2018年10月

2018年10月26日

悟りというのは面白いもので、悟りたいと思えば思うほど悟りから遠ざかり、悩み迷うようになる。
これはわたしの体験である。
例えば読書と思索。あることに関して真理を知りたいと思い、幾冊も本を貪るように読む。そういうことをすればするほど、求めている真理が見えなくなったのだ。
で、「もういい、そんな真理なんか知らんでも生けていけるわい!!」と本を読むのをやめる。開き直る。
それでも時どき本を読みたくなり、本棚を見つめてなんとなく読みたい気分の本を読む。
そうすると、なんとなく手にとった本に散々苦労しても知れなかった、あるいは気づけなかった真理を見出してしまうわけだ。

わたしの場合、読書でそういう体験を何度もしてきたゆえに、禅僧がよくいうような悟ろうとすると悟れない。必死に努力したすえ「もう悟りなんてどうでもいい」とか「どうせ悟れやしないんだ」などと思い、ある種、無心無欲になった瞬間、どこからともなく、悟りのほうがこっちにやって来て、悟りの神秘的体験をするものだという感覚は体験的に理解してきたつもりだし。実際悟りや真理に気づくというのはそういうものだと確信している。
道元もそういうことを言っているし、実際体験した人であろう。

ようするに、悟りを求めたり真理を求めるということの根底には「欲望」があるのだ。
そしてゴータマが教えているようにそうした欲望に執着しないこと、離れることがいかに大事なことであるかは、こうしたことから理解できるということだ。

だからといって、はじめから悟りや真実に無頓着でいるなら、当然わたしが体験したような、悟りや真実のほうからやって来るなんてことも起きないというのが、なんとも心苦しいところなのだ。
だから、仏のことを「如来」、すなわち「来る如し」と呼ぶのは何も不思議なことではないのだ。

わたしの場合でいえば、貪るように本を読む時期ではなく、まったく読まないに等しい状態でなんとなく考えごとをしているときに真理に気づいたり、何かを探求する気なしに、なんとなく手にとった本から真理に気づいてきたというわけ。


そんな訳で、なんとなく手に取って改めて気づきがあったので、備忘録にとでも思って記事を書いておくことにした。
そういう切っ掛けをくれたのは、ひろさちや『釈迦物語』だ。
一応この物語は、釈迦の一生を経典から繙き、わかりやすく物語にしたものなのだが、基本的には大乗の立場から書かれている。しかし、大乗的色合いは濃くとも、釈迦の神格化がどのように行われいるかが読みとれ、そうした裏読みをすることで人間ゴータマの生きざまも読みとれるようになっている。そういう意味では、大乗と小乗の中道をゆく物語として読むことができそうな、なかなか優れた、そしてとれも平易で読みやすい著作だといえるだろう。


さてでは、わたしがここのところ迷い悩んでいたことは何かといえば、ゴータマの仏教は基本出家向け。しかし、現代は俗世を無視して生きることは不可能。その点をどうゴータマの思想に見出していくかだった。
いわば出家と在家の問題だ。
ということで、まずはその話を記してみよう。

先に、少しづつ触れてきたが、ゴータマの教えには出家向けと在家向けがあるわけだ。
端的にいえば、出家には直接に縁起や空といった真実を説き、在家にはそうせず、戒を説き、その戒を守ると輪廻するにしても良いところに生れかわるという功徳を説いたうえで、それを理解し布施などの実践を求めていたわけだ。そうして準備が整い、在家者が出家する意志をもって出家したなら、そこで縁起や空という真実を教えるということなのだ。
こうした法の説き方をふつう、次第説法という。

大乗崇拝者からすれば、だから小乗は駄目なんだと言うのだろうがそうじゃあない。
常識で考えてみればい。小学生にいきなり大学生になってはじめて理解できることを教えないのと同じだ。
したがって次第説法というのは現実的な教理の説き方といえるわけだ。

いい換えるなら、宗教的真理を求めていない在家の人にいきなりそうした真理を説いても理解できないということをゴータマは見きわめられたからこそ、まずは真理によって救われる宗教とは何かを感じとれるようなことを教えたのだろう。宗教に興味がない人にそういう話をすると怒りだしたりするんだから、まずはじめは宗教の必要性に興味が湧いてくるような話をすればよいということだ。その典型が死んだらどうなると思う? という「輪廻思想」を持ちだすということなのだろう。

そうした次第説法のいくつかの項目が、「戒」であり、「輪廻(因果)論」であり、「布施」の勧めであろう。
戒は今でもよく知られている「不殺生戒」からはじまる五戒のことだ。

もちろん、この戒を守るということは、破ったら厳罰だ! とかいうストイック意味ではなく、よい習慣を身につけ、悪い習慣を捨て去っていく努力をしなさいというのが、戒を定める目的であると、ひろさんは注釈してましたがね。
宿業論なんてのは、この習慣が前世や来世にまで及んでいるという馬鹿げた思想なだけだ。
業=行為の集積。今生において自分が形作った悪い習慣に自分が苦しめられているということが真理なだけなのだが。

で、輪廻論。
これは先に説明したとおり、宗教の必要性に興味を湧かせるための方便なのだが、これはいささか罪深いと思える。
詳しくは説明しないが、ここで教えられる輪廻、すなわち因果論というのは、時間と空間があるという認識、つまり生きた人間ができる唯一実際的なものの認識にもとづいての因果論だということだからだ。
つまり、時間があるということを前提に因果を語るから、過去・現在・未来という時間の流れのなかで原因と条件が結びついて結果が現れるという思考になるのだが、これはゴータマが真に教えたい因果論、すなわち時間は存在しない。なおかつ原因と結果というものは同時に存在してそれらが結びあって縁起が起こっているので、縁起には原理的には原因と結果というものが存在しないということだからだ。
すべては同時に起こっている共時性こそ、ゴータマが辿りついた真理だからだ。

まあ、ほとんど全ての人はこういう因果の違いが理解できないのだが、無理もないのだ。
すなわち、ゴータマが真に説きたい真理というのは、人間には認識できない認識形態のなかにあるからだ。
つまり、ゴータマが真に説きたい真理は形而上学の範疇にあるということだ。
こうしたことから、仏教にも信じることでしか到達しえない部分があるので、宗教だと言うことはできるわけだ。

すなわち、ゴータマが真に説きたかった真理とは、いい換えるなら、人間は何をどうようにして認識し、その認識方法のどこに限界があるかなのだ(これはまさにカントが追求した命題だというわけ)。そしてその限界を超えられる可能性も示唆しているが、それは悟りという個人的な体験であるということなのだ。
より具体的にいうなら、人間の認識作用は、時間と空間に縛られ、あらゆるものを相対的に見ることしかできないということであり、これを縁起として説いたということだ。

わたしがあるということを認識するためには、わたし以外と対比してみてはじめてわたしがあるということを知れるということだ。世界があるのはわたしと世界という相対的な関係(主観と客観、あるいは主体と客体)があるから。そのようにしか認識できないのが人間。そしてそのようにしか認識できないからこそ、すべてが苦しみであるように見えると気づいたということだ。

したがって、悟りの世界、時間と空間という色眼鏡を外してものを見れば、真実の世界が見えるし、そういう見方をすれば苦も楽も何もなく見えるということだ。
しかし、そういう見方に到達することは、ふつうに考えればほぼ不可能なのだ。
なぜかなら、見るものと見られるものが一体になった状態がそうした視点だからだ。
よって、人間がそういう視座に至る方法は基本的には思考によるしかないのだ。
しかし、実際に体感する方法もあるのだ。それが瞑想であり、自分の心身に起こっていることが共時的である、同時多発的であると知ることなのだ。

すべてが同時に起こっているんだから、これが先に起こって、あれが後に起こったという時間というのは存在しないわけ。あるのは今だけということ。
だから根源的な時間というものは、われわれに起こっている新陳代謝そのものであり、無機物であるなら、その物質に起こっている腐蝕という変化そのものなわけだ。
しかし残念なことに、われわれの認識形態は見るものと見られるものという相対観においてしかものを認識できないし、自分の心身に起こっていることにしても、そのような見方しかできないから、根源的な時間とはなにかすら知ることができないわけだ。目玉が目玉自身を見れないのと同じ理由で、根源的に時間というものを知ることは出来ないというわけ。

で、人間がそのように相対観でしかものを認識できないなら、だったらいいさ、相対的に徹底的にこの世界を認識して、そうして観察したものが相対的なものでなく、表と裏はあるがそのものの本質は同じというふうに思考し、何を見てもそのような空観で認識できるようになるまで訓練すればええやん! というのが、おそらくゴータマのたどり着いた瞑想法だろう。
だから、止行や観行、あわせていえば止観という瞑想をしても、ゴータマがたどり着いた境地には至れないということだ。
まあそれでも、そういった昨今はやりのマインドフルネス瞑想をすれば、「今ここ」に生きる生き方が身につくであろうことはたぶん間違いない。

ともあれ、脳が信号を発して心臓が動いて血が流れというのを、われわれは普通、心臓が動くことによって血流が起こると、時間と空間の概念でもって見ているが、その見方が苦を生み輪廻思想を生み、虚偽に満ちた見方だということだ。
脳も心臓も血流も筋肉の運動も、内臓の運動も同時多発に起こっているというのが真に正しいものの見方だということだ。いってみれば、仏教というのはメタ認知の勧めなんですよ。
まあ、この話はこれくらいにしておこう。

つまりね、人間の認識には限界があり、他があることで自分を認識できるなら、なぜそういう他を批判したり排除したりなんていう非寛容なことができるの? 他があってのわたしじゃない。なのになんで批判し非難し、それが昂じれば相手を殺しさえすんの? ってのがわたしの一番いいたいことだ。


閑話休題――。
ようするに、ゴータマの教え方には差別があったに戻ろう。
でもって、在家向けの入門が「戒」「輪廻」「布施」だったということ。
もっとも、これは出家との関係性で見るとそうなるというだけ。

すなわち、出家・在家という双方があるから、出家は在家と比較して、出家とはいかなるものかを知れるし、在家はその逆で、出家があるから在家とはいかなるものかを正確に知れるということ。
つまり、出家と在家は車の両輪であるということだ。
したがって、本当のゴータマの思想は出家と在家に差別はないということだ。
言い方を換えるなら、両方の立場を体験してはじめて、真理に到達するといえばいいだろう。

ではその出家はどうかというと、「律」でしか縛られてないわけだ。
「律」とは出家教団を維持していくためのルールだ。建物のなかに寝ないとか、服は在俗で不要となった糞尿衣であることとか、食は法を説く托鉢によって得ることとかそういう規則を律というわけ。
むろん、後になって在家との関係、例えば精舎などを寄進されれば、新たな規則が作られたり、変更されたりしたわけ。無論、不要になった律は廃棄されたわけだ。
昨今ではこういうものがごっちゃにされて「戒律」という言葉になってしまったりしているというわけ。仕方ないことではあるが、ようは在家と出家の線引きが曖昧になってということであり、別の言い方をするなら、出家者が俗化したということだ。
だから、わたしが悩んだ問題にはここに解決策があったわけだ。

律のなかに、出家は二十歳になってからとかいうのもあって、ああやっぱり仏教凄いなと思ったのだ。
出家だから俗世とは関係ないという思想ではなく、出家は社会的に責任を取れる年齢になってからという思想があったというのは凄いわけだ。したがって七歳以上で二十未満の(男子)で団体に入るものは沙弥と呼ばれる見習い僧という立場だったのだそうだ。
今の社会はそういう部分であまりにも年少者に対しての保護とか配慮が足りなすぎる、行き過ぎた放任自由主義だといえるだろう。あるいは、年少のうちから社会的な意義を押しつけ過ぎだといえばいいだろう。禅宗の僧侶、南直哉じきさいさんなんかもそう言ってましたがね。
というかこの方、根本の思想がハイデガーの現存在的なのが凄い。すべては縁起によって起こっている。だからわたし以外の存在からの影響をすべて引き受ける覚悟をもって生きるべきというね。

もっとも、出家する条件というのは、バラモン社会にもあって、それは妻帯して子供をもうけ、ある程度の社会的責任を果たしたものというのがあったわけで。いわばゴータマはそういう社会性を無視して出家したのではないし、出家したから在俗なんか関係ないという思想でもなかったわけだ。

まあ近代から現代へと向かうことによって、こうした古来あった社会性の理念より自由であることが尊ばれ、どんどん社会性や共同体が崩れ失われ、今やどうにもならないところまで来てしまったというのが悲しい現実なのだろう。

ともあれ、世間的なことは戒を守ろうと努力すればいいだけ、真理を追究する部分は律的に、自分にみあったルールを自分に課していけば、出家在家の別なくやっていけるじゃんと気づいたというわけ。まあスッタニパータの「犀の角のようにただ独り歩め」を読みかえしていた時に、「世間に背かず」ってあるのに気づいたんだけどね。
そして、こうしたことを現代の教団と社会に当てはめていい換えるなら、内部向けと外部向けという面をきちんと立て分けるということになろう。つまり、個人においても団体にあっても、戒と律の明確化が必要であろうということだ。

さて、創価さんにそれが出来ていたんでしょうかねぇ? 出来てないだろ。
確かに内部向けの資料とか外部向けとかあったが、それはバレちゃマズイ部分で区分けされていたのであって、ゴータマの思想にあるような、やがて真理に至るための方便と実語という立てわけであったとはとうてい思えないわけだ。

そのもっともわかりやすい証拠は、言論出版妨害問題だろう。
もし仮に創価がゴータマの思想に則って内外の立て分けをしてきたなら、別に外に漏れて困ることは何もないわけ。入門向けでない真理が入門者にいきわたれば、誤解を生む弊害はあっても、最終的には真理を説くんだから、とくに問題はない。誤解されたなら、丁寧に相手が納得できるように説明すればすむ話だ。
しかし創価はそうじゃなかった。
外に漏れてヤバイと見たものは、出版を妨害してでも邪魔しようとしたというわけ。
創価がいかに見栄や損得勘定で動いているかがこういうところで明快になるというわけ。


でもって「布施」と「慈善」。
もうね、この辺を読んでて大笑いしましたよ。

布施とは、相手になにかをさせてもらえることで、功徳を積めるから、布施した側、つまりこっちが感謝するという精神。
よく学会では供養の精神ということで話されてきた精神のこと。
で、「慈善」というのは、自分が何かしたことで相手に感謝されるべきという精神なわけだ。

創宗戦争の根底にあるものはなんですか?
あんなに供養してやったのに、宗門は堕落しているとかいう「慈善」の精神ではないか!

ま、ある人もそんな風に言ってましたね。
「あいつらは、諫言されたことで、むしろあたしに感謝すべきくらいだ」とかね。
どこにも布施の精神なんてなくて、あるのは慈善心だけって話だ。
だから、わたしは慈善とかボランティアとか嫌ってきたんだけどね。
自分がいいことをしてるという気持ちよさに酔うような傲慢さを感じとってたってわけ。
困ってる人の役に立たせてもらえた、ありがたい! 慈善やボランティにそういう気持ちを感じなかったんだな、小さい頃からずっとね。

いやそもそも、先に話したような縁起を創価の首脳部がまともに理解していれば、すべては関係性なんだから、宗門との関係があってはじめて創価は自分たちの思想や精神性がどんなものか認識できるわけ。
宗門もまた同じ。創価との関係性があってはじめて宗門は自分たちの思想や精神性がどんなものか認識できるわけ。
ま、そういうことすら気づかずに戦争おっぱじめたんだから、まともな人はどちらにもついていけるはずがないというわけ。
実質的に戦争をしかけたのは創価の側なんだけど、まあ狐と狸の化かしあいみたいなものでしょう。


仏教は深いですな。
布施も慈善も意味が違うんだからね。思い込みに頼らずちゃんと学ぶことがいかに大事なことか、わかろうというもの。

とにもかくにも、基礎や基本をないがしろにして、高い真理を探究するのには無理があるということに、改めて気づいたというわけだ。


そうそう、迫害に遭うことへのゴータマの考え方も素晴らしかったですよ。
自分が真理を説こうとするにあたって、相手からすると非人情に見えるようなことをしたから恨まれ憎まれ、嫌がらせされるんだから、耐えるしかないという考えなのだ。
法華経を正しく実践したから迫害に遭っているなんていう日蓮のような歪んだ解釈じゃあないのだ。

ま、確かに「そこまでして出家させたらそら恨まれるわな……」ってことしてたと経典にはあるみたいですよ。
両親が反対してても、娘連れ去って出家させたりとかしてるからね。
けどゴータマからすればそれが真実を説いて、その娘さんを悟りに到達させる一番の早道だったわけよね。
自分の国に帰ってきても奥さんに会おうともしない。会えばあったで、実子のラーフラを連れ去って出家させちゃう。そんな非人情なことしたら奥さんに恨まれてあたりまえでっせ! けど最後は奥さんも出家してるんだなぁ。糞尿衣を来て何百キロも釈迦のあとを追い、肉刺だらけ血だらけになって出家を願ったが、それでも釈迦は許さず、見かねたアーナンダが仲裁してようやく出家を許されたということらしい。釈迦からすれば、奥さんは出家する準備段階になかったのだろう。またそのアーナンダがお馬鹿さんで、釈迦が入滅した後になってもまだ悟れないってとこが面白いところ。釈迦の侍者を25年もやって、一番釈迦の説法を聞いてたというのに。こういうところに、冒頭で話した悟れる本質も秘められているわけだ。

ともあれ、そのように自分のした非人情なことで迫害されるというのがゴータマの考え方だということだ。迫害は自業自得だと見るのがゴータマの思想というわけ。そこに神秘的な宿業論なんて何一つないということ。

日蓮のように、自分は何も悪いことはしていないし、正しく法を説いているだけなのに、酷い迫害にあっているなんて思想はしてないということだ。いわんやそれを自己正当化になど利用してないのがゴータマ。迫害に遭う原因をどこかで自分が作ったのだから、耐えるべし! 迫害が止むまで耐えるべし! これがゴータマの思想なわけ。
いわんや、迫害してくる人を創価のように仏敵呼ばわりなんてしないのがゴータマの思想なわけだ。

そういう意味で考えると、ハイデガーの現存在にあったり、南直哉さんが言っているように、生きるということは「引き受ける覚悟」なんだということも納得できるのではないかな。
加えて言うなら、この直哉さんの「人生は答えを探すのではなく、どういう問いがどのように課せられているのかを見極めて考えていくこと」という思想も、ヴィクトール・フランクルの思想そのものなのであって、宮崎哲弥との対談を見ていて、南さん凄いなぁと感心したわけ。

けど南さんてさ、自分の思想を体系立てた先人が誰かとかそういった人たちの著作、つまり自己の思想を体系立てるにあたって参考にした出典をあんまり明らかにしてないから、嫌な感じだよねーなんて風なことをドイツ人僧侶のネルケ無方さんは言っていたりしますがね。
まあそれも一理あるけど大目に見てあげればいいんじゃないかなぁと。

ゲーテが言ってるように、人間には創造力がないのが本当であって、他者からの模倣や学びを通して、個々人が自己の思想を体系立てていくことしか出来ないのは知れたことだしね。そうしていくと、究極的には普遍性や永遠性が顕われてくるだけだからね。
昨今、「生産性」がどうのとか騒がれているが、人間には生産性なんてありゃしませんわ。
それさえわからずに批判したり議論してるとか、笑っちゃいますけどね。

赤ん坊を産むにしたって、人間が人間だけでなしてることじゃないわ。
人知を超えた何らかの力やら作用があってそういうことが起きてるだけ。
なにが「生産性」だ。馬鹿臭い。

ipsilon at 06:11コメント(0) 

2018年10月25日

ズバリいえば、真理を教えることが最も慈悲があるからだ。
しかし、多くの人はそういうものを求めていない。多くの人が求めているのは、情愛や優しくしてもらうことや、認めてもらえるという人情の面なのだ。

例えば、創価の場合。
新入会の人に「なぜ入会したのですか?」という質問をすると、大体まちがいなくこう答える。
「紹介者の人柄に惹かれてです」と。
つまり、こういうところに創価が真理を教える宗教ではない証拠があるわけだ。
人情によって人を惹きつけ、組織にとって都合のよい人を確保しているということだ。

こうしたことは創価に限らず、カリスマ的な新興宗教の中心者を見てみればわかる。
創価であるなら、牧口、戸田、池田という歴代会長は言い方を悪く言えば「人たらし」の面が強く、人情に訴える話し方を非常に得意としていたことがわかろう。
日蓮にしても同じだ。異常なまでの攻撃的な面がある一方、他方で自分の信徒や弟子檀那に対しては、非常にきめ細かい人情家の面を見せていたわけだから。
そして、多くの人は日蓮の語る真理よりもむしろ、そういった人情家のところに惹かれて、日蓮系の教えに染まっていくわけだ。
日蓮さんの生き様を見てみなよ。あんな人情に厚い生き方そうできないよ。困苦に耐えて云々……とね。

よく観察すれば、流行の先端を走るようなカリスマ性をもった人というのも、ある種、人情を刺激してやまない人であることが見えるはずだ。
ただし現代で流行るような人というのは、周囲がいかにもカリスマがあるように繕って売り出しているのだろう。

では次に、人情によって人が救われるかどうか考えてみよう。
無理だ――。例えどんなに仲のよい関係になろうと、親兄弟であろうと、ある人の苦悩に死ぬまで付き添い、寄り添ってあげることなどできないからだ。
したがって、その人がその人の力で自分の人生を生き抜いていくためには、真理を探究する道を歩みなさいと勧めることであり、もっと言うならば、本人自身が真理を探究していくという道を歩むことであり、ゴータマが涅槃経で言った「自灯明・法灯明」というのは、そういうことをさすわけだ。

ひらたく言えば、何を信じてもいいが、死ぬまで後悔しない生き方をしなさいということ。
人によっては、現実に生きることが物凄い苦痛で、死後極楽浄土にいける阿弥陀信仰を必要としてる場合もあるし、ひたすら坐禅を組むことに生きがいを感じる人もいれば、芸術に生きることで現実の苦悩の海を渡っていける人もいるわけ。キリスト信仰がないと生きられない人だっているし、イスラム信仰がないと生きられない人だっているの。だから、他人の宗教を批判して排斥すんじゃねーということ。
だから別に創価ぞっこんは悪いことだとは思っていない。だけど、やるなら自分たちの内輪だけやっとけ。人に勧めたり、押しつけてきたり他の宗教を批判すんじゃねーということだ。

ともあれ、非人情に生きたから無慈悲ではなく、むしろ真理に生きる手本となった、解脱後のゴータマの生こそ、最も慈悲深い生き方になるわけだ。
先に紹介したキサーゴータミーの説話なんかに、ゴータマのそういう生き方は如実でしょ。
人は必ず死ぬという真理を教えたの。それが最高の慈悲だからだよ。
「そうかそうか、可哀想に」とかいって、どっかから赤ん坊をさらってきて、サキーゴータミーに渡すような人情的なことはしてないんだよ。
「可哀想に、可哀想に」とかいって励ましてもいないし、慰めてもいないし、癒してやろうともしてないの。

まあこの「人は必ず死ぬ」というのは何度か話してきているハイデガーの現存在の話に通じるのであって、ようするに死んで何もかもが無になるということを知っていて、最後はそれを受けいれなければならないと知っていれば、生きていて起こり出会う全ての苦しい出来事も引き受け、受けいれざるを得ないものだとわかるでしょっていう仏教の思想に通じるわけだ。
いわんや、わたしという存在は誰かや何かとの関わりによって起こってることなんだから、一切合切全て、自分の思いどおりになんてなりませんよと気づいていれば、あとはそれを引き受けるか受けいれるかしかないわけ。
もちろん、拒否、断固拒否してもいいんだけど、最後は死というかたちで受け入れざるを得ないということだ。

なのに、受け容れることを拒んで、欲望のままに願いを叶えたいとかいう信仰やってれば、どんどん欲望が膨らんで苦しみが増えるだけだということだ。


しかし悲しいかな、人間というものは感情の生き物で、情を主体にして生きているような存在なのだ。
人に情をかけてもらえることで喜びを感じてしまう存在なのだ。
この社会を見てみれいい、「あの人はいい人」と呼ばれている人はたいがい、人の話を聞いて慰めたり褒めたりできる人情家であることが見えることだろう。
「どんな愚痴も笑って聞いてくれるからさ、Aちゃんはわたしの大親友!」なんていうようなものだ。

でも本当にそれでいいんですかねぇ?

ipsilon at 12:55コメント(0) 

2018年10月24日

まあそういうことなのだ。

そもそも佛教という文字の佛は「人にあらず」だからだ。意訳するなら「人でなし」となるからだ。
人間をやめて孤独なヒトになることを勧めているのが、ゴータマの思想だというわけ。
だから、困ってしまうわけだ。
もはや文明と切り離されて生きるすべがほとんどない社会にあって、人間を止めようとするのが仏教なのだから……。

昨今話題のマインドフルネス瞑想が瞑想難民を生んでいるらしいが、もっともだと思う。
ビジネスマンが社会生活を良くしようとして手にするのだろが、本来の仏教は俗世を捨てて出家し、悟りを目指す教えなのだから。仏教をもって社会を生きようとしたら、むしろ生き辛くなるに決まっているからだ。

瞑想をしてそれを社会生活に生かそうなんてしようとすれば、むしろ苦しみを増すだけだと知っておくことにも意味はあるだろう。いや、知っておいたほうがいいと思う。
社会活動は社会活動、それとは隔絶した私生活に仏教や瞑想を役立てる。そういうやり方がいいとわたしは確信している。
そんなどっちつかずは嫌だというなら、ニートになるか、仏教なんて一切顧みずに俗世で生きていけばいいだけだ。多分、中途半端が一番苦しむことになるのだろう。

よく仏教を理解している人は――、
本来の仏教とは、一切衆生をすくような教えではなく、仏教を理解し仏道を歩み、悟りに到達したいと願う人向けの教えだということを知っているというわけ。それこそ小乗じゃねーか! と言われるだろうが、そうなのだから仕方がない。

大体において、生きとしいけるもの全てを救おうなんて考えは、気づいてみれば究極の高慢だとわかろうというもの。救われたいと願う人だけに手を差し伸べる。それの何が悪いんだ? 俗世を捨てて苦労してまで救われたいと本気で思ってもいないのに、単に差別意識をもって、「お前らだけ悟りに至れるとか不公平だ」なんて言ってる権利乞食みたいな奴らを救ってやる必要なはいんだよ。
世界広布だの一切衆生の幸福だとかいう思想は、本来のゴータマの教えではないということだ。

だからスッタニパータには「犀の角のようにただ独り歩め」とあるのだ。

誰かと関わって人生を豊かにしていきたいと思うなら、仏教など真面目に学ばないほうがよろしい。

まあ、原始仏教とテーラワーダ仏教はまた違う内容らしいですがね。
でも、こういう本は読んで損はないかもしれませんね。



まあ読んでなんかあったからといってわたしは責任持ちませんけどね。
言うべきことはほぼいった。このブログの使命もそろそろ尽きることだろう。

あんまり紹介したくはないが、この方もよく勉強されていますよ。

このページなんかも勉強になりますかね。

名前をつけることで生じる弊害なども、この方はよーくわかってらっっしゃりますわ。


後世の仏教徒が抱く「温かいブッダ」像は、ゴータマ・ブッダの本性とまったく合致しない。非人情こそ、ゴータマ・ブッダが仏教を興した天才的な根拠にほかならないのである。
ちなみにこう書くと、ではゴータマは冷たかったのか、と反発されるかもしれない。それこそ誤解で、ゴータマ・ブッダが温かくも冷たくもない、つまり、温かいとか冷たいとかいう人情がらみのことを、はるかに超越しているのだと、深く深く理解しなければならないであろう。

宮元啓一『ブッダが考えたこと』


つまり、ゴータマが最優先したのは優しさや温かみや慈悲だとか救いだとかいった人情ではなく、真理=のり=ダルマだということだ。
ちなみに、晩年の夏目漱石はゴータマと同じように非人情に生きようとしたということだ。

ipsilon at 16:19コメント(0) 
いわゆる日蓮系の言うところの諸天善神という思想の起源は、恐らくこの陀羅尼品によるものである。
なぜかなら、この陀羅尼品では、正しく法華経を理解し実践し、化他に励むなら、ヒンドゥー教の神々すらも法華経の行者を守護するという内容だらかである。
こういう拡大解釈は日蓮独自のものではなく、天台宗や真言宗にもあったもので、日蓮はそういう思想をそのまま自宗にもちこんでいる一面もあるというわけ。

だから、法華経信仰、なかんずく唱題行というのは、南無妙法蓮華経という陀羅尼、すなわち神仏にしかわからない秘伝の呪文を唱えることによって、様々な神々が法華経の行者を守護するというものなわけだ。

わたしに言わせれば、随分と自分勝手な解釈だということになる。

実際、陀羅尼品にはヒンドゥーの聖典『バガバット・ギーター』の韻文がそのまま転載されている。
わたしは、一応は勉強のためと思い、『バガバット・ギーター』は一読したが、ヒンドゥーはご存知の通り、カーストを肯定し、輪廻も肯定している思想なわけだ。
ちなみに言うならば、ヒンドゥーの聖典の精髄は『バガバット・ギーター』なのだが、それを含む膨大な物語は、ある氏族が栄えていくうちに、本家と分家みたいになり、やがて双方が戦争を起こす。戦いは決着がつき、一応の平穏は訪れるが、結局本家も分家もその氏族は最後には一人残らず滅亡するという内容になっている。
まあ、人間の悪性をそのまま説いたような内容といっていい。で、『バガバット・ギーター』はその戦争の場面で、重要な教理を説く部分にあたっているわけだ。すなわちカーストの肯定、行為としてのヨガ、信仰としてのヨガ、輪廻と解脱などが説かれている。無論、この輪廻と解脱は仏教とは違い、いわゆるブラフマンとアートマンの合一を目指す、ウパニシャット哲学である。

しかし、そういうことを無視して、大乗仏教というのは、身勝手な解釈でヒンドゥーの神すら法華経の行者を守護すると無理矢理な解釈をしているわけだ。ちなみに自在天といわれる所謂、第六天の魔王はヒンドゥーの破壊と創造の神・シヴァのことだ。
もちろん、そのような考えによって仏教にとりいれられた神々は多数あり、法華経信仰、なかんずく日蓮の曼陀羅を見ればわかるが、ゴータマが一応は否定したバラモン教の神々も、日本の神々も入っているわけだ。

いうなれば、久遠実成の釈尊というかたちで、釈迦を神格化して、神仏の最高位に置くことで、その他のあらゆる宗教の神々が法華経を守護すると解釈しているわけだ。
そしてそういう効能のある呪文、真言、マントラ、陀羅尼こそ南無妙法蓮華経だというのが日蓮の解釈だということだ。

わたしなど、そもそも一人の人間を神格化している時点で宗教として終わってると思うのだが、そのうえ他宗教の神々を守護神とするために、久遠実成の釈尊を神のなかの神、最上位の神にしてしまっているというわけだ。随分と自分勝手な法華経肯定のための解釈だとしか思えない。
そもそもゴータマの思想は無神論といっていいものですからね。だってすべては縁起によって起こっている。だから世界は空だというのが彼の根本思想ですからね。

そして、繰り返し唱えているあの題目というのは、(偽書の疑いが濃厚な)『御義口伝』にははっきりあるが、
「南無妙法蓮華経は陀羅尼である」とあるわけだ。
しかし、他方『唱法華題目抄(真蹟はなし、断片写本があると言われている)』では「利根と通力とにはよるべからず」などと矛盾したことを日蓮は言っているわけだ。
いやそもそも、釈尊を神格化して、祈ることによって様ざまな神々が法華経を守護するというのは、その日蓮が否定している、利根と通力、つまり神通力という形で、あらゆる神々が法華経の行者を守護するという思想にほかならないのだが……。

まあこのように、真面目に大乗仏教や法華経や日蓮の思想をおっていくと、どう考えてみてもこれは仏教ではないとしか思えないというわけだ。

いくら日蓮の真蹟遺文を真摯に読んで、曼荼羅に向かってする勤行・唱題は一心三観の止観行であると思おうとしたところで、その曼陀羅自体が密教という呪術・加持祈祷の道具だし、そこに書かれている神々は、バラモン教やヒンドゥ―教の神々なんだし、はては密教真言で使われる梵字で愛染だ不動明王だの書かれていたら、その曼陀羅を拝して一心三観の止観行にはならないだろうというのが、わたしの見解だ。

日天も月天も毘沙門天も、みんなバラモン教の神だ。
こうなると日蓮の言うところの題目というのは、久遠実成の釈尊を主神として八百万の神々を崇めているようなものなわけだ。一種のアニミズムとそう変わりはないとも言えるわけだ。

まあそういう原始宗教が悪いとは言いませんが。
だがそういうのは非合理的かつ、超神秘的な霊魂や精霊の存在を信じる、ある種の呪術信仰であるということくらい知っておいても損はないだろう。

仮に、久遠実成の釈尊を人本尊とするなら、当然、法本尊は南無妙法蓮華経という題目になろうが、それは人間には理解できず、神々にしか理解できない陀羅尼なんでしょ。なんで日蓮はそれが法本尊だってわかったの? ああ、日蓮は本仏だもんねぇ。人間に理解できないものが理解できたんだもんね。
いや理解できたのではなく、信じることによって感得したのだとでも言うの? だとしたら日蓮は本仏でも何でもないよねぇ。
まあこの辺のことを妄信的な創価の人や日蓮系の人々にきちんと説明してもらいいものだが。
所詮、信じることでしか理解できない、だから経典にも「其智慧門 難解難入」だとあるじゃないか! くらいしか言えないんでしょ。あるいは以信代慧だとでも言うのかな。

そしてそういうものは、ゴータマの開いた合理的現実主義にのっとる実践哲学(瞑想)とはほど遠いものだということだ。
すべては縁起によって起こっている。その起こっている原理を知り、起こることを抑制できるならば、苦悩も、一瞬で消える儚い幸福も生ずることもなければ滅することもないというのが、彼の思想だからだ。
まあ本当のことを言うなら、苦悩の多いのが苦痛、苦悩の少ないのが幸福なだけで、所詮は一切皆苦なだけだけどね。多い少ないを両極に見て、これは苦痛、これは快楽だと思い込んでるだけでしょ。

だから、正しい仏教思想に近似しているショウペンハウエルの思想では、善とは苦痛のない状態だと言っているわけ。


そうそう、それから「即身成仏」というのも、もとは密教だ。
陀羅尼やら真言やらマントラを唱えれば即身成仏できるという思想がそれだ。
この密教は言ってみれば堕落しまくった仏教ともいえて、女が股を開いてる曼荼羅に向かって陀羅尼を唱えるようなところまで仏教を堕落させたというわけ。
もっとも、日蓮だってそう変わらず、遺文では「性行為するときは南無妙法蓮華経と唱えるといい」とか言ってるわけ。
ヒンドゥーのシヴァ神のシンボルは男根なんだけど、そこに破壊と創造を見てるもの面白いんだけどね。あんまりそういうことに耽ると人格破壊しちゃうけど、そういう行為はまたこの世界に新しい命を生みだす最高の創造でもあるとでも見たのだろう。
ともあれ、密教が仏教を堕落させたという意味では真言亡国といった日蓮の気持ちはわかるが、そう言った本人も自分の思想に密教を取り入れているというわけだ。

で、初期仏教というかゴータマが悟りを目指していたときはどうかといえば、こうした密教とは正反対の禁欲的な修行をしたわけだ。
すなわちシュペンハウァーのいうところの意志というのは、生きんとする意志であるから、最も強い生きんとする意志というのは、あらたに個体生命体を生み出そうとする性欲にあると考え、禁欲修行をしたわけ。
で、その次に強い生きんとする意志が飲食欲だと考え、断食したというわけ。
生きんとする意志といきなんとする意志の均衡を具体的に保とうとする考え方としては、禁欲による苦行はそう非合理ではないということだ。

むろんこうした苦行でゴータマは悟りに至れず、無意味だと苦行をやめて、思索し徹底的に苦の根源を合理的に考えたということ。
こうした合理的思索のすえに導き出された縁起論と、陀羅尼を唱えれば即身成仏できるという思想を比べて、どちらを選ぶかと聞かれたら、わたしなら間違いなくゴータマの思想を選ぶというわけだ。

ipsilon at 12:53コメント(0) 

2018年10月23日

さて、おおよそショウペンハウエルの思想は紹介したので、次はハイデガーにうつろう。
わたしは自堕落なので彼の主著『存在と時間』は未読だが、その内容は大枠学んだつもりでいる。

で、なぜハイデガーかといえば、ゴータマの思想に非常に酷似しているからだ。
それが存在論における「現存在」という考え方だ。

先の記事で少し触れたが、いわゆる大乗仏教というのは、歴史上の人物ゴータマを久遠実成の釈尊と神格化して、その釈尊に祈祷することで御利益を得ようという信仰だ。
歴史上のイエスを救世主キリストと見て、神格化して祈るのと本質的には何も変わらないないといっていいだろう。
ゴータマの言い残した自灯明でも何でもないというわけだ。
久遠実成の釈尊にしろキリスト信仰にしろ、日蓮を神格化して本仏にして祈るにしろ、それは自己という存在に期待せず、他力本願を願う思想であるといって過言はないだろう。

日蓮にしてもこのようなものだ――。
釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり 我を助け給へと観念せさせ給うべし(弥三郎殿御書)

とはいえ、この「弥三郎殿御書」には真蹟は存在せず、まず間違いなく偽書といっていい類のものだ。
かくいうわたしも、バリ勤行唱題していた時期は創価をそのまま信じて、苦しいときはこの御文を念じたものだが、今考えてみると、馬鹿なことをしていたと思うばかりだ。

つまり、こうした偽書の臭いがぷんぷんするような御書にある内容は大体において、日蓮が唱題行に見ていただろう、一心三観の止観の修行よりも密教的な祈祷を前面に出しているわけだ。
どこの誰が偽作したのかはわからないが、そこにある思惑は知れるというものだ。
難しい法理を説明できない僧侶どもが、とにかく祈ってれば御利益があることにしておけば、俺たち僧侶も適当にやっててすむし、信者だって救われるんじゃないの。本当に救われるかどうかは別として、心の支えくらいにはなんだろとでも思って偽作したのではないかと穿ちたくもなるものだ。

ではなぜこうした他力本願なものが馬鹿らしいのか。
簡単なことです、自分の身に起きることは自分が引き受けるしかないのが当然だと気づいたからだ。
しかしだからといって、例の願兼於業のような宿業論をわたしは肯定しないし、昨今も社会で安易に使われている「すべて自己責任」という考えもしていない。自業自得という言葉も嫌いだ。
なぜかなら、願兼於業にしろ自己責任にしろ自業自得にしろ、世界で起こっていることの全ての責任までも一個人の責任にして見るような風潮を生みだしかねないからだ。
そこで光輝いて見えたのが、ハイデガーの思想「現存在」なわけだ。

この現存在というのは、安易にいってしまえば「わたし」のことなのだが、ハイデガーはあえてそういう安易な表現を避けている点が重要なのだ。

つまり、わたしという現存在は世界という存在内の存在であり、なおかつ現存在であるという考え方をしたわけだ。
わけがわからない……まあそうですよね。

つまり、世界で起こっていることすべてになど責任は持ちようがないが、そうであっても、われわれは世界との関係性において自己を認識し確立し、それにもとづいて自分はこれこれこうしたいと思う存在であるわけだ。
したがって、世界そのものについて責任を持つことはできなくとも、わたしをわたしたらしめる様々な事象や出来事と関わってわたしを確立している以上、そこで起こる色々なあれやこれに責任をもつ必要のある存在が現存在だとハイデガーは言っているのだ。

願兼於業や自己責任や自業自得とおんなじやんと思うかもしれないが、少し違う。
前者は、とにもかくにも本人に責任を追及しているが、後者は、関係性によって確立されるところのわたしにまつわるものに責任があるという考え方だ。

もっとも責任というと重くなりすぎるので、起こったことを引き受ける覚悟をもつべき存在が現存在だと言えばわかりやすいだろう。

これと似た思想を提示しているのが、『夜と霧』の著者、ナチスの強制収容所を生きのびた、ヴィクトール・E・フランクルだ。

そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。
我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのです。


つまり、ハイデガーの「現存在」という考え方は、このフランクルの提示した生き方そのものであるといって過言はないわけだ。

俺の人生に何の意味があるんだ? 俺はこれこれこういう風に生きることに意味があると思ってるのに、どうもそのようにいっていないと今のわたしも考えがちだが、そうではなく、今自分の身や眼のまえで起こっていることに意味を見出し、それを引き受ける覚悟をもって生きるのが、正しい生き方であり、現存在の正しいあり方だということだ。

つまり現存在とは、宮台氏の提示した表現を拝借するなら、他律的自立だということだ。はじめに世界がってその世界との関係性にあってわたしがどう生きるかを選択せざるを得ない存在だということだ。
われわれは、すべて自分の自由になり、思いどおりに生きることが出来るといった自律的自立という存在ではないということだ。

例えば、道端で人が倒れていたとしよう。
俺は俺の人生を思いどおりに生きたいだけ。そう思って生きているなら、倒れている人を見ても容易に素通りできるだろう。これが自律的自立の生き方だ。しかし、フランクルやハイデガーの思想にのっとって生きるなら、決してそうはならない。
道端で人が倒れている現実を感じているわたし=現存在が今ここにある。さてわたしの出来ること、引き受けざるを得ないことはなにか? そう考え、倒れている人を助けようとするだろう。助けられるられないという結果は別としても、現存在は助けるようとすることを引き受けることが出来るわけだ。もちろん、こうした関係性を知っているうえで見てみぬ振りをする選択も可能なのだが……。
ともあれ、これがハイデガーの現存在という考え方だ。

助けられるられないという結果や責任が重要なのではない。今我が身にあるいは目の前で起こっていることを引き受ける覚悟をもって生きざるを得ないのが、人間存在だというのがハイデガーの考え方なのだ。
そしてこれは、ゴータマが悟りに到達したあとにとった、現実主義とほとんど一致する生き方といっていいのだ。
「毒矢の譬え」という仏教説話など、現存在としての人間のあり方をあますことなく語っていると思うのだ。

人間はみな死ぬということを知らないで、我が子の死を受けいれられない母親、キサーゴータミーの説話などは、ハイデガーのいう現存在を余すことなく語っているといっていいだろう。
われわれ現存在は、誰もが死ぬ。その前提を受けいれ引き受けざるを得ないのが現存在というわたしであり、われわれだということだ。
キサーゴータミーの説話は、そういうことを非常にわかりやすく教えているというわけだ。
リンク先にある文章を読むと感動しますね。苦しむことで悟りに至る。

私がカピラ城の王子の時代、すべてのものが満たされていたが、それでも苦悩から逃れる事は出来なかった。キサーゴータミーは裕福な家に嫁ぎ、夫と子の愛を受けたが、姑という苦悩が付きまとっていた。私は自分から出家して苦行をしたが、キサーゴータミーは夫を亡くし、子を亡くして私の下に来た。そして私の言うとおり死者のいない家を捜し歩いた。おそらくキサーゴータミーは、私が九年間してきた苦行、いやそれ以上の苦行を味わったであろう。食べ物も食べず、ただひたすらに家々を回り死者のいない家を捜し歩いたのである。何も考えずただひたすらに家々を回ったキサーゴータミーは、私が行った苦行と禅定と同じである。最初は子供のために護摩を捜し求めたが、次第に身を持って我を無くし、無我の境地に入る事が出来たのである。生きる事は苦であり、その苦は愛により生ずる。人間がいつかは死なねばならない以上、何時か愛は終わり、苦しみが始まるのである。この事をキサーゴータミーは身を持って理解したのである。この苦しみから逃れるには無の境地を悟らねばならない。キサーゴータミーは必死に死人のいない家を探すという事で、この無の境地を理解した。その無の境地こそ仏の境地である。そして仏の境地に達した時、キサーゴータミーはやっと死を受け入れる事が出来、菩薩に成ったのである。悟りは言葉で伝えることはできない。キサーゴータミーのように身をもって修行して、はじめて悟る事が出来るのだ。

ちなみに、この時代のインドでは護摩はどこの家庭にもあるありふれたものだったのだそうだ。

だから、ハイデガーの現存在という思想は――
起こったことを引き受ける覚悟を担った存在であり、耳障りのよい言い方をするなら、常に可能性が開かれていて、それをどう理解するかを問われている存在だと言えるわけだ。
なぜそういう思想になるかといえば、人間には知性があり、我が身あるいは目の前で起こったことに対応できる高い知性をもった存在だからだ。
苦悩を厭なものと理解するもよし、苦悩こそ悟りへの道と理解するもよしだということだ。

したがって、自分の人生を思いどおりに生きたいなどというのが、人間存在の本性ではないということだ。

そうして考えてゆくと、われわれが生きるにあたって苦悩する理由もわかろうというものだ。
個人的な苦悩から真理を追い求めているうちに、全人類、ひいては生きとしいけるものすべてが幸福になるありかたを自然に問うようになるのが人間存在――現存在――だというわけだ。

だから人間は知性も高度であるが、様々な生物のなかで苦痛や苦悩もまた最大の存在、現存在としてこの世界に生れてくるということだ。

人間はそのような存在であるのに、神格化した神だの仏にすがってどうすんだ? というのが今のわたしの思想だ。祈りを叶えるのが宗教ではないのだ。神や仏にすがるのが信仰ではないのだ。


人生の意義に答えるのが宗教だ。アルベルト・アインシュタイン

ipsilon at 11:32コメント(0) 
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