2019年04月19日

『新約聖書』四福音書を読んで

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書を読みおえた。
 そしてはっきりわかったことは「罪」の意味だ。もちろん、「罪」の解釈はさまざまあるのだが、聖書を読んで確実にわかる「罪」は――

 あらゆる生きもののなかには「永遠の生命」がある、ということを信じないことを「罪」と、イエスははっきり言っているということだ。
 ひいては、永遠の生命がイエスの中にもあるのだから、イエスを信じなさい=永遠の生命を信じなさいというのが、キリスト教の根源的宗旨ということになろう。

 つまり、キリストが磔刑になることで、あらゆる人の罪を背負ったという意味は、イエスのなかに永遠の生命があることを証明するために、永遠の生命を信じない人たちの目の前で磔刑になり、復活して永遠の生命があることを証明したということなのだ。
 
 まあ、死んだ人間が生き返るわけないじゃんという屁理屈をいう人には理解できないであろう。というよりも、これこそ「信じるか・信じないか」の次元であり、だからこそキリスト教は(哲学ではなく)宗教であるということになる。よってこうしたことから、世界中にあるあらゆる宗教の根底には、永遠の生命はあるということを信じるかどうかという問いがあるといって過言はないであろう。

 そして十二使徒。なんで12人なんだ? とずっと読みながら考えてきたが、わたしなりの解釈を見つけだした。
 つまり12というのは、おそらく仏教でいう六根(目・耳・鼻・舌・身・意)とそれに対応する六境(色・声・香・味・触・法)を足した12であろうと考えた。
 なぜそう考えたのかといえば、ユダの裏切りである。目は色をそのまま受け入れる。耳もそのまま声を受け入れる。同様に鼻も舌も触もそのままを受け入れるのだが、意だけは、法をそのまま受け入れずに、疑い、己自身を裏切るのだ。
 イエスが事前にユダの裏切りを知れたのは、こうした人間の心身の働きを見抜いていたからだろう。

 一般的なキリスト教の解釈では、十二使徒は旧約にある分裂したイスラエルの民の数と一致させるためだろうと解されているが、ここに面白い点が見られるのだ。ラビ族がそれである。そう、ラビ族は祭祀をとりおこなうだけで領地を持たない民なのだ。
 先にあげた六根、六境で、各器官がそれぞれに物理的に領土をもっていることはわかろう。法というのは、不可視的ではあるが、この世界を眺めたときなんらかの自然法則があることを疑う者はいないであろう、だから法にももまた領土があると見ていいだろう。そうすると「意(こころ)」だけが領土を持たないことになる。

 こうして解釈するなら、旧約にせよ、新約にせよ、本当に鋭いくらい真理を提示していると思えるのだ。
 人間は自分の見たいものしか見ない。ありのあままにものを見れない、というのは、意がそのように己を裏切るからということだ。そしてその意というのは、われわれの身体には領土を持たないのである。仏教的にいえば心は虚空にあるのだ。
 聖書スゲー! はっきり言って、四福音書を読んで、そうとうに感動した。

 なかでも一番感動的だったのは、やはり磔刑に処される一連の流れなのだが、「五千人に食べ物を与える 」もとても心に響いた。
 内容はわりと良く知られているのだろうが、イエスが五個のパンと二匹の魚で集まった五千人の群衆の腹を満たし、こぼれたパンくずを集めたら十二個になったという、常識で考えたら「馬鹿なこと言ってんじゃねーよ! パン増えてんじゃねーか!!」というお話だ。

 だが聖書に書かれている内容は、すべて意のなかの世界を記述したものという視点で考えてゆくと、この「五千人に食べ物を与える」の意味は実に美しく思えたのだ。
 つまり、五個のパンというのは、五体であり五感であり、二匹の魚というのは、人と人が関わることと捉えてみると、自己の五体と五感を使って人と関わり、真理を語ってゆく行為は、結局は自己の心身を清浄化すると言う意味だと解せるのだ。金や物をもって人に施しをするのではない(それもまた大事ではあるが)。貧しいから施しができないわけじゃない。わが五体を使えばいくらでも施しは出来る。そう教えているのだろう。
 無論、こぼれた12個のパンくずというのは、先に述べた六根と六境の関係性がありのままに真理を感じられるようになるという、仏教でいう六根清浄ということになろう。

 一般にキリスト教の解釈だと、魚は救世主(つまりキリスト)を指すと解されているが、わたしは先のように解釈した。
 なぜかなら、キリスト教の思想で描かれる魚は、基本、二本の線を交錯させるように描くからだ。 この交錯を、わたしは他人との関わりや、信じることの重要性を伝える行為と解すというわけである。
 別の見方をするなら、始点が同じだったものが別れて、それらが交錯して、互いを認識しあうことで、互いが同じ永遠の生命のもとに生れたということを知れると解せるとも思えたからだ。

 まあ、とてもよかった。読んでみてよかった。
 四福音書には、ほかにも様々、数字なども出てくるが、そられにもちゃんと意味があり、その辺はどの宗教でも同じであろう。
 ウパニシャッドも真理を数字で表して考察する、数論(サーンキャ)という学派があり、仏教もそのような側面を持っているというわけだ。6は完全数であるとか云々。

 とまれ、四福音書を読み切るのはなかなか忍耐力がいる。
 聖書の冒頭にある「マタイ伝」だけ読んで、読んだことにするマタイ逃げでもいいのだろうが、それならばわたしはヨハネ逃げをお勧めする。
 ヨハネ伝は一番分量があるが、その分丁寧であるからだ。
 冒頭の一節は「初めにことばがあった」という有名なあれからはじまるので、入りやすいともいえるので。

 まあ、この冒頭の一節も非常に深い意味があるわけで。
 つまり、人間は言葉によってはじめてものを認識するということを言っているのであり、いくら頭のなかに立派な概念があっても、それを言葉にできなければ認識したともいえないし、認識したことを伝えあうことすら出来ないということを言っているわけだ。
 ルソーは人類がはじめに使った言葉はおそらく「固有名詞」であろうと言っている。
 名前をつけることで、それがいかなるものか認識できるようになったということであり、それは人間だけにできる特別な認識力なのである。

 開高健が講演で似たようなことを言っていた。サバンナでライオンに襲われ、ライオンの概念は知った。しかし仲間にライオンの危険性を伝えるためには、どうしても固有名詞が必要だった。そうして人類は「名前をつける」ということを思いついたのだろう。しかし、そこに至るまでにいったいどれだけの時間がかかったことか、はたまたどのように名前をつけ、つけた名前を伝えていくのかということを為すためだけに、数十年、もしかしたら数百年かかったかもしれないのだ。その間に何人がライオンに喰い殺されただろうか。
 
 こうして考えてみると、そのものが出す音、たとえばライオンなら泣き声を模倣して、それを名前にしたのではないかと、わたしなどは思うのだ。そうして名前が生まれたのだと思うのだ。そして、詩にはそのように、あらゆる音を模倣して直観的伝える術であるから、優れていると思えるのだ。
 だから、模倣(ギリシャ語でいうミメーシス)は人類にとって非常に重要な能力であり、その能力があったればこそ人類は生きのこれてきたのだと思うのだ。
 われら先祖のなしてきた、永年の努力に思いを馳せるとき、なんと自分は恵まれてきたのだろうと感慨深いのである。

 ルソーは『人間不平等起源論』のなかで言っている。あれは松、あれは杉、あれは檜というふうに、それぞれに固有名詞をつけるのだって、相当に大変だが、それらに共通性を見出して、「類」としてまとめて、あれらは「木」と呼ぼうと考えついた人は天才である、と。まあそうだよねー。

 古代は時計もなければカレンダーもない。
 なんだか、火の玉が昇って降りてしてるね。原始人はそんななかで、空腹を満たすことくらいしか考えなかったのだろう。
 しかしある時、好奇心の強い人が、
「あれはなんで昇って降りるんだ? 規則性あるよね? でも、ちょっとずつズレていってない?」
 と疑問を抱き、狩りにいくのも止めて太陽を観察しようとしたのだろう。ところがどっこい太陽なんて観察できるわけがない。ずっと見てられないのだがら。なので仕方なく夜起きていて、月を観察したのだろう。
 狩りに行ってさらに夜起きて月や星を観察するなんて、結構な重労働だったろうから、観察する人はみんなに
「あいつ、狩りにいかない働かねーど阿呆野郎だ!」と蔑まれながらも、毎夜観察に励んだのだろう。
 そうしてできたのが太陰暦。暦である。ど阿呆が社会に貢献したのである。しかし社会はいつもそういう人をど阿呆呼ばわりする。だが、ど阿呆のなかにはめげない人がいて、そうして文明は進歩したのだろう。

 だけれども、太陰暦はどうも正確ではないと気づいた頭のいい人がいて、なんとか太陽を観察できないかな? と考えた。
 そうして作られたのが日時計であろうし、大きな建物、ピラミッドだとかストーンヘンジだとかを作って、それで太陽暦を完成させたのだろう。小さな棒を立てて動いてゆく影を観察するより、大きなものをたてて動いてゆく影を観察するほうが、抜群に正確に観測できると考えたのだろう。古代の建築物が子午線にそって建てられているとかあるようだが、んまあ現代人とは比べ物にならないくらい優れた観察力をもっていたのだろう。

 無論、現代のわれわれだって鍛えれば、鋭利な観察力を取りもどせるだろうが、便利に慣れてしまうと、誰もそんなことはしないのであろう。わたしもまあしない。やってみたい気はするけれど。
 夜空に星が沢山見えるなら、毎晩だって空を見上げるが、もはや東京の空にはそれすら望めないのだから……。


 ともあれ、あらゆる宗教の根底には「永遠の生命を信じる」という要素があるのだろう。
 南無阿弥陀仏というのは、無量の寿命に帰依しますと言う意味だ。
 南無妙法蓮華経、つまり法華経に帰依するというのは、何ものにも壊されず汚されない白蓮華の花、つまり永遠の生命を信じるという意味だ。だから法華経の肝心は寿量品だと言われている。
 アバラハムを祖とする三つの宗教だって同じだ。キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、終局的には永遠の生命を信じるということであろう。
 それを知らずに、教義の枝葉末節で喧々諤々して爭いあい、非難しあい殺しあってきたのが人類の歴史だろう。
 永遠の生命=神にそれぞれの民族がつけた名前が違うだけなのに、それに気づかす、俺たちの神が一番! お前らの神を信仰した奴は地獄に行くと、馬鹿なことを言ってきただけだ。
 エホバであろうと、アッラーであろうと、イエスであろうと、いいじゃねーか。その名前が指している意味は同じなんだから。阿弥陀の名を唱えようと、法華経の題号を唱えようと、大日如来を讃嘆しようと、ブラフマンを讃嘆しようと、名前に拘らず坐禅して永遠の生命を感得しようと、そこに永遠の生命という意味を見ていれば、何の問題もないと思うのだが、名前が違うことで争う意味などないだろうに。

 見る、see、seher(独)、voir(仏)、vedere(伊)、ver(西)、videre(ラテン語)、ホラーン(ギリシャ語)、ヴィーディチ(ロシア語)。
 どれも同じ意味なんだから、音や綴りの違いで喧嘩するとか、馬鹿なことは止めるべきじゃあないだろうか。


 蛇足だが、原始仏教に関していうならば、仏陀は理性で理解できる範囲だけを語るようにしていたということであろう。なぜかなら、永遠の生命があるとかないとか言い出すと、必ず論争に到ることを知りぬいていたからだろう。したがって、釈迦は「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」しか説かなかったのだろう。
 その「涅槃寂静」も現世における涅槃であり、苦悩の原因を知って、それに対処すれば苦悩は存在しないのと同じという範疇にとどめたということになろう。
 この「諸法無我」というのも、困りものなのだが。「無」と表記されるようになったのは、時代が進んでからであり、原始仏教の解釈だと「非(あらず)」に近いと考えられるからだ。我が無いのではなく、固定した我には非ずであったのが、我は無いに変えられてきたということだ。

 サンスクリットだと、an-attā 、が非我であり、an が無とか非と訳され、attā が我という意味になるのだが、ウパニシャッドでは、真我は、an-ātman または nair-ātmya になり、「an」というほうの語句で考えるなら、真我=非我になるのだが、もうひとつの nair-ātmya だと、仏教の無我とウパニシャッドの真我は別の意味と解さざるを得ないのだ。まあ、こういうのは文献学的にすぎるので、自分の頭で考えて選びとればいいだけなのだが。
 古代のインド人は頭が良くて、すべて「非ず」で表せると考えていたらしい。
 無とは無いということではなく、有るに非ず、と。そのように思考していたので、非と無は相当に違う意味になるのだが、まあややこしい。

 したがって、初期仏教は死後の世界とか永遠の生命があるとかないとかは、個々人の信じる信じないに任せたということなのであろう。
 だが、人間は釈迦の説いたような理性の範疇だけで気がすむような存在ではないのだろう。
 だから大乗仏教が起こり、それらはやがて永遠の生命はあるのかないのかを論議し、あると信じようという方向に進んでいったのだろう。

 なぜ原始仏教が未だに拡大しないのかと言うならば、そのような人間の根底にある部分――永遠の生命の有無――をあえて明示しなかったからなのだろう。しかし、それはある意味では非常に賢明な判断でもあったのだろう。
 そこを言いはじめると、必ず議論になり、爭いが起こるのが自明の理だからだ。


 ちなみに、わたしの読んでいる聖書はいわゆる「新共同訳」というやつだ。
 カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、いかなる派であろうと、キリスト教徒であるなら、みんなで同じ聖書を読もうよという運動が起こって、1978年に共同訳が試みられ、まだまだ不満が残るということで、再度1987年に翻訳されたのが「新共同訳」というわけだ。

 グローバリゼーションという潮流に先駆けて超派的に同じキリスト教徒としての矜恃を持とうという流れは素晴らしいと思う。
 そう考えると、未だにそういった次元まで到達できず、学者個人の努力に頼る仏教界の見識の低さは覆うべくもないと思うのだ。まあ、仏教は世界規模でいうならば、キリスト教の勢力に及びもしないのだから、まだまだそのような流れが生まれるまでには時間がかかるのだろう。
 といっても、すべての思想が一本化されることをわたしは望んでいるわけでもない。
 そんなユートピアになったなら、人類は思考停止してすぐに滅びるに決まっているのだから。違いがあるから良い部分があるわけだ。
 殺しあいしない程度に反撥や批判があって、それだからこそ進歩も生まれる。人類とはそのような弁証法的に進歩してゆく宿業を背負っていると思うからだ。

ipsilon at 16:16コメント(0)知への愛「思索・備忘録・箴言」  

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