小説『祈り――あるパイロットの物語』

2012年12月04日


 私がハンイツからの手紙の内容にくまなく目を通していると、ふいに傍らから優しい声が聞こえた。
「あなた、あなた……」
 それが聞きなれた、いつもなにかに怯えているような妻の声だと気づくのに、少し時間がかかった。
「珈琲、もう一杯入れましょか?」
 そのとき、私の感情の中に何があったのかは分からなかったが、それまで妻に対して抱いていた暗い雲が少しずつ払われていくのを感じた。
「あ、ああ」
「では、そうしますね。お手紙を読むのに熱中していたみたいで。何度か向こうから声をかけたんですよ。でも何もおっしゃらなかったので」
 そう話しながら妻は使い古された丸い銀のお盆に珈琲カップを乗せて立ち上がった。
「あ、そうだ。珈琲は止めよう。紅茶だ、紅茶にしよう。お前もここで一緒に飲め。いや一緒に飲もう。少し話もあるしな」
 そう私は妻の背中に声をかけた。
 妻は振り返り、少し怪訝な表情を見せた。
「そういえば、あれはあったかな? あれだ、薄いパイを重ねてカスタードを挟んだやつだ……えっと……」
「ミルフィーユですね?」
「ああ、それだ。ミルフィーユだ。あるのか?」
「困った方ですね、あんな手のかかるもの……。もうお店も閉まっていますし……、ちょっとお隣に声をかけて見ますか……」
「いや、そこまでしなければならんなら、別になくても構わんが……」
「大丈夫ですよ。お湯も沸かしなおさないとですからね。お隣にお伺いにいく時間くらいはありますから」
「そうか。それならばいいが」
「とにかく少し待ってください」
 そういうと妻は、少しソワソワとした空気を漂わせながら居間から出て行った。

 十分ほどたつと、妻はお盆に二つのティーカップと、切り分けられていない二人前のミルフィーユを乗せて戻ってきた。
「お待たせしました。お隣さん、昨日、大きなもの作ったんですって。そういえば、あちらはお子さんが多いですもんね。でも助かりましたよ。あなたが……」
 私は妻の長話をさえぎり、型どおりの礼を言ったあと、それまで手紙が占拠していた椅子をずらして、私の横に彼女を座らせて切り出した。
「ハインツとかいう男からの手紙のことだが……」
 それから私は、彼が直筆で書いてよこした便箋を妻に手渡し、ことの次第を長々と話したのだ。それまで誰にも話さなかった、あの痛ましい戦争の話をしたのだ。
 妻は、頷いたり相槌をうったり、時に笑い、時に嘆き、時に両手で口を覆って悲しみを表現していた。
 妻にこれだけの感情があったことに、私は驚きを禁じ得なかった。だが、そうではなかった。彼女にはそうしたものがあったのだ。
 出会った頃の十六、七歳の彼女はコロコロと笑い、にっこりと微笑み、そして時に激しく泣いたのだ。なぜ彼女が異常なまでに慎ましくなってしまったのか、私はその原因が解きほぐされていくような気がした。
 オトマールの話を終えたとき、私の目からも彼女の目からも、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。彼女は独りで悲しみに耐えられなかったのだろう、私の胸に頭を預けて暫く泣いていた。私も彼女の細い肩を抱き、泣きつづけたのだ。
 居間に漂った紅茶とミルフィーユの香りが、ふたりを優しく包んで抱擁していた。

 翌朝、目を覚ましたとき、妻はまだ横で眠っていた。
 どんなことがあっても私より早く床を抜け出し、朝食の用意をするのが常だったから、私は不思議な感覚を抱いた。
「おい、朝だぞ。そろそろ起きてくれないと困る」
 私は優しく妻を揺り起した。
「ああ……すみません」
 そういうと妻はゆっくりと起き上った。裸であることに気づいた彼女は、シーツを引き剥がして体に纏い、窓を開け放った。
 差し込む太陽の光に照らされて、金色の長い髪が風に揺れて光っていた。
 誰人も逃れえない時の流れが彼女の体にも見受けられたが、それでも充分に美しかった。光の中に立つ妻は天使のようでもあり、少女のようでもあった。
「まあ恥ずかしい! 何を見ていらっしゃるの」
 私の視線に気づいた妻は肩までシーツを引き上げると、床に散らばった服をかき集めて、小走りに部屋を出て行った。

 それから三ヶ月後、私はハインツの経営するファクトリーを訪ねた。それはブロッケン山の麓にあった。
 目的を今更説明する必要はないだろう。メッサーに乗るためだ。もう一度だけ、ただただ自由に鳥のように空を飛びたかったのだ。
 ハインツの顔にも時の流れを感じはしたが、彼にはもう戦争の影は見えなかった。十五年の歳月をかけて夢を追いかけた少年の輝きがそこにはあった。
 彼を囲む若い連中は生き生きとしていた。そんな連中に囲まれているハインツが少しだけ妬ましかったが、私は素直にそれを表現することが出来た。

「いい天気だな」
「ああ、絶好の飛行日和だ。雲はあるが、そんなのは良い余興になるだろうよ」
「お前は変わらないな。相変わらずがなる癖が抜けていない」
 私たちは大きく口を開けて笑いあった。
「さあ準備は整っているぜ。いつでもいける」
「それにしても懐かしいな」
 私は深い郷愁に駆られて、しばらくメッサーを撫でたり叩いたりしてまわった。
 どこを見ても完璧だった。迷彩塗装はあの当時のものそのものだったし、計器も何もかもがあの頃のようになっていた。勿論、三十年を経てドイツの空を飛ぶために必要な改修は施されていたが、余程の専門家でない限り、そんなことには気づかない見事なレストアぶりだった。

 装備を整え、コクピットに座った私にハインツが言った。
「無線は開けておけよ。お前だけ鳥になるのは許さんからな。せめて会話くらいさせろよな」
「ああ、適当にがなっていろ。そのほうがお前らしい」
「よし、それじゃー始めるか。始動だけは昔と違う。こいつはセルで一発でかかるようになっている。始動スイッチの場所は変わらん。ここだ」
「なあハインツ。俺がこの日のためにどれだけ準備してきたか分かっているのか?」
「あはは、そうだな。そうだろうよ。それじゃあとは無線でな」
「ありがとうハインツ。じゃ、いってくる」
 そういい終わらないうちに、ハインツはせっかちに風防を閉じてしまった。

 私は大きく息を吐き気持ちを落ち着けると、無線のスイッチを入れ、離陸の準備にかかった。
「よし、回すぞ。コンタークト!」
 ――キュルルルル、カラン、カラン、カラン、ブロッ、ブロップ、ブロローン……。
 排気管から青白い煙が爆発するように噴出すと同時に、プロペラが勢いよく回り始めた。
 とたんに全身に心地良い振動が伝わってくる。それは遠く懐かしい記憶を瞬間的に蘇らせた。
「いいな、いい音だ」
「まだあまり回転をあげるなよ。さすがに年期ものだから熱がまわって安定するまでは時間がかかる。古女房ってとこだ」
 ハインツのたちの悪いがなりが割り込んできた。
 彼の指示に従って暫くアイドリングを続ける。油音、油圧、燃圧とも安定してきたことを告げると、ハインツはそれを待っていたかのように言った。
「よし、じゃーブーストが正常かどうか確かめてくれ」
 私はスロットルをゆっくりと前後に動かした。
 それに連動してエンジンが唸りをあげ、プロペラが作り出した風がちぎれた草を吹き飛し、機首が上下に揺れた。
「大丈夫らしいな。充分安定してる」
「よーし、チョークはずせー!」
 私の視野の左右からファクトリーの若い男が現れて消えた。車輪止めが外されたことがわかった。
「よし、エーベルハルト、全てオーケーだ。あとはお前に任せる。自由に飛んでくれ」
「わかった。じゃー行ってくる」
 私は狭いコクピットの中からハインツに敬礼を送ってから、スロットルを全開位置に進めた。
 凄まじい爆音――全て俺に任せろ! エンジンがたてる轟音がそう怒鳴っているように聞こえた。頼もしい音だった。
 私はそれを確認すると、機首を滑走路へと向けた。
 ゴツゴツと下から突き上げてくる振動が無くなったのを感じた私は、即座に脚とフラップを引き込んで全力上昇に移った。
「おいおい、随分とせっかちな離陸だな。敵はどこにもいやしないぜ!」
 ハインツのがなりが聞こえた。
「ああ、わかっている。でもこれが俺の飛び方だ。お前も良く知っているはずだ」
「ふん。そうだな。正直お前が羨ましいよ」
「俺だってそうさ。お前の周りの若い連中。いい顔をしている。俺はそういう連中を育てられなかったからな」
「ああ、ありがとう。でもまだ遅くはないんじゃないか?」
 ハインツの意外な言葉に、私は思わず苦笑した。
「さあな」
 私がそれだけ答えたとき、私は視界いっぱいに広がる大空に心を奪われた。
 なんて美しくて静かなのだろう。俺はこの空で一体なにを掴んだのだろう。あの頃はああするしかなかった。そういう悲しい時代だったのだ。だが今はどうだ。この平和で例えようのない美しい空は。
 俺に何を教えてくれるのだろうか? 私は自分自身に問いかけた。

 白くぶあつい雲を何度か突き抜け、高度を上げる。
 時間の流れはあるはずなのに、こうして飛んでいるとそれすら感じなくなる無窮の存在。それが空だ。
 メッサーの高度計が六千を指した時、ハインツがまたがなった。
「おいおい、どこまでいくつもりだ? 天まで昇るつもりじゃないだろうな。その辺で勘弁してくれよ」
「ああ、わかった。初めからそのつもりだ。心配はいらんよ」
「ならばいいが。さて、それじゃー無線を一旦切るぜ。しばらくは一人で楽しむがいいさ」
「おい、話が違うが、それでいいのか?」
「フロイントシャフト・シュバーン。それが俺の気持ちだ。そういうことだ」
「ハインツ、ありがとう。心から礼を言うよ」

 それから私は、かつて戦いのために使った、ありとあらゆるアクロバティックな飛行を繰り返して、思いのままに空を駆けた。
 私はそのとき、間違いなく鳥になっていたのだ。えも言われぬ満足感があった、だが何か物足りない気がした。
 私は失速降下というとっておきの飛行を、までやっていないことに気づいた。
 よし、いくぞメッサー。こいつはお前にとってはかなり酷だが、俺もハインツもお前を信じ切っている。さあやるぜ、相棒。
 すでに私の愛機になったと感じたメッサーにそう呼びかけてから、操縦槓をグイっと引いた。
 メッサーは何のためらいも見せずに上昇し、やがて垂直に天を目指しはじめた。だがさすがのメッサーも息切れを起して徐々にスピードを落としてゆく。
 昇降計の針が止まったとき、鳥はほんの僅かのあいだ羽ばたくのをやめた。次の刹那、鳥は尾から落下をはじめたかと思うと、苦しさにあえぎながら、クルリと嘴を地上へ向けなおして降下をはじめた。
 その瞬間、それまで爆音を轟かせていたエンジンが唸ることをやめた。
 愛機を信頼し尽してした私は、一瞬なにが起こったのか理解できなかったが、すぐに事態の重大さに気づいた。
 ちくしょう、エンジンが止まりやがった! 再始動できるのか……。
 それまで満たされていた心に恐怖が忍び寄ってくるのを感じた。
「コンタクト!」
 そう声に出して始動レバーを動かした。だがエンジンは何の反応も示さなかった。どんどん降下速度が増している。
 あと2回も始動に失敗したなら……。
(エーベルハルト、弱音を吐くな! お前はあの戦いを生き抜いたんだ)
 私は冷静になれと自分に言い聞かせながら操縦槓を引いて、メッサーを滑空の体制に入れた。
 よし、もう一度だ。
「コンタクト!」
 今度は少し反応したが、それだけだった。プロペラが惰性で回るカラカラという虚しい音がした。
 大気を切り裂く音が次第に大きくなりはじめた。
 しまった! これではノッキングを起して再始動しずらくなるだけだ。
 そうは気づいたものの、高度の低下が気になった私は計器盤から視線を外して、大地を見た。
(なんだ! 何が起こっている!)
 私がそこに見たものは燃えるベルリンの街だった。
 私は幻覚を見ているのだと思い、目を閉じて頭を振り、再び大地を見たが、そこにはやはり赤々と燃える地獄のようなベルリンの街があった。
(くそ! もう駄目なのか!……)
 私がハッキリと死を意識したその時、誰かの声が耳を打った。
「そんなことよりエーベルハルト、昨日のポーカーの払い、忘れるなよ。あれは俺の久々の快勝だったんだからな。田舎のビアンカの……」
(アントン、アントンか! 何が言いたいんだ。俺はお前を裏切るようなことはしていないぞ!)
「ちくしょうー、風防が開かない。ちくしょう開きやがれ! いやだ、こんなことで死んでたまるか!」
(ホラント、ホラントか! あのとき俺に何が出来たっていうんだ! 俺を責めないでくれ!)
 私の脳裏を、メッサーの十字架と、祭壇に跪く妻のうしろ姿が重なるようによぎった。
(やめろ! やめてくれー!!)
「卒業だな。葉巻をくれ。一服やりたい」
(何をいっているんだ、ハインツ。俺は卒業などしないぞ! 死んでたまるか!!)
「おい、どうした! 高度の下がり方が普通じゃないぞ、おいエーベルハルト、何かあったのか!」
 無線のノイズに交じってハインツの声が聞こえた。
「エンジンが止まった! 再始動は試みたが、まだかからない。ヤバイんだ。」
「なんだと!……」
 ハインツの生々しい声を聞いて、私は現実感を取り戻した。だが、死の恐怖を振り払えない私には、まだ燃えるベルリンの街が見えた。阿鼻叫喚の地獄の炎に焼かれて逃げ惑う、女や子供、老人の姿もハッキリと見えたのだ。その時――
「大尉、大尉……」
 オトマールの優しい呼びかけが聞こえた。
「ああ、父さん、父さんそこに居たんですね。探してたんですよ……」
(オトマール。お前まで俺を責めるのか! 俺は、俺は、お前を愛したんだ。忘れたのか!!)
「母さん、何を祈っているのですか? ああ僕の…… じゃあ、僕もそこに行きますね。少しだけ待っていてください。一緒に……」
(一緒に……お前は一緒に何をしたかったんだ!? 教えろ、教えてくれー!! )
 再び、妻が祭壇に跪く姿が見えた。
(お前は、いったい何を祈っていたんだ……教えてくれ、頼む……一緒に……)
 その瞬間、私の心を何かが貫いていくのを感じた。
 わかった。わかったから。
 私はそう呟いた後、心を無にして考えうる限り最良の再始動の状態を無意識に作り出した。
「コンターク!!」
 私は、アントン、ホラント、ハインツ、オトマール、そして妻が祈っただろう祈りを込めて始動レバーを入れた。
 ――ガス、ガスッ、ブロップ、ブロロロロ!
 かかった!!
 大地はもう目の前だったが、そこにもう地獄はなかった。美しい緑の大地が見えた。
 操縦槓を引いてメッサー引き起こしたとき、ハインツのがなる声が聞こえた。


 ハインツのファクトリーとブロッケンの山に別れを告げた私は、三日ほどかけて、ゆっくりと列車で家路に着いた。
 心にじわじわと湧きあがってくる様々な感情は、全てこの世界への感謝の気持ちだった。
 汚れきっていたと思い込んでいた私の心のどこにこんな感情があったのかと、少しばかり戸惑いはしたが、私は素直にそれを受け入れて許した。
 だから私は、妻の待つ家に向かう途中の駅で、彼女に電話をかけたときも、すっとんきょうな声をあげたのだ。
「あなた、怒らないで聞いてください。あのですね……恥ずかしいことなんですが、私、私……妊娠したみたいなんです。お医者様が妊娠三か月だって……。お電話でお伝えするのは心苦しかったのですが……でも、私、私……どうしたらいいのか、わからなくって。独りでずっと泣いていたんです……ごめんなさい。ごめんなさい。私、泣いてばかりで……」
 妻は泣きながら長々と話し続けたが、私は相槌を打ちながら、ずっと彼女の声に耳を澄まし続けた。
 彼女のすすり泣きだけが聞こえはじめたころ、私は優しく話しかけた。
「何が恥ずかしいんだ。何も泣くことじゃないだろう。悲しいことじゃない。私は嬉しいし、私が嬉しいことはお前も嬉しいことじゃないか。もう泣くな。泣くなら嬉し泣きをしようじゃないか」
「ありがとう、あなた。私、あなたに出会えて良かった」
「ああ、もう電話が切れそうだ。小銭を用意しそこなったからな。あとは帰ってから話そう。すぐに帰るから」
 私は妻のすすり泣きが収まるのを確かめて電話を切った。
 それから彼女の泣き腫らしてぐしゃぐしゃになった笑顔を見るまで、そう時間はかからなかった。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま、ビアンカ。俺はお前に出会えて良かった。心からそう思っている。もう鳥であることなどどうでもよくなった。俺にとって一番大切なのはお前だと気づいた。そして、このお腹の子だ。アントンも俺たちを許してくれるだろう」
「ああ、あなた、あなたって人は……まだ……」
 ビアンカは最後まで話し続けられずに、少女のように泣き出した。
 私はそっと彼女の肩を抱きながら、お腹にそっと手を置くと、ビアンカは私の手に手を重ねた。
 どこからかミルフィーユの甘い香りが漂い、ロトキィエッシェンの囀る声が聞こえた。

――完――



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―#10―


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 戦争が私にもたらした傷は深かった。いや、今思い返してみれば、それは私が私自身にもたらした惨禍であったのだろう。
 戦後、世間は私のような人殺しを受け入れることはなかった。だから私はそうした人々に散々に虐げられた。しかしそれすら、私の中にあった自らの生きかたを肯定できないという心でもあったのだろう。
 そんな私に僅かばかりの光を与えてくれたのが、いまの女房だ。

 私は彼女に対して償うことのできない罪悪感を抱えていた。それゆえ惹かれてゆく感情とは裏腹に、彼女に近づくことを恐れた。彼女もまたそうであった。
 しかし私たちは会って語り合う時間を重ねゆくなかで、恐れというものに折り合いをつけ、共に暮らすことを選んだのだ。だからといって、お互いの暮らしの中から罪悪感を消し去ることなど到底できなかった。
 それはいつも私たちの間に横たわり、音もなく呻いたり軋んだりし続けた。声なき苦悶は私たちをやつれさせ、疲れさせ、苦しませた。女房の顔に刻まれた深い陰鬱な皺、そして私の顔に刻まれた怒りや憤怒といったものが、何よりも明確に夫婦生活の破たんを物語っていた。

 何よりも、私が厭だったのは、女房が慎ましいほど信心深かったことだ。彼女は日々みすぼらしい祭壇に跪き祈りを捧げた。何か大きな悩みにぶつかると彼女は、ただひたぶるに祈っていた。
 青春という貴重な数ページを戦うことだけに費やした私からすれば、それは何の意味もないことに感じられた。女房のそうした背中を見つけると、私は抑えきれない怒りに襲われ、祭壇を蹴り飛ばした。みすぼらしい祭壇はなおさらみすぼらしくなった。
 そうしたことは何度も繰り返されたが、ふと気がつくと、祭壇はキチンと整えられ、いつも供物が捧げられていた。
 終いには、怒ることさえ馬鹿らしくなり、いつからか彼女の背中を見ても、何かを感じることすら無くなっていったのだ。

 冷え切った暮らしの中に、もし希望を求めるとしたら、それは子供という存在だったのだろう。だから私たちも、それなりに体を重ねあい、偽りに似た愛を確かめあった日々もあった。だが希望が芽生ることはえなかったのだ。
 女房に対してさえそうだったから、私はかつて共に戦った男たちとの糸をたぐるようなこともしなかった。
 そんな生活が、三十年以上も続いたある日のことだった。

「あなた、ハインツさんて方、御存知? お手紙が来ていましたよ」
「ん? ハインツ? そんな名前の男はドイツにはいくらでもいるだろう。どうせ何かの勧誘かなにかだろう」
「ええ、私もそう思ったのですが、随分と分厚いお手紙だったので、一応あなたに、お話しておこうと思ったんですよ」
 妻はそういうと、食卓から立ち上がり、一通の手紙を私の手元に置いた。
「ハインツ・フロイントシャフト・シュバーン。なんだこの名前は……。これは偽名だろう」
「私もおかしな名前だとは思ったんですよ。名字としてはありえないんじゃないかと……」
 私はその手紙への興味をすぐに失って、そのままテーブルに戻した。
「まあいい。食事が先だ。さめてしまっては味気がなくなるからな」
「そうですね。でも、気が向いたら読んでみてはいかがですか?」
 妻は私の表情を伺いながら小さな声でそう言った。私は何も言わず、手を動かしはじめた。
 それっきり妻との会話はなかった。ナイフとフォークと食器が立てる、ガチャガチャという音だけがダイニングに響いた。
「珈琲は居間で飲む、悪いが運んでくれ」
 私はそれだけ言うと、新聞と妻が渡した手紙を掴みテーブルを立った。いたたまれなかったのだ。

 居間は私にとっては、この家で最も居心地の良い場所だった。あの忌々しい祭壇さえなければの話だったが。
 それでも私はそこが好きだった。無駄に広かったとはいえ、その広さに心が安らいだのだ。狭苦しい操縦席で味わった閉塞感がまだ体のどこかに沁みついていたのかもしれない。
 私が腰かけた椅子とテーブルの横には小さなキャビネットがあり、その上にはスタンドに納められた写真が幾枚か立ててあった。それは妻の祭壇へのささやかな抵抗でもあったのだ。
 新聞を読み終えた頃、妻が珈琲を乗せたお盆を抱えてやってきた。
「ああ、ありがとう」
「いいえ」
 私は珈琲を受け取ると、空になったお盆に新聞を乗せた。妻は何もいわず静かにキッチンへと戻っていった。
 窮屈だった。なぜあいつはこうも俺に従順なのだ。湧きあがる怒りを抑えようと、私は大きく溜息をついて、嫌な気持ちを振り払うように、乱暴に手紙の封を切った。


親愛なるエーベルハルト様

なんて書き出しをするものなんだから、形式はなしでいくぜ。
俺だ、ハインツだ。憶えているか? 憶えていないとは言わせないぜ。
俺がメッサーの計器盤に挟まれた時、真っ先に飛んできたのはお前だった。
そのお前が俺を忘れたなんて言わせないぜ。

そんなことより、随分と苦労したんだ。お前を探し出すのにな。
何度か病院に見舞いに来てくれたのに、いきなり来なくなったときは死ぬほど心配したんだぜ。
もっとも、お前が死ぬたまだなんて、思っちゃいなかったがな。
だが、風の便りでお前が生き残ったと知るまでには、十年もかかった。
俺だって苦労した。自分のことだけで精一杯だったんだ。
でもな、ある日、何かが足りないって思ったんだ。お前なら何となくわかる。
俺はそんな風に考えた。で、必死になってお前の居所を探して手紙を書いたってことだ。
まあこれにもたっぷり時間はかかった。他にも色々とやることがあったからな。

話は飛ぶが、お前、もう一度メッサーで飛んでみたいと思わないか?
俺は思ったんだ。馬鹿な男だと思うだろうが、俺は本気だ。
だけど、俺の足はご存知の通りのありさまさ。
今、俺の周りには飛べる連中が幾人かはいる。
だけど俺は考えたんだ。俺の夢を叶えるのは、俺とあの時代を知る男じゃなきゃ駄目だってな。
それで俺はお前に白羽の矢を立てたってわけさ。

俺は十五年かけて飛べるメッサーを手に入れた。
お前にその気があれば、奴はいつだって舞い上がれる。
どうだ? やるか?

返事は焦らなくてもいい。お前が色々と抱えて生きてきたであろうことは、俺にも解るつもりだ。
だけど、期待して待つ。
俺はお前を信じるぜ。

忘れじの友、エーベルハルトへ


                      ハインツ・フリートヘルム・ジークベルト


追伸 封筒の名前はちょっとした冗談だ。
だけど、そこには俺の気持ちが込められている。
笑うなよ。エーベルハルト。



 束になったその他の手紙は、ハインツが経営するファクトリーについての詳しい説明や、メッサーのフライトマニュアル、そして私が鳥になるために必要な書類の申請書などだった。
 私は唖然としながら、キャビネットの上にあった色褪せた写真を手に取った。
 そこには、田園風景の向こうに霞むブロッケン山があった。

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―#9―


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2012年12月03日


 連日続く激しい戦いは、私たちにひたすら眠ることをもたらした。
 昼であっても、私たちは陽だまりの中で眠り、木陰で眠った。時折、敵パイロットの怯える顔が眠りを妨げたが、それでも二人は眠ることを貪った。そんな日が二週間も続いた。
 疲れ果てた心は、目の前で起こっていることが夢なのか現実なのかすら分からなくさせていた。私たちはとうの昔に限界を通り越していたが、それでも飛び続けたのだ。

「今日は多いな、二百機はいるだろう」
 その夜は、ベルリンの空を覆うような大編隊に遭遇した。
 いったどこから攻撃すればいいんだ。
 私は懸命に敵編隊の隙を探していた。必死なのは私だけではなかった。
 広域無線はいつも以上にうるさかった。
「おい馬鹿野郎。どこを撃ってるんだ。俺は味方だ。高射砲。撃つんじゃねーよ!」
「ちくしょう、喰らった。もうだめだ!」
「こいつめ、いったいどれだけ喰らえば落ちるんだ。落ちろ、落ちろ、落ちやがれ!!」
「脱出だ! 脱出しろ!!」
 阿鼻叫喚の巷の中で私は敵編隊の隙を探していた。
「あったあそこだ!」
 敵爆撃隊も混乱している。高度差をとって大量にばら撒いた焼夷弾が、味方に当たって編隊が崩れ出したことに私は気づいた。
「オトマールいくぞ。いつも通りやれ! いいな!」
 そういうと私は、崩れ落ちる編隊に機首を向けた。
 常にフットバーを蹴り、機銃弾を避けながら、高度の低い敵機から順番に銃撃を続けた。
 三機目を銃撃した後、速度の低下を感じて、私は退避に移った。
 オトマールはどこだ? いつもならついてくるはずの機影が見えなかった。
「おいオトマールどこだ? どこにいる?」
「大尉。数発喰らいました。でも大丈夫です。大尉を見失ってはいません」
「わかった。とりあえず退避だ。降りられるだけ降りる。ついてこい」
「はい、大尉」
 私は敵機のいない方向を嗅ぎだし、そこへ機首を向けた。
 目の前には轟々と燃える街があった。激しい上昇気流が機体を揺すったが、私はそれを本能的に利用しようと考えたのだ。
 後方にオトマールの機影が見えた頃、私はスロットルを緩めて、彼の横に並んだ。
 致命的な損傷を受けていないことは一目でわかった。
「大丈夫か? 基地まで飛べそうか?」
「大尉。大丈夫です。でも頭がやたらと熱いんです。それになんだがヌルヌルして気持ちが悪いんです」
 私はドキリとして隣を飛ぶG10のコクピットの風防に目を走らせた。そこにはどす黒い染みがあった。
 私はオトマールが負傷していることを読み取った。
「おい、大丈夫なのか? その傷で基地までもつか?」
「わかりません、大尉。それよりなんだか疲れました」
「なにを言っている。俺はお前をつれて帰るぞ」
「大尉の顔も前も良く見えないんです」
 私は心を締め付けられた。それまで一度も聞いたことのない、オトマールの弱音を耳にしたからだ。
 何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
 二機のG10は炎に焼かれ気流に煽られながら、ゆらゆらと揺れた。
 ――しまった! 時計塔だ!
 私は眼前に真っ赤に燃えながらそびえる時計塔を見た。
「オトマール前方に時計塔がある。避けろ!!」
「…………」
「おい、オトマール聞こえてるのか? おい、オトマール!」
「ああ、父さん。父さんそこに居たんですね。探してたんですよ」
「馬鹿野郎! 俺はお前の親父なんかじゃない! 気をしっかりもて、オトマール!」
「ああ、さっき僕が悪さをしたから怒ってるんですね……。ああ母さん、そんなところにいたんですか……」
「おい、オトマール! 避けろ! 避けるんだ! そいつはお前のお袋なんかじゃない! ただの時計塔だ! 操縦槓を引け! スロットルを開けろ! フットバーを蹴れ、右でも左でもいい、蹴れ! 蹴るんだ!!」
「母さん、何を祈っているのですか? ああ僕の……、じゃー僕もそこに行きますね。少しだけ待っていてください。一緒に……」
「オトマール! 避けろ! 操縦槓を引け! スロットルを開けろ! フットバーを蹴れー!!」
 私はあらんかぎりの声をあげ、絶叫した。その瞬間、時計塔に巨大な火球が膨れ上がるのを見た。
 オトマールの生命の時計はそこで止まってしまったのだ。

 私は泣いた。それまで幾人もの友を失ってきたが、一度たりとも泣いたことなどなかったというのに。
 涙で何も見えなかった。もう戦争も、生きることも、鳥であることも、何もかもがどうでもよかった。だから、そのあと私が何をどうして生き延びたのかすら憶えていない。
 気が付いたとき、私はあの森と湖の飛行場の近くに不時着していたということだけだ。それは鳥の帰巣本能だったのかもしれない。
 翌日、ヨーロッパの戦争は終わった。

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―#8―


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 私が薄暗い整備ハンガーで、ペンキや刷毛と格闘していた時、オトマールが声をかけてきた。
「大尉。こちらは済みました」
「そうか早いな。こっちはこの有様だ。ちっともはかどらん」
 作業着の袖で額に垂れてくる汗を拭った私を見て、オトマールはクスリと笑った。
「大尉。顔にペンキが」
「はは、そうか。俺は昔からこういうのが苦手でな……」
「手伝いますよ。刷毛を貸してください」
 そういうとオトマールは、私の持つペンキで汚れた刷毛を避けるような手つきで指差した後、手袋をしはじめた。
 オトマールの手際は見事だった。子供の頃から父親の後を追い、部屋の壁や柱、庭にあるベンチなどを修理したり塗り直したりすることを手伝ったとは聞かされていたが、私は彼の見事な筆さばきに少々圧倒された。
「空軍に志願して、まさかこんなことが役に立つとは思いませんでしたよ」
 オトマールは腕を動かしながら言った。
「たいしたもんだ。俺など、絵ひとつ描けない」
「そのようですね。この機首にある鳥は一体なんですか? カラスですか?」
「ふん。そう見えるか?」
「だとしたら不吉ですね」
 そういうとオトマールは小筆をとり、サラサラと流れるように筆を動かしはじめた。
 出来上がった鳥は見事だった。鶯色の両の翼を軽く開きながら尾を立て、橙色の顔にある眼光は鋭く、黒い嘴を大きく開いて全身で囀る1羽の鳥の姿がそこにあった。
「ロトキィエッシェン(ヨーロッパコマドリ)です。それにしては、すこし大き過ぎますがね」
 そういって立ち上がったオトマールは満面の笑みをたたえていた。

 こうして二機のG10は完全な夜間迷彩を纏った。
 国籍標識とレターコード以外を塗りつぶした、デュンケルグリュン一色の機体は不気味ではあったが、機首に描かれたロトキィエッシェンの絵が、その不気味さをすべて吹き飛ばしているように見えた。
 そしてその日から、 私たちはロトキィエッシェン・アイン、ツヴァイというコードネームで空を駆けたのだ。

 その夜から、過酷な戦闘が始まった。
 日暮れとともに待機ピストに入り、敵機情報が入電されしだい、私たちは飛び立った。
 フルスロットルで漆黒の空を、高度六千メートルまで駆けあがりながら、ベルリンへと向かう。時間にして僅か五分のことだった。だから敵機を逃すことはなかった。
 幸運なことに二機のG10はスーパーチャージャー付の最新型のDB605DCという心臓を持つ、最速のG型だった。そのうえ、プロペラ軸内に装備されたモーターカノンは三十ミリ砲であったから、巨大な爆撃機に対しても有効な爪を持っていたのだ。小型の戦闘機であれば、数発当たれば致命傷を与えるうる鉤爪だ。
 ベルリン上空に到着すると、燃える街の災と、サーチライトに照らされた連合軍爆撃機の黒々とした腹がハッキリと見て取れた。

「オトマール、右上にいる。ゆくぞ!」
 私は陽炎にゆらめく爆撃機の黒い腹を下から突き上げるようにして突進した。
 影が照準環からはみ出るまで近づき、機首の十三ミリ機銃二丁と、三十ミリモータカノンの引き金を同時に引く。青白い曳光弾の筋が敵機に吸い込まれてゆく。
「大尉。左になにかいます」
「了解」
 私はすぐさま引き金から手を離し、スナップロールしながら急降下へと移った。オトマールがあとに続いた。
 敵機の行く末を見届ける暇などない攻撃を何度も繰り返す。

「左下戦闘機らしきもの。機数わかるか?」
「四機、いえ八機います」
「よし、一番左のをやる。続けー!」
 今度は二丁の機銃の引き金だけを引く。
 とどめを刺せたとは思えなかったが、すぐさま左にバンクを切り、今来た方向へとひるがえす。
 今度はオトマールも銃撃したようだ。少し遅れて私を追ってくるG10の機首にロトキィエッシェンのマークが見えた。
 深追いせず、高度を失うことをためらわず、降下で速度を稼ぐ。
「左上、爆撃機、います!」
 オトマールの冷静な声が聞こえた。
「そいつはやりすごす。距離も速度も足りないようだ」
「はい、大尉」

 果てしなく続くように思える、狂ったような機動と銃撃。しかし、それには終わりが用意されていた。弾切れというやつだ。
 私は引き金に何の反応も示さなくなった銃撃を終えると、即座に帰投のコースを取った。あの森と湖の基地まで、十分あれば済む。
 その夜は、こうした戦いが四度繰り返された。四度目の着陸を済ませた私たちは、ただただ泥のように眠った。
 私とオトマールの顔や体に、疲れがしのびよるのに、そう時間はかからなかったのだ。

(つづく…… 前へ 次へ 第一話へ この記事の最初に戻る

―#7―


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 ノルトハウゼンからポツダム近郊のヴェルダーまで、私たちは二時間かけて飛んだ。
 昼間、G10の巡航速度をもってすれば一時間もかからない距離だった。だがもうそんな無茶がまかり通る状況ではなかったのだ。
 宵闇であれ暗闇であれ黎明であれ、目を光らせて襲ってくる、連合軍のレーダー装備機がどこかに潜んでいたのだから。そんな中を青い排気炎をたなびかせて、悠々と飛ぶことなど出来ようはずもなかったのだ。
 私たちは山に沿い谷を這い、地上スレスレを飛びつづけた。一時間を過ぎた頃、オトマールの飛行に感嘆した私は、翼端灯を消した。オトマールもそれに倣った。
 機上無線機は常にさえずり合い、二羽の鳥は会話を楽しんだ。さらされた危険を考えれば、ありえないようなさえずりだった。私は愉快だったのだ。ただ飛ぶことが愉快でたまらなかったのだ。

 日の出の朝焼けがはじまる頃、私たちは無事に滑走路の土を踏んだ。
 そこは森と小さなアルペンによって巧みに隠ぺいされた小さな飛行場だった。
 北を望めばグリンドアー湖、東を望めばシュビーロー湖が視界に広がっていた。
 シュビーロー湖上を北東に進路を取れば、ポツダムの街が見え、その先にはグリューネヴァルトがあった。そこはもうベルリンの郊外だ。
 ペェツォフからグリンドウへと、北西方向に伸びた滑走路は少々やっかいな代物だった。
 隠ぺいという理由から、路は途中で緩やかに湾曲していたのだ。それゆえ、着陸はこの珍妙な滑走路のせいで、いつもグリンドアー湖の北西に続くグローセルプレッソヴェル湖方向から進入せざるを得なかったのだ。
 私はすぐにそこが気に入った。それまで過ごした基地では味わえなかったものを、僅かの期間であれ感受できたことに感謝したのだ。
 日ごとに変わる美しい青とも緑ともつかない湖水。森と小さなアルペン。そこに触れることも、足を運ぶことも出来なかったが、私はそれを満喫した。
 鳥になった私が感じたこうした大自然の悠然とした姿とは裏腹に、人間の世界は悲惨を極めていた。
 ただひとつ救いがあったとしたなら、それは鳥の心を知ったオトマールという若い少年が傍らにいたという事実だろう。

 基地は荒くれ者だらけだった。ドイツの敗北は人間たちの敗北でもあったと思う。すでに戦う気力をなくした者。狂信という信仰に憑りつかれた者。一人一人を眺めれば小さな違いはあっただろう。だが、大きく分ければ2つのグループがあったと私は感じた。
 性懲りもなくあきらめの悪い連中。自分があきらめていることすら知らず、ただ逃げ出す時期を見計らっている連中。そのふたつだ。
 私とオトマールはそのどちらにも属さなかった。鳥が鳥であることを投げ出さなかっただけだ。

 それでも任務は過酷を極めた。すでに命令系統すら破たんしはじめていた空軍に、指揮統制などありはしなかった。
 私とオトマールは、ただ自分たちの身を守りながら、祖国ドイツとベルリンの女子供を一人でも多く救うために力の限り戦ったのだ。
 それを止める権利は誰にもなかった。だから、私たちは私たちの飛べる時に戦いの空へと舞いあがったのだ。

 初めの三日間ほどは、地形確認やら戦場偵察に時間を費やしながら毎夜ベルリンへと飛んだ。
 連日爆撃を受けていた巨大な都市はいつもどこかが燃えていた。低空で飛ぶG10を襲った火災の上昇気流は凄まじく、機体がグラグラと揺れた。
 連合軍の爆撃機は百機単位で空を覆っていた。敵機を追い求める数十条のサーチライトが不気味に空を舐め、間断なく高射砲の音が響いていた。
 私たち以外の戦闘機隊も見かけたし、それを襲う連合軍の戦闘機隊も当然見受けられた。
 広域無線から聞こえる声は、そうしたサーチライト部隊や高射砲隊、戦闘機隊や夜間戦闘機隊員たちの怒声と罵声で常に満たされていた。混乱した闇夜には調和も統制もなかった。
 そこにあったのはサイレント映画のような、地獄の光景であり、耳をつんざくばかりの地獄の狂騒曲だったのだ。

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―#6―


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