2018年12月

2018年12月31日

朝は素晴らしい。
前日や前々日に読み、思索したことが自分の中で体系的にまとまり、目覚めた瞬間に、それまでこんぐらがっていたものが、ほんとうに美しい調和をもって、「これが真理だ!」というように、突然閃くのだから。

ヨースタイン・ゴルデルの作品を読んで、あるいは読んでから、何度も目にした二つの言葉。
理性と感覚――。
すべてには二面性があって……量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで……美しさと悲しさは似ている、だからどちらの場合も涙がでる……ちょっとまてよ、今すごいことに気づきそうなんだけど……そういえば、ゴルデルはこういう脈絡のない連想のことを自由連想といってたってけ、そしてその連想は潜在意識に蓄積された抑圧を開放し、いってみれば意識や精神はより自由になると……んでも、潜在意識を真理と考えたらどうなる? ……あ! そうか、わかった!! そういうことか!!!

哲学者は理性と感覚をわけたけど、もとは一つのものだ。だったら美しいのと悲しいのは同じ感情なのか!? よく考えて!! いや間違いない。美しいと悲しいは同じ感情を違うように表現してるだけだから……美しいは理性的で、悲しは感覚的ってわけだ。正確にいえば、混じりあってるって感じだ。
いや間違いない! 涙が出るときの感情はほかに何がある? 嬉しい、(あまりに憎くて)悔しい、なるほどね、喜怒哀楽と別けられて考えられてる感情は同じ感情を違う言葉で表現してるだけなのね。ってことは、理性や感情や感覚は本当はたった一つしかないんじゃないの。そのたった一つの感覚をわれわれが世界という鏡に映して見ることによって、さまざまな感情や感覚や理性的思考として見てるだけってことじゃないの。

これを現実にあるものに例えるとしたら、どうなる? 万華鏡だろ。
人は万華鏡を覗いている存在。人が見ているの本当はたった一つのものだということ。万華鏡の中身はいつも本質的には変わらないってことだ。そして、人というただものを写すだけの鏡にうつすと、それこそ万華鏡のように様々な感情が顕われるという仕組みか!! そしてわれわれは、本当は一つのものを、一つとして同じものがないと見て、全く同じ人が存在しないと見てるってわけか!!!!! でも見てるものの本質はたった一つ。いつも変わらずそこにある。

そしてもうひとつ。万華鏡を回すことで見えるものが変わりつづけるというのは、われわれの生得感覚であり、すべては流れ去ると感じさせている時間という感覚だ。でも万華鏡の中、つまりぼくらが見ている世界という本質は何一つ変わらないし、いつもそこにあるんだ。あっちからこっちに移動しただけで、いつもそこにあるってわけだ。

仏教でこれを考えるとどうなる? 簡単だ。今まで学んできたことを活かすなら簡単だ。万華鏡の中にあるのは、原因と結果というビーズ玉だ。そのビーズは同時に同じところに存在している。本当は原因と結果も一体不二でたった一つのものだ。われわれが万華鏡を覗くことが縁だ。見えるのは、原因と結果が結びついて出来た模様だ。けどこの模様は毎回違って見える。毎回違うように感じるから、喜びと悲しみと美しさと悔しさは本当は同じ感情なのに、違うように感じてるだけだ。
だって、見てるものは本質はたった一つだからね。


もしも神がいて、神が人とこの世界をつくったとしたら、神は頭が良かったんだねぇ。
もしもわれわれが見れるのが世界にあるたった一つの真理だと知れるように生れてきたなら、たった一つしかない真理を見た。以上で人生の意味や価値はすべて終ったことになるからだ。けどわれわれはそういうことを知らないで生まれてくるし、知りえないで生きてるから、たった一つの真理を見ながら、それが喜びであるとか、悲しみであるとか、口惜しさであるとか、憎しみであるという様々な感情でそれを楽しめるってことだからね。全く同じ感情を二度と味わえないように感じるように作られてるわけだ。同じものを見てるのに、死ぬまで違ったものを見てるとずっと楽しめるってわだ。

この世界は素晴らしい!!

嬉しいときも、感動したときも、悲しいときも、苦しいときも、悔しいときも、痛いときも、ぼくらは涙をながす。
なぜ同じ反応が起こるのか? それは同じ感情を感じてるからでしょ。赤ちゃんのときは誰もがどんな感情も泣くことで表現していたはずなのに、大人になるとそういうことを忘れて、この感情は悲しいとか、この感情は怒りだとか思いこんじゃうわけだ。
僕らは、分類マニアみたいなもので、本当はたった一つの感情、つまりは「喜び」しかないものに、色々な感情の名前をつけて違うものだと思いこんでいるというわけだ。
残念なことに、その思いこみの激しさゆえに、同じものを同じように見てるはずなのに、「違うんだ!」
とか言い争って、あげく殺し合いまでする始末。


いやぁ、この世界は、そして人が生きてるってことは素晴らしいね!!

こういうことに気づいて何の意味があるのか?
あるんだなぁ。体験知、すなわち自分の頭で思索して導き出した答えは決して忘れることはないからだ。
人に聞かされてその時、飛び上がるくらい感動しても、それは体験知ではないから、いつか必ず忘れ去られる。
人から与えられる感動も大事だけどね。でもそれは疑似体験知なんだな。

だから五感をフル働かせながら感じることが大事。だから自分の感覚や理性をつかって思索することが大事。自分の頭で考えることが一番重要だってわけだ。

ipsilon at 11:10コメント(0) 

2018年12月30日

いやはや、素晴らしい本です。
4、5年前に読んだのだが、まったく違う感動や発見があって、とても楽しめた。
まああれです。読んでない人はすぐにでも読みなされ! と言いたくなる一冊です。

児童文学の範囲に入る作品だが、世界35か国語に翻訳されているほどのベストセラーであり、児童文学でいうなら、エンデの『モモ』『はてしない物語』についで、世界中で読まれている作品なのだそうだから。
しかし、ゴルデルの本音は14歳以上の大人に読んでもらいたいとのこと。
なぜって、大人は先入観の塊になっていて、あるがままにとか、柔軟にものを見れなくなってるからだそうだ。
生涯、子どもの感覚をもっていることが大事だということなのだろう。

あまりにも感じたことが多くて、困り果ててしまうのだが、少しばかり。
読書メーターの感想に長文を書くのは気がひけるので。

とにかく構成が素晴らしい。
冒頭から少しづつ進むミステリー風の小説部分は、はじめのうちは、いらないんじゃないと思えるのだが、この小説部分が中盤から壮大な展開になり、濃厚な意味をもちはじめる。そしてそれがそのまま、われわれの「存在」とはなにか? につながり、カント哲学で最高に盛り上がるあたりまで読めば、あとはもう勢いにまかせて読めるであろう作品だ。

いってしまえば、カント哲学が繙かれる場面にあわせて、恐らくわれわれが最も気になる問い、
「われわれは神に作られた操り人形であるのか? 自由意志はないのか? あるのか?」という問いを突き付けてくるというわけだ。

カント哲学以降は、この自由を様々な哲学者がどう考えたかが繙かれ、最後にはコペンハーゲン解釈、あるとかないといった「存在論」の答えは、量子力学の世界では「どちらともいえない」ということが証明されていると伝えてくる。実際の作品の中では、そういう答えを文字にはしてませんけどね。
でも、哲学史や物理学史をある程度知っている人なら、なぜ作中にコペンハーゲンを出してきたのかは洞察できるようになっているというわけだ。
ちなみに、コペンハーゲン解釈をいい換えるなら、「思考は現実化する」ということだ。

この世界はすべて二面性があって善悪とか生死があるように見える。
善が素晴らしくて、悪はどうしようもないも。あなたがそう思考すれば、あなたにとって世界はそうなる。世界の半分は素晴らしいが、世界の半分は、あなたにとって汚らわしくなるということ。
善はいいもの。悪も反面教師にして学べばいいもの。そう見れば、世界はまるごといいものになるというわけ。

wikiにある、コペンハーゲン解釈をよく読んでみればいい。そう書いてありますから。
量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測すると観測値に対応する状態に変化する(波束の収縮が起こる)と解釈する。

「観測者に対応する状態に変化する」ってのは、「思考は現実化する」と同義ですからね。
脳細胞の中でおこってる思考も、ミクロの視点でみれば、素粒子の運動ですからね。

ともあれ、『ソフィーの世界』の話に戻るが、これはまた、そのままわれわれと、われわれの見ている世界が「あるともないともいえない」ということこそが真実である。つまり、真実はわからない、その人が自分にいいように考えればいいということにであるわけだ。

もっとも、なんでも勝手に考えれられるわけではなく、人間の理性には限界があるのだが……。
そしてその限界をおおよそ提示したのがカントなのだから、やはりこの作品が最高潮に盛り上がるのはカント哲学が語られるあたりなのだろう。

われわれの理性は時間と空間というものさしで縛られた状態でしかものを認識できないにはじまり、われわれはものそれ自体を知ることはできないとか、われわれの理性にはものごとを因果律で見る能力が生まれつきあるために、すべてを因果で見てしまうが、決して知れないものそれ自体には因果律を適用できないとか、まあカントはやっぱ凄いわ……と唸ってしまったわけだ。

われわれは、一応デカルトが言ったように「自分がここにある」ということは感知できるが、われわれの身の回りのものは感知できないわけで、それはわれわれの感覚が作りあげた、印象でしかないとかね。
まあ、このことこそが一番驚愕すべきことなのだが……。
つまり、自分が生きているということは誰でもまず間違いなく感じられるが、他人が生きているのかどうかを知ることは決してできないということだからだ。
他人というのは、自分の意識にのぼった印象にすぎないからだ。

だって触れれば相手の体温感じるだろ!! バカかお前はと言いたいんでしょ。
その感じているのは、自分の手にある細胞が温度を感じとってるだけであって、あくまでもあなたの感覚があなたにもたらすものであり、相手がどのくらいの体温なのかは知れてるわけじゃないでしょ。

んま、こいうことは何度も書いてきたし、訴えてきたが、ほとんどの人は、深刻に受けとりもしないし、考えもしなかったみたいですがねぇ……。

でも、ヨースタイン・ゴルデルは違う。
本作の中でも環境世界ってのは夢みたいなものと書いているし、最後のガーデンパーティーが夏至に開かれるあたりの表現も心憎いのだ。

夏至、すなわちmidsummer。つまり、この世界で起こってることは、真夏の世の夢みたいなもんだよ。
この世界で確実なのは、あなたの感覚と感覚が捉えたものではあるが、それはあなた自身に対してしか適用できないというわけ。
夏至は一年で一番昼が長くなる日だが、北半球がそうなら、南半球では一番昼が短い日でもあるわけだ。
つまり、夏至は本当のところ「どちらともいえない」という例の一つだってわけ。
また夏至を聖ヨハネの夜ともいっているが、ヨハネは神イエスが生まれる前に現れた人で、神が現れることの暗示たる人だったわけだ。つまりゴルデルは聖ヨハネの夜で、神もけっきょく人間がつくった概念なんだろうけどねと、自分の考えを暗示しているわけだ。
ゴルデルさんは、芸が細かいんですね。

これらを知ったうえでどう生きるか、それが問題なのだ。
この世界はあるのか、ないのか。それが問題なのだ。
to be or not to be, that is the question. というわけだ。

んまあ、結論をいえばどう考えたっていいんですがね。
どう考えようが自由。
ただし、思考は現実化するということをお忘れなく!
けれども、思考(意識)には二種類あって、意識、無意識があり、実は自分が本当に望んでいるのは、無意識にあるらしいので、無意識を見ることが大事らしいですけどね。
まあ、そのあたりも『ソフィーの世界』は、フロイトを持ちだしてぬかりなく触れているので、読んでみるといいですよ。


人は可能性に対して常に開かれた存在である。かつそのうえで、可能性を理解(それが可能か不可能かを判断)することを任された存在だ
(ハイデガー)


ipsilon at 23:10コメント(2) 

2018年12月29日

さて、アリストテレスだ。困ったものだ。
なにが困るかといえば、アリストレスという人は、プラトンが開いた今でいう大学、アカデメイアの生徒だったのに、プラトンのイデア論を一部否定し、哲学の歴史に革新的な深化をもたらした人だからだ。

したがって、アリストテレスはプラトンのイデア論を否定したと説明されがちなのだが、そうともいえないのだ。
確かに一部否定はしているのだが、彼はプラトンのイデア論の正しい部分はきちんと継承しつつ革新したのだというのが、正しいプラトンとアリストテレスの関係性になるということを、しっかりと押さえておくべきだろう。

具体的に言えば、アリストテレスは、プラトンの理性至上主義をひっくりかえし、いやわれわれにとって最も重要なのは感覚世界という現実であり、その現実という環境からうける刺激によって、われわれは次第にイデアを形成しゆくものだ、と考えたということだ。
だからイデアそれ自体を否定したのではなく、最終的には、理性も大事、感覚も大事、どちらもほどよく大切にする「中庸」こそ肝要であると考えたということだ。

『ソフィーの世界』のアリストテレスの章で、こうしたことを伝えんとしているのが、この部分だろう。


アリストテレスは、現実は形相と質料が一体となってできたさまざまな個々のものから成り立っている、ということを打ち出した。「質料」はものをつくっている素材、「形相」は、そのものをそのものにしている固有の性質のことだ。
きみの前で一羽の鶏がはばたいているとするよ、ソフィー。鶏の形相とはまさにこの、はばたくことだ。それからコケコッコと鳴くこと、卵を産むことだ。鶏が死んだら、そしてコケコッコと鳴かなくなったら、その鶏に形相も存在することをやめてしまう。あとに残るのは鶏の質料、つまり素材だけだ。これはもう鶏ではない。
さっき言ったように、アリストテレスは自然界の変化に関心をよせたのだった。質料にはかならず内に秘めた特定の形相をとる可能性がある。質料は内に秘めた可能性を現実のものにしたがっている、と言っていい。自然界のあらゆる変化は、アリストテレスによれば、質料が可能性から現実に変化することだ、ということになる。


いやはや、なんとも素晴らしい考察だろうとう唸ってしまうくらいの思想だ。
人間には人間固有の質料、つまり骨格や筋肉や内臓、そして脳といった諸器官が具わり、それらはある意味では、人間の可能性の範囲を定めている。腕の関節が動く範囲には限度があり、走る速度にも限界があるというわけ。
しかし、その限度までは現実の感覚世界のなかで努力すれば、可能性ぎりぎりまで人間のもつ質料がもつ特性を発揮できるということだ。この特性をアリストテレスは形相と名づけたわけだ。
思考に関しても同じ。思考を深めていけば、人間の場合ほとんど神に等しいところまで思索できる能力を質料として与えられているのが人間だというわけだ。もちろんそれを現実に活かさなければ、質料は質料のままで、形相として顕われてくることはないということだ。

狼に育てられた人間なんかが、そういうことを証明しているといえよう。
人間である質料をもって生まれてきても、狼の暮らす環境で育てば、人間としての質料が人間としての形相にまで開花することはなく、狼のように暮らすことしか出来ないという具合だ。

したがって、アリストテレスのこの論理は、プラトンの言う、人間にも動物にも、もともと完全なイデアが刻まれているということをある意味で否定しているのだが、どっちも正しいことを言っているのだ。
それを説明するためには進化論を語らなければならないし、理解しなければならないのだが、ここでは割愛する。
簡単に繙くなら、人間の脳には植物や昆虫や魚など、あらゆる生物の脳がもつ性質があるということから、人間にはあらゆるイデアが刻まれているのはなぜかを考察してみて欲しい。
無論、人間に秘められたイデアは有機体だけに限られているわけではない。感覚のない髪や爪はいわば、石や砂の性質をもっていることを考えてみれば、恐らく納得できるだろう。

なぜそうなっているのか? それを語ると宗教的になるが、人間にあらゆる生物や無機物の質料が備わっているということは、人間は人間だけでなく、あらゆる存在が本性を発揮できるようにしていく責務を負わされている存在だからと考えるべきだろう。

しかし、そうしたイデアを秘めていて、それらを自らの生活にいかそうとするなら、その人が身を置いている環境が非常に重要だということを、アリストテレスは発見したわけだ。
いくら完全なイデアを秘めていたとしても、非人間的な、例えば奴隷以下の環境におかれたならば、その人がどんなに努力しようが、人間的にはなりえないということだ。

ともあれ、アリストテレスは素晴らしい。
植物であれ動物であれ人間であれ、それらはそれぞれの個性にみあった本性を最大限に発揮できる可能性を秘めており、その可能性をどれだけ開花させたかで、その植物、動物、そしてその人がいかに人間らしく生きたのかを量れるということを発見したのだから。
もちろんそれは同時に、環境によって可能性の開花が左右されざるを得ない運命性の肯定でもあったのだが。
しかし、人間の場合、自ら自己の本性を最大限に発揮できるように環境を変える能力も備わっているわけだ。
それゆえに人間は神に一番近いと言えるわけだ。
だが、そうした能力を過剰に使うことは、人間以外の動植物がそれぞれ本性を最大限に発揮することを妨げもするというわけだ。

俺たちがよりよく生きるために、こんな海、埋め立てて基地つくればいいんだよ。
なんてことをすると、その海で生きている動植物はそれぞれに見合った本性を開花できないどころか、その存在そのものを叩き潰されるというわけだ。
基地を作って武力で身を守ることが、はたして人間に備わった本性の可能性を有意義に開花させることだろうか?

何百回考えてみたところで、わたしはそんな風には思えないんだけどね。


ともあれ、アリストテレスはプラトンの理性偏重主義を正したのだといっていいだろう。
このプラトンとアリストテレスの違いを仏教に照らしあわせてみると面白い。

プラトンは原因と結果の法則で、原因を知ることこそ重要だと考えた。そして原因を正せば、おのずから結果も正されるとね。
原因と結果というのがしっくりこないなら、本体と影であるなら、本体である理性が大事だと考えたわけだ。
でも、アリストテレスは違った。
原因と結果ってのは確かにあるんだけど、その間に条件付け、仏教でいうところの縁があって、はじめて原因と結果だろと考えたというわけだ。人間に生れたという原因があるからといって、結果として人間だとは言えない。人間らしく生きられる環境と人間らしくあろうとする生き方という条件が整って、はじめて人間になると考えたといえるだろう。

釈迦も同じことを言っている。
生まれを問うことなかれ、行いを問え。
――とね。
つまり、いい換えるなら、プラトンは結果主義的であり、アリストテレスは過程重視の人だったといえるだろう。

重い病気で長く生きられないように生まれついた子どもにこのプラトン思考とアリストテレス思考を当てはめてみるといい。
重い病気で長く生きられないように生まれついたなら、そのようにしか生きられない。
これがプラトン的思考だ。
しかし、アリストテレスは違うし、仏教の縁起の思想もそういう思考には至らない。
重い病気で長く生きられないように生まれついたとしても、その人が、その人に備わった本性を思う存分開花させ発揮させれば、その人は幸福だということだ。

ホーキング博士は不幸だったんですか? ってことだ。
自分の本性を発揮したどころか、その本性の開花が他人にまで影響を与え、多くの人に喜びや励ましを与えたのだからね。

なににしろ興味深いのはアリストテレスの醍醐味が「中庸」にあることであり、仏教の醍醐味もまた「中道」にあるという点だろう。
したがって、仏教とこのギリシャ三哲人の思想を学べば、哲学の概要は勉強したといっていい。
その後の哲学は、仏教とギリシャ三哲人の思想を細分化したり、再構築したり、別の角度から述べているものがほとんどだからだ。

またギリシャ三哲人のなかでも、プラトンとアリストテレスは政治についても様々言及しており、政治学の基礎(最も優れているのが神のように有能な一人の王が統治する先制君主制、次が神まではいかなくとも、賢者くらいの少数のエリートが指導する貴族院制、その次が民主共和制であるという論理)を築いているので、そこも非常に勉強になる。むろん、メリットが多くなれば、デメリットも大きくなるので、現実には、メリット、デメリットの一番少ない共和民主制を仕方なく選んでいるというのが現実だということだ。

しかし、論理的な構築と現実の政治には大きなかい離があり、ほぼ理想といえる政治形態が現れるには今少し時間が必要だったようだ。
そう、ローマ初期の顔の見える範囲の直接自治的民主制、ルソーが『社会契約論』で述べている政治形態、これが現れるまでは、もう少し時間が必要だったのだ。


なぜ政治を嫌いながら政治に固執してるんだ、お前は?
と聞かれれば、こう答えるだろう。
どう個人で頑張ってみたところでそこには限界があり、より人間らしく生きようとするなら、社会を形作るしかないし、社会的な生き方のなかで人間性を磨くしかないというのが、プラトンやアリストテレスの思考でもあるからだ。その社会の土台になるのが国家だとさえ、彼らすらも考えていたからだ。
まともな社会環境があってはじめて人間であるという本性(崇高な人間として生きられる可能性)を存分に開花し、発揮できると考えざるをえないからだ。

紛争のただなかで生まれ、国家の体裁すらなく、政治などないようなところで生まれた人が、人間らしく生きられるだろうかと問うてみれば、自ずから答えらしきものに到達するはずだ。
しかしだからといって、個人より国家のほうが重要だとも考えてはいない。
どっちも大事。どちらかではなく、「中庸」であるとか「中道」であることが最も重要だということになろう。

ipsilon at 19:48コメント(0) 
プラトンの見出した重要な論理といえば、やはり「イデア論」なのだが、これを説明するのは面倒なので、そのまま抜粋してしまうが、そこは読み手が、「ということはイデア論というのは、こういう概念だな」と考えてみて欲しい。


哲学者は、よく言われるように、永遠で不変な何かをとらえようとするよね。たとえば今ここにあるしゃぼん玉について哲学的な文章を書くのは、あんまり意味のあることではないだろうな。その理由は、しゃぼん玉はふっと消えてしまうからきちんと研究できない、ということがまず一つ。二つめの理由は、誰も見ていない、ほんの数秒だけのものについて書かれた哲学的な文章を人に買ってもらうのは、たぶんむずかしからだ。

プラトンは、ぼくたちが身の回りの自然に見ているものはすべて、そう、ぼくたちが手でつかんだりさわったりできるものはすべて、しゃぼん玉のようなものと考えた。なぜなら、感覚世界にあるものはすべて、しゃぼん玉のようなものはすべて、つかのまのものでしかないからだ。きみはもちろん、人間も動物も遅かれ早かれおとろえてついには死ぬ、ということを知っている。けれども大理石のかたまりだってくずれ、ゆっくりと朽ちていく。(中略)

プラトンのポイントは、ぼくたちはぜったいに、変化するものについてたしかな知を手に入れることはない、ということだった。感覚世界のもの、つまりつかんだりさわったりできるものについては、ぼくたちはあいまいな「意見ドクサ」しかもてない。ぼくたちが、「たしかな知エピステーメー」をもてるものは、理性でとらえられることだけについてだけなのだ。


つまり、プラトンはこの理性によって捉えられる、永遠普遍性をもつような概念をイデアと名づけたわけだ。
けど、われわれ一般人は、「概念」といわれてもよくわからなかったりする。

わたしなりに、この抜粋部分を説明するならこうなる。
感覚世界、つまり五感で捉えられるものは、すべて「流れ去る」ものであり、諸行無常であるのだから、確たる基準を設定してそれをもとにして断定したり量ることは決してできない。だから、この世間、巷でいわれる現実というものは、理性や永遠普遍という確固たる基準から見れば、夢まぼろしに過ぎないのだ、ということだ。
そして残念なことに、多くの人々は、その夢まぼろしのような現実こそ重要なんだという妄想に囚われて、一生涯夢まぼろしを追いかけて終わってしまうというわけ。

では理性、つまり思考や記憶といった意識にもとづいて生きるということはどういうことか?
ひとことでいえば、この感覚世界のものはすべて不完全であると見切りをつけることだ。
なるだけ完全な意識の世界に生きようとするということだ。感覚世界にあっては、その感覚を維持するだけでこと足りる、つまり生命(感覚)を維持するために必要なのこれだけというように、「足ることを知って」生きればいいのだ。

感覚世界、つまり物理的にある円や球は完全な円や球であろうか? 否だ。
いかに精密に円や球を物理的に作ろうとしたところで、微細ではあっても必ずゆがみが生じるからだ。
したがって、完全性をもった円や球は、人間が意識をもって思考した概念の中にしか存在しえないということだ。
だから、五感が捉える世界は常に不完全であり、意識が描ける概念の世界は、完全性や永遠普遍性が非常に高いということだ。

線とは何か? 線とは二つの点を結んだものである。
これをこの現実世界と呼ばれる感覚世界で物理的に表現できるだろうか? 不可能だ。
なぜなら、この世界では、点をうった瞬間に点は点でなくなり、面になってしまうからだ。
したがって、完全な点や線はわれわれの意識の中の概念でしか、きちんと表現できないものなのだ。

いい換えるとこうなる。
われわれが感覚世界で見たり触ったりして、それが円であるとか球であると思える原因は、すでに意識(思考と記憶)という場所に、完全な円や球の概念が存在し、現実にあるボールを見ることでそうした意識が呼び起こされ、「ああ、これは円だね」と判断しているというのが、プラトンのイデア論の核だということだ。
現実にある丸いもの見て、それを円だと決めたのではなく、すでに意識の中にそういう概念がもとからあったから、丸いものを円だと名づけ、定義できたというのが彼のイデア論なのだ。
このイデア論が正しいと思えるなら、生れてきて死ぬとしても、決して失われないものはあると思えるんじゃないですか?
であるならば、過剰に現実に執着することもなくなり、死への恐怖も払拭できるんじゃないですか?

さて、五感に頼り、五感で感じる快楽に生きることと、理性でもって生きること、どちらが賢明かはもう判断できることだろう。

とはいえわれわれ人間の場合、意識世界は感覚世界からの情報によって作られるので、理性が素晴らしいといって、感覚世界をすべて捨ててしまうわけにもいかないのだ。感覚世界と意識世界が繋がっているので、非常にやっかいな性質をもっているといえるのだ。

この感覚世界と意識世界を説明するために、プラトンは、本体と影の関係で説明している。また数学という論理と目で見たり手で触れられる現象と対比して説明しているというわけだ。
愚かな人は、影を見ているのに、それが本体だと勘違いして、一生涯、確実に掴めもしない影を追いかけている、と。
だが、影を追いかけている当の本人は影が本体だと思いこんでいるので、そのように批判されると、いきり立って怒るわけだ。しかも、絶対数からいうと、影が本体だと思いこんでいる人たちのほうが多いから、真理を述べる哲学者や宗教家は迫害され、酷い場合には殺害されてきたということだ。

釈迦が感覚世界だけに生きることは、酒に酔っているようなものと言ったのは、このようなことに気づいていたからだ。
日蓮も、一応はそのように言っているわけだ。

仏法は体のごとし世間は影のごとし体曲れば影ななめなり

――とね。

そして、こうしたことをきちんと弁えていれば、政治だのなんだのという感覚にもとづいて行われていることが、いかに取るに足らない、執着すべきでないことかは理解できるということだ。世間で起こっていることにいちいち腹を立てて批評批判するとか、やっきになって論争することは、ほとんど無意味だとわかるということだ。

では、理性世界のことを議論すればいいかというと、これも違う。
なぜかなら、理性世界のことは、相当部分は形而上の概念であるからだ。
つまり、感覚世界にしろ、理性世界にしろ、論争すべきようなことは何一つないというのが、釈迦の考えたことといって過言はないだろう。

理性と一口にいっても、個人的な差もあるのだから、人間はきちんと理性的な論争をすることなど、そもそも出来ないということだ。
唯一そうしたことができるとしたら、自問自答という範疇においてのみだということだ。
みながみな理性(良心)でもって自問自答して生きていれば、論争や争いも決して起こらない、平安な世界が現出するというわけだ。

もちろん、先に述べたとおり人間の場合、感覚世界と意識世界はどちらも血と肉でできた肉体に宿っているので、その境界線が曖昧であり、一体不二であるから、理性的に生きるということは、ここまでは感覚であり、ここからは理性という線引きをきちんと行ってるかということが、問われているのだろう。
つまり、人間としてよりよく生きようと思うなら、感覚と理性を調和するように制御することが要求されるのだ。

ipsilon at 11:02コメント(0) 

2018年12月28日

ソクラテスは、人はどれほどものを知らないかをはっきりさせた。裸だということをつきつけた。

つまりこういうことだ。ぼくたちは、ふさわしい答えがおいそれと見つからないような、重要な問いをつきつけられる。そこから先、道は二つある。一つは、自分と世界を全部ごまかして、知る値打ちのあることはすべて知っているみたいなふりをする道。もう一つは、大切な問いには目をつぶって、前に進むことをすっかりあきらめるという道。とまあ、人間は二種類に分かれるんだね。

少なくとも人間は、思いこみが強くてかたくなか、どうでもいいや、と思ってるかのどちらかだ。


ええー、そんな自分にはなりたくない。ていうか、どっちも選びたくないんですけど……と思いませんか?
そう、きっと、だから――、人には決して知れないことがあることに対していかなる態度をとるのかという問いに対して、ソクラテスや釈迦やイエスをはじめとする賢い人たちは、第三の道を選んだのだろう。第一の道でもなく、第二の道でもない、「どちらでもない」、つまり仏教用語の概念でいうなら「空」に住することを選んだのだろう。

知らないものを知ったふりをしたり、あるいは知らなくていいやと思うことによって、一切の苦が起こると釈迦は気づいたんでしょ。
知ったかぶりをしても、知るのを諦めても、同じことが起こる。知らないことを知ったかぶりしていることがバレることへの恐怖。知らなくていいやと思っていながら、知らないでいて本当にいいのだろうか? という恐怖だ。
しかし、知らないことは知らない。知れることは知れるという態度をとれば、恐怖は生まれないのだ。
そう、これが完全な静寂であり、一切の苦がない生き方だし、いわゆる涅槃に住しているということになろう。

だから仏教も十二因縁のはじめに「無明(avidya)」があるわけだ。
人には決して知れないものがある=パーリ語でアビッジャー=それを漢訳したのが無明だ。
そしてその、決して知れない無明を、知っているつもりになることを傲慢といっているわけだ。知れないことを知ったふりをして、それに固執するのを執着といったのだ。
だから、釈迦は形而上についての問いには一切答えない態度をとったのだ。
知っている問いだけに答えたのが釈迦やソクラテスやイエスの生き方だということだ。
しかし彼らは自分が知っていることをそのまま言葉にして教えたりはしなかった。

質問されれば、質問しかえし、「ではなぜ君はなぜそう思うのかい?」と問い返し、質問した相手が自ら考え、自らの中から答えらしきものを探し出す「気づき(Sati=サティー)」の手伝いをしただけなのだ。
そう、このサティー(気づき)こそ、後に涅槃であるとか、悟りと呼ばれるようになったものなのだ。

なぜそんな面倒なことをしたのか?
あたりまえでしょ。人間の場合、意識は個人と個人のあいだで繋がっていないのだから。釈迦が「これは決して知れないことだ」と気づいたものを、言葉でもってそのまま教えることはできないからだ。
つまり、わたしにとって知れないことを知れるのはわたしだけであり、あなたにとって知れないことを知れるのはあなただけだからだ。
プラトンの場合、こういうことを「徳は伝えることができるのか?」という問いにしたわけだ。

言い方をかえるなら、人が知れないものは何かを知ろうとするなら、そういう問いへの答えは他人から教わるものではなく、本人の体験知によらなければならないということだ。
したがって、哲学するということは、どのように認識すればいいかという体験知に基づいた認識学でもあるわけだ。



彼(ソクラテス)は、思いこみが強くもなかったし、どうでもいいと思ってもなかった。ソクラテスは、自分は知らないということを知っていただけだ。そしてそのことを思いつめていた。それで、ソクラテスは哲学者になったのだ。諦めない人、知恵を手に入れようとあくことなく努める人に。

ソクラテスは、ぼくたちの認識のたしかな基礎をかためることが重要だ、と考えた。この基礎は人間の理性にある、とね。人間の理性に強い信頼をよせたのだから、ソクラテスは正真正銘の合理主義者だった。



この合理主義という言葉も、近現代一般では利便性や効率化を追求することという意味に解されいて、もはや本来もっていた合理主義――人が知れないものは何で、人が知れるものは何かを認識しようとする主義――とは違ったものになってしまってるのだろう。

いうまでもなく、カントなどはソクラテスの直系である。
なぜかなら、人間の理性はどこまでものごとを認識できるかを徹底的に追及しようとしたのだから。
もちろんトルストイなんかもそういう意味では合理主義者だ。
それは彼の『人生論』を読めば、はっきりわかることだ。

それにしても大変だ。
決して知れないことを知っているいるふりもせず、知ることを諦めることもなく、死ぬまで知ろうと努力する生き方が最も崇高で人間らしい生き方だというのだから。

でもそういう生き方って本当に辛いのだろうか? そんなことはないだろう。
たとえ決して知れないことがあってそれを知れないとしても、それを推察することもできるし、推察したものを信じることもできるからだ。より正確に表現するなら、推察ではなく洞察という言葉のほうが適しているだろうが。
プラトンが『メノン』で語っている論理も結局はそういうことを言っている。
徳を伝える術は、弟子の洞察力を発揮させるような偉大な師匠と、自らの洞察力にもとづいて師匠の教えたいことを自らの中から見出す力、こうした天分の関係性、天分の機会があってあてはじめて徳はなんとか伝達できるのだろう、と。

ともあれ、人間が幸福に生きるためには、洞察したものを「信じる」という行為、ようするに宗教が必要なのだ。
そしてその宗教は、先にお話ししたように、個々人の体験知に基づいたもの、自分自身の宗教、信仰、もう少し柔らかい言葉でいうなら自分自身の思想をもつことであるのだ。

また、知れないとしても、知れないことを不思議だなと面白がり、不思議なことや神秘なことを発見して喜ぶこともできるわけだ。
多分、不思議なことを不思議のまま心から喜べるのが人間にとって、最高の幸福なのであろう。
それを、「ありのまま」に見るというのだろう。



不思議な世界――。

木が緑なのは不思議。
だけど、木が緑な理由を知らなくたって、それは美しい。
海が青いのは不思議。
だけど、海が青い理由を知らなくたって、それは美しい。
人間がなぜ生まれてきて死ぬかは不思議。
人間は不思議な存在そのもの。
だけど、人間が不思議な理由を知らなくたって、人間は美しい。

世界は不思議に満ちてるけど、美しい。
ただそれだけのこと。
あるがまま。



『なんと素晴らしい世界』

木々は緑で、薔薇は赤く見える。
それらは、ぼくたちのために生い茂っているみたいだ。
そして、ぼくは思う。
なんて素晴らしい世界だろうと。

空は青く、雲は白い。
昼は祝福されていて、夜の闇は怯えさせる
そして、ぼくは考える。
なんて素晴らしい世界だろうと。

空に可愛らしい虹がかかる。
行き交う人々の顔に見えるのは、
友だちに「調子はどう?」と握手を交わす声。
でも彼らがかわしあってる声は、本当は「I Love You」なんだ。

赤ちゃんが泣いている、そして彼らが成長していくのを僕は見る。
彼らは僕が決して知れないことを沢山学ぶだろう。
そして、ぼくは考える。
なんて素晴らしい世界だろうと。
そして、ぼくは自分を見つめて思うんだ。
なんて素晴らしいんだろうと。


ipsilon at 21:23コメント(0) 
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