2018年11月

2018年11月27日

 それはゲーテが『イタリア紀行(下)』のなかで、自分を見つめていった言葉だ。

 素質は十分にありながら作成し成就したものはいくらもないという結果になっている。精神力の強制によって無理矢理になされるか、幸運と偶然とに支配されて成功したり失敗したりする場合は別として、事物を十分に熟慮してなさんとする時には、いつも私は恐ろしくなって、やり遂げることができなかったのだ。もう一つのこれに近似した欠陥は、仕事や業務に対して、私がそれに必要なだけの時間を十分に費やそうとしなかったことである。私は短時間に非常に多くのことを考えかつ結合し得る天与の幸を享受しているために、一歩一歩事を進めるということは、私にとって退屈で堪らないのである。だが今や自らを匡正きょうせいすべき時がきたのではないかと考えている。


 そう長い文章ではないが、ゲーテが自分を真摯に見つめて紡ぎだした語句の隅々には、鮮烈さが漲っているといえるだろう。素質というのは才能とは違い、誰にでも備わっているものだとわたしは読んだ。よく才能は自分のなかにあると捉えられがちだが、わたしはそうは思わない。才能とは他者と関わっていくなかで、互いの中から引き出しあい、または引き出されていくものだと信じている。しかし素質は個々人誰のなかにでもあると思う。
 また、後半部分でゲーテは「天与の幸」という言葉をつかっているが、これも天才だけに与えられたという意味ではないだろう。誰しもに天から与えられた幸、すなわち生命とか生きているという幸運が与えられていると読むべきだろう。生きているからこそ考えることもできるし、考えたことを実行することもできるのだから。
 それからまた、前半部分で彼が「運命」の存在を肯定していることもわかろう。「精神力の強制によって無理矢理になされるか、幸運と偶然とに支配されて成功したり失敗したりする場合は別として」という部分がそれだ。
 しかし、自分の頭で考え、自分でそうしようとするということは、時間さえかければ、あるいは一歩一歩地道にやりぬいていけば必ずできると気づき、確信しているわけだ。天才といわれるゲーテにしてこの反省である。
 人生にあって最も大切なことは、時間がかかっても一歩一歩地道に、コツコツと事に取り組むことなのだ。

 なぜそいう地道な努力が退屈かといえば、人間は誰しも今やっていることに集中せずに、これをやることによって未来にこうなるかもしれないと恐れたり、あるいはこれをこうやるためにはこれだけの労力が必要だと考えてしまいすぎるからだろう。それが恐怖や退屈、あるいは面倒くささの正体だ。未来に対して考え過ぎたり、思いわずらったりするからだ。取りこし苦労が恐怖や退屈や面倒くささを呼び寄せるのだ。
 そんなわけで、このゲーテの言葉を読んでからは、「地道にやるしかない」とか、取りこし苦労をしている自分を見出したときは、「考え過ぎない、思い煩いすぎない。とりあえずやるんだよ」と自分に言い聞かせている。

ipsilon at 00:00コメント(4) 

2018年11月11日

ここのところ、本棚にある仏教関係の蔵書を読みなおしていて、様々なことを再発見している。
出家だ、在家だということを考える記事も書いてきたが、釈迦の思い描いた理想からすれば、出家、在家に拘ることがすでに執着だと気づいた。

では釈迦はどういう生き方を求めたのかといえば、遊行なのだ。
つまり彼は、出家であるとか在家であるなどという執着さえ捨てていたのだ。
出家であろうが、在家であろうが一か所に留まっていれば、その場所で起こったことや、その場所への愛着が湧き、それらから執着が生じる。だから釈迦は生涯にわたり伝道の旅、つまり遊行者であろうとしたということだ。イエスの生きざまもまたしかり、彼も伝道者たろうとしたのだ。

今でいうならば、定住という執着すらすてた自由な人だったということだ。
以前、定住することで起こる弊害――ようするに所有欲の肥大化と、備蓄による他者や自然界からの過剰な搾取とその備蓄を守ろうとすることで起こる争い――については記事を書いたので、なぜ定住に弊害があるかは詳しくは述べない。

つまり、突き詰めて言うならば、釈迦の思想と行動いうのは、いかなるものにも縛られない「自由」であるということを「悟り」であるとか「涅槃」であるとか言っていたということに気づいたのだ。

わかりやすくいうならば、釈迦の生きざまは、在家という社会に支えられた出家生活(遊牧)ではなく、在家という社会があろうがなかろうが、一か所にとどまらずに自由に生きていく(遊動)という生きざまなのだ。

欲望から完全に「自由」になる。

釈迦が目指したものは、この一点に尽きる。

ルソーが最重要視したのが「自由」であるところと一致するというわけだ。
インドのイギリスからの独立を、ただの政治形態の変化だと見ず、人間が欲望の支配から「自由」になることこそ本当の「独立」であると考えたガンジーの思想と一致するというわけだ。

人間よ、自己の欲望と向き合え。そして反省し、真理に従って行動せよ(ガンジー)


けれども、人間というものは生きている以上、欲望を捨てることなどほとんど不可能だ。というより不可能だ。だから道元も悟りになど到達できないのであり、悟りを目指しつづけることに意味があると言ったわけだ。無上道――上限のない道を歩むしかない、死ぬまで努力しつづける。まあそういうこだ。
したがって、現実的、具体的には、起こった欲望をすぐに叶えてやり、なるだけ何の欲望もない状態を維持していく努力を、釈迦は「道」として説いたわけだ。
したがって瞑想とか坐禅というものは、何の欲望ももっていない状態がどんなものかを感得するための修行法の一種であり、それによって完全に欲望を制しえるものではないということだ。
もちろん、瞑想や坐禅をする意味はあるが、それによって欲望のない状態になれるのではなく、理想の状態を感得し、そこを目指すための指標を自己の中に持つためのものだということになる。

そしてそこで大事になってくるのが、叶う欲望と叶わない欲望があるという見きわめであり、仮に叶うと思えたとしても、今すぐ出来るものと、ある程度の期間が必要なもの、あるいは、ある条件が整えば叶うということを見きわめていくことになる。

眠いのは寝ればおさまる。空腹は食べればおさまる。不潔感を抱いたら風呂に入ったり掃除したり着替えればればよい。ただそれだけ。ある曲が弾けるようになりたいなら、弾けるまで練習すればいいだけ。意外とシンプルなのだ。つまり、ゲーテのいうコツコツやるというのが重要なわけだ。

問題は、自己だけでは叶わない欲望に執着して、自己がどのような姿勢・態度を取るかにあるわけだ。
だから、本当に重要なのは自分が出来ると思えたところまで出来たことで納得するかどうか(相手が出来るだけの努力をしていると見て、承認してあげる見方)だということなわけだ。
しかし、まあ世の中を見ていると、そういう人はほぼいない。
大体、他人に文句を言ってみたり、批判に明け暮れているというわけ。
自己納得するために、他人を支配し思いどおりにしようとしているということだ。政治がその典型。残念なことだ……。
俺の言ってることが正しい、お前は間違っているという発言だって、結局は自己納得するための他者支配なわけだ。

一切の断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

という『スッタニパータ』にある言葉を理解すらしてないということだ。
俺が言ってることが正しいと「断定」したことによって、お前の言ってることは間違っているという思考が起こるということだ。

俺の思うことが俺の欲望を統御している。それだけ。あなたにはあなたの欲望があるから、あなたがそれを統御したいなら、自己解決しなさいというのが仏教の思想だわけだ。
これが自灯明、法灯明の意味だ。


ともあれ、昨今本屋でよく見かけるタイトルにこうした風潮が現れはじめている。
中谷 彰宏 『すぐやる人は、うまくいく。』といった本がその代表格だろう。

すぐやる、あるいはやれるやれないの見きわめが重要という思想は、実はM・ウェーバーなんかは政治において最も大切なこととして言っているわけだ。
「為政者はなした行為と結果に責任をもち、行為と結果を公表するのが大切である」と。
当たり前のことですがね。自他の関係性があって、他人がやったことでこちらが影響をうけるんだから、何をやってその結果こうなりましたなんて伝えるのは当たりまえなんです。
けど、それさえできずに嘘をついたり、対立候補の悪辣なデマとかを垂れ流してるのが現実ですがね。


ともあれ、仏教の教えの核心は「自由」である。
そしてまた、「すぐやる」ことによって欲望のない状態を維持していく修行であるわけだ。
あるいはまた、すぐにできないこと、できることを見きわめていることであり、自己の欲望を治める努力を出来る限りやったという自己納得にあるわけだ。

ところがどっこい、人間には三大欲求より遥かに強い、他人から承認されたいという自己認証欲求があるわけだ。
つまり、この欲望を統御しえる人こそ、ほんとうの自由人なのだ。
例え統御できないとしても、自己だけでは決して満たされない欲望を耐え忍ぶのが仏道でもあるわけだ。

したがって、社会で最も必要とされるのは、他者を承認するという行為・行動にあるのだが、まあこれがほとんど壊滅的にできなくなっているのが現代というか、人間社会というわけ。

ちなみに、仏教でいう「善」とは欲望のない状態だということも再発見しましたよ。
そりゃあそうだよね。
誰かに対して求めるものがない、あるいは誰かから求められていない。
お互いにとってこんな楽な関係はないからね。こんなプレッシャーのない状態が最高の境地だなんてこと、よく考えてみれば至極あたりまえなのだから。

ただそこに、いのち――。


ipsilon at 09:36コメント(0) 

2018年11月10日

この世界にはたった一つの真理しかないというのが釈迦の思想だ。
それは、『スッタニパータ』にはっきりと著されている。


世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。

これが、たった一つの仏教が説く真理だ。
つまり、永久のものはない。固定された存在もない。断定できることもない。もちろん永遠のものもないということ。いわゆる「諸行無常」。
それだけのことだ。

けど、こうしたことさえ理解できない似非仏教徒が巷には満ちあふれている。
そして、真理という断定できないものを、なんとか断定して言葉にしたものが真実だ。
これも、『スッタニパータ』にきちんと説かれている。

しからば、私は何を断定して説いたのであるか。「これは苦しみである」「これは苦しみの起こる原因である」「これは苦しみの消滅である」「これは苦しみの消滅に導く道である」ということを私は断定して説いたのである。

ここがその部分だ。

つまりこれは、いわゆる「四聖諦」のことだ。
しかし、そのように宗学的に考えてしまうと、この部分で説かれている「縁起」がいかなるものかを見失うのだろう。

こう考えればわかりやすいだろう。
「これは苦しみである」というのは、自分が苦しいと思考し感じているという、自分の思考や行為という条件づけ、、、、によって起こっている事象であると。
「これは苦しみの起こる原因である」というのは、自分が生きていることによって、何がしかを感じざるを得ないという根源的原因だ。
「これは苦しみの消滅である」というのは、ではその条件づけ、つまり苦しみに対する自分の思考や感じ方を変えれば、苦しみは苦しみではなくなるということだ。
そして、「これは苦しみの消滅に導く道である」というのは、そのように思考し条件づけるように思考し、実際に行為していくことだ、と。

似非仏教を語る人というのは、因果ばかり強調して、「縁(条件づけ)」をまったく無視しているというわけ。
つまり、ありとあらゆるものには、あらゆる結果を引き起こす原因を内存しているが、それらは条件づけされることによって起こるというのが縁起の思想なわけだ。
この条件づけを無視して、原因と結果だけで語っているのが似非仏教者だということだ。

例えば、殺人を犯した人の原因と結果だけみて、その人を悪人だと見做し、偉ぶり驕りたかぶって相手を責めるというのが、縁を無視した因果論者の見方だということだ。
もしも、正確に縁起を理解しているなら、そうした見方には決してならない。
なぜかなら、ある条件づけが整ったとしたら、誰でも殺人犯になる因をもっているというのが縁起の思想だからだ。
ゆえに、縁起を正しく知る人は、因果だけで他人やものごとを評価し、見下し、驕るようなことはしないというわけだ。

正しく縁起を知れば、自分だって、条件づけによっては、あいつと同じ間違いを犯すんだ……そういう謙虚さが自然に起こってくるというわけ。


このように、そもそもの仏教で説かれる縁起というのは、生きている人間についての考察であり真実を語っているのであり、死後の生命だとか、過去世だの未来世だのについては何一つ語っていないというわけだ。
まあ、そのように見てもいいのだが、そういうのは大乗仏教であり、釈迦の思想でもなんでもないということだ。

ipsilon at 17:42コメント(0) 
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