2017年12月

2017年12月31日




この章節はなかなかに難しいと思う。仏教最古の経典と言われる『スッタニパータ』にしても、すでに仏陀の神格化が行われていると見て、経典に説かれている真理を読みとらねばならないと思うからだ。

まずはじめに天帝である帝釈天が喜ぶ場面が説かれる。
さて、この意味はなんであろうか?
こうであろう。
「人」として生まれてくることがいかに素晴らしいことかを経典は説いている、と。

なぜ「人」に生まれることが尊いのか?
経典は告げる。
「人」は諸人の利益と安楽のために「人間世界」に生まれたからだ、と。
また「人」に生まれたからこそ、諸人を利益と安楽に導ける、未来の仏(菩薩)という行為を行なえるのである、と。
つまり、初期仏教では、仏陀を特別な神だとか、本仏などという立場におかず、一人の人として一応は見ているのだ。

ここで注意したほうがいいのは、「人」と「人間」という違いだ。
言うまでもなく「人」は一個人、わたしであれば、わたしだけのことである。
「人間」というのは少なくとも「人」と「人」が関わること――社会活動――であり、わたしを主体とするなら、わたしと誰か(客体)ということでる。
しかし、「人」というのは、「人」であっても実は己の内面で「人間」たれる生きものであるわけだ。
そしてそういった思考――つまりは自己を主体者としながら自己を客体視=いわゆる自己を客観視――できる生きものは、あらゆる生き物のなかで「人」だけであることを帝釈は喜んでいたわけだ。
だから経典の真意は、のちに仏陀になるゴータマの誕生だけが尊いというのではなく、「人」として生まれてきたあらゆる人々が尊い存在だと説いていると考えるべきだろう。
であるからして、経典はその後、いかなる人も殺すなと述べているわけだ。

ともあれ、このような思考ができないと、仏陀が本仏であるとか、日蓮が本仏であるとかいう特定の個人を神格化し、その人物が「人」であったことを見失わせるわけだ。
従って、わたしは本仏論など無用の長物だと確信している。
(そもそも、こんなことは相対性理論の当てはめでわかることだ。本仏が偉くて迹仏は偉くない? 愚かな思考である。迹仏があるから、本仏という定義ができる。時間と空間も同じ、弟子と師匠も同じだ。善と悪とも同じだ。わたしに言わせれば、相対性理論などすでに古典の領域であるが、どうやら妄信的だったり宮台氏の言う「言葉の受動機械」的な人は、相対論からものを考えることが出来ないようですがね)

そもそも、この経典にある帝釈というのも、ある人物が自分を観察してみて、動物と人間の違いに気づいたことを、帝釈と仏陀という名前の関係性に置き換えていっているということだ。
だから、帝釈などという神は本当は存在しない。帝釈というのは、自分を客体視した自分のことを本来はいうわけだ。

本仏・迹仏も同じだ。
迹仏という定義があるから、それより偉いという本仏が定義できるのであって、この世界に迹仏という定義がなければ、本仏などそもそも定義できないのだからね。本仏しかなくて、この仏こそ宇宙根源の仏だってどうやって証明するんだ? そんなことは誰にも出来ない。
つまり、本仏・迹仏にしてもそれは関係性(縁起)のうえでしか語れないし、関係性とどちらが根源的かは別の問題だということですよ。正確にいえば、迹仏・本仏というのは、相互補完しあっているのだから、どちらかを優先すれば、かならず偏りが起こるということだ。
ま、言ってる意味がわからないなら、一から相対論でも学ばれればいい。

そもそもこの経典でも、仏法の根幹は「平等」だと述べているわけだ。
偉い仏がいて、偉くない仏がいる。そんな馬鹿な仏法があるものか。

つまり、間違った仏教を信仰しているような人々は、なにか帝釈という偉い神がこの世界のどこかにいると信仰しているわけだ。そして祈れば、その神だとかいうものに守ってもらえると愚かにも思っているわけだ。

南無妙法蓮華経にも同じことがいえる。
題目をなにか特別な永遠不滅の宇宙森羅万象を貫く絶対の法だなどと見てしまえば、唱題しながら自己を客観視するための題目という本来それがもっていた真意を見失っているということである。
当然、真意を理解せずにただ呪文のように何千万遍と唱え祈ったところで、その御本尊とやらに守られるわけではない。
すなわち、御本尊を拝して唱題行(止観)するということは、自己の心身をどうすれば平穏かつ安楽にしておけるかを自ら知り、自らの力で自らを守ろうとする行為であると理解することこそが、正しい仏法だと言えるわけだ。

そもそも、御本尊様が守ってくださるとか諸天が守ってくださると祈っているのは、「他力本願」であるのだが、何十年も妄信してしまうと、そういうことにすら気づけないわけだ。
そのように「他力本願」になっておきながら、念仏は「他力本願」だから駄目なんだとか、他宗を破折している傲慢さよ。


ともあれ、人として生まれてきた最も価値的なことは、自己を客体視できるということだ。
であるならば、瞑想も止観も内観も直観も唱題行も、言葉は違えども、そういうことを指していることはわかろうというもの。
そしてこうした客体視は「人間」という自分と誰かの次元においてもまた同じなのである。

ではなぜ経典では、それでも一人で道をゆけと勧めているのか?
簡単なことです。
自分で自分のことを正しく客体視できていなければ、自分の主観でありのままに他人を客体視などとうてい出来ないからだ。
他人をありのままに客体視できずにその人と関わり、その人を利益し安穏に導けるかどうかなど、考えるまでもなく「不可能」という答えを導きだせるはずだ。

ipsilon at 11:25コメント(1)『スッタニパータ』 

2017年12月30日

この本に出合ったのは20代前半の頃。
自分史的にいえば、第一次精神崩壊になる少し以前だったと記憶している。

当時働いていた職場の人間関係に悩み、いったい何を根本に生きればいいんだ? と真剣に人生について悩みはじめた時期である。

そうした背景があっただけに、『人生に必要な智恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』は、わたしの人生を変えた一冊でもある。

とはいえ、何年も読み返したことはなかった。
なぜかと問われれば、表題とそれにまつわる紹介文だけで充分に長い間、わたしのなかに価値的なものとして存在していたからだ。
しかし、今回再読しはじめて、多くのことに気づいた。

そうそう、わたしが書きたい記事はまさにフルガムが書いているようなエッセイなんだと。
そして、わたしが読みたい記事もまた、フルガムが書いているようなエッセイなんだと。
普段の暮らしのなかで自分と周囲に起こった出来事を見つめ、そこで気づいたことを語るというエッセー。
これこそがわたしの求めていたものだし、ずっとやりたいと思ってきたブログの形なんだと。

だが、それは簡単なことではないこともすでに知っていた。
そもそも、引き籠っていて、誰とも接触しないでいると、自分と周囲に出来事が起こらないんだから。
そしてまた例え起こったとしても、そのことをタイムリーに書いてしまったら、当事者へのプライバシー侵害ということを起こしかねないことを知っていたからだ。言えば、小説を書くのを中断しているのもそれが理由だ。
そう考えると、太宰の勇気に讃嘆の念を感じる。
誰に何を言われようと、家族や親戚や友人のことをあからさまに綴っていったのだから。

だがそうであっても、わたしは自分のしたことを前提にした「気づき」を記事として書こうとしてきたことを自ら疑う気はない。

ともあれ、「クレヨンと想像力」「あたしは人魚」「フルガムの交換法則」という作品に深く感銘を受けた。

言われてみるまで、ある色のクレヨンにつけられている名前に何の違和感も抱いていなかった自分を見つけたわけだ。
それは「肌色」という名前なんですけどね。
またそういう気づきから、わたしって野郎はやっぱり自分の悩みよりも、誰かに対して善き関わりをすることに喜びを見出しているんだと気づいたわけだ。

「あたしは人魚」については語らない。
昨今は、ネタバレがどうのとうるさいですからね。
ネタバレしようがしまいが、読んで感じるものが奪われるでもないのに……と個人的には思ってますがね。
ともあれ、これまでのところ、一番感動した作品はこれだ。

で、「フルガムの交換法則」。
これは少し前の記事で、わたしが述べた生きる意味を、フルガムもわたしと同じように考えていたという共感があった作品だ。

フルガムは犯罪学で言われるロカールの交換原理(人と人、人と物、物と 物が接触すれば、必ずお互いの間で物質の交換が生じるので、相互に付着した微細な物体を証明することにより、犯人と被害者や犯罪現場との関連を証明できる。またこのことは科学的に実証されている)から、われわれ人間は、誰かや何かに関わることで何かを与え、何かを受け取っている――つまり分かち合っている=縁起という繋がりによって分かち合っている――のであり、それこそが(良し悪しは別として)生きる意味だと言っていたわけだ。
ちなみにフルガムはキリスト教の牧師である。

キリスト教の牧師であっても、仏教観でものを見れる人はいる。
かたや、仏教徒と自称していても、キリスト教徒にさえ劣る仏教観しかもてない人もいる。
人間を人間として見ることがいかに大切かを、この本は教えてくれると思うわけだ。

フルガムが最も好きな曲とわたしの一番好きな曲もめでたく一致した。
『第九』でティンパニーが鳴り、行進曲がはじまるところ(第四楽章の途中)が最高なんだという部分まで一致したりしてね。
むろん、この行進曲の意味を知っている人なら、やはりここからが真にベートーヴェンが伝えたかったものであることは知っているのだから、一致するのは当然といえば当然なんですけどね。

つまり、一楽章から三楽章で奏でられ連綿と積み上げられてきたものに安住してしまいそうになる自分を諫め、今ここからだ! ということを語ろうとしている起点が、行進曲なわけです。
だから、四楽章の歌いだしにある歌詞は――

おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか


になっているのだ。
そしてこの部分だけがベートヴェン作詞であり、そこから先の部分はシラーが詠った詩になっていっているわけだ。
この部分を深読みすれば、人は一人では何も成しえないということを無言のうちに語っているように思える。

ようするに、ベートヴェンは一楽章から三楽章を四楽章の途中で一度否定して、そこから創造をはじめるんだということを、楽曲によって伝えんとしているわけだ。
だから、第四楽章は不協和音ではじまってもいるのだ。


とにかく信じればいいんだ! という人こそ、こういったベートヴェンの姿勢から学ぶべきものがあるのではないだろうか。

自分の信じてきたものを否定して、より良いものへと向かおうとすることが困難であることなど、言わずもがなであるが、それをしてこそ真の創造はなしえ、またそこにしか歓喜はないと訴えているのが『第九』なのだから。

そしてまたベートヴェンはこの『第九』を、彼の人生の最悪の時期(作曲をやめてまで全魂の愛情をそそいで育ててきた甥がベート−ヴェンの過保護に苦しみ自殺未遂をし、その事で弟や親族からも放逐され、心身ともに疲れきり病んでいたであろう絶望)のなかで描いてみせたということを知る人なら、そのあたりに込められたメッセージは読み取れるのではないだろうか。

もっといえば、ベートーヴェン彼自身も幼少期から、父親からの過干渉で苦悩してきた人(今で言うAC)だったのだが、彼はそれが自覚できず、半ば無意識に自分がされたことを甥にしてしまったという皮肉な構図があるんですがね。
であるなら、彼が本来なすべきだったことは、自分を見つめ、自分の原体験からくる行動で人を苦しめることがあるという、自分自身を知るということだったはずだ。

人のために生きて何になる? 良かれと思ってやっても、人を自殺に追い込むことさえある。
であるならば、自分自身に生きるしかないのだ! 自らの行ないを正すしかないのだ。
そして、自分自身に生きている人とのあいだに芽生える友情こそ、まさに歓喜すべきものである。

まあ、世の中、自分の行ないを正すまえに、他人にあれこれ言ってる人が多いようですがね。



行進曲が奏でられたあとに歌われる詩はこうなっている。

天の星々が きらびやかな天空を飛びゆくように 楽しげに、、、、
兄弟たちよ 自らの、、、道を進め 英雄のように喜ばしく、、、、勝利を目指せ、、、

(シラー)


ipsilon at 10:42コメント(0) 



この章節では、さほど難しいことは語られていない。
簡単にいえば、すべては自業自得であるということが語られている。

批判すれば、いつか自分も批判され、そのことによって苦悩する。
中傷すれば、いつか自分も中傷され、そのことによって苦悩する。
敵意をもてば、いつか自分も敵視され、そのことによって苦悩する。
嘘をつけば、いつか自分も嘘をつかれ、そのことによって苦悩する。
嘲笑えば、いつか自分も嘲笑われ、そのことによって苦悩する。
あげていけばきりがない。
もちろんこの反対もある。
褒めれば、いつか自分も褒められ、そのことによって歓喜する。
では何でも褒めればいいかと言えば違う。
誤った見解をしている人を褒めることは「虚偽」であると仏陀は述べているからだ。
つまり、真実を語ることが最良といえるだろう。

であるなら、他人を批判したり非難する生きかたを改め、自分が向上するためにはどうすればいいかという自己批評をし、自分に嘘をつかず、自分を愛し、自分と他人に好意をもち親切な生きかたをすればいいだけだ。
しかし、こうした生きかたが、最も困難な生きかたであるとわたしは思っている。

経典では地獄についても語られているが、賢明な人であれば、それが死後赴くところではないことはわかるだろう。
そもそも仏陀は地獄の真相については語れないと言ったあと、比喩を用いてなら語れるだろうと説いている部分にも注意がいるだろう。
(日蓮も御書で、そもそも仏陀は地獄の真相については説いていないと述べている)

つまり、地獄とは自分の行為によっておちる境涯なのだから、その行為をした人物にしかわからないということを述べているわけだ。
そしてその最たるものが「孤独」だと言っているのだ。

もう何年も前からわたしは、自分が思ったことを億千の言葉をつかって語ったとしても、絶対に他人が理解することなど、ましてや100%理解することなどありえないと言ってきたが、それはこういう視点に基づいていたのだが、ほぼ誰一人としてその真意に気づいた人はいなかった。
しかし、わたしは気づいたことを言い続けた。
なぜ言い続けたか? なぜなら、真実を語ることが最良であるという信念があったからだ。

わたしたちは必ず理解しあえるなどと思い込んで人に語る行為は、仏法に照らしてみれば「虚偽」を人に教えているのであり、そうしてついた嘘はいつか必ず自分に返ってくるわけだ。
だから、わたしはどんなに語っても我が意が他人に理解されることなど絶対にないと言い続けてきたわけだ。
ただし、そういう言いかたをすると、親身になってくれる人の心を傷つけるということもその後、体験を通して学んだので、理解しようと努力してくれているとか、その努力を信じることは大事だと思っている。

思い起こせば、当時は日蓮の御書を日々拝しており、地獄について深く思索をしていた時期である。
そして心療内科に通っていた時期で、その待合室で地獄の最たるものは「孤独」のことか!? と電光のように気づいて、持ち歩いていたメモ帖に急いで書きつけたんですがね。


また経典では、譬喩によって地獄で過ごす時間が長大で計ることも出来ないと述べているのは、自分の行なった行為を反省し正さずに死んだならば、その人は自分がいかなる行為によって地獄の境涯に堕したかを知れないのだから、計り知れないあいだその業によって苦しむとしか言えないと説いているわけだ。
つまり、仏陀が比喩を用いて教えようとしたことは――
生きているあいだに、自らの行為を顧みて、「敵意」をもつようなことがないよう、自分を制御して、行為を正していきなさいということにほかならないだろう。

死んでから行為を正そうとしても、それはできませんよ。
生きていてこそ、行為は正せるのだということだろう。

ipsilon at 08:44コメント(0)『スッタニパータ』 

2017年12月29日



この章節には、広く世に知られている一文が収められている。

生れによってバラモンなのではない。
行為によってバラモンなのである。


がそれだ。

しかし、これらの指す意味はかなり深く、世間一般で行われている、「切り文」的解釈をするなら、正しく経典にある意味を知ったことにはならなだろう。
つまり、この文だけを知識とするなら、それは正確な知識ではないということだ。
この文の前後にある文章を知っていてこそ「文脈」は正しく読めるということだ。

その文脈を簡単に述べるとこういうことになるだろう。

この世界にある動物は種が同じでも肉体的特徴や本能という点で異なっている。だから彼らは生まれによって決まる生き物である、と。

しかし、人類という種は多少の身体的特徴の違いはあれども、基本的には誰もが同じ機能や能力をもって生まれてきている、と。(爪があるとか、髪が生えるとか、目があるとか、肩の位置はここであるとか、などなど)
だから、人間は動物とは違い、生れによって決まる生き物ではない、と。

では行為とは何か?
仏陀は答える。
行為とは行っていることに対してつけられる「名前」である、と。
田畑を耕して暮らしているなら「農夫」であり、村や国を所有しているなら「王」である云々と。

では農夫は国王より下賤な人間かといえば違う。
多分、おおくの人々はこの時点で経典を正しく理解していないのだろう。

仏陀は言う――。
行為を見るとは、あらゆるものを「縁起」によって起こっていると見ることであり、行為=業とその果報を熟知していることである、と。

ともかくも、誤った仏教は、「業」という言葉を「宿業」や「宿命」と解釈して人間を苦しめているのだが、本来、「業」とは行為を指すことはこの経典からもはっきりわかる。
だが、この経典では同時に人間は逃げることも避けることも出来ない「運命」をもっているとも語っているのですがね。
それは「知れない」まま生きざるを得ないと言っている部分なわけだ。
だからこそ、業とその果報を正しく見極めることによってしか、苦を滅することは出来ないと言っているわけだが。

脱線したが、つまりは、「行為=業、とその果報を熟知」とは、自らが行ったことでいかなる結果になり、かつその結果からいかなる報いを自分が受けるかを見極めていくことが大事だといっているわけだ。
そしてそうした「自己を知り尽くす行為」を行なえる人を聖人と言うのだと。
つまり、運命と行為の関係性をまとめるとしたら――
人間は縁起によって勝手に起こる運命を知りえないが、そうであっても、少なくとも自分の意志で行う行為によって自分がどのように感じどう思うか、またそう感じ思ったことでどのような報いを受けるかくらいは知れるものだと仏陀は言っているわけだ。
当然、そのようにして自らの行為における果報を知っていれば、それは己が招いたものであるから「苦」だとは言えないということだ。
もしも自らの行為から「苦」が起こったと思うなら、自らが「苦」を選んだことに気付いていないだけだ。

そして経典では、実際には、聖人が三つのヴェーダを「調和」させる行為を行っていることを少ない言葉で語ることで終わっている。

では、三つのヴェーダとはなにか?
簡単にいえば、風・水・火であり、これを一個人にあてはめるなら、心・知・身といっていい。
心は風のように掴みどころがなく見えない。今こっちに吹いていたかと思えば今度はあっちに。
身は火のような激しさで煩悩の薪を燃やしてくる。腹が減ったとか眠いとか、あの子とチョメチョメしたいとか云々。
そして往々にして、心と身はぶつかりあっている。
心では今これがやりたいと思っているのに、体が怠くそれどころではないと訴えてくるというように。
あるいは、あの子との関係を大事に育てていきたいと思いつつ、一刻も早くチョメチョメはしたいといったように。
例えが下ネタで申し訳ないが。

そこで重要になるのが「知(恵)」なわけだ。
煩悩に燃やし尽くされることなく、かといって身体の訴えを無視するような意思決定(心)でない、調和の取れたありようはどれか? を考えるのが知だからだ。

こうした三つのヴェーダの調和を「こころ」というものに当てはめれば、知・情・意になるだろう。
それを自分と他人に当てはめるなら、自分・他人・関係性になるだろう。
それを自分の社会における生きかたに当てはめるなら真(利)・善・美といった具合に。

つまり、三つのヴェーダというのは、あらゆるものに当てはめることができるということだ。
こうした見方を仏陀は縁起によって見ると言っているのだろう。

また、察しのよい賢明な方であるなら、つまりはさ、三つのヴェーダってのは、「空」に説かれている空・仮・中(知・断・恩。法身・般若・解脱。相・性・体。主・師・親)のことでしょ。であるなら縁起と空は、違う表現法で同じことを教えんとしてるってことだろと気づかれたはずだ。

仏教をまともに学んでいない人が使う「ありのまま」という主張の意味が何を指しているのか知る由もないが、仏陀の説く「ありのまま」とは、ようするに三つのヴェーダを自らの行為によって調和させていることを言うのであって、「そのまま」とか、「思いついた通り」などといった意味ではないわけだ。

つまり――
行為によってバラモンなのである
といっても、それは単純に世のため人のために生きているから偉いという意味ではなく、自分の中にある三つのヴェーダをきちんと調和させている人を指しているということになろう。

より簡単にいえば、仏教でいう行為とは「完全なる自己制御(=自由=自分を由りどころとする)」といって過言はないだろうし、自分の生きかたに一切後悔がない生きかたといえるだろう。


まああれです。自分を完全に制御しようと思えば、他人のやってることを見て批判したり非難している暇など、微塵もないということだ。

ipsilon at 10:55コメント(0)『スッタニパータ』 

2017年12月28日



ここで言われている「矢」とは煩悩のことを指し、かつまたその煩悩の中で最も根本的な煩悩のことであろう。
その煩悩こそ「死」についての無知であり、なおかつ「死」を忌み嫌い、「死」とは何かを考えない姿勢であろう。
そしてまた、死を嫌うゆえに、死を恐れ永遠性のあるものを求め、決して壊されないものを求め、不老不死を求め、そのことによってかえって苦しみを増す生きかたをしてきたのが、人類の歴史であり、かつ宗教の歴史といって過言はないだろう。

内心に死を嫌っている宗教は、大体において教義の根本に「永遠」だの「絶対」だのという言葉を据えている。だからそういった宗教は、信徒を真理からほど遠いところへと導き、苦悩を増させる、反価値的な宗教であるといえよう。
宗教に必要なのは「永遠」や「絶対」などではなく、ありとあらゆるものは死ぬという「普遍性」から導きだせる真理だけであろうに。


わたしは思っている。
「死」とはすべてが「無」に帰すことである、と。

であるなら、今ここで苦悩している悩みも、それと同じようにいつか必ず無に帰すということになろう。
「死」が教えてくれるのはこういうことである。だからあまり悩む必要はない、と。
それと同じように今ここにある幸福もまた、いつか必ず無に帰すということだ。
だから、幸福を追求するあまり、他者を蹴落とす必要もない、と。
苦悩や幸福を必要なだけ感じて、必要な対処をすればいいのだと。

愚かな、死の意味と向き合おうとしないを人々は、生涯、この苦悩と幸福に一喜一憂し、翻弄されて一生を終えるのだろう。


こうして考えていくと、仏法はなにやら虚無的な思想だと感じられようが、実は違う。
生まれたきたことと生きることと、「死」によってすべてが無に帰すということはイコールの意味ではないからだ。

生れてきたものは、草木であれ動物であれ、人間であれ、他者の中に記憶として残るという部分があるからだ。
そしてそこから生きる意味とは何かを考えるのが仏法であるとわたしは考えている。

であるならば、その問いへの答えも簡単明瞭である。
自らが死んで「無」に帰したあと「あの人は素晴らしい人だった」と多くの人に讃嘆されるような印象を残す生きかたをするということ以外に生きる意味などないと。
もっともそうなろうとして偽善的に生きようとするなら、それは真理に基づいた生きる意味とは言えないだろう。
また他人の評価など、年月の経過で簡単にひっくりかえったりもするわけで。

こうしたことを思えば、結局のところ、自分が正しいと思う生きかたを自分で決めるしかないのだ。
たとえそれで少なからぬ人に嫌悪されようとも。
そしてまた、思想や生きかたの違いを認めあうことでしか、この世界に平和が訪れることは決してないだろう。


賢者は言う――
汝は来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない
過去も未来もなぜそうなったのかなど誰も知れない。
であるなら、確実にあると感じている「今ここ」を生きる以外に道はない。
生れたきた原因も知れず、死にゆく原因も知れない。であるなら、今起こっていることの原因と結果も知れないということだ。
わたしが他律能動こそ正しいと考えるのはこういう視点からだ。

少し前の記事で釈迦仏は現在仏だと述べたが、正確に言えば、こうしたこと(過去と未来)を正しく知って今を生きている人の心のことである。またその心から起る行為(四菩薩=未来に仏になるであろう仏)であろう。
そうした意味がこめられているのが、「釈迦牟尼仏」という言葉なようだ。
「牟尼」は「聖」という意味をもつが、ようするに聖とは賢者が言ったことを熟知して生きている人ということになるだろう。

ipsilon at 09:35コメント(0)『スッタニパータ』 
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