小説・短編『婚約指輪が壊したもの』

2013年01月09日

 まさか、別れの原因があんなところにあったなんて。
 有頂天。朝日が昇る冬山の頂に立って眼下を眺めやる。荘厳な風景は普段踏みしめている場所があったことなど一瞬で忘れさせてしまう。
 天峰から下界を見下ろすと、四方八方にたなびく叢雲むらくもの壮観さに目を奪われる。いやそれ以上に心を魅了される。なにか大切なものを搾り取られそうになる。
 人知れずに裏庭で背を伸ばす、可憐で、好ましく、愛おしい名前さえ知らない一草ひとくさ。その萌黄色の先に花が咲くのかさえわからない。それでも水やりだけは欠かさなかった。
 ある日の昼下がり、萌黄色の先に、いじらしくて小さな花を見つけたときの嬉しさときたら……。
 のぼせ上がっていたぼくの彼女が、山の天頂に立ったとき。それを見過ごすことがあったからといって、ぼくが彼女を責められるというのだろうか。そんなことなど出来やしないのだ。

 陽子はいつも目を細めながら話す。そういう類の女だった。よく笑い、よく泣き、よく食べ、眠けに素直で、優しい女だった。
 ぼくがそれまで出会い、打たれてきたものとは異質の光を放っていた。暖かく、心地よい。
 そうした陽の光がぼくの心を育てたであろうことは否定できない。だから婚約という道へと足を踏み出したのだ。
 でも、そこが十字路であることに、ぼくは気づかなかったのだ。

「あー、緊張するな……」
 ――時間はあまりないし、過去にこんな経験もない。でも、今日じゃないと駄目なんだ。そう、今日は大切な記念日なんだからね――。
 言葉に出した分とは比べ物にならない気持ちを抱えて、高級ブランド店がテナントを並べる百貨店の自働ドアが開くのを待った。
それからぼくは、フロアーをぐるりと回ってから、一番品揃えが豊富らしいジュエリーショップの一角に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませー!」
 ――あ……こういう展開は苦手なんだ……――。
「お探しものですか?」
 美しく着飾った貴金属店の女店員が近づいてきた。
「あ、いえ、ちょっと見たいだけなんで……」
「何かお探し物など、ありましたらお手伝いしますよ」
「いや、あのー、少し自由に見させてもらっていいですか?」
 それだけいうのがやっとだった。
 女店員の香水が、やたらとかぐわしい。
 それ以上こっちに来られると冷静でいられなくなりそうだった。
 なんだか不似合な場所にいる浮遊感があった。だけれども、そこから逃げ出すわけにもいかなかったのだ。
 もともと宝飾品のデザインに興味があったぼくだけに、盛り上がったり、シャープな線を描いている様々なリングを品定めしているうちに、それとなく普段の自分を取戻しはじめた。
 ――あんまり派手なのはなあ……。かといってカマボコみたいにシンプルすぎるのもね……。できればボリュームはあったほうがいいんだけど、重いのも突起があるのもね……。何時も嵌めているってことを考えると、やっぱりシンプルでありながらデザイン性がある。そういうのがいいな――。
「指輪ですか?」
 女店員が落ちつきなく靴音を響かせながら、また声をかけてきた。
「あー、まあ、そんなところですかねー」
 香水の銘柄がわかるほど強く香った。女店員がつけている腕輪がぶつかり合う音が微かに聞こえた。
「彼女さんにですか?」
 ぼくは思わず金属音を撒いた主を見あげた。そこには満面の笑みをした女店員の顔がぽっかりと浮かんでいた。
 特別ぼくのタイプだったわけではない。だけれども次の瞬間、首の付根から頭の天辺まで熱くなっていくのを感じた。
「あ、ああ、まあ、そんな感じです……」
 二つ三つと目星を付けていた指輪のありかが記憶から消失した。
 今では女店員の服が擦れる音が聞こえるほど、彼女はぼくの近くにいた。
 グレーの千鳥格子が織り込まれたベストの上に、ぺろんと出しているブラウスの襟が妙に白く見えた。
 ――別に悪気はないだろう……。ただ仕事だから客であるぼくに声をかけている……。それだけのことだ……――。
 嫌な気持ちはしなかった。ただ気恥ずかしかったのだ。男が一人で婚約指輪を選びに来ていたことにだ。
 もっとも女店員はそんなことなど知らなかったのだが……。
 それからぼくと女店員は幾ばくか言葉を交わした。でも、何を話したかは全く憶えていない。だが、その会話がぼくの腹を据えさせたことだけは明らかだった。
「いや、あの、婚約指輪を買おうかなー、とか思って……」
 ぼくはそう白状した。
「あらまあ、それはおめでとうございます」
 女店員の美笑が顔に収まりきれずに零れだした気がした。
 あーでもない、こーでもない。こちらなんかは? あちらなんかは? 半分自由を奪われた気分になりながら、ぼくは女店員とショーケースの間をしばらく歩き回った。
「これ、いいですね」
「あーこういう、シンプルでありながら、デザイン性もあるものは少ないんですよ。確か……、これは一点もののはずですね」
 女店員は高い靴音をさせて何かを探しにいった。残りが香を置いて。
 ぼくはひとり、白金で出来た大小二つの指輪をまんじりと見つめた。
 骨ばったぼくの薬指と、陽子の少々肉付きのよい柔らかそうな指にそれが嵌っている絵が頭の中で描かれた。 繋ぎ合わされた手はこの先離れることはないだろう。感傷が湧きあがる。
 その時、またあの強い香りがした。
「お客様、やはりこれは一点ものです。注文生産しかしていないデザインですね」
「てことは、サイズが合わないと駄目ってことですか?」
「それなら大丈夫ですよ。号数がおわかりであれば、サイズ直しも出来ますし、お時間を頂ければ、新規にご注文も可能ですから。……お直しですと、そうですねー……一週間ほど。ご注文ですと二、三週間ほどかかりますね」
 パンフレットでも見てきたのだろう。女店員はすらりすらりと言葉を繋いでさらりさらりと流れるようにそう言った。
「え……、そんなに時間がかかるんですか……」
 ぼくは自分の迂闊さを呪った。しかし、今日という日にすることを諦めようとは、毛頭思わなかった。
「いまあるサイズはいくつといくつですか?」
 女店員は腰に下げていた金物の束で辺りの空気をかき混ぜるような音をさせてから、ショーケースを開けてしゃがみこんだ。
 急に彼女の存在が小さく感じだしたことに、ぼくは少々戸惑った。
「えっとですね。今あるのは16号と11号ですね……」
 ――確かに今日という日は大切だ。しかし、サイズの合っていない指輪を買うのも気が進まない――。
「あ、16号のほう、嵌めさせてもらっていいですか?」
「はいはい、構いませんよ。どうぞ」
 女店員はぼくの手のひらに鈍く光る指輪を置いた。
 軽かった。想像していたことを裏切るくらい軽かった。こういうものなのかな? ぼくは奇妙な気分になった。
 だが、その指輪はぼくの薬指にはぴったりだった。手を表にしたり、裏にしたりしながら、しばらく眺めていた。
 ――問題は陽子だな。11号だと、ぼくの小指サイズか……。陽子の薬指どれくらいだったかなあ?――。
 指輪の嵌っていない自分の小指を穴が開くほど見やった。
 ――太いな……。陽子の薬指はこれより細かったはずだ……――。
 色白でつるりんとした愛らしい指がすぐに目に浮かんだ。
「えっとー、もし今日これを買って、あとでサイズ直しをお願いするとかって、出来るんですか?」
 ぼくは指輪を外そうとしながらそう聞いた。
「あ、しばらく嵌めていて結構ですよ。その方が感じが掴めますので」
 女店員はもう零れ出る笑顔が尽きてしまっているのに、まだ慎ましく笑っているような顔でそういったあと、ぼくの質問に答えた。
「で……サイズ直しの件ですが、そういったことはアフターサービスに含まれますので、大丈夫です。ご安心ください。……ただ、あまり時間が経ってしまって細かな傷などがついてしまいますと、新規注文して別のサイズの新品と交換するのが困難になります。ですのでサイズが合わなかった場合、なるべく早めにいらして頂ければ、お取替えも可能です。もしそうできない場合でも、サイズ直しはいつでも承れます」
 再び、女店員のすらりすらり、さらりさらりと流れる言葉が川のようにぼくの側を下っていった。
「じゃー、これを下さい!」
「ありがとうございます!」
 それから、ぼくは女店員の後を追ってレジに行き、薬指から白金の指輪を外した。
 二つの不揃いの指輪は青い天鵞絨ビロードが貼られた小箱の中にちょこんと座ってから姿を消した。
 キラキラと白く眩しい光を投げかけるプラチナベースの指輪。
 内側の輪から浮き上がった彫刻はいささか間隔をおいて斜めにカットが入っていた。
 微妙なカーブを伴って盛り上がった部分は、細かな砂を勢いよく当てて仕上げられた、サテン地になっていた。
 柔らかく優しい控え目な光は、砂地の部分が作り出していたのだった。

 ぼくはとっぷりと日の暮れた街をバスの車窓からぼんやりと眺めていた。景色が流れているのに、実感がない。だからといって何も見ていなかったのでもない。ぼくは空想の世界にいたのだ。
 そこはやたらと明るかった。白をベースとした内装。店内は蛍光灯の光で満たされていたが、天井の高さがそれを感じさせなかった。それよりもぼく達に近い部分にあった間接照明の淡いオレンジ色の光が二人の心を和らげているように思えた。
 真鍮調に仕上げられた、アールデコ風のシャンデリアと呼ぶには貧弱な照明器具がいつも僕らの訪問を喜んでくれたのだ。
 何度も足を運んだ店内だ。目を閉じなくともインテリアを想像することは容易だった。
 薄いミントグリーンのテーブルクロスの上には、荒く編まれた木綿のナプキンが乗せてあった。その上には銀色のフォークとナイフ。そしてスプーンとティースプーンが何時も仲良く並んでいた。
 緑色の部分にも白い部分には、いくつもの料理が置かれていた。彩りが目を引く大きな皿に盛られたサラダはいつも二人の間にあった。
 今夜もそういう食卓を見るのだろう。そして、そこから目を上げれば、微笑みかけてくる陽子がいるはずだ。
 肩より長く伸びた髪は、ぼくと彼女が一緒に過ごした時間そのものだった。もちろん、何度も切り揃えていたから、陽子のしなやかな黒髪だけから、ぼくたちが積み上げてきた時を語りつくすことなど、とてもできなかっのだ。
 もう少しで彼女の声が聞こえそうになったとき、誰かが押したブザーの音で、ぼくの空想は台無しにされてしまった。でも、怒る気になどなりはしなかった。次の停留所が目的地だったのだから。

 タラップを降りて外に立つと、冬を目前に控えた夜気に迎えられた。でも、寒さは全く感じなかった。湯船に漬かっているかのような心に引かれたぼくはアファルトを軽く蹴り続けた。
 夜の帳が降りた街中にぽつねんと佇んでいたレストランに着いたとき、約束の時間はまだ先にあった。
 手ごたえのあるガラス張りの扉を押すと、カウベルのような鐘の音と、店員の声が同時に聞こえた。
「いらっしゃいませー!」
 背の高い男店員と形通りの会話を交わし、席に案内された。
 もちろん、陽子はまだ来ていなかった。
 ぼくは熱い珈琲を注文して彼女が来るのを待った。
 陽子が店内に入る前からぼく達はお互いを見つけられた。だから、陽子は迷わずにぼくのいる席に小走りでやって来た。
「ごめーん、お待たせー!」
 普段と何ひとつ変わらなかった。遅刻したことを謝るかのように陽子は明るい声でそういった。空想とは違う存在感がぼくの心の中にじんわりと湧き起こった。もちろん時間に遅れたことを責める気など微塵もなかった。
「まずは何か食べるか? 夜ご飯まだでしょ?」
「うん、お腹ペコペコー!」
 二人はメニューを捲ってお互いに風を作りだした。
 何もかもがつつがなく進んだ。時が逆らわずに二人に寄り添っているようだった。
「あー、お腹一杯。これ以上食べたら死ぬー!」
「ちゃうやろ! 太るーだろ!?」
「いいの、少しくらい!」
 確かに陽子は太った。出会った頃より大分とだ。幸せ太りというやつだ。そんな風だったから、空気が緊張することなどなかった。
「でも、デザートは別腹なんだろ?」
「当ったりー! さて何を頼もうかな……」
「あ、珈琲頼んどいて。ちょっとトイレいくわ……」
 ぼくはそういって席を立った。
 別にその場所に用があったわけではなかった。胸の中で幾編も書き綴ってきた筋書のどれが一番いいのか?
 そうした重要な問題を人気のない場所で再度確認したかったのだ。
 ――着飾ったような言葉って好きじゃないんだよね。そもそも「愛してる」とか言うのもいやだし。陽子が言って欲しいという「君は僕の宝物」。それだって口にしたこともない。言葉は虚しいんだよ……。よし、ぼくはぼくらしく。……やっぱそれでいいかな。陽子が言葉にして欲しい。そういう類だってのは知ってはいるんだけどね……。でも無理……――。
 普段より丁寧に手を洗って、じっと鏡の中にいる自分を見つめた。シャボンの匂いがした。ぶんぶんと音と立てて換気扇が動いている音がした。
 跳ねた髪を少しだけ直してから、タオルで手を拭いた。その時ばかりは、いつも感じる家庭とは違う糊が効きすぎた硬さや肌寒さが手から沁み入ってくることはなかった。
 ぼくは小さく息を吐いてからポケットをまさぐった。そして小さな小箱を取り出したあと、席へと戻った。
 陽子は窓外の景色を眺めていた。だが、ガラスに映ったぼくを見つけ出すと、すぐにこちらを向いた。
「あ、これ……。あげるよ。……大したものじゃないけどね……」
 そういって、ぼくは青い天鵞絨の小箱を彼女の前に置いてから、長椅子に体を滑り込ませた。
 あまり高価ではないだろう合皮革が面白そうだなあという音を立てた。
「なに? え? 指輪? えー?」
 陽子は突然のことに瞳を大きく開いてから両手をあげて驚きを表現した。
 ぼくの視線は、彼女の茶色の双眸と口元辺りを彷徨っていた。
「婚約指輪……」
「え!! ええ?………」
「開けてみて……」
「うん。……嬉しいー!」
 静かに蓋を開ける彼女を傍目にしながらも、ぼくは自分の指輪を鞄の中から取り出した。
 陽子は満足いくまで凝視しただろう。そう判断できたとき、ぼくは笑顔を作ってから言った。
「ほら、おそろい!」
 そういってぼくは小箱の中に半身を埋めた指輪を彼女に見せた。
「やーん! 恥ずかしいー!!」
 陽子ははち切れんばかりの笑顔を見せた。そして、喜びがどこかに飛び去ってしまわないようにと、赤らめた頬を両手で覆った。
 それからぼくは、宝飾店で女店員が説明してくれた内容を陽子に坦々と語った。
「嵌めてみなよ」
「うん」
 彼女は指輪を落とさないようにと、慎重につまみあげると、左手の薬指にゆっくりと通してから言った。
「おっきい!」
「…………」
 ぼくには何の不安もなかった。こういうことは予想していたからだ。むしろ、包み隠さずにいてくれた陽子がたまらなく愛おしかった。
「ごめんね。サイズ知ってたような知らなかったような感じだったからさ。自信なかったんだ。……でも、どうしても今日にしたかったから、今日一人で買いに行ったんだ」
 ぼくは女店員が言った――近日中なら、返品して別のデザインの物を選び直しに来て下っても構いませんよ――という事を思い出しながら話しつづけた。
「どちらにしろ一回一緒にお店に行こうよ。……なにしろ、今日にしたかったからさあ。急いだから、こういうハプニングになったしね……」
 その夜は、陽子の誕生日だったのだ。
「ううん。いいの。……これでいいの。違う違う。……これがいいの。……少しおっきいけど貴方が選んでくれた、これがいいの」
 ぼくはもう何も言うつもりはなかった。
「ねえ、これ高かったんじゃない? お金……大丈夫なの?」
「そんなこと心配するなよ。それにそんなに高くなかったしね……」
「借金とかしてないよね!」
「もちろん、してないよ」
「貴方のお金で買ったんだよね!?」
「うんそうだよ……」
「ローンとか組んでないよね?」
「いつも通り、ニコニコ現金払いです」
「…………」
 そこまで話したあと、我を忘れたかのように興奮していた陽子は、少し冷静な顔をしてぼくの腕に触れた。
「ありがとう! すごく嬉しい。お礼言うの忘れてたよ……。ありがとう!」
 それから彼女は、幼い頃から婚約指輪と結婚指輪に抱いてきた物語を長々と話し続けた。
 ぼくと陽子は――結婚指輪は一緒に買いに行こう――と、その場で固く約束しあった。
 深夜まで営業していたイタリアンレストランで、ぼく達は閉店近くまで華やかに言葉を交わしあったのだった。

 あのとき、陽子は有頂天だったのだろうか? それはぼくにはわからない。
 ぼくはどうだったのだろうか? 有頂天だったわけではない。そうだと言える。そうだと思える。実際、そうだったのだから……。
 それからしばらくして穿たれた光りの届かない溝。ぼくと陽子の間に横たわった深い溝。
 ぼくたちはそれを埋めることが出来なかったのだ。
 それは恐らくぼくの責任であり、陽子の罪なのだろう。
 
 結局ぼくは、「あの時、君に言われた言葉で深く傷ついたんだ……」と、陽子に告げることはなかったのだ。
 そしてぼくは、最後まで彼女がどんな本心からああしたことを言ったのかを聞きだすこともなかったのだ。

――完――


6,916文字(文庫本約9ページ分)

 


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