2017年07月

2017年07月31日



この節は少し長いが、仏教の根本的思想をほぼ余さず説いている経典といっていいだろう。
経典自体は、十五夜(満月)の法会に集おうとする、山岳夜叉が問い、雪山夜叉が答えるという問答形式になっている。

はじめの問答は、釈尊という師は、身口意の三業から離れている人なのかという問答からはじまる。
つぎは、生滅についての問答、つぎは、とつづいていく。
では特に意の三業である、欲望についてはどうだろうか? と。
なぜなら夜叉は鬼神の総称であるのだし、鬼神には「餓鬼」もいるのだから、欲望のままに生きることが良いか悪いかが気になって当たりまえといえよう。
鬼だって反省するということなんでしょうね。

問うて曰く――さてその欲望はどうのようになっているのか?
答えて曰く――欲望という生滅は、六色・六処によって起こっている、と。
六色とは、五感と意識(目、耳、鼻、舌、身、意)であり、
六処とは六色が感じ取るもの――色・声・香・味・触・法――である、と。
つまり、生滅とは、内縁と外縁という縁(あるいは縁と因)が合することで起こるのだと。
この六色と六処をあわせて六識という。

では目覚めた人は、その六識をどう制御しているのか?
「一切の結び目を超える」のである、と。
つまり、六色で見えるものを全て「空」であると見ていくということになろう。
もう少し具体的にいえば、全て「諸行無常」であると見ていくということになろう。

目の前に見えるのは、林檎であるともいえるし、林檎でないともいえる、しかし所詮目の前にあるものは、移り変わる事象の一瞬にすぎない、と。林檎であろうがなかろうが、その事象はこの瞬間だけ動的に平衡を保ち、目の前に現れているだけだと見ていくということである。

目の前に人がいれば、好きとか嫌いとか、一瞬湧き起こるのだろうが、それはこの瞬間だけ動的に平衡を保った意識の片鱗(中道一実)に過ぎない。
しかし、われわれはその一瞬に湧いた好きとか嫌いというものに執着してしまう。そしてそこから苦しみが起こるのだ。
ときにはその嫌いという片鱗に十年も二十年も執着してしまう。怨嗟であり怨恨である。
このように、怨みという意識(とそこから生まれた記憶)は、自分が作ったものであるにも関わらず、相手が悪いという思考を生み、相手を責め、責めれば責めるほど、その意識と記憶は強まり、より激しく己を苦しめ苛む。なんとも馬鹿らしい話である。
怨嗟の反対は、いわずもがな、好きからはじまる愛情である。
ときにこれによって人は殺人を犯すまで己が執着を自分で強めてしまうわけだ。その根底にあるのが欲望だろう。この人を思いいどおりにしたいという支配欲である。

しかし、目覚めた人は、あらゆる事象を「空」と見るので、支配欲に翻弄されることはない。また絶対的な真理など存在しないことを知っている。
だから、目覚めた人は、最終的には、座禅にも瞑想にも戒律にも信仰にも執着しなくなる。ただその一瞬一瞬を「空」と見て、楽しんでいるだけだ。もちろん、無上道の修行を保っていくのに必要は執着は捨てない。
われわれから見れば、目覚めた人は遥か彼方の理想にしか思えないが、そういうものなのだろう。
遠く久しい道だ――。


ともあれ、人間にとって最も恐るべき意識とはなにかと問えば、他化自在天の働きになるのだろう。
他化自在天とは読んで字の如く、相手を思いどおりにしようとする支配欲だ。
しかし目覚めた人は、他化自在天が一瞬現れたとしても、それを「空」と見るから、何ものをも支配しよう(思いどおりにしよう)とはしないのだ。
思いどおりにならないことを苦にしないし、悔やまないのだ。
なんと素晴らしい心のありかたであろうか、なんと素晴らしい正見であろうか。


生きとしいけるものが幸せでありますように。感謝・合掌。

ipsilon at 15:55コメント(0)『スッタニパータ』 
この品あたりから、非常に難しくなってくる。
よって解釈にも幅がでてくるのだろう。もちろん、解釈は人の数だけあってもいいのだが、編纂者の心を汲む、いわゆる正しい(筆者と読者の相互理解たりえる解釈=悟性による解釈)というものはあると思う。

まず授記に関して。
それまでの授記は一人一人に対してだったが、この品では、一気に千七百もの声聞衆に授記をあたえている。
ではあるが、その場面は大きくわければ三つになっている。

富楼那ふるなを代表として千二百の弟子等への授記。
阿若憍陳如あにゃきょうちんにょを代表として五百の弟子等への授記。

もちろん、先に譬喩品・信解品で説かれてきたように、仏の教説→弟子が領解した証を述べる(感謝・懺悔・報恩)→授記、という流れだったわけだから、当然、仏教の根本精神「平等」に則って、この品でも、教説、領解、授記という流れはきちんとある。だが、それは既に述べられてきたので、あえて詳しく文字にされていない部分がある。

しかし、そうではあっても、これまで一人一人に授記していたのに、なぜ仏は、いきなり千七百人もの弟子に授記を与えるという暴挙に出たのか? という問いには答えていない。

釈に曰く――。
五百弟子授記品からは、下根の衆生の成仏のために、因縁を説いているのであるから、実は一人一人に説いて領解させて授記する必要がないのである、と。
つまり、簡単に言えば、同じ人間として生まれてくるには人間種にしかない因縁があると仏教は見ているということだ。

だから、これまでの譬喩品・信解品のように一人一人に授記を授ける必要はないということだ。
つまり、あらゆる人間に成仏の種、仏種があるよということを言っているのが、この五百弟子授記品ということになろう。
しかし、この短い品にはそれだけでは済まない意味が秘められているのだろう。

そして、それを説く鍵は、代表となった弟子であろう。
説法第一の富楼那は、釈尊の十大弟子の最古参の弟子であり、
阿若憍陳如は釈尊によってはじめて成道を得た弟子だという部分だろう。
つまり、ここで授記を受けた弟子たちは、釈尊に深いゆかりのある弟子ということが言える。

それを示すように、この品ではじめて「正法」「像法」という言葉が使われている。
また、千二百の弟子とは「十二因縁」のことを指し、五百とは「五蘊」のことを指しているのだとか。

十二因縁とは、十二の事象の関係性を順逆から眺めていけば、すべては「空」であるという境地に達し、苦から解放され自由になれるという思想。
そして、五蘊とはその十二因縁を見ていく根本となる人間に備わった五感と意識(記憶・集合的無意識という深い無意識も当然含む)の関係性である。

【十二因縁】無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死、である。
順序を逆にすれば――(仮にわたしが文字を当てるとしたら)
生誕、死、無、捨、平等、放、無処、無色、無行、法性、となるものといえばいいだろう。
わたしが当てた文字は別としても、こうして考えれば「無明即法性」ということは理解できよう。
そしてこの「即」を使っていけば、あらゆるものごとをそのように見ていける。
例えば「極悪即極善」といいったようにね。けれどもほとんどの人はそこがわからないようだ。特に創価人の偏りは酷すぎる。

【五蘊】色、受、想、行、識。


ともあれ、人間であればこういった十二因縁を思索し心的体験できる五蘊を誰もが備えているのだから、一人一人に授記を与えるのではなく、一気に授記を与えられるんだ(一切衆生に仏種がある)と説いているのが、この品であり、また下根の衆生というのは疑い深く、教説や譬喩を聞いただけでは悟れないので、仏はこのような説法をしたということになろう。
ゆえに、富楼那、阿若憍陳如に授記された仏の名は、法明如来、普明如来となっている。
法に明るく、普く明らかであるということだ。
二仏であることは、関係性があってはじめて己を知れるというのが真理なのだから、二仏なわけだ。
法だけあってもだめ。人だけあってもだめ。法(自分=主体=実態)と人(他人=客体=自分を写す鏡)があってはじめて真理が知れるのですからね。

しかし、そうではあっても現実にこうした説法を釈尊のような成道者から聞ける衆生は少ないわけだ。
直接聞けないとしても、かつてこういう人がいてねなどというように、釈尊の教え自体に対する信頼感がある時代と、そういう信頼感が薄らいでいった時代の違いというものは、現実に存在するものであろう。
そこで現れてくるのが、正法・像法という思想なのだろう。

そう考えていけば、この五百弟子授記品が正法の下根の衆生(つまり正法の一切衆生)の成道を明かした品だと見えてくるだろう。
そしてこの後に続く「授学無学人記品」が、像法の衆生の成道を明かしたものであることも推察できることだろう。
しかし、ここまで読んでくればはっきりわかることだが、これまでの流れはあくまでも人・天と三乗についての成仏なのである。

そしてこのあとに続く、見宝塔品から従地湧出品までの流れを知っているなら、それらが下根であっても、いわゆる十界論の修羅界以下の衆生の成仏を明かしたものであろうことは容易に推察できるであろう。

また、法華経をこうして読んでいくと、声聞と菩薩というのは違わないのだと気づけた。
法を聞いているときは声聞であり、その教わった法を説いているときは菩薩なのだとということがはっきりとわかった。いやそういう意味で言えば三乗=一乗というのがはっきりと理解できるだろう。
内心の智恵を内観(勤行・唱題)で見ているときは仏の声を聞く声聞であり、そこで聞いた声を実際に確かめるために独り自然現象などを眺めて体験的に仏の智慧が真実(現実=諸法実相)であることを部分的に悟るのが縁覚であり、そうして得た体験的真実を他者に部分的に(あるいは相対的に)語って説法するのが菩薩なのだと。

ともあれ、むろん、親切な法華経ですから、この品にも譬えが出てきます。
授記された千二百と五百の衆生の代表が「領解しました」と感謝・懺悔・報恩を述べる場面がそれです。

一般には、ここで説かれる譬喩は『衣裏繋珠の譬え』ですが、恩義口伝ではそれをさらに二に分けてはいます。酒に酔っているのは不信であり謗法、酒から覚めるのは悟りである、と。

というか、恩義口伝にはこうありますけどね。
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉れば我則歓喜とて釈尊歓喜し給うなり、歓喜とは善悪共に歓喜なり十界同時なり深く之を思う可し云云

それなのに、極悪を斬れ! 極悪を滅ぼせ! って叫んでいるなら、それはもう日蓮に弓を引いているんですが、そんなことはお構いなしなのでしょうね。というか極悪を切って滅ぼそうとするとさ、極善も滅ぶってことなんだけどね。それがわからないのが創価人ね。
ともあれ、「このことは、よくよく思索していきなさい」ともあるんですがね。


さてさて、例の「その世界には男しかいない」という言葉が、この品では出てくるのだが、これ、よくよく思索すれば別におかしなことではないと判断しました。
なぜかなら、法華経は1人の人間の内面を説いたものだと解釈すれば、こうした表現が差別意識ではないだろうと解することが出来るからだ。

かくいう私は男だが、男として生まれ育ち、様々な人に出会う。そして自分の中に様々な人への印象を作っていく。その場合あくまでも他人といったところで、所詮それはわたしがわたしの中に作りあげた印象でしかないのだから、全部男であると言われれば、ああそうですねと言うしかないということです。

ipsilon at 00:33コメント(0)『法華義疏』 

2017年07月30日

74歳にもなるミック・ジャガーにこんな思いをさせる世界ってのは何なんでしょうね。


うわべは、イギリスのサッカーチームの負け試合を見に行ったという内容だけど、タイトルを書いた時に、それだけでは終わらないなと思った。歴史的にも困難な時代を生きているという気持ちについて歌っている。不可知状態で、自分たちがどこにいるのか分からずに、不安に思う気持ち。書いている時にはそう思っていた。僕はあまり生真面目に取り組むのは好きではないから、もちろんユーモアも含まれている、でも僕たちの国の抱える脆弱さなどにも触れている(ミック・ジャガー)



この曲のメッセージは、世の中では様々なことが起こっているけれど、そんな中でも、自分の人生を歩め、自分らしくして、自分の運命は自分で切り開くんだ、というものだろうな(ミック・ジャガー)

英国のEU離脱? なんでわざわざ共生しているのに孤立しようとする?
スコットランドの独立運動? やめてくれ!! なぜ孤立しようとする?

I'm tired of talking about immigration
移民について話すのはうんざりざ
You can't get in and you can't get out
入れもしなきゃ、出て行けもしないさ
I guess that's what we're all about
俺もそうだし、みんなもそうだろ

同じ地球で暮らしてるっていうことを忘れて、
移民を受け入れるだの、受け入れたくないだの……ほんとくだらない事だよね。
俺の宗教が正しくて、お前らは間違っているってのも同じだ。
ほんとくだらない事ばっかやっていやがる。
あの宗派に入って、この宗派から抜ける。あっちはよくて、こっちは駄目だ。
だけど人間のもつ思考形態という思想宗教からは誰も逃げ出せやしないぜ。人間を辞めない限りな。
なのに俺たち何やってんだ? くだらない。

原発が事故れば、世界中に放射能がバラ撒かれるのなんて決まりきったこと。
なのに、廃棄物をどこに捨てるかで議論かよ。くだらない。
核ミサイルだって同じだ。あいつが持ってて、俺が持っていなかろうが、そんなのは瑣末なことさ。くだらない。

でも、同じ地球で暮らしてるんだから、誰もどこにも逃げられないんだということすら、知れないようにしてる。
知らせないようにしてる政治ってのは何なんだ!?
政治はいつでも、自分の今いる場所さえ恵まれてればいいんだと民衆を扇動してやがる。
自分の居場所だけが大事で、周囲は脅威に満ちていて、敵ばかりなんだと洗脳しやがる。
いい加減にせいや! ってのがミックの本音でしょうね。

さすがですわ。一流は視点の高さが違いますわ。

自分らしく生きようとすれば、自ずから人間として持つべきホームってものをどこに置けばいいかわかるはずだろ。
だったら、まずは自分らしくすることからはじめるしかない、と。
でもそれは、他人を排除したり、孤立したり、自己中心的に生きることとは違うんだぜ、と。

ipsilon at 14:55コメント(0)音楽と動画 


今にあって一番の幸せを感じるのは、寝ているときだ。
起きているときは、一瞬たりとも自分の心から目をそらさず監視し、邪な思いを抱いていないか、あるいは抱いていたと見えたなら、即座に「そうじゃない考え方もあるよね」と自分にいい聞かせる。

これは簡単なことではない。まずもって非常に疲れる。
だが、それを意識せずともできる次元まで高められれば、疲れさえ感じなくなるのだろう。

眠らないでいる限りは、この慈しみの心遣いをしっかりと持て
という一行の教えを守ろうとしていくには、それこそその一日にある全力を出すくらいでないと無理だと思う。


生きとしいけるものが幸せでありますように。感謝・合掌。


ipsilon at 14:20コメント(0)『スッタニパータ』 

2017年07月29日



『賤しい人』に関して云々する必要はないだろう。

生まれによって賤しい人となるのではない。
生まれによってバラモンとなるのでもない。
行為によって賤しい人ともなり、
行為によってバラモンともなる。


『賤しい人』の核心はここなのだから。

言葉を使うこともひとつの行為だ。
「獅子吼」という言葉があるが、どうもこの言葉の意味も、現代では偏ったものとなってきたようだ。
「獅子吼」とは、相手を思いやるがゆえに、厳しいこと(真実を)言っていくのが本来の意味なのだが、現代では、自分が正しいと思ったことを遠慮なく言っていくみたいな意味になっているように見える。

そもそも、自分が正しいと思うことが真実であるとは限らないわけで、現代的にいえば、真実とは仏の金言ということになる。であるとしたら、一般的に仏と呼ばれる人のいった言葉をTPOにあわせて自分の言葉で語っていくことこそ理想であることはわかろう。

であるならば、法華経を師とするなら、二十八品を学ぶ(少なくとも読む)必要があろう。釈尊を師とするなら彼の金言(初期仏典にはじまる八万四千の法蔵)を、日蓮を師とするのであれば、彼の金言(御書を)拝し、まずはそれを学ぶ必要があることなど、自明の理ではないだろうか。

それもせず、池田先生はこう言っているなどとやっているのは、もはや仏教でもなんでもない。
それは池田教である。仏教とはまったく無縁の宗教である。

日蓮本仏論をいまだに信じている人も多いようだが、ではなぜ曼荼羅御本尊には南無釈迦牟尼佛とあり、日蓮は名前だけなのだ? いやそれは、生きているうちに仏とか書けないでしょ。それに生きてるのに自分は仏だとか言えないだろ、謙譲の美とかあるんだもん、とかいうんだろ。じゃあ死んだら仏と認定なの? だとしたら即身成仏ってのは嘘になるねぇ。

それに、創価の言い分では、釈尊の教えは末法では役に立たずかえって害毒になるってことだよね。
じゃあなんで、あなたがたは釈迦に帰依してるんだ? 釈尊の名の上には「南無」とあるがのだが、きちんと説明してほしいものだ。
ある人など、そんな思想は中古天台だと罵言を述べたが、じゃあなぜ朝に夕に、その天台大師に南無しているんだ? 伝教にも南無してるよね? 違うの? 御安置してある曼陀羅をよく見てみなさいよ。
今更、南無の意味など説明せずともわかるんだろから、よく考えてみたらいいですよ。

いやそれは鬼子母神や十羅刹女と同じように、妙法に照らされて本有の尊形になるとでも言うのだろう。
であるなら、人に何かを話すにしても、釈尊も天台も末法では役に立たぬ、むしろ害毒だなどとなぜ言えるんだ?

法華経の立場にたてば、これこれこういう諸天もこのように役だっているのですと話すべきじゃないのかい?
(それが餓鬼衆であろうと、阿修羅衆であろうと、いわんや地獄衆であろうとね。だから曼荼羅によっては提婆達多の名も記されているんでしょ)

その曼陀羅を、朝に夕に讃嘆し恭敬し、ときに南無しておきながら、議論になると自分のしている行為とは裏腹なことを吐いて憚らない。こういう人をふつう嘘つきという。
そういう自己破壊をしている創価がいまや公明党を通して権力の座にいるんですから、そりゃ国も政治も乱れるに決まっている。自己破壊=自界叛逆難でしょうが。
自分が作り出している世界に反逆してると起こる難のことでしょ。ヒトが事象を認識することで世界(区切られた範囲=主観)を作りだしているんだから、自界とは自分が作った世界ですよ。その世界で南無しますと誓っておきながら、それを破る。それをふつう叛逆と言うんじゃないですか?

認識していないものは「無」ですよ。そこにはなにも無い。というか正確にいえばそこに何かが有るか無いかは知りようがないでしょ。
だってそうでしょ。認識していないけどそこに何かが有るか無いかを判定するためには、観察する存在(観測者)が必要なんですからね。観察する存在があるということは既に無じゃないんだよ。だから、無というものがいかなるものかを人間は主体的にも客観的にも知りえないんですよ。観念として想像することしか出来ないんですよ。そしてそうした観念・想像も認識のひとつに過ぎない。仏教ではこういう認識法を「空」といってるんですよ。でもってその認識の仕方こそ最も重要だから、「定」といって坐禅を組んだり、瞑想したり、観心観法するために勤行・唱題することを奨励してきたわけでしょ。
いわば、生きたまま死んだ状態になれることを体験すればさ、「今ここ」は、生きてるとも死んでるとも言えないということを確信できるからですよ。これを「生死即涅槃」と言うんでしょ。

ともあれ、簡単にいえば「空」は、いわゆる不確定性原理ですよね。シュレディンガーの猫もそういうことを証明したわけだ。つまり「今ここ」というのは生でも死でもないということだ。決めようがない。というか決めるなら決めるのはあなただということ。
本来的には人間は生きてるとも死んでるとも言えないんですよ。それを観測者が生きてると認識すれば生きてるのであり、死んでると認識すれば死んでるというだけのことなんですよ。
人間の皮膚はさ、剥がしたら死んじゃうの? そんならなんで皮膚移植とかできるのよ?
桜の木の枝折ったら、折られた枝は死んでるの? 死んでないでしょ。差し木すればまた花を咲かすでしょうが。
これは生であり、これは死であるとか決めれないんですよ。仏教はそれを「生死即涅槃」と見ていきなさいと教えてるんですよ。
だから仏教に殺生戒はあるが、釈尊の言葉自体は「暴力はいかん!」と説いているのだろう。
そして、そういう釈尊の心が本当にわかって実践したのは、20世紀ならガンジーくらいじゃないんですか。

脱線したが――
そして自界叛逆難の次に何が起こるか、『立正安国論』を拝しているならわかるだろう。いうまでもない――
「他国侵逼難」でしょ。戦争だよ。

極めて当たりまえの道理からくる順番ですよね。
言行不一致で自語相違ばかりしていれば、周囲からしたら迷惑だもん、周囲から責められるに決まってるでしょ。あるいは、もう何を言っても仕方ないと呆れられ、孤立する。しかし、人間は社会的生きものだから、孤立したら生きてさえいけない。国家もそれは同じだ。そうなったら、自存自衛のためなんだとか、俺たちの理想は五族共和とか八紘一宇とかいって、他国に攻め入り、生き延びようとするかでしょ。
それが国家規模になれば、侵略戦争ということでしょ。

だから、わたしは創価に対しては手加減はしないと、「さようなら」をした時に決めたんだ。
じゃあなぜいまだに会員なんだ? 簡単なことでしょ。自分を正すところからはじめないで、他人を変えようなんて、おこがましいからだ。ゆえに、非活であろうと、少なくとも会員であろうとしているだけだ。

安倍政権を見てみろ。自滅(自己破壊)しかかってるじゃないか。加計、森友、稲田防衛大臣云々。起こっていることは自業自得であり、自分の身から出た錆ではないか。民進にしても同じだ、自滅だ。
その次に来るのはどんな難ですか? どんな難なんだよ?

近現代の日本の歴史を見るにつけ、あの戦争を起こした中核を見るにつけ、日蓮主義者が目につく。
石原莞爾、北一輝、田中智学を筆頭とする国柱会云々。
日蓮の立場にたてば、彼らは悪しく日蓮を敬ったのだろう。
では、創価が悪しく敬っていないといえるのだろうか?

曼陀羅には他家自在天(いわゆる第六天の魔王)もあるが、それに対してはどうなんだ?
朝に夕に、賛嘆し恭敬しておきながら、魔をぶった斬る! とか言って、嫌ってるんじゃないの?
魔を魔と見破り、諸天のかした試練である、嗚呼、ありがたい! と捉えていくのが、諸仏菩薩天王並びに大師上人などを本有の尊形として見ていくということじゃあないのかい?

ふつうこうした自己破壊を、世間一般では言行不一致とか「嘘」というのだが、そういう創価人に限って、あたしたちは「真実を語っている!」とか宣っているわけだ。

仏法を汚す輩――賤しい人――のことを考えていると、腹の底から怒りがこみあげてくる。
まあ、そういう人たちがいるから、わたしは物事を真摯に見られるようになったのだから、ありがたいとも言えるんですがね。

どんな極悪人であっても、自分を殺そうとした良観でさえ、日蓮は良観上人と敬ってますよね。
御書拝したことあるんだろ? じゃあなぜ日顕とか呼び捨てなんだ?
創価は「日蓮と同意」なんだろ? ならせめて人間として敬うくらいしたらどうなんだ。
敬えないなら黙って離れればいいじゃん。
人びとを見下す言動ばかりしていて、唯一絶対の正義だとか、仏意仏勅の団体だとか、どれだけ嘘つきなんだよ。
池田主義者も同じだ。だーはら会長とか、コンペイ党とか言ってさ。心ない正宗の人々も同じだ。センセとか言ってね。相手の人間性を尊重することさえできない。
汚い言葉が蔓延るということは、世界が終末に向かっているということである。

釈尊はバーラドヴァージャ(賓頭盧びんずる)を責めてはいない。彼の誤った思想からくる「行い」を叱責しているのだ。
思想は見えない。だから安易に決めつけてそれを責めることは不可能だ。だから「行為」や「汚れた言葉」に対して獅子吼しているのだ。獅子吼によって魔を退散させているのだ。


生きとしいけるものが幸せでありますように。感謝・合掌。

ipsilon at 15:39コメント(0)『スッタニパータ』 
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