2019年04月

2019年04月30日



 仏教にある正しい師弟観とはこれである。
 師とは「法」であり、その法――つまりブッダが説いた教え=法にそって自己を観察し、自己を制御することが正しい仏教の師弟である。
 その法を説いたブッダへの感謝と讃嘆の気持ちは大切だが、だからといってブッダを神格化したり本仏にして信仰の対象にするのは間違った仏教観である。そもそも、この『マハーバリニッパーナスッタンタ』の動画の箇所は、そのようにブッダ自身が考えていたことが記されているわけだ。

 なによりも、仏教はバラモン教にあった師弟不二観や密教的要素という権威を嫌って起こった哲学なのだから、某宗教団体で言われている師弟観を仏教に持ち込むなど、もってのほかである。
 この経典にもはっきりと「教師の握り拳はない」とあるし、「わたくしたちの法」とあるくらい、誰もが知ろうと思えば知れることを説いた法(教え=縁起=諸行無常)を説いたのが本来の仏教である。
 わたしはウパニシャッドの抄訳に目を通して、彼の哲学が某宗教団体で言われる師弟観に近かったことを確認している。
 
 また、念じるとは、考えることである。精神集中とは、禅定のことである。智慧とは精神統一して己を観察し、己の感官に何が起こっているかを知り、それに対処する最善の方法を「推知」することである。

 わたしは不幸にもこの世は「常楽我浄」だと教わってきたが、原始仏教の経典で教えていることは、この真逆である。
 すなわち、不浄・不楽・無我・無常である。

 四念処という概念があるが、これは身・受・心・法がそれぞれ不浄・不楽・無我・無常であると見ろという教えである。
 不浄とはいい換えるなら、肉体は永続的なものでなく、かつ固定的なものではないと知ることで、肉体への執着を捨てろということだ。そうすれば病気になっても嘆き悲しむことがないからだ。
 不楽とは、感官が感じて受けているものは、快楽ではないと知れということだ。快楽であるなどと思うと、それを求め執着し決して得られない快楽を貪り求めることで、苦悩が生じるからだ。
 無我とは、固定された自我というよりも、自我そのものが幻であると知れということだ。自分と他人があるという自我によって境界を引くから、自分はあいつより不幸だと嘆き、自分はあいつより幸福だと高慢になり人を見下す、あるいは自分が不幸だという妬みから相手を嫌い、相手を引きずり降ろそうといった感情が起こり、様々な苦悩を背負うということだ。
 無常とは、感官が受けているあらゆる事象は変化するものであると知れということだ。100万円を払って買った大切な宝石であろうと、3000万円を払って買った高級車であろうが、すべてのものはやがて朽ちる。だから執着すると失うことを嘆き悲しむことで苦しむ。

 すなわち、この世は不浄・不楽・無我・無常であると見よ、というのが仏教の教えである。
 これを正しい四念処(四つの観点に立って、観察し考えろ)というのである。
 四念処はまた、四念住ともいうのだから、四つの観点に立ちつづけて考えろということでもある。



 この「旅に出る」にある、ブッダとサーリプッタ(舎利弗)との問答も素晴らしい。
 カントの言った、すべては主観であるから、他人のことはあくまでも「推知」でしかないことを、説いているからだ。このような点から、智慧というものが、徹底考察と徹底観察のあとに残る、そう言わざるをえない(ほぼ必然といえる)「推知」であるといえるわけだ。
 己自身に対してもこれは言えることだ。なぜかなら、自己を観察し、ブッダが説いた「法」すなわち正しい教えに添っているか否かを徹底思考し、徹底観察し、「推知」することに他ならないからである。

 こうした点から、アリストテレスが芸術作品をつくるにあたって最も重要なのは、ミメーシス(必然、あるいは蓋然の道理にもとづいた因果関係における模倣、再現)が重要であり、偶然性をなるだけ排除しろといったことが、いかに優れた「生の哲学」であるかは、理解できるであろう。
 偶然のことがらを眺めて、これはこうである!(かならず因果関係がる! 自業自得である!) などと「推知」できることなど、無意味だからだ。いなむしろそんな推知は人間を苦しめるだけである。
 芸術に運命論や宿命論を持ち込むことほど、くだらないことはないのである。それはもはや、芸術ではなく、デモーニッシュなものといえるのだろう。

ipsilon at 21:03コメント(0)知への愛「思索・備忘録・箴言」『マハーバリニッバーナスッタンタ』 
北人伝説
マイクル クライトン
早川書房
2014-10-30



 彼は答えた。「オーディンへだ。それからフロイ、そしてトール、そしてウィドル、その他おまえの旅の安全を左右する神々だ」これらは“北人”たちの神々の名前である。
 私は答えていった。「私は慈悲にあふれあわれみ深きアラー、一つなる神を信じている」
「おれはそのことなら知っておる」ヘルーゲルがいった。「おそらくおまえの国では神は一つあれば充分なのであろう。それでわれわれはその神々のすべてにお前のことを祈るのだ」私はそこで感謝した。というのは非回教的信徒の祈りもそれが誠実であれば同じように結構であって、私はヘルゲールの誠実さを疑わない。


 これが人間愛であろう。宗教が違うことでいがみあい殺しあう。実に馬鹿げたことだと思う。
 もっとも、ヘルゲールとイブンが、このような関係に到れたのには理由があって、人種、民族、慣習、文化の違いを抱えたまま、一つの目的のためにともに旅をし、ともに命懸けで戦ったという絆があるからなのだが……。最近話題の映画でいうならば、『グリーンブック』もそのようなロードムービーだが、同じ場に身をおいて共通の出来事にであっていくなかで、共感し感染しあうことによってしか、人間は差異を乗りこえられないということを『北人伝説』は、1976年に述べているのである。

 ともあれ本作の凄いところは、最後の最後まで、互いが互いの信仰を変える気など毛頭もないのだが、互いに人間同士という強い絆が結ばれて、気重な別れをするという、リアリズムにあるといえよう。
 安易に、己が信仰を捨ててまで媚びたりせず、無理に相手を改宗させようともせず、ありのままの二人の間に友情が実ったという描き方に、クライトンの思いを、わたしは見るのだ。


 物理学者ゲアハード・ロビンズはこう述べている――厳密にいうと、仮説とか理論とかいうものは、決して証明できるものではない。ただ反証をあげることはできる。われわれがありうる理論を信じているというのは、実はその理論がまちがっていることを明らかにし得ないことを意味しているのであり、疑念の余地なくその理論は正しいと表明できることを意味しているのではない。

 理論理屈を信奉するのか、そこにいる人物の何らかを信ずるのか。難しい問題だが、最後はそこ、あるいは今目の前にいる人を信ずることのほうが、遥かに重要であろう。
 もっとも、その人の行なっていることを見て、どうあっても信じられない人もいるのだが。
 ちなみに、ここで語られている物理学者ゲアハード・ロビンズというのが実在したかどうかは不明だ。こういうところがクライトンの小説(戯作)の上手さだと思うのである。

 ともあれ、かつてわたしは、ある友人に向かってこう言ったことがある。
「とにかく君の幸福を祈るよ。真剣にね」と。
 そのとき、その友人はこう答えた。
「気持ちが悪いので止めてください。わたしの信じていない神だとか仏だとかに勝手に祈られるのは、気持ちが悪いので」と。

 ショックだった。今でも鮮明に憶えているくらいショックなことだった。
 誠意が通じない相手がいることも事実だが、わたしは宗派が異なろうが、相手が「君の幸福を祈るよ」と言ってくれたなら、素直に今でも感謝できるし、今後もそういう人間でありたいと思っている。


 これは映画のラストシーンの少し前の場面だ。
 アラブ人のイブンは最後の命懸けの戦いを前に、己の神に祈る。そして仲間たちを戦いのなかに失い、自身も傷ついている、イブンを含む11人を率いてきた北人のブリウィフもまた己が神に祈る。祈りの形式や言葉は異なれど、その祈りにこめられた思いに変わりはないだろう。そういう美しさを描いた場面だ。
 戦う相手である敵は「食人族」という設定、つまり人間が人間を喰らうという設定にして、敵は人間以下なのだとしているあたりにも、クライトンの工夫があるといえるだろう。

ipsilon at 19:23コメント(0) 

2019年04月29日

 なぜかなら、われわれの心、あるいは意識や意志はデモーニッシュなものに支配されているからだ。

 デモーニシュなものとは、人の悟性や理性では解明しかねるものだ。(中略)それは、我々の悟性や理性では解明できないものに特に現れる。誠に多様に自然界全体に及び、目に見えるものに、目に見えないものに表れる。

 文学には、非常にデモーニッシュなものが存在する。それも無意識なものには特に顕著だ。そのような作品に対してどんな悟性も理性も役に立ちはしない。しかしだからこそ、それは思いもかけぬ感銘を人々に与えるのだ。

 それは音楽においてもっとも目覚ましい。それは、音楽がどんな悟性も理性も太刀打ちできないほど高次元なものであること、および音楽からは、あらゆるものを支配する力、だれにも説明できない力が生じるからだ。

 エッカーマン『ゲーテとの対話(中)』



 フロイトのいったリビドーもある種のデモーニッシュであろう。つまり、生きとしいけるものすべてにある、根源的衝動こそ、ゲーテの言うデモーニッシュであろう。フロイトはそれを性欲とほとんど区別のつかないものと見たということだ。ガンジーもまたそう見た。
 そしてこうした見方は、実は詩人あるいは音楽家といった多く芸術家がしていた、人間のひいては生きとしいけるものの本性であろう。
 ショーペンハウァーはそれを「意志」といったし、仏陀はそれを「無明」といった。
 天台から先の大乗仏教ではそれを「一念三千」といったし、イエスは「愛」といった。
 しかしながら、それらはあくまでも言葉であり概念に過ぎない。ゲーテが繰り返し言っているように、それは「我々の悟性や理性では解明できない」ものなのだ。脳内の概念にもなりえないし、理性で並べられた言葉にもなりえないのだ。ただ感じることでしか知りえないのだ。

 だからこそ、それが悪魔的な働きをしないように、天使的な(あるいは精霊的な)働きをするような方向づけが必要なのであり、そこに信仰の必要性が生じるのだ。

 そしてそのデモーニッシュなるものが、いかなるものかを感じるためには、絶対的に瞑想や神秘体験が必然なのである。顕在意識と潜在意識のあいだにある、顕在意識とも潜在意識ともいえない、それらの中間にある意識状態でを体感する必要があるのだ。
 イエスの勧める祈りも、仏陀の勧める瞑想も、そのためのものといって過言はないだろう。

 つまり、祈りや瞑想によって、決して知りえない潜在意識を目指すのではなく、顕在意識と潜在意識の中間にある意識を感じることが、霊感を知ることであり、また悪魔的なものを知るということだ。
 
 人類の歴史をつぶさに眺めてくれば、なぜゲーテがデモーニッシュなものを恐れ、それを制御すべきか、あるいはそれを芸術という方向にむけるべきかと考えたかは容易にわかる。
 デモーニッシュなものに強く支配された人とは、往々にして世界を破壊する方向に権威権力をつかってきたからだ。
 アレクサンダー大王しかり。ナポレオンしかり。ヒトラーしかり、というわけだ。

 悟性も理性も及ばない範疇に対して、言葉や哲学をもって対抗しえないなら、残る術はたった一つしかないのである。それを理解せず、宗教にある精神を神学や教義や論理で語れると思っているなど、馬鹿げた話だということだ。


 デモーニッシュをより正確に言葉にするなら、混沌。これがおそらく一番適切だろう。
 感情でいうならば、喜怒哀楽などのすべての感情が帰一しているということだ。
 そんなところに、悟性や理性が通用するはずはないのは自明の理ということだ。

 デモーニッシュと呼ばれる音楽を聞いてみればいい。
 喜びとも悲しみも、哀しいとも恐ろしい(怒りは恐怖の二次感情であるから、その根底には恐ろしさがある)とも言えない感覚が湧きあがるのだから。

 
 モーツァルトの作品で、最もデモーニッシュと言われているのは、ピアノ協奏曲20番だそうだが、個々人の感覚の違いがあるので、人によっては「この曲のどこがデモーニシュなの?」と感じることもあるだろう。
 デモーニッシュであることを感じたいなら、極力その曲に関する「知識」を排除して聞けばいいだろう。



 モーツァルトの交響曲なら、39、40、41番は、まず間違いなくデモーニッシュを感じるだろう。
 ベートヴェンの交響曲なら、3番、5番、9番あたりか。
 マーラーの8番なんかもいいかもしれない。
 ともあれ、デモーニッシュのなんたるかを感じたいなら、予備知識、偏見、先入観を完全に捨てさって聞いてみるしかない。
 わたしは、ベートヴェンの3番「英雄」が一番それを感じる。ある頃、一日中「英雄」交響曲を鳴らし続けていたからなのだろう。
 まあ、繰り返し繰り返し何度も何度も聞いているうちに、ある日突然くるものだから、焦らず探求するといいのだろう。瞑想しつづけるのも、デモーニッシュがいつくるかわからないから続けるのだから。

 ちなみに、ゲーテはベートヴェンの「運命」交響曲を聞いたとき、凄まじいデモーニッシュを感じて、恐れをなしたそうだ。デモーニッシュはうまく制御できれば素晴らしい神がかりの力を人に与えるが、基本的に制御できないとゲーテは考えていたからこそ、「運命」交響曲を聞いたときにゲーテのうちに沸き起こった恐怖を忌避し、ベートヴェンとの交友を断ったといわれているそうだ。



 ゲーテは、デモーニッシュなるものが、善き方向に働いたらどうなるかも知っていた。それは『ファウスト』の最後で歌われている詩だそうだ。


  すべて移ろい過ぎゆく無常のものは
  ただ仮の幻影に過ぎない。
  足りず、及び得ないことも
  ここに高貴な現実となって
  名状しがたきものが
  ここに成し遂げられた。
  永遠の女性、母性的なものが
  われらを高みへと引き上げ、昇らせてゆく。

 


 ちなみに、トルストイは『クロイツェル・ソナタ』という作品を書いているが、これはトルストイがベートーヴェンの同名の曲を聞いて感じたデモーニッシュに恐れをなして(フロイトの唱えたリビドー=性欲が生きとしいけるものの根源的衝動であると感じて)、書かれた禁欲主義を勧める作品だ。
 わたしは、トルストイの作品に感銘をうけて、ある時期、毎日ベートヴェンのクロツェル・ソナタを聞いていたが、ある時、得体の知れない恐ろしさをやはり感じて、それからは聞いていないのだ。

 ワグナーの曲にもそういうのがある。ニーチェがあれほどワグナーを絶賛していたのに、懐を返すように絶縁したのは、ニーチェがワグナーの楽曲にデモーニッシュを感じたからとしか言いようがないからだ。
 わたしは、「さまよえるオランダ人」を聞いていて、それを味わいましたけどね。
 あの衝撃があったからこそ、あの小説がああいう形に変貌したのであって、わたしがどんなに知恵を絞っても、あの展開にはならなかったという、「さまよえるオランダ人」にあったデモーニッシュに引っ張られて、あの小説が必然的にああなったという体験もしているのである。

 Ledzeppelin なんかの曲にもデモーニッシュを感じさせる曲があるが、わたしが何とも言いようのない力を感じた曲は、スティーヴィー・サラス・カラーコードの曲だった。



 スティーヴィー・サラス・カラーコードのファースト・アルバムを、何も考えずに聞いた時に感じたあの言いようのない衝撃は今でも忘れない。
 まあ、わたしをそういう世界に一番、引っ張ったのは、ジミ・ヘンドリックスだろうが。



ipsilon at 21:57コメント(0)知への愛「思索・備忘録・箴言」 

2019年04月28日

小説神髄 (岩波文庫)
坪内 逍遥
岩波書店
2010-06-16




 宗教といひ、詩歌といひ、哲学といひ、その名によりて形こそかはれ、その主旨となす所を問へば、なべて人間に関する者にて、その性質と運命とは何等の自然の機関しかけによりていかなる工合にはたらくかを残るくまなく説き明らめて、世間の人の迷妄まどいを解き、また疑ひの雲を払いて、好奇のへきするにあり。


 小説はもと世態をば写しいだせる者にしあれば、読者にして活眼ありなば、書中に叙したる所によりて反省すべきが当然なり。譬へば他人のなりふりを見て我がなりふりを正さむとするは、有識の人の常なるをや。


ipsilon at 19:29コメント(0) 
ある奴隷少女に起こった出来事 (新潮文庫)
ハリエット・アン ジェイコブズ
新潮社
2017-06-28




 最も強い絆とは、苦しみに共に耐えた者のあいだに生れる絆である。


 身内のどんな腐心も徒労に終わったが、神は見知らぬ人々の中で、友をわたしに授けてくださった。そしてその友は、ずっと願いながら得られなかった貴重な恵みを、わたしにもたらしてくれた。友! それはありふれた言葉で、安易に使われすぎる言葉である。世にあるほかの善い、うつくしいものと同様に、ぞんざいに扱うとかがやきを失ってしまう言葉である。だが、わたしがブルース夫人を友と呼ぶとき、それは聖なる響きを持つ。



 ハリエット・アン・ジェイコブズ

ipsilon at 16:38コメント(0) 
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