2019年04月12日

カント『道徳形而上学原論』

 どの本を読んだときか、あるいはネットで調べていてかは失念したが、あるときカントの「定言命法」は聖書にあるイエスの言葉とほぼ一致するということを知った。そしてまた、先に読み終えた『カラマーゾフの兄弟』にもそのような論理があることに気づいた。ということで、改めてカントを学びなすことにしたのである。
 そしてまた、原始仏教経典にある仏陀の言葉も「提言命法」とほぼ一致するわけである。

 さて、『道徳形而上学原論』とはいかなる概念かをまず話すべきなのだろうが、まあこれが難しい。
 多分、簡単に述べるならこうであろう。

 われわれ理性的存在(人間)というのは、いかなる存在かということを問うていくなら、まず形而上の部分から説き起こしはじめるべきだという思考に従って、理性的存在を説き明かそうとし、そこで現れてきた原論――あらゆる論理的思考の根源になる理論――を組み立てようというのが、『道徳形而上学原論』といえるだろう。

 で、このような思考をするためにまず何が必要かというと、理性的存在の内面にある機能を分類する必要がある。なぜ分類するのかといえば、見るものと見られるものという対比関係にしてものを見ることをしなければ、人間は何物をも認識できないからだ。つまり、人間のなかでごっちゃになっている機能を――感性・悟性・理性――に分けて、感性を見るために、悟性を感性の外側に出して、悟性によって感性とはいかなるものかを認識しようとする思考が必要だということである。

 例えていうならば、水に溶けている何物かを知るためには、水と溶けてるものを分けなかれば、どうにもしようがないということである。水に溶けているものが何かを知るためには、水を蒸発させて、水に溶けているものを抽出する必要がある。これと同じようなことを思考で行うのが、あるものを認識するために、認識されるものの外側に認識する側を置くということである。これを宗教的視点におくならば、人間とそれを含む世界(宇宙)とは何かということを認識しようとするなら、宇宙の外側に己をおいて、宇宙を眺める必要があるということだ。
 ようするに一般にいわれるキリスト教の一神教というのは、このような思考なわけだ。しかしそうした神視点に立つことは、ここまで説明してきたように、ものを認識するための手段であって、そのもの自体から乖離することでもあるわけだ。で、そのことに気づいたのがスピノザだということだ。宇宙を認識する手段としては、神視点は有効だが、実存としての世界はそのようなものでなく、世界そのものが神であるということに思いいたったというわけである。

 話が飛躍したが、カントの理性に対する考察はこうなっている。
 感性を認識するために、感性の外側に悟性を出して、なるほど感性とはそういうものかと悟性によって認識し、さらに、悟性を認識するために、今度は悟性の外側に理性を出して、なるほど悟性とはそういうものかと理性によって悟性を認識するわけだ。そして、それと同じ原理に従って、では理性を認識するために、今度は理性の外側に出て神の視点で理性を神視点によって認識するわけだ。
 そうなると理性とはなにかを認識できる、「何らかの認識存在」があると気づくことができるのだが、その「何らかの認識存在」の外側に出て、その「何らかの認識存在」を認識することは、人間には出来ないということになる。つまり、神視点の外側に立たなければ、神とは何かを認識できないのだが、人間は決してそのような位置に立つことが出来ないわけだ。

 これがカントの述べる、理性の限界だということである。
 つまり、我々の認識できるもっとも高い視点にあるのは、理性とはなにか? ということを認識できる「何らかの認識存在(神視点)」であることがわかるわけだ。
 したがって、カントはこの根源的な認識存在という視点に立って、最高善や最高の道徳原理を見出すべきだと考えたわけだ。したがって、道徳や最高善をきちんと考えるためには、まず形而上にある例の「何らかの認識存在の位置(神視点)」にたって思考するべきだというのが、『道徳形而上学原論』という考え方なわけだ。

 そして、このような視点に立つと自ずから現れてくる道徳原論があり、それがかの有名な「定言命法」であるとカントは述べているのである。

 君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存ずるところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない。

 無論この定言命法の構文はひとつの例であって、様々に換言することができる。だが、いかなる構文を取ろうと、三つの原則を踏まえたものでならなければならないとカントは述べている。

1)普遍性が担保されていること。
2)相対的、随意的価値観が絶対に入り込んではならないこと。
3)自律的であること。

 これがその三原則である。
1)はそう難しくないだろう。いついかなる場合にも、またどんな人にも適用できなければならないということだ。
2)は、定言命法には善悪の概念があってするのではなく、またこうであるからこうした方が良いという概念があってはならないということだ。ははは、この点からも、ほぼ定言命法が理性によって導き出せる代物でないことはおわかりだろう。
3)は、定言命法を法律に見たてるなら、立法者は自身であり、かつまたその法律の遵守者も自身であらねばならないということだ。したがって、定言命法を実践しようと思うなら、他人の思想や考えをよしとして行為することは決して許されないということだ。提言命法は決して他律であってはならないということだ。

 そしてこの三原則には、優先順位があり、1が最も優先順位が高く、2、3となるにしたがって、順位が下がるということだ。
 また、混乱を避けるために述べなかったが、先に提示した定言命法の構文にある「人間性」というのは、理性的に思考して常に向上しようとする意志を持った理性的存在(人間)のことを指す。したがって、感覚感情的な、「あの人はいい人」だといった抽象的な概念ではない。よって、理性的思考によって向上する気のない人は、そもそも定言命法を適用できないのである。

 ともあれ、最初に述べたように、定言命法を規定している認識存在は理性の外側にあるのだから、理性を使って「このように思考して行為するなら、定言命法に適っている」という断定を、われわれは理性的に下せないのである。
 これが、定言命法にある最大の難関であり、理不尽さなのだが、多くの私的解釈を見ると、理性的に思考しさえすれば誰でもが提言命法に則った行為ができると判じているわけだ。

 だがカントはそのようには述べていない。
 理性の外側にある最高善であり、かつ自由であり、最高の道徳で原理である定言命法があるということを、理性は論理的に証明することはできるが、その論理を実践的に使うことは甚だ困難であると述べているのである。

 しかし、その実践的な方法があると言えないわけでもない。
 それが「今ここ」に生きるということである。
 先験的な経験の判断を持ち込まず、また心の性向や傾向性や、他律的な要因に一切左右されず、今ここで起こったことを今ここで考え、今ここで行為するという実践方法をとれば、なんとか定言命法に則った行為ができうるのではないだろうか、というのがわたしの解釈である。
 というよりも、仏教経典にはそのように述べているものがある。

 こころの五つの覆いを断ち切って、すべて附随して起こる悪しき悩み(随煩悩)を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過ちを断ち切って、犀の角のようにただ独り歩め(スッタニッパータ「犀の角」)

 過去の経験や記憶や知識に頼らず、五感から流れ入って起こる感情に左右されることなく、他律ではなく自律的に思考し、理性的に判断して行為せよ。こう言っているわけだ。まるっきり定言命法と同じだというわけだ。
 そうかんがえると、犀の角というのが、感性とは離れた独立に機能する存在である理性を指していることが見えてくるわけだ。なぜって、カントも理性とはそのように、感性から独立して機能することができると述べているからだ。われわれの爪や髪が、感覚世界とは一線を画してして、決して感性から流れ入る煩悩の影響を受けない、独立的存在である比喩をつかって、本来理性というのはそのような独立不羈の存在たりえると言っているのだろう。
 現にそれは普通に感じることができる。寝起きにまだ感覚が鈍っているのを感じられるのは、理性が感性とは独立して機能しているからだ。もしも理性と感性が関連しているなら、眠気によって理性も鈍化しているはずだが、われわれの理性は、寝ぼけていても「ん、まだ体が目ざめてないな」ときちんと判断できるのであるから、その一点をもってしても、十分に理性が独立的な機能であることが証明できるわけだ。重病で死の床にあっても、肉体から流れ入る感情や煩悩に左右されず、「書いた遺言はあそこにしまってあるとか」、死に面していても辞世の句なんかが読めてしまう芸術性を発揮できるのは、理性が独立的な存在であるからであろう。

 そしてまた、そのような定言命法は、イエスの言葉にもあるわけだ。例は引かないが。
 すなわち、彼らはカントに先立つこと遥か昔に、神視点にたって理性の限界を見出し、そのうえでなんとかかんとか実践できる定言命法を見出したということになる。またそれゆえに、信仰は理性の限界を超えた部分にあるということも言えるわけだ。

 しかし、より分かりやすく定言命法を説明するなら、こうも言える。というかカントはそう説明している。

 行為の本質的善を成すものは心意であって、行為の成果がどうであろうと、それは問題でない。

 つまり、定言命法は行為でもあるが、定言命法の本質により近づこうとするなら、行為ではなく(己の)心意を見極めなさいと述べているわけだ。
 心意とは、辞書的にいえば「こころ」であるが、ここでは、自己自身に対する楽しみ、歓喜、ひいては自己自身の価値が高まったという感動であり、そういう己に対する尊敬であり、究極的には自他の境を超越した畏敬の念のことである。

 ある人に善かれと思ってある行為をした。だが、相手は迷惑顔をして非難してきた。
 例えこのような、一見定言命法に適っていないような行為にあっても、心意の部分で両者に喜びや畏敬の念が湧いたならば、それは定言命法に適った行為だったと言えるわけだ。
 相手が非難してきたのは、相互の関係を高めるための建設的な批判であり、なおかつ、自分は意見したことによってまた新たな見地、ものの見方を得れたといった喜び、そのような関係性を、こころに見ることこそが定言命法に適ったことになるのである。なぜかなら、定言命法には善悪の基準を持ち込んではならないので、こちらの行為によって起こった相手の反応がいかなるものであれ、それが定言命法に反したものだとは言えないからだ。

 したがって、定言命法に従って行為するということは――
 自己の行為が自己によって尊敬されるものであり、なおかついつどんな状況で、どんな相手に対しても尊敬の念、ひいては畏敬の念をもって接するという実践であり、かつそのように自他や環境に対して尊敬や畏敬の念をもって接せられるような行為(言動)とはいかなるものかを理性的に思考することであると言えるだろう。
 つまり、定言命法を突き詰めると、あらゆるものを敬えという宗教にある格律に至らざるをえないのである。

 wikiとかの説明を見ると、んまァ間違って解釈されているなァと思える。
 無条件に「〜せよ」と命じる絶対的命法と説明されているが、これは説明不足もいいところである。
 絶対的であるのは、感性の立場にたって見た場合であり、悟性を含む理性の立場に立つなら、定言命法は自律的かつ普遍的である自由な意思に他ならないからである。この辺りは一見矛盾する論理なのだが、決して矛盾するものではないのである。視点の場所の違いによって、定言命法は絶対的命令ともいえるし、自律的な無限の自由意志ともいえるということである。

 ともあれ、いかなる思想・哲学・宗教にせよ、これだけは避けたほうがよい、またこうすべきであるということを訳者が述べているところが素晴らしいので、最後にそこを引用しておく。


 意志の他律は、道徳にとって実に衆悪の門である。とはいえ、はたから示された原理であっても、私達がこれを批判したうえで、みずから承認したものであれば、これをとって自分の格律となすことができる。

 面白いことに、この論理は『カラマーゾフの兄弟』の記事でわたしが赤字で示した部分であったりする。

 自問自答と、他者からの批判の双方をそなえた自己批判が重要である――と。


 そしてまた、そのような自己批判に必要なものを訳者はこう言っている。

 その第一は、自分で考える、――第二は、論理的に考える、――最後に第三は、相手の立場に身を置いて考える、の三つである。自分で考えることに慣れるまでは、試行と錯誤を繰り返すであろうが、やがてこうして得たところの思想は、他の何ものをもっても換えがたい貴重な所得であることが解る。

 こうした訳者の言葉からも、定言命法というのが、「このようなときこうすればいい」といったマニュアル的思考ではなく、またそうした方法論でもなく、常に自分の頭で考えることであるということが理解できるのではないだろうか。
 しかしこの論理的という言葉にも注意がいる。すなわち、きちんと自他に証明できる理論のことを論理的というのであって、自他に証明できなくとも、理性的あるいは合理的に思考することはできるが、論理的というのはそのような概念ではないということである。


 追記しておく。
 もういつ学んだか忘れてしまったが、カントの述べた文章で非常に感銘をうけたものがあった。そして今回『道徳形而上学原論』を読んでいたら、その文章に再会した。
 「ああ、この文章に感動したんだっけ!」と思い出した。でもすっかり忘れてしまっていた。
 ということで、備忘録として記しておく。

 目的の国では、いっさいのものは価値、、をもつか、さもなければ尊厳、、をもつか、二つのうちいずれかである。価値をもつものは、何かほかの対価物、、、で置き換えら得るが、これに反しあらゆる価格を超えているもの、すなわちあたいのないもの、従ってまた等価物を絶対に許されないものは尊厳を具有する。

 人間社会を見るにあたって、多分もっとも重要な概念であろう。
 しかし、現代の社会を生きるわれわれは、ついうっかりこういうことを忘れている。会社組織で仕事をするということは、自分が体調を崩して休んでも、代わりに仕事をしてくれる人がいるという概念があたりまえになっていて、それに倣い人間を価値として見ているわけだ。しかし、わたしという一つの個性やあなたという一つの個性という尊厳は決して代替などできないのが真実だ。天上天下唯我独尊であるし、天上天下唯一独尊なわけだ。しかし社会は人間を道具や手段、あるいは貨幣の代替物として見ているというわけだ。
 だから生産性のない人は社会に必要ないとか政治家が言いだすのだ。

 カントの述べた定言命法を適用するなら、そのような社会は人間を目的のための目的としておらず、人間を手段として見ているということだ。金さえ払えばその人の代わりが得られると思って見ているということだ。
 そしてこういうことは多くの人に日常的でさえある。コミュニティーサイトで交流してみればすぐにわかる。己と相性のあう人だけに尊厳を見て、そうでない人を価値と見ている人が多いことにすぐに気づけるからだ。それ以前に好き嫌いで判断してたりする場合がほとんどであるだろうが。
 もちろん、仕事に穴が開かないように、誰かが代わりにできるというシステムが悪いといっているのではない。システムはシステムとして見ながら、人間をそのような代替可能物と見ないような人格を持つ人を作っていくために啓蒙していくことが重要だと訴えたいのである。

ipsilon at 15:38コメント(0)知への愛「思索・備忘録・箴言」 |  

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