小説・短編『愛すべき女神たち』

2012年12月25日

 若葉しげれる季節。名前も知らない草木から、黄緑色の芽がはち切れんばかりに萌えだしていた。公園はひといきれのような温かい空気を感じさせた。頬をなでた風は陽だまりがつくりだした恩恵であったが、人々はそれに気づかず、ただその風を素肌で感じ、服を揺らし、今というときを輝かせていた。

「晴れてよかったね。テルテル坊主はつくらなかったけど、昨日、ちょっと祈っちゃったんだ」
ハナはシンジを見上げていった。
「祈ったのかよ? 祈ったんだ……」
「うん」
十代後半がもつ、燃え尽きんばかりの溌剌さでハナはうなずいた。
 それまでシンジを見つめていた瞳が一瞬見えなくなり、わずかに肩にふれるストレートの髪が揺れた。天使の輪がそれに合わせて踊り、瞳がまたシンジの目の中に戻ってきた。
 猫のようにまあるい目。夢中になっていることを感じさせない目。かといって無関心でなどありえない。訴えかけてくる視線は、ニャンダよ! という、他愛のない物欲しげな気持ちが宿っているように見えた。
「小学生の頃作ったな。遠足の前の晩にね」
「いつからだろう、作らなくなったの。なんていうか、リアリストになった。大人になったって思う」
 ハナの笑顔がうってかわって真顔になった。
 大人になるという道はずっと続いているように思える。でも、子供時代から歩いてきた道のりを身近に感じることもない。中途半端でありながら、それでいて自分はある。確実にある。間違いなくここにいる。そういう信じられるべき自分があることが嬉しい――微妙なんだよな。この感覚――という、ハナの生真面目さをのせた表情を見たシンジは、――それって、そんなに真剣に考えること? もっと単純に楽しめばいいと思うんだけどなあ……――と、なんだか可笑しくなって、笑い出してしまった。
「えー! そこ笑うとこー! ちょっと酷くなーい」
「だってさあー」
「おいこらー。許さなーい。今日はお昼抜きだぞー」
そういってハナは、眠い目をこすりながら作ってきたお弁当がつめられたバスケットを、風のように揺らした。
「ていうか俺、朝飯も食ってないんだよー。それだけはマジ勘弁!」
「よーし、それなら私を捕まえてみなさーい」
それまで側で漂っていたハナの香りが薄らいだ。
「そしたら、おべんとあげるー!」
ハナは振り向きながらシンジから離れてゆく。背は小さく、華奢な四肢がすぐに芝生に溶け出した。色白で、時々こちらを振り向く紅潮した顔には愛すべき若さが湧きたっている。こうしたコントラストがなければ、シンジはすぐにハナを見失ってしまいそうだと感じた。
「ていうか、べんとう揺らすな。美味しくなくなる」
「じゃー捕まえてよ」
ハナは意外と強情だ。両腕を後ろにまわして、両手でバスケットを持ち、いつでも逃げ出す体制はくずさない。
「だめー腹ペコでそんな元気なーい。とりあえずなんか食べよう」
「仕方ないな。とりあえずなんか食べるか」
ハナの声が近づき、やがて香りも漂いだした。
シンジの横にはハナのいつもの笑顔があった。
「じゃ、とりあえずなんか食べよう!」
「でも、弁当は?」
「これは、お昼。少しお腹に入れないと、散歩もできなさそうだしね。誰かさん」
「だね……」
「あ、あそこにお店あるよー!」
ハナはそう言うと、シンジにバスケットを渡して、小走りに駆けだした。初めて来た公園とは思えない軽やかな足取りで。
 人波に紛れてしまうことで、見失いそうなハナの背中を追いかけながら、シンジはバスケットに視線を落とした――俺、朝から弁当でも全然大丈夫だったんだけどなあ――と。
 それからシンジは視線を泳がせて、色とりどりな洋服の立ち木の中に、ハナを見つけ出すと、急ぎ足で歩きだした。風が心地よく頬に当たるのを感じながら。

 そのピアノの音色はガラスのように冷たくもあったが、決して心を傷つけない音だった。店の外が雨であるからだろうか、そう感じられるのは。そうではないだろう。子供時代から音楽に傾倒してきたシンジには、良くわかったのだ。楽器自体が持つ甘美さや高貴さとは違う、包み込むような強さと優しさがあったのだ。
 オトとの出会いは意外性に満ち溢れていた。どうしてこんな場末の店で彼女が才能を眠らせているのか、シンジにはわからなかった。
「シンジさん。来てたのね」
 目の前に置かれた琥珀色のグラスを眺めながら、物思いに耽っていたシンジの耳にオトの声が響いた。
 サテン生地で仕立てられたブルーブラックのロングドレスを纏った姿はピアニストです。無言でそう訴えるだけの空気感があった。背は高く体の線は細いとは言えなかったが、しなやかに肩から伸びた腕は、ピアノのを弾くために生まれましたという顔つきをしていた。
「今日はショパンだったんだね。珍しいこともあるもんだ」
オトは悪意のない冷たい笑顔を見せながらシンジの横に座った。
「私の弾きいたい曲を弾けるわけじゃないからね。いつものこと。お店のイメージに合わせてるだけ。……なにか頂いてもいい?」
「もちろん」
「じゃ、ウーロン茶いただきます」
「乾杯〜」
「想像できないんだよねー」
「え? なにが?」
オトは安心したような顔をシンジに向けて聞き返した。背中に垂れたオトの波打っている髪が静かに音を立てた。
「オトちゃんがさ、グールドとか、ラフマニノフが好きだとか、激しい演奏が好きだとかってのがね」
「みんなはそんな風に思ってないと思うよ。もっともそういう話をしてるのはシンジさんだけだけどね。でももうあまり激しいのは弾けないしね」
オトは、悲しそうに視線を落としたが、彼女の目に宿った強さが消えることはなかった。
「怪我したんだっけ? やっぱりそんなに違うもの?」
シンジはオトが当然うなずくであろう質問をしたことを後悔したが、聞かずにはいられなかった。
「違うね。リハビリはしたんだけど、どうしても昔みたいに動かないんだよね。でもさ、ピアニストって案外変態的なところがあってね、ほらここ……」
そういってオトは自分の指の付け根を指差した。
「ここに水かきみたいのあるじゃない」
「うん」
「ここを切ってさ、指が開くようにする人もいるんだよ」
「マジでー? そこまでするんだあー。凄いね……」
「あたしには真似できないな。なんでかわからないけど、そこまでしたいとは思わないんだ」
「昼間はピアノ教室で先生してるんでしょ。子供たちに教えたりしてるんでしょ。それは楽しいの?」
「どうなんだろうね。あたしがこんな風に夢をあきらめたからかな。生徒の真剣な顔とか、楽しそうにしてる顔見てるのはちょっと辛いかもね。でも食べるためには仕方ないって感じかな」
「そっかー」
シンジはかけるべき言葉を失った。声を立てるかわりに、思い出したように口もとに運んだグラスで声を殺した。なにか考えようとしたのだが、何も浮かばなかった。

「シンジさんてさ、早い時間とか空いてるの?」
「空いてるといえばあいてるね。自由業だからね」
「そっかー、じゃあ練習時間に来てもらってもいいね。そしたら、シンジさんの好きな曲弾いてあげられる」
「え? 練習するのに、店に早く入ってるってこと?」
「うんそうだよ。私からしたら、当たり前のことだよ。ピアノも一台一台違うし、環境もそれぞれ違うからね」
「なんだか不公平を感じるな。他の子はそうじゃないだろうし」
「まあ色々あるよ。……それよりさ、聞きたい曲とかある?」
「ラ・カンパネラとかは?」
「むりむりー。あれは無理。指が開かないし、連打のところは力がいるからね。練習不足で筋力も落ちちゃってるんだ。怪我するまえは弾けたんだけどね。でも営業中には弾けないような曲は聞けるよ。多分ね」
オトは少しとがった顎をゆっくりとあげると、口元を緩ませた。シンジと眼があったとき、オトの目は優しく嬉しそうに微笑んでいた。光に透けた淡く茶色味がかった髪も嬉しそうに歌っていた。
「こんど練習時間においでよ」
その眼には強い意志があった。打算や妥協のない強い光があった。しいていえば――私は貴方を信じています。私には貴方が必要です――そういう眼差しだった。
「いつでもいいから電話して。それで日にちを決めればいいでしょ」
「うん、わかった」
「あ、そろそろ時間だ。また弾いてくるね」
「ごちそうさま……」
オトはグラスを合わせてから立ち上がった。グラスの硬質な音と、ドレスの衣擦れが和音を奏でた――ちょっといってくるね。でも待っていてね――シンジはオトが作り出した和音にそんな気持ちを聞いたきがした。
 薄暗い店内を照らすオレンジ色の照明が弱まり、やがて強く優しい、オトの弾くクリスマスソングが聞こえてきた。

「わー、すっごーい! ねね、凄いね、シンジ」
「うーん、これは広すぎないか?」
結婚を前提に同居を決めた二人。部屋探しは楽しみのひとつであった。将来は共働き。そんな予感をかんじながら、日々の生活の波に飲まれたり飲まれなかったりする毎日。マイペースで部屋を見て回る休日は二人にとっては、貴重で大切な時間だった。
「一応、ご説明は終わりましたので、私は外でお待ちしておりますね。心ゆくまでご覧ください」
しっかりとスーツを着こなした男がそういって、二人の側から立ち去っていった。

「おー、ここがリビングー。そしてここが寝室ー。そしてそしてー、ここがダイニングキッチンかー。すごーい!」
「なんか気に入ったみたいだね」
「うん。でもまだゆっくり見るよ」
「はいはい、じゃ俺は窓から何が見えるかみてくるかな」
「はいはーい、いってらっしゃーい」
シンジはミミの太陽のような明るさが少し苦手だった。ショートカットの髪はいつも手入れがゆきとどいていた。黒髪の上から重ねられた赤い染髪料が作りだす色は、彼女の表情をよりいっそう明るく見せた。いつも笑顔でハキハキと話す。感傷好きなシンジとは対極にあるようなミミ  どうして俺はミミを選んだのだろう? 世界の七不思議にさえ匹敵する――シンジの中では、時々そういう気持ちがコロコロと音を立てることさえあった……。

 十代後半に出会ったハナ。二十代後半に出会ったオト。そしてミミ。
 とびきりの美人。そういう意味でいえば、シンジの中ではオトは絶世の美女だった。声を出す所作も、歩く姿も、ピアノを弾いていたオトも、宝石のようであった。ときにエメラルド、ときにルビー、ときにダイアモンドのように輝く美しさがあった。しかし、オトの本当の魅力はそこにはなかったのだ。
 ハナ。はじけるように純粋な素行。気をつけていないと、居所を見失ってしまいそうなほど活発だったハナ。しかし気がつくと、ハナはシンジという中心軸から決まった距離を保っていた。ただただ今を楽しんでいるのがハナ。シンジの目にはいつもそう映っていた。そんなシンジは、ハナの本当の良さに最後まで気づけなかったのだ。

 ミミ。とてもお喋りなミミ。少し垂れた大きめの瞳を落ち着かなく動かして、――これでもか!――と心の真ん中に向かって話しかけてくる。目とバランスのとれた、これもまた、大きめの口が閉じられると、シンジは底知れない不安を感じる――もしかして、怒ってる?――そんな恐怖にも似た気持ちを抱きながら、冗談を飛ばしてみる。とたんに遠慮なく口をあけて心のままに笑い出すミミ。
 窓から見える風景に不満はなかった。暮れゆく街はいつにも増して美しかった。見慣れていないせいなのか。いや、見慣れていても見る者の心ひとつだろう。いつしか感傷的になっていたシンジは、自然とミミのことを考えはじめた。中肉中背。細くもなく、太っているわけでもない。いってみれば典型的日本人。奇妙な癖があるわけでもない。どうしても受け入れられない部分があるわけでもない。だからといって理想かといえば、そうはいいたくない気持ちが、ずる賢く湧きあがってくる――別に不満はない! そう、この窓から見える景色と同じだ。不満はないんだ。朝がきて夜が来て、季節は巡る。ミミだって俺だっていつまでも同じじゃない。いったい何を基準に理想というんだろう? 俺にはわからない。もう考えるのはやめよう……――。

「ここが換気扇で、ここがレンジ置くとこね。うーん、流しが少し狭いなあー。後ろはどれくらいあるんだ?」
ミミが二、三歩下がろうとしたとき、背中が何かにぶつかった。
「ん? お、シンジ。もういいの?」
「充分見た。俺は満足。ここでいいんじゃない? 金額的にも、通勤距離的にも、ここならお互い問題ないでしょ」
「まあね。でも駄目。もっと良く見るの」
そういうとミミはまた自分の世界に戻っていった。

 ――なんであんなに拘るんだろ? 意味不明。直感型の俺。なんでも納得するまで検分するミミ。こうもちがうニ人。まるで月と太陽。当然太陽はミミで、月は俺だ。出会ってはいけない二人が出会ってしまった気がする――物思いに耽れるようにと、シンジは無意識に、まだ爽快感あふれる初夏の息吹が感じられる窓際にじっくりと陣取った。

「ダイニングはー、やっぱ四人掛けのテーブル置きたいよなあー。なんとかなりそうかなあ?」
ミミは歩きながら広さを確かめている。
「待てよ。キッチン狭いから冷蔵庫はここに置かないとか? ビミョー!」
せわしなく動き回りながらも、どこか落ち着いていて冷静な様子。
「まあいいか。ちょっと何か飲みたい。そんなときは、むしろ冷蔵庫は、ここにあるほうが便利だろう」
女性ならではの視点ともいえるが、ただの面倒臭がりとも思える。
「でもあれか、ここに冷蔵庫あるとあれか? 太る原因を置いておくということか!」
やはり女である。食べたいという気持ちと、スリムでありたいという気持ちを戦わせている。
「でもシンジ基本めんどくさがりだから、いっか……」
どうしてそこで俺を持ち出す。人のせいにするな。でも――そういう妥協が出来るのがミミの良いところだ――協調性といえばいいだろうか。
「いやいや、駄目だろ。ほっとくと何も食べないんだから、あの人は。こんな所に冷蔵庫あったら、食べたいものしか食べなくなるからね。やっぱり冷蔵庫はキッチンだなー」
思いやりがあるのか、束縛されているのか、微妙な感じだ。

「ごめーん、お待たせ。ちゃんと見て来たよ」
「みたいだね、でどうするよ?」
「ん? シンジにおまかせ〜!」
「え?」
ありえない展開になった――どういうこと? それならあんなに一生懸命検分する必要なかったんじゃないの?――ミミの考えていることが理解できなかった。シンジは少し混乱しはじめていた。
「とりあえず、一回出るか。それで、歩きながら話そう。多分そのほうが冷静になれるでしょ」
「うん、いいよ。じゃ、いこ〜」

 二人は部屋をあとにした。
「でさ、一応物件三個見たけど、どこが一番気に入ったの?」
「んん? どこでもいいよ。シンジに任せる」
 ミミはそういうとシンジの腕にしがみついてきた。ミミの真意が理解できかねたシンジは、まじまじとミミの表情を伺おうとした。
 そこには、し・あ・わ・せ・! という満面の笑みを浮かべたミミがいた。

「どうもお疲れ様でした!」
シンジの目の前には理想的な美人が、制服らしきものを着て座っていた。テーブルを挟んでいなければ意識が朦朧とするような美人だった。彼女の胸には名札が揺れていた――黒木 音子――名札にはそう書いてあった。
――ああそうか、そうだったな……――。
シンジは音がくぐもる世界から脱しようと、ヘッドフォンを外してテーブルに置いた。
「お疲れ様でした。喉も乾かれたでしょう。冷たい珈琲です。どうぞ」
声の主は、音子と同じ制服に身を包んだ痩せた小さな女性だった。混乱してくる世界を押しとどめようと、シンジは彼女の胸についているであろう名札の位置に目を走らせた――若葉 花絵――そう書いてあった。
 朦朧と混乱が行き来する世界から脱しようと、シンジは頭を激しく振って、アイスコーヒーを流し込んだ。良く冷えた液体が喉を通る感覚と、唇に振れた氷の痛いような刺激で、ようやく事態がつかめてきた。
「ありがとうございます」
軽く息を吐き、落ち着きを取り戻したシンジはハッキリした声で、音子にでも花絵にでもなく、その場所に礼をいった。
「少々混乱されているとは思いますが、皆さんそうですから、大丈夫ですよ。お客様は安定している方です」
「そうですか。それならばいいのですが……」
「失礼します。ヘッドフォンとモニターの方、片づけますね」
また別の女性が視野に入った。シンジはもう驚かなかった。そして名札にあるだろう名前もおおよそ予想がついた――庭野 美々――思った通りだった。
それでもシンジは冷静になりたくていった。
「これは誰でも少しは混乱するでしょう。でもなんとなくシステムは理解できました」
「そうですか。それは良かったです。中には私の顔、というよりも名札を見た瞬間、逃げ出すお客さんもいらっしゃるんですよ。お客様は、格別落ち着きがありますよ」
音子はそこまでいって少し間を開けると、続けてこういった。
「これは嘘じゃありません。本当です」
そういって強く優しく、なまめかしくも美しい微笑を向けてきた。
シンジは今すぐここを逃げ出したい気持ちになった。
「あ、今日は実はこのあと用事があるんです。ですので……」
「そうですか、それは残念です。もう少しお時間があれば、しっかりと当会のシステムをご紹介できるのですが」
「あ、ああー、それはこの次で。また来ます」
それだけいうのが精一杯だった。体は火照り、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。シンジは立ち上がって歩き出した。
「お客様、そちらではありません。お会計はあちらです」
音子はシンジが歩きだしたのとは反対の方向に案内した。白く美しい腕からのびた、手のひらの先にある指はきっちりと揃えられていた。一点たりとも非の打ちどころのない音子の仕草に、シンジの心は激しく脈打った。

「本日はご利用、ありがとうございます」
カウンターの女性は美々だった。屈託のない声と笑顔。美々のもつ個性にシンジは安らぐ思いがした。
「あ、お客様! 忘れ物です」
どこからか声が風にのって聞こえてきたかと思うと、無邪気に走ってくる女性らしき姿がぼんやりと見えた。彼女は傘を大事そうに抱えてシンジの側にやってきた。花絵だ。
「しっかりされてるように見える方に限って、こうなんですよ」
そういって花絵は爽やかな笑顔をはなった。
「あ、ありがとうございます。それではまた」

 外に出たシンジは大きく息を吸った。湿った雨の匂いがした。干からびて崩れてしまいそうだった五体に雨が沁み入り――今日も一日お疲れ様でした――そんな風にいってくれている気がした。
 考えてみれば、今朝は食事もとっていなかった。そして今は夕方だ。まだほのかな明るさが残る街が、やたらと温かく感じた――そうだ、そうだった。俺は午前中から……――そこまで考えたとき、胃腸が空腹を訴えてきた。
 傘をさして歩き出すと、すぐにズボンの裾が濡れだした。不快ではなかった。この現実感は素晴らしい――確かに今日であった女性は誰もが魅力的だった――がしかし、彼女たちに好感を持つのは簡単ではないだろう。そんなふたつの気持ちを抱えながらシンジは振りかえった。
 視線の先には、まだ照明の落とされていない店先と、前衛的なデジタルサインが見えた。
『バーチャル結婚相談ルーム――あなたの幸せは、絶対ここにあります!』

「いつものことだけど、音やり過ぎだと思うよ」
美々が口をとがらせて不満を漏らした。
「なんでよ? 私は出来る限り理想の女であろうとしただけよ」
「だ・か・ら、それがやり過ぎだっていうのー!」
「美々こそなによ。お・ま・か・せ・ってさ。気持ち悪いわよ……。女はね。自己表現するのが理想よ。私はしっかりもの。このアピールが大切なのよ」
「だから、あなたの場合、それが行き過ぎてるっていってるのよ。三歩下がってついて行く。でもちゃんと四歩前も見ている。それが理想の女よ」
「まあまあ、なに〜? またいつもの言い争い〜?」
花絵が割ってはいってきた。
「花も花よ。なにあれ? お弁当とかさ。全然今風じゃないじゃない。その古風なのやめなさいってば」
「ちょっと何いうの? あの年代はあれが普通でしょ。少なくともアタシはそうだったわ。それにねー、愛情は手作りにあるのよ。でもね、それをひけらかさないのが優れた女ってものよ」
「時代錯誤……。もっと勉強しなさいよ。大体あなたはさあー……」
美々が言い返した。
「……」

 女神たちは、それぞれに理想の女性を目指している。しかしそれが世の男性諸氏に伝わるかどうかは微妙な問題だ。
 その証拠は、彼女たちの痴話喧嘩が、とっぷりと暮れた街に、ずっと響き続けたことをもって推し量るべきだろう。
 ひとりの男が何を見つけ、何を理想とするか。それもまた問題なのである。
 その日まで、女神たちの小さくて愛らしい仲たがいは続くのであった……。
 月も太陽も彼女たちに優しく微笑んで、いつまでも眺めているのだった。

〜完〜


8526文字(文庫本約11ページ分)

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