2018年06月

2018年06月29日

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このCDを買ったのはいつだったのだろうか? もはや記憶を辿ることもできないが、ちゃんとオペラを鑑聴したい気持ちが強くあった頃なことは間違いない。
CDを買ってきたはいいが、ブックレットを開くと、英語とイタリア語……。そんな理由から、まずは原作を読んでからじゃないとだな……と思ってから幾年月。
ようやくそういう念願を叶えたといえるのが今回の読了だ。

いやはや、素晴らしかった。
しかし正直、泥沼にはまりこみ、執着し束縛しあった末の悲劇物語やお涙頂戴の浪花節は、長いこと好きではなかったし、今でも好きではない。乱暴に言えばそういう恋愛に付随するドタバタやら悲喜こもごも――恋に恋するようなこと――にたいして「馬鹿じゃねーの」という感覚をずっと強く持っているからだ。
しかし、読みもしないで偏見を持つのはどうなのよということで、いつかはこの『椿姫』も読んで置こうと思っていたのだ。

実際、読んで正解だったし、恋愛ものといっても、古典にはやはり普遍的な事柄が表現されているという収穫を得れただろうからだ。

いや、ぶっちゃけ本屋で書き出しを読んだ瞬間、直感的にこれは読んで損はないと感じたのだが。

小説中の人物を作りだすには、何よりもまず、人間というものを十分研究してかからなくてはならない、というのが私の意見である。あたかもそれは、どんな国の言葉でも、本気に学習してからでなくては話せないようなものだ。

結局のところ、何をどれだけ上手く語れようが、人間を知らないでいたなら、そこで語られることは虚妄のように儚い煙の如きだということを小デュマが弁えていると読めたからだ。
また、人間を知るということは、彼らがなにを根源において暮らしているか、――それはもちろん言語であるが――ということも同時に著者が弁えていると読めたからだ。
無論、人間を知るということは、究極的には汝とはなにか? を知ることなのだろうが。


約300頁におよぶ長編ゆえ、同じファム・ファタールものというジャンルの100頁ほどの『カルメン』とは異なり、語りはゆっくりと進む。
偏見はよろしくない。まず、そうした偏見に語り部が気づいた経緯が語られる。ここ、なかなか蘊蓄が深い。

神はかつてただの一度も罪を犯したことのない百人の正しい人々よりも、一人の罪人の悔い改めることのほうをいっそう喜びたもうたがゆえに、われわれは神を喜ばせるようにしようではないか。

そうなんですな。人間にとって最も難しいのは自分の過ちを認めて、正すことですからね。


ともあれ、あらすじを紹介するのは止めておこう。そんなものはwikiでもご覧になればいいのだから。

ということで、いわゆる同苦とはどういうものかを語っている場面。

あなたはあたしが血を吐くのを見てあたしの手を握ってくれたからなのよ、あたしのことを心から悲しんでくれたのは、広い世間であなたたった一人なのよ。こんなことを言うと冗談みたいだけど、あたしせんに子犬を一匹飼っていたことがあるの。その犬はあたしが咳をすると悲しそうな様子をしてあたしの顔をじっと見ていたっけ。生きものであたしがこれまでかわいいと思ったのはこの犬だけだわ。

同苦とはこういうものでしょう。言葉であれこれするのではなく、その人が悲しみ苦しんでいる場所から逃げ出さずに共に居て、じっと見守っていられることではないだろうか。けれどもそういうことが出来る人はほぼいない。語られているようにね。


読書メーターの感想には、「都会的で不均衡な関係や感情に囚われた恋、田舎の自然のなかでありのままに恋する二人を対比する場面の美しさよ! それだけでも十分」と書いたが、そうしたことが語られはじめる部分が以下――。

人はいつも恋愛から田舎を連想しますが、これはもっともです。青空、野のかおり、花、微風、畑や森の輝かしい静寂にまさるものはありません。たとえどんなに深く女を愛してしても、いかに信じてしても、その過去からして女の将来に安心していても、だれしも多少の嫉妬は必ずあるものです。もし恋をしたら、真剣に恋をしたら――


しかし、長すぎて全部を引用するわけにはいかない。
なので、この場面の美しさと真理を味わいたい人は、実際に読んでみることをお勧めしますよ。

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しかしまあ、この『椿姫』の感想を書くのは難しい。
長編ゆえの浸透力もあれば、読んだ人にしか感じられない衝撃的かつ戦慄する場面とかがあるからだ。
それをここで語っても、おそらくちっとも響かないのだし。

ともあれ、どうしても語っておきたいと思うのは、この『椿姫』の結末で語られている小デュマの気持ちだ。

私は悪徳の使徒ではない。しかし、気高い心を抱きながら不幸に悩む人がいたるところであげる祈りの声を聞くごとに、私はみずからこだまとなって、それをそのまま世の中の人に伝えようというのである。
何度も言うようだが、マルグリッドの物語は例外である。もしこれが世間一般の出来事であったとしたら、ことさら書いてみるまでもなかったであろう。


この部分に『椿姫』が書かれた意味のすべてが凝縮されているといって過言はない。
つまり、世の人々は真の幸福も真の愛もちっともわかていやしない。そのように世の中がクソだから、わたしはこういう作品を書いたのだと、デュマは言っているわけだ。

端的に換言するなら、人生は金じゃねーんだよ! っと。
今自分がいる場所で、今自分と共にある人と、ただその時を楽しめばいいだけだよ! っと。


乾杯の歌


思い切りネタバレだが、死んだマルグレットの墓を移すのに、アルマンが立ちあって遺体が本人であることを確認する場面が凄いんだ。
それはもう、臭いも含めて、かつて椿姫と呼ばれた華奢で童顔美人なマルグリッドが凄いことになってる……。
でも、それを目の当りにしても、いやそれを眼前にしたからこそ、彼アルマンは自分が彼女の魂を心のそこから真心で愛していたことを確信するわけだ。

凄いことになっている遺体を見ても、自分の歩んだ愛の道は間違ってなかった、いや凄いことになってる遺体を見たからこそ、アルマンは自分がマルグリッドをどのように愛してきたかをはっきりと知り、純粋な愛に生きれたことに咽びつつ慰められるわけだ。なんとも美しいじゃあないか。


マルグリッド 幸福な身分でありながら自分で気づかずにいる人がどんなに多いでしょう!

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小デュマが『椿姫』を書いたのは20歳のときだとか。若いからこそ世俗や金銭に目がくらまずこういう作品を書けたともいえるが、やはりそれは小デュマの中にあった純真さなんだと思いたい。

ipsilon at 15:25コメント(0) 

2018年06月28日

古典はやはり素晴らしい。久しぶりに感動した。
理性的に凄いなと思うのではなく、感情を揺さぶられるような激情を自分のなかに見た。そういう感覚にしてくれた作品だった。

『カルメン』は、ジャンルわけするなら、いわゆるファム・ファタール(運命の女)――男を破滅に導く魅惑的な女――を主旨にしたものといっていい。
しかし、わたしはそういう読みかたはしなかった。

確かに、文学の世界にはファム・ファタールと呼ばれるジャンルはあるだろうが、そういうジャンルに固執してしまうことで、見えなくなることがあると思うからだ。
ファム・ファタール文学の始とされる作品はアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』にはじまり、今読んでいる小デュマの『椿姫』、そしてこの『カルメン』といった系譜をもつが、それぞれの作品にはそれぞれに著者の描きたかったであろう主旨があるとわたしは思うからだ。
であるから、ファム・ファタールというジャンルに捕われてしまうことで、先入観をもって作品を読むことになると思うからだ。

そのようにして、先入観を捨てて読んだ結果、『カルメン』は自由こそ人間にとって尊極のものであると読めたということだ。

あんたはわたしのロム(夫)だから、自分のロミ(妻)を殺す権利があるわ。だけどカルメンはいつだって自由な女よ。カリ(ジプシー)として生まれてきたカルメンは、カリとして死んでいきたいのよ。

ふつうにこの文を読めば、本作の主旨が自由であることは分かるのではないだろうか。

とはいえ、本作はそれなりに複雑な構図をしているので、そう読みとるのは結構難しいかもしれない。
なぜなら、カルメン自身は確かにジプシー(非定住主義)なのだが、すでに定住が当然となった定住社会の規範も一応は知っていると描かれているからだ。

そのあたりは、終盤、カルメンが自由であることを望めば望むほど、定住民としてのアイデンティティーを強くもつホセは彼女を束縛し、それが叶わなければ、彼女は殺されると確信していることが描かれているからだ。

したがって、非定住も定住も双方知っているカルメンを語り部にすることは出来ない(語り部を一人称にすると抒情的になりすぎる部分もあろう)。また、定住主義を強くもつホセ(カルメンの情夫)を語り部にすることでも、メリメが描きたかったであろう、定住にも非定住にも属さないという立場があることが描けない。だからこそメリメは、「わたし」という人称を語り部にせざるを得なかったのだろう。

そのようにして読むと、実に見事な作品であると思えるはずだ。
もっとも、そうした人称を選んで語り部とする手法は小デュマの『椿姫』と同じなところは興味深い。

とはいえ、『カルメン』の場合、定住、非定住という主旨の奥に「所有」という概念を秘めさせている高度な哲学性があることは、注目に値するだろう。
そしてまた、普通われわれが現在使っている言語で、どちらにも属さないという概念を語ろうとしたことも特異な点だといえるだろう。

つまり、われわれの使っている言語は、基本ふたつの態を持っている。そのふたつの態というのは、能動態と受動態(所有でいえば、「所有する」と「所有される」)なわけで、それ以外の態(どちらにも属さない態=中動態)を表現することは非常に困難なのだ。というよりも、われわれの使っている言語はそうした中動態というものを、基本的に持たないのだ。
より正確に言えば、日本語の場合、中動態的な使用法をすると、会話が成立しないということだ。

「ねえ、所有」
「は? 意味わかんない」
となるということだ。

「いいね、愛」
「は?」
となるわけだ。

愛する、愛される、愛している、愛されている、――自分のあるいは相手の気持ちを推し量ろうとすると、どうしても受動態か能動態にならざるを得ないし、ものごとは言語でもって思考されるのだから、思考もまた受動、能動のどちらかでしているのが普通であり、また当然になってしまっているわけだ。
しかし、このふたつの態で思考している限り、人は必ず極端に陥り、どちらの態を選んだとしても、本質的に同じ結果に遭うということだ。

嫌う、嫌われる。
嫌うことによって最終的に起こるのは、怒りや憎しみだ。
嫌われることによって最終的に起こるのは、怒りや憎しみだ。
どちらも極端な思考にならざるを得ず、しかも自分で自分を苦しめるのだ。

好きになる(愛する)、好かれる(愛される)も同じだ。
自分の思うように愛することができなくなれば、必ず怒りが湧く。
また、自分の思ったように愛されなければ、結局、怒りが湧く。

トルストイもこういったことを『人は何によって生きるか』で巧みに表現していよう。
彼は「人は愛によって生きる」と結論し、「愛し、愛される生き方をしなさい」とは言っていないのだ。
またそう訳されてもいないのだ。
愛を受動とも能動とも見ていないのだ。どっちでもないとも、どちらも含むといった見方をしているのだ。
つまり、仏教でいうところの「空」の境地だ。


つまり、メリメは『カルメン』で、こういうことを描き出しているわけだ。
定住、非定住(所有・非所有)という枠の双方の意味を知り、その双方から抜け出さない限り、人間は決して自由も安楽も得られない、と。
そしてそうしたことを、中動態ではない言語を使って表現しようとしたところに、『カルメン』という作品の一番の秀逸さがあるとわたしは確信している。

しかし、面白いことに、この中動態をもつ言語がこの世界には存在するのだ。
それは、ギリシャ語、サンスクリット語と、もはや死語化したいくつかのアナトリア系語だ。
わたしが何故に、ギリシャ哲学と仏教に傾倒しているかは、この点から簡単に説明できるだろう。

もちろん、こうしたことを学ぶ切っ掛けになったことはある。
宮台真司だ。
彼がボソボソっと話している語彙をよく聞き、彼の学んでいるものを探求しようとしてきたからだ。
宮台氏が紹介していたものに、こういうものがある。
そして、そこに辿りつく縁になったのは、今回読んだ『カルメン』だったわけだ。

というわけで、今わたしは國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』が非常に読みたいのだ!

いやまあ、『椿姫』のマルグリッドがですよ、めっちゃ可愛くて、これもまたいいんですがね!
「おバカちん、焼きもちやかないの!」みたいな台詞を絶妙なタイミングで言うんだなぁ。
そらこういう女性にはね、ふつうにヤラレちゃいますわ。――妄想しても仕方ないんですがね。
フランス人は、やはりこうした男女の恋愛感情にある微細さを描かせると、抜群なのだな。



『エトリュスクの壺』
事実また真の友を見つけることは容易ではない!
――容易でないだって! それどころか、むしろ不可能なのではあるまいか? お互いのあいだに秘密を持ちあわない二人の人間なぞというものが、かつて一度でも存在しただろうか?――


存在しないでしょうね。ありもしないんだけど、でもあるんだよ真の友情は、真の友は。
それは全面的に自分と相手を「信じる」ことだと思いますけどね。
つまり、究極的には自分を信じ抜くことだ。他人とはしょせん自分の中の相手への印象なのだから。

『アルセーヌ・ギヨ』も衝撃的でしたよ。
かつてわたし自身もやってきた信仰の押し売り、押しつけというものが、いかに相手を苦しめて不幸にしているかを、底の底まで抉りだして見せられた気がしたのだから。

妄断はお控えください、あなたにそれを許すような何一つ筆者のわたしは言わなかったと抗議しますよ。



國分さん、歯切れがイイ! 学問的に哲学をするのではなく、現実の社会にコミットするこういう人こそ、素晴らしい哲学者なのだろう。

ipsilon at 10:40コメント(0) 

2018年06月25日

瑞々しい二人の恋愛悲劇を謳った『ロミオとジュリエット』とは対極にある、爛熟の恋愛劇がこの『アントニーとクレオパトラ』だろう。権威権勢、酸いも甘いも吸い尽くした二人にあったのは空虚と倦怠。そうした生から抜け出す術は、死への陶酔だっただろう。この世に生きて、仮に悟りに達してしまったなら、この世は退屈以外のなんでもないのだから。しこうして、彼らはこの世で味わえない死の世界への誘惑に駆りたてられ、死を選んだのだろう。だから、本作は悲劇臭が薄い。死は新たな生への旅立ちというシェイクスピアの観点が秘されているのかと。

そうした観点を匂わせるのが最終盤。これから死ぬのに道化が現れ「楽しんで!」と言ったり、毒蛇と一緒に運ばれてくるのが、禁断の果実の象徴である無花果であったりと。智慧の実を食べるということは、苦悩のない天国から善悪相反する矛盾と苦悩の世界に生まれることを意味するのだから。つまり、シェイクスピアはこうした暗喩で多くの悩みを抱えながら生きる人間、人間そのものをありのままに肯定しているのだろう。


以上、読書メーターに投稿した感想。

なんというか、本作品は読んでいて打ち震えるとか面白くて笑ってしまうとか、読後に頭がまっ白になるような感動はなかった。起こったことを起こったままに眺めていた、そんな感慨が強かった。
だけに、「感想どうするよ……」と、ちょいと固まってしまった向きがあった。
しかし、徐々に胸の中で言語化された思索が形作られるようになると、何ともいえない味わいを感じた。

その味わいを言葉にするのはなかなか難しいのだが、あえてしてみるなら
――「すべて肯い。それで肯いのだ」といった感じだろう。
死んだからなによ。いんじゃない。だって生きることが虚しくなって、毀誉褒貶にも疲れ果て、愛だ恋だも退屈になってしまって、他にどうしようがあったのさ。クレオパトラにしたら、シーザー(オクタヴィアヌス)に仕えてまたペーペーになって愛想ふりまいて篭絡すんの? そんな苦労をまた一からやるのは……ご免蒙りますと言いたくなるのもわかるもの。いやそもそも、すでにオバサンになったクレオパトラじゃシーザーを篭絡できないのが見えちゃったしねぇ。だから……もう何もかもが面倒になった! 以上終わり! さようなら、御機嫌よう! みたいなねぇ。
そんな感慨に浸ったのだ。

最終盤、道化が登場する場面は実に見事でしたけどね。
ここで道化は、「精々蛇をお楽しみなさい」といいながらも、また「くれぐれもご注意を、よろしゅうございますか、蛇は本性を忘れませぬ」と相反することを言うのだから。

ようするに、生きるも死ぬもあなたの自由、お好きにどうぞ、だけどどっちがいいかよく考えるといいですよ。
と言っているのだし、これを換言すれば、この人生の中で右に行くも左に行くも、やるもやらないも、進も止まるも自由自在。だけどそこで為された選択はあなた自身がしたんだから、誰も怨めないですよと、道化はおどけながらも、真理を述べているのだろう。
こういうところに、シェイクスピアの戯曲の凄さを痛感するわけです。

そしてまた、右に行こうが左に行こうが、それを見ている立場にある者は、あれこれ非難するのではなく、最後はそれを受け容れるしかないことも、死したアントニーへの手向けの言葉とされているのだ。

メーシナス 弱点と美徳とがたがいに鬩ぎ合っているような男だった。
アグリッパ 全人類の指導者として、あれほど秀れた資質をもった男はかつて無かった。神々は、我々をあくまで人間に留めておこうとして、何かしら欠点を与えるのだ。



もちろん、これまで述べた視点とは違う、庶民的な視点もある。
そしてこれがまたいいのだ。人間への優しさがあって。

第二の使者 そこだ、身の程知らずに大物の仲間入りなどするからだ。おれなら、むしろ葦一本に縋って生きてゆくよ、頼りにはならないが、操れもしない大槍を当てにするよりは、まだましさ。

アントニーへの皮肉と共に、使者が自分の信念を語った台詞だ。
葦一本という表現が実に巧みで詩的なのだ。葦一本とは自分自身を拠り所とするという意味もあろうし、葦から笛が連想できれば、歌い踊って気儘に楽しく生きていきたいといった風情も感じるだろうからだ。それゆえに詩的な美しさがあると思えたところだ。
パスカルの言った「人間は考える葦である」は年代的には本作の後に言われたものだが、現代人が『アントニーとクレオパトラ』を読めば、そういう連想も起こるのではないだろうか。
もちろん、工芸技術のいらない簡素な葦笛から、自然とともに生きるといった連想もありえるだろう。
詩的っていうのは、読み手の空想を刺激していいものなわけだ。


かと思えば、人間の悪徳を軽妙な諧謔で語ったりするのも、またシェイクスピアなのだ。

メーナス 人間、顔つきだけはみんなもっともらしい、手の方で何をやろうとお構いなし。
エノバーバス だが、美人となると、顔のほうまで当てにならない。



といった具合に、本作は史実的には『ジュリアス・シーザー』に続く作品なのだが、書かれた順番からすると、『ジュリアス・シーザー』、四大悲劇、『アントニーとクレオパトラ』になっているので、台詞の表現が相当に『ジュリアス・シーザー』とは異なり、後につづく喜劇に向かう香りが色濃い作品になっている。

個人的には『あらし』が傑作だとは思うのだが、あれは哲学的に深すぎて(それ以前にリア王のその後という意味合いさえあるので)解釈に苦しむ人も多そうなので、そういう意味では、この『アントニーとクレオパトラ』は、現実観が濃い物語なので、人生の奥義をシェイクスピア作品から嗅ぎ取ってみたいと言う方にはお勧めかもしれない。『四大悲劇』は、救いが無さすぎるとも言えるので。

てなことで、お次は『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』などの喜劇を読みたいですね。

ipsilon at 22:58コメント(0) 
四大悲劇も既読だが、この『ジュリアス・シーザー』が最強の悲劇に思えた。誰1人として報われないのだから。それはまた、政治に関わって幸福になるものは1人もいないという、冷刃の如きシェイクスピアの明敏な洞察力とも言えよう。扇動するキャシアスも、されたブルータスも悲劇である。アントニーに扇動された民衆の暴動も悲劇である。シーザーの後継者も欲得まみれの俗物ばかり。扇動しもせずされもせず、自分の信念に生きたシーザーはと見れば、そういう彼も暗殺されるのだ……。政治は誰人にも悲劇を見舞うことをここまで辛辣に抉りだすとは!

マックス・ウェーバーが言った「可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理がしょせん『悪をなす倫理』であることを痛切に感じながら『それにもかかわらず!』と言いきる自信のある人間だけが、政治への『天職』をもつ」をまさに証明するような戯曲だ。そう意味では、護衛も自己防衛用の武器も携えなかったシーザーだけが、天職の政治家だったと個人的には思うのだ。


以上が、読書メーターに投稿した感想。

これで、読み終えた詩人シェイクスピアの戯曲は8作目になる。そして、そういうことから見えてきたことがある。
すなわち、彼の悲劇作品は、初期の「史劇」で社会全体にある悲劇性、中期から後期の「四大悲劇」などで個人の性格に潜む悲劇性を描き、その双方の上位概念として、運命、あるいは宿命から逃れられない人間の悲劇を描いているのだろう、と。
そして、運命、宿命的悲劇を超越する思想を、畢生の作である『あらし』で提示したのだろう、と。
だから、もちろんこの『ジュリアス・シーザー』にも、運命から逃れられないことを語る台詞があらわれる。

シーザー  人の力で避けうると思うのか、全能の神々が定めたもうたことを? 何が起ころうとも、シーザーは出かけるのだ。よいではないか、それらの前兆はこの世のすべてに向けられたもの、なにもシーザー一人のためであるまい。

妻、キャルパーニアが不吉な夢を見たから、今日は元老院(議事堂)に行くのはやめてくれと頼むのにシーザーが答えた台詞だ。

そしてここで、シェイクスピアは、シーザーの賢明さと思想も語っているわけだ。
所詮、わたしは一人の人間であり、世界の全体の一部だ。がしかしそれはわたしが世界そのものでもある。したがって、凶事が我が身に起こるということは、世界全体への凶事でもあるのだから、何にしろ保身を図ってみたところで、無意味なのだとシーザーが世界を達観した境地で見ていることが窺えるわけだ。

そして台詞は妻キャルパーニアのものを挟んで再びシーザーの口へと移される。

シーザー  臆病者は現実の死を迎えるまでに何度でも死ぬものだ。勇者にとって、死の経験はただ一度しかない。世の不思議はいろいろ聞いてきたおれだが、何が解らぬといって、人が死を恐れる気もちくらい、解らぬものはない。死は、いわば必然の終結、来るときはかならず来る、それを知らぬでもあるまいに。

こんな格好良いこと言うから、シーザーに惚れてしまう人が多いのだろう。わたしもその一人だが。
どうせ劇化のための脚色だろと思うなかれ。シーザーの時代のローマになると、こう言ったらしいという記録がそれなりに残されているからだ。
ともあれ、シーザーにとって運命とか宿命というものは、端的にいえば死だったと見てもよい台詞だろう。

シェイクスピアは、本作でシーザーだけ予知夢や占いや幽霊などを信じない現実主義者として描いているが、実際の彼は、案外と迷信家で、占いもさせたし、ときには生贄もさせたらしい。
このあたり、史実をわざわざ変えてまで、シーザーを現実主義者として描き、他の人びと――暗殺の首謀者であるキャシアスやブルータスほか――を、迷信家として描写する辺りに天才シェイクスピアの筆の冴えがあるのだろう。


さて、あとはといえば、権威権力に蝕まれてしまう人間の愚かさを鋭く抉った台詞を引用しておこうと思う。

キャスカ  そうだ、あの男は万人の心の偶像だ。おれたちの場合なら罪と見えることも、あの男の支持を得れば、あたかもみごとな錬金術よろしくだ、そのまま美徳に変貌する。

こういう下劣な輩は現代にもいるだろう。
庶民に人気があって高潔と見られる人物(ブルータス)を表舞台に立たせて、自分たち(首謀者キャスカ)の政治的陰謀を実現させようとする輩のことだ。
現代の政治が、政策判断ではなく、政治家の人気政治になっていることを見れば、ローマ時代も現代も、庶民のレベルがどのあたりにあり続けているのかが見えるのだろう。

アントニー  これこそ、の仲間うち最も高潔な人物だったのだ。暗殺者どもは、この男のほかすべて、ただ大シーザーに対する憎しみから事を起こしたに過ぎぬ。ただこの男だけだ、純粋な正義の精神にかられ、万民の公益を願って一味に加わったのは。その一生は和して従い、円満具足、中庸の人柄は、大自然もそのために立って、今も憚ることなく全世界に誇示しうるであろう。「これこそは人間だった!」と。

自刃したブルータスへの、アントニーからの手向けの台詞だ。
しかし、正義であらねばならぬという、ある意味で純粋というか単純にしかものを見れないブルータスの狭量さが、彼自身に悲劇を招いたのだ。
もはや時代は、かつてのローマを支えた、(政治的決断にやたらと時間がかかる)共和元老院制では持たない。
版図が広がり、周囲の蛮族からの脅威も高まったなかで、ローマを守るためには、「今ここ」に対して即断即決、即行動できる専制君主体制が必要だったのだ。
しかし、そういうことを見抜いていたのは、シーザーと後に初代皇帝になったオクタヴィアヌスだけだったのだ。

どんなに純粋で高潔で、正義に対して忠実であっても、時代を読むことを知らずに、専制君主への正義(暗殺)を行使したことによって、我が身、わが命はもちろん、ローマに再び内乱をもたらしてしまったのがブルータスの正義だったわけだ。

時代を読めぬ者の唱える原理主義的な正義など、正義ではなく、むしろ悪義をもたらすのだろう。
シーザーの「わたしが暗殺されるようなことがあれば、ローマは内乱に至るだろう」という予言は見事に的中したわけだ。
彼が遺言で第二位継承者に選んでいたのがブルータスだったという皮肉はあっても、第一位継承者のオクタヴィアヌスがその後、初代皇帝になったのだから、シーザーの時代を読む慧眼にそう大きな狂いはなかったと言っていいのだろう。

もちろん、わたしはシーザー贔屓なのだ。


ともあれ、政治家個人どうしで、あるいは政党間で、罵り合い非難中傷しあい、謙虚な省察や反省もなく、やたらと争論を起こしては民衆を扇動する。そんな風に、ともに大きな仕事を為そうという志すらない人たちにまともな政治など出来ようはずがない。
この『ジュリアス・シーザー』は、国家元首とその周囲の側近者に信頼関係がなく、むしろ反目しあっているような連中が、いくら口で「万民のための!」などと宣おうと、まったく全然、信用ならないし、何も期待できないということを鋭く抉りだしているのだろう。

ipsilon at 12:15コメント(0) 

2018年06月24日

やはり、名作は名作だ。
表現してあるものから深みを窺いえれば、そこに奥深い哲学や真理があるのだから。

とはいえ、『ロミオとジュリエット』は、もちろんシェイクスピアのオリジナルではない。
物語の起源を遡れば、紀元前にいたり、それはギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』に行き着くのだから。
そしてまた、起源といえる『ティラモスとティスベ』で語られる、女性のほうが現実的で賢く、男性はせっかちで思い込みやすいという部分が、『ロミオとジュリエット』にも踏襲されているのは興味深い。

おい、ティスベ、お前はなんで彼女の死を確認しないで自刃しとんのや? おバカなティスベたん! という描写など、『ロミオとジュリエット』にも見事に反映されているわけだ。

つまり、様々な人によって書き重ねられてきた恋愛悲劇の脚本をシェイクスピアが戯曲として決定版を書いたと考えれば、作品の背景概要はわかったといえるだろう。

とはいえ、冒頭に述べたように、その背景概念に埋められている哲学がとても深いのだ。
例えば、つぎの場面――。

ロミオ
 ああ、そもそもが無から生まれた有……
 心沈む浮気な恋……大真面目の戯れ心……
 外目は美しい物みなのつくりだす醜い混沌……


これは、第一幕第一場の台詞だが、ここで既に真理が語られているし、悲劇を避けうる答えも、観客には提示されているわけだ。しかし、主人公のロミオは半ば無意識に言っているので、真理に気づいているとは言えない。
このように、観客には早めに真理を告げ、登場人物は真理を知らずに悲劇に見舞われるという構図をつくりだすのは、ソポクレスの『オイディプス王』から永年に渡ってつかわれてきた悲劇の定石なわけだ。

したがって、ロミオとジュリエットは浮気心や戯れ、外目(家柄や容貌などによる確執)というものの虜にならず、無という魂どうしの愛を貫けば、恋の成就にはなんの問題もないのだが……ということが、すでに一幕一場で提示されているわけなのだ。


そしてそのように恋を成就される手段がたった一つあることも、一幕五場であかされる。
その台詞が以下――。

ロミオ
 この上は、僕の人生行路の舵をとって下さる神さまに、
 ただ導きの手を祈るばかりだ。さあ、元気に行こう。諸君。


しかし、観客はそう聞かされながら、浮気心や戯れ(これが原因でのちに決闘騒ぎも起こる)、外目(家柄や容貌などによる確執)への執着から脱しきれない、ロミオ、ジュリエット、そして、彼らのすべての周囲の人びとすべてによって悲劇が起こり、若い人たちがその犠牲者になって次々に死んでいくのが描き出されるわけだ。
この社会の歪みによって若い人が……という描写が実に見事で、それゆえに悲劇を激的に悲劇に見せるわけだ。

ロミオ
 心はここに残るものを、どうして足が進もう?
 引き返せ、鈍いこの土塊の身、お前の生命の中心を見つめるのだ。


しかし、ロミオは必死に悲劇にいたる原因もちゃんと探求してはいる。
この辺りの台詞が実に心憎いのだ。
人間の不幸は、恋愛に限らず、心の求めるものと肉体の求めるもののバランスが取れない事からおこる。いわば、すべての人が心と身体の統合失調症にある。だが、ほとんどの人はそのことに気づいていない。
この台詞は人間の抱える普遍的な不幸をたった二行で明かしているわけだ。秀逸なり!


そして第二幕第二場がやってくる。
例のバルコニーの上下でロミオとジュリエットが愛を囁く場面だ。
この劇のハイライトはここといって間違いないだろう。

ジュリエット
 仇敵はあなたのそのお名前だけ。たとえ、
 モンタギュー家の人でいらっしゃらなくとも、あなたにはお変わりないはずだわ。
 モンタギュー――なんですの、それが? 手でもなければ、足でもない、
 腕でもなければ、顔でもない、人の身体についた、どんな部分でも、
 それはない。後生だから、なんとか他の名前になっていただきたいの。
 でも、名前が一体なんだろう? 私たちがバラと呼んでいるのあの花、
 名前がなんと変わろうとも、薫りに違いはないはずよ。
 ロミオ様だっておなじこと、(後略)
ロミオ
 ただ一言、僕を恋人と呼んでください。


ジュリエットのなんと賢いこと。
名前であるとか血肉であるとか家名とか地位だ名誉だ、はたまたその人の意見だ思考だとか、そういうものがまるで相手そのものであるかのように勘違いし思い込む、愚かな人間が陥る執着と確執、そこから起る不幸を見事に暴きだしてみせる場面だ。
大事なのは、そんな飾り物じゃなくて、「恋する」という行為だし、そういう心が起こっている根源の無ともいえる魂である“ありのまま”のその人を愛することだ。そういう真理をロミオとジュリエットが確認しあう、美しい美しい、あの名場面だ。

仏教でいえば、「名称と形態」に執着しているなら、永遠に心の平安は訪れないということだ。
南無妙法蓮華経という名前に執着していて、それが示す概念や精神がいかなることかを思索することなく、祈祷師のように頑強に何十時間祈ろうが、永遠に成仏などしないというわけだ。
――いわゆる秘妙方便だ。

精神という言葉の意味の捉え方も難しいんですがね。
思考や感情(心)、そうした心を司り正す根本の働き、それを精神というわけで。そしてその精神はある意味では働かず、ただ観察しているという特徴があるのですがね。

もちろん、ここで言っている精神は、いわゆる「べき論」をふりかざす精神論のことではない。
また、感情というのは、過去に何度も思考した考えが、無意識に湧きあがり、思考した形跡すらなく起こる無意識の思考のことをいう。だから、感情も思考のひとつであり、まとめて言えば「心」になるわけだ。
当然、人は過去だけでなく未来に対して何度も推測した思考(不安や恐怖)をしているので、これも思考という形態なしに、いきなり感情として顕われることがあるわけだ。
そしてそうした、過去未来、ひいては現在の思考・感情に支配されず、思考と感情(心)を正しく見極めてゆく力を精神と哲学では呼んでいるわけなのだが。


ともあれ、悲劇は訪れる――。
そしてその理由がラストシーンで坦々と語られ、幕は降りるのだ。

太守
 どうだ、その方たち相互の憎しみの上に、どんな天罰が下されたか、
 また天は、その方たちの喜ぶべき子宝が、互いに相愛することによって、
 かえって互いを滅ぼし合うという、そうした手段をとられることもわかったろう。
 そして、わたしもまた、その方たちの仲違いをつい見すごしていたために、
 身内を二人まで失ってしまったわ。われら一人残らず罰を受けたのだ。

 それぞれ赦すべきは赦し、罰すべきは罰するつもり、
 世に不幸な物語も数々あるが、このジュリエット姫と、
 ロミオの物語、それにまさるものがまたとあろうか?(終劇)


実に見事。
そもそも国王や政治家の仕事がなんであるかも、明確に語られているのだから。
すなわち、反目や確執への調停。
それこそが、そもそも国王や政治の為すべき仕事なのだ、と。
信賞必罰によって相互間にある憎しみを解消し、治安を治めるのが指導者の勤めなのだ、と。

そしてまた、ここでは罪を咎められてはいないが、僧ロレンスも、宗教家として間違いを犯しているのにも注目すべきだろう。
ただし、そこは時代性があり、シェイクスピアは直接彼らを非難するような台詞は書いていない。
が、言外に僧ロレンスにも咎があったことは表現しているといっていだろう。

僧ロレンス
 天と地と生と、この三者が相合って、はじめてお前というものは出来る、
 それをお前は、一時にみな捨ててしまおうというのだ。
 馬鹿馬鹿しい! お前のその容姿、その愛、その理性を辱める話だ。
 吝嗇家のように、せっかくなにもかも有りあまるほど持ちながら、
 お前という男は、それらを何一つ正しい途、つまりお前のその姿容、
 その愛、理性の輝きとなるような使いかたをしないのだ。


カソリックの宗学としてはある意味、正しいことも言ってるのだが、それが表面的で、結局のところ、真の宗教が説くべきではない「現世利益」を説いて、ロミオとジュリエットが気づきはじめていた、魂どうしの愛から、かえって遠ざける説教をしたということだ。
確かに、現実をよりよく生きるためには、父(愛)、子(血肉)、精霊(理性)という三位一体的見地は重要なのだが、突き詰めてみれば、血肉と理性というものは、死ねば失うのだから、究極的には愛に生きなさいと説くのが、宗教者としての勤めだったわけだ。

僧ロレンスがこのような過ちを犯した――神の智慧(運命を受け容れる覚悟と信念)にも及ばぬ卑俗な浅智恵を働かせた――がゆえに、「ジュリエット、眠り薬で仮死状態になって、駆け落ち大作戦」のロミオへの伝達が不慮の事態で伝わらず、結局悲劇は避けられなかったと語られるわけで。

そしてまた、劇中では不慮の事態(運命的)な出来事として、ロミオや僧ロレンスが思いもしなかった――パリスが仮死状態になったジュリエットの墓に花を手向けにくる――ことが起こる場面でも、人間の浅智恵の儚さを語っているのだろう。



1968年に公開された映画『ロミオとジュリエット』の主題歌、What Is A Youth ? も、じつに上手くこの物語の真髄を歌詞にしている。

若さってなに?

薔薇は咲く
そして散る。
若さもそう
どんな美貌もまたそうだ。

わたしにある最善策は、受けながすこと。
彼、キューピッドの掟にまかせるだけ。



そうだ、諸行無常なんだ――。
どんなに血肉や理性に訴えて恋愛を成就しようとしても、所詮は無理なのだと明らかに極めるのが賢人。
そもそも、魂で永遠に結ばれているのだからそれでいいと覚悟するのが、賢人。

でもねぇ、そんな屁理屈に恐れることなく突き進もうとするのが若さだし、若さにある美しさなんだなぁ。
薔薇は、咲くことを恐れずに花ひらくから美しいんであって……。

まあ、変に若さに執着せず、ようは常に「今ここ」に生きていれば、永遠の若さに生きてることになるんでしょうがね。

後悔しないように、死ぬまで生きる。
たとえ死ぬとわかっていても、後悔しないように生きる。
人はそれを若さと呼ぶのだろう。


ていうか、映画『ロミオとジュリエット』のオリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングって、当時15と16歳だったのね。発育良すぎだろー。


ああ、そうそう――、ロミオとジュリエットが出会う仮面舞踏会の場面も素晴らしい。
なぜって、映画ではそうなっていないが、シュイクスピアの戯曲では、ロミオはこのとき巡礼者の白装束で現れると設定されているのだから。
つまり、純愛というのは、容貌や血肉に執着し過ぎることなく、互いに魂を磨きあげていく精神修養なんだということを、衣装で雄弁に物語らせているからだ。

ipsilon at 11:31コメント(0) 
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