2019年04月11日

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

 とにかく凄い作品だ。世界には二種類の人しかない。『カラマーゾフの兄弟』を読んだ人と、読まない人であると言われるだけのことはあった。世界最高峰の小説といわれるのに素直に肯けた。
 とはいっても私の場合、哲学・宗教をあるていど学んできたので、そう苦痛なく読めたが、それをしていない人だと、読了するにはそれなりの忍耐力が必要であろう。だがそこは小説である、ドストエフスキーの上手さであろうが、物語がミステリーになっているので、とりあえず哲学・宗教のところは理解できなくとも、読み通せることができるような親切設計になっているので、未読のかたは是非とも手にとってほしい。なるだけ早く一度目を読んで、あとは数年おきくらいでもいいので、哲学や宗教を学びながら再読しても、一生ものの作品になることは間違いないだろう。


 長老とはいったい何者なのか? 長老とは、すなわち、あなたがたの魂と意志を、自分の魂と意志の内に引き受けてくれる人にほかならない。いったん長老を選んだならば、あなた方は自己の意志を放棄し、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老の完全な服従下にさしだすのである。自己にこの運命を課した人間は、永い試練のあと己に打ち克ち、自己を征して、ついには一生の服従を通じて完全な自由、つまり自己自身からの自由を獲得し、一生かかっても自己の内に真の自分を見いだせなかった人々の運命をまぬがれることができるまでにいたるのだという希望をいだきながら、この試練を、この恐ろしい人生の学校を、すすんで受けるのである。

 まずはじめに提示される宗教的テーゼといえる部分であろう。
 宗教、なかんずく信仰というものは、ある意味では自我を捨てて真理に辿りついた人物に帰依することであるという意味であろう。仏教にある「自分自身に生きろ」というテーゼとは正反対なのだが、本質的には同じであることを見抜いていたドストエフスキーの凄さよ。自己に生きようが他者に帰依しようが、結果目指すべき場所は「無私無欲、無心」の境地であることに変わりはないということだ。
 しかし、ここでドストエフスキーが述べている他者への帰依に生きることには、実は問題がある。それは言うまでもなく、帰依する対象も人間であり、必ず間違いを犯すというこことだ。またたとえ帰依する人物が故人であっても、その人物が残した言行録などが、必ずしも絶対的真理に到達しているとは言えないわけだ。
 しかし、多くの人がそのような信仰姿勢を選びやすい気持ちはわかる。なぜなら、自分の頭で考える面倒がないからだ。
 故人である人物を神格化して崇め信仰の対象にすることには危険が伴うということだ。しかしまた「自分自身に生きる」ことも同様に問題がある。己の感覚だけを頼りにするということは、偏見・先入観に陥ることは自明の理だからだ。そしてまた「自分の頭で考える」ことは非常に面倒ゆえ、多くの宗教が仏教(哲学)的ではなく、他者(ようするに神という概念だが)への信仰を進める形になっているのだ。仏教も大乗になると、ほとんどが他者(特定の仏)への帰依になっているのではあるが……。

 ドストエフスキーはこの辺りもよく観察しており、こうした長老制度は両刃の剣であり、屈従隷属(悪い言い方をするなら、妄信狂信)に陥るということをはっきり文字にしている。

 両刃の剣にもなりうるので、なかには温容と最終的な自制の代りに、あべこべに、きわめて悪魔的な傲慢さへ、つまり、自由ではなく束縛へと導かれる者も、おそらく、出てくるに違いない。

 つまりこうした概念から、いかなる宗教を信仰するにせよ、自問自答と、他者からの批判の双方をそなえた自己批判が重要であると言っているわけだ。


 肝心なのは、嘘を避けることです、いっさいの嘘を、特に自分自身に対する嘘をね。自分の嘘を監視し、毎時毎分それを見つめるようになさい。また、他人に対しても、自分に対しても、嫌悪の気持ちを抱かぬことです。内心おのれが疎ましく見えるということは、あなたがそれに気づいたという一事だけで、すでに清められるのです。

 とにかく自分を見つめるんだよ! とわたしは、ここで口角泡を飛ばして言ってきたのだが、ようするに自分を見つめるという概念はこういうことである。仏教でいうところの「気づき」といい換えてもいいのだが。


 人生の意味より、人生そのものを愛せ

 この部分は問いを発しているところなのだが、真実なので疑問形にして引用はしなかった。
 生きる意味というのは、今生きているということの次に大事なのであって、人生にあって最重要なのは、「生きていることそのもの」というわけだ。案外見落としがちだが非常に重要な気づきといえよう。
 あれこれ言ったり考えたり、論理的に批評批判する以前に、われわれはいまここに実存している、生きている、こういう思想はようするには実存主義と呼ばれるものであり、ドストエフスキーもそういう範疇に入る作家である。


 ――ここまでが上巻。

 
 楽園はわたしたち一人ひとりの内に秘められているのです。今わたしの内にもそれは隠れていて、わたしさえその気になれば、明日にもわたしとって現実に楽園が訪れ、もはや一生つづくんですよ。

 乱暴な言い方かもしれないが、仏教という自己の内側を観る「内道」という信仰をもちながら、5年も10年も、愚痴に近い社会批判であるとか、対立する宗教団体への悪罵をつづけている人を見ると、「あなたは何のために仏教を学んだんだ……」と辟易する。キリスト教徒のドストエフスキーが、ちゃんと宗教的真理に到達してるのに……と思うのだ。まあ、気づかない人は一生涯気づかないので、ここであれこれ言ってもしかたないことは、とっくに知っているのだが。んまあ言いたくなるのだ。


 人間の精神的な徳の内にのみ平等は存ずるものであり、それを理解できるのはわが国だけである。
 
 ドストエフスキーのロシア愛とか誇りはおくとしても、これもまた文句なく真実であろう。いつまでも「社会的に不平等だ!」と絶叫したりしてもあんまり意味はないということに、多くの人が気づく時代になるといいのだが。無論、わたしは現実にある差別を許すのではないが、ようするには程度問題であり、一人一人が己の分を知り、それで満足すれば、「平等! 平等!」と絶叫する必要もないということだ。他人に求めるまえに、己を顧みて、己の満足する部分を見つけださなければ、限りのない欲望に翻弄されるだけの人生に終わるだけなのだろう。己の分を知らずに、他人に求めたところで虚しいというものである。

 ――ここまでが中巻。


 みんながそういう人間でも。君だけはそうじゃない人間になってください。君は事実みんなと同じような人間じゃないんだから。現に君は今、自分のわるい点や、こっけいな点さえ、恥ずかしがらずに打ち明けたじゃありませんか。今の世でいったいだれが、そこまで自覚していますか? だれもいませんよ、それに自己批判の必要さえ見いださぬようになってしまったんです。みなと同じような人間にならないでください。


 強制でどんな信仰が生まれるというんだ? おまけに、信仰はどんな証拠も役に立たないんだ、特に物的証拠なんぞね。トマスが信仰を持ったのは、復活したキリストを見たからじゃなく、それ以前から信仰を持ちたいと願っていたからなんだよ。



 信仰において最も重要な点だ。いや思想においてもそうだし、対人関係にあってもそうだろう。強制するなかれ、議論して相手を潰すなかれ、意見を押しつけるなかれ、だ。当人が「やりたい」と思うまで見守れる寛容さと忍耐力こそ、その人を最もよく育てるのである。


 良心! 良心とは何だい? そんなものは自分で作りだしてるのさ。じゃ、なぜ苦しむのか? 習慣さ。世界じゅうの人間の七千年来の習慣でだよ。だから習慣を忘れて、神になろうじゃないか。
 
 わたしが本作を読んで、最も心を抉られた部分がここだ。
 あんまり言いたくないのだが、殺人は罪だというのも習慣による判断だということを、ドストエフスキーは実は上巻の「大審問官」のところで述べているとわたしは読んだのだ。そういう判断は後天的な経験知だとか理性的な判断によるのであって、真の意味での「良心」ではないわけだ。
 「大審問官」のところでイワンが語っている部分には、そもそも矛盾がある。「子どもは善悪の判断がないので神のように純粋であり天使である(虫とかを無自覚に平気で殺す)が、大人になると善悪の判断が出来てくる、しかし大人は子どもを虐待したり、殺すことを楽しむために殺す。だから大人は許せないし、そんな大人のなかに神性などない」とイワンは言うのだが、これは矛盾しているのだ。
 子どもは許せるが大人は許せない、つまりイワンは、自覚なく殺すのは許すが、自覚して殺すのは決して許せないという、己個人の経験的習慣による良心で、もの判断しているということだ。
 つまり、イワンは子どもと大人という両極で判断しているのだが、真の良心というのはそうではない。それを下巻でドストエフスキーはきちんと語っている。つまり、真の良心(神視点)による判断では、問題になるのは、自覚があったか無かったかなのであって、子どもであるからとか大人であるからではないわけだ。現に大人であっても、心神喪失状態で殺人を犯さした場合には、罪に問われないのだから。
 このように、我々が良心と呼んでいるものなど、到底当てにできないものであり、真の良心に生きようと思うなら、信仰の道に入らざるを得ないことが必然であるというこを、ドストエフスキーは述べているわけだ。


 われわれはこの種のあらゆることに、きわめて慣れっこになっているからです! この種の陰惨な事件がわれわれにとっては、ほとんど恐ろしいものでなくなっているという、まさにその点にわれわれの恐怖も存在するのであります! 一個人の個々の悪業ではなく、われわれのこうした慣れこそ、恐れなければなりません。

 わたしの場合以前、開高健の講演の動画を you tube で観たときに、つくづく感じたことでもある。
 戦争が終わらない原因は、報道をしまくり、それを日々に見聞していると、無感覚、無関心になり、社会で何が起こっていようが気にならなくなるということだ。児童虐待しかり、虐めによる自殺しかりであろう。報道されたときは感情的になってあれこれ騒ぐが、報道がおさまると、まるで社会にはそんな問題が無かったかのように平凡な生活を送る。そういう無感覚や無関心こそ社会の最大の害悪だと、ドストエフスキーは言っているのだろう。


 ふつう人生では両極端の中間に真実を求めねばならないのが常であります


 これからの人生にとって、何か素晴らしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代の大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。

 社会を良くする術として、これ以上のことが言えると、わたしは決して思えない。
 だから、児童虐待とか、子どもが虐めにあって死ぬなんて社会は糞なんだ! 糞のなかの糞なんだ!

 個と社会。近代から現代に向かうにつれて、個人主義やら無神論がはびこり、酷いことになっている。
 だが、歴史小説の進歩を見ても、個と社会の関係性が重要であることは明白なのだ。
 かつては、歴史上のある武将、つまり個人に焦点をあてた作品が書かれてきたが、司馬遼太郎などの時代になると、個人と国家の関係が描かれるようになったわけだ。
 なぜそうなったのか? 理由は明白だ。個人だけでは生きていけない。個人は社会との関わりがあってはじ、めて生きているということを司馬遼太郎などは鋭く見抜いていたからだ。しかし、残念なことに、未だに日本人は司馬遼太郎の小説を読んでも、竜馬がかっこいいとか、誰が一番だとかいったような、個人にしか目を向けない。己との相性や、己と共感できる人物にしか視線を注がない。
 そうした視点で『カラマーゾフの兄弟』を読むなら、まあ、あまり意味はないだろう。

 個と国家という対比になると、個人は何も出来ないに等しい、それはそうだ。だからこそ、個と国家ではなく、個が関われる範囲を見出して関わっていくという視点が重要であり、賢明な人はみなそういう論理を掲げている。ルソーがその典型であるし、宮台真司さんもそうだ。
 できうるならば、是非そういう視点で『カラマーゾフの兄弟』を読んで欲しい。

 こいつは駄目人間と読むのではなく、作品全体にある社会構造を見て、なぜその人がそういう人格になり、そのような生活をせざるを得なかったのかに目を向けて、良書を読んで欲しいのだ。その個人を嫌ったり、いたずらに批判することなく。
 関係性によって社会は営まれている。そういう視点をもった人が一人でも増えれば、それだけ世の中は良くなるのだとわたしは確信している。


 余談だが、ドストエフスキーは真の善行というのは理論理屈や信念にあるのではなく、行為つまりは振舞いにあるときちんと言っていたことを追記しておく。これこそ最も重要なことであるからだ。そしてまた、そうした行為振る舞いをもっとも行っているのは、極貧にあえいでいるような人びとだと語っていた。なぜそう言えるのか? 考えてみれば自明の理だが、極貧にあるということは、まず生存という生きることに必要な振る舞いをせざるを得ず、結果としてそれが善悪を超えた行為振る舞いになるからだ。そこに損得勘定がないからだ。己の幸福のために己を欺くこともなく、己の幸福のために他人を欺くこともないからだ。また、己の幸福のために傲慢になることもないし、己の幸福のために他人に尽くしているふうに見せる(結局は他人を利用している)こともないからだ。つまり、偽善がないのだ。

 ドストエフスキーの作品には極貧でなかば白痴のような登場人物が多く出てくるのだが、わたしは彼らについてドストエフスキーが語ったり、彼らの口を借りて語る部分が大好きなのだ。だって、愛すべき美しい人たちなんだから仕方がない。
 そういうことを味わいたいなら『虐げられた人びと』をお勧めするのだ。

 確かにトルストイも凄いんだけど、ドストエフスキーのほうが現実に貧窮な環境に身を置いていたことが多いので、貧しい人びとへの情愛が厚く、作品を読み終えたあと「この人は本当に優しいなぁ」とつくづく溜息をつくのだ。生まれたのはモスクワのスラムだし、ペテルブルグにアパートを借りても、スラムに近いところで、小さな部屋に籠って執筆していたのだから。
 トルストイも凄いけど、モスクワにあった別荘とか、超豪華だったとか知ってしまうとね……。まあ、それぞれの分があるので、比較しても仕方ないのだが……。


 余談の余談であり、備忘録だが、ようやくすっきりとキリスト教の原罪とかあらゆる人に対して罪を背負っているという意味がわかったので、メモしておく。重要なことなので。
 つまり、すべては主観であるから、相手がどういう人であれ何をしたにしろ、「相手が悪い」というのはこちらの見方であるという点を広げると、わたしはありとあらゆる人に対して「あいつが悪い」と見ることもできるわけで、そしてそういうものの見方ができるということが、すなわち「あらゆる人びとに対して罪を背負っている」とか「己の十字架を背負う」という意味であることが、はっきりわかった。
 だから、イエス・キリストに祈れば原罪が消えるのではなく、イエス・キリストと同じ覚悟で、己はあらゆる人々に対して罪を犯す可能性をもっていると自覚することが、キリスト教における信仰の基本なのであろう。

 無論、そのようにあらゆる人びとを悪く見ず、嫌悪しないで生きるなんてことは、常識で考えれば不可能事なのだが(感情があるので当然無理だが)、その理想を目指すことはできるわけだ。そしてそういう理想を追求したのがイエス・キリストであるのだろう。そしてまた、あらゆる人びとへの罪の自覚が困難で不可能事だからこそ、「相手が悪い」と思ってしまったことを懺悔し、罪を告白することが重要なのであろう。
 赦せないものは赦せねぇーんだよ、ボケが! という意見もわかる。だが、相手を赦すことはつまりは、自己の中にある相手への嫌悪感や相手を見下している自分の傲慢さといったものの見方を捨てることであると気づけば、まあなんとか少しずつでも赦せるようになるのではないだろうか……まあ、すべては主観だと気づくのだって、何十年もかかるので、道は甚だ険しいわけだし……無理に気づかせることも出来ないし、本人が気づくときにならなけれな気づけないのだし……それには絶対的に絶望が必要なのだが……。

 同様に、あらゆる議論や批判をやめよ、好き嫌いを捨てよという仏教の教えも、本質的には同じなのである。


 ちなみに、三兄弟の名前の意味を知って読むのも一興かと思う。ドストエフスキーはどの作品でも、登場人物の行為に見合った名前を与えているので。

・イワン(ヨハネ)=主は恵み深い=理性
・アリョーシャ(アレクセイ)=戦士の守護者=悟性
・ドミートリー(デメテルの)=ギリシャ神話、大地と豊穣の女神=感性

 また、彼ら三人の個性に注目すると、イワン=理性、アリョーシャ=悟性、ドミートリー=感性、という分類もできる。すなわち、カントが『純粋理性批判』で述べている、人間がものごとを判断し理論化するのに使用している認識の要素を三人は示しているわけだ。どれか一つが優れていればではなく、三つが調和しているのが最も理想的なのだろう。
 むろんそういうことから、三位一体といった意味が読みとれることもできるのだろう。キリスト教では父と子と精霊になるが。またこれらの三というのは、過去現在未来をバランスよく見ながら生きるのが理想というふうにも考えられるのだろう。

ipsilon at 17:45コメント(0)  

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