2019年04月16日

ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドによる「解脱」とは

 欲することなき人間、つまり欲望なき人間、欲望を離脱し、欲望を満足し、自己のみを欲望対象とする(自足)人間、かような人間の諸生気(感官)は死期に際して出で去りません。かかる人間は梵そのものでありますから、死ぬとただちに梵の中へ没入するのであります。(中略)

 あたかも蛇の蛻皮ぜいひが蟻塚の上に打ち棄てられて生命もなく横たわっているように、この肉体も死後には打ちたおれております。しかしながら、その肉体を離れた、不死の生気はとりもなおさず梵であり光明なのであります。


 これは、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドにある一文である。

 仏教が正しいという人の多くは、仏教が正しいという思い込みから、ウパニシャッドは間違っているという視座に安住して、ウパニシャッドを否定しさる人が多いのだが、この解脱の思想をなんと説明するのであろうか。
 引用したぶぶんは、言うまでもなくウパニシャッドにある「梵我一如」の理論であるし、後に仏教にあって仏道を歩む目的の最重要項目である、あらゆる「執着」を捨てるということとまったく同じなのだが、ウパニシャッドや梵我一如は間違っていると批判しさる人は、これをどのように説明するのであろうか。

 ウパニシャッドにある「あたかも蛇の蛻皮が蟻塚の上に打ち棄てられて生命もなく横たわっているように」
 という思想と、初期仏典『スッタニパータ』にある、
「蛇の毒がひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」

 というほとんど同じ思想をどう解釈するのだろうか。
 少なくとも岩波文庫の『ブッダのことば(スッタニッパータ)』の注釈を読んでいれば、仏典にはヴェーダ(ウパニシャッド)の思想がそのまま流用されていることに気づくはずだが、そうなると仏教が正しくウパニシャッドは間違っていると、まるで線でも引くように否定しさってしまうことは、自己矛盾に陥るということではないだろうか。
 少なくともわたしはそのように考えて、ウパニシャッドをきちんと学ぶことにした。
 何事も短絡的に判断すると誤るからであり、仏教の縁起を知れば、正しい間違っているは相対的なものであるということを知ったということになるからである。

 つまり、仏教というのは、それ以前の思想哲学が存在したからこそ、起こった思想運動であるのだから、それ以前の思想は間違っていると、仏教を萌芽させた思想を全否定してしまうことは、結果的に仏教を否定することに他ならないとわたしは考えるのだ。過去の自分は間違っていたと言おうが、その過去の自分という積み重ねがあったからこそ、今の自分があるわけで、その過去を自分を否定することは、今の自分をも否定しさるということになるのではないだろうか。ふつうに思考すればそうようになるのではないだろうか。

 ともあれ、原始仏教がいかなるものかを知りたいなら、原始仏教以前と、原始仏教以後を知って、その関係のなかで仏教がどのような立ち位置にあるかという視座に立ってこそ、はじめて仏教を正しく理解できると考えるわけだ。
 当然あるべき思考ではないだろうか。なぜかなら、すべては縁起であると知ったなら、仏教を勃興させた原因があり、その原因に働きかけた助縁があると見るのが、仏教でのものの見方だからだ。
 しかし、ウパニシャッド(あるいは梵我一如)は間違っていると言うような人は、仏教だけ見て、仏教にある論理とは相いれない、あるいは仏教は正しいと思いこみたいがゆえに、仏教以外の思想を排斥しているのではないだろうか。

 ともあれ、わたしがこんなことを述べるまでもなく、現実に残されたウパニシャッドの言句を眺めてみれば、こうしたことは一目瞭然なのである。
 いやむしろ、「蛇の脱皮」の部分に関しては、仏教のスッタニパータの内容のほうが、よほど実践できないことを言っているのがわかるのではないだろうか。(生きている人間はあらゆる欲望を捨てることなど出来ないからだ)
 なぜそうなったのかは、当時の時代背景にあるのだろう。バラモン教が権威主義に陥り、死の世界への視線が強くなり過ぎたことをへのカウンターとして仏教が生まれたからであろう。したがって、同じことを説くにしても、仏教では「この世」でのことを重視して説き、この世で安穏に生きられる方法を提示したといえる。
 したがって、仏教には、実は死の世界をあまりにも語っていない欠点があると言えるのだ。
 だから、ウパニシャッドから死の哲学、仏教から生の哲学を学ぶと、ちょうどバランスが良いとわたしは考えるのだ。

 そもそも、縁起から思考してみれば、無から有は生じないのだから、いくら仏陀が天才であっても、自己の思想を形作るためには、なんらかの助縁(つまり、仏教以前の思想哲学)があって、それによって仏陀は十二因縁という理論を形作ったと考えざるを得ないのは自明の理であるわけだ。
 したがってウパニシャッドを学べば、十二因縁の思考に発展させられる思想が必ず発見できる。わたしはそう考えているし、それゆえにウパニシャッドや梵我一如を否定するのは間違った思考経路だと思うわけだ。


 さて、冒頭に引用した箇所の説明に戻るが、実はこの文章に至る前でいわゆる「業(あるいは輪廻論)」が展開されているのだ。
 そしてここにも、後に仏教経典で現れる比喩表現がすでに見られるわけだ。
 業というのは、起こした欲望であって、それはあたかも、牛(霊魂=欲望という汚れのない魂=真我=アートマン)が引きずる牛車のようなものである、と。
 当時のインドでは牛は神聖視されていたので、穢れのない真我と比喩しているわけだ。

 そして、死ぬと、真我がまず肉体を抜けだし、それに引きずられて、感官、記憶、そして欲望によって作られた業を引きずってゆくと考えられていたのである。
 したがって、現世で欲望(執着)を捨てきれば、真我が肉体から抜ける時に、欲望は肉体(死体)に残ることになる。このような概念を説明するために、蛇の脱皮を比喩につかっているわけだ。
 そして、そのように穢れのない真我になって天にのぼるなら、これもまた穢れのない梵と合一して一つになるということだ。
 そして、肉体をもった状態でそのような梵我一如を目指そうとするなら、生きているときにも、なるだけ欲望(執着)を捨てろということである。そして、これこそが梵我一如の思想であり、先に引用したスッタニパータにある思想と一致するわけだ。
 したがって、ウパニシャッドの梵我一如はぜんぜん間違っていないということになろう。

 また欲望を捨てずに死んだ場合、その欲望(意志)によって、その意志どおりのところに(有限の寿命をもって)生まれ変わるとウパニシャッドでは説かれている。
 つまり、これが正しくて、これが間違ってるんだ! などという強い執着をもって生きた人は、すぐに、またそういう相対的な世界、つまり、娑婆世界にすぐ生まれ変わって、また善悪の狭間で引き裂かれるような苦痛を味わうことになるのだ。
 それがいやなら、あらゆる欲望(執着)を捨てなさいとウパニシャッドも仏教も説いているということだ。
 そうすれば死後、真我はもはや生まれかわることのない、穢れのない梵そのものになるということだ。

 この宗教が唯一無二絶対正しいんだ! とか善き行為をしまくって生きれば善き場所に生まれ変わるのはそうなのだが、執着という面からこれを見ると、またしても他人と「これが正しくて、これが間違いなんだ」といった爭いが必然の世界に生まれ変わるということだ。あれが美味い。いつも美味いもの食いたいと執着した人は、すぐに生まれ変わって、常に飢餓感に苛まれた生きものに生まれ変わるということだ。
 わたしは来世、少なくともそういう爭いや飢餓のない世界にいきたいので、こうやって学んでいるわけだ。
 思考は現実化する。それは生きているときも死後もそう。端的にいえばウパニシャッドはそう教えているということになる。

 だからもう5年も前から、正しいとか正しくないとかじゃねーんだよ、そんな執着はいらない。だから善悪一如なんだよと、ずっと(それはわたしと同じように、来世もまた同じような爭いの世界に生まれ変わりたくないと考える人もいるかもしれないし、そういう人が一人でも増えれば、爭いの世界で爭う人が一人減るわけだから)訴えてきたのであるが……。

 しかし、わたしのように「こんな世界に生まれ変わるのは嫌だ」と嫌悪するのは好ましくない。というか非常によろしくないのである。なぜなら、嫌悪も欲望だからである。したがって嫌うということは、またそのような嫌う感情のつよい生きものとして娑婆世界に生まれ変わるので。
 仏教にある三毒はそのようなことを端的に教えている。貪・瞋・痴。貪ることは欲望であるので説明不要だろう。瞋はふつう怒りと訳されるが、原語に近い意味は嫌悪という欲求である。そして痴は、こうした論理をしらないが故にまた苦しみの世界に輪廻するということである。
 じゃあこの世界を好きになればいいのかといえば、それはそうなのだが、無理に好きになろうとするのはそれもまた欲求であるし、そういうことを思考しないまま、好きなものしか求めないのもまた欲求なので、結局、好き嫌いのある娑婆世界に輪廻するわけだ。だから仏陀は好き嫌いを捨てろと言っているのだ。

 したがって、輪廻しないためには、好き嫌いを捨てて「ありのままである(すべてを受け入れると同義)」しかないわけだ。そして、ありのままであるということを維持し、無理なくこの世界のすべてを受け入れれば、もう輪廻はしないわけだ。いかに残虐な犯罪を目にしようが、戦争で沢山の人が死ぬのを目にしようが、受け入れるわけだ。まあ、わたしを含めてほとんどの人はまずそれが出来ないから、また娑婆世界に輪廻するのだろう。

 ともあれ、長い修行をして仏陀が最期に思わず口をついて出た言葉は「この世界はなんと美しいのだろう!」だったわけで。だからこのような自然にこの世界を好きになっている一番の感情は、感謝であり讃嘆であり、欲望を捨てて好き嫌いをしないことだとわかることだろう。

 まあそれにしても不思議だ。最期に素直に心の底からこの世界を好きになって、この世界が去りがたいくらい自然に愛おしくなると、永遠の生命という梵に還ることになるのだから。ともあれ、信仰における最重要項目は無為自然、感謝、讃嘆であることは間違いないだろう。
 無論、またこの世界に生れたいと思うなら、欲望まみれでも、好き嫌いしてもよろしいということだ。
 けれども、そのように欲望まみれに好き嫌いして、自然とこの世界が大好きになり自然と愛したら、この世界には輪廻しないというのが、なかなか面白いところなのだ。
 正確に言うなら、好きになるというより、何をやっていても楽しい、そういう境涯になった人は、永遠の梵に還るといえるのだろう。

 とまれ、経典にある「甘露」というのは永遠性の比喩であり、また聖書でいうならば「乳と蜜の流れる地」の「蜜」も永遠性の象徴と考えてよいだろう。乳はなにかと言えば、蜜の国で味わえる寂静な安穏のことであろう。
 
 人の心臓に宿れる
 欲望のすべてが離散する時、
 応死者は不死となり、
 そのまま梵に到る。


 ここで言われている、心臓というのは「マナス」であり、真我(アートマン)であり、かつ梵(ブラフマン)であり、心臓はまた白蓮華の花という比喩によってウパニシャッドでは表現される。つまり、白蓮華のように正しい教えというのは、一切の欲望(執着)を捨て去った意(こころ)の状態なわけだ。「これが唯一絶対無二の正しい法だ!」と絶叫しているような人は、それに執着しているのだから、穢れた白蓮華の花だということである。

 また、アートマンが自我をさすと見て、仏教に説かれる固定された自我はないという「非我」と違う論理だから、ウパニシャッドは間違っているという解釈も間違いである。ウパニシャッドでいうアートマンこそ、その非我を指して使われている言葉なのだから。したがって仏教の教理とウパニシャッドにある教理はほとんど同じだということである。
 わかりやすくいうならば、熟睡しているときの意識が真我であり、その状態にあると、われわれは自分であるとか、彼であるとか、これがあるからそれがあるというふうな意識状態にはないわけだ。したがってこのような純粋意識状態(見る者と見られる者が合一した意識状態)が真我であり、梵であるということになる。
 眠りが浅くて、夢を見るということは、自我意識と純粋意識の中間に意識があるということであると、ウパニシャッドでは説明されている。したがって、死後、梵に没入できるような人は、横になったと思ったら気絶していて、夢も見ていないし、見たとしても憶えていないし、今寝たとおもったらもう朝だったといった心の状態にあって生きている人なのであろう。

 なぜか不思議なことに、この「見る者と見られる者が合一した意識状態=真我=梵」という思想はその後、消えてしまうのだが、龍樹が『中論』のなかで、「是目則不能自見其己体」と言って復活させようとしているのだが、どうもあまり顧みられていないようだ。西洋哲学者で、この理論を復活させようとしたのは、言うまでもななく、ショーペンハウァーである。そして彼の飼っていた犬の名前は「アートマン」である。(むろん蛇足だが)
 ショーペンハウァーは多分『中論』も学んだのだろう。彼の著作には、「目玉が目玉を見ることはできないだろ。でもそういう意識状態がないとは言えないよね」と、『自殺について』のなかで述べていたと記憶しているからだ。

 そうして考えれば、禅定とよばれるいわゆる坐禅の目的も自ずから理解できよう。
 起きたまま、熟睡している純粋意識状態に到達しようとするのが、坐禅する目的である、と。
 そうした純粋意識状態を目指すことは、観心とも換言できるのであろうが、そのことをいったいどれくらいの人がわかっているのだろうか。
 不可視なものは見れないのに、目に見えるこの御本尊が云々とか争うことに何の意味があるのだろうか。
 だからウパニシャッドでは、そのような不可視かつ不認識の領域に真我も梵もあるということを、概念として「知る」ことが重要だと言っているわけだ。
 しかし概念だけでは駄目だろう、できうれば、不可視かつ不認識の領域の純粋意識状態を体験すべきであると考え、苦行、断食、坐禅、唱題、読経、写経などなど、あらゆるものを探求してきたのが、仏教の歴史であるのだろう。


 そしてまた、キリスト教の場合、神は絶対正しい、イエスは神の子、離婚はするな、中絶禁止、自殺は罪云々、ありとあらゆる欲望を教義にして信仰するので、生きているときも爭いを生むし、死んだ後も爭いをする世界にまた生まれてくるというわけだ。
 なので、きちんとキリスト教を正しく信仰しようと思うなら、一度、仏教の視座に立ってみたり、イエスが本当に伝えたかったことは何かをしっかり自分の頭で考えて信仰しないと、愛の宗教が裏返って、憎悪の宗教になる危険性を秘めているというわけだ。そして、ユダヤ、キリスト、イスラム教は、すべてアブラハムを起源にしているので、それらは憎悪の宗教に裏返る危険性を秘めているということだ。

 仏教にしても同じような危険はある。それは、これが正しくてこれが間違っているという思考を信仰に持ち込むことである。

 つまり、正しい信仰の基盤には、赦す、受け入れる、応諾するという精神があるということになろう。
 まあ、わたしにいわせれば、日蓮主義のような「他人を裁く」思想のある宗教は、憎悪の宗教に落ちぶれたキリスト教以下だということである。

 イエスが「人を裁くな」と言っているのに、離婚するなとか、中絶するなとか、自殺した奴の葬儀はしてやらねーとか、なんでお前ら聖職者である人が裁いてるんだ? という矛盾に気づいて信仰することが大事なのである。
 離婚をするなら、両者の合意がもっとも重要。イエスの言いたかった真意はそこにあるわけだ。当事者でもない輩がではらってきて、聖職者顔をして「離婚は罪です」だなどど「人を裁くな」というのが、イエスが本当に伝えたかったことであるのだ。
 中絶は駄目だろうと、当事者でもないのに裁くなということであり、自殺した人をみて、それを裁くなということでもあるのだ。

 離婚に関してのイエスの真意は、旧約の申命記に立ち返って思考する必要があるということだ。
 申命記で離縁状を出して、きちんと手続きすれば離婚していいと決められたのだが、法律を乱用して、次々に妻を変える馬鹿者が大量に現れて、それを顧みもしない律法学者に対して、「それは違う、結婚は神の思召しだから、離婚はいかんのだよ」と言ったのであって。だからイエスの真意は、法の乱用は駄目、両者の合意が大事なんだということになるのだが、そのような文脈で新約を読むためには、当然、旧約も熟読していなければらないということになるわけだ。

 そもそも、イエスは「神秘」「奇蹟」「権威・権力」を否定したところに自由があると言っていることを把握したうえで聖書を読むことが重要なのである。
 石はパンに変えられない。そんなものを望むのは信仰ではない。パンが欲しければ働け(求めよ、されば与えられる)という道理を弁えるのが信仰である。悪魔曰く「神殿の頂上から飛び降りてみろ。神が助けてくれるだろう?」イエス曰く「神を試してはならない」というのは、祈れば奇蹟が起こるわけじゃない。道理を弁えて生きろと言っているのである。権威・権力によって人を裁くことは、もっとも自由を阻害する、だからそんなものはいらないと。
 これがイエスの自由観だということを、しかと知っておくことは、価値のないことではないだろう。
 でも聖書のなかでイエス自身、数々の奇蹟を起こしてるじゃんと言うのだろう。それは解釈のしかたで、奇蹟でもなんでもないと読めるのだ。盲人を癒すのは、その人が自分を信じていなかった部分に気づかせた、あるいは、この世界に対するものの見方に無智であったことを気づかせ、自分を信じることが一番重要であり、思考は現実化するということに気づかせただけのことである。死からの復活は欲望を捨てて死ねば、永遠の生命(梵)に到達するという思想の比喩なだけだ。
 また皮膚病を癒すという奇跡も、手を当てて云々というのも、手当てという言葉から解釈すれば、道理に見合った手当てをするべきであるという意味でもあるわけだ。

 繰り返しになるが、仏教を信仰していても、当事者でもないのに、人を裁くようなことばかり言っている人は、憎悪の宗教に落ちぶれたキリスト教以下であるということだ。

 善いとか悪いとかじゃあないのだ。起こったことを受け入れる。そういう覚悟に生きるのが正しい信仰なのである。起こったこと、あるいは起こることが嫌なら、行動しろ。出来る範囲で行動しろ。それで結果がどうあろうと納得する。こうありたいという欲望を満たす。それが正しい信仰者の実践面である。ただしそれは自己に対してだ。そこを見失って他人に働きかけることは、結局「人を裁く」ことになるからだ。

 多くの人がこのような視座に立ったとき、この世界に平和が訪れる。
 だが人間は欲深くて、このような視座に立つことは甚だ困難なのであろう。

 みんなが自分のやることだけ気をつけて、ひとごとに口出ししなけりゃ、この世はいまよりずっとさっさと動くこったろうよ。
 ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』



 蛇足だが、先の記事で「オーム(aum)」について触れたが、実は述べなかったことが一つある。お気づきになった人はいただろうか? そこに気づけた人は相当に鋭利な感受性と思索力のある人であろう。
 つまり、オームと発音すれば自然に三位一体にはなるのだが、知識としてはそれでは不十分であるということだ。
 この世界は相対的であるからだ。よって、発音と対比されるものも意識して(知って)おくのが理想だということだ。
 オームと発音するのと、それに対比して、発音したあと無音になる。この組み合わせこそが梵だということである。aumというのは音、それと発音し終わったときの無音。これで梵になるということだ。
 これは音楽にも、美術にも、文学にも言えることだ。休符を感じれてこそはじめて真にその曲を聞いたのであり、カンバスに描かれていないものを感じてこそ真に絵を鑑賞したのであり、文字にされていない部分を感じてこそ、文学作品を味わいきったことになる、というわけだ。
 何ごともそのように見ていこうと意識して生きていれば、死後、自然に梵に還ることになるのだろう。意識しないでもそのように見れる境地になるのが理想なのだろうが。

 そういう意味では、わたしは音楽を楽しむ生活をお勧めする。
 鼻歌でメロディーを口ずさむにしても、無意識にであれ、裏拍や休符を感じとっていないと、ちゃんと曲に合せて鼻歌も歌えないからだ。音を出す位置を正確につかむためには、鳴っていない拍を感じないことには、正確な位置に音を出す瞬間を感じられないからだ。
 で、このようなことを無意識に行えるようになると、自然と見えないものが見えてくるわけである。
 そしてある日、霊感に打たれるというわけ。そしてその霊感が閃光のように訪れるから、ギリシャ神話の主神も、古代インドの主神もどちらも雷の象徴であるわけだ。そして雷はウパニシャドでは声の比喩ともされている。つまり神の雷に打たれるということは、預言者が神の声を、あるいは祭儀官が神の声を聞くというふうに考えられていたわけだ。

 かんじんなことは 目に見えないんだよ 。
 サン=テグジュペリ『星の王子さま』



 この曲ツェッペリンの『移民の歌』など、よい例だ。
 メインリフによく耳を澄ましてみてほしい。

 ズン ズズ ダドン   なのか? あるいは
 ズン ズズ ダドン ダ なのか、どっちだと言いきれないということ。

 「どちでもない」という「くう」を音楽でちゃんと再現(ミメーシス)しているのだ。
 ツェッペリンをはじめ、有能なアーティストはこういうリフを作るのが非常にうまいのだ。

ipsilon at 12:23コメント(0)知への愛「思索・備忘録・箴言」  

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