2017年06月

2017年06月16日

6月15日、自公維、与党の賛成多数をもって共謀罪法案が成立した。
しかし、その性急さの裏になにがあったかを見てみるとなかなか興味深いんじゃないでしょうか。

これまで、加計学園の問題にあって「総理の意向」といった書類が「あったか、なかった」かが問題視されてきたわけだが、6月15日に件の書類は“あった”と文科省が会見したわけだ。

ということで、文科省は平気で嘘をついてきたことがはっきりしたわけだ。
無論そうなれば、政府与党の一角である公明も嘘をついてきたということになる。正確にいえば、嘘つきをかばってきたということになろう。
法律的に見れば、犯人をかばうために嘘をついても、「嘘はつきません」と宣誓していないので偽証罪には問われないらしいが、犯人隠避罪に問われる可能性はあるそうだ。
また、真実を明らかにしようとした人物の評判を落とす行為は、虚偽告訴罪に問われる可能性もあるということだ。

そうなると「そそもそも辞めた方が言うのはいかがなものか」などと発言した公明の山口代表は犯人隠避と偽証告訴にあたる可能性があるわけだ。
ていうか、山口氏はさ、弁護士出身だよね。こんなことは私ごときよりもよく知ってるんでしょうけどね。

そもそも自公が一体になって、事実を明らかにしようとした前文科省事務次官の前川氏の誠実さを、(女性問題があったなどという)スキャンダル暴露で社会的に抹殺しようとしてきたのだから、開いた口が塞がらないといったところだ。
つまり、これが今の公明党の実態ということになる。

女性問題という点につい見てみれば、仏法の譬喩を思い出しますがね。
誠実に真実や事実を明らかにして生きようとすると、女性問題があるといって誹謗・中傷されるとかってね。そういう難に遭うってね。


それはともかく、こうしたバタバタした一連の事態を見て思いましたよ。
件の書類があったと白状せざるを得ない状況となったからには、嘘つき政府の推進する共謀罪法案になんて賛成できないという世論が盛り上がると見て、徹夜してまでも共謀罪法案を、強行採決したというわけなのだろうなぁ、と。なんとまあ姑息な、と。

ようするに、これが今の日本の政府与党、自公政権なわけだ。
そして、その一翼をになう公明を盲目的に支持・支援しているのが狂信・妄信の創価学会員なわけだ。

ここまでの状況になってさえ、まだわからないのでしょうかねぇ。
狂信・妄信の創価学会員は、嘘つきな政府を支持・支援しているのだと。
しかもそれだけでなく、嘘をついたのがバレて評判が落ちる前に、とにかく共謀罪を採決にもちこんだのだろうことを。

ネットの個人的な所感とはいえ、狂信・妄信の創価学会員は、前川前事務次官を卑怯者呼ばわりしてた記事とか書いて人もいたんですが、どうするんですかね。
謝罪するのかな、しないのかな。しないんだろうなぁ。


ちなみに、6月15日というのは、太平洋戦争で“サイパンの戦い”がはじまった日なんですね。
個人的に思っただけですが、奇妙な一致ですね。

無論いうまでもなく、“サイパンの戦い”とは日本があの戦争での敗北が決定的になった重大な転換点なんですがね。
そして時の東條内閣はその責任をとって総辞職したというね。

今の腐敗しきった嘘つき自公内閣が総辞職してくれるにこしたことはないが、それはまた庶民が戦争の敗北から辛酸をなめ尽くす起点にもなったと見ることもできそうですね。
無論、そういう政府を支持してきた民衆の自業自得だ。
奇妙というよりは不気味な歴史の重みを感じますがね、わたしは。

子どもの頃、親に教えてもらったもんです。

嘘つきは泥棒のはじまり、と。

そういわれて見るとそうなんだな。現自公政権は国民を守るどころか、国民からこれまで様々なものを奪ってきたのですからね。知る権利とか安心して暮らせる環境(原発再稼働とか、沖縄基地増強とか、あれとかこれとか)云々、数え上げたらきりがない。

そして共謀罪は、人間にとって最も重要な「自由」を奪いかねないわけで。


余談の余談だが、ネット上のこととはいえ、やたらに名誉毀損罪をあげつらってあれこれ書いてる人って結構多いんですが、あんまり関心しませんね。
そもそも名誉毀損は親告罪ですからね。

自分が名誉を傷つけられたわけでもないのに名誉毀損だなどといっても、それは単なる批判のための批判でしかないですからね。

もちろん親告できるのは、個人・法人ともに可能なので、団体の場合でも該当の行為があったと告訴することはできますけどね。
でもだからって、その団体の一員が団体や団体の代表を誹謗中傷するのは許せない! などといってやたらに名誉毀損だなどと騒がないほうがよろしいでしょう。

創価公明への批判が許せなくてどうしても訴えたいというなら、学会本部なり公明本部にでも働きかけて、告訴してもらうといいんでしょうね。

しかし、事が「公共の利害に該当する場合、批判は名誉毀損になどなりません」ので(実際にそうした判決の事例があります――月刊ペン事件)。

ていうか、創価はこの月刊ペン事件でさ、敗訴してるんだよ。
それは名誉毀損にあたりませんと判決されてるわけだ。
批判が真実であろうとなかろうと、「公共の利害に該当する場合」、批判されてしかるべきだと司法は判断してるんですよ。

つまり、個人的に読んでてムカツイタから訴えてやる! なんてことじゃ名誉毀損になどならないということです。
いやそもそも、政党や宗教団体の存在目的は公共の利益にふくするためにあるので、ある意味じゃあ批判されて当たりまえなわけです。いなむしろ、ある程度の批判があるほうが健全な社会な証拠なわけです。
それでも名誉毀損に当たる場合もあるが、よほど悪質でないと無理であろう。

いえば、公共の利害に関係する加計学園の問題における公明山口代表の発言は、公共の利害(あったか、なかったかをはっきりさせること)より、権力者が権力者自身を守ろうとすることを優先した反民主主義的行為だということだ。
そもそも権力の存在目的の大前提は究極的には個人の保護にあるのに、その個人(前川氏はこの立場にあたる)を人格攻撃し、社会的に抹殺する手助けをしたということだ。


なににしても、政治も宗教もおかしくなりすぎている。
でもそういったおかげで、個人的にはやたらとこういった法律知識に詳しくなれたりしてますがね。


まあこうしたことは所詮手段なわけで、最後は一人一人が真実や事実を見抜く眼を養っていくことでしか解決しないんですがね。

しかし、今や学会員は学会批判するブログはブロク村創価カテにいらないとさえ言いだす始末だし、あげくのはて、ブログ村の管理者に創価礼賛カテと批判カテを分けてほしいとリクエストしたんだと公言して憚らないわけだ。

昔その人は、口ではこういってましたがね。
「あたしはこう思うんだよね。隠すのとかは良くないと思う。悪いものや汚いものも見れるようにしておくことで、ちゃんと見極める眼を養えるんだと思うんだよね。先生もそういっているしね」
なんてね。

まあ、実際そういった一個人ブロガーからの要望をうけてかどうか知らないが、創価批判・告訴カテを作ってしまうブログ村管理者ってのもどうかと思いましたけどね。


世の中、あらゆるところで排除やセクショナリズム化が着実に進んでるようで。
なんというか、「21世紀は孤立とテロの世紀」なんて呼ばれそうな空気を感じますね。
仏法で見れば、どれひとつ単独で存在しているものなどない。あらゆるものが縁によって結びついているって説いてるのにね。

ipsilon at 10:22コメント(0) 

2017年06月05日











ipsilon at 13:41コメント(0) 

2017年06月04日

ということで、質問されたまま、まだ答えていない部分について一応、述べておこうと思う。

Q:「中古天台思考」だとか「止観」に意味はないという指摘に関して。
これ、もうすでに何度も何度も記事で語ってきたことなんですけどね。
これは質問者と私の内的印象の違いに過ぎないんですね。

例えばこういえばわかりやすいだろう。
道端に咲くタンポポの花を見ても、そこで抱く印象は様々だということです。
「今なんか道端に花咲いてた?」と思う人もあれば、気づかない人もいる。
「こんなところでも生命が大輪を咲かせていたんだ! なんて健気で美しいんだろう!」と思う人もいるということですね。

読書なども例としてはわかりやすいかもしれない。
同じ作品に接しても、「あの本は、俺の一生を変えたんだ!」という印象を抱く人もあれば、
「あんな本のどこがいいの? 最後まで読むのさえ苦痛だったし、何も感じなかった。勧められたから我慢して読んだけどね」という印象を抱く人もいるわけだ。
要するに、その人がその事象に対してどれほどの重要度をもって見ているかで印象は変わるわけだ。
俗な言い方をすれば、人間は自分の見たいものしか見ていない、ということですよね。

実験してみるといいですよ。
ペットボトルにラベルと違う中身を入れておいて、普段の通り生活してみるといいですよ。
ボトルを掴み、口にもっていくときにわれわれはすでにラベルにある飲物の味を想像していることに気づきますから。
でもって、実際に飲むと、「これ、違う!!」ってなりますから。
それぐらい、われわれは偏見と先入観を抱えて生きてるんですよ。
それぐらい、半ば無意識にものごとを判断しちゃってるんですよ!!
それぐらい、ありのままにものを見るというのは難しいんですよ。

馬鹿にしないで実験してみてくださいよ。
ほんと、自分がいかに偏見・先入観におかされていたか驚きますから。
マジで!!


もったいなくも仏法に出合い、すべての事象に意味があり、すべてを善き美しきものと(あるいは、ありのままに)見ていける修行をしていながら、自分勝手な重要度でしか事象を見ないのであれば、天台教学にしろ、止観にしろ、ゴミであり害悪にしか見えないということになろう。

そもそも「止観」という言葉にいかなる意味があるかを知っていれば、止観を見下すような発言はしないと私は思うんですがね。

【止観】心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。止だけでなく観を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。止観は、しばしば2つの車輪に例えられ、不離の関係にある。止観は、仏教の三学である「戒定慧」の定慧に相当する。


自分で調べる気になれば、今の時代、wikiでさえこれくらいのことはわかるわけだ。
五分もかからないだろう。
「三者火宅の喩え」が車であるのも、両輪(煩悩即菩提)であることを例えるために車なんですけどね。

日蓮仏法にあって(範囲を狭めてしまう印象を抱きやすいゆえに、あまりこういう呼称はよろしくないと昨今は思っているが、ほかに表現する方法がないので便宜上、こう呼称しているのだが)、曼陀羅を拝して唱題行をおこなう目的はまさにこの「止観」を自分で行い、創価風にいえば「魔に紛動されずに、事象をありのままに正見していける自分になるため」と言えるわけだ。

止観の説明をこう書きかえることも出来るだろう。

心の動揺をとどめて本源の真理――妙法(隨縁真如の智慧)――に住することである。
止と観が不二であるということは、「煩悩即菩提」を意味するであろうことは言うまでもない。
また、説明では「仏教の三学である『戒・定・慧』の定・慧に相当する」とあるが、いわゆる日蓮仏法の三学というのは、三大秘宝(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇)のことを指すのだから、唱題行こそ、天台の説いたところの止観にほかならないことぐらい、まっとうに思索し教学を学んでいるなら、行き着く境地にすぎないと私は見ているだけなんですがね。

ちょっとまて、天台の思想(止観)だと「戒」が抜けてるじゃないかという言うのですか?
日蓮仏法の場合、末法は無戒であり、受持することで即戒を授かるとか、末法で守るべき戒は、金剛宝器戒だけだということを学んできた人なら、天台の思想がどこもおかしくないことはわかるわけだ。無論それは戒(現実には法律や規則など)を守らなくていいという意味ではないことは言うまでもないだろう。金剛宝器戒を知れば、それを守るためには、こうしていくべきだという規律が自ずからわかるということですよね。
そもそも三大秘宝にはきちんと「戒」はありますしね。

まあ、質問者の方が、ここまできちんと仏法用語を使って、議論できるとははじめから思っていなかったし、そういう状態だからこそ、議論しても、残念ながら感情的な水掛け論にしかならないだろうと見ていたわけだ。

止観という語句に対する印象ももとより違うのに、その語句にだけ拘って議論をふっかけてきていることも見えていましたしね。
そもそも「お前の思想など、所詮天台程度だろ? それでいいのか?」といって天台を見下しているのも見抜いてましたからね。
そういう見方をしている人に、何を言っても無駄、どんなに丁寧に説明しても時間の無駄だと見てもいたわけだ。できれば不毛なことにエネルギーを使いたくないんだけどなぁ……とね。

瞑想という語句ひとつにしても、それに対して抱いている印象は十人十色なわけだ。
であるならば、まずはあなたの思っている「瞑想」ってどんな感じのものなの? といった対話をして、互いの中にある印象の食い違いを知らなければ、議論にすらならないわけです。
しかし、質問者がはじめからそうしたことをする気がないことも見えていたわけです。

赤にもいろいろな赤があるわけだ。濃いのもあれば、くすんでいたり、晴れやかな赤もあるわけです。
ならば、赤という色を議論するときには、まずもって互いが赤に対していかなる印象(あるいは定義)を抱いているかということをすり合わせなければ、議論にはならないということだ。
ビジネス用語でいうところの、コンセンサスなき議論は議論ですらないというのは、こういうことをいうのだと私などは理解しているのですがね。


「善悪不二、邪正一如などの言葉を隠れみのにし――」などという質問者の発言も、結局のところ、私の内心にある思想を自分勝手に忖度して、あたしにはこう見えるから、こうだと見ていいんだろうな? という恫喝に過ぎないわけです。
仏法用語でいえば、私の内証は私しか知りえないのに、私の外用を見て、(それも極一部を語った言葉だけを見て)、お前の内証などお見通しだ! と言ってきたようなものでしょ。

ここでは何度も言ってきたことだが、なぜ私の内心――それはもちろん私自身以外の誰も知りえないもの――を自分勝手に決めて、「お前はこうだ!」なんて言えるんですかね? なぜ断言したりできるんですか? 知りえないものを知ったつもりになるな。それを傲慢と言うんだと、散々に説明してきたことなんですけどね。

一体何度、ソクラテスの「無知の知」を説明してきたと思ってるんだ!? 記事、読んできたのかよ? っていう怒りの感情が湧きおこるの当たりまえでしょう。こっちだってお遊びで記事書いてきたんじゃないぞ! 自分でやってみろよ。どんだけ主張するのが大変かわかるからとも言いたくなりますよ。
そうなれば普通、コメントの遣り取りを拒否したくなるものでしょう。

自分にとって重要なもの以外見ようともしない。自分にとって重要と思うもの以外はゴミ、害悪としか見ない。自分にとって重要なもの以外信じようともしない。これを狂信・妄信と呼称しないで何と言えなばいいんでしょうかねぇ……。

そもそも質問者は、「どんな欲望もどんな現実もそのまま肯定するばかりで、同じ法華経を拠り所としながら、正邪の分別を嫌ったのが大聖人ご在世当時の天台宗の連中ですが」と言っているが、では逆に質問したい。

ではまず否定も肯定もせぬまま受け入れなくて、どうやって正邪を見極めることができるんですか?
質問者は、そういう態度を「諦め」と見てるだけでしょ。でも私は違うんですよ。
あなたがたは、受け入れもしないで、いきなり正邪善悪を言いだす。世間でいう言葉でいえば、まず結論ありきのべき論でしかものを見れていないんとちゃうん? って指摘してきただけですよ。

こんなことは道理でしょう。
まず受けいれもせずに、正邪善悪を判断するとか、おかしいなんてことはね。

そもそも、釈尊の修行というのは、いかなる事象が目前で起ころうと、受けいれるというところからはじめているんですがね。受け入れたうえで、「正か? 邪か?」を自問自答しているわけですよ。

池田氏の師弟論の指導だってそう言ってるでしょ。
まず師に言われたことをそのままやってみることが大事だ。それはまず受け入れ体験していなければ、それが正か邪かすら判断できないから、まずは受け入れて体験することが大事なんだと指導してるんでしょ。
ところが、この言葉の表面だけしか見れない会員は、「とにかく師匠のいう通りやればいい」という妄信をしてしまっているわけだ。
ちゃんと池田氏の指導の真意を読めていれば、池田氏の言動は絶対正しいとかいう思考には決してならないんですよ。

日蓮もそう言ってるじゃないですか。

師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり(曾谷殿御返事)
とね。

じゃあ何をもってそれを判断していけばいいのか? それも日蓮はちゃんと言葉にしてますよね。
「世間・仏法の道理によるべきなり」とね。
ということは、自分が世間・仏法の道理をきちんと正しく見られているかが最終的に問われるんじゃないですか?
だとしたら、止観という観点のある唱題行こそ最重要になるんじゃないですか? 違うの?

こうしたこともわからず、加持(諸天の守護を祈願する)・祈祷(願掛けのように願い事を念じること、または儀式=つまりは形式だけの祈願)のような唱題ばかりしてきたのが創価でしょうに。挙句の果てには、「日顕撲滅」とか「共産党撲滅」とか祈祷してきたわけだ。日顕というのは個人の名前だよ。その人の生命のすべてだよ。そういう人の撲滅を祈るとか……これのどこが正しい仏法なんだ? 日蓮が良観撲滅とか祈祷したんですか?
そんなの(加持・祈祷)はおかしいよ! と主張するためには止観とか瞑想という言葉を持ち出すを得ないのではないか? 私はそう思考しただけですよ。

そもそも日蓮自身はこう言っているわけだ。
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん
と。
これは、日蓮の唱題行の姿勢が、加持・祈祷などではなく、止観であったという文証じゃあないんですか?
日蓮の弟子だという自覚があるなら、自身も止観の姿勢をもって唱題に励むべきことなど、自明の理じゃあないんですか?


というか戦争法――安保法制――からこっちから三年かな、私はずっと武力による平和建設など駄目だ! 自由を犯す共謀罪も駄目だ! と徹底的に言い続けてきたんですわ。それをきちんと見ていれば、質問者が「どんな欲望もどんな現実もそのまま肯定するばかり」だとか批判してることがいかに的外れかなんて一目瞭然でしょうに。
自分の気分でムカツイタからメール送りつけて、あげくコメント。
一時の感情でものを言うことと、誰に言われたでもなく自分の意思で、数年にわたって安保や共謀罪は駄目だと言い続けていくこと。
そこにどれだけ信念の差があるかなんて、一目瞭然でしょ。違うの?


だからといって今後、質問者とは絶交だ! なんて短絡的な思考もしませんよ。
私はあくまでも「人間性(良くも悪くも本人の意思や周囲からの縁で変わっていける)」を尊重していくつもりですからね。
一度嫌なことがあったとしても、そこで問題になったことと別の事柄で関わっていくことは、別の問題だとも思考できますしね。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとかいう思考に陥ることほど、馬鹿げた生きかたはないと思ってますからね。

憎たらしいから議論をしたくなかったわけじゃないですからね。
あまりにも時間を費やす終りのないような水掛け論は、勘弁してくれよ〜! という自分の中にあった感覚を素直に振舞いにしただけですからね。 

これタイピングするのだってさ、2時間とか費やしてるんですよ。
返信はしなくても、送られたきたメールもちゃんと読んでましたよ。
だけど、質問者さんには、他人の時間を奪ったことを自覚して欲しいものですよ。
できうれば、今後は今回あったことを反省して、「互いにとって」良き関係を築いていける糧にして欲しいものです。

少なくとも私は、あれこれ議論する前に、「まずは互いの人間性を尊重しあえる“信頼関係”を築くのが先決ですよね?」とメールで問いかけ、質問者さんも、ひとまずは同意したのに、結局こういう形になったことは残念ですよ。
自分を正当化するために、メールを公開しちゃうような人もいますが、私はしませんよ。かつてしたこともない。
公開するぞ! と脅したことはありますけどね。
あくまでも見る人が信じるか、信じないかに任せるつもりですしね。

まあ、最終的には私が付き合ってしまたのだから、相手を責めても仕方ないし、どんなに丁寧に説明しても、見方によっては愚痴や言いわけにしか見えないことも知ってますけどね。
けれども、自分のできる範囲で、きちんと説明したり、質問に答えることも大事だと思ったわけで。

ipsilon at 13:57コメント(11) 

2017年06月03日

記事タイトルはE・フロムの書名である。

それはともかく、いそがしく働いたことのある人なら、こんな経験をしたことがある人は少なくないだろう。
急に何もしないでいい時間ができて、何をしたらいいのかわからなくて途方にくれてしまったという経験だ。
こういうことこそ、自由というものの重みを感じさせてくれるのだろう。

実存主義者のサルトルは言った――
「われわれは自由の刑に処されている」と。
恐らくフロムもそういった視点で自由を眺め尽したのだろう。

ともあれ、この記事は、コメント欄によせられた――糾弾といっていいレベルの――質問に答えておこうという趣旨のものだ。

Q:なぜ、池田氏の数々の発言が扇動的であったことを、ヒトラーに例えたのか?

A:これこそまさに、記事タイトルとそのあとに続けた喩え話こそが答えなのだ。

自由というものは、孤独と責任を負うものである。
しかし、人間というものは、その孤独と責任に、不安や恐怖を感じるものでもある。
そしてそうなると、人間というものは、そうした不安や恐怖から逃れるために、同じようなものの考えかたをする他人などに依存しようとするわけだ。
またその依存心が高まれば、人間は強力なリーダーシップをもつ指導者を求めるようになる。
E・フロムは、この現症を「自由からの逃走」と名づけたわけだ。

いうまでもなく創価にはこの構図がぴったりと当てはまるわけだ。
「自由になんでもしていいよ」などと言われても、何をしていいかわからない。いなむしろ不安や恐怖ばかりが募る。
だから、池田氏という強力なリーダーシップやらカリスマ性をもった人物に依存し、寄りかかり、それで安心を得てきたのが創価というわけだ。下手をしたら信心や御本尊、また唱題すらそうした依存の対象となっているといっても過言ではないだろう。

いうまでもなく、ヒトラー政権というのも、心理学の観点で見れば、先に述べた創価の構造と同じなわけだ。
ゆえに、私は池田氏の扇動行為をヒトラーという比喩をもって語ったということだ。

しかし、ここには大きな問題もある。
扇動したヒトラーや池田氏だけが悪かったのか? と問えば、それは否であるのだ。
需要と供給の関係があるからだ。
民衆からの需要があってこそはじめて強力なリーダーシップをもった人物も、それを発揮できる地位につけるということだ。

しかしよく見てみれば、扇動する側は一人であり、される側は多数である。
だとしたら、依存している方にこそ実は問題があるというのが正しいものの見方になるだろう。
私が言いたいのはいつもそこなんですけどね。

愚民ではいけない。一人一人が自由で自立していかなければ、結局は扇動者と依存者でしか成り立たない社会しか築けないということに、私は気づいたし、また賢明な人々も気づき、その数は多くなくとも、個人が自由で自立したうえで、関わりあっていける社会を作ろうと、啓蒙活動もされているわけだ。
その典型的な人物が、宮台真司氏だろう。
氏の言葉であれば「いかなる共通感覚をもっていくかですよね」ということになろう。

言うまでもなく、私はその共通感覚を「すべての人間がもつ悟性」に求めるべきであり、それをきちんとなせる信仰精神こそ、正しい宗教のありかただと思っているわけだ。
堕落して、池田氏信仰、あるいは執行部信仰のような状態に陥っている創価には、そういう共通感覚など皆無と見てますけどね。

自由なんかいらねー! むしろ寄りかかれる大樹をくれ! ということですよ。


なにもこんな話に、E・フロムの難しい哲学本を持ちだす必要もないんですがね。
こういったことは田中芳樹の小説『銀河英雄伝説』でも学べることですからね。活字が苦手なら漫画にもなっているし、アニメにもなっているんだしね。

自由とともに与えられた孤独と責任の寂しさや重さに耐えられず、強力なリーダーシップをもった指導者の到来を望むのが愚民だと。
そうして出来上がるのがヒトラー政権のような専制主義であり、全体主義だと。
しかしこれはまた、民主共和制にも言えることである。

要するに、フロムにしろ、田中芳樹にしろ、民衆の一人一人が賢明になり、自由の重責に耐えられる自立をしていなければ、いかなる政治体制を取ろうと、民衆に幸福が訪れることはないと言っているわけだ。
そうなれなければ、民衆は自分たちで自分たちを苦しめる体制の中で永遠に苦しみ続けるというわけだ。

釈尊もまたそういっている。
自灯明と。自分を拠りどころとして生きなさいと。独り犀の角のごとく歩め、と。

日蓮もまたそうであろう。
阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、と。
ようするにこれは、自分を頼りに生きなさいと言っているわけだ。

だがどうだ、創価は?
池田氏という人物におんぶにだっこ、氏の指導は絶対だと、みなで寄りかかり、依存してきたのではないんですか?

そこには池田氏が人心掌握術に巧みだったという理由もあろう。
しかしながら、依存して安心していられる場所が欲しいといって池田氏のいうことを絶対視してきたこともあるわけだ。当然のことながら、池田氏は一人、自由から逃走し、依存してきた側は多数なことは言うまでもない。
さて、どちらにより責任があるのでしょうかねぇ。

またこの創価の構造は、ヒトラ―政権と当時のドイツ民衆の関係とほぼ同じわけだ。
人を戦争で殺さなければ悪ではない?
仏法ではそうは教えてませんけどね。
悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺さるれば必ず三趣に至らん
と教えているわけで、身体への暴力以上に、心への暴力や心を売り渡すことのほうが恐ろしいと説いているわけだ。

王地に生まれたれば 身をば随えられ たてまつるやうなりとも 心を随えられ たてまつるべからず(日蓮)

ネトウヨの心理というのも、結局は自由によって与えられた苦悩に耐えられず――寄りかかっていれば安心していられるという思いで多少暴走したとしても強力なリーダーシップをもつ――右寄りの国家権力を支持していれば安心だ(不安や恐怖に苛まれない)という、いわば自由からの逃走にすぎないわけだ。
なぜそういう傾向に陥りやすいかといえば、日本は個人の自由などほとんど顧みられない江戸時代から急速に近代化を遂げ、民衆がゆっくりと個人とは? 自由とは? といったことを民衆が考える暇もないうちに、明治政府が、民衆を依存させる絶対天皇制なるものを作りあげて、民衆を扇動してしまったからだ。
戦後もまた急速な経済成長で、民衆はまたしてもゆっくりと個人とは? 自由とは? というものを思考せず、ここまで来てしまったのだろう。

そして残念なことに、今世界中で自由からの逃走という現象が起きているわけだ。

簡単そうで一番難しいのは、自由でいることであり、自立することなのだろう。
だからといって人間は孤立して生きていけるわけでもない。
結局のところ、自立した個人と自立した個人の関わり(共通感覚をもって相互補助しあっていく)しかないわけだ。
その点では、池田氏の指導の文言には、、、、誤りはないんですけどね。


ともあれ、創価の中で普通に行われてきたことは、フロムが思索して出したある種のパターンにぴたりと一致する。

依存する側は、紋切型で短い指導を好むとか、断言する言葉遣いを好むとか、まともな論理的な議論ができず、ただ相手を dis ることしか出来ないとかね。
笑っちゃうくらいぴったり当てはまるんだな。


メルケル首相の人格者ぶりを見るがよい。
移民を受け入れてもらえるかどうかわからない、パレスチナ難民の14歳の少女に対して、暗に、「自立して生きていきなさい」と優しく諭す。
一見すれば残酷にも見えよう。しかし本人が自立し自由に生きる力を持てることが一番いいんだ、そしてそうしたことに政治は無力なのだとわかってるんでしょ。

政治家以前に、人間として素晴らしいじゃないか!

ipsilon at 23:57コメント(3) 

2017年06月02日



I'm a get up soon in the mornin'
I believe I'll dust my broom

朝、目が覚めてすぐに思った
ここから出ていこうと、それがいいと

I'm a get up soon in the mornin'
I believe I'll dust my broom

朝、目が覚めてすぐに思った
ここから出ていこうと、それがいいと

I'll quit the best gal, I'm lovin'
Now my friends can get in my room

愛している、最高の女のことを終わらせるんだ
今じゃ、おれの友だちがこの家にいるんだからな


I'm gonna write a letter, gonna call every town I know
I'm gonna write a letter, telephone every town I know

手紙を書くだろう、電話もするだろう、どの町にいようと
手紙を書くだろう、電話もするだろう、どの町にいようと

If I don't find her in Mississippi
She be in East Monroe I know

あいつをミシシッピーに見つけられなくても
あいつが東モンローにいることは知っている


And I don't want no woman
Want every downtown man she meets

女なんて懲り懲りだ
あいつがダウンタウンで男という男に会おうとも

No I don't want no woman
Want every downtown man she meets

女なんて懲り懲りなんだ
あいつがダウンタウンで男という男に会おうとも

Man, she's a no good doney
They shouldn't allow her on the street, yeah

男どもよ、あいつは締まりがいいわけじゃない
あいつと道で出あって寝るなんてことはするな、するなよ!

I believe, I believe my time ain't long
I believe, I believe my time ain't long

俺は思う、残された時間はそう長くないって
俺は思う、残された時間はそう長くないって

I ain't gonna leave my baby
And break up my happy home

あの女とは別れられないだろう
俺は幸せな家をぶち壊せないのさ


なんでブルースに惹かれたかって?
こういう詞を魂で歌うからだ。

好き、嫌い、好き、嫌い……人間の心というのは、花占いのように揺れ動く。
決して、どちらか一方であるなどとは言えないのだ。
そういう人間の根本を魂で歌っているからだ。
下品な言葉もたくさんでてくるけど、それも人間である証拠だ。

わかっているのは、人生は有限で、思ったとおりにはいかないという現実があるだけだ。
そういうことを直截的に歌っているのはブルースぐらいだからだ。

歌詞にある I believe っていう表現は秀逸だ。
結局のところ、自分がどう思うかなんだよね、自分で自分のことを信じられるかどうかだと歌っているわけだ。
でもそれが出来ないから苦しむ。人生ってのはそういうものだよねと歌っているわけだ。

普通に詠めば、なんだよこの男……未練たらたらの愚痴かよ! って見えるのかもだが、そうじゃあない。
あくまでもこっちだと簡単に決めつけられないことへの苦しみを歌ってるんだな。
まあ、訳がおかしいとか間違ってるだろうが、そこは勘弁してくださいな。


ちなみに、broom というのは箒のことだ。
塵を払う=身辺を綺麗にするとか、家や過去を引き払うという意味になるそうだ。
なぜ箒? いわゆる箒というのは魔女の乗るあれなわけだ。

人生、魔法があって身辺を綺麗すっきりできたら、どんなにいいだろうな。
けどそれは無理な相談だよね。そんな魔法は存在しない。あるのは限られた時間と執着がもたらす苦悩だけだ……。そう歌っているのが、この Dust my broom なのだろう。


いわゆる黒人ブルースというのは、社会が生んだといっていいだろう。
奴隷としてアメリカに連れてこられたことで酷使されてきた彼ら。
だから、そうした祖先たちのDNAを受けついで、身体的に障碍をもっていた黒人は多かったらしい。
とくに盲目であるとかね。
そういうことで仕事にもつけない黒人は多かったらしい。

でも生きていかなければならない。
じゃあ、自分の出来ることをするか……そう考えてギターやハーモニカを手にしてその日その日を暮らしていったのだろう。
そうして歌われてきただけに、人生の辛苦を味わいきり、その底にある人間の根源を詞にしている歌がほとんどだったのだ。

今じゃ、そういうブルーズ魂も失われつつあって、耳障りのいい曲や売れる曲ばかりがもてはやされているようですがね。


これはゲイリー・ムーアのバージョン。

先に貼った動画を観ながら歌詞を追えば、あれ? 歌詞どおり歌ってないと気づく人もいるだろう。
でも、それこそがブルーズなのだ。
もともとこの曲はロバート・ジョンソンの I believe, Dust my broom なわけだ。

でも彼の曲をカバーするにあたって、ブルーズマンは自分なりに解釈というか感じて、自分の言葉で歌う場合が多い。
だから歌詞の本質さえズレなければいいということだ。

だが、現代人はそういうことを案外嫌って、これはこうでなければならないなどとしか見れないわけだ。
自分なりのフィーリングを大事にする、いかにも人間的部分を否定して人間を見ているのだろう。

そして私はそういうのが大嫌いいなわけだ。
本気で歌ったことのある人ならわかる話だ。
その時、その瞬間、直接心に沸き起こってきたものを歌えば、歌詞が変わるなんて当たりまえの話だということさえ気づけないのが現代人なのだろう。

ipsilon at 16:52コメント(0) 
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