2018年09月

2018年09月26日



Day by day night after night
ごと夜ごとに
Blinded by the neon lights
ネオン灯で盲目にされてゆく
Hurry here hustlin' there
ここで急かされ、あそこで騙され
No one's got the time to spare
時間に予備なんてありゃしないのに
Maney's tight nothin' free
金に縛られ、自由はない
Won't somebody come and rescue me
誰も助けになんか来てくれない
I am stranded caught in the crossfire
十字砲火につかまって立ち往生さ
Stranded caught in the crossfire
一斉攻撃されて膠着状態さ

Tooth for tooth eye for eye

目には目を、歯には歯をと
Sell your soul just to buy buy buy
良心を売って、かわりに買って、買って、買いまくる
Beggin' a dollar stealin' dime
あぶく銭を求め、はした金を盗む
Come on can't you see that I'm Stranded
なあおい、立ち往生してるのが見えないのか!?
Caught in the crossfire
十字砲火に捉まってるんだ
I am stranded caught in the crossfire
一斉攻撃につかまって膠着状態なのさ

I need some kind of kindness
何らかの親切が必要なんだ
Some kind of sympathy oh no
違う、同情じゃあないんだ
We're stranded caught in the crossfire
俺たちは十字砲火につかまって立ち往生したままなんだから

Save the strong lose the weak
強きを助け、弱気を挫く
Never turning the other cheek
厚かましさは決して無くならない
Trust nobody don't be no fool
誰も信じられないからって馬鹿になることはない
Whatever happened to the golden rule
何が起ころうと、黄金律でいくんだ
We got stranded caught in the crossfire
俺たち、十字砲火につかまって立ち往生なんだ
We got stranded caught in the crossfire
俺たち、一斉攻撃につかまって膠着状態なのさ
We got stranded caught in the crossfire
俺たち、喧々諤々にかまけて行き詰ってる
Stranded caught in the crossfire help me
四面楚歌なんだ、助けてくれ!

※黄金律 あらゆる宗教哲学にみられる垂訓。キリスト教でいう「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」や、仏教にある「自業自得果」のこと。

敬愛するスティーヴィー・レイヴォーンの曲。
彼はコカイン中毒になり、肺にコカインの結晶ができて、それが肺を突き破って死にそうになった。
大好きな音楽で食えるようになり、金に溺れ、欲に溺れてはじめて見た地獄。
この曲は、そこからリハビリして復帰したときのアルバムにある。

薬物による禁断症状との闘争や禁酒はもちろん、最晩年は喫煙にさえ挑みながらの生活のなかでキリスト教に目覚めていったのだそうだ。
歌ではとくに金に対する欲が歌われているが、ようするに我々はあらゆる欲望に絡めとられて、それの十字砲火に晒されているんだと伝えたかったのだろう。

そこから自由になるのは、そんなに難しくない。
黄金律に従えばいいだけ。そういうことなのだろう。
それは、同情ではない何らかの親切なのだろう。

【親切】親切は、「親を切る」という意味ではない。 「親」は「親しい」「身近に接する」という意味で、「切」は刃物をじかに当てるように「身近である」「行き届く」という意味がある。 つまり、身近に寄り添い、行き届くようにすること。相手の身になって、その人のために何かをすること。思いやりをもって人のためにつくすこと。


でも、本当の黄金律(親切)っていのは、思想宗教にあるものとバーナード・ショーの言葉、「人にしてもらいたいと思うことは人にしてはならない。人の好みというのは同じではないからである。したがって黄金律というのはないというのが黄金律だ」を併せたものだろう。

つまり、顕在意識としてあらわれる差異を認めあい、無意識が訴えてくる部分は宗教にある黄金律に従えというわけだ。

人それぞれの趣味嗜好、考え方の違いを認めあいつつ、痛いとか寒いとか暑いとか、腹が減ったとか眠いとか怠いとか、トイレに行きたいとか、そういう誰もに共通する部分で助けあっていけと。
あれこれ言葉で凄いことを言っても、ありあまるほど金を与えても意味はない。寒いといってる人に外套を貸してあげるとか、腹ペコな人に弁当を差し入れしてあげるとか、痛がっている人の患部をさすってあげるとか、そういうのを本当の親切というのだ。
ネットで何ができるんだ? わたしがそう言うのはこういう意味だ。
俺のなにがわかるんだ? そう言ってきたのもそういう意味だ。

こんな簡単なことがわからないのが人間。だから人間に絶望してしまうのも仕方がないってわけ。
こういうことがわかって、まだ身近に家族や友人がいるなら、彼らに親切できるうちにしておくことだろうね。いない人は、そういう関係を維持していける友人を見つけ出すといいのだろう。簡単ではないが。
なにしろ、時間に予備なんてないからね。そのときできる親切を金や欲望という天秤にかけて、躊躇することのないように。

前のアパートにいたとき、大家さんが、おにぎりを差し入れてくれたことがある。
そのとき感じた気持ちとありがたさは今も忘れがたい。
ラップに包まれた温かいおにぎりを受けとったとき、あまりのありがたさに、両手で大事そうに持って、頭のうえに差しあげて「ありがとうございます」と頭を下げたものだ。

辛いときに、そういう同情じゃない何らかの親切をうけてみて、生きることにあって何が一番大事でありがたいものなのかがはじめてわかるんだろうがね。

わからない人は、ゴーゴリの『外套』とか読んでみればいい。
アカーキイ・アカーキエウィッチの抱いていた幸福は、物の溢れた日本にいれば瑣末なものに見えよう。でも、彼の寒さを癒せた人は誰もいなんだよ。幽霊になるあたりは、些細に見える幸福にすがることが本来の人間のありかたなのに、それを馬鹿にするような人のためにユーモアたっぷりに描いたんだろうがね。そして、そんな彼が書き残していったものがある意味、永遠に残ったというわけ。誰にだって永遠に人のためになることが出来る。そういう喩え話じゃあないのかい?

『外套』に託された文脈が読みとれる人なら、ドストエフスキーの『虐げられた人びと』も読んでみるといい。
『罪と罰』とかより、よほどドストエフスキーの人間的優しさが溢れているから。

こういうことがわからないから、社会はクソだし人間はクソなんだろ。
イヌやネコを見てみろっての。痛いんだろうなと思うと舐めてあげたり、何も出来ないのに、種を超えて息絶えそうになってるやつの傍にいて見まもってあげたりしてんだろうが。
一方の人間はどうだ? 電気代が払えなくなったからと電気止めて、老いた人を熱中症で殺したり、こともあろうに命の介助をする病院の空調が壊れたのに、酷暑なのがわかってるのに、患者をそのまま空調のきかない部屋に置いておいて、殺したりしてんだろうが。昔の話じゃないよ、今年の夏の話だ。



今できることをする。それ以外に生きている意味なんてありゃあしないのさ。

ipsilon at 15:22コメント(2) 

2018年09月20日

 ここのところすっかり夢中になって、一人でも多くの人に「空」を理解してもらえたらと思って記事を連ねてきたが、この辺でそういう内容は打ち止めにしようと思っている。
 とはいえ、「空」を様々な角度から説明したほうが、多くの人が理解にいたれると思い、ショーペンハウァーの『自殺について 他四篇』を読み返していたので、とりあえずそれで感じ入った部分ぐらいは、そのうち引用しておこうと思う。
 こうしたどれもこれも、最終的にはわたしの身勝手でやっているだけなので、役に立つと思う人は読むだろうし、役にたたないと思う人はそれまでなので、さほど神経質になっているわけではない。だが、同じものを知るにしても、右から見ることで理解できる人もいれば、左から見ることで理解できる人もいるのだから、「空」に関して多角的に語ったことは、無駄ではないだろう。
 また、難癖をつけられ、貶されたことで、「空」に関する記事を書きながら、わたしも改めて学びなおせたのだから、そこは感謝だなという気持ちが、今は湧きはじめている。そこまで気持ちが到達するまでには時間がかかるということになろうし、実際そういうものなのだ。


 さて、記事タイトルの内容に戻ろう。
 「文字面と文脈」について真面目に考察し、それを自分なりの言葉で表現できるようになったきっかけはと問われれば、これまいどのごとく宮台さんが機縁だ。
 人類はもともと文字をもたず、口伝だけでコミュニケーションをとってきた。しかし文字言葉が現れたことで、現代につづく「文脈」が読めない人が増えたのだというのが、宮台さんの論理。

 これを真面目に考えると、宮台さんの見解が正しいことはわかる。
 口伝の場合、そこには話す速度や抑揚、あるいは話しているときの表情などなどがあり、言葉はあくまでも二次的であり、伝えんとしているのはその言葉を発したときの音のニュアンスだったわけだ。しかし、文字が発明されたことにより、それ以前には音のニュアンスによって伝えあっていた「文脈」が伝わりづらくなったのだ。
 特に文字が発明された当時、それが何に使われていたかを考察することで、この説が正しいことが見えてくる。初期の文字は作った法律を成文化するために使われていたということだ。
 こうしたことが顕著なのは、エジプト文明だろう。王家が決めたものごと、あるいは起こった事件やそれへの仲裁がどう行われたかという記録を残すための書記という職業が、非常に尊貴な存在だとされていたからだ。

 したがって、こうした文字言葉のつかいかたの進歩にしたがって、文字言葉は、話し言葉より遥かに単語に対する意味が狭くなっていったのだ。こうして言葉は、もともと口伝にあった「文脈」を伝えるという目的を失っていったわけだ。
 そして現代に近づけば近づくほど、法律以外の書き言葉も増加し氾濫してきたことで、多くの人びとは本来言葉にあった「文脈」を読む力をどんどん失ってきたわけだ。そうした現象を宮台さんは「言葉の自動機械化」と言っている。

 またこうした言葉に対する人びとの姿勢変化は宗教にある戒律にも起こり、仏教であれば、書かれた戒律を遵守して厳格であるべきという思想に走ったのが、提婆達多の一派だったわけだ。こうした言葉の「文脈」を顧みない原理主義的傾向は西洋にももちろんあり、ユダヤ教がどんどん語義に対して厳格であれという方向に進んだわけだ。そしてそうした文字面ばかりを重視しすぎたがために現れてきたのが、イエスの教えであり、戒律など捨ててしまえ、大事なのは文脈という愛だといった思想だったわけだ。
 だが、こうしたイエスの思想もまた、時代の激流には勝てず、彼の言葉は新約聖書というものにまとめられ、またしても語義に対しての厳格化が起こったということだ。当然、仏教の場合も同じで、ゴータマが「戒律なんていらないよ、作るのは否としないが、時代状況にそぐわなくなったなら破棄したり変えていきなさい」という教えは次第に薄れ、経典にある文章にどういう意味があるかという解釈学第一主義の道をたどったというわけだ。
 ある意味、日蓮の経典第一主義、文証主義というのは、こうした言葉に対する態度の変化そのものといえよう。ただ彼の場合、一筋縄ではいかず、経典第一主義をとりながらも、その経文にある「文脈」すなわち「文底」を読むことが重要だという点も押さえているのが凄いというか、人間のもつ矛盾を端的に体現していると思えるわけだ。そうして考えてみると、文証、理証、現証とたてたうえでの現証第一主義というのは、ある種の文脈主義だったと捉えることもできよう。というか、現証というものを現実とか現存在における結果だと捉えることにこそ無理があるというものだ。なぜなら、その現象や現存在もまた空(固定されおらず、自性もなく、変化しつづけて止まない存在)であるからだ。

 ともあれ、文字言葉を扱う場合、語義も重要だし文脈も重要であり、どちらか一方に偏ることはよいことではないということでもあろう。語義がすべてとはいえない、かといって文脈がすべてでもない、文字は空だ、とも言えるわけだ。
 しかし、言葉が起こった根源を考えるなら、やはり重要度は文脈に傾かざるを得ないところはあろう。ようはバランスの問題といえよう。現代のように語義や文字面だけでしか読めない人、あるいは語義や文字面だけで伝えんとしている書き手ばかりの時代であるなら、積極的に文脈を読んだり書いたりという努力をする人が多少なりとも増えることで、そのバランスが保てるといえるだろう。小説などを読んでいると「文字どおり云々だった」なんて表現にたびたび出会うが、こうしたことこそ、書き言葉が文脈を無視して、語義や字面に重点をおいていることを雄弁にものがたっているのだろう。難癖をつけるつもりはないが、「文字どおり云々だった」などと表現する作家には、文脈で語る力がないということなのだろう。
 それとは逆に、語義や字面に重点を置かず、文脈だけで伝えようとしている典型が詩なのであろう。
 
 ともあれ、一人でも多くの人が、こうしたことに目を向けられるようになればと祈るように生きようと思うわけだ。

 余談だが、文脈という言葉には対義語がないらしい。名詞は一般に対義語をもたないのはそうだろうが、文脈という言葉が名詞だったとは知らなかった。文脈ってなぁに? と疑問に思う人もいるのかな?――。
 文章にある筋道といえば、わかりやすいのかもしれない。順序だててわかりやすく説明すること、あるいは順序立てて理解すること。ところが、かくいうわたしも含めて、そういうことを考えない書き手もそこそこ多いから、余計に文脈を読みとるのが難しいのだろう。いきなり結論を言ったりとかね。困ったものだ。
 まあ、わたしが読みとれたほうが得だろうと思う文脈はそういうのではなく、むしろ話し言葉には必ずある情感とか空気感とか皮膚感、そこにある書いた人の心といったものなんですけどね。
 けれども、その心が読めるようになることが素晴らしいとはいいません。文脈が読めるようになるということは、同時に書き手が文章に込めた皮肉や悪意も読みとれるようになるということだからだ。
 世界は幸だけではない、かといって苦だけではない。幸が増えればそれに比例して苦も増える。そういうことを知っておくのも無意味ではないのだろう。だから本当の幸福は苦楽中道――、生きることは苦しいことではない、かといって楽しいわけでもない、どちらでもないしどちらともいえない、どちらにも偏りすぎるない空だということだ。

 日蓮もそうは言ってるのだが、一体どれだけの人がそれを芯から理解しているのだろうか。幸福ばかり追いかけている日蓮信者が多いように思えるのだが。

 苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや

 この文にある「ゐ」という文字には「持続していく」という意味があるそうだ。
 南無妙法蓮華経というのは、サンスクリット語ではサッダルマ・プンダリーカ・スートラであり、南無妙法蓮華経というのは、それを鳩摩羅什が漢訳したものだ。
 もともとのサッダルマ・プンダリーカ・スートラの意味は「正しい教えである白い蓮の花の経典」という意味であり、そこに「空」という概念はない。古代インドでは、蓮というのは一切皆苦ともいえる泥沼のような世界で美しい花を咲かせると尊ばれてきたものであり、花と同時に実をつけるといういわゆる因果倶時、原因と結果が同時に起こるという概念はもともとはない。
 また妙法蓮華経には、空という概念があるようだし、真偽未決とはいえ、御書にはそういう解釈がある。
 しかしそれらはあまり問題ではないだろう。妙法蓮華経を全文読んである程度理解した人なら、方便品にある十如是、あるいは諸法実相と呼ばれている経文は空をあらわしているからだ。

 ただ経典全体に帰依するという南無という意味の語がある以上、南無妙法蓮華経は、法華経にある(ハンセン氏病患者への)差別思想やいくぶん極端な現世利益重視にも帰依するということになろう。
 差別思想は別としても、現世利益はまあいいとは思う。ただし、なぜ現世利益に行き着くのかを知っている必要があろう。人間が認識できない次元にある真理と認識できる次元にある真理の双方を知ったうえで、最終的には認識できる次元、つまり現世での利益を求め導いていくという点が重要なわけだ。目に見えるものだけが現実だなんて思ってる人は少ないだろうが、電波は見えないがわれわれの現実生活を潤しているわけだ。そう考えれば、わかりやすいのではないだろうか。ネットなんてバーチャル、しょせんVRだろ。ネットは嘘しかないから見るなとかいうどこぞの教団の方針が、いかに偏っているかは容易に理解できよう。
 認識できる現世が重要だからといって、認識できない真理を蔑ろにし、現世利益だけを求めることは、良心なくして利害損得に走るのと変わらないからだ。それは刹那的であり、多くの偉人や一流の人びとがいう、「永遠的なるもの」への視点が欠損した偏りに過ぎないからだ。

 最後は、個人個人がそれをどう考え、納得するかでしょうが。

ipsilon at 14:31コメント(4) 
 まあ、ここを見てくださいな。コメント欄ね。

 大爆笑しましたわ!!

 「或る個体の持っている生命の癖(傾向)」に該当するのが空の概念になります。

 ……だってさぁ。よく恥ずかし気もなく、こんないい加減な嘘に人に教えられるよねー。ありえない!!

 空仮中とは――。
 すべての存在は本質的に空である、これが空観。
 ではあるが、縁起によって起こった実体をもつ存在も空であると見るのが仮観。
 空観、仮観ともに空であると見るのが中観、あるいは中道。

 なぜこのように見るかといえば、人間の認識には限界があるからだ。われわれは時間と空間に縛られてしかものを見れないからだ。
 したがって、時空に縛られないで(実際には認識できないが、徹底的にあると思惟した結果あると確証するしかないという観点で)見たときの空が空観である。
 また、実際にわれわれの肉体や環境を見つめて、空が現実になって顕われていることを見るのが仮観。
 そして、その人間の認識できる範囲とできない範囲双方が結局は空であると見るのが中道だということだ。

 この、あまりにも当たり前の空論すら理解しておらず、空とは個体生命のもっている癖だとか、よくこんな嘘を恥ずかしげもなく人に教えられるよねぇ。
 真面目に大爆笑しましたわ。こういう知識で、日蓮仏法がなんちゃらと語るとか、残念すぎるだろ。
 で、そういう人に教えを求めてるとか、とことんお気の毒で可哀想だけど、惹かれあってるんだろうから、仕方ないよねぇ。

 一心三観とは――。
 一心(わが心)に空仮中という三つの空があるということを観じる修行法。つまり、勤行・唱題する意味はこれだということだ。
 また、空仮中はいい換えることもできる。(以下参照)

 空=報身=解脱=如是性
 仮=応身=般若=如是相
 中=法身=法身=如是体

 こんなことは創価教学でさえ教えていたことなのだがねぇ。

 ちなみに、天台(智據砲空仮中の三諦を立てるために引用した、龍樹の『中論』では以下のように述べられている。

 「衆因縁生法 我説即是空 亦為是仮名 亦是中道義」。

 ていうか、今の時代、この程度のことは、ネットで調べても15分もあればわかることなんだがねぇ。
 なんていうか、相手にしてたのが本気でバカらしくなった。

 三如是を解説するならこうなるだろう。
 人の内側にある本性(無明=生存欲という意志)は見ることができない。それを如是性というわけだ。また、この性は草木岩石虚空を含む、生きとしいけるものすべてに見られる性であって、それは空であると見るのが空観。
 その性にもとづいて目に見えるかたちになっているのが如是相。われわれでいえば、顔とか皮膚の色とか、手とか足とかだ。そういった表面的なものも空と見るのが仮観。
 そして、そうした表面の奥にあるのが如是体。われわれでいえば、脳や心臓といった内臓、骨や筋肉といったものだ。その体もまた性や相と同じように空であると見るのを中道という。この体はもちろん、働いたり作用を及ぼしたりしているという部分も含めて考えるべきだろう。
 そうすれば、体からあとにつづく、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等すべてが空であるということが理解できよう。この点からも、因果が空であることなど、自明の理なんだがね。

 十如是を三回読むのは、十如是が空仮中の三諦を意味するからとか、まともな法華経信仰者なら常識のはずなんだが……。


 じゃあなんで認識できない空観があると思惟して確証できるかといえば、「ああ、世の中って諸行無常だなぁ……」と見ている不動の部分があると気づけば、それが確証たりえるというわけだ。
 すべてが諸行無常だと思えるのは、そう思っている本人の中に、不滅不動のなにかがあるからでしょ。
 しかし、この不滅不動もまた空なんだよ。なぜなら、不滅不動のものがあると認識できるのは、生きて起きて意識があるときだけだからだ。死んで意識がなくなれば、諸行無常も不滅不動も認識できないから、空なんだよ。


 ともあれ、あまりにも無知な人を相手にしていたのがわかったので、もうこういう記事は一旦これで終了だ。

ipsilon at 04:04コメント(4) 

2018年09月19日

というこで、「空」を現実に感じとれる方法を記してみよう。
 少しでも瞑想を経験したことのある人ならわかるだろうが、瞑想の基本は「呼吸」を見つめることだ。ゴータマがどのようにして空を見出したかはもちろん、わたしごときには想像の埒外だが、「呼吸」を見つめたのかもしれないとはいえるが。

 面白いことに、人体は大きく分けて二つの要素で作られている。随意と不随意だ。心臓や内臓といった自律的な器官はほとんどが不随意筋である。逆に、歩いたり掴んだりといった動作を意識的に行なえる手や足などの筋肉は随意筋である。そして呼吸を司っているのは、その双方だということだ。
 どんなに生きたいと思ってもわれわれは心臓を自分の意志で動かし続けることはできない。どんなに死にたいと思っても、われわれは自分の意志で心臓を止めることもできない。脳も勝手に働いている。これが不随意、いいかえれば無意識であり、自律性とも呼ばれているわけだ。
 翻って、随意筋や顕在意識は意志によって選択という行為ができるものだ。面白いことに、こうした意志の選択ができることを、先の「自立性」と対比するなら「他律性」という言葉を選ばざるを得ないことになる。
 宮台さんの提示した「他律的能動性」あるいは國分さんの提唱した「中道態」、あるいは世間一般で語られている「自由意志はない」ということはこういう辺りからもわかるということだ。

 脱線したので本題にもどるが。つまり、呼吸器官の筋肉というのは、随意筋でありなおかつ不随意筋だということだ。そしてこれこそが、われわれが「空」を体感できるという事実であり、現実だということだ。
 世界は有でもない、無でもない、空である。同じでしょ呼吸と。呼吸は自律的でもない、かといて他律的でもない、空である、あるいは呼吸は随意ではない、かといって不随意でもない、空であるともいえるわけだ。
 ――以上、証明終わり。

 しかし、これだけだと納得できない人もいるであろうから、もう少し語ってみよう。
 音は空である。以上、証明終わり。
 
 発声した瞬間、音はある。でもその音は一瞬で消える。音はあるともいえないし、ないともいえない、空だ。唱名題目する意味はそこにある。空を体感するため、それだけのことだ。そこに祈祷や呪術や迷信を持ちこむ必要はないということだ。虚空絵の儀式だの、釈尊からの付属だのという概念もいらないということだ。
 人間の器官でいうなら、喉は食道でありながら声帯の役目もある。喉は食道であるとはいえない、かとって声帯であるともいえない、空だ。そういうことだ。
 細胞はそれ単体であっても個としての生命だ。単細胞生物がそれ。その単細胞生物が集まってできたのが人間の肉体。つまり多細胞生物。それが自分だって言えますか? 言えないよね。いろんな生命体が集まってるだけとしかね。世界をそうやってみれば、何一つ、おろそかにしていいものはないってならないかな。なるだろ〜。
 そもそも、不随意筋があって、自分の思いどおりにならないのに、それが自分だとか自由意志があるだとか言えるの? 言えないよねぇ。

 音は振動だ。したがって全てのものは振動している。しかしすべてのものは粒子でもある。したがって、世界は振動であるともいえないし、粒子であるともいえない、世界は空であるとしか言えないということだ。
 
 あれ、なんかいる!? これが知覚。あのなんかはイヌだ、これが認知。あの犬はお隣の田中さんとこのタロウだ、これが認識。ていうか、タロウは前に3軒先の山田さん家のカズコちゃんに噛みついたことがある、これが認識の肥大化。
 この認識の肥大化にもとづいて思考するからタロウは噛むかもしれないから恐いという偏見、先入観が生まれるわけだ。業(カルマ)があるというなら、その偏見、先入観こそがカルマの正体だろう。
 そもそも業というのは「行為」って意味なのだしね。しかし、いま述べたように考えれば、業とは先入観であることはわかろう。

 翻って、ありのままに見るというのは、知覚の範囲だけを見て、それが真実であり真理だと見ることだ。
 なんかいるという知覚でとらえたなんかに名前を付けると、それは認知になり、もはや真理でも真実でもなくなる。その認知にどこそこの誰それといった関係性を意味づけると認識になる。さらにその認識に基づいて物語をつくり、タロウは噛みつく可能性のある犬と見るのは、認識の肥大化。噛む可能性があるから恐い、これが偏見、先入観。
 われわれは普段、そういう認識とその肥大化にもとづいて思考している。だから苦しむだけ。こうやって説明されれば、どこからが迷妄かなんて、簡単にわかるのではないのかなぁ。

 輪廻する因果やら業なんてものは、所詮こうやって説明できるものに過ぎない。
 それを三世永遠の生命の因果だといってしまうのはどうなんだろうねぇ。まあ、迷妄だよねぇ。
 ていうか、あるっていうなら、こうやって現実的に証明できなければ、それこそ「ある」とは言えないんだが。
 その因果なんちゃらっていうのがあるから現世利益があるというなら、現実にその因果とやらがあることを証明しないと、現世利益もあるってことにはならないからねぇ。
 ということで、証明 Please!!

 証明できないのであれば、デマばっか言ってる嘘つきってことになるからねぇ。

 言っておくが、日蓮の御書の一部を引っ張り出して、俺が信じて尊敬している人がこういってるからとかいうのは証明にならないからね。それは感情論による自己正当化だからだ。
 したがって、現実に誰もが経験し、感得できる事柄で永遠の因果とやらがあることを証明してもらいたいものだ。また、難しい言葉や概念や論理を使わずに、高校1年生が読んでも、「そういうことか!」と納得できる説明であることも重要だ。それが普遍性を担保するということだからだ。

 さあ、さあ、証明 Please!!


 にしても、わたしって奴はけっこう意地悪だよね〜。


 というかね、先に答え言っておくけど、因果も空なんだよ。
 事象(ニュートン力学=実験物理学)という面に限ってみれば因果はあるの、けれども事象を離れてみると(アインシュイタイン以降の理論物理学には)、因果はないんだよ。
 だから、因果はあるともいえないし、ないともいえない、したがって因果も空。これが正しい仏教における理解なの。
 だから、あると証明したところで、ないと証明したところで、どっちも嘘なんだよ。
 おわかり?

 ぜんぶ空なんだよ。その空すらも空なの。

ipsilon at 14:57コメント(0) 

2018年09月18日

 現在では定住することが当たり前だとひろく思われているがようだが、人類700万年の歴史を眺めてみると、こうした考え方はここ1万年のあいだに出来あがった価値観に過ぎないことに気づくだろう。
 人類も「動物」である。したがって、ヒトのDNAは遊動生活に最適化されたプログラムにしたがって起動していると考えることは理不尽なことではなく、むしろ合理的といえよう。

 わたしがこうした事に視点を向けるきっかけをくれたのは、いつも話題にだす宮台真司さんだ。
「とにかく、大規模定住社会というのには無理がある」という彼の発言は、いつも脳裏の片隅のどこかにあったということだ。
 大規模定住社会が人類というよりも動物にとっていかに不合理な生活様式かということは、人類以外の動物の生活様式を見れば容易にわかる。人類以外のほとんどの動物種は、動物という名にあやまたず、遊動生活をしているからだ。人類に近い霊長類にいたっては、定住生活という様式を選んでいるものは一種もないことがわかっているのだ。
 そもそも、人類を含む動物種というのは、環境の変化にあわせて移動しながら生活を営むように、遺伝子単位でプログラムされているといっていいわけだ。
 そうした動物種のなかには、巣を作って一定期間定住する種もあるが、それとても子育てのための一時的定住にすぎず、子育てが終われば、親子であってさえ別れわかれになり、遊動生活に戻る種がほとんどだといわれてる。

 また、古生代からの動物の進化を顧みてみても、動物が生存するための生活形態の基本は、遊動生活にあることがわかる。古生代の海生動物――現生種であれば、サンゴやイソギンチャクなど――は、岩などに貼りついて、そこに定住し一生を終えたであろう種がほとんどだといわれているが、ある時期にそうした海生生物にも変化が起こり、移動する能力を手に入れたことがわかりはじめているからだ。もっともイソギンチャクは、現在では移動する能力を獲得しているのだが。

 こうしたことから、人類が約1万年前からとりはじめた定住生活というものが、動物の生活様式としていかに不自然なものかは理解できよう。ではなぜ、人類は定住化したのか? しかしこの問いに答えるのは容易ではないようだ。地球環境の急激な変化、人類の智恵の進歩にともなう稲作農耕の開発、野生動物の家畜化、あるいは人類自体が増加したことによる遊動生活への不適格化などなど、様々な要因が絡みあってとしかいえないそうだ。

 しかし、人類はそれが動物としての本性に反するものだとしても、定住生活を選んだのだし、人口増加、国家社会の形成、国際関係の構築がされてしまった現在、もはや遊動生活に戻ることはできないのである。
 そして、定住生活をはじめたことにより、人類は様々な弊害を抱え込んだまま現在に生きているともいえるわけだ。
 遊動生活という様式にあれば、嫌なことが起これば移動して逃げればよいといった行動ができないため、様々な争いを避けられず、国家間にあっては戦争、個人生活にあっては生活騒音による苦情やストレス、ひいては隣人殺害などというさまざまな軋轢と衝突、ひいては相互非難や論争といったものを抱え込まざるを得なくなったのだ。いささか大袈裟に聞こえるだろうが、人類が抱えている害悪はほとんどすべて定住生活しはじめたことによって起こっていると、わたしは考えるわけだ。

 ともあれ、悲観的な思考ばかりしても意味はない。なのでここからは、どのようにすれば定住生活を維持したまま、人類が動物としての本性に逆らわない生き方ができるのかを考えてみたい。
 恐らく、そういう点において最も有用な示唆を与えてくれるのは、定住することを選んだ植物だろう。
 最近は植物の研究も進み、彼らが、動物以上に優れたコミュニケーション能力をもち、互いを支え合い、ある意味外敵になるような種同士であっても、互いに排除せず、なんとか共生する術をもっているということにもっと目を向けるべきだと思うわけだ。最近の研究では、植物は音を出してコミュニケーションしていることもわかってきているし、それ以上に地下茎によって支え合い助け合っていることもわかってきているというわけだ。

 しかし、残念ことに人類はそうした植物から一向学ぶことなく、ひたすら彼ら植物を切り倒し人類が功利的に生きられるような搾取ばかりしてきたわけだ。衣食住、これらすべてにおいて人類は植物の恩恵なしには生きられないというのに。日本人の主食といえる米や麦、西洋ならパンだろうが、そのパンも植物が原料だ。野菜しかり。衣、人類が寒暖の変化に対応するためには必須のものだが、これらの繊維や糸や布もまた植物が原料となっている。住、日本の家屋は古来から木造建築である。また家屋だけでなく、椅子、机、お盆、箪笥、箸、お椀、畳、また薬の原料などなど、植物の恩恵に浴しているものは数限りない。近代はプラスチックや金属も活用されているが、石油の場合、有機説に従うなら、石油もまた体積した植物に起こった化学変化によって出来たといえるわけだ。石油に関しては他に無機説、菌による生成説があるようだが、どちらであろうと石油も生きものが作り出しているという資源であることに変わりはないだろう。

 また悲観的な話になったが、こうした点を踏まえて、仏教にある出家と在家の関係、またその出家・在家における空の説かれ方の違いを考えてみよう。
 勘の鋭い人はすでにお気づきだろうが、定住、遊動を仏教徒に当てはめると、定住=在俗、出家=遊動と見ることが出来るということだ。
 したがって、出家者のほうが、動物としての本性に叶った生き方であり、かつ論争や軋轢や衝突を生みにくい生き方であり、なおかつ、大規模定住生活では必須とさえいえる「備蓄=資源の無駄使いや格差を生む原因」を持たず、足るを知った生活であることは容易に理解できよう。
 
 だからといって、わたしは在俗を劣ったものだと思っているわけではない。その理由の一端は先の記事で述べているのだし。しかし、もはや定住生活という様式から後戻りできなくなったと考えるなら、在俗の人々も、出家と同じような生活様式ができないとしても、出家者と同じ次元の思想をもって定住生活をすべきだと考えるわけだ。

 なぜそう思考するのか? 定住生活するにあたって起こってくる思想にこそ問題があると考えるからだ。先にも述べたとおり、定住社会というものは、余分な備蓄を必須とする、したがって物が「有る」という思考が思想の根底にあるからだ。この「有る」という思考がすべてを狂わせ、ひいてはゴータマをはじめとする出家者が考える「空」の正確な理解の妨げになっているからだ。
 在俗はこう考えるだろう。物が無くては生きていけないと。そしてこうした思考を前提として考えてしまうゆえに、前世はある、来世はある、三世永遠の生命の因果はあると思考してしまうということだ。またこうした在家の無くては生きていけないとか、有るという思考が前提になっていることが輪廻思想を肯定し強化する働きになっているといえるのだ。

 しかし、出家し少なくとも解脱にいたり、空を正確に理解したなら、すべては「空」であると考えるのだから、在家のように「有る」を前提にした思考には決して陥らないのだ。そして、ここにこそ出家者向けに説かれる「空」と在俗向けに説かれる「空」にどうしても違いが出てきてしまうという原因があるとわたしは考えるわけだ。

 具体的に言えば、「有る」を前提にする在俗者に、より正確に「空」を理解させようと思うなら、輪廻は有る、しかしそこから解脱すれば苦はすべて滅すると説かなければ、在俗の人々は空を正しく理解できないのだ。しかしそこには、そもそもの前提として「輪廻はある」という言い方があるがために、そこから輪廻肯定、永遠の因果肯定という誤った見解が生まれるというわけだ。
 他方出家はどうかといえば、そもそもが遊動生活を基盤にしていることもあり、思考も「有る」を前提にしていないのだから、空の説き方も自ずから在俗向けとは変わってくるのだ。
 すなわち、輪廻は無い、そもそもない。なぜかならすべては空だからだと説けば、出家者はそれできちんと空を理解できるということなのだ。そして、そもそも論として「輪廻はない」という言い方があるがために、そこから輪廻否定、永遠の因果否定という、これもまた誤った見解が生まれるということだ。

 このような在家向け、出家向けの説き方の違いは、初期仏典の『スッタニパータ』にもう既に見られる。しかし、そうした説き方の違いを詳細にわたって検討している人はまだ少ないのが現実のようだ。
 してそうした在家向け、出家向けの説き方にある相違をよく考えてみれば、ゴータマの思想が「常見」でも「断見」でもないことが見えてくるのだ。常見とは「有る」という考え、断見とは「無い」という考えだ。
 しかし、ゴータマが伝えんとしたことは「どちらでもなく、どちらともいえない」という「空」なわけだ。
 つまり、有でもなく無でもない。事象は瞬間瞬間起こっては滅している変化の連続である。これを「空」というのであるというのが、ゴータマの伝えんとした真理なわけだ。

 したがって、この世界そのものも、この世界に起こっている事象にも、固定されたもの(自性)は絶対に存在しないし、永遠なものも存在しないということだ。よって、この世界そのものも、この世界で起こっている事象も、すべて単体で存在するのではなく、相互依存あるいは相互補完といった関係性の上に瞬間瞬間に起こっては滅し、変化しつづける存在であるということだ。

 しかし、こうした「空観」をきちんと理解するのは至難なようだ。そして理解をさらに至難にしているのが、縁起と因果だろう。縁起によって起こってるんだから、それは原因と結果の相互作用だという間違った理解をしてしまうということだ。
 そうした誤解を憂いたのかどうかは知らないが、そうした誤解を解いてくれるのが、龍樹の著した『中論』なのだ。すなわち、縁起も因果もまた空。いやその空すら空だよと、龍樹はあらゆる見地から誤解を正そうとしたというわけだ。

 ではなぜ誤解するのか?

 此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。

 この言葉は、パーリ仏典の『自説経(ウダーナ)』にあるのだが、これをきちんと解釈できないからだ。特に、縁起と因果をこのウダーナにある言葉に当てはめようとすると、先入観によって誤解が生まれるからだ。

 わかりやすくするために、先に正しい解釈を述べてしまおう。
 つまり、この聖典の言葉は、共時性(シンクロニシティ)を述べているのだが、それを通時性で見てしまうゆえに誤解が生まれるということだ。特に因果という概念において、そういう誤解が生まれやすいのだ。

 共時性とは同時に存在しているということだ。
 したがって、この論理で因果を見るなら、原因と結果が同時に存在していることによって何かが起こっているとなるわけだ。

 ところが、人間は悲しいかな、基本的には時間と空間という概念を通してものを考え判断しているゆえに、この正しい因果の共時性を理解するのが難しいのだ。
 時間の流れがあるということを前提に因果を思考するために、原因があってそれにともなった結果が現れるという誤謬に陥るということだ。

 したがって、ゴータマの説いた縁起(空といいかえても差し支えはないが)は、原因と結果が同時に存在することで何かが起こっているということであり、その起こったことを結果であるとか、起こした根源が原因があるという通時性にもとづく見解ではないわけだ。縁という様々な要因が拠って起こったとしても、そこには所謂世間一般でいわれる原因や結果の法則はなく、あるように見えても、どれが原因でどれが結果かはわからないということだ。より正確にいえば、人間の認識できるのはそこまでだということになる。

 勿論こうした共時性は十二縁起にも適用できる。
 無明があって行が生じるのではなく、何らかの条件が整うことで、無明と行、それから識とつづく十二項目すべてが同時に存在し同時に起こっているというのが、ゴータマが本当に伝えたかった真実なわけだ。
 しかし、先にも述べたように、人間の認識能力は時間と空間によって縛られており、時間の流れが「ある」ということを前提にして思考が働かざるを得ないために、無明があるから行が起こり、その行が起こったことによって識がと説明したほうが、多くの人が理解しやすいと考え、そのように説かれたに過ぎないわけだ。

 だからこそ、そうした仏典にある文言から誤解が生まれたことに気づいたかどうかは知らないが、龍樹は『中論』を著し、縁起も因果も空。いやその空すら空である。このように全てを空と見るのが実はゴータマの伝えんとしたかった真理であると論じたわけだ。

 さてここからが問題だ。
 ようするにゴータマの言いたかったことはありとあらゆる事象は全て同時に起こり同時に存在しているということになるということだ。しかし、われわれ人間の認識能力には限界があり、同時に起こり同時に存在しているものをすべて同時に見ることはできないわけだ。その起こっている一部だけを切り取って見れるに過ぎないということだ。
 であるからといって、真理はすべて同時に起こり同時に存在するなら、それは永遠普遍であり常住じゃないかと考えてはいけないということだ。
 その同時に起こり同時に存在しているものも、一瞬たりとも変化を止めない「空」であるということだ。つまり空もまた空だと見るのが、ゴータマの辿りついた思考であろうし、龍樹のいう空観なのだ。
 
 ところが、しつこいようだが、人間の認識能力には限界があり、痛い、痒い、くすぐったい、熱い、楽しい、嬉しいといったあらゆる感情が同時に起こり同時に存在しているとは認識できないわけだ。したがって、痛いときは痛い、痒いときは痒い、そういうふうにしか感じられない。そしてそのことによって、苦しみや喜びがあると勘違いし、そうした一部を見て欲望を起こし、迷妄を追いかけているというわけだ。あるいは苦を嫌い、そこから逃れようとして逃避しているわけだ。
 しかし真理はそうではない。すべて同時に起こり、同時に存在しているのだから、痛いや痒いに差別はないわけだ。そしてそう世界を見れたなら、すべてが同時に存在しているのだから、痛いとか痒いという感覚は世界の一部であり、全体を見ればすべて存在しているのだから、不足が無いから欲もなくなり、痛いもなければ痒いもなく、世界の一部に執着することもない完璧な静寂、つまり涅槃だとか解脱と呼ばれる境地にいたれるということだ。

 しかし、これは嘘だ。なぜかなら解脱もまた空だからだ。解脱に至ったあと、その状態が固定され維持されることはないからだ。なぜって全てが空だからだ。
 したがって、解脱を目指せというのは「方便」の教えにすぎず、ゴータマが本当に知って欲しかった真理は「すべては空だ。空もまた空だ」ということなのだ。
 だから、大パリニッパーナ経にはこうある。
 
 諸々のことは移り行くものである。怠ることなく修行しなさい。

 これはまさに、解脱とか涅槃という境地が固定された持続的なものではなく、「空」であることを物語っているわけだ。

 この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切りだせるものはない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。
 そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいはまた別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味での因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
 世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。

(福岡伸一『世界は分けてもわからない』講談社現代新書)



 創価も、一応は「因果俱時」という言葉をつかっているが、共時性で見ておらず、通時性で見ている時点でOUTだ。
 いわんや、三世永遠の因果があるなんてのも、ものをありのままに見ておらず、空すらきちんと理解できていない証拠というわけだ。

 かてて加えて言うならば、三世永遠の生命の因果だとか、永遠普遍の生命の法則があるという思想は、キリスト教でいうところの絶対神というGODがあるという思想と何も変わらないということだ。
 日蓮は多分そういうこともわかっていたのだろう。だから『一生成仏抄』で、そうした絶対的なものがあると信じて仰ぐことは内道(仏教)ではなく、仏教を習いながら外道(永遠絶対の因果や法則)があるという迷妄に囚われることであり、それを「雖学仏教還同外見」と断じ、一応は退けているわけだ。
 しかし創価は池田氏が散々ありもしない風呂敷を広げ、永遠普遍の宇宙、生命の法則はあるとか言いまくったせいで、大聖人直結とかいいながら、「雖学仏教還同外見」に陥っているというわけだ。
 ただし、『一生成仏抄』に真蹟はなく写本はあるが、真偽未決であり、学者の判断は偽書という方向に傾いている。したがって、『一生成仏抄』から日蓮の真意を読み解こうとするのは危険といえるだろう。

 どちらにしても、日蓮の顕した曼陀羅を永遠絶対であるとか、日蓮個人を本有常住の本仏だと見るなら、本質的にそれは絶対的なGODを信仰の対象とするキリスト教(メシアによる救済思想)と何ら変わらないということだ。有神論だということだ。日本の大乗仏教なら、救済思想が色濃いのは浄土宗ということになろうか。だがしかし、創価、大石寺系の教義を疑わずに信じて信仰するなら、それもまた日蓮や曼荼羅に縋る救済思想にほかならないだろう。
 ゴータマ、龍樹が説き論じた、すべては空であるに反する教えであり、認識できないものをできたと思い込んで信仰する迷信に過ぎないということだ。
 だから、『スッタニパータ』には、

 そのような認識できないものを信じる迷信といえる思想すべてをさして、「信仰を捨てよ」とまで説かれているわけだ。したがってゴータマの教えに正しくのっとるなら、仏教は宗教でもなく、信仰でもないということだ。スマナサーラ長老が仏教は「実践心理学」といっている意味がわかろうというものだ。


 ともあれ、冒頭からの定住生活の話題に戻るが、ようするにもはや人類が定住生活から後戻りできないとしても、独りでも多くの人がこうした空観をきちんと理解するなら、人類に未来はあろうというお話しなわけだ。
 空を正しく説くことが人類にとって最大の貢献であるというところまで理解するのは容易ではないが。

 最後にもうひとつ。
 なぜ人は輪廻に陥って自らを苦しめるのかについて少し。
 殴られた、痛い。以上終わり、そのように起こったことを「ありのまま」に見れないからだ。こうした殴られた痛い、を通時性で見ることによって、殴られた、痛い、なぜ殴られなければいけない? 殴った理由は? その理由に至った経緯は?……というように、考えなくてもいい原因をどんどん根源へと自ら考え、そうして思考すればするほど嫌悪が湧き、それが怒りとなり、やがて憎悪となるような思考を自らしているからだ。
 馬鹿だよね、人間て。しかし気づいたからといって、一朝一夕に是正できるわけではないが、少なくとも、殴られた痛いで思考を止める努力はできるというわけだ。
 だから禅語には「歩く時は歩け、死ぬときは死ね」なんて趣旨のものがあるわけだ。

 そして、そういうことに気づいてみると、人類が絶滅しようが、地球が滅びようがただそれまでだよねとも思えるわけだ。
 ホモサピエンスだとか、地球という形体を維持できなくなったとしても、その本質は同時にどこかに存在しているのだから。もっともそう思考するのと、現実に地球環境や人類を破滅に導く行為をすることは別問題ですがね。ようは、同時に存在しているなら、どれが大事でどれが大事ではないという、一部だけを見て起こす差別が消えるのだから、そういう思想に則って生きれば自然、人類や地球、ひいては生きとしいけるものにとって慈悲深い生き方になるということだ。
 なぜそういう思考になるかといえば、これもまたゴータマの思想に由来するわけだ。経験則に基づく実際主義がそれだ。しかし注意しなくてはいけないのは、彼の言う経験則に基づく実際主義というのは、過去の経験から推しはかって、今これをやろうという実際主義ではなく、今起こっている現体験に基づく実際主義だということに注意が必要だろう。

 そしてまた、先に述べた差別を排しきった慈悲にそった生き方をしたとしても、人類が滅ぶときは滅ぶし、地球が粉々になるときはなると思っておけば、何も恐くないし、当然のこと死も恐くないのだ。いやそもそも、正しい空観で見るなら、死も生も同時に存在しているのだから、どっちかになることなどちっとも恐ろしいことでも何でもないということだ。
なぜかなら、仏の智慧というのは、生はある、死はないといったように分別せずに、すべてあるし、すべては一体不二だと見る無分別知だからだ。


THE POLICE / SYNCHRONICITY I

【参考までに】









植物は動物とまったく違った音を出して会話をしている

ipsilon at 13:46コメント(0) 
プロフィール

イプシロン(シンジ)

カテゴリ別アーカイブ
記事検索
最新コメント
ギャラリー
  • 小自分史(1)
  • Thank you my girl
  • 。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン
  • 勝利のアクビ
  • 一瞬の憩い
  • 笑顔は美しい
  • 4つ目の自分
  • 4つ目の自分
  • 3つの自分
  • アリイ 1:48 三菱零式艦上戦闘機52丙型(a6m5c)
  • ハセガワ 1/700 病院船「氷川丸」 竣工
  • フジミ 1/72 空技廠 零式小型水上偵察機(E14Y) 完成
  • ハセガワ 1/700 重巡洋艦「古鷹」 完成
  • スケッチ アミダラ女王
  • 静止した時間
  • 蝶
  • 祈り
  • チャム・ファウ
  • どこかのお家の猫ちゃん
  • 「みちくさ」
  • ザハロワは美しい!
  • デジ絵「星座と少女」(完成)
  • チュチュがじゃまだよ〜
  • アティチュード
  • 瀕死の白鳥
  • デジ絵「夏の風」(完成)
  • デジ絵「風」(完成)
  • デジ絵 ランカ・リー(完成)
  • 栗木さん 応援イラスト
  • イラスト「天使」
  • 水彩画 愛嶋リーナ 完成
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「graduation 」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「アメジストの祈り」
  • 水彩画(デジタルリタッチ)「初雪」
  • 水彩画 愛嶋リーナ
  • デッサン 愛嶋リーナ
  • 水彩画 アリスとネズミ
  • イラスト アリスとドロシー
  • イラスト 眠そうなネフェルタリ
  • スケッチ 微笑の国の人
  • なんでだろうう? と思うこと
  • スケッチ アソーカ・タノ
  • スケッチ ライオン
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG X-Wing fighter
  • 3DCG 缶コーヒー"カフェバニラ"
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • 3DCG 習作 インダストリアル物
  • スケッチ 騎士の左腕
  • アーソウカ、、だった!
  • スケッチ 懐かしのアイツ
  • ニャンとも言えない気持ち
  • 旧作 ペン画
  • デッサン ドイツ兵 in 1944
  • 水彩イラスト ニホンカモシカ
  • デッサン アフリカゾウ
  • 水彩画「水辺の豹」
  • 習作デッサン「豹」
  • 旧作 Gジャンガール
  • イラスト「蜜虫」
  • 「ネフェルタリと豹」下絵
  • イラスト「ネフェルタリ」
  • 水彩画 「装身具をといたクレオパトラ」
  • デッサン+色鉛筆 眼
  • スケッチ 「装身具をといたクレオパトラ」
  • 習作 ネフェルタリ 下書き
  • デッサン 眼
  • デッサン途中 布の研究
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • 旧作 F-4E"Phantom2 & F-5E"Tiger2"
  • デッサン チャイナドレスの子
  • スケッチ クレオパトラ
  • 水彩画 死せるクレオパトラ
  • スケッチ クレオパトラ
  • デッサン 小野田寛郎さん
  • デッサン 猫
  • デッサン Diane Kruger
  • デッサン ベッキー・クルーエル
  • デッサン 中澤裕子
  • ベッキー デッサン
  • 萌えキャラ 線画 修正 その1
  • 萌えキャラ 下塗り
  • デッサン 杉崎美香 8時間目
  • 習作 フォトショップ 萌えキャラ風塗り
  • デッサン 杉崎美香 6時間目
  • 欝
  • 習作 水彩 その1
  • デッサン 杉崎美香 4時間目
  • 習作 小池栄子 その1
  • 習作 杉崎美香 その4
  • 習作 Face
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 Formula 1
  • 習作 杉崎美香 その3
  • 習作 杉崎美香 その2
  • 習作 その4
  • 習作 杉崎美香 その1
  • 習作 その2
  • 習作 その1
  • 習作 その1
  • 習作 その1
  • 好き好き大好き
  • 電話中
  • βズガイキング
  • モー様の絵 ハケーン!(笑)
  • Mクン 見っけた!(笑)
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ