2019年03月

2019年03月31日

 『詩学』は、全26章にわたる小論文、ないしは講義用のメモといったものである。
 岩波文庫のボリュームにすれば、約90頁しかないが、そこに書かれた蘊蓄には、量りきれない価値があるといえるだろう。

 したがって、全体のまとめといった内容をここに書くつもりはない。興味のある方は、一読をお勧めする。
 少なくとも、文章を書いて公表しているなら、読んでおくべきと言っておきたい。ちなみに、わたしが読みはじめてすぐに思ったことは、「なぜもっと早く読まなかったんだ」というものだった。

 『詩学』(本書にはローマの詩人、ホラーティウスの『詩論』が併録されている)が、詩についての論文ではない。いうなれば芸術全般に関する論文である。ではあるが、中心には「悲劇」がある。その理由は、最高峰を語っておけば、その他のものは自ずから見えるであろうという、アリストテレスの思想によるのだろう。
 もっというなれば、『詩学』は、アリストテレスによる理想の芸術論である。なにしろ、世界最古にして最高の評価のあるホメロスの『イリアス』や、おそらく悲劇の最高峰であるソポクレスの『オイディプス王』を引き合いに出して、「これのここが駄目なんです」と語っているからだ。

 重箱の隅をつつかせたら、多分アリストテレスに敵う人はいないだろう。だが、彼の凄いところは、駄目出しをした部分に対して、理想をきちんと論述している部分である。昨今の世間一般で見られる批判と最も違う部分はここであろう。だからといって、彼が論述した理想が正しいとは限らない。しかし、批判だけして終わりではなく、問題提起という形で、論述家としての理想を述べている行為からは、充分に学ぶべきことがあるだろう。

 あまりぐだぐだと前置きを書くのはやめよう――。
 ということで、個人的に学んだ部分について述べてみよう。

【韻律】
 詩において最も重要な前提なので、これを抜きに言葉を用いる芸術を語ることは出来ない。
 (なお、アリストテレスの言う思想とは、言葉でもって表現できるものだという定義がある)
 だが、韻律を用いない散文がある。しかしそれは、ある意味では芸術ではないので、ここでは述べることはしない。

 われわれが韻律において考えるべきは、まずもって母国語のことである。
 『詩学』で語られている韻律の形式や理想は、欧米の言語に適したものであるからだ。
 したがって、『詩学』で述べられいることを、日本語に導入することは出来ないということへの気づきが、最も重要だろう。
 いまは詳細を述べることをしないが、韻律というものがどんなものかを、理解したい人のために、耳で聞けばわかるものを提示しておこう。


 これはシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』第2幕第3場にある、アントニーの演説という有名な場面だ。

 おおよそ一行に五か所、長音(アクセント)があるように、見事に作られているのがわかるだろう。
 このようなリズムが韻律であり、この『ジュリアス・シーザー』の場合、一行につき五回の長音があるので、ホメロスが叙事詩に使用した「ペンタメトロス」の形式を、シェイクスピアも踏襲していることになる。
 ペンタメトロスは生真面目で重厚な調べなので、叙事と弁論には最適ということだ。
 抒情や喜劇、風刺劇それぞれには、それぞれに見合った韻律はあるのだが、その説明はしない。
 (ヘクサメトロス、イアンボス、エレゲアなど、『詩学』で説明されているので、興味のある方は、読むといいだろう)

 では、日本語になるとどうだろうか。

 友よ、ローマ市民よ、同朋諸君、耳を貸していただきたい。
 今、私がここにいるのは、シーザーを葬るためであって、讃えるためではない。
 人の悪事をなすや、その死後まで残り、善事はしばしば骨とともに土中に埋もれる、
 シーザーもまたそうあらしめよう……。


 福田恆存の訳を貶すつもりなど毛頭ないが、日本語になった瞬間、言語の違いによって、韻律が死んでしまっていることを感じられるはずだ。イリアスの訳者・松平千秋は、日本語にある敬語や丁寧語は韻律を乱すと判断して、一切使わなかったと言っていた。ではなぜ、福田さんは「していただきたい」としているのだろうか。
 多分、文の長さを合せて、なるだけリズムを崩さないためなのだろう。なかなか興味深い部分である。

 ともあれ、韻律のある英文を聞いていると、弁論に適したものだと思えるだろう。表現力が違う。
 日本の国会の弁論を聞いていても、全く心が揺さぶられないが、欧米言語だと、意味がわからなくても、訴えかけてくるものがある。日本人(とくに議員)の弁論は、絶叫すればいいと思っている節が見え見えではないだろうか。それとくらべると、ギリシャでもそうだったが、ローマになると、政治目的のために弁論術として韻律も散文も発展したという理由に肯けるというものだ。

 では日本語のもつ日本語独特のリズム(調べ)を作りだすにはどうすればいいのか。
 そう、これこそが日本文学界、ひいては日本語による詩において、いまだに理想が発見されていない部分なのだ。少なくとも、まともな評論家はそう言っている。
 よって、一般の文学好きが、いかに自己都合で好き勝手に「あの人の詩は素晴らしい」とかなんとか、個人の感覚だけに頼って評価していることは理解できよう。

 そこで個人的に思うのは、音楽にぴったりはまってる歌詞なら、わりと韻律があるのではないかと思うということだ。この曲がそうだと言うのではないが、少なくとも、私にはそのように感じられるということだ。
 音曲というリズムに乗せているんだから、あたりまえだ、と言えばそれまでだが。
 だが、ZIGGYを聞いてきた人は、なぜか不思議とこの曲が一番好きだという人が多いことは言っておきたい。
 まあ、森重さんの歌い方は、下手すると歌詞が全然聞き取れないとか、当たりまえなので、リズムや声質やそこのパートに込められた感情に痺れるリスナーが、ZIGGYのファンには多いのだろうが。



 英語詩を使っている部分はあるが、日本語でリズムに言葉を当てはめようとすると、欧米の言語よりはるかに意味が細切れになることは、わかるのではないだろうか。

 I’m getting Blue ほ おり だされ
 So hard rain  ふり つづ く

 どしゃ ぶりの あめ が
 とおり すぎる ころ には

 こんな風に日本語でリズムを刻もうと思うと、非常に無理があるのだ。
 しかし、日本語で詩を完成形まで高めたと言われる、萩原朔太郎の詩を見ると、やはりこのような感覚があるようだ。


  萩原朔太郎『天景』

 しづかにきしれ四輪馬車
 ほのかに海にあかるみて
 麦は遠きにながれたり
 しづかにきしれ四輪馬車
 光る魚鳥の天景を
 また窓青き建築を
 しづかにきしれ四輪馬車


 これは1行目4行目7行目を、同じものにしてリズムを作りつつ、そのほかの行でも、それとずれないリズムが細切れに入れられているのを感じるはずだ。文字にされている言葉にはそう意味を求めていないだろう。
 2、3行で歌われているのは、「動」であり、6、7行で歌われているのは「静」であろう。そうした静と動を挟むように1、4、7行で挟んで「音」があるわけだろう。
 つまり天景(自然)というものは、静と動と音(リズム)の調和であると歌っているのだろう。
 叙事とも抒情ともいえない詩だが、朔太郎の天才ぶりは理解できるのではないだろうか。

 他の詩なども見てみてが、見事だった。
 ある詩は、思ったことをさらさらと書いているように見えるし、文字数もばらばらなのだが、行の長さが、短・長・短・短・長といったように、揺れながらもわりと一定のリズムが顕われるように歌われていた。
 日本語詩を完成させたと言われるだけのことはある素晴らしさだった。
 それでも朔太郎自身、まったく納得しておらず、己が詩の調べが駄目すぎる(日本語でリズムを作るのは至極困難だ)と言っているのだが。

     苗

 苗は青空に光り
 子供は土を掘る

 生えざる苗をもとめむとして
 あかるき鉢の底より
 われは白き指をさしぬけり


 意味わかんない……でしょ? そうでもない?
 でもリズムがあるのは感じられよう。
 言うなれば、

 短
 短

 長
 短
 長

 となっているのはわかる。
 最初の2行は天と地。それに見合った言葉選び。
 つづく3行は恐らく、生命の神秘を歌っているのだろう。
 どこから生命が生まれてくるなんてわからないけど、太陽は今日も光を運んでいる。そこをわざとわからなくするために、鉢とか指とかにしてるのだろう。
 そういう感懐なのだろう。美しいではないか! 空を見上げて、視線を落とすと子どもが土遊びしている。そのときにふっと胸のうちに浮かんだ情なのだろうが、その情をあえて文字にしないで、事物と行為をとおして歌っているわけだ。これぞまさに詩であろう。
 わたしの表現するように、

 そら見上げ
 ふと俯けば童らが
 土堀りかえす初夏の朝
 そら見上げ
 日輪輝きみな照らす
 幸いなるかな初夏の朝

 とでも書いてしまったら、詩でもなんでもないわけだ。なんの工夫もないし、自分の見たものをそのまま歌った個人歌でしかないわけだ。人間の見た光景というだけだ。だが朔太郎のはそうじゃない。苗という植物、子どもと言う人間。その間を繋いででもいるような太陽。苗も人間も自然だが、それらを分けて見てしまうわれわれの視線を上手いこと表現しているのではないだろうか。土掘ってみても、それで自然がわかるわけじゃない。愚かな人間が自然に手を入れて知ったつもりになる傲慢さを歌っているともいえよう。見事すぎ!

 とまれ、このように自然界にあるあらゆるものは、リズムを刻んでいるというのを、詩は表現しているのだろう。犬の鳴き声にだってリズムはありまっせ。



 ほらね。感情によって顕われてくるリズムが違うのだろうが、明らかにリズムがあるのはわかる。
 無機的なものだって同じだろう。放映の終わったテレビやラジオの出す空電の音にもリズムはある。
 だが、そういう耳に聞こえるリズムを見出すのは簡単なのだ。大変なのは、音楽でいうところの裏伯と言われる、聞こえないリズムを感じて、そのうえで聞こえるリムズを作れるということであろう。
 それができるのが詩人。いうなれば、散文を朗読するのであっても、声を出しているときではなく、声を出していないときに顕われるリムズ(音楽で言うところの裏拍、いうなれば息継ぎしている場所)を感じることを行間を読むと言うのであろうし、それが出来てはじめて、その作家のもつリズムが読みとれるということになるのだろう。コンサートの映像などを見ていると、裏伯でリズムを取っているのをよく見かけるのも、そういう理由なのだろう。

 呼吸にしろ心臓の鼓動にしろ、打っていないときにも、ちゃんとリズムがあるということだ。瞑想をすればそれが良くわかる。吸って吐く間の隙間を追っていくと、そこにリズムが見えるということだ。いうなれば、それが死んだときのリズムであろう。だが、われわれは生きているから、呼吸したり、心臓の鼓動というリムズに反応しやすいだけであろう。そう考えれば、生と死に変わりはないことも感じられるのではないだろうか。生にも死にもリズムがあるということだ。
 実際、ホーキングの宇宙論を最近読んだが、彼もまたそういう見えないものを感じて、思考していたことが窺われたのだ。いうなれば、ほぼ観測不能のブラックホールとか暗黒物質とか。

 ともあれ、韻律にしろ、比喩にしろ、情緒の表現にしろ、それらを万人に伝えようとして表現するなら、各個人の表面には顕われてこない裏面にあるリズムを表現すべきなのだから、それは天賦の才能だと言えるのだろう。表面に顕われてくるリズムには個人差が必ずあるが、顕われてこないリズムには、普遍的なリズムがあるのだろう。


 アリストテレス曰く――。
 
 詩作は、恵まれた天分か、それとも狂気か、そのどちらかをもつ人がすることである。天分に恵まれた者は、さまざまな役割をこなすことができるし、狂気の者は自分を忘れることができるからである。

 
 とりわけもっとも重要なのは、比喩をつくる才能を持つことである。これだけは、他人から学ぶことはできないものであり、生来の能力を示すしるしにほかならない。なぜなら、すぐれた比喩をつくることは、類似を見てとることだからである。

 十人十色、この世界には、人間もいれば犬も猫も植物もいる。だが、それらに類似を見れるようになれば、一切の差別を捨てた、仏陀の境地だということだ。


 ホメロースは、ほかの多くの点でも称賛に値するが、とくにたたえららるべき点は、詩人たちのうちで彼だけが、詩人みずからがなすべきことを心得ていることである。すなわち詩人は、みずから語ることをできるだけ避けなければならない。そういう仕方では詩人は再現するものではないからである。
 ところが、ほかの詩人たちは、詩の全体を通じて自分を表面に出すのであり、再現をするのは、ごくわずかのことがらについて、しかもごくわずかの機会においてである。


 再現とは「行為」のことでもある。もっとも正確に言うなら「ミメーシス」というギリシャ語でいうしかないが。

 とまれ、わたしがこのことに明瞭に気づいたのは、『宇宙の新星人』を書きあげたあとだ。
 最後の最後に、自分の言いたいことを書いてしまったからだ。それをやってしまったがゆえに、80話にわたって書いてきたものが、全て無駄になったということだ。
 それ以降も、気をつけて地の文で自分の言いたいことは書かないように心がけているのだが、これが非常に難しいのだ。したがって、自分の言いたいことをとことん言ってやろうと思うときは、登場人物にとことん会話文で語らせるようにしている。
 ドストエフスキーなんかも、そういう点をよく心得た人だと思う。彼の作品を読んでいて、この会話文、いつまで続くの? って思わない人はいないのではないかと思うからだ。
 だがそれがアリストテレスの言う再現なのだ。登場人物というのは、ある種の状況に置かれていて、その性格や状況に応じてしか話せないのだから。したがって、そうした性格や状況を考慮したうえで、会話文で長々と語らせることは、ひとつのテクニックなのだが、まあ、読者は大体我慢できなくなって、飽きるのだ。
 その登場人物なら必ずそう言うだろう(必然性)とか、その人物ならまずまちがいなく言うのであろう(蓋然性)を顧慮して話させるということだ。

 筒井康隆が七瀬三部作の第三部で、くっそ長い会話文を入れていて、随分驚いたのだが、流石といえる。
 三部まで我慢して、最後の最後に、会話文をもって、とことん言いたいことをいった。そういうことなのだろう。
 筒井康隆とか、ほんとうに凄いのだが、あまりその凄さに気づいている人がいないのが、残念だ。
 特に『旅のラゴス』。この作品を、ラノベに毛の生えたようなものという感覚で受けとる人が、やたら多いのだが、残念至極だ。

 ともあれ、アリストテレスの言うこの点は、先に優れた作品としてあげた朔太郎の詩を見ればわかるだろう。
 引用した朔太郎の詩には己の感情など歌われていないのだから。
 無論、抒情詩になれば話は別だが、この話はする必要はないだろう。日本語詩のほとんどは抒情詩であるからだ。
 結局そのような詩しかうけないということは、日本人が、自己と同じような感覚以外受け入れようとしないという、日本人の狭量さを示しているのだろうが、わたしのような個人があれこれ言ってもはじまらないのである。
 日本人にとって、詩はある種の訓戒であり箴言であり、警句に成り下がっているということだろう。

 ギリシャの女流抒情詩人、サッポーの詩なんかは美しいですけどね。
 
 月も落ち、プレアデスも
 落ち、よるのしじまに
 時はすぎゆく
 けれどもわたしは一人眠っている


 己の情緒を歌っているのは、たった一行。あとは叙事的。こういうところに美しさがあるのだろう。
 はじめの行から終わりの行まで、作者の心情吐露。それを詩と思っている日本人の詩的感覚の低さは、悲しいものがある。
 
 また偉そうな記事を書いてしまった……。
 んま、己への激励ということで受け取ってもらえれば幸いだ。
 あるいはまた、少しでも本物を学びたいという人の何らかの役に立てれば幸いだ。

 散文に見られるリズムとして、漱石の『草枕』も紹介しようと思ったのだが、疲れたのでやめる。
 と思ったが、書いておくかな。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。


 智、情、意、とかく、でリズムを作っている。


 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。


 住む、越す、詩、画、でリムズを作っている。
 人、神、鬼、両隣、人、でリムズを作っている。 

 以下同様にそれとなくリズムを作っているようだが、冒頭からはじまる6段落までは、話し言葉。
 7段落目からは、漢語や文語を使いながら、リズムを作っている。
 流石である。話し言葉だけだと平板になるので、見慣れない修飾語、比喩、あるいは外来語をいれて、文にリズムを作るというテクニックは、アリストテレスが論じているからだ。

 通常、同じ熟語を連発するのは、避けるものだが、その同じ熟語を韻律的に用いて、リズムを作っているのが凄い。

 草原を抜けると朽ちかけた城があった。城のその向こうには――。
 といったように「城」という語句で韻律を作っているといえばいいか。
 これは、割とまともな作家ならやっている。漱石の場合、

 画である。あるは音楽と彫刻である。
 といったように、「ある」でリズムを出すために、「あるいは」をあえて「ある」にしていたりもする。「ある」三連発だが、これを韻律と感じるか、単調と感じるかは読み手しだいだろう。
 「だ・である調」だと、「た」と「だ」を連発する書き方になることが多いのだが、これにもリムズ感があると、案外と単調さが気にならないのだが、これがなかなか難しいのだ。だから、「ない」とか「だから」とか「である」を挟んでしまう場合も多い。

 ともあれ、「あるいは」にある「いは」といった助詞を省いてリズム感を生むやりかたが抜群にうまいのは、太宰である。読めばわかる。
 まあ、個人的な解釈なので、あてになるかは知らないが。

 ただ、リズムを読みとろうとすると、意味が頭からすっぽぬけるし、意味を追っているとリズムを追えなくなるのだ。人間て一個のことしかできないなとつくづく思うのだ。だけでなく、全体を把握していないとその部分(場面)がなぜ描かれているかも理解できないのだが、一般に人々の感想を見ると、そんなことを気にしている人は少ないようだ。己が読みたくない場面は飛ばすとか、個人的な趣味であの場面はいらないとか言っているわけ。――溜息。「なぜ」著者がそうしたかなど考えない。ただ単に、己の好みで判断しているというわけ。

 散文にあるべき比喩のありかたも考えないで書いている作家も多いのだが。
 散文は、余計なものを一切省いて、伝えたいことを伝える文章が基本。ただそれに徹し過ぎると平板になって退屈なので、比喩、外来語、文語を混ぜるというわけ。やたらに比喩表現に拘るあれは、何なのだろうか。
 比喩が少なくとも、情景描写、背景説明、会話文を適度の配分で混ぜれば、優れた散文になるのだが。
 外国文学とか、そういうのがちゃんとしていて、日本人作家が使うような、わけのわからない比喩なんてほとんど出てこないのだが。ほんと、日本人の比喩好きは、ある意味で気持ち悪いレベルだ。
 田中芳樹の『銀河英雄伝説』など、そういう良き見本だ。中には、三人称視点で、作者が言いたいことをいうような文体は嫌いという人もいるが、少なくとも『銀河英雄伝説』の田中はそういうことはやっていない。ちゃんと登場人物に「行為」させ「再現」させている。だからこそ、キャラに人気が出て、脇役にまで人気者がいるわけだ。

 比喩をもう少し批評するなら、直喩と暗喩があって、直喩は「のようだ」などを使って比喩だと伝えるもの。暗喩は「さながら」などを使わないというのが日本人作家のようだが、私からいわせれば、小手先のテクにしか見えない。

 あの街は死にかけていた。――これは暗喩。
 この街の静粛さは、まるで死んだような静けさだ。――これが直喩。
 これが日本人の思う比喩だもの。呆れる。

 漱石の文でも読んで勉強しなさいといいたい。
 太宰の上手さから学びなさいと言いたい。

 会話文の間に、
 美奈子が見ていたグラスがキラキラと光って綺麗だった。
 こういうのを比喩というんだから。太宰とか、こういうのが滅茶苦茶うまい。漱石ももちろんだ。
 これは、会話しているときの美奈子の心情なのだが、まあ、日本式の直喩だの暗喩に拘っている人には意味不明だろう。
 大体においてアリストテレスの言っている比喩論と日本式比喩にある論理を比べれば、日本式がいかに異質かはわかるはずだ。
 街ってのは、色々なものが込みいって建っている。それに類似した自然現象であらわすのが比喩。
 だから、まともな比喩を使おうと思えば、
 その街は、密林だった。――とかになるはず。
 擬人化が悪いとか言わないが、そうやって何でも擬人化して叙情化するから、心理描写しかない日本風文学になるわけだ。
 『イリアス』とか読んでいると、ほぼすべて直喩。気取ったことなどせず、「さながら」「まるで」「例えるなら」で比喩を歌うが、そのせいで陳腐になっているわけではない。中には、稚拙な比喩だってあるのだが、長編の場合、均質なものを維持するのが難しいので、それは仕方ないだろう。
 でも軍勢がぶつかる比喩とかうまい。海と川がぶつかりあい、波が砕け、飛沫が吠えるような絶叫に満たされた。――とかね。あくまでも自然の模倣、再現だというところを外さない。

 ラノベとか、「あ!」とか「そうだね」とかいう短い会話文ばっかで、地の文では比喩ばっか使う。それがカッコイイと思ってるらしいが、恥ずかしいだろ。地の文で書き手が言いたいことを書くなら、小説なんか書くな。エッセイでも書いとけばいいのにね。
 キャラに喋らして、心情吐露させればいいのに、できないんだろうね。
 『イリアス』なんて、そういうのが見事だよ。読んで学ぶとよろしい。

 まあ、時代もあるから、今には今風というのもあるのだから、別にいいのだし、最後は好みの問題なのだから。いいけどけね。わたしは流行なんて絶対追わないだけだから。普遍性を優先してるだけだから。

 田中芳樹があとがきで言っていた。
 SFでいろいろな惑星があるのに、季節の変化があって、朝だ夕暮れだ、花がとかなっているが、そこは理解してください、とね。
 つまり、比喩表現するためには、自然の変化が地球と同じでないと、出来ないからでしょ。
 よくわかってらっしゃる。まあ、そうは言っても、わたしの比喩表現も酷いんだけどね。そう自覚してるから、無理に変な譬喩は使わないようにしているのだ。せいぜいこんなもの。

 王女は晴やかにドレスの裾を翻して席に戻った。――ドレスの裾が晴やかなんじゃないよ。でも言いたいことはわかるでしょ。王女の心が晴やかだったの。その比喩なわけだ(おそまつ)。

 とまれ、わたしが最近書いて、わりと自分なりにいいリズムが出せたと思ったのはこんな感じだ。

 血塗られた死屍横たわる、赤と黒のまだらに塗りたくられ雪原、引き倒された天幕の向こうに茂った灌木。その灌木を飛び越えて、真っ白な雪煙を立ちのぼらせながら、無数の騎馬兵らが駆け寄ってくる。そのうしろ、少し遅れて姿を見せたのは二人乗りの戦車に腰を据えた、老卿ニアードであること間違いなく、戦車の手綱を取っているのは、誓いを立てたかつてオルトン卿の側近だった男。そして、そのうしろから黒装束の一隊が馳せ参じようと疾駆してくる。馬はもちろんのこと、騎乗する兵らの甲冑は全身くまなく黒く、その二十余騎の黒騎士隊からは、不気味な幽鬼が漂いでて、将と思しきもの馬上に黒いマントを翻し、恐怖を引き連れつつ、どこか凛とした佇まい、つき従う騎士の背の旗もまた黒く、中央に白抜かれた四葉のシャムロックは、目も覚めるほど鮮烈だった。

 所々、助詞を省いているのはわかるはず。
 なぜこう書いたか? タネあかししないほうがいいのだが……蹄の音も高らかに迫ってくるリズムが欲しかったからだ。
 だけど、散文だとやはり無理があるのだろう。
 んま、ここはリズムが欲しいと思って書いたところは、他にもある。お暇な方はお探しあれ!

 登場人物の名前も実は大事で、その人物の性格、作中で演じる行為を表わす名前にしなさいと、アリストテレス。流石、よくわかってらっしゃる!
 でもそれが大変なんだな。けれども、ギリシャ神話とか、そういう部分が徹底しているので、ギリシャものを真面目に学べば、自然と身に着くのだろう。
 素人小説とか見ていると、そういうのがおざなりなのだが。

 ちなみに、アリストテレスの名前の意味は「最高の目的」だ。

ipsilon at 05:03コメント(0) 

2019年03月29日

 おいこら、愚図愚図してないで、自分の為すべきことを為せ! と往復ビンタを喰らったような読後感が爽快だった! ドМなわたしには、もってこいの一冊である。しかも薄いので、再読するにも、一日あれば読めるのだから。


 (教育や学ぶことの意味は)頭はあるが未訓練の人々に理解させ、かつ――われわれにとってはこれこそが大切なのであるが――これらの問題をみずから考えていくように解説するということは、おそらく教育上もっとも困難な課題であろう。


 (生活や生きることにあって)もっとも困難なのは、この日常茶飯事、、、、、に堪えることである。かの「体験」をもとめる努力も、この意味の弱さからきている。というのは、弱さとは結局時代の宿命を正面まともにみることができないことだからである。

 ここで言われている「体験」というのは、哲学や宗教を信じて、それらにある真理や教義にある「摂理」や「奇蹟」を体験しようと、滝に打たれたり、神秘体験を求めようとすることである。
 広義に言えば、日常の退屈さや抑圧に堪えられず、祭りに参加して騒ぐとか、ある種のサークルに通って、鬱積を晴らすということでもある。無論それが悪いものだと言うことではない。そういうものが無ければ、恐らくほとんどの人は気が狂うからだ。


 (教えることによって、あるいは明確に事実を示すことによって)各人にたいしてかれ自身の行為の究極の意味についてみずから責任を負う、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ことを強いることができる。あるいはすくなくとも各人にそれができるようにしてやることができる。


 表紙にある紹介文が見事なので、最後にそれを少し改変して引用しておく。
 事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、教師のかわりに指導者を欲する、こうした風潮は鍛えらるべき弱さだと批判し「日々の仕事(ザッハ)に帰れ」と叱咤したウェーバーの名高い講演録。

 空想で理想の世界観(たとえば古事記をもとにした世界観)を作り、自己が認識の主体者であるこを忘れ、部分的な体験価値ばかり宣揚して尊び、自分ではあまり学ばずに強力な指導者を求める。ナチスにしても日本の軍国主義にしても、こうした方向性が招いた災厄であろう。
 だが、ウェーバーは言う。個人は集合意志には逆らえない。だから、戦争が起ころうが政治が暴走しようが、自分は自分のことをやれ! と言っているのだ。他人からしたら悪魔を崇拝しているように見えても、自分の神を見つけだして、それを崇拝して生きろ! と。デーモニッシュでいいのだ、と。

ipsilon at 18:07コメント(0) 
 アインシュタインとかホーキングとかいう知の巨人の思考というのはやはり凄い。なにが凄いかといえば、「常識」の枠を外して思考しているからだ。
 本書で一番凄い発想だと思ったのは、恐らくホーキングが宇宙論(虚時間と実時間がバランスしあっているというモデル)を引き出すのに、時間の矢を思索した部分だ。

 つまり、われわれの生体的時間(現実感覚の時間)の矢は、現在から未来という方向をむいているが、精神の世界というのは、未来を予測することも多少はできるが、基本的には、記憶も知識も過去に学んだものを引き出すという、現在から過去の方向に時間の矢がむかっている(精神的時間)という点から、正確に宇宙を記述しようとするなら、現実に観測できる生体的時間の方向と、精神の世界だけにある精神的時間の方向を統合しなければならないと考えついた部分だろう。
 
 生理的時間は未来に向かっていて、精神的時間は過去に向かっている。
 人間がそういう矛盾を抱えているなら、宇宙もまたそうであろうと発想できるのが驚きだということだ。
 したがってホーキングは、もしも正確に宇宙が記述できるとした、現実の観測データが半分、観測は出来ないが思考実験や仮説が半分、そのような理論になるだろうと予測しているわけだ。
 常識にとらわれない、柔軟な考え方だ。何でもかんでも実証データがなければ事実とは言えないなどという屁理屈屋ではないということだし、実証データが何一つないのに、俺の言ってる思想は正しいと息巻く傲慢家でもないということだ。

 途中、電子や原子のスピン運動について述べているのだが、そうしたスピンの中心軸(あるいは中心点)は一定ではないということは目から鱗であった。相対論から推測すれば極めて当たりまえの理論なのだが、それに気づけないのが、常識に捉えられている自分なのだなァとつくづく思ったしだい。

 ブラックホールは質量無限大になっても、熱力学第二の法則にしたがい、少しづつエネルギーを放出してやがて崩壊するのを発見するくだりなど、読んでいて興奮した。頭よすぎるだろう……と。
 ただ崩壊するまでに100億年とかかかるから、人類がそれを見れる可能性はほぼないとか、思索で到達できるスーケルの大きなに思わず唸ったわけだ。

ipsilon at 14:48コメント(0) 

2019年03月27日

 文学に関しては、前記事『ギリシャ文学早わかり』で概要、私なりの見え方を記したので、哲学について記しておこうと思うのだが、正直いって面倒くさい。
 プラトンとアリストテレス読んどけば間違いないだろう。改めてこの御両人の思想の深さを思い知ったとしか言えない。無論、彼らにも誤謬はあるのだが、そこは注意しなければならないが、結局のところ矛盾するものをどう見るかに、哲学の基本はあるのだろう。
 
 結局はバランスの問題なのだ。何十回考えても、必ずそういう結論に至るし、わからないことはいつまでたってもわからんのだよという「無知の知」に至るのであって。
 そうなると、形而上のことは、個々人が自分勝手な自己都合にもとづいて、「わたしは死とか死後の世界はこうだと思うと考えると、生きるのが楽なんだよね」という解釈を見つけるしかないという結論に至るのだ。

 なんとも無責任だが、そうなるのだから仕方がない。
 形而上のことを議論しあって、わかりもしないことを喧々諤々しあって、喧嘩するほどの愚かさはないという、仏陀の思想がやっぱり一番だと思うわけだ。

 第一、絶望は激しい関心の産物である。関心を欠く者には絶望はありえない。

 斎藤忍随の言葉だが、なんと切れ味が抜群だこと。
 ひっくり返して言うなら、わたしは絶対絶望なんてしないと言うような人は、深くものを考えてないと皮肉っているのであろうが――。

 斎藤さんの略歴をwikiで見てみたが、やっぱりそこに行ったのねという感想だ。
 そうだろう、そうだろう、ショーペンハウァーに行くよね普通という発見。
 ギリシャ哲学を突き詰めると、最後は「生の哲学」、つまりは仏教思想に行き着かざるを得ないという面白さ。
 やっぱニーチェも原著を読まないとだと痛感もした。
 それにしても高津、斎藤両氏の徹底ぶりは見事だ。ギリシャならギリシャ一本に絞る潔さが羨ましい。

 紙に書かれた断片を見ても、すぐこれがサッフォーのギリシャ語か、ルキアヌスのものか、プラトンのものか分かるようになる。

 凄すぎるだろう……。
 ある作家の文体を本気で知ろうと思うなら、何十回も手書きで原稿用紙に書き写すしか手はない。そうすることで、その作家のもつリズム、思想、行間にある目に見えない何かがわかってくる。自分自身を見つめたいなら、自分の書いた文章を自分で納得できるまで推敲しながらも、原稿用紙に書き写すしかない。筆写は面倒だというなら、その作家のリズム、思想、行間にある目に見えないものが読みとれるまで、繰り返し読む。20回、50回、100回と。それしかないのだが、現実そうしようとは中々に思えないわけであって――。
 かくいうわたしも自分の作品や記事を何度も読み返すのだが、「ナルシストで気持ち悪くね?」とか思ってしまって徹底さに欠けてきたのだ。
 でも、色川武大が自分を見つめるために、自分の書いたものを何度も原稿用紙に書き写したという挿話を読んでからは、そういうことの重要さを痛切に感じてはいるのだ。
 もうナルシストでいんじゃね? ナルシストになってしまえ! みたいな。

 「書かれた言葉」は「生きた言葉」の「影」にすぎない。せいぜい、記憶の代用品の役をはたすだけで、著作はそれによって新しく発明することがない。それに読者の側から見ても、著作に頼るあまり、自分でものを考えない傾向を助長する、また記憶力を弱める結果をも招く。さらに「書かれた言葉」は、誰にでも一つの同じことを話すだけで、読者の質問に答え誤解を正すことができない。要するに生きた人間のふれ合いから生ずる言葉、問いと答えとの間に生ずる「生きた言葉」で優れた魂に知への衝撃をあたえる「対話の方法」に及ばないのが著作の運命なのである。

 だが、そういった「生きた言葉」を必要としない社会へとどんどん進んでいるわけだ。AI化、自動応答、マニュアル対応……etc。生きてる意味ないんじゃない。ただ肉体を維持して不自由のない愉楽に耽る一生であるなら、動物でいいだろ。人間に生れてくる必要などない。まともに真剣に思索すると、「生きた言葉」を交わしながら、相互の向上を望めないなら、死んだ方がいいという結論に行きつくというわけだ。だがそういう訳にもいかないから、山に篭ってでも、自問自答し人間らしく生きようとしてきたのが聖賢なのだろう。

 「一者」という言葉を手掛かりにおびただしいパズルを提出して見せる。例えばもし本当に一つであるとい言えるものがあると仮定すれば、そういう「一者」は部分を持つものではありえない。部分は多を予想するから。といってそれは全体でもありえない。全体は部分を総括したものであり、部分を予想し、前提とするものは多であることになるから。この筆法で行くとついには、「一者」にいかなる述語も与ええなくなる。つまり「一者」については何事も語りえなくなるのである。

 プラトンの思想から演繹してここまで辿りつけることは知らなかった。
 ようするに、述べられていることは仏教の縁起なのだが。
 つまり、人間は縁起による関係性(対比)によってしかものを認識できないということだ。
 全体を説明しようとするなら、部分という術語を必要とするし、部分を説明しようとするなら、必ず全体という術語を必要とするということだ。
 説明できるならしてみるといい。「部分」という術語を使わずに「全体」を。決して出来ませんから。その逆もしかり。「全体」という語を使わずに「部分」を説明してみればいい。無理だ――。さほど難しい理屈ではないのだが、ほとんどの人はこれが理解できないらしい。
 理解できないから、唯一無二の絶対の法があるとか妄想を言いだし、それに拘泥にし、宗学だの神学だの云々、必死になって自己弁護し、自宗が正しいだの、善悪があるだの、正しい生き方があるだの、間違った生き方があるだの、そういう迷信に憑りつかれて苦しむということなのだが。

 語りえないものについては、沈黙しなければならない
 (ヴィトゲンシュタイン)


 これは実は文学にも適用されている。
 アリストテレスは、人間が描けるものとして、必然性、蓋然性、偶然性と分けているのだが、人間が因果関係をもって語れるのは必然性、蓋然性だけであると言っているからだ。
 道端で偶然、AとBが出会う場面は語れる。しかしその偶然によって、なぜ、どのように、それによって何が起こるかといった因果関係は語れないのである。だから神の力によってこうなったというような話は極力避けるべきなのだ。物語性のある作品の中に偶然性を描くことは文学を知らぬもののやることだと、アリストテレスは言っているからだ。とはいえ、そういう要素が入り込むのも人間の思想の由縁ではあるのだが。
 したがって、目的にかなって書くということは、AとBが関わることで、間違いなくそうなるだろうと理性的に判断できる(必然性)と、AとBが関わることで、そうなってもおかしくないだろうと理性的に判断できる(蓋然性)のある関係性を描かなければならないわけだ。
 またそうすることで、はじめて寓意性や教訓やテーマが生まれ、読む者に価値を与え得るということになるのである。
 だからと言って、全てを因果では説明できないということは、賢明な人ならもうおわかりだろう。

ipsilon at 12:54コメント(0) 

2019年03月26日

――悲 恋――

 イングランドを治する、クリフォーレ王の居城では、今宵も夜会が催されていた。
 ちらばる億千の星々に見守られながら、月に惹かれて集った近しい人たちの宴は、穏やかにつづいていた。
「前回にて『イリアス』の朗読は幕切れとなりましたが、さて、今宵はどういたしましょうか。ひきつづきホメロスでもお楽しみ頂けるでしょうから、今夜からは『オデユッセイア』でも朗読いたしますか?」
「今夜はいささか余興など、いかがでしょうか」
 トバイアスの質問に応えたのは、ノードゥス王女だった。
「お転婆だと笑われましょうが、わたくし、聞いているだけではつまらなくなってきたのです」
「珍しいこともあるものだ」
 クリフォーレ王は、未だにやってみたい事を一度も口にしたことのない王女を、興味深げに見やっていた。
 しかし王女はその視線にはまるで無頓着に、弾むように立ち上がって部屋の中央に躍りでた。臣下たちが拍手をもって迎えた。
「それでは失礼いたしまして」
 ノードゥス王女は小さく会釈をしたあと、雲雀のように歌いはじめた。

  太古より来る風よ
  何処なぞからきて
  何処ゆくか
  彼方へおもむく風よ
  
  風よお前は変わらでか
  あし原うって波立てて
  風よお前はいつの日か
  翳とどめんと振りむいて

  群なすひと草ゆらさんと
  踊らんばかりに渦巻けや
  あえなくひと草たおさんと
  踊れや踊れ渦巻けや

  いつか朽ちては
  去る前に
  いつか朽ちては
  去る前に

  だけどお前はつれない風
  昔と今と夢掃くように
  だけどお前は吹いて消え
  もはや踊りもままならに
 
  ひと草の蘆つき見よと
  その身起こすことならじ
  ひと草の蘆つき見よと
  お前よ風を待つだけに

  いつか朽ちては
  土還るだけ
  いつか朽ちては
  土還るだけ

 歌が終わったとたん、万雷の拍手が起こった。
「はじめて作ったものです。拙い詩ですが、皆さんが歌う呼び水にでもなればと思いまして」
 王女は晴やかにドレスの裾を翻して席に戻った。
「どうやら王女様には、詩作の才能があるようですな」
 トバイアスは彼女の吟じた詩にこめられた韻の響きを読みとっていた。それが一昼一夜に作られたものでないことにすぐに気づいた。そしてそれ以上に、彼女の胸裡にある哀しみをそれとなく感じとっていた。
「さてそれでは、王女様の期待に応えて、我こそはという方はいらっしゃいませんか。即興の歌を吟じてくださる方はおられませんか?」
 豪気の城主クリフォーレ王の臣下たちは、戸惑い顔で互いの表情を窺いあうばかりだった。しかし、一人の若い臣下が「それでは」と言って、進みでた。
 こうして、トバイアスの朗読からはじまった宴は、思いもよらぬ方向へと舵が切られたのである。夜会の第一歌はいつもノードゥス王女によって歌われ、それにつづいて、臣下たちが即興で詩吟や楽器の演奏を披露した。中には酷いものもあったが、貶す者はいなかった。ときには仮面をつけた二人が喜劇を演じ、ときには長々と独演される痛烈な諷刺が、聴衆を笑いの壺に投げこむこともあった。そうして夜が重なるにしたがい、王と臣下たちは武勇とは違う喜びや楽しみを文芸に見出していった。そんな中、クリフォーレ王と妃の心を殊に動かしたのは、意外にも悲恋の詩歌であった。若い臣下たちはその理由もわからず、ただ驚くばかりだったが、王と妃のなれそめを知る古老たちは、悲恋の歌に涙を飲むのだった。
 そうしたことが三カ月ほどつづいたある夜、ノードゥス王女がひとつの詩を吟じた。

  月も落ち、プレアデスも
  落ち、よるのしじまに
  時はすぎゆく
  けれどもわたしは一人眠っている

 歌い終えた彼女は、落ち着きなく席に戻り、頬を赤らめて俯いていた。華麗なドレスの袖から覗いたレースの襞が幽かに震えていた。そうしてそのあと、ゆっくりと上げられた美しい黒目がちな瞳が、潤みながら輝いているのを、トバイアスは見てとった。
 智謀の将は、王女が歌った詩が女流詩人サッポーの悲しい恋の歌であることを知っていた。そしてそのときトバイアスは、はたとノードゥス王女の気持ちに気づいたのだ。彼は思わず手を挙げて、しつらえられた台にのぼって歌った。
  
  紫の髪に匂う清き優しきサッポーよ
  なれに語らんと思えど、はじらいの心われを留む

 彼は周囲の耳目を欺くために、長々と即興の詩を歌いながら、そのなかに、返歌を差しこんだのである。それに気づいたのはノードゥス王女その人だけだった。
 トバイアスにつづいて吟じられた悲恋の歌によって懐慕が湧いたのか、クリフォーレ王の手が妃の手に重ねられていた。そしてその傍らに置かれた椅子から、菫の髪飾りをつけた王女が立ち去ろうとしていた。
 トバイアスはいたたまれぬ気持ちでそれを見送った。彼女の気持ちに応えることも出来ず、それを慰めてやることも出来ない己にただ肩を落としたのだ。

――#20――

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ipsilon at 23:49コメント(0)小説『オトゥール王の氷像』 
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