私小説『真紅の恋』

2010年05月03日

 シンジがバイトを止めて、3週間が過ぎた頃、ようやくマドンナの絵が完成した。彩色は色鉛筆で赤をベースにしたものだった。カンバスには、真っ赤に燃えるマドンナが祈っている姿が見事に焼き付けられていた。

 その夜、シンジは筒ケースに、“ランコ今までありがとう”という気持ちと、描いた絵を一緒入れ、円形脱毛と表情を隠せるようにと、キャップを目深に被って『りふれいん』に出かけた。

 店は、相変わらず明るい照明でシンジを迎えた。
「お、いらっしゃーい」いつもの笑顔でマスターが言った。
「ちーっす」シンジも、いつもと変わらぬそぶりで返したが、心は深く沈鬱な暗闇に沈んでいた。
「おー、シンジ、いらっしゃーい」チーママも変わらぬ声で迎えてくれた。そしてもちろんランコもそうだった。
「おー、シンジ久し振りじゃないかー! なんだよー帽子なんて被って〜、珍しいなー」
「おー、随分ご無沙汰しちゃったよー」
「いつものでいいの?」
「うん」
その日のランコはパッと見は黒に見える、濃いブルーのスーツを着ていた。それは、光の当たり具合でウルトラマリンのような青が時々見える、少し変わった生地だった。
(まるで、フェルメールブルーだな)
シンジは『真珠の耳飾りの少女』を思い浮かべて、ランコのスーツが放つ深く濃い青い色を見つめた。だがそれは、シンジにとっては、ランコとの最後の時間だという思いが見せた、深く悲しい青い色だったのかもしれない。

 カラカランとグラスをステアする音のあと、シンジの前にブランデーの水割りが置かれた。
無表情に一口すすると、胃に焼けるような痛みがやってきた。
「くー! 酒久し振りだから、効くなー、ていうかランコ、これ濃いってば」
「おーごめんごめーん。じゃー水入れるぞー」
「おー頼んだ〜」
ランコは出会った頃と何も変わらない笑顔を振りまき、シンジに接してくる。
「あ、そうだランコ」
「ん?」
「あ、なんか飲むか?」
「おー、ったりめーだー! コロナもらうねー」
「はいよ」
シンジは絵を渡すまで、ランコがテーブル席にいかないようにと、とりあえずドリンクを勧めたのだ。
「んじゃ、いただきまーす!」カチーン。乾杯の音。
(プロージット!)
シンジは心の中で最後の乾杯を、ひとりドイツ語で洒落こんでみたが、心には虚しさしか込み上げてこなかった。

「んー、今日もビールが美味いぞー!」そういいながら、ランコは両手を腰に当てた。
「あははは、どうせ毎日飲んでるんだろ」
「うっさいわ。ほっとけー!」
「たまには休肝日を作りなさい、休肝日を。かはは」
「やーだよ。かはは。ビールだから平気さー」
 だがシンジの心は、放っている声や笑顔とは対象的に、果てしない沈鬱の沼に沈んでゆく。
(長居は出来ないな。苦痛に耐えられない・・・)
そう思ったシンジは、膝に置いていたケースを軽く指先で撫でてから、言った。
「あ、ランコ。約束した絵、持って来たよ」
「うそー! まじまじ、まじでー、ちょー嬉しい。見して見してー!!」そういうとランコはカウンターから走り出てシンジの横にやってきた。
「はいこれ」そう言ってシンジはケースをランコに手渡した。
「あ、そうだ、これも返しとくね」と、シンジは絵の元になった写真をカバンから取り出す。

「おー! すごーい!」
「なになに?」
興味をもった客や従業員らが、シンジとランコの周りに集り、小さな人だかりができた。
「おー!!」
誰が発するのかわからない驚きの声が、あちこちからシンジの耳に届いた。
「これどんくらいかかったのー?」ランコが眼を輝かして聞いてきた。
「んー1ヶ月くらいかな」
「うそー、すっげー! まじすげー!! シンジありがとう! あたしこれ、額に入れて家宝として一生大事にするよ!!」
「なんだよ家宝って。まあ煮るなり焼くなり、好きにしてください」
ランコが心の底から喜んでいるのは、シンジにも分かった。だが、それがなおさらシンジの胸を痛めつけた。それはまるで、鋭利な氷のナイフで心臓をえぐられているかのような激痛だった。

 しばらくすると、店内はしだいに混み始め、ランコは忙しく店内を駆け回りはじめた。
(さて、どうするかな? もう飲む気もしなければ、歌う気にもなれない)
ランコは走りまわりながらも、シンジに視線を投げかけ、シンジのことを気にかけている様子を見せた。なぜなら、他の誰かが見たなら、その夜のシンジは落ち着いてグラスを傾けているように見えただろうが、ランコが見れば、激しい沈鬱に耐えていることを容易に読み取れたのだから。

 シンジは時々出会う、ランコが彼を心配する強い眼差しに耐え切れなくなって、マスターに声をかけた。
「マスター、チェックしてー」
「なんだよ。まだはえーよ」
「ごめん。ちっと明日用事あってさ」
もちろんシンジに用事なんてなかった。
「んー。お客さん困るなー。はやいってばー」
「いやまじで閉めて」
「しょうがないなー」

 2人のやり取りを聞いていた、ランコの視線を背中に感じたシンジは、全身が業火に焼かれているようなに熱くなり、心が粉々砕け散りそうになった。
(ランコ、いままでありがとう、愛してるよ。さようなら)
シンジはそう心の中で呟くと席を立って振り向かずに、ドアを開けて階段を駆け上がり、通いなれた道を反対方向に歩き始めた。

 その時、後ろから階段を誰かが駆け上がってくる音が聞こえた。
「シンジー!!」
シンジはもう自分の心に逆らうことができなくなって、振り向くとランコが目の前にいた。
そして抱きついて、キスをせがんだ。
「駄目だ!! もう決めたんだ! もう戻らないって決めたんだ・・・」
シンジは最後に残った気力を振り絞ってそう言った。
「なんだよー! チュ〜ぐらいしてくれたっていいじゃないかー!」
「ごめん。できない」
シンジはそういってランコの腕を振り解いてランコに背中を向けて歩きだした。
「シンジのバカー!!! なんだよー なんだよー なんだよー!!」
シンジにはランコが泣きながらそう叫んでいるのかさえ、もうわからなかった。シンジの眼は涙で溢れ前すら見えなかったのだから。

 ランコは、あの夜シンジが作った罪をもう許してくれている。このとき、シンジはそう確信した。だがシンジは、自らの決めた道を進むことを覆さなかった。

 結局、ふたりが抱いた怒りを昇華できずに、ランコのことを許せなかったのは、シンジの方だったのかもしれない・・・。


           Sign / 鬼束ちひろ


              〜完〜

ipsilon at 06:30コメント(2)トラックバック(0) 
 シンジが『マドンナ』の下描きを終えて、一息入れていた時、電話が鳴った。

 「お、お袋かな? でもこの時間にってことは、親父に何かあったのかな?」
ゆっくりと立って、シンジは落ち着いて電話に出た。

「いよー、久し振りー」
あろうことか、受話器からランコの声が溢れてきた。一瞬、シンジは耳を疑った。だが、それは間違いなくランコの声だった。
「あー、うん」
「こないだ、ごめんねー。ちょっと言い過ぎた」
「いや、いいよ。俺が悪いんだし」
「でさ、今店終わったんだけどさ、今からそっちいってもいい?」
「え?」
シンジは激しく動揺した。もうランコと一緒に歩くことはできない。そう結論を出していただけに、ふたりだけで会うことなど、ありえないと決め付けていたのだ。
「あ、別に構わないけど」
「なんか元気ないね? 話し方いつもと違うよ」シンジの微妙な変化を敏感に感じとったランコは、声のトーンを下げてそう言った。
「うーん、ちょっと色々あってね」
「あたしのこと?」
「いや、違うよ」と、シンジは強く否定した。
「そかー、ならよかった」ランコの声がいつもの声に戻った。
「じゃさー、いいもん持ってってやるよー。楽しみにして待ってろー。かはは」
そこには、これまでと何もかわらないランコがいた。
「うん」
「なんだよー、やっぱ元気ないなー。ま、いいや。あたしがちと元気つけにいってやるよ」
「あはは、ありがと」さすがにシンジは笑いだしてしまった。
(俺はどんなに憎もうとしても、決してこの先、ランコのことを憎めないだろうな)
シンジの中に自然にそんな気持ちが起こった。
「じゃー駅んとこまで迎えにいくな」と、声だけはいつものシンジに戻る。
「あ、だいじょぶだよ、家の近くまでタクシーでいくからさ、あすこの曲がり角んとこで待っててよ」
「あいよ。気をつけてこいよ」
「がってんだー。じゃああとでな」
「おう!」

 シンジは電話を切ったあと、逢っていなかった間に2人が歩んだ道の違いに思いを馳せた。
(ランコは平穏な毎日だったみたいだな。俺は、ズタボロになっちまったけどな)

 「あ、そうだ。絵見つからないようにしないとな」そういってシンジはスケッチブックを押入れに隠した。そして、円形脱毛がバレはしないかと気になり、台所にいって部位を確かめた。
「だいぶ酷くなってるな。電気点いてたらバレそうだな。ま、ムード作りたいとかなんとか適当なこといって電気消すか。かはは」
 その考えは、ランコに心配をかけたくなくてのことだったが、プランの陳腐さに我ながら失笑を禁じえなかった。

 「あ、そうだ、ランコにあれあげるかな」
そう言うとシンジは、専門学校時代に書いた小説を押入れの中から探し始めた。その小説のテーマは、夢を築く場所がなかったとしても、新天地を求めてでも夢を追い求めよう、というものだった。
 かつて、シンジは言葉でそれを言ってランコを傷つけたことがあったから、違う方法で励ましてあげられたら、そう思ったのだ。

 「あ、ランコ先に迎えにいかないとか。こっちは後だ」
シンジは押入れを開けたまま、Gジャンを引っつかんで、玄関へと急いだ。

 シンジが待ち合わせ場所につくと、ランコが乗っているらしいタクシーがやってきた。
バタンとクルマのドアが閉まり、走り去ると、その向こうにランコの姿が見えた。
「おーっす」
「おー、元気そうだね」
「ったりめーよー!」
「なら良かったよ。じゃ行こうか」

 シンジの部屋についたランコは、これまでより距離を取った場所に座った。
「なんだよ、そんな端っこに座んないで、もちっとテーブルんとこ座ればいいじゃん」
「うん。あれ? シンジ引越しでもするの?」
「あーこれかー、ちょっと探し物してただけだよ、まだ途中だけどね」
「ふーん、そかー」
(さすがにそんな簡単に距離が縮まるもんじゃないな)
「ちと、探し物つづけるね」
「えー、せっかくビール買ってきてやったのにぃー」
「これ終わったら頂くよ」そういって振り向かずにシンジは返事をして、押入れの中でゴソゴソと動いていた。
「ギターいっぱいあるねー」
「あーいま出してるのは2本だから、そうでもないだろ。ほかにもあるけど、しまってあるよ。そんな一変に弾けないからな」
「まーそだよね」ランコがビールの缶を開ける音が聞こえた。
「そこに貼ってあるポスターの人誰?」相変わらず押入れに頭を突っ込んでいたが、シンジの瞼にはランコがおもいっきり腕を伸ばしてポスターを指差している姿が浮かんだ。
「あーそれはね、スティーヴィーレイヴォーンとジミ・ヘンドリクスね」
「ふーん、全然わかんね」
「あははは。男臭いミュージシャンだからな」
「これがアンプか? でかい音でるんだろ?」
「まぁーね。この部屋じゃフルボリュームとかは無理だね。一回やってみたいんだけどね」
ランコは目に付くものひとつひとつを題材に、子供のように質問を投げかけてくる。
「ねね、ちょっと空気入れ替えてもいい?」
「あ、いいよ」
「おー、星が綺麗だねー」
少しだけ冷たい風が吹き込み、ランコの声が聞こえてくる場所がかわったのをシンジは背中で感じた。
「今日は晴れだったもんな」
「うん。久し振りに星見たなー」
「なんだよ、夜行性のくせに。毎日空見上げろよ」
「うっさいよ、ばーか」
なんでこういう普通の会話が、それまで出来なかったのか。先を急ぎすぎた自分を見つけて、シンジの心に悲しみが込み上げてきた。

「あったー。やっとみっけた」
「あったかい。よかったねー」
シンジが押入れから這い出すと、缶ビールを片手に窓辺に立つ、後ろ姿のランコが見えた。それは、いつか『リフレイン』で見た、後ろ姿と比しても比べものにならない美しさだった。
群青の星空をバックに真紅のスーツを来たランコがそこにはいたのだ。愛しさで胸が締め付けられる思いに駆られながら、シンジは押入れから探し出した、A4サイズの紙の束をテーブルに置いた。

 「そうだランコ、今日は星空だしさ、ちと電気でも消して、音楽かけてさ、んでビール飲もうぜ」
「なんだよ、急にロマンチックなこというなー」
「たまにはそういう気分にもなるのさ。かはは」照れ笑いで、用意していたプランだということを押し隠すシンジ。
「んまー、いいよ」
シンジは電気を消して、ベッドサイドに置いている、2つのナイトランプを点けた。
「そんなの部屋おいてるやつ初めて見たよ」
「うっさいわ。これさ、俺が水商売してたときにお客さんとかにもらったやつなの。だから大事にしてんだよ」
「ふーん、そなんだー」

 ようやく2人は向かい合って座った。
「はいよ、お土産」そういってランコはビールを差し出した。
「サンキュ。って乾杯しなかったな」
「いいよ、そんなの」
「あ、そうだ、BGMはマドンナだな」そういってシンジはマドンナの“Like a virgin”をかけた。

「あ、それとね、これさ、ランコにあげる」そういってシンジは、押入れから探し出した紙束を差し出した。
「なに? これ?」
「それ俺が専門学校いってた頃に書いた小説。まー処女作だな。いちおう完結してるし、結末には伝えたかったテーマの結論もちゃんと書いてあるからさ、ま、気が向いたら読んでみて」
「うん、じゃー預かっとくね」
「いや、あげるからさ」
「だって大事な思い出の小説じゃないの? 読んだら返すよ」
「いや、いいよ。どうせ下手クソな文章だしね」
「うん、でもちゃんと返すよ」
「強情なやつだなー」
「まあなー」
シンジとランコは、久し振りに素直に笑いあった。

 依然、2人の間には微妙な距離があったが、“触れ合いたい”と、どこからともなく湧き上がる激情があることは間違いなかった。シンジはシンジでそわそわし、ランコはランコでよそよそしく振舞い、それは2人の間に、えもいわれぬ距離を作らせたのだ。
 それは、一歩踏み出してしまったら、もう戻れないという恐れだったのかもしれない。

 だが、シンジは自分の決めた結論に導くために、もう何もかも振り払ってしまおう。そう思って一歩を踏み出した。
「俺さ、、、、、」
「ん?」
「その服着てるランコが一番好きなんだ」
「あたしもね、これ凄い気に入ってるんだ。随分着てるから痛んできてるけどね」
(ちくしょー、何やってんだ俺。言いたいこと言えない・・・)
「俺さ、、、、、」
「ん?」
「もう終わりにしようと思ってる」
「え?」ランコの表情が曇った。
「もう俺たち、終わりにした方がいいと思ってさ」
「・・・・・・」ランコが手にした缶を、ゆっくり床に下ろしたのが見えた。
「俺やっぱさ、龍さんのこと裏切れないし。それにランコに酷いことしたからね」
「・・・・・・」ランコは黙ったまま聞いている。
「ランコのことは好きだけど、気持ちにけりつけるよ」
「・・・・・・」
「でもさ、、、、、」
「でも?」
「うん」
「なんだよ? 言ってごらんよ」
シンジはランコを見つめて言った。
「このままじゃ、気持ちにけりつけらんない。今だってすぐにでも抱きしめたいしね」
「うん」
ランコがジリジリとシンジの方に体をずらした。
「だから、、、、最後にもう一度だけ、愛しあいたい」
「・・・・・・いいよ・・・ばかだなー、男って。さ、おいで」
そういうとランコは両腕を広げながら、近づいてシンジを胸に抱きとめた。

 シンジはこれで何もかもにケリをつける、という強い決意が揺るがないようにと、心の中心に鍵をかけ、零れそうになる涙を堪えながら、ランコを抱いた。

 星降る夜、床に落ちた赤いスーツとデニムは、もの悲しい形を描いているように見えた。

     Shoo-Bee-Doo / Madonna

ipsilon at 03:55コメント(0)トラックバック(0) 

2010年05月02日

 再生したシンジは、日々のエクササイズに取り組み、父親の入院先を訪れ、母を励まし、自分のすべきことを淡々とこなしていた。
 そして、ランコと約束した『マドンナ』の絵を描くことにも取り組み始めた。バイトを止めてしまったシンジには、夜、時間があったので、絵を描く時間はたんまりあった。しかし、F5サイズ(352mm×275mm)という、わりかし大きいサイズのカンバスに、久し振りに全精力を傾けて鉛筆を動かすことは、彼の欝を悪化させる危険を孕んでもいた。カンバスに向かえば、どうしても、ランコとの楽しい日々を思い出してしまうのだから。無理もない話なのだった。

「くそー! ここいまいちだなー」
シンジは、半分ほど下描きが進んだスケッチブックを少し手元から離して独りごちた。
「納得するまで直すぞ。あ、CD終わってんじゃん」そういいながら、ラジカセの元に走る。
「たまにはクラシックでも聴くかな。CDとっかえるの面倒くさいしなー」
そういってシンジは、ベートーヴェンの『第九』を取り出した。
「ふーん。カラヤンとー、フルトヴェングラーとー、トスカニーニかー。俺的には、フルトヴェングラーだけどー、まぁBGMだから無難なカラヤンにすっかー」
そういってCDをセットして、またデッサンに戻る。

 シンジがカリカリと鉛筆を走らせる音がしばらく続いたあと、静かなオープニングで第一楽章が鳴り始めた。
「くあー! いいねー この荘厳な感じ。絵を描くならやっぱBGMはクラシックですよー! しかも『第九』とかヤバイね。美しすぎます先生!」 
ひとり馬鹿なことを口ずさみながらも、シンジは真剣に鉛筆を走らせ続ける。

 「第九は、やっぱ3楽章の後半からが最高なんだよな〜。1楽章から面々と培ってきた音楽に自分で酔ってさ〜、安穏を貪ろうとするベトベンに向けて、警告のトランペットが鳴る!」
 どうみてもロッカーな見た目のシンジだったが、中学時代にクラシック狂の友人がいたので、そこそこにクラシックの知識は持っていたのだ。

 「んで、第四楽章の冒頭で、“違ーう!、これはおいらの求めてる音楽じゃーなかとよー!!”ってベトベン叫ぶんだよねー。だから4楽章の最初の和音は、チョー強力な不協和音。聴いてる方はビビルんだけどね。でも、そこが堪んねーんだよなー。くははは」
誰に語りかけるでもなく独りごちている自分に、シンジは思わず自分自身を嘲笑する。
「そして、ベトベン君が書き足したシラーの詩の大合唱ですよー! きゃーたまらん!」
 ともすると自己満足に陥り、安穏の日々を送ろうとする自らを諌め、常に新しいモノを作ろうとする、ベートーヴェンの生き方や楽曲が、シンジは大好きだった。そしてそれが最後には世界愛に到達するという『第九』は、まさにベートーヴェンの真骨頂なのだと、シンジはそう捉えていた。

 ベートーヴェンの情熱の力を借りて、シンジは休むことなく鉛筆を走らせる。
「色は赤。絶対赤でいくぞー」
もう少しで下描きが終わる頃、シンジは力強い声でそう言い放った。
「俺にとってランコは真紅だもんな。それ以外の色なんて考えられっかよー!」

 幼少の頃から絵を描く魅力に取り付かれ、画家を志したかったシンジである。創作に打ち込むその喜びは、恐らく誰人にも侵されることのないものだったのだろう。シンジはただ黙々と全神経を集中していく。

 しかし、それは過酷な作業でもあった。人の持つ狂気とか歓喜のエネルギーは莫大な集中力を生み、そのあと巨大な疲労を残すからだ。だから、『第九』が3楽章まで進んだころには、シンジは極限状態にいた。
 音楽は聞こえていても、何も聞いていない、ただ振動を心で受け止め、自分の周りにあるものは視野から消失して、見えているものはカンバスとモチーフにしている、ランコから預かったパスカードサイズの写真だけになっていたのだ。
シンジはランコを激怒させた、あの夜見た夢のような、純白の世界にいたのだ。

 (俺の指標はなんだ!? そうさ、今はこの絵を精魂込めて描くことさ! 誰もいないこの世界だろうと、もう恐れなどない! 俺の抱いた愛は嘘じゃないって“信じて”、その愛を“与える”ためだけに、この絵に魂を込めるのさ。そうさ、この絵を描き上げれば、まだ見つけていない、最後の指標を見つけられるかもしれないじゃないか! なんとしてもやる! いまこの集中力をもってすれば、針の穴のような小さな文字だって読み取れるんだから!)

     『第九 第四楽章 その1』

 ヴェートーベンの『第九』が4楽章に突入したとき、シンジの集中力は頂点に達した。
 不況和音の後、重々しく第一主題が現れる。

 (よし、もう少しだ、今日中に下書きは終わらせるぞ!)
その日、何度目かもわからない、離して眺める作業をして、すぐさま顔のデッサンの修正にはいる。と同時に、
 『第九』は主旋律を奏ではじめる。

 (よし、いいぞー、でもここの手の流れが気に入らない。ここはもっと微妙なラインだ! そうじゃない! もっともっと繊細なラインだ、直線でもなく、カーブしているように見えても駄目だ! 違う、そうだ、この感じだ!!)
 その瞬間、フルオーケストラが主旋律を奏ではじめる。

 (よし、いいぞ、祈りのポーズしてるんだから、両手を合わせてる部分は大事なんだ! よし、つぎだ!)

  『第九は』不況和音を鳴り渡らせて、もうすぐ歌の部分に入ろうとしている。
(よし、あとは顔だな、ここはー、ここはー、どうすればいいんだ? くそー、集中だ! 集中するんだ! 自分が一番美しいと思えるラインを思い描くんだ! いや違う感じるんだ! どこからか湧いてくるはずだ、焦るなシンジ、焦るんじゃない! 心を落ち着かせてただ心の中心で感じるんだ! きた! 見えた! そうだその曲線だ、考えるな! 感じるんだ!)

  『第九』は、柔らかく主旋律を奏でている。
「ふぅーっ」
感じることに集中しすぎたシンジは、それまで呼吸をしていなかった感覚がして、大きく深呼吸してから、カンバスに戻る。
(いいぞ、脳に酸素がいった。心で感じたことを、理性が“それは間違っていない”と告げている!)
その瞬間、シンジの耳に“おお 友よ!”という、バリトンの声が響きわたった。

     『第九 第四楽章 その2』

 もうそのあとは、シンジも『第九』も、時に行進曲に合わせ、はたまた合唱に合わせ、怒涛のごとき前進をするだけだった。その様は、絵画と音楽というふたつの巨大芸術の大競演の情景でもあった。
 そしてシンジは『第九』の最後の合唱部分の大爆発とともに下描きを終えた。

鉛筆を置いたシンジは、大きな声でこう叫んだ。
「ブラーヴォ!!」とただ一語。


「歓喜に寄せて」 シラー/ベートヴェン

おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか
(ベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上の楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(シラーの原詩:
時流の刀が切り離したものを
貧しき者らは王侯の兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての被造物は
創造主の乳房から歓喜を飲み、
すべての善人とすべての悪人は
創造主の薔薇の踏み跡をたどる。

口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を
創造主は我々に与えた
快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ
智天使ケルビムは神の御前に立つ

神の計画により
太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように
兄弟たちよ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
父なる神が住んでおられるに違いない

諸人よ、ひざまついたか
世界よ、創造主を予感するか
星空の彼方に神を求めよ
星々の上に、神は必ず住みたもう


     『第九 第四楽章 その3』

ipsilon at 23:47コメント(2)トラックバック(0) 
 シンジの寝たきり生活は続いていた。だが、夢遊病者のような精神状態はさほど、長くは続かなかった。次第にランコへの怒りもおさまり、不思議なことに安らいだ気持ちさえ芽生え始めたからだ。
(なんで写真燃やしちゃったんだろ。綺麗な思い出にすることだって出来たのにな。俺ってホント馬鹿だよな。結果これでよかったんだろうし、あとはなにかやり残したことがあれば、それをすればいいだけかな?)

 即座に、バイトを止めたことは、ある意味では正解だった。しかし、それは時限爆弾でもあった。あと1ヶ月しか、シンジには生活費が残されていなかったのだから。
 誰よりもそれを自覚していたシンジは、ようやく自分を取り戻そうと決意した。

「よし、まずは掃除だ」そういって彼は部屋の掃除を始めた。抜けた毛玉を直視したときの心の痛みは、また夢の世界に戻りたいと、彼を誘惑して苦しめたが、シンジは必死に抵抗した。
「そうだ、なにかかけよう」シンジはそういって、何日かぶりにラジカセのスイッチを入れ、彼が敬愛するスティービーレイヴォーンのCDを、ターンテーブルにのせた。
最初のフレーズが流れはじめたとたん、シンジの心は躍った。
(あーなんて気持ちいいんだ! まだ俺には音楽があるじゃないか!!)
シンジは心底そう思った。あれほど、打ちひしがれていた自分が嘘のように感じられる。
(生きてるっていいな)
ふとそんな言葉がシンジの胸中に湧いてきた。
(死んじまったら、もうこういう美しいものも聞けないんだよな。そうだよ、レイヴォーンだってヤクと酒でジャンキーになってさ、固まったコカインが肺を突き破りそうになって、死ぬ寸前だったのに、再生したじゃん! 俺にだって出来るさ)
 シンジにはスティ−ヴィーの声が、「前に進め! 前に進め!」と言っているように聞こえた。

 掃除を終えたシンジはベッドに座り、彼の愛するコーヒーと煙草を友に、シンジが最も美しいと思ってやまない、スティーヴィーレイヴォーンの『Life without you』を流しはじめた。
 その曲はスティーヴィーが、彼のギターエンジニアだった亡き親友に送った曲だった。

君は今どうしてるんだい?
君がいなくなってみんな寂しがっているよ

そして今日も魂はゆれ続け
僕たちの人生は続いている
そしは時は流れている 

君のいない人生
君が運んでくれた愛が、僕の道を通り過ぎるあいだ
長い時間待ってくれていた天使たちが
君をつれて居るべき場所に戻っていくよ

Good bye! Good bye!


 歌詞をかみ締めていたシンジの頬を熱い熱い、涙がつたい落ちた。
(俺は俺のやるべきことをしなきゃいけなんだな。ようやくわかったよ)
「よし、ギター弾くか」そういってシンジはベッドから立ち上がった。

     life without you / SRV

ipsilon at 21:46コメント(0)トラックバック(0) 
 翌日目覚めたシンジは放心状態だった。虚無感に襲われ、ただ呆然と部屋の天井を眺めていた。眺めているといっても、どこを見ているわけでもなく、ただ眼を開いているだけといったほうが、シンジの様子を正確に表現していただろう。
 時々、半ば無意識に動く腕が、テーブルに置かれた箱から、煙草をとり出しては、部屋を煙で満たす。その挙動は人間というよりはロボットじみていた。

 (何もする気になれない・・・昨日まで俺なりにかもしれないけど、音楽だってバイトだって、恋愛だって、親の事だって必死にやってきた・・・なのに、今は全てがどうでもいい。こんな状態でバイトいけるのかな?・・・多分無理だな・・・)
 シンジの部屋は、静寂に包まれていた。どんなことがあっても音楽が流れていた部屋が、静まりかえっていることが、何よりもシンジの自失の激しさを、表していたのかもしれい。
 ただなんとなく、心に写るモノクロの無機質な映像を眺めては眠り、眼が覚めると、脈絡のない
映像の続きを眺め、また眠った。

 (あ、こんな時間か・・・バイトいかないとな)
気力を振り絞って、ベッドに起き上がろうとしたとき、シンジは激しい、ズキンという頭痛に襲われた。
「痛っ!」
(最近、偏頭痛起こしてなかったのに・・・。でも、なんかこの痛みはいつものと違うな・・・)
シンジは痛みのする場所を指で触ってみる。
「痛っ!」
皮膚に激しい痛みが差した。肩まで伸びた茶色い髪がハラハラと数本、抜け落ちた。
(ここ、ここだ。なんか皮膚がぷにぷに浮いてる感じするな・・・なんだろう?)
異様な手触りが気になったシンジはベッドを立って、台所に置いていた鏡と、寝室においている鏡を使って、頭皮が浮いた感触の部分を確かめた。すると、その部分の髪が完全に抜け落ちて、皮膚が露出しているのが見えた。10円玉くらいの大きさだった。
(円形脱毛か・・・)
それを見つけたシンジは、頭皮全体が鈍く痛むことに気づき、鏡を丁寧に使って頭全体を確かめた。1箇所、2箇所、3箇所・・・。さほど大きいものではなかったが、それは頭頂部全体に散見され、確認している間に、髪がはらはらと抜け落ち、シンジの心を、さらに暗くさせた。
(これじゃ、バイトは無理だな)
 シンジのバイト先は、ビアホールといっても、ビールと軽いおつまみを出すだけではなく、軽食などのメニューも豊富だったから、抜けた髪が料理に入ることを、彼は恐れたのだ。

 とりあえず、体の具合が悪いという理由で、シンジはバイト先に連絡を入れ、またベッドに横たわった。
(俺、ボロボロだな。バイト続けるのも無理だな。まぁいいか、どうせ何もする気にならなしな。もう何もかも捨てて、実家帰るか・・・。違う職種のバイト探すとか・・・もう無理だよ・・・この状態じゃ)

 シンジは夢遊病者のように、部屋でただ横たわる生活を続け、何日かたった頃、適当な理由をつけてバイトを止めた。
(あ、お袋の様子見に行かないとな。でも気力が湧かない・・・)
 灰皿には吸殻の山が築かれ、コンビニで買ってきた、弁当やらジュースのゴミが散らかり、シンジの抜けた頭髪でできた毛玉が、時々風に吹かれて転がっていく。
(あ、お金もあんまりないな・・・1ヶ月が限度かな・・・)

 そこには、悲痛に打ちひしがれ、鬱病が再発したシンジの姿があった。

     Nobody's fault but mine / Led zeppelin

ipsilon at 20:48コメント(0)トラックバック(0) 
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イプシロン(シンジ)

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