2018年05月

2018年05月31日

これはたんなる海洋冒険巨編ではない。メルヴィルの神話世界といっていい。基督教長老派であるイシュメールを博愛主義精神をもつ巡礼者の語り部とし、エイハブを悪の権化――人間の欲望で最も下卑た復讐心の虜――とし、白鯨ことモビィ・ディックを審判を下す神としているのだろう。人間性を執拗に語るため冗長ではあるが、肉体としての人間、魂としての人間、双方の浄化はどうあるべきかを巡礼者イシュメールに語らせていく構成の重厚さは圧倒的だ。「目に見える世界は愛、目に見えぬ領域は恐怖」同じ白であっても見方で変わるという語りに痺れた。(読書メーターでの感想)


なぜ、そのように読めるかといえば、本編に登場する宗教の多さがあるからだ。
キリスト教長老派(語り部のイシュメール)、偶像崇拝、(蔑称になるが)クェーカー教徒、拝火教(世界最古の一神教、ゾロアスター教)、そして無神論者と、ざっとあげただけでも『白鯨』には多くの宗教徒があげられているからだ。
そして、そうした様々な思想をもつ人々の人間性を語りつつ、結局のところ、すべての人はある法則に抗うことは出来ないという視点で語られているからだ。

そうしたことが最も端的にあらわれているのは第四十七章「筵つくり」だろう。

偶然と自由意志と必然があるが、所詮それらは一枚の織物の縦糸(必然)と横糸(偶然)とそれを編む(自由意志)であり、織りあげられるのは一人の人物の運命というものに過ぎないと語られている部分だろう。

こうした描写は下巻にもあらわれる。
鯨を押さえつけている人物(自由意志)。その鯨に群がる鮫(必然)。押さえている男が鮫に噛まれぬように撃退する仲間(偶然)といった表現などがそれだ。

イシュメールが銛打のクィークェグと縄で結ばれて作業している場面もそのような表現(人は運命から逃れられぬ生きものであり、かつ運命共同体である)が見られるわけだ。

つまり、メルヴィルはそのように人間や世界を見ていたといって過言はないだろう。
しかし、そこにはさらに幾つかの視点がある。

そのように運命から逃れられぬ人間であっても、神は決して見捨てることはなく、いかなる悪人をも救うという視線であり(第九章「説教」で詩によってそう歌われている)、いかなる悪も善には決して勝つことができないという、ゾロアスター教の視点がそれであろう。
もちろん、その神とは、本作のタイトルになっている白鯨(Moby Dick)なわけだ。

こうした奥深さをもつ内容だけに、正直、海洋冒険巨編――アドベンチャー・エンタテインメント小説――という感覚で本書に挑むことはお薦めしない。
鯨や捕鯨に関する冗長な文章もあるし、比喩を多用する長めの文の面倒くささに辟易し、挫折するだろうから。

宗教についての知識もあればあったほうがいいだろう。
というか、そういう知識がないと、ただただ面倒くさい長編としか読めないだろう。
しかし、そうした宗教哲学面をしっていて読めば、非常に感銘深い作品だといって間違いはないだろう。

例えば、上巻に登場するシヴァ神信仰ひとつにしても、それなりの宗学教義を知っていないと、著者が何を言わんとしているかがわからないだろうから。
(シヴァはヒンドゥーの神のひとつだが、正しくヒンドゥー教を理解するなら、破壊の神のシヴァだけを主神にしている宗は部分観に捕われていると見れるということ。ヒンドゥー教だけに関わらず、まともな宗教は、誕生、成熟、破壊という三つを立てて、それらが三位一体であると説いているわけだ。キリスト教でいえば、父と子と精霊、ヒンドゥーは既に述べた、仏教であれば、有、無、空になる。こうした思想はもちろんギリシャ神話にもある。運命の三女神がそうだろう。クロートー、ラケシス、アトロポスだ。つまり、まともな思索をすれば、それを表現する描写は違えど、人は必ず、自分も世界も他人も「諸行無常」であるという境地に辿りつくといって過言はないわけだ)

そしてまた、メルヴィルも『白鯨』という作品をもって、そういうことを語ろうとしてもいるのだろう。
もっとも、彼の場合、ゾロアスター教的視点をもってということになるのだろうが。

こうしたことを彼らしい、若干乱暴な言葉で表現しているのが以下の引用だ。

ほかの人間が、異教徒だろうがなんだろうが、こういう問題(断食のこと)に気ちがいじみた考えをもっているからと言って、俺たちのほうがずっと優秀な人間だなどと妄想してはならぬ、と俺は言うのだ。ここに今ヨ―ジョー(偶像崇拝者の神の名)と斎期ラマダンについて途方もない考えを抱いているクィークェグがいるとしても――それがどうしたというのだ? クィークェグは自分のやっていることをちゃんと心得ているのだ。やつは満足しているのだから、そのままにしておいてやればいいのだ。やつになんと言ってきかせたところで、かいはなかろう、放っておけ、と俺は言うのだ。神よ、俺たちみんなに慈悲を垂れたまえ――長老派であろうが、異教徒であろうが――というのは、俺たちはみな、なにかしら頭をひどくやられていて、一刻も早くなおす必要にせまられているのだから。

素晴らしい思想だ。
俺の宗教が正しいだとか、お前のやってるのは邪教だとか、馬鹿な批判をする奴が大馬鹿なんだ。
所詮は、いかなる人間も尊重するしかないのだ。どうせみんなどっか頭がおかしいんだから、誰に対しても慈悲深くあればいいんだ、とそうメルヴィルは言っているわけだ。
言ってみれば、こうした思想こそが最も正しい宗教なのだろうが。


したがって、こうしたメルヴィルの視点から見ると、もっとも下品な生き方というのは――

目的をとげるためには、エイハブ(船長)は道具を使わねばならぬ。さて、この世で使われる道具のうちで、人間ほどはめをはずし勝ちなものはいない。

といっているわけだ。
引用した部分だけではわからないだろうが、要するに、自分の目的を達成するために――言いたいことをいったり自己顕示したいがために――他人を道具として使ったり支配したりする、つまりは自己正当化のために、他人を批判するときの道具にするような、そういう人間が一番卑劣なんだ、と言っているわけだ。
そしてもちろん、わたしもそういう人間が嫌いであり、吐き気どころか反吐がでるほど大嫌いなわけだが。

さらに深く思索すれば、そのように他人を道具とするような行為の奥底を辿れば、復讐心というものになり、その復讐心は結局、自分を滅ぼすだけだとメルヴィルはすでに上巻で匂わせ、仄めかしているといって過言はないだろう。

だってそうだろ。他人を利用して自分を正当化する究極は相手をぶっ殺してでも自分を正当化するという行為に繋がるのだから。つまりは復讐とはそういう行為に至る怒りなのだから。
そしてまた、他人があることによって自分の実存を実感できるという縁起でそれを見れば、復讐が自滅であり自殺でもあることも見えてくるはずだが……。


ともあれ、『白鯨』は聖書にある『ヨナ記』から多大なヒントを得て、問いを立てているといって過言はないだろう。
そしていろいろ調べてみると、ゲーテの『ファウスト』とドストエフスキーの『カラマーゾクの兄弟』の場合は、『ヨナ記』ではなく『ヨブ記』において答えらていない問い(というか神は全能なのだから神に従えばいいという安易とみえる結末)に対しての考察なのだということが見えてくると、ユダヤ・キリスト教的にはいまだ人間が納得ゆく答えに辿りついていない普遍的な大きな問いを抱えているということが、見えて隠れするのではないだろうか。

どうやら、学びの道は遠く遠く、果てしがないようだ……。



【蛇足な備忘録】
『白鯨』は深読み、穿ち読みをすると本当に深い。
キリスト教(の範疇に入れていいものか悩むが)には、一時期、グノーシス派と呼ばれるものがあった。
だが、この派の教義はいわゆる正当なキリスト教から見ると、神を冒涜しているとしか見えず、グノーシス派は正当派キリスト教徒から酷い迫害と弾圧を受け、事実上、彼らは絶滅したと言われている。当然、彼らの残したであろう文書も焚書に遭い、絶滅したと長く思われてきた。ところが近代になってグノーシス派の残したであろう文書「死海文書」が発見されたという経緯がある。
そしてこのグノーシス派の教義というのが、ゾロアスター教に非常に近しいというわけ。

言ってみれば、メルヴィルはこうした絶滅させられたキリスト教の一派という視点から、もう一度『ヨナ記』を問いなおしてみたいと思ったのではと読むこともできるわけだ。

もっとも、死海文書が発見されたのは、1947年であり、『白鯨』が発表されたのは1851年なのだから、こうした見方は、メルヴィルの生きた時代観ではなく、現代的読書観ではあるのだが。

ipsilon at 10:32 

2018年05月30日

そうしてすべての生きものがひとつの音楽を作った。それは大洋の中心のその島からたえず湧きあがった。森羅万象への称賛と感謝のつきることのない泉だった。



人間は大地と海を愛しそれらを自分自身の肉体として慈しむことを学ばねばなりません。それらにも霊気が満ちていて、それと同じ霊気が自分たち自身や、あらゆる生きものを満たしていることを学ばなければなりません。あらゆる世界の音楽に耳をかたむけ、万物の調和ハーモニーを学び、そのなかで生きねばならないのです。



むかし、みんな、ひとつだった、世界。
おいで、あったかな宇宙ソラだよ。



『赤ちゃん学を知っていますか?』で学んだが、人は生まれたてのとき、いかなる国の言語であっても習得できるのだという。
なぜそうなのかといえば、人は生まれながらに、あらゆる言語音声を認識する記憶を胸の奥に秘めているからだ。
認知し、認識することが出来なければ、耳にした言語音声をどのように使えばいいかなど理解しようがないからだ。
人は生まれたばかりなら、あらゆる生きとしいけるものの言葉が認知できるのだ。
そしてそうした能力を大人になっても幾分か維持している人を普通、詩人と呼ぶわけだ。

つまり、人は生まれながらにして、森羅万象の記憶を内に秘めているというわけだ。
秘めているからこそ、視て、聞いて、触れて、それがいかなるものかが認識できるわけだ。

人類が一度も遭遇したことがないであろう宇宙人のリアルな絵や写真、想像でつくられた怪物や妖怪、そうしたものを見ても、気絶するほど人は驚かない。
「ふーん」そんな風に受け入れてしまうのも、人が森羅万象の記憶を内に秘めている証拠といえよう。

もし人が生まれながらにそうした記憶をもっていないとしたら、視たこと、聞いたことのないものに遭遇したとき、得体の知れない恐怖を感じるはずなのだ。恐らく、宇宙人の映像を凝視することは出来ないだろう。

しかし、残念なことに、成長してある程度の年齢になり、母国語を習得してしまうと、もはや森羅万象の記憶を呼び起こすことが困難になる。
なぜなら、習得した母国語をより正確に聞き取ろうとして、母国語だけに焦点が結ばれ、他の言語を排除する働きが脳に起こるからだ。
常識とか偏見とか先入観というのも、そのようにして作りあげられる。

だから、ありのままに生きたいと思うなら、自らその常識や偏見や先入観を取り払うしかないわけだが、もはや脳はそういう意志を拒否してくるというわけ。

したがって、語彙力をつけたいと思っても、20歳代を過ぎれば、相当の努力をしない限り、新しい語彙ひとつ憶えることが出来なくなっていくのだそうだ。
いわんやこれが40代、50代となろうものなら、もはやありのままに到達することも、新しい語彙を身につけることも、絶望的に難しくなるというわけ。

とはいえ、柔軟であろう、なんでも受け入れようという意識を常に働かせていれば、その絶望を突き破れないこともないようだが。

なんでも受け入れる? そんなことが出来るわけがない。
人は生まれた以上、必ず死ぬのだ。
その死を受け入れるということは、結局のところ、すべてを受け入れざるを得ないということを示唆しているのだろうが、人というのは高慢なもので、死が本当に身近に迫らない限り、「あいつは嫌い」「あいつは馬鹿」「あいつは狂人」「あの宗教は浅薄で、俺のやってるのが正しい」といったように、あくまでも受け入れようとしないのだろうが……。

悲しいばかりだ。

少なくとも、わたしは受け入れられずに、怒りや憎しみや敵意を抱えたまま、最期を向かえたくはない。
そんな最期にあるのは、恐らく未練と後悔だけなのだから。

ipsilon at 11:20 
SFでありながら、人はいかに生きるべきかを語っている、非常に優れた作品。

旅をして様々な人に会うことで人格が磨かれてゆく。そしてそれと同じ効果が、本を通して学ぶなかにもあると筒井は語る。
丁寧なことに、学ぶ順番までも教えてくれている。

まず歴史。つまり人間とはいかなるものかを、歴史で繰り返されてきた事柄を眺め、人間の中にある普遍性を見極める。
そのうえで、人類にある普遍的幸福を実現するために必要な手段である、政治と経済を学び、政治と経済だけでは解決できない諸問題を睨み、科学と並行して進歩すべき医学を学び、科学と医学が急激に進歩する産業化や効率化によって起こる弊害を見抜き、政治、経済、科学、医学、産業化、効率化が整っても解決されない個々人の不幸がどのように起こるかを小説から学び、そうした個々人の幸福追求が思想・哲学でどのように体系づけられるかを学び、これまで学んだ全てを駆使して、なるべく多くの人の幸福追求を妨げない調停の役目としての法論理を学ぶべきだ。
そう筒井は描いていく。
実に論理的かつ理性的な思索に思わず感動した。

しかし、一人の人物にできることは僅かだ。
筒井が述べたような、総合的な学びを行ない、学んだことを社会に還元していくとなると、底知れぬ困難があることにはすぐに気づくわけだ。

もちろん、筒井もそうしたことを弁えたうえで、理想的な学びを語っている。
だから、彼はこうも述べているのだ。

人間はただその一生のうち、自分に最も適している最もやりたいと思うことに可能な限りの時間を充てさえすればそれでいい筈だ。

と。


結局のところ、人生とは、自分に適した旅をするということに他ならないのだ。

このキテロ市に、わたしは帰郷したのではなかった。実は旅の途中に寄っただけに過ぎなかったのだ。旅をすることによって人生というもうひとつの旅がはっきり見えはじめ、そこより立ち去る時期が自覚できるようになったのであろう。

人は晩年になればなるほど、望郷の思いに駆られ、自分が還ってゆくべき故郷に焦がれるものだろう。
しかし、人にとっての本当の故郷というものは、生れた場所ではないのだろう。


わたしはそもそもがひと処にとどまっていられる人間ではなかった。だから旅を続けた。それ故にいろんな経験を重ねた。旅の目的はなんであってもよかったのかもしれない。たとえ死であってもだ。人生と同じようにね。

主人公ラゴスの場合、祖先たちから学びに学びつくし、教えるべきは教えつくし、自分に出来ることをやりつくした。そのうえで人生という旅の目的が何なのか考えてみたとき、そこには目的などなかったと気づいたということだろう。
では最終的に何に向かって彼は歩んだのか。

穢れを知らない愛情。若き日に感じた純愛。初恋だけにある憧憬ともいえる愛を求めたのだ。
結局のとろこ、好きなこと、やりたいことをやって、後悔のない一生を終える以外に人生の目的などないのだ。
それが筒井の辿りついた人生観なのだろう。

「お行きなせえ。ラゴスさん。あんたは立派な人だ。わしにはわかっているよ。とてもわしなんかと一緒に暮らせる人じゃねえ。
あんたはきっと氷の女王に逢えるだろうよ。氷の女王は美しいひとに違えねえ。そしてそこはきっと素晴らしいところだよ。ああ。そうとも。そうに違えねえよ。そしてわしは、それを祈ってるよ。ラゴスさん」



大切な人が、あるいはいつまでも一緒に暮らしたいと思っている人が、「自分の進みたい道はこっちなんだ!」と言いだし、辛い別れが訪れたとき、わたしは果たして、ドネルのように言い、送りだしてあげることが出来るだろうか。心のどこかで「氷の女王なんていやしない、あんたは馬鹿だ。大馬鹿野郎だ」と思っていても、そういう気持ちを捨てて、相手がやりたいという、その相手の気持ちを汲んで、相手を尊重し、心から相手の旅立ちを祝福できるものだろうか。そう、それこそが人生にあって最も困難なことだろう。

だからこそ、そういう場面では、相手の言っているいることを俺は信じたいんだ! という「祈るような気持ち」にならざるを得ないのだと思う。

自分の願望を実現するために祈る?
馬鹿らしい。そんなものは単なる欲望の権化だ。迷信でありお呪いだ。自分の願望を満たすことで、相手の自由を奪い、縛りつけ、ひいては支配するという愚行を犯すこともあるだろう。

だから、人間にできる最も崇高な祈りとは、相手の言動に絶対的な不可能性を感じても、理性でもってひたぶるに可能性を信じ、祈るような気持ちで、相手の自由意志を尊重できるという崇高さなのだ。

ipsilon at 10:32 

2018年05月27日



作詞は、覚和歌子さんだそうで。

地道に、地道に、素晴らしい生き方を歌っている人はいるんだなァ。
見ようとしなければ見えない、見ようとしても、見たいものしか見ないでいれば、やっぱり見えない。
それはわたしもそう。

もっと目を凝らして生きなきゃだな。
素晴らしい人は沢山いるんだから。



そうだね、そういう名前はあるんだな。
僕はいまだに見つけられてないけど……。
もっともそういういのちに名前なんていらないといえば、いらないんだけど。
なぜって、名前がなくともそれが確実にあると感じることはできるから。

むしろ名前があると、その名前に執着してしまい、本当に大事なものを見失うのだから。
例えば、南無阿弥陀仏が一番だとか、南無妙法蓮華経が一番だとかいって、争いをはじめるから。
他人のいのちを、見下し、馬鹿にするようになるから。

ipsilon at 08:41 

2018年05月24日

以下、読書メーターに投稿した感想。

『クロイツェル・ソナタ』が素晴らしい!! ベートヴェン作曲のバイオリン・ソナタ第九番『クロイツェル・ソナタ』が演奏される場面の美しさよ! ピアノ(男)とバイオリン(女)が対等な立場で互いが相手を尊重する同じ心でいる瞬間こそが純愛だと、見事に歌わせているのだから。第一楽章は牧歌的なイ長調ではじまり、悲し気な短調に変わる。第二楽章はこの世で最も美しい感情を表現できるといわれるへ長調。これもまた途中で短調になる。第三楽章、途切れなく踊るタランテラと呼ばれる奏法は、一楽章と同じ牧歌的なイ長調で奏でられる。

長調と短調は、夫婦生活における喜びと悲しみ。主調のイ長調は、人間が一番心地よいと感じる調。いわゆるチューニングで使われるラ音(A)を根音とする。つまり、トルストイの求めた純潔な愛とは、夫婦や家族だけの愛ではなく、夫婦と彼らに関わるすべての人々がみなハッピーになる愛だといって過言はないだろう。ビアノとバイオリンに対等なソナタを創りあげたベートヴェンも偉大なら、その曲に触発されて、一見、嫉妬と猜疑と性欲まみれの悲劇を描いているようで、実は神の愛を描いてみせるトルストイ。――溜息しかでない。

それだけに、最後の場面はあまりにも痛々しい……。顔に痣ができ、刺された妻を目にして、ようやく彼女に自分と同じ権利や尊厳――人間としての平等――があると気づく悲しさたるや……。嫉妬いやそれ以上に猜疑心というものの恐ろしさたるや。『悪魔』はそいう嫉妬や猜疑心はあくまでも主観である――自分で払いのける以外に解決策がない――ことを最後の一行で強烈に訴えてくる作品。他人を狂っているとみているのもその人の主観である……と。



本タイトルは、中編2本、約200ページというボリュームなので、読もうと思えば案外すんなりと読めるだろう。
しかし、取り上げられている内容は、決して明るいものではないので、人によってはしんどいかもしれない。
トルストイの思う、性愛に対する非常にストイックな思想がこれでもかというほど懇々と語られるからだ。

ぬぼーっと読んでいると、「トルストイおじさん、大丈夫か? そこまでストイックに考えてたら、生きていけなくなるぜ……」と呟きたくもなるだろう。

そういう感情を惹きおこさせる最大のところは――

かりに何の目的もなく、人生のために生命が与えられたのだとしたら、生きていく理由なぞありませんよ。もしそうだとしたら、ショーペンハウエルやハルトマンや、それにすべての仏教徒たちは、まったく正しいわけです。またもし、人生に目的があるとしたら、その目的が達成されたときに人生が打ち切られねばならぬことは明らかです。

という部分だろう。

つまり、トルストイは性欲や性愛にもとづく行為と出産や子育ては、人間としてまったき理想の生き方に到達しえないとき、子孫にその夢を託すためだけにあるべきだ、というところまで理想を高めているわけだ。

トル爺さん、何もそこまで思い詰めなくとも……と言いたくなるだろう。


ともあれ、『クロイツェル・ソナタ』は、このような形で、著者の考える純潔な愛と、そうした愛を遠ざけているような世間の性愛に対する態度を徹底的に批判する部分がほとんどで、わたしが感想に書いた個人的に核心と思えた場所は、わずか2ページほどという作品なのだ。

それだからこそ、夜会でクロイツェル・ソナタが演奏される部分は、暗闇の中で一瞬だけ見れた眩いばかりの耀ける美しさがあるのだろう。

気のせいか、まるでそれまで知らなかった、まったく新しい情感や、新しい可能性がひらけたかのようでした。ああ、こうでなければいけないんだ。これまで自分が考えたり生活してきたやり方とはまったく違って、まさにこうでなければいけないんだ、と心の中で告げる声があるかのようでした。わたしがつきとめたこの新しいものが、いったい何だったのか、はっきりさせることはできませんでしたけど、この新しい状態の自覚はきわめて喜ばしいものでした。妻もあの男もふくめて、相も変わらぬ同じ人々が、まったく別の光に照らされて見えてきたのです。(中略)

わたしは夜会の間、終始、心が軽やかでした、その晩のような妻の姿を、わたしはかつて見たことがなかったのです。演奏している間の、あの光りかがやく目や、端正さ、表情の厳粛さ、そして演奏し終わったあとの、何か身も心もすっかり溶けてしまった風情や、かよわい、いじらしい、幸せそうな微笑。わたしはそれらすべてを目にしました。しかし、妻もわたしと同じ気持ちを味わっているのだ、わたしと同じものが啓示され、まるでついぞ味わったことのない新しい情感が思い起こされた気持ちになっているのだ、ということ以外、そこに何ら別な意味を付さなかったのです。



美しいじゃありませんか!
前の記事に書きましたが、リズムを合わせようとすることで、人と人は「あるがまま」の心を通わせあえる。
音楽のもつ、詩歌のもつ、韻律の偉大さよ。

だが、残念なことに、主人公が事件のあとそれを振りかえって告白しているとおり、そういう情感を、「何だったのか、はっきりさせることはできませんでした」という部分に、妻殺しの原因があることがわかるわけだ。
それぐらい、リズムを合わせて人と人が「あるがまま」である感動や喜びや称賛の素晴らしさを言葉にするのは困難であり、なおかつ「今ここにしかない、あるがまま」は、直感と直観のみで、その一瞬一瞬しか感じとれないものだと、トルストイは語っているのだろう。

また、「妻もあの男もふくめて、相も変わらぬ同じ人々が、まったく別の光に照らされて見えてきた」という一文にも注目して欲しいと思う。
こうしたところから、純潔な愛=神の愛(誰人をも平等に尊重する心)だとくみ取れるだろうから。
ちなみに、尊ぶというのは、比較や評価なしにということであり、貴ぶは、比較や評価したうえでという意味の違いがある。

こうしたことを見据えて、最後の数ページを読むと、主人公が二度にわたってい言う「どうも失礼しました」という言葉に、たまらなく心を突き刺され、いたたまれなく悲しかったのだ。

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ipsilon at 13:34 
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