2018年09月14日

 昨夜、全61章あるうちの21章までを読み終えた。全体の1/3を読み終えたということになる。
 ようやく事件ともいえない出来事が起こり、面白くなってきたところだ。この事件とまではいえないが、誰の日常にでも起こるような出来事だけが描かれていくのがオースティン作品の特徴であり、良さなのだそうだ。確かにそういう手ごたえを感じた。その起こった出来事が社会生活、ひいては人間にとって普遍的な出来事だからであろうし、かつまた、その出来事の奥では普遍的な人間心理が働いていると読めれば、『自負と偏見』は非常に面白く、かつ深い哲学のある作品だと思えるからだ。

 その哲学の部分について語るなら、こうなるだろう。
 ヒロインのエリザベス(リジー)の家庭環境、生育環境によるものの見方(自負心)から起こった、ミスター・ダーシーに対する偏見がいかにして解消され、二人が結婚へと至るかという部分である。
 ほうそうかいと言ってしまえばそれまであろうが、わたしはこの哲学の部分に非常に大切なものがあると気づいた。簡単にいえば、人は誰しも自分の物差しでしか相手を測れないことから誤解や偏見を持つということ。そしてまた、そういった偏見を自ら乗り越えていける唯一の方法は、相手の立場にたって自らの偏見を打ち破ること――人も自分もともに「ありのまま」に見ること――であろう。
 これまでわたしが散々述べてきた言い方をするなら、他人は自分がつくった印象にすぎない、それこそが偏見である。したがって、相手が言ってきたこと、特にやってきたことを「ありのまま」に見つめなおすことによって、その偏見は打ち破れるということだ。またそうしたものの見方は、自分のものの見方をいつも「ありのまま」にしていく訓練でもあるということになる。

 ただ『自負と偏見』で語られているのは、それだけに留まっていないのが凄いのだ。
 つまりそうした偏見を生む自負心は、家庭環境や生育環境によって、自らが気づかないうちに作られてしまっているというところまで描いていることだ。
 もはやこうなると心理学の範疇であるし、いわゆるAC(アダルトチルドレン)や毒親について語っているのと同じである。
 しかし、そう気づいてみると、オースティンの人間観察――別の言い方をすると自己観察眼――の鋭敏さに驚愕せざるを得ないということだ。

 実際、物語のはじめに語られるのはヒロイン、エリザベスの両親・姉妹であり、また社会環境であり、家庭環境なのだ。
 母親は長女ジェーンを高くかっているがゆえに、二女エリザベスを見下して育てた。その影響(母親から安心感を与えられなかったこと)により、彼女は自己認証欲求が強いということを、オースティンは語らずながらに伝えているのだ。同様に父親に関しても語られている。彼は頭はいいしものごとを的確に見ているのだが、基本自分のことしか考えておらず、娘たちに対して無関心かつ無干渉なのだ。下手をすると妻と娘のことをバカにしているのだ。このことによって、エリザベスは自己認証欲求が強く、男性や知性に対して期待をもたない性格になっており、かつまたそうした両親によって醸成された彼女の性格――ものの見方、考え方――こそがまた彼女の「自負心」だということが、これも日常会話に隠されるようにして、言外に語られているというわけだ。
 こうしたことがはっきり読み取れるために、長女ジェーンを登場させたといっても過言はないだろう。ジェーンは母親に愛され認められて育ったゆえ、人を疑えずなおかつ、楽観的にしかものを見れない性格だと描写されているからだ。

 もともとやさしくて公平な彼女(ジェーン)は、いつも決まって相手の立場にもなってやり、なにか誤解が原因もとではないかと考えるのだったが、そのほかの連中にとっては、みんなもうダーシーは大悪人だということで、それこそさんざんの悪口だった。

 『100分de名著』では、この「誤解の原因」を「スキーマ」とか「認知の歪み(バイアス)」という次元で捉えて語られている。
 だからこそ、わたしなどは、初期仏教経典にある言葉は、認知の歪みを正していけると思ってきたし、仏教は哲学でありながら認識学であるといってきたわけだ。心理療法からいえば、こうした歪んだ認知を自覚する方法を「認知行動療法」と呼ぶわけで。行動の部分を経験と書きかえれば、ゴータマが到達したのは、体験則に基づいてあるがままの自己と世界を認知したうえでの実際主義というようになるわけだ。
 『自負と偏見』は、ただ読めばある種のコメディータッチの喜劇だが、深読みすれば、このような哲学性を見出せるだろう作品なわけだ。

 だから、いわゆる二男、二女がどうしても抱えてしまう、劣等感から生まれる自負心を上手く表現してもいるのだろう。
 わたしなど二男ゆえにか、エリザベスの気持ちがよくわかるのだ。
 母親への信頼感がなく、かつ父親や男というのは、無関心で無干渉なもの、自分の都合のいいときだけ何か言ってくる存在だと見えたなら、独立心旺盛な自負心が芽生えるは、ある種、当たりまえのことだろう。

 ともあれ、『自負と偏見』は、前述したことと併せて、18世紀当時の英国の階級制度や相続制度や社会通念(不労所得での暮らしへの憧れ)なども、エリザベスの自負心を形作る要因になってもいるわけだ。しかし、エリザベスは比較的そうした環境に左右されておらず、自分自身に生きる個人主義的(独立心旺盛)、な当時としては先進的な女性として描かれているのも面白い。
 けれども、もちろんのこと彼女は自分がそうした複雑に絡まった要因によって自負心が築かれたことを自覚していないのだ。だからこそ、自負心から偏見を起こし、てんやわんやが起こるという構成になったいる。またそうした無自覚な自負心がどういった誤解(偏見)を彼女に持たせてきたかに気づいていくのに重要な鍵を握っているのが、結末で結婚することになる、ミスター・ダーシーなわけだ。
 いやはや、構成も素晴らしいが、物語で語られている哲学性の部分は、どんな時代のどんな人間にも当てはまるというのが凄いのだ。しかもそういった哲学性が、この記事のように語られず、あくまで登場人物たちの会話と、軽妙かつ諷刺たっぷりな地の文で表現されているというのが凄い。

 そういう意味で、エリザベス(オースティン自身に最も近い登場人物という評もある)の立場にたって読むと、ほとんどの登場人物は諷刺の対象になっていて、実際、両親をはじめ彼女の周囲の人物を相当にこきおろしていたりするのも、また面白いのだ。特に前記事で少し触れた三女メアリーへのあてこすりは激しく、彼女が出てくると思わず吹き出してしまうレベルなのだ。
 中野の解説にあったのだが、18世紀は小説というものは低俗な娯楽(実際物語のなかでもそう表現されている)と見られており、オースティンの場合も、文字面だけ読めば確かに「面白い娯楽小説」なのだが、そこに普遍的な人間心理や哲学を潜ませて、19世紀に勃興する文学という次元まで、すでに18世紀のうちに高めてしまったのだから、凄いわけだ。

 そしてそして、何よりこの『自負と偏見』の凄さは、実はダーシーとエリザベスが似た家庭環境、生育環境(裕福さとかそういう違いはあるが、親に認証されず、無関心、無干渉な環境)、で育ってきており、二人は似た者どうしであるがゆえに、ダーシーはエリザベスの自負心がいかなるものかを写す鏡の存在であるということだろう。ところが、彼ら二人にはそういう自覚がないゆえに、むきだしの心で激しくぶつかりあうことで、互いの自負心を自覚しあい、最後は結婚に至るということになるのだろう。
 もう少しわかりやすくいうなら、エリザベスとダーシーの関係は、自分と似たところがある、あるいは自分で自分を嫌っている部分を相手を鏡として見て自覚していくことで、互いに自分の「ありのまま」を再発見していく物語が『自負と偏見』なのだろう。

 中野は解説でいっている。
 オースティンの作品には欠点のない人物は1人もいないと。したがって、『自負と偏見』でそうした人々の関係がどのように移り変わっていくかを眺めていけば、オースティンが見出した理想の結婚や人間関係は、互いの欠点を自覚しあい、あるいは長所を自覚しあえる関係だといって過言はないだろう。


 「そんじょそこいらの教養じゃ、むろんだめ。やはりひときわ抜きんでたというんじゃなくちゃ、ほんとうに教養があるなんて言えないわ。教養ある女というからには、音楽も歌も絵も踊りも、それからフランス語、ドイツ語なんてものまで、完全でなきゃだめだわ。いいえ、そればっかしじゃだめなの、歩きかたから、声の調子、話しぶり、言葉づかいといったものにまで、なにか、こう、なんともいえないあるものがなきゃだめ、教養なんて言葉はとても当らないわ」
「もちろんそういうものは、みんななけりゃいかんが」とミスター・ダーシーが補った。
「といってもそれだけではまだ足りない。もう一つその上に、広く本を読んで、精神の修養をはかり、なにかちゃんとしたものを、持つようにならなくちゃいけないでしょうね」


 これらの言葉は、オースティンの思想そのものであろう。しかし肝心な部分は「なにかちゃんとしたもの」と、まだぼかされている。それは一体なんなのだろうか?


 それはきっと――
 「あなたがものごとをなすやり方を、私がまるごと受け容れることのできるような智恵を与えてください」といつも祈ることにしている。
 フランク・フールズ・クロウ(テトン・スー族/1979年『Fools Crow』)

 という、ネイティブ・アメリカンの思想なのだろう。
 「ありのまま」を受けいれるには智恵と勇気が必要であり、その根底には寛容さがあるのだろう。

ipsilon at 12:44コメント(0) 

2018年09月13日

 ジェーン・オースティン『自負と偏見』(中野好夫訳)を読みはじめたのだが、どうも原語ではどう書かれているのかが気にかかる。
 昨今この作品は題名を『高慢と偏見』とされている場合が多いし、慣習のようだが、個人的には「高慢」より「自負」のほうが適した訳な気がするのだ。
 もちろん、英語を的確に日本語にしようとすること自体に無理があって、Pride を「高慢」とも「自負」とも断定することなど出来ないことは自明の理なのだが。
 しかしそういったことは文脈を読めれば、著者がその単語でいかなる概念(ニュアンス)を伝えんとしているかは、ほぼ正確に断定すること出来るとは思うのだ。

 なぜこんな思考が起こったかといえば、つらつらと『自負と偏見』を読みはじめて、第5章でこのような文章に突き当たったからだ。
 その部分の全文を引用しはしないが、概略を引用しよう。

 「そもそも自負心なんてものはね」と、今度はつねづね思索の深さを自負するメアリーが言いだした。「人間誰でもの弱点なんだとは思うわ」(中略)
 「もっとも、虚栄と自負心とは別ものよ、よく同じように使われるけど。自負心があるからって、虚栄とは限らないわ。つまり、自負心てのはね、どちらかといえばみすからを強くたのむことよ。それに対して虚栄というのはね、他人からこう思われたい、ああ思われたいという気持ちなのよ」


 これまで、1章から5章まで読んできて、特別、中野訳で気になる部分はあまりなかったのだが、この5章の部分はさすがに気になったのだ。
 オースティンが言うように、自負心が誰にとっても弱点だというなら、Pride=自負と訳すのには無理があろう。日本語の自負とは「自分で背負って生きている自信や誇り」という意味だからだ。少なくとも自分自身に生きるのがよいなどと発言しているわたしの感覚や、辞書にある意味からすれば、「自負」という言葉には否定的な概念はないからだ。だからオースティンが表現したかったであろう感覚は、自負心が「人間誰にとってもの弱点」だったとは思えないのだ。
 ならば、この文章にある自負心(原語はpride だが)を「高慢」と訳せばいいかと考えれば、それも違うと思うのだ。
 そんなわけで、原語というよりも、オースティンが伝えんとした感覚が、日本語にあってはどのような語句が適しているかと考えると、個人的には「自惚れ」とか「自尊心」がよいのではと考えたのだ。
 ちなみに、5章のこの部分で使われている「虚栄」という語の原語はvanity だ。

 こうして考えると、もちろん題名にあるもうひとつの語句、「偏見」の原語も気になりだすことだろう。
 ――prejudice。これは、pre と judice で区切ることができ、事前に(主観的な)判断をするとなっているので、偏見と訳しても問題ないだろう。しかし、より正確に英語にある意味を伝えようとするなら、「先入観」になるだろう。だが、一般的な慣習(つまりわれわれが普段つかっている口語表現)を考慮するなら、「偏見」のほうが親しみやすく感覚的に伝わりやすいとはいえるだろう。

 したがって、個人的には、この題名『Pride and Prejudice』は『自尊と偏見』が一番の妙訳かと思う。
 自尊は固い言葉なので、口語的であることを考慮するなら『自惚れと偏見』がいいのかと思う。
 まあ、どうやっても英語での表現を日本語に正確に訳すのには無理があるというのがまっとうな判断だろうが。


 余談だが、漱石が絶賛したという冒頭の書き出しの原文も見てみたが、これは訳に困る英語だなと思った。
 中野訳は少々固い表現だが、オースティンが原文に込めた思いをなかなかうまく伝えんとしていることは読めた。

 It is a Truth Universally acknowledged, という部分を柔らかな口語的日本語にすること。これには多くの翻訳家が困ったのでしょう。わたしなら「一般的に広く知られ、認められた真実だろう」と訳すかな。ちなみに、中野訳は「世間一般のいわば公認真理といってもよい」と、ちょっと言葉が固いですかね。ここで Universally を「普遍的」なんて直訳してしまうと、この作品にある軽妙さをまず間違いなく壊すであろうとか。難しいですね翻訳というのは。

 他にも日本語では当たりまえのように、中野訳では「メアリーが言いだした」というように訳されている部分も、原語では 「observed Mary」 となっていて、少し前の記事『快読シェイクスピア』で河合さんが言っていた内容を考慮するなら、ここの訳は、――「そもそも自尊心なんてものはね」と、今度はつねづね思索の深さに自惚れがちなメアリーが考えを披露した」――というのが著者の感覚に近い訳なのではないだろうか。

 そして、わたしの訳した文なら、メアリー自身が自惚れているにも関わらず「自尊心(自惚れ)とはね!」なんて偉そうに語っている部分に思わず笑ってしまう軽妙さが出てくると思うのだ。手前味噌だが、これこそがオースティンの表現したかった人間にある心の機微というか矛盾というか、可笑しさ面白であり、題名に表わされた感覚だといっていいのではないだろうか。
 もちろん中野訳も、文脈や前後の文章に注意していればそのように読める訳ではあると思うが。

 また、わたしの読みがそう間違っていないであろうことは、引用した後につづく短めの挿話を読めば納得できるのではないだろうか。隣家のルーカス坊ちゃんが「自分だったらこうするな」と言ったのに対して、ミセス・ベネットが大人げなく、「いいえ、そんなことをしてはいけません! こうあるべきです!!」と議論になり、どちらも自論(自負心)を曲げないままその日の訪問が終わった、という表現があるからだ。
 ここ爆笑しながら読んだんですけどね。
 それにしても、こういった微妙に見える人間真理を二十代の前半にこのように書けてしまったオースティンの文章にであうと、打ちのめされもするんですがね。俺には無理……こんな上手いこと面白おかしく真理を表現できないわ……とね。


 ともあれ、「そもそもこれこれについてね」なんて偉そうに語ったところで、所詮語っている本人がそのことを一番わかっていなかったりするよねという、人間の知恵の限界という真理を、喜劇として見せてくれているのが『Pride and Prejudice』なのだろう。
 もっとも最後まで読まずに、文脈に関してあれこれいっても、それこそ仕方ない自惚れなんでしょうがね。
 かくいうわたしも、「そもそもこれこれについてはね」なんて記事をいつも書いているわけだが。


 余談だが、ネット情報によると『自負と偏見』は、漱石が晩年に辿りついた「則天去私」がコメディータッチで描かれていると感じ、彼が絶賛した作品であるそうだ。またサマセット・モームが世界の十大小説で二番目に揚げている作品でもあるそうだ。
 確かに、自分は真理を知っているとか思って話していても、そんなものは自惚れであり、下手をしたら高慢な偏見に過ぎないのだというのは、天から見たらその通りなんだといえるのだろう。
 いまだ、その十大小説も『赤と黒』と『白鯨』しか読んでないのだし。

 「無知の知」――。結局のところ人間なんてものは大したものではなく、真理さえ知れずに生き、そして死んでいくに過ぎないのだろう。

 それにしてもモームが小説に求めた一番重要な要素はいいですな。
 「小説は楽しくなければならない」。人生もまた同じではないだろうか。


 頭のよい人ほど
 神を必要とする。
 自分はなんでも知っているという
 思考から自分を守るためにも。

 ジョージ・ウェブ(ピマ族/ネイティブ・アメリカン)
 1954年『A pima remmenbers』


ipsilon at 13:23コメント(0) 

2018年09月11日

 読み終えたあとの何ともいえない余韻に独り静かに浸っていたい気持ちと、今すぐベラベラと感じたことを喋りまくりたい二つの感情が絡みあっている。
 一部に、湯本さんと梨木さんの作品は似ているという声を目にするが、わたしはそうは思わない。梨木さんは『村田エフェンディ滞土録』のように、わりかし広い世界を描いているし、自然という部分に視線が注がれているので、描かれるものとの距離感が比較的あるのだが、湯本さんは親子、兄弟姉妹、孫と曾祖父、叔父伯母といった親類、あるいは友人、といっても同級生や先輩後輩といった近しい関係に絞り込まれていると見えるからだ。
 現実を生きるわれわれにとって恐らく湯本さんが描いているのが近いゆえに、息苦しさを強く感じたり、その反対に物語に癒されるとしても、強い癒しを感じるのではないかと思うのだ。梨木さんの作に『りかさん』というのがあるが、これなど梨木さんの作風がよく出ていると思う。人形と少女の近い関係からはじまり、戦争という少し遠い世界へと繋がっていくのだから。
 しかし、湯本さんの場合、近しい人々の物語の先には常に死があり、その死は忌避するようなものではなく、死と向かいあうことで近しい人々の死によって、生きている人が最後は普遍的なもの、あるいはすべてが完全に整った境地に到達し、そしてまた現実の生活に戻っていくという流れがあると思うのだ。そしてそれこそが湯本さんの作品の特徴であり醍醐味だと思うのだ。
 正直、梨木作品にも惚れこんでいるが、個人的には湯本作品のほうが好みなのだ。一時、思想や空想で現実を離れるが、生きている以上は現実に戻るしかないみたいよねという味わいがいいのだ。

 湯本さんの最新刊である、この『夜の木の下で』も、6篇すべてがそいう構成になっている。
 もしかすると、彼女の紡ぐそういう空気感が、独り思索の余韻に浸りたいという気分と、今すぐ現実に戻ってベラベラ喋りたいという気持ちを湧かせる原因なのかもしれない。


 ということで、ベラベラとネタバレを含む感想を思いつくままに語ってみよう。
 ネタバレが嫌な人はブラウザの「戻る」ボタンをクリックだ!!

 『緑の洞窟』は、双子の男の子二人が抱えた秘密――共有された部分は少しあるようだ――が、生き残った一人の中でどのように昇華されたかというお話し。一番印象に残ったのは、二本のアオキの木が寄り添って立っているところにできた隙間を「秘密」とか「決して知りえない感覚」に見たてている隠喩の秀逸さだ。
 語り部の主人公、その父と母が、双子の一方が死ぬことで、それぞれが「秘密」あるいは「決して知りえない感覚」をそれぞれに昇華していく方法が違うのは興味深かった。父は無言(失語症)になり、母は多弁になり、そして語り部である主人公は……というお話しだ。
 もちろん、主人公の昇華のしかたが一番好ましく美しいと思えるのだが、「秘密」や「決して知りえない感覚」を納得する方法は人それぞれでもいいのではないかという部分に、湯本さんの優しさ、思いやりがあるように思えた。


 『焼却炉』は、女子の生理を題材にして「変わらないもの」が実在することを伝えんとした作品だろう。湯本さんらしい下ネタの使いかただが、それと対比されるようにミッション系の学校や聖歌や教会が出てくるのが心憎い演出だ。やはりこの作品も湯本さんの物語には必ずある「死」が描かれているのだが、それは死によって変わりようがなくなるという描かれかたではないと思う。しかし信念とかそういうものと読めるかといえばそうではない。
 登場する二人が志望校を選んだりする場面で、湯本さんは親の意見によって自らの信念を貫けなかった過去を抉りだすからだ。しかし主人公のほうは、それでも信念を貫いて志した絵の道に進むのだが、何かすっきりとしていない。そしてある日、歳月を重ねた二人が学友の葬儀で出合い、主人公が本当に変わらないものがあることに気づくというお話し。その変わらないものとは、学生時代と変わらない友人のフフという笑い方だったという美しいお話しだ。と同時にラストでは結局のところ変わらぬ信念といっても、それは頑なに思う理屈や志といったものではなく、「本質的に変えようがない心」という、一種動物的な本能のような心だけが決して変わりえないものなのだと語っているのだろう。そしてこの「本質的に変えようがない心」というのは『マジック・フルート』で「祈るように生きるしかできない」という言葉で語られている心と同じであろう。


 『リターン・マッチ』は、いじめっ子がいじめられっ子の生き方に触発されて、自分自身に生きる術を見出していく非常に美しい物語でありながら悲劇でもあり、人間の真実を語っている、それはそれは重厚な物語だといって過言はないだろう。個人的には『夜の木の下で』の全6作のなかで最も深い感慨を受けた作品だ。感動とかそういうのではない、あくまでも感慨なのだ。
 いじめられっ子は、自分自身に生きるとは勝ち負けではなく、自分が納得することという生き様を見せることで、いじめっ子の心に変化を起こしていくのだが、そのいじめっ子は実は家庭環境が酷く、いつも誰かに怒っていたことには気づけない。そしてその怒り――嫌悪であり、それが昂じて怨みになり、それがやがて自分への憎悪になっていたこと――に気づけない。
 これは少し前に感想記事をあげた『快読シェイクスピア』の『リチャード三世』を論じているなかでだったか河合隼雄もいっていたことなのだが、他人を嫌い怨むことは最後は自分への憎悪になり、最後には誰かが死ぬことになるというのと一致し、なおかつわたし自身が経験してきたように、他人への怒りや恨みは、最後は自己破壊あるいは、無差別な殺人につながるということを、湯本さんも気づいていて語っていることに驚きを禁じ得なかったのだ。ああ、真理真実を知ってちゃんと語り伝えようとしている人がここにもいたという感激があったのだ。
 わたしの場合、自殺(未遂)という方向にむかったが、死ぬに死にきれず、それでも死にたいと思っていた頃に恐ろしい夢を見たことは今も明瞭だ。そう、銃をもってスーパーに行き、無差別に人殺しをしている自分を夢に見たのだ。
 こういう経験から、批判非難、それがやがて嫌悪、怨みとなっていけば、最後にそういった感情が自分への憎悪になり、それを解決しえる手段は自殺か無差別殺人しかなくなるから、批判はやめたほうがよいと何十回にもわたってここで言ってきたことに込められた思いであり真実なのだ。
 だから、そういうことに気づいているだろう湯本さんは主人公にこう語らせるのだ。

 俺はあの時、おまえのことなんかどうでもよかった。もしおまえのおかあさんを死なせてなかったら、自分か、自分ちの母親か、それとも道を歩いているどこの誰とも知れない女を殺していたかもしれないって。だってほんとにそうだから。

 よく無差別殺人をした犯人が「誰でもよかった」と口にするのは、そういうことが背景にあるのだと、わたしは1人でも多くの人に知ってもらいたいのだ。
 手前味噌なのはわかっているが、わたしが書いた小説の『逆光する星々』と『ケイローン奇譚』は、まさにわたしが経験した虐待や嫌悪からはじまる自殺ないし無差別殺人への道と、これもまたわたしが経験した自分を憎悪している地獄からの再生のしかたを、ヒュードラーに語らせたものであるのだし。
 もちろん、その再生への道は、思い込みを排して事実をきちんと見つめるということだ。わたしの作品では幽霊のようになったトゥラキアと会話することでとなっているが、ようするに自分で自分を見つめて偏見を打ち破って、真実を知る以外、憎悪や地獄の道から脱することはできないということだ。

 わたしの書いた作品の場合、SFで現実離れしているが、湯本さんは凄くて、現実にあってもおかしくないようないじめの場面を包み隠すことなく、つまりわれわれにとって近しい距離で書いているわけで。著者略歴の写真にある湯本さんの笑顔からは想像がつかないような勇気を、わたしはこの作品に垣間見た気がしたのだ。
 多分わたしがヒュードラーの物語をSF世界で書いたのは、湯本さんのように現実をそのまま描写するような勇気がなったからだろう。それでもわたしはわたしなりに、虐待される場面とか、怨みをつのらせてヒュードラーがヒドラになっていく場面とか、耐えがたい痛みに苛まれながら書いたわけだが。

 ともあれ、いじめや無世別殺人がおこる根源には、どのような原因があるかをここまでわれわれに近しい距離で描ける作家はそういないんじゃないかな。
 梨木さんの作、『西の魔女が死んだ』は当時いじめが話題になっていたから書いたと本人も言っているが、こういった表現の違いに二人の差が明瞭に読みとれると思うのだ。

 あー、感情的になって熱くなりながらタイプしていたら疲れてしまった。
 ということで、あと3篇『私のサドル』『マジック・フルート』『夜の木の下で』が残っているけど、これでお終いにしよう。その3篇については読書メーターの感想にそれなりに書いてもいるので。

 『夜の木の下で』は、言ってみれば「猫の恩返し」。けっして明るい話ではないが、どこか心温まる物語だった。猫がいう台詞がね……痛いの。

 あなたがた人間ほどいろいろなものを持っていないぶん、失ってもいない。でも失ってないぶん奪われます。私たちとあなたがたの隔たりがいったいどれほどのものなのか、私にはわかりません。知ろうという気持ちもありません。

 つまりさ、人間は色々なものを所有しようとすればできるから、奪おうとする。猫は何も持とうとしないから、失いもしないけど、あなたがたのような種に奪われてはいる。そう、捨てられてしまって命を奪われたりね。だけど本当のところ僕たち猫は奪ったり奪われるという概念を知らないし、知ろうともしてないから、別にあなたがやってしまったかもしれない仔猫を捨てたことで苦しむ理由がわからない。そういう意味でしょ、この台詞。
 なんというか文明社会に生きる業の深さと、自然に生きる動物たちが何もしないまま表現している慈悲や赦しの差というか、そういう自然に生きているものたちが持つ、赦そうとして赦すのではなく、はじめから赦しているという感覚、そもそも赦すという概念すらないことに頭が下がる思いで読みましたよ、ここは。
 ネイティブ・アメリカンがもっていた所有の概念がないっていうのは、こういうことなんだろうね。
 文明人は所有を知っているから、そこから奪った奪われたという概念も生まれてくるわけでしょ。

 梨木さんの作にも題名は失念したが、怪我をした烏に向かって梨木さんが「カラス、君は死ぬんだ。そんな怪我をしているから死ぬことは決まった」みたいなこと言う場面があって印象に残っているんだけど、湯本さんの表現もそれと同じことを言おうとしてると思うわけだ。

 猫が親猫から見放されれば、仔猫は死ぬしかない。それが自然の摂理。梨木さんが烏にそう言ったのもそういう自然の摂理を見てのことだろう。
 けれども人間というのは、こうやれば助かるとか考えられるし、実際に考えたとおりに行動することもできるから、自然の摂理は非常に厳しいものに見えるけど、それは悲しいものでもなんでもないある種の運命であるし、それを受けいれることは自然に生きるということでもあることに気づけないんでしょうね。
 けれども、人間もその自然の摂理のなかで生きている動物でしかないと気づけば、野垂れ死にには野垂れ死にの意味があるとわかるのだろう。
 ネコ科の動物たちは普通成体になると一頭とかで生き抜く。ほとんどのネコ科は群れを作らないのだ。珍しいことにライオンは群れをつくる。だからライオンの群れはグループという呼称ではなくプライドと呼ばれている。こういうように群れないで生きる種。あるいは人間のように群れて社会的でないと生きていけない種では、自ずからものの見方や考え方などが変わってくる部分があるのだろう。したがって、そういう視点で見るなら、野垂れ死にには野垂れ死にの意味があるというのは残酷であるのだろう。
 もっとも、人間が他の動物と違って出来ることがあるというなら、それを自分たちのためにだけに使って環境を破壊したりするのがどういうことかは、自覚すべきことなのだろうが。


 余談だが、個人的にはもういい加減に『夏の庭』の作者とかいう売り文句は辞めて欲しいと思っている。懐古趣味的になって初期作品みたいな最新作を読みたいという意見も、個人的には嫌だ。
 なにせ『夏の庭』は湯本さんが33歳くらいの頃の作品であり、あと2年もすれば彼女は還暦なのだから。
 世間とか出版社の宣伝方針なんてものはそういうものだというのは解ってはいるが、著者の身になればしんどい面があると思うからだ。
 富野由悠季=ガンダムとか言われ続けたことで本人がどれだけ嫌な思をしたかとか知っていたらね。
 こういうのには例に困らず、『超時空要塞マクロス』でリン・ミンメイ役をやった飯島真理など、散々に苦しみ、ミンメイの絵や名前を見たり聞いたりするのも嫌になるほど苦しんだとか。
 文学の世界にもそういう前例は多々あって、『椿姫』を書いた小デュマは『モンテクリスト伯』を書いた父親、大デュマの影にいつも苦しまされ、『クマのプーさん』に本名で登場したクリストファー・ロビンなども、死ぬまでプーさんの印象で見られて苦しんだとか、もう数え上げたらきりがないわけで。
 その人の作品とその作者を本当に愛するなら、今のその人を受けいれるのが一番いいと思うわけだ。
 最近なぜゲーテが好事家(ディレッタント)を嫌っていたかを実感している。自分の好みのものばかり追い求め、自分の好みを他人に押しつける求める、そうやっている人は、結局自分が楽しむことだけしか考えておらず、他人への思いやりに欠けるとわかったからだ。

 こんな愚痴をここで言ったからといって世間が簡単に変わるとは思っていないが、真面目に思ってることはちゃんと言葉にしたかっただけだ。『マクロスF』の最終話の台詞じゃないけどね。


 ていうか、モーツァルト『魔笛(Magic flute)』の「夜の女王のアリア」だけど、凄すぎんだろ、こんなの歌えるのって……。
 超高音もそうだけど、表現力が相当ないと無理だろ、こんなの。
 世界でも数人しか歌えないといわれるだけのことはある。
 湯本さんはこういう音楽を知っていて「マジック・フルート」を書いたと思うと、感極まるものがある。


 昨夜、布団に横になってからつらつらと頭に浮かんだことも、書いておこう。
 『マジック・フルート』もほんとに繊細な物語で、いえば年齢や立場を超えた恋心のお話しなのだが。そこには湯本さんからのメッセージがふんだんに込められているのだろう。作品に登場する楽曲たちがそれだ。
 『幸いあれ求める人よ』にはじまり、シューマンのトロイメライ、この曲が入っている楽曲集には大人からみた
、、、、、、
「子どもの情景」という題があり、トロイメライはそういう意味で「夢」という題だそうです。ベートヴェンが難聴になり死ぬか生きるかに悩み、ハイリゲンシュタットの遺書を書いた頃作られた、ヴァルトュタイン。出てくる文学も「耐える」ことが題材の『レ・ミゼラブル』『モンテクリスト伯』と。湯本さんが伝えたいことは割とわかりやすい。彼女が自分の思ったことをただ書いているのではなく、色々なものに触れて学んできただろうことも明瞭に読みとれよう。
 話が脱線したが、網枝がヤギに似ているというそのヤギは悪魔の象徴(新約聖書に謂れがある)。もっともそれは道江から見てであり、主人公の彼から見れば天使なわけだ。この立場によって見え方が180度変わることは蛇でも表現されている。旧約聖書ではじめに現れる動物は蛇。蛇はアダムとイブに智恵の実を食べることを勧めたとして、キリスト教では悪魔のように嫌われる存在。しかし、この物語では蛇は天使のように主人公に語りかける存在。こういう部分が、モーツァルトの歌劇『魔笛(マジック・フルート)』の主題である、善と悪は立場によって容易に入れ替わるというテーマと重なるわけだ。
 全6作を貫くテーマは? と考えてみると、誰しも大人と子どもという立場の違いで、子ども時代に夢を壊されたり理解されないことの一つくらいはある。かくいうわたしもそう感じて、親をとことん怨んだ時期もあった。そして、そういった傷を抱えたまま大人になると、その痛みを連鎖させるように子どもにぶつける。時には自分が受けた暴力をそのまま連鎖させ、虐待死なんてことも。子どもがいなければ友人知人にぶつけることだってある。かくいうわたしがそうだった。
 そう考えると、湯本さんはそういう傷を癒せずに大人になった人たちに向けて物語を書いたであろうことが見えてくるのではないだろうか。そういった表現の根底には、未来を担う子どもたちが歪んでしまわないようにという祈りに似たものがあるのだろう。その為には大人たちが自分の子ども時代を思い出して、意識しているいないに関わらず子ども時代に負った傷を癒していく必要があると考えたのではないだろうか。
 いわゆる毒親。彼らだってそうなろうと思ってなったわけではないだろう。彼らもまた大人たちによって知ってか知らずかのうちに酷く傷つけられ、あるいは傷つき、知らぬうちに毒親になってしまっただけだろう。わたしが両親への恨みを捨てれたのも、そういうことに気づいたからだ。
 確かに痛みは消えるが傷は残るというように、子ども時代の辛い思い出を呼び起こして考えることは苦しい、とても苦しいことだろう。しかし、自分への癒やしと、未来の子どもたち、あるいは自分の周囲の人々のことを思えば、その痛みに耐えて思いだして納得したり諦観して、子ども時代の傷を癒していく必要はあるだろう。
 傷が起こす、叶わなかったことでの無意識な怒り、それが無意識に次の世代に連鎖していかぬように。

 初期湯本作品は傷ついた子ども、より正確にいえば、14歳を狭間として大人になる時期の子どもあるいは子ども時代の傷を癒す作品群だったのだろうが。ある時期に視点が広がり、傷を抱えたまま生きる大人たちが子どもに影響をあたえていることに気づき、『岸辺の旅』あたりから、大人こそ癒していかなければならない存在だという方向に作品性がシフトしたように思えるのだ。この14歳というのは、『快読シェイクスピア』で河合隼雄が特に重視して語っていた年齢だ。ジュリエットの物語は13歳から14歳になった、わずか五日間の出来事だ。その五日間で、彼女は子どもから大人への階段を駆け登りながら、大人世界にある理不尽な考え方で苦悩し死んでゆく。この凝縮させた描き方が鮮烈な感情を呼び起こす。河合さんは演劇を見ながら、自分の診療所にやってきた14歳前後の子どもとも大人とも言えない彼・彼女たちの顔が次々に浮かんでは消え、観劇が終わったあと関係者の前で感想を述べながら、思わず泣いてしまったのだとか。

 わたしのこんなヘタレかつ自意識過剰な文章で何が伝わるのかはわからないが、子どもたち、特に14歳付近に敏感になり、または自分が14歳くらいだった頃を少しでも思い出しながら生きてもらえたら、少しはこの社会の息苦しさも減るのかもしれないなどと思ったのだ。布団の中でね。
 ところでオイラは、14歳の頃、何してたんだっけなぁ?……。

 怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない(『ダンマパダ』)

ipsilon at 21:58コメント(0) 

2018年09月09日

 いやあー面白かった。それが素直な感想だ。
 とくにお気に入りな作品――対談で論じられているなかだと『夏の夜の夢』の章――を読んでいるときは、本当に楽しかった。
 また、河合さんが凄いのは自覚していたが、翻訳家ってのも凄いなということを深く実感できた。
 正直、松岡さんの訳でシェイクスピア作品はいまだ読んでいないのだが、俄然興味が湧いた。これまでわたしが接してきたのは中野好夫や福田恆存つねありであり、なぜそういう選択をしてきたかというと、同じ翻訳家で読むことで、その訳者の思想やシェイクスピア観をある程度読みとれる思ったり、同じ訳者で読むことで、わたし自身のなかに醸成されるシェイクスピア観が一貫性を持つと考えたからだ。
 しかし、今回松岡さんの真摯な翻訳家としての姿勢や、彼女の翻訳が彩の国シェイクスピア・シリーズとして実際に劇場で演じられることを前提に訳され、実際に演じられ好評を得たことを知ると、それこそ俄然として松岡さんの訳でシェイクスピア作品に触れたいと強く思ったわけだ。
 戯曲というのは演じられてそれを見るためのものであるのだから、当たりまえといえば当たりまえのことに目覚めたともいえるし、一貫性やシェイクスピア観も大事だが、作品をひとつのものとしてしかと味わうこともまたオモロイことだと気づいたのだ。

 かといって、中野訳や福田訳を退ける必要もないだろう。二人などシェイクスピアに関してはある程度の大家といっていいだろうし、中野の場合、あのギボンの『ローマ帝国衰亡史』を完訳することをライフワークとして取り組み、志なかばにして世を去ったような人なのだから。
 もちろん、松岡さんは先達の訳者に対して敬意をはらっており、その辺りの謙虚さにも感動したわけだ。敬意を払いつつ、わたしはわたしらしい訳を全力で、そういう姿勢がきちんと伝わってくる対談集だったということだ。

 松岡さん自身も語っているが、少々残念なのは、この『快読シェイクスピア』はある時期絶版になっており、増補を続けつつ、決定版という形で復活している辺りの経緯だろう。
 無論、読めにないより読める状況のほうが好ましいし、増補は嬉しいのだが、いつでもに読める本であっていい質や内容なのに……という少し寂しい感慨があったということだ。

 ともあれ天才シェイクスピアである。怪物シェイクスピアなのだ。したがって専門的な研究書も雑多出版されているのだろうが、河合・松岡の対談といった親しみやすいものを手にしたい読者からすれば、この『快読シェイクスピア【決定版】』は実にありがたい一冊といっていいだろう。

 昨今の時代は作家にしても翻訳家にしてもPCを活用しているのだろうが、松岡さんなどPCを道具として上手く使いこなしているのも印象的だった。ある作品にはこういう単語が幾つ出てくるんですとか、あの作品にはやたらとこういう意味をもった単語が使われているとか、いわゆる検索機能を使って、単語単位でシェイクスピアと彼の作品を見つめているのは現代的で興味深かった。彼女の若々しい話しっぷりや記憶力の良さもけっこうな驚きだったが。


河合
 私は「なぜなしに生きる」というマイスター・エックハルトの言葉が好きなんです。生きるのに「なぜ」なんてないんですよ。生きてること自体がものすごいんであって、何かをするために生きているっていうのは、ちょっと偽物めいている。


 そう、これに尽きるんですよ、人生とは。

松岡 生きること自体がたいへんなことなんですね。
河合 ハムレットは、「なぜなしに死ぬ」方なんですね。もちろん有名なあの、“to be or not to be”の台詞はありますが。


 そう、だから死ぬことにも「なぜ」なんてないということでしょ。シェイクスピアはそういうことを、それとなく描いちゃうから天才なわけで。多くの人はこの『ハムレット』を分裂した人とか悩む人として読むそうだが、河合さんに言わせれば、「なんでそんな悩んでんの? 生きるのも死ぬのもそんな悩むもんじゃないよ」ってことになるんじゃないかな。生死に理由はないし目的もないし、生死に意味を求めるから辛くなるんだよ、と。
 これ、煩いと思われるかもだが、無明という生存欲を滅したゴータマが辿りついた方便の生そのものをシェイクスピアは『ハムレット』で語ろうとしたとも読めるわけです。

 もっとも、現実に生きるという範疇について河合さんは、社会に生きるっていうのは、役柄――父親であるとか校長先生であるとか、店員であるとか――に生きざるを得ないんだけど、それと対比されるべく、役柄から離れた自分自身に生きたいという欲求が人間にはあるわけで、『ハムレット』はそういう二者の生き方の狭間で苦しんだり悩むという、人間が社会で生きていくなかでの葛藤や本質を見事に描きだしたと語ってもいるわけです。だから、多くの人がいわゆる多重人格になったりするんだと、心理学の分野から読み解いてみせてくれるわけです。
 ハムレットの場合、王子でありゆくゆくは王になる立場を演じざるを得ない。なおかつ、自分自身に生きたいという欲求もある。この両者に引き裂かれるのだが、結末を見ると、その双方を満たす死にざまにちゃんとなっている。しかし、そういう死にざまは本人の意思ではなく、周囲との関係性から、そういう道を歩まざるを得なかっただけ。そう、シェイクスピア劇に頻繁に見られる運命は、『ハムレット』でも濃厚に語られているというね。
 ただその運命が悪い物ではなく、運命も意外といい仕事するじゃん! とも読めるわけで。本人が意識的に演じることと自己の本性に生きようとしなくても、ちゃんとそのように運んでくれるんだよ、と。だからそういう読み方をすれば悲劇だけど、あるいは終わり方が悲劇ゆえに、読んだり見た人の心にカタルシス(浄化作用)を起こすというギリシャ哲学にある悲劇が書かれる理由も納得できるのだろう。
 まあともかく、『ハムレット』は世界最高の戯曲とさえいえるのだから、いかように読んでもいいのでしょうがね。
 言い方をかえると、シェイクスピアの作品は「我」が張っていないといえよう。作家であるなら、誰でも「わたしはこういうことが伝えたいんだ!」という執着やらメッセージを作品に埋め込みがちだが、彼の作品からはそういうものがあまり感じられない。こうこうこうなって、こうなっちゃいました、チャンチャン! みたいな読後感を与えるとでもいえばいいか。恐ろしい話であろうと、馬鹿らしい笑い話であろうと、ハッピーエンドだろうとバッドエンドだとろうと、起こるべくして起こっただけだけどね、と感じてしまうようなものがあるということだ。
 Video News で宮台さんが言ってたいいかたなら、人は皆なにかに駆り立てらて生きているところがあるともいえるのだろう。

 シェイクスピアの天才性はそういうところにあって、読み手が勝手に解釈しても、読み手に何らかの収穫をもたらす部分にあるのではと、個人的には思うわけだ。
 また今回読んで改めて感じたのは、彼自身がもとは役者だったゆえか、演者の気持ちを考え、かつ劇的効果をとことんまで追求していることもとてもよく納得できたりしたし、だからこそ彼の戯曲が魅力的でありかつ難解というか、いかようにでも読める。演者や演出によってまったく違ったナニカを観衆が感じる書き方になっているということも理解できた。
 言い方をかえると、河合・松岡コンビが疑問に思ったように、「この部分は意識して書いたんですかね? それとも無意識?(松岡)」。「うーん彼ぐらいになると、もうどっちだかわかりませんね(河合)」なんて会話を引き起こすのだろう。いえば、シェイクスピアが書いたんだけど、神が降臨してきて書かせたともいえるというかね。


河合
 日本語の「観」という字、あれはもともと自分を見るの「観る」なんですよ。日本人には observe という考え方がなかったんです。observe は客観的に見ているわけでしょ。それがない。日本語の「見る」は、客観も主観も入っているような曖昧な形です。ハムレットは、observe されると同時に、内的に自分を観ている。しかも二重三重に見ているから、迷いがあって行動できないように見える。でも実際は行動派の人が、自分が観ている、人が見ているというたくさんの視線の中で動こうとするから動きにくい、ということでしょうね。


 なぜここを引用したかは勘の鋭い人ならわかるだろう。
 「観心」とはそういうことだと言いたいのだ。いくら日蓮の『観心本尊抄』を熟読したり、勤行・唱題をしたところで、自分を見つめる作業をしなければ意味はない。そういうことを言いたかったからだ。わたしからすれば「自分を見つめなさい」なんて言葉は何百回もここで言葉にしてきたことだが。

 言葉については、章のあいだにあるコラムで松岡さんが面白いことを語っていた。
 良い悪いではないのだが、日本語は過去から現在思考の言語。英語は未来思考だと。河合さんが対談のときにそれに呼応して、日本語は否定的、英語は肯定的でもあるけどねと補足するのも鋭い。
 「忘れる前に言っておくけど」と「忘れないうちに言っておくね」。どちらも同じに聞こえる人もいるのだろうが、一方は未来を見ての表現、一方は過去を見ての表現だと松岡は見抜くのだ。
 「忘れる前に」というのは、忘れることを前提としているから未来を鑑みての言い方、「忘れないうちに」というのは、過去から現在を見ての言い方なわけだ。日本語はそのように、「忘れないうちに」という過去思考でものを言う人が多いともいえるかも、と。だから言語には意識されないまま、その言語をつかう人種のメンタリティーが籠められているのだろうと、松岡さんは言うわけだ。

 また「未来」という日本語も「未だに来ない」という、否定思考であり、英語のfutureは「これから来る」という肯定思考だと河合さん。
 気になって松岡さん、家に帰って辞書で調べたら、河合さんが言っていたとおり、元来日本語には未来という言葉はなくて、英語あるいは漢語を日本語にするときに作られた言葉だと知ったり。なかなかに興味深かったわけだ。
 最後に松岡さんは、日本には元来、未来という言葉がなく、そういう意味の言葉は「あの世」だけだったのか! と驚きを表現してコラムを終えてましたけどね。

 他にも付箋をしたくなった箇所はあったのだが、オモロかったので、どんどん読んでしまい、付箋を忘れてしまい、河合さんがいった言葉を正確に引用できない。が、感動したのは、前に記事で少し触れた、
「操作や支配などせず、僕にできるのはただただ祈るように生きるだけ」という趣旨だ。

 ともあれ、松岡さんのように河合ファンであるなら、読んで最後は涙を流してしまう一冊といって過言はない。
 河合さんが話している本を読むと、やっぱり最後には涙が溢れちゃうんだなぁ。


 松岡和子さんは御年76歳。それでもシェイクスピアの全37作、完訳を目指して歩んでいる。現在、29作まで訳されている。是非お元気で志である全37作の完訳を成し遂げてほしいと祈るように見まもらせてもらいたい。
 いつか彼女の訳を手に取ろうと強く思わされた読書体験だった。感謝、感謝だ。もちろん亡き河合さんにも。

ipsilon at 22:21コメント(0) 
 そういえば漱石の随筆はあまり読んでないなと思い、書店に並んだ背表紙を見てそっと手にした一冊。
 彼の随筆といえばやはり、「修禅寺の大患」について筆した『思いだす事など』が有名であり、多くの人に読まれているようだ。その作品は新潮であれば『文鳥・夢十夜』、岩波であれば『思いだす事など 他7篇』という題の一冊に編まれている。
 わたしは新潮で読んだので、掲載されている小説と随筆が頭のなかでごっちゃになり、漱石の書いた随筆感というものが、ぼんやりしていたようだ。

 したがって、今回『硝子戸のうち』を読んで、漱石の随筆感というか、彼の人柄――といってもそれはある時期であり、晩年へと向かう転換期の――思想がどういうものだったかをそれなりにはっきり掴むことができた気がした。
 その辺りのことについては、読書メーターにあげた感想に記したので、それを参照してもらえればと思う。一応、ここに引用しておくが。

漱石の後期作品を読む前に読んんでおくとよい随筆集。解説にあるように、漱石が「自分とは何か?」という哲学の根本命題をどれだけ真剣に考えていたかが理解できるからだ。自分とは――自分と他者の関係性によって作られる記憶や印象に過ぎない。そう気づいたあとの漱石が自他の不甲斐なさも許しあえる理想を文字にした『門』には、そういう彼の思いがよく顕われている。だから『硝子戸の中』とは自分というものがあるという自己に籠った漱石から、自他に境のない自分に至る過程を描いた、人間存在の根本に関わる随筆集といえよう。


 何しろ、今年の猛暑をエアコンなしで過ごしたので、この夏といっても8月は読書が進まないという体たらくだったので、読むのに約1ヵ月を要しただけに、少々内容を忘れぎみである。
 ということで、付箋を貼った部分をまず引用して、それについてそれこそ「思いだす事など」を書いてみようと思う。


 だから私がひとに与える助言はどうしてもこの生の許す範囲内に於てしなければ済まないように思う。どういう風に生きていくかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人としての人類の一人に向かわなければならないと思う。既に生の中に活動する自分を認め、又その中に呼吸する他人を認める以上は、互の根本義は如何に苦しくとも如何に醜くともこの生の上に置かれたものと解釈するのが当たり前であるから。

 漱石も当たり前といえば当たりまえに人間存在を考えていたのだと肯いた部分。
 端的に言えば、人に助言するにあたっては、現世に於いてどうするかを語るべきであり、過去世とか未来世といった観念上のものごとを持ちだすべきではないということだ。
 短い文章ではあるが、漱石の自他観も明瞭に読みとれよう。自分というのは、あれこれ考えて言う前に現に存在するものであるという思想は後にサルトルらが提唱した実存主義――あれこれ身勝手に言ったり考えたりする前に、現に今ここに実存しているのだから、まずそのことにどう向き合うかが、人生にあって最初に問われているのでは? という理論――というものの見方だといえよう。また彼の抱いた自他観は、自分は現に存在する世界(地球)に存在し、その自分の中に他人が記憶や印象として存在するという、これも後にハイデガーによって語られた存在論を先取りしていたといって過言はないだろう。つまり、漱石の思考をハイデガー風に言えば、他人とは存在内存在内存在といえばいいだろう。しかし、そういう曖昧な他人であっても、他人の立場にたてば、その人は現に今ここに実存しているのだから、助言をするならその人にとって過酷なことであっても、言われたときは傷つくことであっても、今世を生き抜いていけるように助言すべきだというのが漱石の思想なわけだ。


 有のままを曝け出すより外に、あなたを教える途はないのです。だから私の考えの何処かに隙があって、その隙をもし貴方から見破られたら、私は貴方に弱点を握られたという意味で敗北の結果に陥るのです。教えを受ける人だけが自分を解放する義務を有っていると思うのは間違っています。教える人も己を貴方の前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて勘破し合うのです。

 先に引用した部分の補足とも読める部分だ。
 ここで言われている有りのままというのは、結局のところ自分が経験してきて知っていることと読むのがいいのだろう。したがって、経験したことだけから話しても、相手がそれ以上の経験をしていれば、助言したほうに隙が起こると読めばいいだろう。
 結局のところ相談するにしてもされるにしても、互いが経験したことをありのままに語りあう姿勢がなければ、そういう行為は観念論や理想論に堕して意味のないものであろうと読めるわけだ。
 社交という世間的なつき合いを離れて、今実存しその人だけが経験してきた事柄について、一人の人間と一人の人間として語り合い、互いに真相を見抜きあっていく。これがありのままの人間同士の関係であり、相手と自分を共に思いあったありのままの助言であると漱石は言いたかったのだろう。
 だから、こういうありのままの関係は時に助言しているほうが助言されるという現象を生みだすからこそ、一方にとってだけでなく両者にとって価値があるとも言えよう。


 今の私は馬鹿で人に騙されるか、或いは疑い深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかない気がする。不安で、不透明で、不愉快に満ちている。もしそれが生涯つづくとするなら、人間とはどんなに不幸なものだろう。 

 わたしは四年前くらいから繰り返し警告していることは、この漱石の二つのセンテンスに全て含まれている。
 物事を相対的に見て、いつもそのどちらかを選ばざるをえない。それはある種生きる上で必要な決断でもあるが、それが極端になって善だ悪だとどちらかだけを選ぶ生き方は実は自分で自分を苦しめ破壊する行為だとずって言ってきたわけだ。それが理解できず未だに「極悪を……」なんて言っている人は、生涯そのままかもしれないが、実に可哀想に思う。
 悪も最後は善行を働くということに気づけないのだろう。
 例えばヒトラーやスターリン。確かに彼らは極悪人と呼んでいいだろう。しかし彼らのような人物がいたからこそ、二度と再び彼らのような人物を指導者として頂いたり、権力の座につかせてはいけないということが歴史的教訓として、数百年、数千年にわたって残っていくわけだ。日蓮などは、妲己を娶ってから酒池肉林の贅沢に溺れた悪王として殷の肘王をよく引用していたが、これなど数千年にわたって語り継がれている悪事を反面教師と見れば善行なわけだ。ローマ帝国であればネロ皇帝とかもその一例だ。
 確かに、先に述べたように現に今そういう悪人が猛威を振るうことは危険だ。だがしかし彼らも一人の人間である以上、彼らにも人権もあれば生存権もあるわけだ。そういう彼らが悲惨な死を迎えるまで祈り倒すとか、もう呪術の範疇であろう。そうした思想や行為は社会的でもなく、また現実的でもないわけだ。
 ならどうすればいいか? 答えは意外と簡単なはずだ。悪人に近づかない、悪人に権威権力をもたせないように人々が賢くなればいい。悪事に巻き込まれないように距離を取ればいいだけだ。そうすれば、やがて彼ら悪人は孤立して自滅するしかないからだ。自滅するなら他の人に責任はないが、「こいつは悪人なんだ!」とかいって責めたてて、実は冤罪であったなどということで、誰かが責任を負わなければならないことも起こりえないわけだ。
 シェイクスピア作品を例にとるなら『リチャード三世』は悪のなかの悪を描いた作品だが、彼リチャードは結局、誰かに責められて滅ぶのではなく、自滅したと表現していたりするわけだ。
 そもそも先に述べたように、他人というのは自己の記憶や印象に過ぎないということをきちんと理解したなら、他人を極悪と断定して責める行為や、必要以上に他人を批判し非難するのは、他人を鏡にして見た自己の嫌いな部分を受けいれられず、自分で自分を責めたてていることなわけだから。それはまさに自己破壊に過ぎないわけだ。
 こういうことに気づくと、他者を批判非難したり極悪云々言っている人が可哀想でならないのだが、人の内面や思考を変えることはできないのであって。本人が死ぬまでに気づけばいいけどと、こちらは祈るように生きるしかないわけだ。河合隼雄さんなど、まさにそういう思考で生涯を生き抜いた人だ。操作や支配などせず、僕にできるのはただただ祈るように生きるだけなんだけどね、と。
 もう語りたくもないが、いくつか前の記事でわたしが激怒したのも、ようはそういう理由だ。他人をダシにして自己正当化する行為は、ようするに自己破壊だからだ。表面的にはそうは見えなくとも。より端的にいえば、自分の嫌いな部分を自分で許容できていないだけなのだが。最後はそれも受けいれるしかない。漱石も「互の根本義は如何に苦しくとも如何に醜くともこの生の上に置かれたものと解釈するのが当たり前」と述べているわけであって。
 かくいうわたしだって、自分の嫌いな部分を受けいれられていないという自覚はあるわけだが。

 また、他人は自己のなかの記憶と印象に過ぎないということを味わい深く語っているのが、最後の3章のうちの2章だ。漱石はそこで実母について話しているのだが、しょせん母親といったって、僕の記憶にあるものだし強く脳裏にこびりついて消せない印象なんだけどねと、それとなく伝えんと筆をふるっているといえよう。この2章を「嗚呼、漱石のお母さんに対する愛情が溢れているな!」といった感情だけで読んでしまうと、他人とは記憶と印象に過ぎないという彼が辿りついた境地――だからこそ、その記憶や印象を善きものに出来るのは自分だけという境地、悪く見ることから離れるという境地――が見えなくなってしまうのだろう。


 (あらゆる友人知人が鬼籍に入っていくなかで)私はたった一人の当時の旧友を見出した。私は新富座へ行って、その人を見た。又その声を聞いた。そして彼の顔も咽喉のども昔とちっとも変わっていないのに驚いた。彼の講釈も全く昔の通りであった。進歩もしない代わりに、退歩もしていなかった。廿世紀にじゅっせいきのこの急激な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前に座りながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想に耽っていた。

 なんと言えばいいのだろうか。上手く言えないが、『硝子戸の中』で最も感銘を受けた部分だ。
 福岡伸一さんの著書に『変わらないために、変わり続ける。』というのがあるが、まさにそういう感覚か。その人の性格や本性は生涯変わらないとよく言われるが、この部分の場合、漱石が他者を鏡として自分の中に変わらない自己の本性を見出した瞬間の感動ともいえるし、自己と他者があってはじめて両者の中にともに存在する自然界の常住不変かつ普遍的な本性を見出せたともいえよう。だが、どうもその本性といえるものが何であるのかはわからない。
 常住不変かつ普遍であらゆるものに通底している本性といえるものなど、所詮、言葉にできないのだろうが、感じとることは出来るとでも読みとればいいのだろうか。

 余談だが、こうした漱石の感受性の鋭敏さを、宮元啓一は『ブッダが考えたこと』のなかで述べていたことを記しておきたい。宮元は先達の仏教学者らを辛口で批評して捨て去る潔い面も見せていたが、そうしたなかで、唯一仏教学者でない人を引きあいにだして、ゴータマと同じ境地に辿りついていたかもしれない人として、漱石をあげていた。
 漱石の残したのは「則天去私」――身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること――という言葉だが。 

ipsilon at 20:39コメント(0) 
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