2021年02月05日
The Alan Parsons Project /La Sagrada Familia
(語り)
それは、近世になってアントニオ・ガウディが現れるまで、
誰人によっても着手されることはなかった。
彼によっバルセロナの地で起されたのは、
新たなるカテドラルの建築だった。
その聖堂の名は聖家族教会、またの名は聖家族のための……。
だけれども、わたしはその完成を訝しむ。
悲しいことに、幾多の労苦は暗雲に包まれているように思える……。
主がわれわれをどこに導くか、愚か者だけが答えられる。
その道でなにに出会うか、誰が知りえよう。
久遠を照らす星があっても、大胆になれる勇者はいないだろう。
辿りつけたなら、われわれはいったいなにを見いだすのか。
ラ・サグラダ・ファミリア――われらは祈り、嵐はやがて去るだろう。
聖家族たちのカテドラル――獅子と子羊のための……
風がどこから吹くのか、愚か者だけが答えられる。
いつ岸に辿りつけると、誰が知りえよう。
太陽に照らされるものを、双眼を見開いて凝視できたとして、
そこで燃えている炎がなんだというんだ? その炎は何なのだ?
きっと、愚か者はこう言うのだろう。
ラ・サグラダ・ファミリア――風は変わり、嵐は去る。
聖家族たちのカテドラル――獅子と子羊のための……
ラ・サグラダ・ファミリア――われら主に感謝す、脅威は去ったのだ。
聖家族たちのカテドラル――この地上は平和に覆いつくされたのだ。
澄んだ青空のしたで、われらの声は輝やきの歌を昇ずるのだ。
それまでの長年月を思い、われらの目と耳は涙で満たされるのだ。
それが
世界の変え方はこれだなど、愚か者だけが答えられる。
運命というものは、店の棚にあるようなものではない。
真実の光が導き、双眼が果てなき遠くを見通せたなら、
われらは運命をどのようにして知るのだろうか?
(どんなふうになれたなら)
知れるのというのか?(知れるのか?)
そのとき、空は怒り、戦い泣き、音は輝き、
それまでの長年月を思い、われらの目と耳は涙で満たされるのだ。
それが
主がわれわれをどこに導くか、愚か者だけが答えられる。
その道を外れずにいられると、誰が知りえよう。
約束の地を見出せたなら、われらのあらゆる夢は一つになる。
(だけど)辿りつけたことを、われらはどうやって知るのだろう?
(辿りつけたとして)
どうやって知るのか?(どうやってだ?)
きっと、心貧しき者はこう言うのだろう。
ラ・サグラダ・ファミリア――われらは勝った、戦いは終わったのだ。
聖家族たちのカテドラル――獅子と子羊のための……
ラ・サグラダ・ファミリア――われら主に感謝す、脅威は去ったのだ。
聖家族たちのカテドラル――力強き手を見よ!
ラ・サグラダ・ファミリア――夜は明けた、もう待たなくていいのだ。
聖家族たちのカテドラル――この地上は平和に覆いつくされたのだ。
つぎにこの時が来るまで……
つぎにこの時が来るまで……
La Sagrada Familia!
随分と意訳した。
詩は感情を伝えるツールだからしかたない。読みとった感情を、なるだけ変えないように配慮しながら、語句を慎重に選んで、なるだけ少ない語句で語る。ヴェルレーヌの忠告は正しいのだ。真実を語るならなるべく少なく語れというブッダの言も正しいのだ。なので詩に惹かれるのだ。
でもって、イエスの思想は、この世界のほかに天国があるということを教えようとしたのではないと、わたしは信じる。
だから、約束の地というのは、この世界のことであると信じる。
プラトンが『国家』のなかで語っているように、この世界を認識する仕組みは、太陽の放つ光線、そしてその光線を受ける目の網膜と、その光線と網膜によってつくられる印象であるということは、キリスト教にある三位一体(父と子と精霊)と同義だと信じるからだ。
「太陽に照らされるものを、双眼を見開いて凝視できたとして、
そこで燃えている炎がなんだというんだ?」
という、曲の歌詞にもあるとうりだ。
太陽(光)=父、網膜(私)=子、聖霊(他者や環境)=網膜に映る印象、つまり世界。
したがって、心貧しき者というのは霊的に貧しい者のことをさす。
つまり、他者や世界に対して、あーでもないこうーでもない、ああなればいいとか、こうなればいいとかいう思い、欲望の少ない者であり、自分の手の届く範囲で、自分の思うがままに出来る範囲を知る者のことを指すのである。
太陽光と網膜に、ある意味勝手に映り込んでくる印象をわれわれが好き勝手にどうとか出来るはずがない。なんとかしたいなら、目をつぶるか、何も見ないようにするしかないのだから。
あるいはまた、手の届く範囲で出来るだけの努力をするしかない。
哲学的に言うなら、この霊的なものをカントは「物自体は知れない」と言ったのである。プラトンの場合、イデアが何であるのかは「神のみぞ知る」と言ったのであるが、残念ながらこれはいまだに正しく理解されていない場合が多い。
しかし、それが悪いことともいえない。知らない人や正しく理解していない人たちがいるからこそ、正しく知ったことに価値があるからだ。
で、三位一体、それを認識できなくなるのが、われわれにとっての死である。
死んだあとに世界のことを知る者は、いまだかつていない。
だとしたら、この三位一体によって認識されているこの世界こそ、約束の地であり天国であり、燃える炎は、今ここに生きてあるという「実感」であるということだと信じる。
死んだあとに天国にいったことを一体誰がどうやって知るというのか? また知れると言いきれるのか? 無理だ無理だ、ムリムリだ。どこまでも不可能である。
だからといって、そういうことを信じる人がいることを否定するものではない。
ともあれ、命とは燃える炎だ。炎はたえず動き熱を発する。
でも、水を掛けられたり息を掛けられると、消えてしまう。
弱く儚きわれらが生命もそのようなものである。
炎はあらゆるものを焼き清める。
ものの見方しだいで人はあらゆるものを受け入れる覚悟ができるという寓意をそこに見る。
自分の思い通りになる範囲とならない範囲を見極められるのが賢者である。
古代人はそういうことを確信するために生贄を捧げるのに炎を焚いた。
また炎から立ち昇る煙は、この世界とわれわれが決して知ることが出来ない天をつなぐものと見られていた。
難しい概念を哲学的に語る益もあるが、寓意性のある神話的比喩もまた真理を語っているのだと、わたしは信じるのだ。
見えざる神の右手とは、ある意味では、この現実に見えて感じられるわが右手のことである。
何も考えなければ何とも思わないであろうが、右手が見え、右手の感覚があり、右手を自由自在に操れるということの脅威、その奇跡とでも言えるような素晴らしさに気づいたなら、マイティ・ハンドって言いたくなる気持ちはわかる。左手がマイティ・ハンドの人もいるけれど。
かつて子どもだった全ての人は、服のボタンをかけるのに小一時間ぐらい手間がかかったはずだ。
しかし、これはこうやって思って、こうやって頑張ると、どうやら思い通りに手が動くらしいということを信じて訓練してきた成果だ。
出来るようになってしまうと、そこに一点の不思議も感じなくなるものだが、われわれが普通に暮らしていけるようになる根底には、こうやってこうすればこうなるという「信じる」行為が根底にあるのだ。歩けるようになるための根底にも「信じる」ということがあるのだ。
そして、そのことを忘れた人間は傲慢になるのである。
何かを信じることを馬鹿にするようになるのである。
すべては理性や思考で何とかなると思い込むのである。
ていうか、なんでこの曲を訳す人っていないのだろうか?
やっぱ宗教的なものって苦手なのかなぁと思ってみたり、みなかったり。
すごくいい曲だと思うんだけどなぁ。
硬い話はここまで。
インストの曲で散歩するのもまた人生なのだから。
――Paseo de Gracia(「恵楽の散歩道」とでも訳せばいいかな)