2017年09月

2017年09月29日

『ネイティヴアメリカン 20の倫理符牒』

1)毎日祈ろう。

2)審判するな。誰でも自分を見失うことはあるのだから。

3)自分自身を見つけだせ。

4)客人には最大限の敬意をもって接しろ。

5)奪うな。それはあなたのものではないのだから。

6)あらゆるものごとに敬意をはらえ。

7)他者の思想に尊敬の念を持て。それは希望の言葉なのだから。

8)他人に不完全なことを話すな。

9)誰にでも間違いはある。

10)悪い思想は病気のもと。

11)自然はわれわれを排除しはしない。

12)子どもたちこそ未来。

13)心を傷つけないようにしよう。

14)真実だけを話せ。

15)バランスよくあれ。

16)人生の選択は意識して決定せよ。

17)他者の個人的空間を尊重せよ。

18)自分に嘘をつくな。

19)他人の信念に敬意をはらえ。

20)他者と分けあえ。



元として英語の記事があり、それを丁寧に翻訳してくれた記事があるのだが、意訳しすぎている気がしたので、わたしなりに訳してみた。

意訳といっても、それほど大胆にされているのではないので、紹介するだけでもよかったのだが、自分の中ですっきりする言語表現で自分の中に埋めていくことが大事だと思ったわけで。

まあ、ネイティブアメリカンの教えというものは、仏教から学んだこととほぼ一致することを伝えんとしているんですがね。
だからわたしは昔からインディアン(現在こういった言葉は差別用語ともいえるので、あまり使いたくない表現だが)ジュエリーなんかにとても憧れたし、彼らの生き様にもずいぶん惹かれた時期があったんですがね。

なにごとにも焦らずに、ひとつひとつ手作りで作っていく装身具。
そういう部分に本当に癒された記憶がある。
お値段はそれなりにしたが、なるべくそういう一品物を扱うお店を見つけたときのあの不思議な嬉しさは、今でも心に残っている。

ものに対してはそういう美しい思い出をすぐに引き出せるのに、人間にはなかなかそうなれない。
あらゆる人がオンリーワンなのにね。

なんでそうなるの?
それは人間社会の悪い部分ばかりを記憶し過ぎてきてしまったからだろ。
20の倫理符牒の11)にある、われわれは生命の一部だ。だから自然が我々を排除しないように、人間が人間を排除してはいけないということが、あまりにも顧みられていない文明社会ゆえに、わたしは人間嫌いになったのだろう。

解決法はある。それはそう難しいものでもない。
文明社会の常識とやらに偏り過ぎてきたなら、自然を自分の中から取り出して、文明と自然との調和を紡ぎだしていけばいいのだ。
20の倫理符牒の15)も、そう教えてくれている。

わたしの思う自然とは、あるがままに従うこと。
ただそこにあって、そこにあることが最高の状態であると認めることだ。

1990年代、欧州ではそうし感情を目覚めさせる映画が作られている。
『美しき緑の星(La Belle Verte)』だ。
女性の格好をした宇宙人が地球にやってきて――
「あなたたちはおかしいよ! 宇宙の法則からあまりにもズレたことしかしていない!」
と、人びとをありのままに目覚めさせていくという映画。
だがこの映画、EUでは現在の社会制度や常識を破壊する作品だと見られて、発禁処分にされている。

こうした映画は覚醒映画というジャンルわけになるそうで、実は2016年に日本人監督が制作した『くう』という映画がそれなりに話題になっているのだとか。

この『くう』はYou tubeで観れますよ。
『美しき緑の星(La Belle Verte)』も見れますが、見たい人はご自分で労力を使って検索して探しだして見るといいんじゃないでしょうか。
わたしはどちらもちらっと見ましたが、『くう』のほうには物語性はなく意味のよくわからない映像が流され、語り部がこれもまた意味のわからないことを語るというものでしたよ。
言ってみれば、『くう』は鑑賞する映画ではなく観心する映画のようです。

どちらにしろ、時代は間違いなく「目覚めた人」を求めていることは確かでしょう。
思うに、宗教という、自宗のドグマに染まり過ぎてしまい、他者をリスペクトできないようなジャンルに拘る必要性などどこにもないのだから、むしろこうした映画がこれからの時代、多くの人をありのままであることの素晴らしさに目覚めさせていくのでしょう。

この『くう』という作品、わたしの目から見れば、明らかに瞑想効果を狙っていることが読みとれたのでね。
言えば、瞑想のなんたるかも知らずに、おかしな宗教にはまって人生を無駄にしたり、自分の信仰以外の思想を持つ他者を排除する、宗教がもつドグマ性とはある種無縁な「文化」から人々が覚醒していく方法のほうがいいような気もするわけで。
俺の団体が正しい! いやいや俺たちの団体こそ!! などといつまでたっても争いを止められない排除性や勝他性の強い思想宗教に未来や希望などありませんからね。



もちろんこうした覚醒や瞑想の効果があるのは、宗教的儀式や紹介した映画だけにあるのではなく、実はもっと原始的なものにもあるとわたしは思っている。
そのひとつの典型が太鼓だ。

アフリカンドラム、ネイティヴシャーマンドラム、世界の古典的打楽器曲にはそうしたトランス効果をもたらすものが沢山あるのだ。


この演奏の音に心から耳を澄ましていれば、多分ふつうの人はトランス状態(変性意識状態=日常生活しているときには成りえない意識状態)になると思いますよ。

いわゆる勤行唱題するのも、こういうことが目的なんだとわたしは思っている。
映画『美しき緑の星』の場合、トランスをいい換えて、われわれが普段心身を置いている意識を“切断”して、トランス状態下の意識でもの(心)を見るという意味で“切断”という言葉を使っているそうだ。

ともあれ、勤行・唱題といった宗教的儀礼にしろ、覚醒映画を観るにしろ、音楽を聴くにしろ、美術絵画を観るにしろ、それは一種の瞑想であり、覚醒であり、トランス状態を求める人間の性があってのことであり、意識化されにくい潜在意識を引き出すことで、心が今なにをしたくて、何をしたくないのかを、まずもって知ることが全ての前提だといって過言はないだろう。

であるなら、勤行・唱題といった宗教儀礼あるいは礼拝などは、選挙の勝利の為でもなく功徳や福運や、罰や宿命論だとかを恐れるためとかでもなく、死後地獄に堕ちないためにとか、即身成仏するためにするなどいう思想は、まったくもっての見当違いに過ぎないとも言えるわけだ。
別の言い方をすれば、祈りといった言葉が示す本来のものはそういう概念であり、その上に、世間でいわれるところの「現実化したいことを願う」といった意味が付随してきたのが、祈りという符牒が示すものといえるだろう。

それは漢字の字義からも推察できる。
祈り=目標に近づくことを念じる。
祷り=寿命がとてつもなく長いことを寿ぐ。
釈尊や日蓮の言っている「いのり」は後者がメインであろうことは間違いない。
そういう意味では、祈祷という言葉は、先にあげた両方を同時に「いのる」行動といえるだろう。

言うまでもなく、『ネイティヴアメリカン 20の倫理符牒』の1項目目は、そういうことを伝えんとしているのだろう。

人間がこれをしようと意識的に決断して行動に移す前に、脳はすでにその行動を起こすための電気信号を送ってる事実を考えてみただけでも、潜在意識がなにを求めているのかを知ることが第一義であることなど、自明の理と言っていいだろう。

もっとも、潜在意識がもとめているものは多分たったひとつでしょうけどね。
それは感謝、「ありがとう」という心でしょうね。


なににしろ、それが例え正しい批判であっても、所詮批判は批判である。
ここに翻訳した『ネイティヴアメリカン 20の倫理符牒』にはないが、ネイティヴアメリカンの教えにはこういうものもある。

あれこれ批判するのではなく、正しいと思ったことは先に立ってやって見ること、と。

ネットブログやツイッターでそれをしている人を最近全くといっていいほど見かけない。
それがわたしがこの世界に抱く絶望感を巨大にしている。
まあ今更、太宰やカントが残した言葉をここにまた引用するのも気がひけるが……。

じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。
じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。
(太宰治)

啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。
この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。
したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である。
(E・カント)


言えば、ここで言葉にした「潜在意識」というのはいい換えれば「悟性」のことですよね。


『ネイティヴアメリカン 20の倫理符牒』をわざわざ“符牒”と訳したことにも意味がある。
原語が Codes Of Ethics になっているのだから。Words Of Ethics ではなく、Codes Of Ethics なんですねから、当たり前といえば当たり前なんですがね。
つまり、ネイティヴアメリカンの思想には、言葉が大事なのではその言葉に秘められた“暗号”のようなものこそ、大事なのだと伝えんとしているのだろう。

多分彼らはそれを“魂”と呼んできたのだろう。


知識は過去。 知恵は未来だ(ネイティヴアメリカンの教え)

解剖学者の養老さんも本質的には同じことを言ってた。福岡伸一さんもね。
本当の情報というのは「動き続ける」。それを固定してしまって「これこれはこうであらねばならぬ」としてしまい、いつまでも残りつづける情報というものは、本来情報とは言わない、と。

別の言い方をすれば、知ったことに執着しているだけなら、それは人のなさけに報いていないということ。
その人が本当に伝えたかった情報は、伝えたことを活かして、今を生き、未来を良きものにしてほしいという願いであるからだ。

あるとき、ある人に教わった。情報って字をよく見てみろよ。情けに報いるって書いてるだろ。
そういうことだよ、と。

その時は、まるで言われていることの意味が理解できなかったが、なぜか絶対に忘れてはいけないことだと深く心に刻んできた。でも今は、その意味がはっきりわかる。

ipsilon at 02:02コメント(0) 

2017年09月22日

どんな道を歩もうと、終局的には一つの道に辿りつきざるを得ないようだ。
ANA Global Channel がアップしているシリーズ『道』を見ていてそう思った。


町井さん、ブルース・リーと同じ思想に至っている!
相手をおかずに道具を使い自己認識すること。

稽古の最大の目的は「止まらない」ということ。
つまり、諸行無常という流れに逆らわず、むしろ流れに乗っていける自分を作ることだと。
そういう稽古をしていない人が、自然に淘汰されていくに過ぎず、誰かが誰かを倒すとか、どっちが強いとか弱いではない、と。



剣道の鷹見さんはじめ、相手を必要とし、勝ち負けのある武道を修した人たちがみな口を揃えて言っているのは、
「相手があってはじめて出来る稽古がある。だからまず相手を敬うことからはじめる」
「勝負ではあるから、勝ち負けはあるが、それが大事なのではなく、最後は人格形成が目的であると気づいた」と。


あらゆる道のなかで、彼らが言っているようなことを(例えば勤行・唱題)を通しておこなっていくのが信仰であることは言うまでもないだろう。
空手家の中村さんが言っていたように、私もまずは勤行・唱題の際に、足はどうなっているか、合掌した手はどうなっているか、またトイレに入るとき、どっちの手でドアを開け、どっちの手で電灯のスイッチをどのように入れているかなどなどを、徹底的に自己認識したことあるんですけどね。
意外と何でもかんでも無意識にやっているなと驚きの発見をしたものですよ。


能の山階 彌右衛門さんの語っていることも実に深い。
能面をかぶるのは表情は嘘をつけるから、と。だから面をかぶって、心を所作(振舞い)としてあらわせば、心それ自体を偽らずに表現できるという思想のなんと素晴らしいことか。このことは茶道の木村さんも似たようなことを言っている。本当のおもてなしや敬いとは、指先や足先といったあらゆる部位に神経を注いだ所作(振舞い)である、と。
つまり、その人のありのままとは振舞いにあらわれるということですよね。
端的に見れば、その一端は言葉遣いにあらわれるし、まず相手を敬う挨拶が出来るのかどうかで、その人の心の質がわかってしまうということですよね。

書家、柿沼さんの語りも深い、深い。
真似して、真似して、その人がどう感じながら書いたかを考え続けていったすえ、そこにあらわれる残りカスが個性なんだ、と。
古典を学ぶ意味はそういうところにある、と。
武道であれば、型を学ぶのは、それを学ぶことによって、自分にあうもの合わないものをきちんと認識して、自分らしい型(技の出し方)、つまりは自分らしさを作っていくためだ、と。

また書家、柿沼さんは「永遠の今」を表現するために書き続けている、と。「動いている」「動きがある」、と。

人間が生きる意味は、いい換えればこれでしょ。
「永遠の今」を表現するために生きつづけているだけですよ。
人生の意味はそこにしかないわけで。


余談だが、能の道で紹介されている『葵の上』というのは、『源氏物語』を原典とした作品だが、実に奥深い哲学を語っているわけだ。

嫉妬や恨みというものは、その人の心が生み出すものであって、相手のせいではないということに気付くための修練が仏教にはあるということを語りつつ、またそうした嫉妬や恨みを生んでしまう人間の心の悲しさを描いているわけで。

譬えば物ねたみする女の眼を瞋らして・とわりをにらむれば己が気色のうとましきをば知らずして還ってとわりの眼おそろしと云うが如し(弥三郎殿御返事・日蓮)

譬えて言えば、嫉妬する女が眼を怒らせて後妻を睨むようなことは、自分の気分が厭わしいことに気づかずに、それを他人のせいにして、後妻の眼は恐ろしいと見ているようなものなのです。

ipsilon at 11:39コメント(0) 
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