがね。
表紙を見れば、このサイトが日蓮宗であることはおわかりだろう。
ここには昭和40年代にすでに日蓮本仏論はおかしいよと言っていた人がいたことも掲載されている。
こうした観点から見ると、創価というのは、宮田氏の論文で、ようやくその入口が見えてきた程度というお粗末さなわけです。
だからといって宮田論文をすべて肯定しているわけではありませんよ。

きちんと、自分の頭で考え(一時的にせよ)判断する。何度も書いてきたことだが、これ以上に大事なことはないということ。

そもそも、真理を探究するにあたって、選り好みをしている場合ではないのだ。
創価だから創価の理屈しか信じない。そのように万般から検証しようともしないでいれば、当然、妄信に陥ることなど、自明の理である。
宗派を問わずに学んでいかなければ、真理の探究など不可能だからだ。
また、宗派を問わずに学ぶことと、自身の信仰を築くことは別問題であるということを理解していれば、いかなるものからも学ぼうという貪欲さは、必然となるものだろう。

世の中には、とにかく批判はいけない! とか言う人がいる。
わたしからしたら、どういう思考でそうなるのか、全く理解ができない。

しかし想像するに、そういった方は、批判という言葉のもっている意味を勘違いして思い込んでいるのだろう。
簡単にいえば、批判的思考というものがいかなる意味をなすものかさえ理解していないのだろう。
つまり、批判=否定・非難・中傷というイメージを頑なに自分の中に持ち続けているということだ。

わたしなども、批判という言葉に、過去そういうイメージがあったことは認める。だから、あんまり批判という言葉は好きではなかった。
しかし、今のわたしが批判という言葉でイメージするのは「弁証法」なのだ。

こうなると弁証法とは何かを説明しないといけなくなるが、面倒くさいのである。
ずっとらせん階段を登っていくということです。そして現段階で辿りついている適正と思える解が階段の踊り場というイメージである。

だから議論をするなら、当事者双方が、それまで執着していた一時的な解よりも高い解に辿りつくということがないなら、議論する意味はないと思っている。議論に勝つとか負けるとか、どうでもいいんです。
お互いの中で「動執生疑」が起こり、お互いがより高い次元に進むためにするのが議論だと見ているということです。


では狂信・妄信しているのはどう言いあらわせるか?
永遠に続く円形通路を歩いているようなものだ。そしてそれを繰り返しているうちに、周囲に高い高い壁を自分自身で築き、円形通路から出れないようになることだ。虚しい空転であるし、みじめな孤立である。
わたしも、そんな小説を書きました。けどこの小説の場合、そうなると普通の人間は自問自答するしかないということを提示しているわけで、必ずしも空転し孤立するわけではないと訴えているんですがね。
もっとも、そのためには物であれ、人であれ、自分以外の何かに縁する必要が絶対的に必要だと暗示しているんですがね。

まあ、そういうことをきちんと気づいていれば、批判するにも批判の対象が必要だし、何のことはない会話をするにしても、会話のネタになる対象(縁)が絶対的に必要であり、その縁があることは「ありがたい!」という感覚が自然に湧くもののはずですがね。

難しい言葉でいえば、「意味するもの」と「意味されるもの」という関係性がなければ、何一つ表現できないということです。
仏法ではこれを「能生」「所生」という語句で表記しているんですね。
自他も同じ。自分というものを表現するためには、自分以外の存在が必要だということです。
自分=意味されるもの。他者=意味するものという関係です。
だから、他者があってはじめて自分というものを定義でき、存在(実在)を認識できるということになる。

正報をば依報をもって此れをつくる(瑞相御書)


ゆえに自他不二であり、自他に境はないということですよね。


まあ、こうした世界のなりたちの基本中の基本というか基礎基盤すら理解せずに、「自分さえよければそれでいい」が蔓延していることが、この世界を濁悪にしている根本的原因だということですよ。

ともあれ、カントの書名にある「批判」という言葉は、「どこまで探求できるのか?」という意味だ。

『純粋理性批判』=理性は純粋に見て、どこまでものごとを認識できるのかを徹底的に考えた。
そういう意味。
『実践理性批判』=理性を働かせて、実際にはどこまで認識したものを実践できるのかを徹底的に考えた。
そういう意味でしょ。

なににしても、自分の頭で考えることです。自分の心で感じることです。
これしかありません。


あそうそう、このさいはっきりいいます。
池田氏絶対主義とか創価絶対主義ほど恐ろしいものはありませんよ。

そもそもその池田氏自身「青は藍より出でて藍よりも青し」を薦めているのであるから、池田氏という師を乗りこえてこそ本物の弟子なのです。氏の誤りは誤りと見抜き、正しいことは正しいと選びとっていくのが本物の弟子です。
池田氏の思想にただ忠実であることが本物の弟子ではないのです。
これは源流がどこにあるかを見極めるということです。
池田氏だけでなく、あらゆる人師の論を精査していくべきだということです。
依法不依人には、仏その人自身は含まれない。確かにそれは正しい解釈でしょう。しかしその仏というのは、日蓮の立場からすれば、釈尊の己心(平等大慧)なわけですな。
日蓮はあくまでも私事を極力持ち込もうとしなかった人師と見るのが正しい見方です。釈尊の己心を過たずその身で実践する上行菩薩であるというのが、正しいものの見方です。

日蓮の観心した釈尊の己心は仏ですが、それを言葉で過たずに伝えきっているかといえば、それは無理なのです。言語道断。仏法とはそういうものだからです。

もちろん、日蓮も出藍の誉れであれと言っている。
師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり(曾谷殿御返事)

乱暴ないいかたをすれば、
――自由だ! 選ぶのはあなただ!

ということですよね。 
その自由を委縮させるから、共謀罪は駄目だと言ってるんです。

ipsilon at 20:43コメント(14) 
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