2018年12月

2018年12月27日

いったい何度このブログに第九のことを書いただろうか。
それぐらいわたしの中では偉大な楽曲という思い入れがあるのだが。
昨日TBSラジオの番組『アフター6ジャンクション』の「ビヨンド・ザ・カルチャー」というプログラムで放送されていた、「私たちはまだ本当の第九を知らない 」を聞いて、自分の第九・四楽章に対する解釈がいかに浅かったを思いしらされ、感動をあらたにした。
その感動は感涙、鳥肌、身震いをともなうものだった。

あんまり感動したので、今もそれが冷めやらないのだが、この感動を少しでも共感できたらと思って、記事をかいているのだ。

説明はもういいだろう。



第九・四楽章の冒頭は何度も触れてきたとおり、不協和音ではじまる。
こんな音楽じゃあ駄目なんだという、「否定」からはじまっている。
そしてその否定は、ベートーヴェン自身の自己否定といっていい。これまで眉間に皺を刻みながら、汗を飛びちらしながらつくりあげてきた第一楽章(混沌からはじまったとされる天地創造やこの世界そのものとは何かを問うているモチーフ)、第二楽章(人間のつくった、ある意味人間本意な天地創造論にもとづき、人間たちが豊かになろう良くなろう前進しようとしていくモチーフ)、第三楽章(ひたむきな努力、それはある種の祈りともいえる努力によって勝ちえた平穏と安楽の境地とえるモチーフ)を、「これじゃ駄目なんだ」と否定するのが第四楽章の冒頭なのだ。

つまり、第九・四楽章の冒頭は、人間にとって一番難しい自己否定的革新(絶えまざる自己超克)を音楽で体現しているのだ。

それがはっきり明示されるのが、冒頭からつづく、第一楽章、第二楽章、第三楽章の主題が次々に提示され、チェロがそれに呼応して、「これじゃ駄目なんだ……」という重々しく暗い「否定」の空気を醸成するところだ。

しかしその時、否定という暗黒の暗闇の底ような世界に一筋の光がさしはじめる。
第四楽章の主題がはじめてチェロによって奏でられ、ヴァイオリンがそれに応え、その主題(あまりにも有名な誰もが鼻歌でうたえる、あの俗っぽいメロディー)を繰り返す。それを受けて木管や金管も主題を繰り返し、微かな光はフルオーケストラによる眩いばかりの光を降りそそぎながら、第四楽章の主題を奏でる。

しかし、神々しい光が満たされたあと、またしても哀調を帯びたフレーズがあらわれ、四楽章冒頭の不協和音が轟きわたる。
そして、バリトンがあの有名なベトーヴェンが作詞したあの詞を歌いだす。

おお、友よ! このような調べではない!
そんな調べより、もっと心地よく歌い始めよう、喜びに満ちて。


O Freunde, nicht diese Tone!
Sondern last uns angenehmere anstimmen und freudenvollere.


つまりここでベートーヴェンは楽器だけによる楽曲では駄目なのだ。それでは喜びが足りないのだ。みんながこの楽曲に参加して歌うことで喜びはまし、すべての人々が喜ぶことでこの上ない至上の喜びに至るのだ!! そしてそれこそが、エリジウム(理想郷)であり、それは死んだ後に赴く天国ではなく、今ここに現実にある理想郷なのだと訴えているわけだ。

ここの、バリトンの独唱からはじまり、やがてコーラス全員で楽曲を歌い上げてゆくことのなんと美しいことか。
まさにエリジウムという言葉にふさわしい部分だ。

ここで歌われるシラーの詩は、ベートーヴェンなりの解釈でならべかえられており、シラーの詩を用いながらも、メッセージはベートーヴェンのものであるというくだりも素晴らしい。
自分一人で何事かを成し遂げられるわけじゃない。自分が成し遂げたものも、よく見てみれば全て誰かや何かとの関係性によって作られるということを暗示しているといえるからだ。

また、喜ぶべきは善人、悪人、貧乏、富裕、老若男女、健康であるとか病気であるとか一切関係なく、すべての人が喜べる本性をもっているという、非常に深い哲学性をも、ベートーヴェンは伝えんとしているのだろう。

でありながら、そうした喜びに至る道は、シラーの詩にあるように――
兄弟達が己が道を駆け抜ける、勝利に向かう英雄のように喜ばしく
とあるように――、それぞれの人にはそれぞれの個性や好みにあった喜びの対象があって、喜びを得るという勝利への道は人ごとに異なっているという多様性をも提示しているといっていい。


こうしてフルオーケストラとフルコーラスによる演奏が頂点まで盛り上がったあと、楽曲は静かになり、トルコ風の行進曲の動機が明示される。
わたしの大好きな部分のひとつだ!
どこも大好きなので、どこが一番好きだとは言えないのだ。
いま聞いているところが一番いい! 音楽とはそいうものであると思うゆえだ。

つまり、この行進曲風の部分は、人それぞれがそれぞれの道(自分自身の個性や本性に生きることで得られる喜び)を見出したのだという、凱旋行進曲になっているのだ。
ちなみに、ここで言っているトルコ風というのは、かつてのオスマントルコ帝国、つまりはイスラム教を軸にしたトルコを指していると考えておけばいいようだ。

しかし、その凱旋行進曲もだんだんと小節が進むぬつれて、哀調を帯び、すべての人が勝利の凱旋行進に参加することの困難さを訴えはじめる。これは、多様性を認め、それぞれに見合った喜び、勝利があるということに気づくことの困難さを表現しているのだろう。
哀調は多様性を排除したり、単一化へと暴走する全体主義だと思って聞けばいいだろう。

そしてそこに登場するのが、宗教的なメロディーをもった主題だ。
この主題の部分は実際に歌ってみるとわかるが、歌うのが非常に難しい。
はじめに提示された俗っぽく鼻歌でも歌える第四楽章の第一主題と完全な対比になっているのだ。
この宗教的な歌の部分は、メロディーを口ずさむのではなく、論理的に思考し、言葉をしっかりと音にあてはめていくという非常に理知的な歌い方が必要とされているのだ。
四楽章の俗っぽい主題のように、うる憶えであっても感覚で歌えるというのとはまるで違う形式になっているのだ。

つまりここでベートーヴェンは個性や多様性をすべて包含して、誰人も排除しない宗教の必要性を訴えていると考えていいだろう。そいう宗教(思想)がなければ、すべての人がそれぞれの本性にみあった喜びを勝ちとることはできないと考えていたといっていいのだ。

また、このあとにつづくフーガ形式で(主題が変奏=アレンジされながら輪唱される)部分も素晴らしい精神性が隠されているのには本当に感動した。

四楽章の俗的な主題、またここで現れた宗教色の強い主題があい呼応しあいながら融け合い二重にフーガを奏でていくという素晴らしさ。また、トルコ風というイスラムとキリスト教的宗教音楽の主題もあい呼応しあいながら二重フーガを奏でひとつのものとして融けあっていくのだから。

つまり、俗生活も大事だし、宗教性のような高い精神性も大事だし、トルコ風行進曲とキリスト教的宗教音楽が混ざり合うことで、宗派のちがいを超越したたったひとつの宗教観の重要性を音楽によって表現しているのだから凄い。もう凄いとしか言えないのだ。

そのように全てが溶け合い一つになったところで、第四楽章のあの俗っぽい主題が様々に変奏されて何度も繰り返される。

この辺りの楽曲の流れは本当に素晴らしく、蛇足だが、ワーグナーの『さまよえるオランダ人』もこうした第九の二重フーガがやがてひとつに融けあい一つのものになっていくという楽曲表現がされているのだが、これがもう最高なのだ。
絶望の底で永遠に地獄と煉獄をさまようオランダ人の歌う苦悩と、ゼンタが「わたしがあなたを必ず救うわ!」という決意と信念が交互にあるいは二重になって奏でられ歌われ、やがて二つの旋律は救済の動機の主題を奏で始めるというあそこ。『さまよえるオランダ人』を聞いてて最も感動に打ち震えるのは間違いなくここなのだ。
しかし、そういう表現法がすでに第九の四楽章で見られるわけだから、ベートーヴェンは凄い!

そして、四人の独唱者がそれぞれのパートを熱唱するところがやってくる。
この形式は、オペラ形式なのだそうだ。
つまり、人生は他人から見れば、自分の本性にみあった役柄を演じていることでもあるということを音楽として表現したものなのだそうだ。
ひとつの交響曲の楽章に、ここまで総合的にあらゆる形式を入れてしまう凄さ……。

そしてまたオペラという総合芸術の形式をもって最後の盛り上がりを紡ぎだしていくあたりの計算され尽くした楽曲形式のなんという素晴らしさよ!!

そして大団円に向かって、異常な盛り上がりをしながら、第九は至上の歓喜に達して終わる――。
その最後の部分も、普通ならキーがDであるなら、Dをベースにして、ドミナントやサブドミナントを挟み込みつつ連続的に調性を感じさせる音を打ち鳴らすことで、調性を強く感じさせて終わるのがセオリーともいえるのだが、この曲の場合、ひたすら根音(キーDならD音がそれ)だけを連打しつづけて終わるという凄まじさ。

いろいろあるけど、とにかくぼくたちに必要なのは「喜び」なんだ! ということを音楽で表現しようとしたとしか思えないわけだ。
大指揮者フルトヴェングラーなんかはベートーヴェンのそういう趣意を理解していたのだろう。この最後の部分は、オーケストラがテンポにあわせられないくらいの爆発する速さをオケに要求していて、もうこれは音楽でなくて爆発だよという名演を残していますけどね。


ラスト2分を聴いてごらんなさいな……。お口パックンになりますから。
よくもまあ、オケの団員も指揮のスピードについていこうとしたよなぁって、それだけで感動する。

はじめのほうに貼りこんだカラヤンのとか、あるいはこれも大指揮者トスカニーニのように、情熱的でありながらどこか冷静でちゃんとした指揮をしているのが好みの人もいようが、フルトヴェングラーのもはや音楽ではなく爆発なのも、それはそれで凄いわけだ。ベートーヴェンは情熱家だったことを考えると、フルトヴェングラーの指揮も捨てがたく思うわけだ。
ちなみにこの演奏がされたのは1942年。戦時下のドイツ国内に残ったフルトヴェングラーがナチス体制下で指揮したものだという背景を知ったうえで聞けば、指揮者がなにを思っていたかの片鱗も感じとれるのではないだろうか。
もちろん、フルトヴェングラーは音楽でもってナチスに協力しようとするような意思はなかった人だ。
それでもドイツ国内に残って演奏活動していることをトスカニーニには激しく非難されたといういきさつがある。

ある種こういうのは、ロックバンドのQueenが人権差別を行なっている南アでコンサートを開いたことで英国内や欧州などで非難され、バンド解散の危機に陥った構造と似ているといえよう。
わたしに言わせれば、南アでなんかコンサ−トするなという考え方のほうが、よほど差別的だと見えるわけだが。
どこの国でコンサートを開こうが、その国がどんな状況であろうが、音楽は音楽だ。
そういうものの見方こそ素晴らしいのではないかと思っているわけだ。
みんなと喜びを分かち合おうとしているのに、あれをするな、これをするなとか言うほうが馬鹿だってのがわたしの考え。


ともあれ、ベートーヴェンが第九に込めたメッセージというのは――
大偉人であろうが、極悪人であろうが、極貧であろうが、大富豪であろうが、男であろうが、女であろうが、ニューハーフであろうが、子どもであろうが老人であろうが、そういうことは関係なく、それぞれがそれぞれの本性に見合った喜びに生きれば、この世界そのものが理想郷(エリジウム)だ!――
ということなのだ。

もちろんそうなるには、すべての人が自分と自分以外のすべての人の生き方を、その人が絶対悪のような極悪人に見えたとしても受け容れるという、ありえないような大きな寛容性が必要なのだが……。

極端な言い方になるが、結局のところ最後は全てを受け容れて死んでいくしかないということを知っていれば、どんな悪人をも許せるということなのだ。たとえ殺人に喜びを見出しているような人がいても、そういった人が喜ぶ気持ちを受け容れられないとしても理解することでしか、この世界にエリジウムは現出しないということなのだ。


蛇足だが、この第九のキーはD(二長調)だ。
むろん、途中でなんども転調するが、基本的には「喜びと勇壮さ、また幾分戦いを鼓舞するよう雰囲気をもち、かつ神や超自然」といったモチーフを表現すために多用されてきた調だそうだ。

死とか殺人とか物騒なことも書いてはいるが、わたしの本心は、「とりあえず、みんな自分が楽しい嬉しいと喜べることをすればいい!」ということを伝えたいだけなんだけどね。

ちなみに、苦悩ばかりというか苦悩しかなかったようなベートーヴェンにとっての最高の喜びは、大好きな田園風景のなかを散歩することだったそうだ。
(だから、交響曲第六番『田園』はあんなに美しい楽曲なんだねぇ)
そしてもうひとつ、彼にとっての喜びは多くの人々が喜べる音楽を作ることだったそうだ。

太平洋戦争が終わったとき、日本にいたドイツ人俘虜たちが第九をやりたいんだといって演奏されたとか、ベルリンの壁崩壊のときにも演奏された第九。
また共和制と平和を愛し、ナポレオンが皇帝になったことに憤激したベートーヴェン。すべての人々が……という理想主義に生きたベートーヴェンの楽曲がここまで愛されるのは、ある意味で当たりまえなのだろう。

大人も子供も老人も、歌えるということの素晴らしさよ!
楽器や演奏なんてなくても、体一つあれば、Freude !(喜び) はみんなで共感しあえるんだ!



第九の原曲のように、一人のバリトンが「おお、友よ!」とか呼びかけることから、はじまってるのがいいよね。


もっと喜ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、うんと喜ぼう。喜ぶことは気持ちがいいし、体の免疫力だってあがる。
恥かしがらず、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。笑おう。にこにこしよう。素直な気持ちになって、子供のように喜ぼう。
喜べば、くだらないことを忘れることができる。他人への嫌悪や憎しみも薄くなっていく。周囲の人びとも嬉しくなるくらい喜ぼう。
喜ぼう、この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう。

(ニーチェ)



クラシックコンサートの年越しカウントダウンの曲といえば、やはりこれ。
普段は聴衆が演奏に参加しないのがクラシックコンサートだが、みなが手拍子でもって参加するというあたり、みんなで「喜び」を歌おうと呼びかけたベートーヴェンの思いが伝わっている気がするのだ。
行進曲であるから、歩みを止めずに歩いていこうという気持ちを醸成させもするので、これも大好きな一曲。


少し早いけど、良いお年を!――。

ipsilon at 14:33コメント(0) 

2018年12月26日

読書メーターに個人的な感想をかなり濃厚に記したのだが、いささかの補遺を記しておきたいと思ったゆえ。

以下、読書メーターに投稿した感想。

1984年に発刊された34年前の著作だけに日本軍の研究に関しては間違いも見受けられるが概ね優れた分析がされていよう。注意すべきは本書が官僚的組織論という観点で書かれている部分だ。官僚的とは利便性と効率化(利害損得)を求める組織論であり、論理として限界を抱えている部分があることだ。世界秩序や人権を重視する普遍性や永遠性といった真理を顧みていない組織論であることだ。とはいえ、大戦略(最終的な目的・目標)なき組織、自己否定しながら革新できない組織が最悪であるという批判は現代でも通用する概念といっていいだろう。

組織論や政治論に真理を持ち込むことを日本人は嫌う傾向があるのかもしれないが、宗教観なき組織論や政治論は常に変化する状況に対して、場当たり的な対応しかできない欠点をもつといえるか。しかしまた特定の宗教を遵奉する組織や政府は狂信的な独善主義や思考停止を生む危険性を孕んでいもいる。こうした矛盾を解消する道は、一人一人が真理や宗教に向きあったうえでの統合的な組織構築、政治観が醸成されていくことなのだろう。行き詰りつつある資本主義にあって、官僚主義的組織論だけを云々することはかなり無意味に思えた。

また、日本軍の研究に関する間違いの例をあげるなら、ミッドウェー海戦事の索敵機、利根四号機がそれにあたる。発進が30分遅れたことを失敗と述べているが、その後の研究からこれは誤った見解とされている。30分遅れたことで米空母を発見できたが真実であり、定刻どおり発進していたなら、利根四号機は米空母を発見できなかったという必然性として理解され直されている。歴史認識は結果論で行うと過つという教訓といえるし、こうしたことから真理を顧みたうえでの組織論が重要であることが窺えるのだろう。



補遺しておきたい部分はそう多くない。
ひとつには大戦略(グランド・ストラテジー)についてくらいだろう。

それを説明するためには、現実の日本の政治や安全保障の変化を見ていけばよい。
つまり、日本の政治や安全保障には今でも大戦略がなく、変化する状況に「場当たり的」であるということだ。

政府の説明はいつも、「世界状況が変わってきたから、だからこの法案を可決しなければならない」に尽きているということだ。
戦後日本が描いてきた大戦略を見つけだすとするなら、「専守防衛」という概念くらいしかないということだ。
しかし、この専守防衛も昔も今も為政者の恣意的解釈をともなっているというわけだ。

原則的に専守防衛の大戦略を定義するなら、せいぜいが「攻撃を受けたなら、それを撃退し、再び攻撃されない場所まで侵攻軍を撃退し後退させる」ということなのだ。
無論、これを堅持するという意志に基づいて、安全保障の内容を変えたり、装備の変更・拡充をすることに、わたしは異存などない。

しかし、昨今の政治や安全保障は、こうした原則を踏みはずし、攻撃的防御をする方向に狂奔していると見える。

空中給油機の導入、実質、敵地攻撃能力をもつ、陸上イージスや空母とその搭載機の導入が、「専守防衛」という原則と噛みあわないことは、ふつうに思考できる人ならわかるはずだ。

よしわかった、百歩譲って、専守防衛に攻撃的防御を含めるとしよう。
しかしそうなると、今の日本の進んでいる道は、仮想敵国に対して、どこまで攻撃的であるべきかという大戦略がまったく見えてこず、やはり場当たり的だとしか見えないわけだ。


言うならば、攻撃的防御を国策として導入するなら、その大戦略は仮想敵国を完膚なきまでに攻撃し、いわゆる総力戦で決着をつけ、二度と再び我が国を攻撃できないと状態に陥れるという防衛戦略が最終目的であり最終目標であらねばならないということだ。

しかし、こうした大戦略を今、極右的思想に扇動され騒いでいる人々は考えたことがあるのだろうか?
また、そこまで徹底した覚悟(自衛隊を国軍として核兵器すら保持し、完全な攻撃的防御を含む専守防衛をする国家総動員体制、したがって国防予算の大増加によって国民の生活が危険な領域にまで逼迫することへの覚悟)があるのだろうか? 
恐らくないだろう。
だた世間の空気に扇動されているに過ぎないのではないだろうか。

お前は何おおげさなこと言ってる?
大戦略が、仮想敵国の消滅とまで考えるとか馬鹿か!? と言うなかれ。
こうした大戦略はかつての歴史に当たり前に見られるからだ。

古くはトロイ戦争。新しくは第二次世界大戦がそうだったではないか。
スパルタはトロイアを滅亡させるまで戦ったし、かつての大戦でアメリカははじめから日本を降伏させるために、本土上陸を見据えていたのだし、現に欧州戦線でアメリカとソ連はドイツの首都ベルリンが陥落するまで攻撃を続けたではないか。
そしてまた、米国は戦後、二度と再び立ち上がれないほど、軍国主義化することを抑圧する政策を徹底的に日本に施した事実があるわけだ。

つまり、連合国には「戦争を終わらせるという最終目的、最終目標」という大戦略をしっかり見据えていたということであり、負けた日本、ドイツ、イタリアにはそうした大戦略がなかったことは歴史的事実なわけだ。
日本の場合、せいぜいが、南方資源を確保して長期持久戦にもちこみ、攻撃的防御をもって米国の士気を挫き講和にもちこむといった「精神論」の大戦略しかなかったわけだ。戦争とは鋼と鋼の激突という「現実」をまったくといっていいくらい見ていなかったということだ。

相手のある戦争をするのに、自分たちにとって都合のいい論理を立てて、それで勝てるはずがないのだ。
当時の日本が本気で米国に勝とうと思うなら、米国に上陸作戦を敢行して米国がもはや戦争できないような状態にするまで戦うしかなかったわけだ。そしてもちろん、当時の日本にそうした軍事力も資源力も工業力も実行力もなかったわけだ。こうしたことを思索すれば、かの戦争をいかに美化しようと、無謀で愚かな行為としか評価できないわけだ。

そしてもちろん、国家主義者やネトウヨがいくら騒ごうが、現在の日本も、北朝鮮や中国が二度と再び我が国を攻撃できないことろまで完膚なきまでにそうした仮想的国を滅亡させられるような軍事力も資源力も工業力も継戦能力もないわけだ。
こうしたことは、広大な国土をもつ中国に侵攻し、泥沼の日中戦争に陥った事実が見事に証明したではないか。
またもし仮に、こうした仮想敵国を滅ぼし、自分たちに都合のよい傀儡政権を作ったところで、敵視された人びとの反発はかえって強まり、徹底抗戦し、泥沼の戦争になったことは、ベトナム戦争をはじめとする近現代の戦争、つまりアメリカ的大戦略も今や無効なものであることも、歴史は証明してきたのだ。

こうしたことをしかと考えるなら、場当たり的に安全保障を拡充して、仮想敵国を刺激したり煽ることがいかに馬鹿げたことかはわかろうというものだ。
したがって、日本のとるべき大戦略は、仮想敵国を刺激せず、決して戦争が起こらないような外交に重点を置くしかないわけだ。
仮に戦争が起こった場合、出来るだけのことはするにしろ、最終的には仮想敵国に滅ぼされることを覚悟したうえで、とにもかくにも戦争や紛争を早期に終わらせる平和的外交手段による努力をするという大戦略、つまり滅亡を覚悟する強さというか自制心が必要だといっていいだろう。

まあ、そういう意味で見ていくと、日本人がいかに甘いものの考え方をしているかが見えてくるだろう。
自分たちが滅亡してまで世界平和に貢献する覚悟もなければ、自分たちが攻撃を受けることも望まず、かといって、攻撃されることを防ぐ意志として、仮想敵国を地上から葬り去るという攻撃的防御という大戦略をもつ覚悟もないというわけだ。
専守防衛をする場合、攻撃を受けてから防衛措置をとるために、必ず日本側に先に犠牲者が出るという覚悟さえ出来ていないといって過言はないだろう。

こうした日本人の甘さは、太平洋戦争をどのように終わらせるかを考えていなかったがゆえに、戦局の悪化に場当たり的に対応して右顧左眄し、最後は特攻という手段まで弄してしまった事実になって見事に歴史に刻まれているわけだ。

極端だといわれようと、大戦略に選択肢は二つしかないのだ。
一つは仮想敵国を地上から葬ってでも攻撃的防御するという最終目標をもつこと。
もう一つは、敵とか味方という視線を捨てて、互いが平和的に共存しようとすることだ。
たとえそれが実現せず、自国が滅びることがあっても、生き残る人びとに貢献し、次の世代に希望を託す覚悟ができるのかということだ。

しかししょせん、誰もがいつかは死してこの世界を去るのだ。
としたなら、次の世代のことを見据えた大戦略こそ、正鵠を得たものといえるわけだ。
したがって、今生きている人々を守るために、仮想敵国が滅ぶような攻撃力を持つという選択肢は、結局のところ、それが仮想敵国の人びとであれ、今生きている人を多かれ少なかれ減少、あるいは抹殺し未来の希望を自ら摘み取る行為でしかないのだから、そうした大戦略を選ぶことに価値はないのだ。

安全保障の根幹には、人類が生き残ることを望むのか、あるいは自分たちだけが生き残れればいいのかという問いが横たわっているのだ。


蛇足。
最近、スピノザの汎神論を含む哲学が脚光を浴びはじめ、多くの人が学びはじめているようだ。
個人的に、学んだところ、スピノザの哲学には明るく朗らかに生きられる哲学が沢山あり、素晴らしいとは思った。
しかし、彼の汎神論を批判しているショーペンハウァーの論を知ってしまうと、スピノザも少しばかり霞んでしまったのだ。

彼、スピノザのいう汎神論とは、この世界そのものが神であり、この世界で起こっている物心両面はすべて神の顕われの一部であるという思想なのだが、そうだとするなら、神ってのは随分と無慈悲な神だなというのがショーペンハウァーの論理なわけだ。
なぜかなら、この世界は動物や植物たちが互いにあい食みあうような実相をもっているし、人間世界においては、同族を殺し合うような精神作用さえも顕現させているからだ。

そうして見るならば、むしろ世界=神そのものというより、世界=悪魔だというのがショーペンハウァーの思想だといういことだ。
だから、所詮はこの世界の物心に顕われてくる表象の根底には「生存欲――生きんとする欲望」つまり、ショーペンハウァーのいうところの「意志」があるだけというのがやはり真理なのだと思えるのだ。

一応、スピノザも、野心や(過剰な)欲望といったかたちで神が顕現することは調和を乱すものだと考えたようなのだが……。

そして仏教はまた、ショーペンハウァーの思想とほぼ同じですからね。「意志」を「無明」という言葉に置き換えているだけなのだから。
一切皆苦とまず見るわけなのだから。
そうなると、なんだかペシミスティックかつストイックで救われない感じなのだが、救いが決してないわけではないのだ。
生存欲が様々な感情として顕われてくるつなぎ目、隙間――それは本当に極小の刹那であろうが――には、いかなる欲望も見いだせないわけで、ずっとそういう状態に意識を保てれば、永遠的な平穏、つまり涅槃に住せるというわけだ。
宮澤賢治の言った、朴念仁として生きるとか、河合隼雄のいう「何もしないで生きていく」とか、ショーペンハウァーのようにこの世界のなんたるかを理解したなら、その後はひたすらのほほんと日々を送り、アートマンと名づけた犬と散歩するような、ある意味で無意味で無目的な生き方をするしかないというわけだ。そしてそういう日常に満足するということだ。

しかし、そうした朴念仁的生き方を個々人が見出すことは並大抵ではないようだ。人間というのは、意味や目的がないと生きるのが辛かったりするからだ。ある意味で社会は無意味や無目的を徹底的に排除しようとする仕組み(官僚的性格)をもっているのからだろう。
朴念仁的生き方を宙論でいうならば、ビックバンとビッククランチの間にある特異点に生きるということになるのだが、現実この世界ってのはビックバン的世界なわけであって……。

ホーキング博士の宇宙観も、こうした感覚にわりと近い。
実数(+)宇宙があって、我々はそういう宇宙に生きている。しかし宇宙には虚数(−)宇宙があって、双方はある点で結ばれているというもの。
つまり、そのつなぎ目が「ゼロ」であり特異点であり、隙間であり、「空」であると見ているというわけだ。
そしてもちろん、われわれの認識力には限界があり、虚数宇宙はもちろん、特異点がどのようなものであるかを認知できないというわけだ。

だからこそ、そういう概念をもって、そこには救いらしきものがあると信じる信仰のようなものがないと、人は生きていけないと言えるだろう。


蛇足の蛇足だが、一人の人間における大戦略というものは、死という最終到達点を見据えたうえで今をどう生きるかということになろう。
ラテン語で言われるところの「メメント・モリ」、自分が必ず死ぬことを忘れるなという警句こそ、大戦略だといえるだろう。

ipsilon at 12:16コメント(0) 

2018年12月21日

素晴らしい一書。


ガンディーの実践した行為が宗教や政治を超越した真理の実践であることを見出した中島の視点が実に素晴らしいのだ。

宗教的対立を引き起こすことなく、しかし宗教的な行為によって人々がつながるにはどうすればいいか。
ガンディーの塩の行進の眼目は、そこにありました。
塩を作るためにひたすら「歩く」という行為には、ヒンドゥー教もイスラム教も関係ありません。特定の宗教の教義やシンボルを使うことなく、みんなが支持することができる宗教行為こそ「歩く」という「行」だったのです。


ガンディーの為した行為はこうした視点に立っているというわけだ。
「歩く」「断食する」「(糸車を)回す」、どれも五体満足であれば、誰にでもできる行為だという点が重要なのであり、教義やシンボルを超越する普遍的宗教性だということだ。


ではなぜガンディーがそのように考えられたかという理由。

そもそもガンディーは、ヒンドゥーとイスラムが、同じ真理を共有していると考えていました。またそれはキリスト教も仏教もスィク教もジャイナ教も同じで、究極的にはすべて同じ一つの真理を共有しているというのがガンディーの考えでした。つまり、一つの真理が、様々な時間や空間によって異なる姿をもってこの世に現れたのが個別的な宗教・宗派であり、この世界では別々に見える宗教も、超越的なレベルでは同じ一つの真理に還元されるというのです。

まあ、そういうことなのだが、こういうことに気づけない人は、いつまでも自分の信じる宗教や教義だけが唯一絶対に正しいなどという偏見に凝り固まってしまうというわけだ。

エベレストを登るルートは様々ある。だがエベレストを登る行為それじたいは、どのルートを通っても変わらない真理であるということだ。また登ることによってたった一つしかない頂点を目指すということにも変わりはないわけだ。


他にも、その地域の気候風土によって培われた慣習や伝統的行為のなかにこそ真理が隠されているので、顔の見える範囲での直接自治の形態こそ、理想の政治形態であるという彼の思想は、ぴたりとルソーの思想に重なるあたりにも光を当てているあたり、中島の視線に狂いのなさが感じられたりもした。

そして、そんな偉大なガンディーでありながら、あまりに真理に固執し、家族を苦しめたダメなお父さんだったあたりを描きだすのを忘れない中島の筆がまた素晴らしいのだ。

どんな人であれ、間違いを犯すし、偏屈なところもある。決して完璧な人間などいないというのを、ガンディーは体現したともいえるわけだが……。

所有への執着を嫌って奥さんの持っているアクセサリーを全部捨てろとかいったり、禁欲主義すぎて夫婦の関係が覚めまくったり、かと思えば禁欲する意志の強さを試そうとして、素っ裸にした若い女を傍に寝かせたりと、「えー、あのガンディーがぁ……」という場面も多々描かれている。
この若い女を添い寝させる行為なんて、禁欲できていない自覚があったから、そうやって試したんだろうにと中島は分析しているわけだ。

極めつけは、長男にたいして非常に厳格であったらしく、そのせいで長男がグレてしまったという事実。
人間は決して完璧なのではない。だから共に生きていくにあたっては、「赦す」寛容さも必要だということを、忌憚なく垣間見せてくれる良書というわけだ。



Queen が歌っている、One true Religion てのが、ガンディーのいう真理であり宗派を超越した宗教だってわけだ。
そして、そういったものの見方、One Vision こそ最も重要だってわけだ。

けれども、真面目くさってこういうことを訴えると嫌われるから最後のさいごで、
「フライドチキン!」 とか歌っちゃってるわけ。
ユーモアっていいね!


ゲーテをはじめとする偉人たちが、芸術的に生きることを勧めてる理由をQueenなんかも体現してるんじゃないのかな。

歌うという行為は誰でもやろうと思えばできる「行」なんだな。絵を描くこと、作曲することだって突き詰めればそういう「行」だからだ。子どもの頃は誰だって、自分で作詞作曲して鼻歌をうたっていたはずなんだよ。
大人になることで、「音楽はこうでなくちゃならない」みたいな考えに執着することで、そういう自由気儘の心地よさを自ら失ってるってわけ。子どもの頃は絵が上手いとか下手とかになんて拘って描いてなかったはずなのにね。楽しいから描いてた。そういうものだったはず。

また芸術家たちは、行為をやって見せることで、「こういのはさ、君だってやってみようと思えば出来ることなだんぜ!」って伝えてくれてるってわけだ。

そして、そうしたメッセージがわれわれのなかに夢や希望や努力しようという意志を生みだすというわけ。
自分に出来ることを行なうというのは、実は君だってその気になれば出来るだろという励ましに他ならないし、あれこれ口で言うよりよほど説得力や感動があるというわけだ。

ipsilon at 11:43コメント(0) 
安保法制から先、日本はどんどんアメリカの後を追うように、軍産複合化が進んでいると思える。

しかし、この軍産複合化は、単に「悪いもの」として否定できない一面もあるのだ。
こうした考えは過去何度も思索してきたことなので、今更個人的には変えられるような思考ではないと思っている。

簡単にいえば民生産業品、やわらかく言えば、われわれが日常生活で使っている文明の利器と呼ばれるさまざまな物や機器は、軍需品の廉価版であり、軍事技術が民生品にフィードバックされたものであるという面は、今更変えられないということだ。

例をあげるならきりがない。
今やPCなど当たりまえの時代だが、そのPCの元祖、電子計算機はもともとは弾道計算をするために開発された軍事機器だったわけだ。
カーナビ。これに使われている技術も、もとを辿ればミサイルを誘導するための技術だ。
日々の天気予報を伝えるために使われている気象レーダ。こうしたレーダー機器ももとは軍事技術だ。
いわんや、われわれが日常的にこうして使っているインターネットももとは軍事技術だ。

だから、軍産複合体が進歩することはあながち悪いこととは言えない。しかし、そこには大きな問題が隠されている。
すなわち、民生品と軍需品の利益率の格差だ。

バブル以降、日本はもはやかつてのような経済成長を期待できなくなった。なにもそうした現象は日本だけに限らず、世界のどこにあってもそういう傾向になったのだ。
しかし欲深い人類は経済成長や豊かな生活を求めてやまない。
そういうことで、利益率の高い軍需品の売買や軍需品開発への投資による金融利益を追い求める傾向が膨れあがっていったわけだ。

日本の経団連が躍起になって、武器輸出三原則の緩和を政府に要求したり、安全保障関連の法案をどんどん推進させた理由はこのへんにあるといって過言はないだろう。
なぜかなら、日本での軍需品の買い付けもとは防衛省しかなく、おのずから売り上げに限界があるからだ。
したがって、禁輸措置の緩和は、軍産複合体にとっては新たな市場の獲得につながるというわけだ。
もちろん、防衛省が装備品の更新やあらたな装備購入を進めることも、新たな市場獲得にほかならないし、現実、日本の政治経済界はそちらに舵をきってきたということだ。

端的にいえば、民生品での利益率ではもはややっていけない経済状況に世界があえいでいるのだ。
もっとも、なにがなんでも裕福でありたいとか、今ある富を絶対失いたくないとかいう欲をかかなければ、民生品だけでも、世界経済はまわっていくのだろうが……。

ともあれ、世界の軍産複合化は進んでいるといっていいだろう。
そして、そうした進歩(と言えるのかは不明だが)を起こすために必要なのが、「安全保障が危機的状況にあるのだ」と危機を煽って軍需品を売買できる環境を世界中につくりだすことににほかならないのだ。

「軍産複合体」「日本企業」で検索すると、すごいことが見えてくる。
こうした企業は、われわれの民生を支える生活必需品目のほとんどをカバーしているのだ。
したがって、軍産複合体を解体すれば平和になるなどということは、言えないということだ。

金融機関も似たようなものだ。
紛争当事国に武器購入のために貸付けをしたりして、その金利で利益を出すというわけ。
みずほ銀行あたりはそういうのの筆頭であろう。

だから、個人的に預金したお金が人殺しの手助けをしている場合もあるわけだ。
まあ、そんなことを考えだしたら何もできなくなるし、一切軍事関係に関わらないで生きていこうとしたら、生活自体が破たんしてしまうだろう。
だからこそ、この軍産複合問題は難しいのだ。

個人的に便利な日用品を選んで使う。
極端なことを言えば、そうした選択もデータとして企業に回収され、次なる軍事技術の開発や進歩に必然的に貢献してしまうというわけだ。

Googleの社員が自社の開発が軍事利用されるのを嫌って猛抗議したり退社したりする事件が起こったが、そんなことをしたって、原理的には無駄であり無意味だということだ。

そういう意味では、ai が民生品として脚光を浴びている現在など、もはや軍事的 ai の活用法はほぼ確立されており、それらが民生品としてフィードバックされつつあると見ておいたほうが賢明というものだろう。

軍需の進歩にしたがって民生品の質があがってゆく。
どうにもしようのないジレンマをどう見つめていくかが、これからの時代、重要なのだろう。

結局のところ、「足るを知る」人類たりえるかが、世界存亡の鍵になるのだろう、と個人的には思っている。


蛇足だが、軍産複合は何も軍需品から民生品へのフィードバックという一方向のものではないということも、知っておいて損はないかもしれない。
戦車の開発過程などはその逆で、農業用トラクターという民生品からヒントを得て開発がすすめられたわけだ。
したがって、Google社員のように、かたくなに軍事利用を嫌ったところで、そうした開発がすすめられてしまうことは防げないということも理解できよう。
戦車へのサスペンションの導入もそういう経緯があったのだ。

もともと戦車にはサスペンションなんてものは装備されていなかたのだが、当時一世を風靡しはじめた民間自動車にあった技術に導入すれば、もっと荒れた土地の走破能力があがると気づいてサスペンションが戦車に導入されたというわけ。

だから、軍需品と民生品を無理に分けて考えることは出来ないということなのだ。

ipsilon at 11:10コメント(0) 

2018年12月20日

この国の政治は終わってるね。
太平洋戦争に向かっていった時期も政府が勝手に軍備強化を進めて、国民には「他国による脅威」やら「自国存亡の危機」だと説明してたわけだから、別段驚くような手法じゃあないけどね。

かつてナチスドイツのヘルマン・ゲーリングが言った――
「もちろん、一般市民は戦争を望んでいない。貧しい農民にとって、戦争から得られる最善の結果といえば、自分の農場に五体満足で戻ることなのだから、わざわざ自分の命を危険に晒したいと考えるはずがない。当然、普通の市民は戦争が嫌いだ。
しかし、結局、政策を決定するのは国の指導者達であり、国民をそれに巻き込むのは、民主主義だろうと、ファシスト的独裁制だろうと、議会制だろうと共産主義的独裁制だろうと、常に簡単なことだ。
国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。とても単純だ。

自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。
この方法はどの国でも同じように通用するものだ」

――という風にしているというわけ。

北朝鮮がー! 中国がー! ロシアがー! って騒いで、国土の軍事的防衛を考えない人は愛国心に欠けるとか、国家あっての国民だとかいって危機感をアジテーションすればいいということだし、今の日本はそういう風潮にあるわけだからね。

だいたいにおいて、空母に「防御型」なんてのがあるとかいう詭弁が凄いね。
そういうことを平気で答弁するとか、ありえない。

少なくとも前大戦でどのように空母が運用されたかを知ってれば、空母が攻撃のための兵器であることなど常識だ。
旧日本軍は開戦初頭なにをしたんだっけ? 主力空母6隻をもって真珠湾を「攻撃」したんだろうが。

軍事評論家なんかもとても頭がよろしいようで、戦闘機を搭載しても攻撃型にはならない。攻撃機や爆撃機を搭載してはじめて攻撃型だといえるし……とか言ってるしね。

馬鹿まるだしだ……。

かつての戦争で、アメリカは何をしたんだっけなぁ。日本はどう戦ったんだっけねぇ。
実際の戦争は軍事用語で解釈できたり分類できるものとは違うということすらわかってないってわけだ。

アメリカの戦闘機P51ムスタング。これは陸上から発進する戦闘機だけど、島嶼から飛び立って日本を機銃掃射したよね。
戦闘機だから攻撃に使用できないわけじゃあないんだわ。
いやいやそれはP51じゃあないだろ。いくらP51だってサイパンや硫黄島から来て、地表付近まで降下して機銃掃射はできないだろう。
であるなら、日本近海にいた空母から発艦したコルセアやヘルキャットだろうというならば、なおのこと戦闘機を搭載しただけでは攻撃型ではないなどと言えないってわけだ。

日本も同じ。敵を攻撃するためには手段さえ選ばなかったじゃないの。各種特攻から、戦車への肉弾攻撃。銃剣突撃に竹ヤリまで、ありとあらゆる手段を使ったんじゃないの。

そういう戦争の実相も知らんお馬鹿どもが、防御型空母だの、攻撃機を積まなければ攻撃型空母ではないとか言ってても、これっぽちも説得力なんかないんだよ。
人間なんてどんな武器であろうと、攻撃しようと思えば、攻撃に使うんだよ。
だから、武器をなるだけ持たないことが理想に決まってんだろ。あくまでも理想だけどね。

ともあれ、護衛艦「いずも」のことを少し調べればわかるが、政府が段階的に空母をもつためにあれこれと護衛艦に予算をつけていたことも窺えるわけ。
ゆくゆくはF-35Bを搭載できる空母に改装するつもりで、はじめからそういう建造計画がされてきたということだ。

かつての戦争に備えて、「大和」型戦艦を建造するのを国民にさえ隠蔽するために、「大和」型の建造予算を架空の潜水艦と駆逐艦という名目で獲得したやりかたにあやかってるとしか見えないわけだ。

んまあ、こういう大事なことを政府の一存、つまりは閣議決定で決めてしまう独裁国家は終わってるというわけだ。閣議決定っていうのは、まずまちがいなく実施されるってこともよく弁えておいたほうがいいですけどね。

安保法制からさき、様々な重要法案が与党自公(維新)の賛成で強行採決されてきたけど、その審議時間はどんどん短くなり、某首相なんかがいう丁寧な説明なんてどんどんしなくなってるというわけだ。

中国のファーウェイ製品の排除も情けない決断だ。アメリカの尻尾だけに致し方ない部分もあるのだろうが……。
しかし、かつての戦中を思わせる愚策だ。
戦前、日本の軍事技術が世界に比肩するようになったのは、諸外国からの技術導入があったからであり、戦中、技術導入がゆきづまって日本人だけで兵器の研究開発をせざるをえなくなったことで、悲惨なことになった歴史を思い出すべきだ。

こうした排除によって自分の首を絞める愚行はナチスにしても同じだった。
ユダヤ人をはじめとする民族を蔑視し排除し虐殺したことによって、ナチスは有能な科学者や発明家をむざむざ失い、戦争後半はトンデモ兵器、というかヒトラーが気に入った兵器しか開発できなかった事実があるからだ。
その点、アメリカやイギリスはまだずっとましだった。ユダヤ人であろうが日本人であろうが、優秀な人をきちんと生かしたのだから。

原爆開発に貢献したのはユダヤ人であったり、レーダー技術に貢献した八木アンテナは日本人の発明だったわけだ。

中国人だから、ユダヤ人だから、スラブ系だからと蔑視すべきではなく、また排除すべきではないのだ。
どんな人種であろうと、優秀な人はいるのだから。
しかしまあ、入管法改正の審議のニュースなどを聞いていると、日本はどんどん差別主義に進み、自らの首を絞めているようにしか見えないというわけだ。

南青山での児童相談所建設に対する住民の反対理由にはたまげたけどね。
「児童相談所を利用する方はみんな、低所得者で自分達とは違う世界の人。ていうかそういう人たちがやっててきて、ここの地価が下がったんじゃ、たまったもんじゃないわ!」ってね。
どんだけエゴイストなんや……。

自分が裕福だと感じられるのは、自分より裕福でない人がいるからという原理的な要因があることさえ気づけていないんだろうね。愚鈍すぎる。


しかしまあ、怒っても仕方ないんだな。
最近、レン・デイトンの『戦闘機』を読んでいて思ったのだ。感じたのだ。
ああ、けっきょくこういう風な個人的な怒りが集団的無意識になって戦争が起こるんだろうなと。
でてくる人たち皆がみな誰かに怒ったり怨みを抱えたりしていた場合がほとんどだったわけで……。

だから、戦争を望まず、平和を望むなら、自分にできることは些細だけど、怒らないでいること。
穏やかな気持ちで日々を過ごすことしか出来ないのだ、と。

ははは、でも怒っちゃうんだな、この記事のような感じにね。

この方のいってることが正鵠をえていると思うだけだ。


自分はたいしたことがない人間だなんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうようなことだからだ。
そうではなく、最初に自分を尊敬することから始めよう。まだ何もしていない自分を、まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。
自分を尊敬すれば、悪いことなんてできなくなる。人間として軽蔑されるような行為をしなくなるものだ。
そういう風に生き方が変わって、理想に近い自分、他の人も見習いたくなるような人間になっていくことができる。
それは自分の可能性を大きく開拓し、それをなしとげるにふさわしい力を与えることになる。自分の人生をまっとうさせるために、まずは自分を尊敬しよう。

(ニーチェ)


ipsilon at 14:10コメント(0) 
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