2019年03月23日

小説『オトゥール王の氷像』#18

――絆――

「それで我が君の具合はどうなのだ?」
 隻腕の族長デクスターが、蛇影じゃえい使いのオーブリーに訊ねた。
「心配ありません。侍医の話しによれば、重度の過労による麻痺症状ゆえ、数日、あるいは一週間もゆっくり休まれれば、回復するだろうとのこと。それに、王には手厳しい介護人がついておりますから、寝床を抜けだして執務もあいならんでしょう」
「智謀の将もまさか、老ブルック嬢がこのような役を果たすとは、見抜けなかったであろうな」
 デクスターは、王のかわりに執務机に座って、片腕で器用に事務をとりながら言った。
「世の中わからぬことばかりだという、王からの教えは間違っていないことが多い」
「卿のような特別な力をもった者でも、そういうものですか?」
 執務机の傍らに立ったオーブリーは、物珍しそうに辺りの品々を眺めながら訊いた。
「だいいち、卿のあだ名の意味すら私はよく知らない」
「これには妙な曰くがありましてね。かつての主君を亡くした場所に、トバイアス卿を導き、結果そのことがクリフォーレ王の本陣を探り当てることになったことに、由来するらしいのです。一見すると、凶兆に見えるものを吉兆に変える、勘のようなものが働く男だということらしいのです。それがし自身、そんな勘が働くとは思っていないのですがね」
「あだ名の由来はそこにあったか。あの頃の私は、ただもうがむしゃらに王の身を守ることしか考えておらなかったから、周囲で起こっていたことなど、まったく眼中になかった。それに私には卿が思っているような特別な力などありはせぬよ。言うなれば、卿が勘の働く男だと見られることを、迷惑に思っているのと似たようなものだ」
「そんなものですか」
「何しろ私は女が苦手でな。余人の多くは、親衛隊出身の者は、この世ならざる者の声を聞くなどと、まことしやかな噂を信じているようだが、女心さえわからず苦労しているのだよ。女人というのは、なにかこう、生きることをより強く生きているであろうことはわかるし、そういう意味では、がむしゃらなのかもしれないが、私の知っているがむしゃらとはどうも違うようなのだ。我が君が妃をめとろうとしない気持ちがわかるというものだ」
 オーブリーは理解できるようで、やはりよく解らないような不思議な感覚で、デクスターの弁を耳にしていた。彼には妻がいたからかもしれない。
「ともあれ私としては、老嬢と卿がいることで、いささかは安心して執務がとれることは確かだよ」
 デクスターは書類に落としていた視線をあげてそう言った。
「それにしても、ここは案外と賑やかですな」
 桟敷の下からは、寛大なる巨漢ネッドの手ほどきをうけながら、武術の修錬に励んでいる、エイダンの熱っぽい声とともに、それを応援しているのか、シアーシャが啼きたてているのが聞こえる。
「あの鵞鳥はまだ紅鱒を持ち帰ってくるのですか?」
「いまも毎日だ」
「確かに、世の中わからぬことばかりのようですな。さて、そろそろ某は、心の読めぬ人たちのところへ足を運ぶことにしましょう」
「苦労は多かろうが、宜しく頼みます」
 戦禍がさって三年の月日が流れ、人びとは表面上は平穏を取りもどしていた。だがまだ目に見えない傷を抱えて苦しんでいるものは多かった。
 そして、そうした人びとのことで、また別の場所で悩む男がいた。智謀のトバイアスであった。
 クリフォーレ王の治する国、イングランドに赴任してから、彼を最も苦悩させたのは、傷痍病者や戦争寡婦と孤児に対する彼の王の不配慮だった。クリフォーレ王の施策は、ほとんどといってよいくらい、その方面に注がれていなかったのである。施策の矛先は、アイルランドに対する遺恨を起点として、その政治力は再侵攻に必要な武器防具の製造、物資穀物などの増産、集積に注がれ、農夫や商人はもちろんのこと、町人や職人たちといったあらゆる階層の人々を、なかば強制的に協力させることに向けられていたのだ。
「予の施策に不満を抱くべからず。憎きアイルランドを攻め滅ぼし、彼の地にある豊穣な品々を手にすれば、我らの辞書から、貧窮という文字は消え失せるのだ!」という標語スローガンのもとに、すべてが運ばれていたのだ。
 しかしトバイアスは、そうした問題への対策をクリフォーレ王に進言して、一つ一つ突き崩していった。アイルランドの軍事的実状を包み隠さず提示して見せ、過剰に集められた武器防具を解体し、生活の資材として放出して分配させ、金融や資産の物量にあった不均衡を正常化させ、人びとの多様な思想や価値観を認める教育をゆきわたらせていった。そして、傷痍病者や戦争寡婦と孤児に対して、手厚い保護を施していったのだ。遺恨と猜疑に駆られた人びとに理解を芽吹かせることは容易ではなかったし、クリフォーレ王の猛反発を受けなかった事例など一つとしてなかったが、それでも懇切丁寧に王やその臣下や民人を説き伏せていった。時には不足している品々をアイルランから運び込んでまで、イングランド王とその民人のために尽くしたのである。そうした措置は、敵に情けを受けることを潔しとしない心情を欺くため、わざわざ遠い海路を通してイングランドに運び込んだのである。
 そのようにして、三年の月日が過ぎたとき、クリフォーレ王をしてこう言わせたのである。
「トバイアスという男、なかなか賢いようである。智謀の将というのは、戦上手なだけでは無いようだな」と。
 そしてなによりも、クリフォーレ王を喜ばせたのは、酒宴の席で朗読された、ホメロスの叙事詩『イリアス』だったのである。もとより気性激しく、豪気な王である。そのあり余る戦意の杯を満たす酒として、ホメロスの叙事詩が役立ったのである。これはもちろん、トバイアスにとっても存外の出来事だったが、それに気づいた彼は、まるでホメロスその人のように、ときに轟々と燃える焔のような情熱を滾らせ、ときに目に涙を湛え、悲哀を溢れさせながら、歌ったのだ。
 万感の思いを込めて歌われた第六歌――、きらめく兜のヘクトルと、その妻アンドマケが、乳飲み子である息子アステュアナクスを挟んで、それとは知らず交わされる、永遠の別れの場面で、クリフォーレ王は目に涙を浮かべたのである。
 ――この人にしても人の親なのだ。
 トバイアスは深い感慨にうたれた。
「わたしは生まれてはじめて父の涙を見ました。鬼のような顔しか見せたことのない父がわたしは嫌いでしかたないのです。けれども今宵、少しだけ父に心を許せた気がしたのです。父はわたしが知っている安らぎとは無縁にある可哀想な人なのだと思えたのです」
 そうトバイアスに囁きかけたのは、いつも酒宴の席にいた、クリフォーレ王の一人娘、ノードゥス王女であった。王の妻は気の強さでは夫の人後に落ちない性質であったが、柔和な乳母に育てられた王女にはどこか穏やかさがあった。しかし、そうは言ってみたものの、ノードゥス王女は己が心情を人に語ることに慣れていないのか、かすかに頬を赤く染めてそう囁いたのだった。
 ともあれトバイアスは、そのとき、王女の胸に兆した、憐れみと赦しの感情を目にし、耳にしたのであった。
 ――遺恨強き王とその妃。そして二人のあいだに生れた娘。まだ時間はかかろうが、同じ血の流れる親子であれば、いつかクリフォーレ王の胸にも赦しと憐れみは生まれる。
 トバイアスはその夜、心奥からそう信じることができた。
 故国を離れてから、すでに七年の歳月が流れ去っていた。

――#18――

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ipsilon at 19:10コメント(0)小説『オトゥール王の氷像』  

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