2018年07月

2018年07月24日

今のこの人生を、もう一度そっくりそのままくり返してもかまわないという生き方をしてみよ。
『ツァラトゥストラはかく語りき』

これがニーチェの人生についての究極の思いだろう。良くも悪くも、自分自身のすべてを受けいれられるのかという問いといっていいだろう。人間は自然によって生みだされ、人間自身は何ひとつ生みだせないのだから、究極的にはどんな運命であれ最後は受けいれるしかないという、諦念といってもいいだろう。
あらゆる苦悩は、受けいれられないことを起因にしているのだし。


この人生の中で多くの体験をしたあげく、わたしたちは人生を短いとか長いとか、富んでいるとか貧しいとか、充実しているとか空しいとか判断している。
しかし、自分の眼がどこまでも遠くを見ることができないように、生身の体を持ったわたしたちの体験の範囲と距離は、いつも限られているのだ。耳も、すべての音を聞くことはできない。手も、すべてのものに触れることはできない。
それなのに、大きいだの小さいだの、固いだの柔らかいだの、と勝手に判断している。さらに、他の生き物についても勝手に判断している。つまり、最初から限界があるのに、自分たちの判断が間違っているかもしれないということに気づかないでいる。これが、人間であることの大小さまざまの宿命なのだろう。

『曙光』

宿命という言葉はあまり好きではない。だが、あえて宿命があるとしたら、ニーチェが指摘している、こういったものだろう。己の無知さを自覚できないまま愚かに生きがちなのが人間の宿命なのだろう。


友人とたくさん話そう。いろんなことを話そう。それは単なるお喋りではない。自分の話したことは、自分が信じたいと思っている具体的な事柄なのだ。腹を割って友人と話すことで、自分が何をどう考えているかがはっきり見えてくる。
また、その人を自分の友とすることは、自分がその友人の中に尊敬すべきもの、人間としてのなんらかの憧れを抱いているということだ。それゆえ、友人をもち、互いに話し合い、互いに尊敬していくのは、人間が高まるうえでとてもたいせつなことだと言える。

『ツァラトゥストラはかく語りき』

結局、友人をもつ意味というのは、自分の信じたいこと、自分の憧れ――なりたい自分の夢と希望――を翳りなく映してくれる鏡だということになろう。しかし、友がそういう自分の対鏡であると知って見つめない限り、自分の信念も夢や希望もはっきりと見定められないものだ。友人とは、なんとありがたい存在であろうか。
仮にもし、友人のやることなすことに腹が立ち、苛立ちを感じるなら、それは自分自身の短所や欠点に怒り、憎み、自分の悪癖や性悪さを受けいれられずに自分を拒否している己の卑屈さであると自覚すべきだ。


暑いの反対は寒い。明るいの反対は暗い。大きいの反対は小さい。これらは相対的概念を使った一種の言葉遊びだ。現実もこれと同じだと思ってはいけない。
たとえば、“暑い”は“寒い”に対立しているのではないということだ。この両者は、ある現象に自分が感じられる程度の差をわかりやすく表現しているにすぎない。
それなのに、現実もこのように対立していると思い込んでしまうと、ちょっとした手数の多さが困難な苦労となり、ささいな変化が大きな苦しみとなり、たんなる距離が、疎遠や絶縁につながってしまう。
そして多くの悩みは、この程度の差に気づかない人々の不平不満なのである。

『漂泊者とその影』

やたらに善悪に拘り相手を攻撃するのは、こういう真理を知らないからだ。自分は善であり、相手は悪である。そんなものに根拠はない。程度の差こそあれ、似たり寄ったりなことに気づかず、善人ぶっている傲慢さに過ぎないのだ。まともに瞑想のしかたなどを学べば痛みもありのままに受けいれるべきものだと知れる。痛みと快さは程度の差であるのに、痛みだけを嫌うのは理不尽なのだ。痛みが激しくなれば苦しむ。同様に快さも度を過ぎれば、その快さを失う恐怖にとりつかれ、苦しむのだ。痛みは今味わうこと、快さは未来に苦しみを生みかねない同質のものだといえよう。「ほどよくある」、中庸であるのが理想なのだ。したがって本当の意味で善人でありたいなら、普通にしていればいいだけだ。無理に善くあろうとしないことだ。偽善者ぶらないことだ。


この世には、いかにもまともそうに見えるニセ教師がたくさんいる。
彼らが教えることは、世渡りに役立ちそうなことばかりだ。これこれをすると得になる。こういう判断をすると損をしない。人づきあいはこういうふうにしろ。人間関係はこうやって広げろ。こういう事柄はああだこうだ。
よく考えてみよう。ニセ教師の教えることは、すべて価値判断だ。
人間と事物についての本質の見方など、これっぽっちも教えてくれない。
こうして人生の本質すらわからずに生きていっていいのかな。

『力への意志』

ネットで調べものをしようとして何か検索してみればいい。ニーチェのいっているとおり、価値判断のしかたを指南しているものばかりに遭遇するから。もっとも本質の見方など教えようがないともいえるから、無理もないのだろう。しかし、読書を通して学んでいけば、本質の見方はわかってくるものだ。ただしその場合、読み方に注意がいるだろう。すなわち、書き手の目線で読むということだ。音楽であれば、作曲家の目線になって聞いてみる。絵画であれば、画家の目線になることだ。しかし、こうしたことはそうたやすいことではない。ならば、自分が好きで興味のあることに没頭すればいいのだ。そうすれば、自然と作り手の目線を体験として感得でき、それを省察していけば、本質を見る眼は養えるのだから。したがって、趣味というのは好きなだけでなく、制作したり組み立てる要素――実際に自分の手足を働かせるものを選ぶのがいいのだろう。


何か奇抜なことをして衆目を集めるのが独創的な人物ではない。それは単なる目立ちたがり屋だ。たとえば、独創的な人間の特徴の一つは、すでにみんなの目の前にあるのにまだ気づかれておらず名前さえ持たないものを見る視力を持ち、さらにそれに名称を新しく与えることができる、ということだ。
名称が与えられて初めて、それが実際に存在していることに人間は気づくものなのだ。そうして、世界の新しい一部が誕生してくる。

『悦ばしき知識』

ここのところしつこいくらいに引用している内容だが、人間は何一つ創造などできないということを、ニーチェもわかっていたということを伝えたくて付箋をした一文だ。なぜそうもしつこくいうかといえば、創造など出来もしないのにできる気になることが人間を相当に傲慢にしていると確信しているからだ。原発しかり、防災対策しかりだ。未だに、自分たちの体を作っている細胞ひとつ作り出せもしないくせに、なにが創造的であれ! だ。悔しかったら、他の草木を材料にすることなく、新しい品種の草でも作り出してみるがいい。出来っこないのだから。人間が出来るのことなど、自然のなかで起こっている現象を促進したり、抑制するのがせいぜいだ。傲慢こそ滅亡への道、謙虚こそ繁栄への道である。


愛とは、自分とは異なる仕方で生き、感じている人を理解して喜ぶことだ。
自分と似た者を愛するのではなく、自分と対立して生きている人へと喜びの橋を渡すことが愛だ。ちがいがあっても否定するのではなく、そのちがいを愛するのだ。
自分自身の中でも同じことだ。自分の中に絶対に交わらない対立や矛盾がある。愛はそれらに対して反撥することなく、むしろ対立や矛盾ゆえにそれを愛するのだ。

『さまざまな意見と箴言』

今では愛の概念も曖昧なものになってしまったが、古代ギリシャではそうではなかった。愛には四種類あり、エロス(いわゆる男女間の恋愛感情、現代では同性愛を含めて考えれば、感情とそれにまつわる肉体的な愛)、フィリア(友人間に芽生える情愛)、ストルゲー(血縁関係者間にある愛情、家族愛や兄弟愛)、アガペー(生きとしいけるものすべてへの愛。ただし、キリスト教の影響によってそう解釈されるようになった部分がある)となっていたそうだ。したがって、ここでニーチェがいっているのはアガペーという無償の愛のことだ。仏教の場合、対象に対してこうあれという観点ではなく、基本、自分があるべき姿を説いているので、概念として重要視されているのは、愛より慈悲になる。相手がどうこうではなく、いかなる人に対しても寛容な自分であれと説かれている違いがある。だが、対象にあわせてとか、自分の立場としてという枠を取り払えば、キリスト教にせよ仏教にせよ、本質的には同じことを説いているといえよう。


きみの立っている場所を深く掘り下げてみよ。泉はその足下にある。
ここではない何処か遠くの場所に、見知らぬ異国の土地に、自分の探しているもの、自分に最も合ったものを探そうとする若者のなんと多いことか。
実は、自分の視線が一度も向けられたことのない自分の足の下にこそ、汲めども尽きぬ泉がある。求めるものが埋まっている。自分に与えられた多くの宝が眠っている。

『たわむれ、たばかり、意趣ばらし』

創価に辟易した理由は、こういうニーチェの言葉を、さも自分が発案したようにして自己を宣揚してきた池田氏の本性が見えてしまったからだ。他にも創価学園の碑に刻まれた池田氏の言葉にしても、もとはトルストイのいった「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」の剽窃だ。先達たちの英知溢れる言葉を指針にするのは決して悪いことだとは思っていないが、先達への敬意を示さず、いかにも自分が発案したかのようにしてきた池田氏や創価のやりかたは姑息なのだ。
いつぞや「自分自身に生きろ」と記事に書いたなら、今やアンチのようになっているお前が先生のいった言葉を語るな! とかいって激昂した人もいたが、こういう言葉だって、もとはギリシャのアポロン神殿の入口に刻まれた「汝自身を知れ」からきているのであり、池田氏が発案したものでも何でもない。
とにかく創価というのは、先達たちが残した人類の遺産をまるで自分たちが発案したようにして語り誇る、傲慢な剽窃団体なのだ。「足下を掘れ、そこに泉あり 創価」で検索してみればいい。ニーチェに敬意をはらっておらず、彼の言葉が、創価を宣揚する道具にされていることの多いのがわかるから。


この原因があったからこういう結果になった、と考えられることが多い。
しかし、その原因と結果はわたしたちが勝手に名づけたものにすぎないと気づくべきだ。
どんな物事や現象であれ、原因と結果で簡単に分析できるほどは単純ではない。まったく目に見えていない他の要素がたくさんあるかもしれないからだ。
それを無視して、ある一つの事柄のみを原因と結果と決めつけ、そこに何か強い結びつきと連続性があるように考えるのはあまりにも愚かなことだ。
だから、原因と結果とで物事の本質を理解したように感じるのは思い込みにすぎない。多くの人が同じように考えたとしても、それが正しさの保証にはならないのは当然のことだ。

『曙光』

日蓮仏法は三世永遠の因果の法則を完全に説き明かしたとか、昔は愚かにも信じていたが、今では迷妄であったと恥ずかしいかぎりだ。そもそも仏教は「生の哲学」であるから、死後のことなど説いていないし、三世永遠の因果などもちろん説いていない。日蓮のそういう思想を正当化するために、場合によっては十二因縁を持ちだしてきたりと、曲解も相当に酷いものだ。そもそも十二因縁というのは、生きている人の認識がどのように作用していき、それが所有欲に繋がり苦悩を生むかを説いたものであり、過去や未来と現在の因果関係を説いたものではない。過去に泥棒をしたから今世でその報いを受けて泥棒されるとか、過去に法華経を誹謗したから、今世で法華経を広めようとすると迫害されるなんてのとは全く違うということだ。

したがって、正しい十二因縁とは、無明(自分があると思い込む、より正確にいえば、縁起によって何かが起こった瞬間)→行(自分があると思い込んでいることで行為以前に顕現する不可視的なエネルギー、あるいは縁起によって起こったことがまだ無意識にとどまっている状態)→識(そうしたエネルギーを何らかの形で感じている自分、好き嫌いの感情や偏った思考、差別や迷妄、あるいは無意識から意識にのぼる瞬間)→名色(そうしたエゴイスティックな意識を五感に伝えるために信号が発される瞬間)→六処(そうしたエゴイスティックな信号が五感という感覚器官と顕在意識に到達した瞬間、好き嫌いすれば体温が微妙に変化するといった身体反応)→触(身体反応を自分で感じとること)→受(身体反応が脳にフィードバックされること)→愛(フィードバックにしたがって、欲しくなったり退けたくなる行為を起こすこと)→取(欲したものに近づく、あるいは退けたいものから離れる行為を実際にすること)→有(欲したものを目にしたり手にしたことで“これは現実にある”という迷妄を抱くこと、あるいは離れて見えなくなることで“これは現実にある”と迷妄を抱くこと。実際は諸行無常だから有るとはいいきれない=空である)→生→老死(自分や物への執着がおこり、生きる苦悩、老いる苦悩、死ぬ苦悩などが起こる)というものだ。
だから、自分なんてない! と諸行無常と諸法無我を体験によって感得すれば、十二因縁によって生まれる苦しみは全て消えるということだ。祈祷師のように唱題していて、こういう認識作用の流れ、とくに一番初めの無明を感得できるんですかね? わたしも真剣に唱題してきた経験があるが、ほぼ無理だと思えた。むしろマインドフルネスといったいわゆる昔からある瞑想(止観行)をやったほうが、遥かにこういった認識作用が働いていることを感じられたわけだが。とはいっても、無明、行といった状態は無意識の域なのだから、そこは日蓮がいうように最後は信じるしかないが、少なくとも十二因縁を論理的に理解していれば、識や各色の時点で感じとることはでき、それでもって自己を制御することも可能であろう。例えそこで誤った認識を通り過ごさせてしまっても、触や受や愛を感得して自己制御できる契機は残されてもいるわけだ。

そして、この十二因縁はもちろん、日蓮がいっているような、過去・現在・未来に因果関係があるとなどといっているものでは決してない。人の心身両面にわたる認識がどうなっているかを詳細に述べているに過ぎない。
パーリ語の経典には、過去・現在・未来に因果も説かれていなければ、十二因縁を謗法すると成仏できないとか地獄に堕ちるなどとは説かれていない。法華経の化城喩品第七だと、日蓮のいっているように「説くところを信じ、受け止め、謗ることなければ、、、、、、、、、阿耨多羅三藐三菩提の如来の智慧を得るであろう」とはあるが、十二因縁を正しく理解していれば、極めてあたりまえのことだとわかろう。釈迦の説いた法は「諸行無常」「諸法無我」なのだから、無明=自我はあると思ってしまえば悟りを得られないのは当たりまえだからだ。しかし、法華経の問題点は、十二因縁について信じ、謗らなければではなく、法華経それ自体を信じ謗らなければ、、、、、、、、、、、、、、、、とされてしまっているところなわけだ。
こうしたことは編纂者による、法華経の権威づけと解釈されてもしかたないだろうし、そういう論理をそのまま読んだのが日蓮であろう。

そしてこういう部分にこそ、宗教があの世のものとなりえる理由があるわけだ。
現実を無視して、とにかく経典にあることを信じろと宗教は思想を抑圧する部分があるからだ。
キリスト教にもそういうところがあり、キリストの復活などはその典型だろう。宗教者からすれば、復活を疑うことは冒涜にあたるというわけだ。しかし「生の哲学」として現実のわれわれが生きていくために聖書や法華経を役立てようと思うなら、そうした復活であるとか、空中に浮かんだ宝塔といったものを、人間が知りえない自然界の摂理や力の暗喩として捉えるべきなのだ。しかし、仏教に深くかぶれてしまうと、宝塔や竜の口の光の玉や、日蓮が母親の寿命を延ばしたというようなことは信じられるが、キリストの復活などあり得ないといったように、自己都合で考えるようになり、それが他宗の排斥へとつながっていくわけだ。

宗教を「生の哲学」として現実に生きることに役立てようとするか、あの世も含めて抽象観念的な奇蹟と呼ばれるようなことまで信じて宗教の奴隷になるのがいいのか、ふつうに考えればどちらがいいかは判断できるだろう。


目の前の現実ばかりを見て、そのつど現実に適した対応をしている人は確かに実際家であり、頼もしくさえ見えるかもしれない。
もちろん、現実の中に生き、現実に対応することはたいせつだ。現実は蔑視すべきものではないし、現実はやり現実なのだから。
しかし、物事の本質を見ようとする場合は、現実のみを見ていてはならない。現実の向こう側にある普遍的なもの、抽象的なものが何であるのか、つかまえることのできる視線を持たなければならないのだ。あの古代の哲学者プラトンのように。

『曙光』

ここで言われている抽象的なものというのは、先に述べた奇蹟のような不合理なものを指すのではないだろう。普遍的とあるように、目には見えないが現実世界にある法則。つまり、すべての物事は動的であり、過ぎ去るものであるとか、こう考えておけば楽に生きられるといった精神的な本質を見られるようにすれば、よりよく現実を生きられるという意味だろう。
いえば、ここでニーチェは、ゲーテが実行した現実と抽象的本質を両立させる生き方を勧めているわけだ。絵に興味があって絵にある抽象的な本質を知りたいなら、実際に絵を描いてみることが本質を掴む一番の早道なのだ、と。建築に興味があるなら、実現しなくても設計図を描いてみるとか。演劇や歌劇に興味があるなら、鑑賞するだけでなく、脚本や戯曲を書いてみるとか、自分で実際にある役を演じてみたり、歌ってみたりするのが早道だ、と。
無論、興味をもったこと全てでそんなことをしていたら、いくら時間があっても足りないのだから、理想は、自分がやりたい仕事をやることであったり、仕事を生活の手段にするなら、せめて趣味で、現実と抽象的本質を両立できるようにすればいいわけだろう。


何にしろ、ニーチェというのは、卑屈な思想の持ち主だという世評が強すぎる。それはまたわたしの偏見であったわけだが。
箴言集だったが、実際に読んでみれば、非常に道理に叶った「生の哲学」であることを十分に感じとれたのは大きな収穫だった。
やはり、世評というのは、あまり当てにならない。自分の心身で感じとって確認することが大事だと痛感したのだ。

ipsilon at 17:00コメント(0) 

2018年07月23日

茂木健一郎『すべては音楽から生まれる』と、斎藤孝『座右のゲ−テ』を読んだが、正直がっかり感に襲われている。

古典を読み慣れてしまったせいもあるのだろうが、雑誌化されたといわれる新書のレベルはやっぱり低いと実感せざるを得なかったのだ。

もちろん、すべての新書のレベルが低いというのではない。福岡伸一さんの著作とか、最近読んだものだと『ふしぎなキリスト教』などは良かったのだが、今回の二冊はハズレに感じた。

茂木さんとの出会いは「クオリア」に興味をもったことだったのだが、それとは畑違いの音楽を話題にしているせいもあろうし、編者との共筆というのもあろうが、とにかく、同じことが何度も出てきて、章立てを無意味にしているような乱雑さが目に余った。

言葉は音楽的なものなので、「意味」に囚われすぎるのではなく、声音やリズムや間、抑揚こそ大事だ。
その理論はわかる。だがそれは実際に会って話すような場面においてであり、文字を主体にして物事を伝える本で、そういうスタイルを肯定するのは、学者としての評価を自ら下げてしまっているように思えた。
他の著作、――茂木さんの専門分野である脳科学の本を読んでみなければ、その辺りの評価は下せないが、動画サイトで見た茂木さんの語り口、――一生懸命なのは伝わってくるが、どうも話が下手という印象からすると、専門分野の本を読みたいとは、ちょっと思えない。

正直、人の著作や仕事を悲観的に見ないようにし、感想もなるだけ楽観的なものを書くようにしているのだが、今回の二冊はどうもそういう方向に思考や気分が進まなかった。
良いところ、触発される部分がなかったわけじゃないのだが。


マルタン アーティストというのは、生きるために他者を必要としている人たちでもあります。だから「作品」を通して「なにか」を提案するのです。であればこそ、必然的に、人が「生きやすくなる提案」であるはずです。(中略)

だからこそ、私は繰り返し主張するのです。アーティストの現実的な意見が、政治家、あるいは政治に影響力を持っていいと思うのです。


これは、第五章の茂木さんとルネ・マルタンさんの対談にあるのだが、マルタンさんと茂木さんの人間的レベルの差が如実にあらわれてしまっていて、かえって茂木さんへの印象を下げるような対談にしか感じられなかったのだ。茂木さんが完全に聞き役になっているのだ。

対談の面白味というのは、拮抗する、あるいは異なる意見を持つもの同士が、ぶつかりあう中で、思いもよらない意見の一致に至ったり、全く正反対の思想の人が意外なところで本質的に一致したりする面白さにあると思うからだ。

今回の場合でいえば、聞き役である茂木さんが、マルタンさんの主宰した「ラ・フォル・ジュルネ」とはいかなるものか? を啓蒙するための単なるインタビュアーになっているといえるわけだ。
つまり、こういう部分が「雑誌的」だといわれる由縁なのだろう。
茂木さんがクラシック音楽をもっと大衆的にしていきたいという熱い思いは十分に伝わってはくるんですけどね。


他方、『座右のゲーテ』は、各章では、テーマに見合ったことがきちんと書かれていて、一冊の本としてのまとまりは良いのだが、引用されている実例の薄さは否めないと思った。
その点は茂木さんの『すべては音楽から生まれる』のほうがずっと良かった。
シューベルトの交響曲7番「未完成」の奇蹟的な演奏に出会ったのは何時いつのことで、こんな感じだったとか、ベートヴェンの交響曲第6番「田園」の衝撃的な演奏に出会ったのは云々と、情景が目に浮かぶように語られていたのだから。

だから、『座右のゲーテ』の場合、第一章で語られる、「本質と具体性を両立させるように一点集中せよ」というゲーテのせかっくの教えも、斎藤さんの具体的な経験への表記が薄いので、言行不一致を感じざるを得なかったのだ。

例えば福岡伸一さんの場合など、茂木さんよりさらに具体的にどこの研究所にいて、それは何時頃で、どんな同僚とどんな風に研究してきたなかで起こったことなのだが……と、大変に抒事的かつ具体的に前置きを書いて、読者を惹きこむ上手さとか、新書としては相当高いレベルにあると、読んでるだけで感じられるわけだ。

日記を書けとか、本などでも読みながら日付を書けとかいってゲーテを宣揚しながらも、当の斎藤さんはそういう具体的な自分の体験を抽象的にしか書いていないから、「本質と具体性を両立させるように一点集中せよ」といくら叫んでみても、説得力に欠けているとしか感じないわけだ。

いわば、全編そういう筆づかいなので、「斎藤さん、あなたのいわんとしたい意味はわかるが、どれもこれも抽象的で観念的にしか聞こえてこないんだけど……」と思わず嘆息が漏れそうになったのだ。

比べるのは失礼かもしれないが、例えば、ゲーテの『イタリア紀行』などを少し読めば、ゲーテがどのように具体的に書いているかなんて、即座に感じとれるのと好対照といえばいいだろう。

こういう作品群に出会うと、正直がっかりする。
結局、雑誌化されたと嘆かれる新書には、多かれ少なかれ、「知識のための知識」を得る性格があると穿って見たくなる。知識が教養、――つまり心や精神の向上薬になるような本を新書に求めるのは酷なのかと思ってしまうのだ。
こういう作品を読むなら、いわゆる「超訳」とか古典著者の「箴言集」を座右におく方がよほど良いように思える。


それでも付箋を貼った部分もあるので、一応ここに引用しておく。

生れが同年代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要はない。何世紀も不変の価値、不変の名声を保ってきた作品を持つ過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ。こんなことをいわなくとも、現にすぐれた天分に恵まれた人なら、心の中でその必要を感じるだろうし、逆に偉大な先人と交わりたいという欲求こそ、高度な素質のある証拠なのだ。モリエールに学ぶのもいい。シェークスピアに学ぶのもいい。けれども、何よりもまず、古代ギリシャ人に、一にも二にもギリシャ人に学ぶべきだよ。
(ゲーテ)

わたしとしては、既に行ってきたことなので、今さら感が満点なのだが、記事で紹介することも無意味ではないと思って付箋を貼ったところだ。

ちなみに、ゲーテがここでいっているギリシャには、ローマ文化・文明も含まれている。
ゲーテがこれはギリシャの文化だと思っていた絵などは実はローマのものだったりする部分があるからだ。
だから、ゲーテのいっている真意は、一にも二にも学ぶべきは古代ギリシャとローマだという意味になる。
せっかく引用するなら、こういうことをこそ著者は意識して書くべきだが、斎藤さんは終始一貫、抽象的だったり自己本位なところがあったわけだ。

というか、普通一般にはオリエントといえば、ギリシャ・ローマの双方の文明が融合した一帯の文明を指すが、斎藤さんは、日本が海に囲まれていて西洋から見ると変わった文化だという視点で、日本オリエントみたいな表現をしているが、これは誤解を招くだろう。語義に忠実すぎるのも困りものだが、ここまで飛躍させてしまうと誤謬のレベルとしかいいようがないだろう。

カタカナ英語もどんどん使えばいいとか言っているが、その論理説明も非常に雑で、森鴎外が見たら激怒するレベルだった……。加えていえば、ゲーテの信条の非常に重要な「人は創造などできない。できるのは模倣と組合せの妙技を極限まで高め得るだけ」という内容を引用しつつ、「生みだす」べきとか、「創造するべき」などと語るのは止めて欲しい。これは茂木さんも同じ過ちをしていたが、文字でものを伝えるなら、やはり語義に注意を払うのが、本を出す者の最低限の責任ではないだろうか。


切り捨てることで強調するというのは非常に息苦しい印象を受ける。いろいろなものを呑み込み、肯定的な形で「らしさ」をつくり出す方が、精神的に余裕が出る。
(斎藤孝)

これもまたわたしにとっては既に実行中のことだが、あえてもう一度確認の意味で付箋をしたものだ。
最近はとにかく排斥の風潮が強いし、ある宗教に嵌ると、それ以外からは全く学ばずに宗教そのものを判断している人ばかりを見かけるからだ。判断の基準軸が偏っていると、まともな評価は下せないのだから。
だから、万般に知識を吸収することも大事。
けど、そう思って読んだ新書がこういうレベルだと、嘆かわしいのだ。楽観視するにしても、限度があるのだから……。

とにかく古典から学べ、古典を読め!
「今ここ」に集中して生きろ!
過去なんていっさい関係ない!


端的にいえば、ゲーテの思想の核心はこれだと知っていれば、『座右のゲーテ』はとくに読む必要のない一冊だろう。

ipsilon at 19:04コメント(0) 
日蓮のしるした曼陀羅本尊には、天照大神や愛染・不動、八幡大菩薩といった法華経とは縁もゆかりもない、いわゆる諸天善神というものがしたためられていることは、多くの人が指摘している。

しかし、擁護派は例によって例のごとく、自己正当化の理論、すなわち「随方毘尼」による日蓮の寛大さを表わすものであるから、何の問題もないと断言している。

本当にそうだろうか?
そもそも、随方毘尼という用語の意味を曲解してはいまいか?
しているのだ。

所詮、創価教学・日蓮正宗の教学などというのは、中世に権威をもったキリスト教徒の幹部が、自己正当化のために協議を恣意的に解釈して、好き勝手したのと変わりはない。

随方毘尼とは、つまり地域による戒律の柔軟性を許すというものだ。
勤行・唱題するにあたって正座は必ずしも厳格でなくてよろしい、そういうものを随方毘尼というのだ。

したがって自己都合により、釈迦が説いたであろう(彼が覚知した本尊は諸行無常・諸法無我という縁起の法なのだから、そもそも文字にすことは不可能である)ところの法に、自己解釈で随方毘尼などという用語を言いわけにして、仏教とは縁もゆかりもない天照大神や愛染・不動、八万大菩薩などをしるすなどということは、異常な行為だということだ。

けれども釈迦だって仏教の思想を教えるために、ヴェーダやウパニシャットを持ちだしているではないか? と。
残念ながら、それには全く違った意味がある。
仏典に残るそうした説教は、これまでになかった「諸行無常・諸法無我」を説明するために、これまでにあったヴェーダやウパニシャットを引用したにすぎないからだ。
だから、釈迦自身は、ヴェーダやウパニシャットに真理を見ていたのではない。例えそれらに真理の一部があったとしても、それらの哲学をつかって彼の感得したことを説明しようとし、「ヴェーダやウパニシャット」をこう解釈するとわかりやすいかもね、という表現をしたにすぎないのだ。

が、後世の弟子たちはそういう釈迦の真意がわからず、仏教の究極の心理はアートマンとブラフマンの合一だと誤解し、歪曲してあとの世代に伝えてしまっただけのことなのだ。

したがって、解釈によってはヴェーダやウパニシャットにも価値があり、真理のすべてではないが、真理の一部ではあるというのが正しいものの見方だといっていだろう。したがって、正しく仏教を理解しようとするなら、ヴェーダやウパニシャットを全肯定も全否定もしようがないということになるのだ。

そもそも、未曾有の法を説くにあたって、これまでに説かれた既存のものを利用せずしてどうやって説けというのだ? 不可能だ。
まあ、神話、宗教、哲学の歴史を眺めてみれば、思想の発展には、必ず先達の残した典拠を利用しつつ新しい境地に辿りついていったことなど、明瞭に読みとれるのものだ。

ギリシャ哲学でいえば、ソクラテスはそれ以前の哲学者が残したものを典拠に自己の論理を刷新したのだし、プラトンもまたそうだし、アリストテレスの場合、それまでに思索されたギリシャ哲学を総まとめできる時代に生れあわせ、かつまた彼自身そういう契機を逃すことなくしかと掴まえたからこそ、彼の名声は現在にさえ轟いるわけだ。


ともあれ、本尊に自己解釈で日本でしか通用しない神をしるすなど、仏法の道理にもとるということだ。

ちなみに、八幡菩薩というのは、いわば戦の守り神であり、武家・武士が戦におもむくにあたって守護を願った神だ。
竜の口の頸の座に向かった日蓮が、鶴岡八幡に立ち寄り、諸天善神を叱咤したとあるが、あの鶴岡八幡は源氏の守護神であり、これもまた戦場に赴くときに守護を願った神だ。というか、もっとはっきりいえば鶴岡八幡というのは、鎌倉幕府とそれを支える武家の守護神、戦の神だというこだ。
つまり日蓮はこれから鎌倉幕府という権力によって処刑されそうなときに、その鎌倉幕府を守護する神に願掛けをしたということだ。ふつうに考えれば、相当に支離滅裂だ。
宗学的に考えれば、幕府に仕える人々の心中に善心を薫発させるために祈ったのだともいえるが、世界各国にある事例を見ても、これから処刑される者が、処刑する側が崇めている神に祈りを捧げるなどという奇異な行為は滅多に見られない。
穿った見方をするなら、斬首を逃れたくて、パフォーマンスとして幕府守護の八幡に祈願する姿を見せて、お慈悲を請うたともいえるわけだ。

少なくとも、こうした日蓮の態度は、「溺れる者は藁をも掴む」とそう変わり映えしないといっていいだろう。
窮地に陥ったときに人がふつうに思う、「神も仏もあるもんか!」 といった心境の現れとしか理解しえないだろう。そもれまた人間的でよろしいではないか! と似非人間主義の方は思考するのかもしれないが。

江戸時代、多くのキリシタンが踏み絵を強制されたからといって、当時の江戸幕府、あるいは各藩の大名が崇めている神に願をかけるなどしたものだろうか? 信仰とはそういうものだろうか?
熱原の法難では、強情な信徒が決して日蓮のいう信仰を捨てなかったがために斬首されたわけだが、その教祖であるところの日蓮は、頸の座に向かうにあたって、処刑する側の神に願をかけているという異様さを一体どう理解すればいいのだ?

創価の牧口がこうしたことをどう解釈したかは知らないが、少なくとも国柱会の田中智學や満州事変の首謀者・石原莞爾などは、日蓮の曼陀羅に、当時の政治権力であった武家の守護神であり戦の神の名があることから、日蓮の思想は武力によって為すことは正当であると考えただろうことは、容易に推察できる。

ともあれ、このような曼陀羅を随方毘尼などという理由づけで正当化しているのだから、恐ろしいというものだ。
日蓮ならびに彼の遵奉者がやたらに攻撃的な理由のひとつには、戦の守護神が書かれている本尊にしがみつくように祈っているからといえるかもしれない。
まあ、キツネを祈ったからといってキツネに感応して云々というのは迷信なので、戦いの神を祈ったからといって必ずしも攻撃的になるわけでないが。

ヒンドゥーの神にはシヴァという破壊と再生の神がいるのだから、仏教にだって戦の神がいたっていいじゃないか?
馬鹿を言いなさるな!! 仏教はあらゆるものに自性がない(諸行無常であり諸法無我だ)と説いているんだから、破壊とその対極にある再生という相対的な形としてあらわれる現象といったものは、あくまでも法のあらわれであって規定できない。だからどんな屁理屈をこねたところで、その働きの名前を本尊に中途半端に書きあわらすことは、書いた人間の自己都合や恣意性があるということだ。

釈迦が「車」なんてどこにあるんですか? といって王様を驚かせた説話を思い出してみるがい。
車というのは単なる概念だ。車というものは個体として存在などしない。エンジン、ギア、ミッション、車輪、車軸、座席、外板、そうした車を形作るものすべてを指して、車と呼んでるだけに過ぎない。
破壊と再生も同じだ。この世界のどこが破壊され、どこが再生されたってわかるんだ? 破壊とか再生という概念は、縁起によって起こっているあらゆる諸行無常(あらゆる場で繰り返し起こっている生滅の繰り返し)の一部だけを指して、そう呼んでるだけじゃないか。
より正確にいえば、生滅を繰り返しているのではなく、生起だけを繰り返してるのだろう。DNAが自己複写を繰り返すのと似たようなものだ。ただし、コピーを何度も繰り返せばときどき失敗もするし、しだいに複製の精度が落ちてくるだけのことだろう。そういうことで病気になり、やがて肉体が結合を維持できなくなり、いわゆる死を迎えざるを得ないだけのことだ。したがって、生滅ではなく、生起だけを繰り返しているのだから、法には永遠性があるし、法のあらわれもまた、形態は違えども永遠性をもっているといえるだろう。

だから、真理の存在論から思考すれば、破壊や再生などこの世界にはそもそも存在しないいのだ。
そういうありもしない破壊だ再生だなどを戦いの神だとか守護の神だとかいって崇めることが迷妄でなくて何だというのだ?
仏教はそんな迷妄にまみれた哲学ではない。

いいや、仏法は原因と結果の理法だとか言うのだろう。馬鹿らしい。
原因→結果→原因→結果→…………。
ふつうに思い描く因果論とはこういうものだろう。けれども、上の繰り返しをよく見てみるがいい。
原因はつぎの結果を生む原因になっていることに気づくだろう。だからこそ刹那に因果具時だと説かれてるではないかというのだろう。
では、その時間を極小まで短くして原因→結果→原因→結果→…………というのを見てみたらどうなるかな?
ある刹那に原因があわれ、次のある刹那に結果があらわれる。ほうら見たことか、ある刹那に原因と結果が同時になど備わっていないと証明してしまったではないか。つまり、原因と結果とは同じものだと考えざるを得なくなるということだ。
そうなると、その原因=結果を「縁」と考えて、それぞれの刹那にはただ縁に拠って生起されていることがわかることだろう。
それゆえに、わたしは法とは「生滅ではなく、生起だけを繰り返している」といったのである。

だから、釈迦もそういってるでしょ。生滅から脱却したのが解脱の境地だと。そういうことだ。
何もこれはわたしが勝手にいってるわけでもない。刹那刹那で因果を考えてみた先達が、「時間論的に思考すると因果は通用しなくなる」ときちんと論拠しているだけのことだ。わたしはそれを学んだだけのこと。
そしてこういうことがわかり、それを確信できれば、法のあらわれである肉体の喪失、つまり死など恐れるに足らんと思えるわけだ。病気も同じだ。コピーミスを防ぐ手立てはないのだから、受けいれればいいとわかるからだ。もちろん、コピーミスが減ったり正されるような状態を目指して医学にあやかったり健康管理をしていくことを否定するつもりはない。

で、こういうことが信じられると、死後のこともより明瞭に考えられるわけだ。
解脱しようが成仏しようが、死後に梵天とか天国という場所に、想像もできないような長いあいだいられるわけじゃないだろうことが推察されるわけだ。ただただ縁によって生起されるというなら、いつどこでどんな形態をして生命体・個体として生まれ変わるかは、神のみぞ知るともいえてくるわけだ。そして、そのように生まれ変わった場合、もちろん過去の記憶だとか業なんてものは一切なく、例え今世で血を流すように哲学を学んで真理を知り、人間として理想的な生き方をできるようになって死を迎えたとしても、生まれ変わったなら、そうしたことは全て忘れており、また一から血を流し、骨を折り、皮膚を焼きながら哲学し、理想の生き方を追い求めざるを得ないことも見えてくるわけだ。

するってーとあれかい? ニーチェ先生が『ツラトゥストラはかく語りき』でいったように「これが人生か。さらばもう一度!」というはじめからやりなおす覚悟をもって死を迎えるのが最も崇高な生き方ではないのかと思えてくるのだ。
そんな風に「さらばもう一度!」となるなら、犬とか猫のほうがいいなとか思うんだけどね。まあ、木でもミミズでも岩でもヒトでも何でもござれ! と思えるようになるしかないのだろうが。

というか、自分からして他人というのは、「もしかしたらそうなっていたかもしれない自分の可能性」なわけだ。
であるなら、それをヒトだけに限定するのはおかしな話なわけだ。したがって、われわれの目に映る森羅万象は、自分から見て「もしかしたらそうたっていたかもしれない存在」だといえるわけだ。だからヘッセなどは『シッダールタ』のなかでそういう風な解釈を述べている。
そしてそういうことが信じられば、環境保全であるとか、生物多様性を尊重すべき理由も見えてくるわけだ。
今、自分の目に映る犬は、もしかしたらそうなっていたかもしれない自分の可能性だとしたら、そういう犬を殺処分する気になるのかい? わたしはならない。自分の目に映ったトラ。そういう彼らを絶滅させるような生き方もしたくない。そうやって自分の目に映った生物・無生物が、今そうなっていたかもしれない可能性であるとしたら、未来においてもその理論は成り立つんじゃあないのかい?
であるなら、環境や生き物を傷つけたり殺したり、あるいは絶滅させるということは、未来に自分がなりえる可能性の幅を自ら狭め、破壊してることにならないのかい?

だからどんな悪人であろうと、それはそうなっていた自分の可能性であると見たなら、無慈悲なことなどふつうは出来ないのだ。敵だとか極悪だとか撲滅すべし! だとかいえるわけがないのだ。
他人が憎いからといって、その人を虐げたりすることなど、出来なくなるはずなのだ。批判や非難などする気もおきなくなるはずなのだ。現実にそれを実践するのは難しいが。

この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ。(中略)
私はこれを愛し、その条紋やくぼみのすべての中に、黄色の中に、灰色の中に、硬さの中に、価値と意味を見る。(中略)どれもが梵である。(中略)
そのことこそ、私の意にかない、讃嘆すべく、礼拝に値するように思われる。だが、これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。

物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。(中略)物は私の同類だということ。それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。(中略)
世界を透察し、説明し、けいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。
だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と讃嘆と畏敬をもってながめうることである。

ヘッセ『シッダールタ』


ハイデガーもいいかたは違うが、仏陀やヘッセと全くおなじようなことをいっている。
現存在は、それが存在しているかぎり、どんなときでも、可能性の方から自分を理解する。この理解は投げかけ的性格を持つが、理解がそこへむけて投げかけること、つまりさまざまな可能性自体が内容的に主題になるのではない。……理解が投げかけであるとき、それは、自分の可能性を可能性として存在しているような現存在のありかたなのだ。
『存在と時間』


わかりにくい言い回しだが、自分から見える可能性とは、現存在そのものつまり自分自身でありなおかつ世界そのものだといっているのだ。
ヘッセのいった「これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ」というのと同じ意味だ。

こうなると、20世紀にも仏陀は結構な数、いたのかもしれないと思えてくるはずだ。

そんな訳で最近、超訳ではあるが、『ニーチェの言葉』なんてのを購入したりしたわけだ。
まあ、未だに宿業だとかいってる狂信者には縁もゆかりもない話だ。
というか、業なんてものは脳に記憶されたデータだから、死ねばなくなるだけのことだと知れば、宿業だ罰だ云々なんてものはお笑い草にすぎんのだ。エックハルトの言葉でいうならば、業とはペイン・ボディのことだからだ。似非仏教でいう業なんてものは、自分が何度も繰り返し思考したり行為した結果、脳に蓄積された習慣であり、何度も味わってきた状況に出会うと、湧きあがりやすい思考や情動にすぎないのだから。
して、そういう習慣を正し、湧きあがりやすい思考や情動を制御するのが仏教のおしえなのだから。

相当脱線したが、法に話題をもどそう。
いやだから諸法実相だろとか言うんだろ。馬鹿を言いなさるな。そりゃね、法とは、法のあらわれとそのあらわれの根源の双方をまとめて法というのだが、法のあらわれは諸行無常なんだから、文字にできないんだってば。そういうあらわれを日蓮は自己都合で、これは書いておいて、あれは書かないとかやってるわけ。そんなことするんだったら、法の根源である彼がいうところの「妙法蓮華経」という題字だけでいいだろってことだ。あとはまあ、多宝という記名で、諸行無常という法のあらわれには限りがないと示せばそれで済むわけだ。もちろん、四菩薩はあってもいいと思うが。それが慈悲喜捨を示すのであるならば。
しかし日蓮はそうしなかった。法の根源からあらわれる一部の方便(例えば、天照大神や愛染・不動、八幡大菩薩)を崇めて祈りの対象としてしまっているわけだ。結果、そうした方便であるところの、法のあらわれの一部であり、書き手の恣意性に満ちた本尊を崇拝することになり、それが偶像崇拝になっているのではないのかい?

ともあれ創価の安保法制への翼賛しかり、政治癒着しかり。
そういう思想が生まれてくる源泉には、日蓮の武力肯定思想があるかもしれないことを知っておくことも無意味ではないだろう。

日蓮の行動と彼のしたためた本尊の相貌云々を調べれば調べるほど、日蓮の支離滅裂さ、攻撃的であり、武力を肯定し、民衆仏法などと決して呼べず、平和主義でも何でもないことが見えてくるのだ。

もはや、わたしなど、勤行・唱題もしてませんけどね。
曼陀羅も必要ないと月々日々に思うようになっているくらいだ。

ipsilon at 02:00コメント(0) 

2018年07月22日

扉で繋がった部屋々々をつぎつぎと通り抜けてゆくことはなかなかに難しい。
ある扉をくぐり、バロック風の調度がととのえられた部屋に足を踏み入れれば、のばべつまくなしに隅から隅まで眺めつくすまでその部屋を去りがたく思うのが人間だろう。きた方向とは違う扉の先にある部屋が素晴らしい調度を具えてると思うこともまた難しいからだ。そんな風なことは哲学を学ぶにあたっても当てはまるだろう。

わたしの場合、カントという扉を開き、カントという思想の部屋に踏み込んだのがそういう出来事だった。
しかしようやくカントの部屋から足を踏みだすことができた。新たに目にしたロマン派の部屋や、アール・ヌーボ調の部屋は、バロック調より遥かに洗練されていたのだ。
それが、ショーペンハウァーの哲学であり、ハイデガーの哲学であったというわけだ。

本作の著者、北川東子さきこさんは、わたしのような鈍足ではなく、一気呵成にハイデガーに惚れこんだ人のようだ。他にも「生の哲学」と呼ばれるジンメルにも傾倒しているのだが、残された訳書や著作を見ると、相当にハイデガーに惚れこんでしまった人のようだ。

それだけに、100頁たらずでハイデガーの存在に関する哲学を、とてもわかり易く解説しているといって過言はないだろう。
北川さんが既に故人なことが残念だ(享年59歳)。

それでも、本というのはありがたいもので、頁をめくっていけばいくほど、いささか気の強そうなお顔の北側さんが、ときに熱弁でもって、また笑顔で、また照れくさそうに講義してくれているような感覚を味わえた。

哲学の解説書という硬さは拭えない部分はあるが、そこには北川さんの自身の思いもあろうし、もちろんハイデガーへの熱情は溢れるようにあったのだ。

作品自体への評価とは別に、こんなにも純粋に一人の人の思想哲学を追い求め理解したいと生きた女性がいたことに、深い部分で感動があったのだ。
といより、そうした感動はわたしの読書するときの癖――著者の人柄を味わう――という部分にあると言えるので、作品それ自体の評価とはなりえないことは元より承知している。


ではなぜこんな話をするのかと問われれば、こう答えるだろう。
北川さんがハイデガーの哲学を理解するにあたって、結構高い敷居があるということをきちんと話していたからだ。そういう親切さに心を打たれたからだ。

ふつう多くの人は、コインの表だけを見て生きている。下手をすると、一生涯そういう生きかたをして人生に幕を閉じる場合もある。
しかし、ハイデガーの哲学を理解するにはそうした生き方をしている人には、ほぼ理解できないと北川はいっているのだ。
コインには裏もあるよね!? ということに気づいた人でないとハイデガーの哲学を理解はできないと説明しているのだ。

別のいいかたをするなら、地球から見える月をどんなに丁寧に観察して調べあげても、月それ自体を知ることは決してできないのと似たようなものだ。月の自転と公転周期は同じであり、月は常に地球に対して決まった(表)面しか見せないからだ。
だから、裏側のことを知りたいなら、見えない面に対して思索し、頭のなかで月の裏がいかなるものかを概念として築きあげていくしかないわけだ。そしてこういう作業のことをふつう哲学(自分の頭で考える)と呼ぶわけだ。

いわく、ここまで説明してきた北川さんの述べた主旨の要約はこうなのだ。
絶望、つまりはにっちもさっちも行かなくなり、必死に自分の頭で考えざるを得なくなって、ようやくコインに裏があることに気づいた、ある種、目覚めた人でなければ、ハイデガーの哲学は理解はできないと、まずはじめに注釈している親切さがあるということなのだ。
わたしの勝手な想像だが、きっと北川さんは、人生のどこかで拭い難き絶望に出会ったことのある人なのだろう。

ともあれハイデガーの哲学を理解するためには、わたしの経験からいえば、少なくともカントの哲学を熟知して咀嚼し自分のものとして消化している必要があるといえる。
今になっていえばカントの哲学というのは、いささか観念的なのだ。
ハイデガー、ジンメル、あるいはキルケゴール、ニーチェといった「生の哲学」、つまり現実に生きることに必要なだけに哲学の範囲を絞ってこそ、はじめて現実の人生にとって価値あるものとなるのだ。
そしてもちろん、仏教もまた「生の哲学」の範疇に入る、もっとも古い哲学であることはいうまでもないことだろう。

しかし「生の哲学」にはある問題が潜んでいる。学問と現実の人生論を同居させることによる弊害がそれだ。
学問は学問として、真実を追求するものであって、それ以上にも以下にもなるべきではないということだ。その学問に方向性を持たせて、一般的な人生論となすことは、学問に偏向性与えてしまうからだ。
真実はあくまでも真実であり。その真実をどう実人生に活かしていくかは個々人の選択であるべきだということだ。
この点を踏み誤ると、創価の牧口思想のように、「価値(つまり利害損得)」ばかりに重点を置いてしまう陥穽にはまってしまうのだ。真実をどう実人生に活かすかに特定の人物の思想を持ち込めば、そういう思想をもった団体に所属して従順であればあるほど、特定の人物の思想だけを遵奉する全体主義に堕落するというわけだ。

ともあれハイデガーの哲学を理解するためには、カントが唱えた「すべては主観であり、われわれはわれわれの外にある物それ自体を知ることは出来ない」という理論をきちんと理解したうえで、次にショーペンハウァーが辿りついた、「すべては主観ではなく、客観世界にも意志が存在する」を理解したうえでなければ、恐らくハイデガーの哲学(存在論)は理解できないといえるということだ。

そもそも、ショーペンハウァーのいっている「意志」という言葉の定義も重要であるし、それを理解せずして、恐らくはハイデガーの理論などちんぷんかんぷんであろう、ということだ。
ちなみに、ショーペンハウァーのいっている意志には二種類あり、有機的な生命体(他人など)からの働きかけ(話しかけられたり、行為されること)によって自分の中に起こる感情を生起させるもの、無機的な生命体(草木、鉄石など)から受ける印象によって、自分の中に起こる突き上げるような情動、この二つのまとめて「意志」と定義している。
同じ型式のパソコンであっても、色の違いによって受ける印象が違うし、ノートパソコンであれば、開いている画面の角度によっても受ける印象は違といったわけだ。
もちろん、これらは有機的であるから感情を生起させる意志、無機的であるから印象や情動を生起させる意志というように明確な線を引くことはできない。

つまり、ショーペンハウァーは、カントが発見した「物それ自体を知ることはできない(ソクラテスの無知の知と同意)」から一歩進みでて、「物それ自体を知ることはできないかもしれないが、その物それ自体にわれわれに何らかの印象や情動を与える『意志』らしきものがある」と、より深いところに気づいたわけだ。
そしてハイデガーはショーペンハウァーよりもさらに一歩も二歩も抜きんでわけだ。

まあ、くどくど説明しても、ある意味、目覚めた人でなければ理解できないだろうから、このくらいにしておこう。


自由とは、何かが起こることにたいしてオープンであるということです。ですから、そこでは、世間並のうんざりすることが起こるかもしれない。まったく予期していなかったことが起こるかもしれない。ひょっとすると、人間性の限界であるような、おぞましいことも起こる可能性があります。
先に説明したように、自分の中に沸き起こる印象や情動は外側からの意志によるものであり、それと自己の個人的な過去の記憶が組み合わされて、われわれは自分の中に自分独自の印象をつくりあげているわけだ。したがって、人間の心というか感受性というものは、常に開かれているということにハイデガーは気づいたことになる。
だから、つねに感受性を開き、善悪正邪の分別なく外側からくる意志をまず受けいれることが自由であると結論したわけだ。


自分とは、「自分」をめぐって揺れ動く運動です。明確なアイデンティティを持つことでも、自己規定することでもない。したがって、「エゴ中心の近代個人主義の誤り」や「主体性の形而上学の批判」といったことを持ち出さなくても、「私は、何者か」や「私はどうあるべきか」という問いに、最終的な答えを見つけようとする試み自体が間違っていることがわかると思います。むしろ、こうした問いを常に問い続けることが、自分であるということなのです。

とにかく「自分」というワードにまぎらわされてはいけない。だからハイデガーはまず、自己と自己の周囲の関係性によって起こり起されている今ここにある存在を「現存在」と名づけたわけだ。この現存在というのが、まあ一般的に「自分」と呼ばれているものだと理解できれば、上記の文章の意味はわかるだろう。
わたしのように、ある期間仏教を学んで「そもそも自分なんてない」ということを確信し、ある程度感得してきた者からすると、当たりまえの論理なのだが、「我思う故に我あり」なんだとか、だって自分はここにいるんだから自分はあるじゃんなどとしか思考してこなかった人からすれば、全く理解不能だろう。

しかし、ハイデガーが述べ、北川さんが解説しているこの部分で感ずべきところはそういう基本的なところではなく、真実この世界に存在するものは全て、主観と客観、あるいは主体と客体、より明確なものであれば、自分と環境というような、主従あるいは上下関係、ないしメインとサブといった差異は存在しないと述べているところなのだ。
ハイデガー以前の哲学では仏教を除いて、ほとんどすべての思想哲学がこうした主従関係から社会が営まれ、それゆえに人間が主であり動物や草木といった環境は従であるという思考によっていたので、環境破壊がどんどん進んだと述べているわけだ。

よりはっきりいえば、この世界に存在するありとあらゆるものには差別は全く存在しないということであり、完全に平等であるということだ。無論、それは存在論においてではあるが(所有という概念を除いた場合という意味だ)。
存在と存在論も意味が違うし、時間と時間性も意味が違う。だから哲学は面倒くさいのだが……。

さらに別の言い方をするならば、真の意味で存在論を考えていくと、主体と客体には差がなく、主体は客体であり、客体は主体であるといったように、そこにはいかなる分別差別も存在しないということだ。

考えてみれば極めて当たりまえのことだ。人間はいつも自分の側からしか見てこなかっただけだ。その辺にいる野良猫の視線になってみれば、人間なぞ客体であるのだ。しかし人間と猫を同時に眺めることができれば、どちらかが偉くてどちらかが偉くないなどといえないし、どちらが主体でどちらが客体かなどとはいえないのだから。いえることは人と猫が同時に存在していて、その双方が生きている(あるいは意志をもている)ということだけなのだから。

人間が賢いといったところで、こうした真の存在論に西洋哲学が辿りつくまでに、数千年を要したのだから、人間などそう賢いものではないのだ。
確かに釈迦にしろイエスにしろ、あるいはプラトンにしろ、真に辿りついていただろうが、その真がいかなる存在論であるかを一般人がある程度(それでも相当に少数の人びとだ)が理解できるまで、4000年からの歳月が必要だったということなのだろう。

だから、ハイデガーが20世紀最大の哲学者だと謳われていても、誤解されて解説された入門書があったり、ハイデガーの思想をきちんと理解している人はいまだに僅かなのだ。
きっと彼が正当に評価されるまでには、あと500年はかかるのであろう。
そもそもカントが19世紀最大の哲学者と謳われていてさえ、彼の哲学を知りもしない人が多いのだから。


固定した「自分」はないが、同時に、「客観的な世界」というのも確立しているわけではありません。自分は「世界のうちにいる」状況的存在でしかなく、世界は、「切先が自分の世界に向かっている」というかたちでしか現れてきません。


北川さんも、この辺りの説明には苦労しているのがよくわかった。それぐらい誤解しやすいということだ。
彼女の文章は、読者に理解しやすいように、自分から見たらそうなっているように「見える」という書き方をしていることに注意がいる。
だから、真の存在論というかたちでいうならば、自分もないし、客観的な世界もない、あるのは現存在だけということだ。
それをわれわれの主観から見れば、自分という存在は時々刻々現れる「状況」でしかないということだ。
同様に周囲に現れている環境(客観的な世界)も、時々刻々現れる「状況」でしかないということだ。
そしてその双方の状況を、ハイデガーは「現存在」と名づけたわけだ。

仏教を学んでいればすぐに理解できるだろう。自分なんて存在しない。環境も存在しない。あるのはただ移り変わる事象の流れだけ。そう説いていますからね。しつこいようだが、そこには主客の関係もないし、差別分別もないということだ。

苫米地英人が上手い説明をしていた。「釈迦は悟ったあと、そこにある鉛筆とお母さん、どっちが大事か言えなくなったんだよ」と。そういうことだ。どちらもただの移り変わる事象の連続の一瞬を捉えているだけだと釈迦は見ていたからだ。


生きるとは「気を遣う」ということだ、とハイデガーは言います。私たちが生きていくことは、いわば、さまざまな気になることと関わっていくことなのです。これが生きることの本質です。

この文章も、自分から見たらそうなっているように「見える」という主観視による書き方をしていることに注意がいる。
またこの「気を遣う」という翻訳はより正確には「関心のある物事に関わっていく」という意味らしいことにも注意がいるが、まあこのくらいの意訳はかえって人間味があって良いのではないかと思う。

気を遣う、関わるということは、何も対象は人間だけではないわけだ、部屋が散らかった掃除する、飾ってある花がしおれてきたので水をあげる、有機体、無機体関係なくわれわれは関わりながら関わられているということだ。それはもちろん、猛暑に汗をかいて不快を感じれば自分を風呂に入れたり、一緒にいる人の服に糸屑がついていれば、教えたり取ってあげたりもするわけだ。

つまり、いくら心根があろうとも、関わらないでいるなら、生きているとはいえないのだろう。もっとも、いくら孤独を愛して他人と会わないでいても、物とは関わっているのだし、物はまた物どおしで関わったりもしていると見れば、生きていない存在など一つもないともいえるわけだ。


気遣いとは、ある存在が、その存在なりの姿を取るようにしてあげる、あるいは、その存在なりの姿を保つようにしてあげることを意味します。自分を抑えて関わるとでも言いましょうか。自分のためではなく、その存在の本来のために心を遣うことです。「気遣い」は、私たちが、他の存在にたいして取ることができる最も暖かい態度であるかもしれません。自分が世界と関わる仕方も、そのような「気遣い」なのだと、ハイデガーは言います。「世界のうちにいる」とは「気遣い」によって「自分にとって」引き寄せられた世界にのうちにいることなのです。


仏教でいうところのあらゆる意志の根底には慈悲がある。あるいはキリスト教に説かれる愛とは、こういう「気遣い」のことだろう。


つまり、自分のいる「こちら」を出発点として、周りの「あちら」へ向かうと考えられることが多いのですが、実は、そうではないのです。むしろ、自分の居場所とは、周りの「あちら」から自分の「こちら」へと帰ってくる、「あちら」を基点として「こちら」が決まるというかたちで確認されます。
ですから、自分の居場所があるということは、「自分がここにいる」ということではないのです。そうではなく、周りに人がいて、物があって、風景が見えるということです。手を伸ばしてコップが取れる、椅子に座ることができる、隣に座っている人に話かけることができるということです。そうした様々な「あちら」が、私たちの「こちら」に向かってくる、自分の「こちら」を決めてくれることです。ハイデガーは、こうした空間性を「あたり一帯」ということばで表現しますが、私たちは、この「あたり一帯」を持つことで「うちにいる」ことができるのです。自分が「気遣い」によって引き寄せた世界に、とどまり続けることができるのです。


前に書いたかどうかも忘れたが、ハイデガーの理論は宮台真司がVideo Newsで述べていたとおり、他律的自立(受動的能動)であるのが存在の真のかたちであるのに、近現代は自律的自立(能動的能動)で突っ走ってきたがために、人類は地球を巻き込んだ破滅へと向かおうとしていると述べていたのと一致するわけだ。

われわれという現存在は、客観世界にある意思と関わり気を遣うことで、自分の居場所を確保させて頂いている存在、つまり生かされている存在だということが真実なのだ。
こういうことがわかっていれば、仏教にある感謝の瞑想をするのは極めて当たりまえなことも理解できよう。

例えばアダルトチルドレンと呼ばれる人々は(わたしも今もそうだろうが)、他人への関わり方を知らなかったり、非常に下手ゆえに、自分の居場所が見つけられなくて苦労することを考えてみれば、ハイデガーの存在論がいかに真理に対して正鵠であるかは容易に理解できよう。

何もない部屋に、あるいは五感を鈍らせて暗闇の部屋に入ったとしたら、われわれは何を感じるだろうか。
きっと虚無感や恐怖や不安だろう。しかし、自分が日々に関わり気遣ってきた自分の部屋に帰ったきたときにはどう感じるだろうか。なんともいえない安心感、安堵、安らぎを感じるだろう。こここそ自分の居場所だと思うだろう。そのように、本来の人間存在というものは、環境から与えられたものによって自分を組み上げている存在であることなど容易に理解でよう。自分とは他律的自立(受動的能動)によって立ち現れてくる「状況」とその「状況に対して反応している意志」に過ぎないのだ。
梨木香帆さんなどは、こういう人間存在を感覚的に知って、人は場に生きる存在だといっているわけだ。

ともあれ人間は、これまで数千年のあいだ、心地よさを求めすぎたがために、関わり過ぎ、気を遣うどころか環境を支配し思いどおりにしようと傲慢になってきていたのだ。
そろそろ、そういうことに一人でも多くの人が気づかなければ、遅かれ早かれ、人類は地球を道連れに滅亡することだろう。


大袈裟にいえば、人類を含む生きとしいけるものたちに、そんな末路を辿って欲しくないがために、こんな風にしてクソ長い記事を、それがほんの僅かな一歩であれ、努力して何時間もかけて書いているわけだ。


ともあれ、ハイデガーはこれまで述べてきたような、無分別無差別の関わりから現存在が現れるということとは別に、現存在の内側に様々な「気分」をもよおさせるものもあるといっている。
ショーペンハウァーの述べていた二つの形態の意志と論理的に同じ構造を述べているわけだ。

まあこれは、光が波であり、かつ粒子であるのと同じようなものと考えておけばいいだろう。
気を遣って関わっているとき、その行為によって互いに引き寄せあい、互いを受けいれあい、互いに居場所をつくりあいながら、現存在は互いに様々な気分を感じていると考えればいいだろう。
恐らくこの気分は波のほうであり、感染したり共鳴するものであり、引きあい、受けいれあい、居場所をつくりあうのは粒子のほうなのだろう。そうした行為が粒子的なものであるから、木を勝手に切っても問題がないと人間は思うのだろう。そのとき木がどんな「気分」を発しているかが人間には感知できづらいからこそ、人間はエゴイスティックなことが出来るのだろう。


ともあれ、前にも記事に書いてきたが、実はかつては言語にもこのハイデガーの理論が現れていたのであり、そのことに気づいて、世間に問うたのが國分功一朗さんなわけだ。

今では言語は受動態と能動態の二つの形態しかもたない言語しか残ってないが、かつてはハイデガーが述べたような存在論とぴたりと一致する言語が存在したのだ、と。それがギリシャ語やサンスクリット語などだ(そのほかの少数言語はほぼ死語化している)。
それらの言語は、ハイデガーが示してみせた存在内存在(世界が存在し、その内部に自分が存在する。自分は世界の一部に含まれるという現存在の便宜的解釈)という中動態と、意志を受けとることで自分という存在が立ち上がってくるという受動態しかなかったのだ。後者のほうは先に述べた気分を言いあ表わすものだろう。

こうしたことからも、古代ギリシャの哲学と仏教がいかに早い時期に真実を語っていたかがわかろう。
また、ハイデガーも『存在と時間』で存在論を構築するにあたっては、まずプラトンが立てた命題に回帰してそこからはじめたことを考えても、人文主義と仏教がいかに高い哲学であるかはわかろう。

ちなみに、人類の歴史をひもとくと、思想というのは、神話、宗教、哲学という順番で進歩してきたことがわかる。したがってこうした観点から、宗教だけに頼って生きることには、多かれ少なかれ迷信があることを知っておくことも無意味ではないだろう。
キリスト教がアリストテレス哲学の洗礼を受け、どのように聖書や教義を合理的に理解し解釈すべきかという道(神学の勃興と進歩)を辿ってきたことを考えれば、いかに仏教が哲学的であるといっても、世俗に蔓延るほとんどの仏教もどきには迷信や狂信・妄信ともいえるドグマが固着しているのだから、仏教においても、人文主義哲学の洗礼を受けて、合理的かつ論理的解釈の道を辿っていけないならば、いくら仏教は哲学だと叫ぼうが、その前途は暗い物といわざるを得ないだろう。
まあ、宗教を妄信している人にそんなことをいっても馬の耳に念仏であるのは、百も承知だが。


昭和の初期にはそういう大人物、東洋哲学と西洋哲学の融合を目指した、鈴木大拙だとか西田幾太郎という人がいたのだが。小林秀雄も凄いし……いや他にもいたんだが……。
しかし、現代にも國分功一朗や中沢新一という優れた人はいるのである。わたしが気づいていないだけで、まだまだ大人物はいるだろう!
何にしろ可能性を信じる、それを受けいれる、常に開ている、それが自由でありハイデガー哲学であるのだから、とにかくも大丈夫だと思っておこうじゃないか!

中沢新一? 色々な人にレベル低いって批判されているんじゃ? オウム云々……。
現在の批評など全くといっていいほど当てにならないのだ。時間という風雪に耐えて、何百年たっても読み継がれていって初めて本物と評価されるのだから、現代の批判、いわんや風潮や流行などそれこそ低レベルなのだ。
いってみれば、ハイデガーだってハンナ・アーレントと不倫したり、ナチズムに傾倒し、晩年までもみっともない弁明をしていたし、今でもその二点を突いて、こいつの哲学は信用ならないという偏見で見られているのだから。
大事なことは、他人の意見に左右されず、自分自身で評価判断を下すということなのだ。
また他人を見るにあたって、相手を聖人君子であれと願ったり、完璧であることを求めていたら、それこそ誰からも学ぶことなどできないのだし。完全な人間などいやしないのだから。

またそもそも、今現在ある程度評価されて人気があるというのは、ある意味では、そう高いレベルにあるとはいえないのだ。なぜかなら、一般大衆のレベルはそう高いものでないからだ。一般大衆が理解できるレベルにあるからこそ人気も出るし評価もされるというわけだ。
悔し紛れにそういっているわけではない。ショーペンハウァーはじめ、多くのまともな人たちがそう考えてきたのである。
現在偉人と呼ばれている人びとの生前を見てみればいい。ほとんどの人は虐げられ迫害に遭い、酷い場合には殺されているのが現実なのだから。

だから、世の中にほんとうの意味で貢献した人びとというのは、今とか現代の視点で見れば、不世出であったり、名もなきながらも賢い民衆の一部なのだ。

ipsilon at 02:16コメント(0) 

2018年07月21日

それがいったい何年前かはもうわからない。だが子ども時代に強く惹かれた記憶だということはできる。
それが本との出会いだったのか、あるいはアニメとの出会いだったのかさえ、ぼんやりとして定かではないが、その記憶にある質感には、郷愁や憧憬があるのだ。

しかしまあ、なんとも勧善懲悪な一面的に元気な歌ですなぁ。


ともあれ、そうした心の故郷のごとき扉は、そのままにしておくのもよい。しかし今の自分でもう一度味わってみて、新たな装飾を施したり、郷愁を支えている土台を少しばかり手直ししてみるのも悪いことではないだろう。
そんなことで、懐かしい思いとともに今回手にとったのが『モモ』だ。

『ジム・ボタンの機関車大旅行』とどこで出会ったかという記憶は本当に曖昧模糊としている。ただ、“ジム・ボタン”という音と、主題歌を聞いた瞬間「あーこんなだったなー」という言葉にならない温もりと、あの当時感じたヤル気になるなにかこう清冽な気分くらいは思いだせる。

他方、『モモ』はといえば、“モモ”という音より、“モモと時間どろぼう”という音に強い印象が残っている。
必死に思いかえしてみても、親から『モモ』を買ってもらったのかどうかさえ定かではないが、橙色の装丁に描かれた、エンデその人による表紙絵の記憶は鮮やかだ。物語の流れなんてすっかり忘れていたが、灰色の紳士に恐怖した感情の残り香はいまも鼻孔に残っている。

それと比べれば、より鮮烈な映像として残っているのは、古田足日の『おしいれのぼうけん』だ。
鉛筆で描かれた、ねずみばあさん、恐ぇー! ――これにもまたモモの灰色の紳士に似た恐怖感を子ども心に呼び覚まされたようなのだ。

しかし、こうして考えてみると、わが両親は、あの当時最新刊だった絵本や児童文学を与えてくれたのだと今更に気づいたきもする。以外に恵まれていたんだな、と。


それはそうと、今回読みなおしてみて、随分と感動した。
恐らく当時は感じられもしなかった寓意性や優しさを読みとれる自分になったからだろう。
子ども時代の自分がいかに臆病で恐怖という感情に敏感だったかがはっきり見えてきたともいえるのだが。

というか、思いきりネタバレです!! ご注意あれ!


小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれだってできるじゃないかって。
でもそれはちがいます。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。

長編小説の素晴らしさは、こうした一文がしだいしだいに積み上げられて文脈の山が築かれ、「話を聞く」能力がいかに凄いことかがしみじみと心に滲みわたっていくところにある。だって最後にモモは宇宙の音さえ聞けるようになってしまうのだから。そしてそれは、自分の外にある宇宙と自分の中にある宇宙を共鳴させているということなのだから。
ある意味で、モモはまずは受けいれてみよう、あれこれ言葉にせず直観で感じてみようという、少年少女期の見本といえるかもしれない。


ベッポの考えでは、世のなかの不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするせいなのだ、というのです。
ベッポは道路掃除夫のおじいさん。トレードマークはずりおちそうな鼻眼鏡、すこし曲がった背中のせいでモモと同じくらいの身長だ。10キロ先まで伸びている道路を掃くにしても、ベッポはいつも今掃いている場所とその時に集中する。そんなふうだから話すのもとても遅い。ゆっくり考えて、自分で納得してからでないと決して口を開かない。ベッポはそんなおじいさんなのだ。ある意味で老年期の見本といえるかもしれない。


ジジがつづけました。「いぜんにはな、みんなはモモのところに話を聞いてもらいによくきたもんだ。聞いてもらってるうちに、みんなはじぶんじしんを見つけだしたんだ――」

ジジはまだ若いモモの友だちであり、ベッポの親友でもある。三人は世代を超えたベストフレンドだ。ベッポが無口ならジジは口から生まれたようなお喋り。でもどちらが良いというのでなく、ベッポもジジも自分の持ち味を生かしてモモとの時間を楽しんでゆくのだ。ジジは物語を創作して話し、人を楽しませる才能の持主なのだ。
ある意味で、何ものをも恐れずに突き進んでゆく青年期の見本といえるかもしれない。


モモは黙って話を聞くことで、話している人が自分の悩みを解決する糸口を与えられるようなモモであろうとする。
ジジは楽しい物語を聞かせることで、聞いているあいだに悩みを忘れてしまい、楽しい気分になり、話が終わったとき悩みをちっぽけなものに感じさせるジジであろうとする。
ベッポはそのどちらとも違う。聞くときは聞き、話すときは話す。真実だと思うことだけを話す。三者三様だが、この三人の友情から、「会話」にあるとても大切なエッセンスが感じとれるはずだ。


(灰色の紳士――時間どろぼう――の)話す声は聞こえるし、言葉は聞こえるのですが、話す人の心は聞こえてこないのです。
モモは首をふりました。




「いや、そうでもないよ。たとえばこんどの場合、これこれの道を行けば灰色の男に出あわない、、、、、ということがわかっていたのだ。それだってなかなか役に立つじゃないか、どうかね?」

<どこにもない家>で暮らす時間の神ともいえる、マイスター・ホラの友だち、カメのカシオペイアは唯一、神から時間を与えられるのではなく、自分の中に時間をもつ存在。不思議で偉大な存在だ。もちろん、歩くのはとてもノロいが頭の回転は素早い! そんな彼は、ほんの少し未来を予知する能力をもっている。三十分先を知れるのだ。
けれどもカシオペイアは、未来を予知できてもそれを攻撃的には使わない。幸福になるためにも使わない。そんな彼はモモと冒険を共にしながら、問わず語りに幸せになる方法を教えてゆくのだ。
求めずして幸福を得るすべは、大事な友達を救うすべは、危険を避け、危険があることを友だちに納得させる智恵――心のこもった言葉を話すこと――なのだ、と。カシオペイアは固い甲羅で身を守り、危急のときには手足や頭をひっこめる徹底した守備力をもっている無抵抗主義者であり、非暴力主義者であり、善友こそ人生の宝だと知る賢いカメなのだ。


彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。

さすがに時間の神であるマイスター・ホラの言葉には説得力がある。もちろんここで語られているのは、『モモ』に隠された主題のひとつとして広く知られている、貨幣経済(利子という概念を時間に植えつけることで、あたかも時間に功利性があるように錯覚させること)に依存しすぎることで人間性を失っていく社会構造への批判である。利便性を効率化を追求するあまり、結果ばかり追い求め、良心を失わせる資本主義体制から起る様々な弊害への警鐘でもあろう。


光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとられないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にもないもおなじようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、なにも感じとれない心をもった人がいるのだ。

いいかね、地球は太陽をひとめぐりするあいだ、土のなかで眠って芽をだす日を待っている種のように、待つことだ。ことばがおまえのなかで熟しきるまでは、それくらい長いときがひつようなのだよ。

マイスター・ホラは雄弁に語りモモに教え諭す。また、時間が流れ出ている場所、時間の根源である<どこにもない家>をあちらこちらと見せてあげる。モモはそこで見たものに大変感激する。彼女はそのとき感じた喜びと驚きと畏れのいりまじった感覚を友だちに話してあげたくなるのだ。けれども、見知った光景が耀かしすぎて言葉にならない。そんなとき、マイスターがモモに語りかけたのがこの言葉だ。

しかし、<どこにもない家>で一年を過ごしたモモが、友だちのもとに帰ってみると、もうそこに以前ようなジジやベッポはいなくなっていたのだ。彼らすら灰色の男たちの策謀にはまり、かつての彼らではなくなっていたのだ。
言葉にならなくても、その時の気持ちをなんとか――たとえばハグするとかして――伝えておく大切さ。もう昔のような友だちでなくなったと気づいても、やはりマイスターに言われたように熟すことを待てる、変わらない自分でいられるのか。もちろんそれは同時に、変わってしまった友だちとの関係が元通りになると信じる心でいられる自分であるということでもあるのだろうが。


「ジジはいつまでもジジだ!」ぼくはそう言っていたね、でもジジはジジ゙じゃなくなっちゃったんだ。モモ、ひとつだけ君に言っておくけどね、人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ。
ジジは物語で人びとを楽しませる語り部という職業になる夢をかなえた。でもそのことで彼はその職業を「演じる」ことで手一杯になり、ほんとうの自分自身を失ってしまったのだ。ほんとうに語りたいことが語れなくなり、一番大事な友だちモモに聞かせたい物語、その人だけのための物語も語れなくなってしまったのだ。
一般社会に生まれ育ったなら、誰でも一度は問われてきただろう「大きくなったら何になりたいの?」という質問と、そこで答えた夢がかなうこと。人を不幸にする落とし穴は、案外にも身のまわりに当たりまえのように口をあけているのだ。

社会で生きるということは、生きていることとか、人間であるとか自分自身であることより、男であるとか女であるとか、父である母である、あるいは子である孫である、こういう職業をしている、こういう役職にある、こういう立場にあると演じざるを得ないのは確かだ。しかし、その演技に夢中になりすぎて自分を失ってしまうのは悲しことだ。みんなも自分も生きていることすら忘れてしまうのは悲しいことだ。
それだからこそ、自分自身でいられる家族や友だちをもっていること、生きていることを互いに感じあえる友だちこそが人生にとっての財宝なのだといえるのだろう。言いたいことがいえる人がいる。それは幸せなことなのだ。


モモはジジの力になってあげたい気もちで、いっぱいでした。そうしたくて心がうずくほどでした。けれども、いまジジの言ったようにしてはいけないと感じました。ジジはまたもとのジジにならなくてはいけないのです。そしてモモがモモでなくなってしまったなら、力になってあげることなどできません。モモの目に涙があふれました。
読みかえしていて、ふつうに涙がでる。
苦しんでいる人がいるとき、最も正しくて最も困難なのは、苦しんでいる相手が求めてきたことを適えるように振る舞ってあげることではなく、自分は自分のままでいることだと、わたしごときでも知っているからだ。
自分は自分のままでいる姿を苦しんでいる人に見せることで、苦しんでいる人はやがて気づくのだから。
「ああ、俺も俺のままでいればいいだけなのかもしれない……」と。
その気づきが訪れるまでは、文字どおり七転八倒し、地を這いつくばり、のたうつような苦しみを味わうが、その苦味のなかに、かすかな甘味を感じとり、「ていうか、そもそも俺の中には俺自身への可能性や力があるんじゃね?」と気づくというわけだ。
本人が自分の可能性と力に目覚める手助けとは、そういうものだと信じている。
さも心配しているように、「ああしなさい、こうしなさい」などと言って、自分以外の誰かほかの人間になるように仕向けるなど、もってのほかなのだ。

うつ病のどん底にいたとき、わたしは多くの人に自分の気持ちをつげた。
「いや、あなたは普段のあなたのままでいてくれるのが、僕にとっては一番楽だし、そうしていて欲しいんだけど……」と。
だけれども、人間には情というものがあって、良くも悪くも、相手が苦しんでいるのを見ると、変に同情しすぎたり、妙によそよそしい態度をしてしまったりするわけだ。
そしてそういう微妙な空気を、苦しんでいる人は敏感に感じ取って思うのだ。
「ああ、僕は彼(彼女)にとって迷惑だったり、お荷物な存在なのだな……」と。そして深く傷つく。

わかる人にはわかるだろう。わからない人はわからなくてもいいのだ。
ただ人間の心とはそういうものだということを言いたいだけだから。

大切に思う友だちがいるのであれば、いつも変わらない自分であることが重要だと『モモ』は教えているのだろう。
けれども、すべてが変ってゆく世界で、変わらないように変わり続ける関係を築いていくことはとても難しいことなのだ。



エンデ繋がりということで一曲。



そうそう、『モモ』の各章のタイトルからも察せられるのだが、エンデは時によって相対的などちらかを選ばざるを得ない生き方と、どちらであっても人によい薫発を与える生き方の双方を描いていて、この構造が何度も現れるのが素晴らしいと思った。

冒頭、太古からはじまり、古代に造られた円形劇場が現代にはモモの棲み処となり、皆が集まる場所になるという設定だけでも実に見事なのだ。当然、ここでは古代も現代もともに良し! あるいは古代と現代は繋がりあっているとも表現されているわけだ。どちらかが良いと選ぶことで、どちらにもある良さをむざむざ捨てる必要はないんだよ、ということを教えているわけだ。

同様に、話すことと聞くことも、どちらを選んでもともに良し! 聞きての名手はモモ、語りての名手はジジといった具合に。

ところが、灰色の男たちが暗躍しはじめると、食べることと話すことのどちらかしか選べない状況にモモが陥っていったりするのだ。相対的なもののどちらかしか選べないことで起こる不幸。相対的なもののどちらを選んでもともに良し! とできる幸福。こうした構図が実に見事なのだ。
なんで食べることと話すことが相対的かと聞くなかれ! 口で行えるものが何であるかを考えれば、相対的という言葉の文脈は読みとれるはずなのだから。

しかし、この相対的なものが、善悪とか正邪になると、とたんに人間は一面的になり狂人になるのはどうしたわけだろう。
善人だけいたら、善がなんであるかが終いにはわからなくなる。悪人がいるから、善がなにかが知れるとはなかなか考えられないようだ。

ともあれ、円形劇場が舞台である意味を推察できれば、もうそれだけでも感動できるのだ。

けだしこういう円形劇場なるものは、元来民衆自身をもって民衆を驚歎せしめ、民衆自身をもって民衆を楽しませるように作られているのである

民衆はいつも民衆第一と心得ているのだ。金持ちは金を握って御殿をどんどん作るがよい。だが彼らが柱廊や前庭を造営する場合には、民衆が便所代わりにこれを使用するのだ。民衆にとってはできる限りしばしば接種したものを、できる限り迅速に排泄するのが最大の急務なのである。こうされるのが厭なら、大きな顔をしないことだ。つまり自分の邸宅の一部が公衆に属しているような真似はしないことだ。戸口を閉じてしまうのだ。
(ゲーテ『イタリア紀行(上)』)


なんだか、汚らしい娘っ子が円形劇場に住み着いたらしいと聞いた民衆が集まって来て、モモのためにあれこれする。一人とみんな。
一人はみんなの意見に耳を傾けて受けいれ、みんなは一人のために自分に出来ることをする。そのようにして、モモとみんなは友だちになり、彼女は施しをうけて、家具などを揃えてゆくのだ。
円形劇場で起こったこうした事柄が、ゲーテの語る公共施設の意味と重ならないわけがないではないか。


新国立競技場? カジノ? それって美味しいの? そんなことはないだろう。
オリンピックが終わったあと、どれだけ民衆が集って自分たちの愉楽のために使えるようになるのだ?
そもそもそういう発想自体が政治の世界にはないであろう。
あるのは利害損得。経済効果。金持ちたちがどんだけ儲けられるかだけだろうに。

日本の公共の場所にはベンチが少なすぎる! どうかしてる! そういう思いで、ベンチを増やす運動をやっている人だっている。子どもたちが、あるいは赤ちゃんつれのお母さんが、ちょっとどこかで休みたいと思っても何もない。健康のために散歩に出たお年寄りがちょっと休みたいと思っても何もない。仕事のあいまに木漏れ日と涼やかな大気のなかに身を置いてリフレッシュしたい働く男女。そういう人たちがお弁当を食べる場所もない。
世の中にはそういうことを真剣に考えて、運動している人だっている。そういう人々の心のなんと美しいことか!

ipsilon at 22:15コメント(0) 
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