2019年01月

2019年01月31日

まだ創価学会の信心というものにつよく傾倒していた頃のことである。
唱題しながら辿りついた答えがあった。
それは、道理に見合ったことは祈ってもしかたないのではないかということだ。

あるいはまた、他人の幸福を祈るといっても、結局それはこちらの主観で見た、自分勝手な他人の幸福であって、その人自身が願う幸福、またはその人自身にとっての幸福であるとは限らないのではないか、と。
例をあげるなら、他人の病気が治ることを祈るのは当たりまえだということは、違うと思ったということだ。
病気になったことでしか知りえない、気づき得ないこともあるからだ。
誰かの無病息災を祈ることは善いことという気持ちはわからなくもないが、それが本当にその人にとっての幸福かどうかを決めるのは私ではなく、その人自身ではないかと確信したということだ。

いい換えるなら、自分の思うエゴイスティックな幸福を他人に押しつけるるような祈りなど、祈りでも何でもないと気づいたということだ。
だとしたら、他の存在にたいして祈れるのは、「生きとしいけるものが幸福でありますように」くらいのものだと気づいたということだ。

また、先のものを換言するなら、努力して実現しそうなことを祈ることには意味がないということであり、叶う叶わないは別としても、現実の努力で実現できることは、むしろ祈るのではなく、それが実現される道理を隅々まで考えぬいて実践することではないかと思えたのだ。
しかし、そうした祈りと道理について、その後より深めていくような思索をしたことがなかった。また、そういう機会にも恵まれてこなかったようだ。

そして今回、梨木香歩『雪と珊瑚と』を読んでいて、衝撃的な文章に出会ったわけだ。

「フランシスコは、野の草や鳥、森羅万象あらゆることに対して、慈しむ気持ちを持っていらした。弟子に対してすら、『服従する心』を持っていらした。けれど、彼が自分に対することで一貫して弟子たちに禁じていたことがあったの。それは自分が祈っているとき、覗き見をしたらいけないということ」(中略)
「祈りだけは、他者と共有できない。祈りは、個人が個人であることの根本にあるもの」
これは彼女がさっき、「信仰のことは人には言わない」と言ったことの、くららなりの補足なのだと珊瑚は感じた。


フランシスコというのは、むろんアッシジの聖フランシシコのことだ。
しかし、大事なのはもちろんそこではなく、祈りの本質について梨木が語っている部分だ。

そして昨夜から読みはじめた、宮城谷昌光『会社人間上昇学』という、中国古典をとおして、いわゆる帝王学を語っている本にも、似たような記述を見出したのだ。
余談だが、宮城谷さんの文章の巧緻さも感じとって欲しい。
此処ぞというところ以外には漢字を使わない。漢字だけ拾い読みすればおおよその意味が掴める文体になっているのだ。ある人にそのように苦言を呈されたのだと語っていましたけどね。
わたしもそういうことを意識してタイプしているのだが、まだまだのようだ。

筆者は、中国に文字が生まれたころと、それから人間のことばのかかありあいについて、つくづく考えたことがある。そして、こんなことを想い定めるようになった。
一、祈りについて――、祈りは、祈る姿もその内容も、けっして他人に知られてはならない。もし知られたら、その祈りは無に帰すだろう。


また、併読している、ナタリー・ゴールドバーグ『クリエイティブ・ライティング<自己発見>の文章術』にもそのような趣旨のことが書かれていた。

自分の思いをノートに書く。そうしていくことで、自己の内面にある本当にやりたいこと、自己の本当の気持ちに気づけるのだ、と。だから、ノートに書いたものを人に見せてはいけない、と。


自分が芯から求めるものに、短い期間に連続的に出会うという不思議は何度も体験してきたことだが、今回のものはちょっと次元が違った。

考えてみれば、西洋中世ファンタジーの世界などでも、悪魔の名であるとか、神の名を決して声に出してはいけないとかあったわけだし、中国という国では、古代から本名は家族内でしか口にせず、字を用いてきたとか、祈りの本質に似た禁忌というのは、世界中いたるところで目にできるものだと気づいたわけだ。
日本であるならば、『鶴の恩返し』などもそうだろう。

調べてみたところ、こうした禁忌は、「見るなのタブー」と呼ばれ、世界各国の神話や昔噺にあることがわかった。
そしてまた、聖書にもあったのだ。


あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(マタイ6章6節)



ではなぜ、祈りと祈りの内容を人に見られたり、知られてはいけないのか?
考えてみれば、当たりまえのことだろう。
祈りの内容を他人に知られたなら、それはもはや祈りでもなんでもないからだ。
祈りではなく願いになるであろうし、他人に知られるということは、自分はこうしたい、こうなりたいという意志表示――悪くいうならば、自己認証欲求にすぎないし、自己顕示欲でもある――に落ちぶれるし、他人に自分の願っていることが実現するように頼んでいるのと変わりがないからだ。
そういうことになるなら、道理を尽くして説明し、協力を請えばいいのであって、祈る必要性はどこにもないということだ。

宗教、信仰、そして祈りに関して、自分がいかに世間一般の常識とやらに染まっていたのかに気づいたというわけだ。
換言するなら、宗教団体の利益のためにつくられた祈りかたを祈りだと思いこんでいたことに気づいたわけだ。

大体においておかしいではないか。
創価時代の自分を思い出しただけで、それはすぐにわかった。
拠点の仏壇に地区の目標であるとか、境涯革命5原則だとか、日顕宗撲滅だとか、公明大勝利だとか書いて、皆でそれを祈るとか、おかしいわけだ。
そういうものは、全て道理にしたがって努力すれば叶うものだからだ。

選挙に勝つために祈る? 馬鹿らしい。
選挙に勝ちたければ、勝てる道理をとことん追求して、それを実践すればいいのだ。実際創価はそういうことをしているから、宗教団体ではなく、政治団体であるともいえるわけだ。
境涯を変えたいなら、変えられるような道理を追求して、個々人で努力すればいいのだ。
日顕宗を撲滅したいなら、実際にそういう行動を起こせばいいだけだ。

世界平和だの広宣流布も同じだろう。
そうなるように道理を追求し、実際に努力すればいいだけだ。例えば、世界平和であるなら、カントの著した『永遠平和のために』のように、道理を尽くし、理性的に考え、それを実践しようとすればいいだけであり、そこには祈る必要性はないのだ。
こうした欺瞞に気づいてしまうと、宗教団体というのが、いかに偽善であるかに気づけるのだろう。
信者と書いて儲かるというのが心底納得できるのだ。


そのように考えれば、そもそも祈りというものが、現実を変えるための神仏へのお縋りなどではなく、超自然であるとか、神秘であるとか奇蹟であるとかを望むものであるということがわかるはずだ。

犬が飼いたいなら、犬を手に入れればいい。
彼氏・彼女が欲しいなら、作る努力をすればいい。
裕福になりたければ、働けばいい。
世界平和を願うなら、絶対平和主義者になればいい。
努力すれば出来ると考えられることを祈ることに何の意味があるのだというのか。

この信心が正しいことは、いつかは科学によって証明される云々。
だったら、信仰なんていらないであろう。科学で証明されるなら、科学的な対処をすればいいだけだからだ。
科学で祈りが叶うことが証明されるなら、祈る必要はない。科学を用いればいいだけだなのだから。

であるなら、祈りとは、努力しても叶わないと思えることを祈りと言うのではないだろうか。
例えば、天候の不順による穀物の不作だとか、そういものだ。

もっとわかりやすく言うならば、結局のところ祈りとは、自己の中にある創造性、――未来を切り開く自己の中に眠っている力を湧きおこらせる為のものといえるだろう。
だから、祈りは他人に見られたり、知られてはならないのだろう。

他人に知られ、見られてしまうことで、自己の中にある創造性が外部に零れでてしまい、その力を失うからだ。
何というか、こんな当たりまえのことさえ、歪曲され、隠されているという事実は恐ろしいことだ。

いや、それ以上に、自分の思ったこと、自分の中に宿った想いを、ここで舌を回して語ってきたことが、いかに馬鹿げたことであったのかに気づけたことは、まことに大きな収穫だと気づいたというわけだ。

想いや祈りは語らない。語るなら道理を、といったところか。


模倣することは過去をつかみとることであり、創造することは未来をつかみとることである。
しかし、いくら先が見えていても成功はそこにない。成功とは自分自身にあるからである。つまり、模倣する自己、または創造する自己が、はっきりみえる人間こそ成功者である。(中略)
「おのれを知る」のは至難のことである。むしろ人の一生は自分自身をたずねつづける旅であるといってよいかもしれない。

(宮城谷昌光)



天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。
(小林秀雄『モオツァルト』)



つまることろ祈りとは、誰にも知らせずに黙って行為する表現の異称だといえよう。
誰かに祈りや想いの内容を言ってしまった瞬間、それは欲得になり損得になり、利害になり、打算になるということだ。




まあ、そういうことだよねー。


中島岳志が信仰の必要性を痛感したときの挿話が興味深い。
自身、阪神淡路大震災で被災したとき、ある倒壊家屋で出会った人を見て、彼はこう思ったのだそうだ。
「きっと生活のために必要な通帳とか印鑑を探しているのだろう」
そのように思って声をかけたのだそうだ。
そのとき、その人はこう答えたのだそうだ。
「決まってるじゃないか、お位牌を探してるんだよ」
中島は絶句して、自分の愚かさに気づいたのだと。
人間が生きるためには、金とか物とかよりももっと根源的なものが必要なのだと。

梨木香歩『雪と珊瑚と』のなかでも、同じような挿話が紹介されている。
アッシジの聖フランシスコ礼拝堂が、地震で崩れた。
生き埋めになった人、住処を奪われた人がいるなかで、フランシスコに篤信な気持ちをもつ人々が、崩れたフレスコ画の破片をひとつひとつ集め、数年かかって修復したという挿話だ。

むしろ他にやらなければならないことが山積みになっていた状況で、彼らが、なぜそこまで必死になったのか。自分の家がガラガラと音と立てて崩れ去るっていうのは、大変なことよ。それにも増して、幼い頃から敬い親しんできた聖人たちの像が崩れ去るっていうのは、自分たちを形づくってきた何かの瓦解にも等しいこと。聖人たちの像を繋ぎ合わせようとする試みは、被災でバラバラになった自分自身を繋ぎ合わせる作業の始まりでもあったのだ、と。

被災して大事なのは、とりあえずの衣食住。それも確かだ。しかしそうした衣食住いぜんに自分という存在が崩壊してしまったら、衣食住など意味をなさないのだ。
信仰や祈りとはそういうものだろう。
そうした思いに立てないなら、信仰も祈りも捨てて、唯物論者とか拝金主義に生きる方がまだましかもしれない。
折伏何世帯決めましたとか、本流何世帯できましたとか、今年で何千万遍に到達しましたとか、そんなことを誇るのが信仰ではないということだ。誰かに認めて欲しいという顕示欲の提示を信仰と呼ぶなかれということだ。
そんなことをするのは、むしろ信仰の道から外れていくことなのだから。

このあとにつづく梨木さんの語りこそ真実だとわたしは思った。
信仰はそのように個人的なもの。であるから他人の信仰にあれこれいったり、教義を振りまわして、他人の信仰を云々すべきではない。ある意味では哲学や観念を振りまわすこともそれと同義。
結局のところ、われわれに出来る支えあいというのは、そうした信仰心に踏み込むことなく、被災した人に温かい食事を手渡してあげることとか、住居を失い、服も擦り切れたまま寒さに震えている人に、毛布をかけてあげるといった、物理的なことしか出来ないのだと語っているのだ。

中島さんも、体験でそういうことを知ったからこそ、真の宗教や信仰の大切さを語っているのだろう。
信仰とは結局、自分を自分たらしめているものだといって過言はないのだ。

だからこそ、自己の信仰を見つめ直す作業は困難だし、また他者の信仰を批判することは無慈悲でもあるのだろう。

ipsilon at 21:38コメント(0) 

2019年01月30日

作品と作者は分けて考えたほうがいいという。
梨木香歩の『雪と珊瑚と』を読みおえたとき、あるいはまた、読みおえて暫くたったあと、そのことを随分考えた。
実際には、そのあと太宰治の『さよならを言うまえに』を読んで、今に至るのだから、その間に考え、今は概ねこのように思うという考えが生まれたといえば比較的正確か。

そうした統合的とでもいうべき評価判断にいったた今になれば、「これはこれでいいんじゃない」というのが、わたしの率直な感想だ。読書メーターの感想で述べたほど『雪を珊瑚と』を酷評するつもりはない。

読んでいるとき、読んですぐ、また暫くたってからも、「あの部分は良かったな」と思いつづけている箇所もあるのだから。

結局のところ、人の心なんてものは、それぐらい移ろいやすく感想などといったところで、まったく当てにならないということを、つくづく思ったということだ。
そういう意味でも、作者と作品はわけて考えたほうがいいのだろう。

そもそも作者が存命であるなら、作者はすでにその作品を書いたときの心情どおりにあるはずがない。
でありながら、作品は文字や言葉という形体をとって変わらずに存在しつづけているわけで。
そもそもにおいて、作者と作品にはそのような開きがあるのだ。
加えて言うならば、読者もまた存命であるならば、先に述べたように、心は常に変化しつづけるのだから、作品に対して固定的な評価をくだすことにも意味はないわけだ。

例えば、作者が故人となって、作者も作品もある種の固定された存在となれば、作者と作品を同一視することもよかろう。
しかし、その場合であっても、読者の心はやはり固定的な存在ではないのだから、作者が故人となって固定的になろうが、作品が改稿されることなく永続的に固定的な文字言葉となっても、やはりそれは、読者の心に起こる変化、あるいは読者が読んでいる環境や精神状態に左右され、評価や感想が変化することは免れないだろう。
こうしたことを考えれば考えるほど、釈迦が最期に残したこの言葉は、輝きをいや増してくるのだ。

もろもろの事象は過ぎ去るものである。

そのようにして「作者と作品を同一視しないほうがいい」というこを考えてみたとき出てくる答えらしきものは一つなのだ。
作者に関しても、作品に関しても、固定した評価判断をしないようにすればいい。
そのとき感じたものを素直に信じておけばいいが、かといってあの時ああ感じたんだなんていう「執着」を持たないようにすればいいということだろう。

そのときはそう感じたんだからしょうがないじゃない。でも五分経って、感動して付箋を貼ったところを読みかえせば、また違った感情が湧くのだから、そのときはまたそのとき感じたことを信じればいいだけなのだろう。

そのようにあることが難しいであろうことは、わたしだって理解している。
けれども、釈迦の最期の言葉を吟味するなら、そのように生きるのが理想といえるのだろう。


わたしが大の太宰ファンだといっても、彼の言葉や思想のすべてを肯定しているわけではない。
毒舌を吐いて、志賀直哉ほかを罵倒する『如是我聞』とか、何度読んでも不愉快だ。
しかし不愉快でない部分もある。
ああ、太宰さんも、作者と作品を同一視してしまって、志賀を罵倒しちゃってたのね……悲しいな。
そう思うこともあれば、彼独特の語り口で真実を語っている部分に感動したりもする。
若い頃から世間から見れば懶惰な生活をして、39歳にして、精神的にも肉体的にもボロボロだったからこそ、それまで冷静に忍耐して黙って見守っていたことにも、苦言を呈さざるを得ない精神状態だったのだろう。
そう思うと、志賀への罵倒がより一層悲しく見えてくるのだ。

そこまで想像して、精魂ともにもはや疲れ切り、生きる限界にあったであろう太宰の真意がどこにあったのかを読みとる以外にないのだろう。
気焔を吐きながら、喀血しながら、咳き込みながら、喉を嗄らしているような声で絶叫した先にある彼の真意。遺言のようなもの。
そうしたものを読みとるように作品と向かいあうのが、読者たるものの努めではないかとさえ思うのだ。

彼の作品に『自身の無さ』というのがある。
昨今のお偉い評論家さんたちは、わたし(太宰)の作品にしろ、若い人たちの作品にせよ「自信」がないというが、まずはその自信のなさを肯定しなければ、若い人は育たないんだと語っている作品だ。

自信がないのなんて駄目だ。そう否定すれば、自信のない人はもっと自信を失うわけだ。
卑屈になるわけだ。「自信」がないのは駄目なことなのか。じゃあ俺は駄目だなと。

しかし、太宰の思想は違う。
自信がないなら、その自信のないことにまず自信を持て。そうやって小さな一歩から自信を育てていく芽を潰すなと言っているわけだ。

アダルト・チルドレンの本を書いた西山明が言っている。
自信はないけど、生きていく。

太宰が勧めているのはそういうことだろう。
自信がないということには自信がある。それだけでも人は何とか生きていこうとするものなのだ、と。

お偉い評論家というのは、そういう生きるための僅かな芽さえ、潰そうとするということだ。


民主主義の本質は、それは人によっていろいろ言えるだろうが、私は「人間は人間に服従しない」あるいは、「人間は人間を征服出来ない、つまり、家来にすることが出来ない」それが民主主義の発祥の思想だと考えている。
(太宰治『如是我聞』)




ipsilon at 22:29コメント(0) 

2019年01月26日

大善を称するよりは小善を積め、という言葉がある。

社会を構成する最小要素とはなんだろうか。いわずもがな、個人である。
しかし、個人をさしおいて社会や政治はこうであらねばならぬと語ることによって、結果個人を排斥する全体主義が生まれる。
極まて当たりまえのことをを太宰は言っている。
これは机であるというのは科学的な解釈ではない。科学でもって思考するなら、机を構成する最小単位は原子である。
その小さな原子一つ一つが秩序だち、それぞれの役割をはたしているからこそ、机は机たるのだ。
そうした視点を差し置いて、良い机とか、役に立つ机という大枠を語るから、社会に捻じれや衝突が起こるのではないだろうか。


烏もただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらで無く、漆黒の翼も輝いて見事に見えるけれども、数十羽かたまって騒いでいると、ゴミのようにつまらなく見える――

人もまた同じだろう。付和雷同、長い物には巻かれろ、唯々諾々こそ害悪だからだ。


ただもう聖賢の言葉ばかり暗誦させられて育って来たが、この東洋の誇りの所謂「古人の言」は、既に社交の詭辞きじに堕し、憎むべき偽善と愚かな迷信とのみを醞醸うんじょうさせて、その思想の発生当初の面目をいつのまにやら全く喪失してしまっていたのだ。


宗教の教えにせよ、箴言、格言、諺にいたるまで、それらが本来伝えんとしていた意味が、後世の弟子や人々の安易な解釈によって歪められてきたということだ。
「働かざるもの食うべからず」とは、働けないなら食うな、死んじまえという意味ではない。本来は、定職をもっているのに働かない者は食うなだ。

「目には目を、歯には歯を」は、やられたらやりかえせという意味ではなない。犯罪を犯すと、それに見合った裁きを受けるのだから、よく考えて行動しなさいとい注意喚起だ。

いわゆる名言というのは、繰り返して使われれば使われるほど、本来もっていた意味が失われて歪曲されるということだ。意味が堕落するのだ。


三人の同盟には、そんな、日本語不自由組だの「ウマが合った」だのの観念を超越した何か大きいものに向かっての信憑と努力とがあったのだが、それが何であったか、私にはどうにも、よくわからない。相互の尊敬というものであろうか、隣人愛というものであろうか、或いは、正義とでもいうべきものであろうか、いやいや、そんな気持ちをみんなひっくるめた何かぼんやりして、もっと大きいもののような気がする。或いは、藤野先生がよくおっしゃっていた「東洋本来の道」というものが、それに当たっているのかもしれないが、どうもよくわからない。

いうなれば、こういう文章こそ、太宰の真骨頂なのだ。
太宰ファンはこういうものに痺れるはずだ。逆に太宰が嫌いな人は、こうした、まわりくどいまどろっこしさに辟易し、だから何が言いたいんだよ、一言ではっきりいえと思うのだろう。

ではなぜ太宰はこんな言い方をするのか。
なにか特別な感覚を抱いたとき、それを言葉にしようとした場合、その言葉には個人差が表れるのであり、その個人差は言葉で決して埋められないものだということを太宰はこの文章で伝えんとしているのだろう。
人と人の共感の底には言葉では決して伝えあえないものがあると言いたいのだろう。

例えば、スポーツ選手たちが、互いにいいプレーが出来たときどうするか。
抱き合う。握手する。ハンドタッチをする、肩を叩いたり腰を叩いたり、肯いたりする。そういうことだ。
言葉を喋らない犬や猫の感情らしきものを、人は読み取った気になれる。そういう、言葉にできない共通感覚こそ、人と人、生きものと生きものを根底で繋ぐのであろう。

優しいという感覚を言葉にするにしても、人それぞれ微妙にニュアンスが違うということだ。
優しくされたとき、ぽっと出てくる言葉は人それぞれなのだ。
「あんがと」の人もいれば、「助かった」の人もいる、「おおきに」の人もいれば、「ええな、そんなん」の人もいるが、そこで感じた感覚に違いはないわけだ。大事なのはその感覚であり、それを表した言葉ではない。言葉に拘りすぎて味わった感覚を見失うなど馬鹿の極み。いわんや、標語や格言や箴言にある言葉の意味だけを見るなど、愚の骨頂。

感覚を無理に言葉にする必要もないし、言葉にできない世界で共感しあえる関係こそ真の友情だと、太宰は言っているのだ。
会いたいなんてのは言葉にできない典型的な感覚だろう。

だからといって、太宰が先の長ったらしい文章で書いたことを一言でいい表わせないわけでもないのだ。
それは読みすすめていけばわかる。ちゃんと後の部分で、ここで語ったことを太宰は、彼個人の感覚でいうなら「人柄」だと、ちゃんと表現しているのだから。
こういうところが太宰の一筋縄ではないところなのだろう。

先の太宰の文でいうならこうなるか。
太宰の感覚では「人柄」と思える感覚も、人によっては「ウマが合った」だし、また人によっては「尊敬」であり、また人によっては「隣人愛」、また人によっては「正義」あるいは「東洋本来の道」という言葉になって浮かんでくるということだ。

わたしは、ここで引用した文を読んだあと考えた。
俺がこれを一言にするとしたらどうかな? うーむ……。
志、違うな。相性、これもちゃう。空気感、ちゃうちゃう。ていうか「人柄」だろうな、と思ったのだ。
阿呆面をして、だらしなく口を開けて、天井を眺めながら、そんなことを思索したのだ。

だから、嬉しかったですよ。あとから太宰がここの部分の感覚を一言でいうなら「人柄」だと語っていたのはね。


交友とは、信じ合う事です。他には何も要りません。


太宰が人間関係の基になにを見ていたかが解る一文だ。
繰り返し繰り返し、彼が語ってきたことだ。


文明というのは、生活様式をハイカラにする事ではありません。つねに眼がさめている事が、文明の本質です。偽善を勘で見抜く事です。この見抜く力を持っている人のことを教養人と呼ぶのではないでしょうか。

つまり、その人が使った言葉、あるいは文から、その人の人柄を推し量り、偽善者であるなら離れる、付き合わない賢さをもった人を教養人というのだろう。
逆もまたしかり。その人の使う言葉にまったく偽善がない。だからこそ、こちらから働きかけてでも、友人になろとするのが教養人でもあるのだろう。

文は人為りとは、よく言ったものだ。
文を明らかに見れるのが教養人。
太宰の言葉は美しい。


和というのは、ただ仲よく遊ぶという意味のものでは無い。互いに励まし合って勉強する事、之を和という。


大和魂なんて言葉も、昨今は本来もっていたであろう語意を完全に失っている。
国のために殉じるのが大和魂。
たとえ命を失おうとも国や天皇のために忠勤するのが大和魂。
馬鹿らしいにもほどがある。


本作『惜別』では、言葉の悪い使いかたの例も沢山書かれている。
例にあげるなら、矢島からの手紙がその典型だろう。
恫喝や威嚇、あるいは他人を支配するために言葉をつかう。これがいちばんの悪なのだと。

また、義歯であることからくる、自分の感覚の不全を顧みもせず、あの店の天蕎麦は油くさいとか、どこの店の料理は固くて筋があるとか言う津田の傲慢さを抉りだすあたりも、なかなか読み応えがあるのだ。
他人を批評し非難する感覚はこれと同じだ。
自分がそれをどう見ているかを知らず、見えたものに怒りをぶつけ、悪し様にしているということだ。

しかし、そういう津田や矢島さえ、最後は赦してあげて優しく包むのが太宰。
現実の太宰がそこまで寛容だったとは思えないが。むしろ腹が立つ相手に憎悪を燃やした人であろう。前半生は川端康成に激怒し、後半生は志賀直哉に憤激した彼なのだから。
だが、少なくとも彼の描いた作品は優しさに溢れていることは間違いない。

そういう点で、作品と作者を一緒にして崇拝しないことも大事なのだろう。

とにもかくにも、とても感想を語りきれない名作。
読んでもらうしかない作品だ。


これにて、新潮文庫で読める太宰作品は完読となった。
長かった――でもよく頑張った、自分!!


もう何年前になるかも忘れたが、先輩とこんな会話を交わしたことがある。

「だからお前さ、そんだけ言葉に敏感なら、その言葉にある相手の心だって見れるだろう。言葉だけ見てないで、その奥にあるものを見ればいいだろう」
 僕はしばらく沈黙してから答えた。
「いってることはわかりますよ。でも、でもですよ、結局のところその言葉は、その人の心から生まれたものですよね。だったらその言葉を見ていれば、その人がどんな心かはわかるんじゃないですか。だから僕は相手の言葉を見るんです。その言葉に相手の本心を見てるんですよ」
 こんどは先輩が黙った。そしておもむろに口を開いた。
「それは確かにそうだ。その通りだ。だけどさぁ……」
「……」

どっちでもいいじゃん。
今ならそう思える。
どっちも間違ってないよ。
今ならそう思える。
そんな一刀両断にできるようなものじゃない。それだけのこと。

当時の自分の屁理屈。理論でもって相手をやり込めようとした意地汚さが恥ずかしい。
だけどやっぱり僕は言葉を大切に使う人は美しいと思っている。
それは今も変わらない。

人に向かって、働かざる者食うべからずとか、死ねとかクズとか、あほんだらとかいう人の心は汚辱に満ちていると確信している。
だって、その言葉を吐き出したのはその人の意志なんだからね。それは偽りのない事実だからだ。
心にそういう言葉が浮かんでも、口から外に出さない自制心は誰でも持っているはずだからだ。
結局そういう人は、心が汚いというよりは、汚い行為しかできない人というのが正確なのだろう。

心そのものが汚い人なんていない。けれども行為が汚い人は一杯いる。
そういうことなのだろう。



これは毎日起こるかもしれない
僕のなかの戦争
戦う相手は他の誰でもない
自分を相手の戦争

問いかけることを止めれば
負けてしまう
簡単に


この曲が発表された頃、マッキーのコンサトートに行ったときだったはずだ。
MCの場面でマッキーがこんなようなことを語っていた。
「あのね、この曲を聞いたファンから手紙が来たのよ。で、そこにはこう書いてあったのね。マッキー戦争になんていかないで! と。いやそうじゃないんだ、これは僕の心の中でおこる葛藤を戦争という言葉にして表現しただけなんだけどね、どうもね、伝わらなかったみたい」と。

馬鹿なファンがいたものだと嘲ることは簡単だろう。
でも、それだけマッキーが好きで好きでたまらない心理は、とても美しいと思うわけ。
そのように言葉を理解することが大事だと思うのだ。

言葉は案外、というか相当に難しいんだな。

ipsilon at 20:24コメント(0) 
これも将軍家の無邪気な霊感でございまして、無邪気の霊感というのは、その時には、たわいなく見えながらも、あとあと、月日のたつにつれて、不思議に諸事にぴったり的中いたしまして、万人の衆議にはるかにまさる素直な適切の御処置であったという事がわかってましりますような工合のもので……。


将軍家の御胸中はいつも初夏の青空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか、怒るとかいう事はどんなものだか、全くご存じないような御様子で、右は右、左は左と、無理なくお裁きになり、なんのこだわる所もなく皆を愛しなされて、しかも深く執着するというわけでもなく水の流れるようにさらさらと自然にご挙手なさって居られたのでございますから、その日、相州さまに仰せられた事も、ほかの意味など少しもなく、ただ、あの御霊感のままにきっぱりおっしゃっただけのことと私は固く信じて居ります。



実朝にあった霊感を述べた部分を抜き書いてみた。
霊感といっても、特別なものではなく、誰の心にもあるものであろう。
ただまあ、それがどんなものか感覚的に知っていないと、言葉には出来ない部分はあるのかもしれないが。

実朝、というよりも、太宰がいつもこうありたいと思っていた心がどんなものかがわかる一文として美しい。
太宰の普段の作品は、その反対の表現、光と影であれば、影の部分をもって表現し、光を感じて欲しいと願っていたのだろう。

初夏の青空の如く爽やかな晴れと読んで、この歌が頭の中に浮かんだ。
きっと太宰がいつもこうありたいと思っていた心は、こういうものだったのだろう。
心よ、永遠に晴れた青空であれ! と。



誰もがおなじ
空のしたで
息をして
語りきれないほどの
Love is all Loveis all Love is all
胸に抱いて


語りきれない……つまり、愛とは言葉に出来るような気持ちじゃあないと。


もう一曲。ハイ、ドン!



すべてをただ信じてた
あの日の青い空


この胸は
五月の青い空!


ハイ、御一緒に!
アインツ、ツヴァイ、ドライ、フィーア、ハイ!


♪この胸は
五月の青い空〜!


ipsilon at 03:43コメント(0) 

2019年01月24日

『女の決闘』

念々と動く心の像のすべてを真実と見做してはいけません。自分のものでも無い或る卑しい想念を、自分の生まれつきの本性の如く誤って思い込み、悶々としている気弱い人が、ずいぶん多い様子であります。卑しい願望が、ちらと胸に浮かぶことは、誰にだってあります。時々刻々美醜さまざまな想念が、胸に浮かんでは消え、浮かんでは消えて、そうして人は生きています。その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間には在るという事を忘れているのは、間違いであります。念々と動く心の像は、すべて「事実」として存在はしても、けれども、それを「真実」として指摘するのは、間違いなのであります。
(太宰治)


生れてから初めて、拳銃と云うものを打って見ました時、自分が死ぬる覚悟で致しまして、それと同時に自分の狙っている的は、即ち自分の心の蔵だということがわかりました。それから一発一発と打つたびに、わたくしは自分で自分を引き裂くような愉快を味わいました。
(作:ヘルベルト・オイレンベルク 訳:森鴎外 )



『乞食学生』

法律、制度、風俗、それがどんなに、くだらなく見えても、それが無いところには、知識も自由も考えられない。大船に乗っていながら、大船の悪口を言っているようなものさ。海に飛び込んだら、死ぬばかりだ。知識も、自由思想も断じて自然の産物じゃない。自然は自由でもなく、自然は知識の味方をするのでもないと言うんだ。知識は自然と戦って自然を克服し、人為を建設をする力だ。謂わば、人口の秩序に拠らなければ、生き伸びて行く事が出来なくなっている、というんだがね。君が時代に素直で、勉強を放擲しようとする気持ちもわかるけど、秩序の必然性を信じて、静かに勉強を続けて行くのも亦、この際、勇気のある態度じゃないのかね。

国をあげて軍国少年を作っていた時代に、こういうことを正々堂々述べる太宰の気持ちがどんなものだったかは、説明するようなことではないだろう。
この一文には、怠惰で奔放な学生生活を送った太宰自身の苦い悔恨と反省という経験があるのだろう。
はじめのほうの場面に、玉川上水の流れ、自然の流れにありのままに乗っていけることこそ理想であるのだが……と語られているが、それは、自然と人間社会を対比し、人間社会に必要な秩序建設のためには学ぶこと、若い人たちが学業の本分を見失わないことが、安穏な社会が続いていく礎になるということを語るためだったのだろう。


なるべくなら僕は、清潔な、強い、明るい、なんてそんな形容詞を使いたくない、自分のからだを傷つけて、そこから噴き出た言葉だけで言いたい。下手くそでもいい、自分の血肉を削った言葉だけを、どもりながら言いたい。

下手だっていいじゃない。真剣に語ればちゃんと伝わるんだから。見栄坊になったり体裁に拘らずに、思ったことを思ったように語ればいいんだ。



『新ハムレット』

ハムレット くるしさの、とても逃げられぬどん底まで落ちると、人は新しい勇気を得るものだね。


ハムレット
 可哀想だと思っていながら、僕には何も出来ないんだ。ただ、そう思ってそれを言葉で上手に言いあらわす事さえ出来ず、まして行動に於ては、その胸の思いと逆な現象ばかりがあらわれる。


 建設は永く、破壊は一瞬だね。


ハムレット 自分の馬鹿さ加減も、見っともなさも、全部、正確に知っている。そればかりでは無い。僕は、ひとのうしろ暗さに対して敏感だ。ひとの秘密を嗅ぎつけるのが早いのだ。これは下劣な習性だ。悪徳が悪徳を発見するという諺もあるけれど、まさしくそのとおり、ひとの悪徳を素早く指摘できるのは、その悪徳と同じ悪徳を自分も持っているからだ。自分が不義をはたらいてる時は、ひとの不義にも敏感だ。誇りになるどころか、実に恥ずべき嗅覚だ。僕は、不幸にして、そのいやらしい臭覚を持っている。僕の疑惑は、いまだ一度も、はずれた事が無いのだ。オフィリヤ、僕は不仕合わせな子なんだよ。君にはわかるまい。僕には高邁なところが何も無い。のらくらの、臆病者の、そうして過度の感覚の氾濫だけだ。こんな子は、これから一体、どうやって生きて行ったらいいのだ。


フフフ、わたしもそいうタイプなんだなぁ。異常に臭覚が鋭いのだ。
「君は鋭すぎるところがある。ときどき鋭すぎて恐ろしくなることがある」
なんて言われてきたのだから……。
したがって、生き辛いのである。しかしまたそれも自分。否定しても仕方がないのだ。
こんな子であっても生きていかないとならないのだし。


『新ハムレット』には、もっと沢山の名文がある。
王妃でありハムレットの実母ガーツルードが、王妃であるとか女であるとかという立場を捨てて、人間としてどうあるべきかに目覚める場面。あるいは、侍従長のポローニヤスが立場や自己保身を捨てて、一人の年長者の人間としてあるべき理想に目覚める場面の科白は素晴らしい。

しかし、そうした目覚めがハムレットの疑心暗鬼をより強くするという悲劇になるというのが痛々しい。
もともと悪徳な人に見えていた人物が、急に徳のある人物に見えはじめたなら、「何か裏にあるな?」と思ってしまうのが人の心の機微だからだ。
つまり、若いうちに徳のある生き方とはどんなものかを学んでおくことが大事なのだろう。

ハムレット 信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。


原典であるシェイクスピアの『ハムレット』は、自分を写す鏡を持ちえないハムレットの悲劇を描いているのだが、太宰の『新ハムレット』はその逆で、他人を鏡として自分の美醜がはっきり見えてしまう悲劇という形になっているわけだ。
見えなくても悲劇。見えすぎても悲劇。極端はよくない。ほどよく見える中庸さが大事。
ふたつのハムレットを読むことで、見えてくるのは、そういうことかもしれない。

ここでは『古典風』と『待つ』については触れないが、わたしの眼はどれを読んでも反戦作品にしか見えなかったということ。
それはつまり、わたしが戦乱とか争いとかいうものから起こる不和が大嫌いなのだという、わたしの心が太宰の作品を鏡として見えたという「事実」に過ぎない。

そしてまた、その大嫌いの裏には、どんな人であっても、幸せになってほしいと願う、わたしの心の「真実」があるわけなのだろう。

同情の余地もないような人物を登場させておきながら、最後に本音を書いたであろう太宰の心にあった「真実」もそれと似ているのかもしれない。

みんな幸福にくらした。
(『古典風』)



余談だが。『新ハムレット』のラスト間近、ハムレットは「言葉こそ愛である」ということを聖書を引用してまで演説をぶつのだが、このときのハムレットは既に人のことを信じられない疑心暗鬼の塊になっていると読むべきだろう。
したがって、太宰の本音は、そのあとオフィリヤが言う、「愛は行為」という部分にあるのだろう。

もっとも、そう読んだのはわたしであって、愛が言葉なのか行為なのかは、読み手の自由なのだ。
どちらにしても、わたしは「愛は行為」だと信じますけどね。
百千の言葉をどんなに語れても、人の心を打つのは一つの行為だと思っているからだ。
愛が言葉であるならば、僕らにはなぜ肉体があるのだろうか? なぜ手足があって、それらを意志で動かせるのだろうか? 
愛が言葉であるなら、肉体なんてものは必要ないのではないだろうか。

言葉に愛を込めることだってできよう。
でもそういう場合、相手が言葉だけ見ていて、言葉にしようと努力したり言葉にする行為を見ていなかったら、言葉はむしろ互いの関係を壊す要因にしかならないのだろう。

言葉だ行為だと言ってみたところで、なんだか虚しい。どちらでもあり、どちらかではないからだ。
愛とは結局のところ、相対的なものであり、一人でいて表現できるもではないからだ。
そう考えれば、愛とは「相互信頼」の異称であるとしか思えないわけだ。

もしも絶対的な愛があるとしたら、それは自分で自分を赦すとか、自分を受け容れるというものだけなのだろう。

ipsilon at 19:09コメント(0) 
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