小説・短編『凧の糸』

2013年01月17日


 その男の前には階段があった。一段一段登りきったときに見える風景。そこから何が見えたのか? その光景こそ男が立っていた場所そのものであった。

 判田慈子はんだよしこは残業で終えて帰宅を急いでいた。冬枯れた街路樹には葉がなかった。吹きすさぶ風さえ見えない寒い夜だった。凍てつきを抑えようと、白く美しい首筋はマフラーでしっかりと包まれていた。
 慈子の住んでいたのは閑静な住宅地だった。太陽が顔を見せているあいだは、気まぐれな天使に遊ばれて笑う人声に満ちていた。しかし、夜はまた別の顔を持っていた。月に惑わされた者を生んだのだ。
 普段であれば、通いなれた道という安心感もあって、不気味さなど感じはしなかった。だが、その夜は違ったのだ。
 やたらと自分のヒールの音が耳につく。街燈と街燈の間が妙に長く感じる。いもしない猫が裏路から飛び出してくる気がする。そんな夜、慈子は男に襲われたのだ。

 強盗強姦及び致死罪歴あり。前科三犯の男、天地四郎あまちしろうにである。そうした罪を犯した人間が辿り着く場所が留置所であり拘置所であり、その先が刑務所である。
 慈子は男を心底憎んでいた。だから、その男から葉書きが届くことなどありえない。そう思っていたのだ。
 誰かしら? 天地四郎? てんち? ……いや、これはあまち、、、ね。 名前はしろうよね。なんだかふざけた名前ね――慈子がその男にもった第一印象だ。
 葉書きを裏返すと一行だけ言葉が書かれていた――言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。私はそうなろうと努めています――そうあった。
「最近は勧誘も解り辛くなったわね……ご苦労様なことで……」
 慈子はそう思って葉書きを新聞の間に挟んだ。腕の辺りには“あの時”受けた傷跡がくっきりと見て取れた。
 それから二、三週間おきに、同じような葉書きが届くようになった。例のごとく、裏面には聖書や仏教の言葉などが一行書きされていたのだ。
 慈子は不気味さを感じた。結びつけたくない糸を結びつけざるを得なくなってきたのだ。あの男……。恐怖のあまり顔さえ憶えていないあの男。思い出したくもない……。あの男なのかもしれない……。
 いてもたってもいられなくなった慈子はその日、会社に休暇を申し入れて弁護士の元を訪ねた。

「ええ、それはお教えできますが、大丈夫ですか? なにしろ事が事ですからね……。知らないままにしておいた方が良い場合が多いのですよ」
 鼻眼鏡の老弁護士はそう言った。
「いえ。名前くらいなら平気です。それにもしこの葉書きの差し出し人があの男であるなら……。それがはっきりさえすれば、受け取り拒否も出来ますので」
「それはそうですね。ではお教えしましょう……」
 案の定であった。言葉にならない恐怖と、ぼやけた風景がはっきりと見えた安心感の入り混じった複雑な心境が湧きあがった。
 なぜこんな事をするの? 謝れば許されると思ってるの! 冗談じゃないわ! あたしは……あたしはね……アイツに同じ恐怖を味あわせてやりたいのよ!! そうよ、殺してやりたいくらい憎いのよ……でもそれは出来ない……。
 慈子は路上に紙の雪を降らせた。冬はもうとうに過ぎていた街に冷たい雪が積もった。
「これでいいわ……。アイツから葉書きが来るたびに、あたしはこうして怒りを晴らすの。これでいいのよ」
 儀式はそれから何ヵ月も続いた。季節は廻りまた冬がやってきていた。

 意の3つ、口の4つ、身の3つ。この十悪を殺すことに努めています。
「なによ! こんなもの!! 殺すってなによ! 殺してやりたいのはこっちよ!!」
 しかしその日、慈子は葉書きを破ることが出来なかった。
 なぜ泣いたのか。なぜ泣きたくなったのか。何がどうなっているのか。慈子にはわからなかった。だが、零れ落ちる涙を押し止めることが出来なかったのだ。
「……どうして、どうしてよ! どうしてあたしが責められてるって感じるのよ! どうしてよ……」
 慈子はこじんまりした庭で膝を折って崩れた。隣家の婦人が気味悪がって覗いていたが、気にも止めなかった。
 あたしが許せば、あなたは救われるっていうの? じゃああたしはどうなるの! このあたしの心と体についた傷はどうなるっていうの! 答えてよ……。答えなさいよ!!
 振り仰いだ空は霞んでいたが、抜けるほど青い冬空だった。糸に繋がれた凧が頼りなく浮んで風に揺られていた。
 
 それでも慈子は天地からの葉書きを受け取ることを拒否しなかった。そして、頼りが届くごとに一人だけのお茶会を開く新たな儀式をはじめたのだった。
「この糸はいったいどこに繋がっているの……。この糸を切ったならあたしはもう苦しまないというの。これはあの男の執念なの? それともあたしの執着? 忘れられない怒りや恐怖なの? 糸はどこに繋がってるっていうの……」
 生来、慈子は生真面目な女だった。だから彼女が思想や宗教の専門書を開くまで、そう時間はかからなかった。天地から送られてきた一文は全て調べ尽くした。時には雪になった断片の記憶を辿ることさえあった。
 何かを変えなければいけない。燃えさかるような衝動に憑かれた慈子がそこにいた。

「ねえ、ヨッシー。今日みんな定時みたいだから、このあと食事でもいかない?」
「あ、あたし、ちょっと用事があって……」
「またー。……最近ほんと付き合い悪いわね、慈子。昼休みも本に齧りついててさ。あんたちょっと変よ。……まあいいけどね」
 その夜、慈子は弁護士に会いに行った。
「本気ですか? もうお忘れになったほうがいいですよ……」
 老弁護士は前にもまして眼鏡をずらしてそう言った。
「はい。会って……というよりは顔を確かめたいんです。アイツだ……そう確信できるかはわからないんですが……」
「……まあ、どうしてもと言うならば、手続きはいたしますが……」

 慈子が天地を見たのは、それから一ヵ月後のことだった。
 灰色の囚人服に身を包み、丸刈りにした頭を傾けて、その男は煙草をふかして笑っていた。
 その顔をみた瞬間、その眼を見た瞬間、慈子は悟った――間違いない。あの男だ――と。
 同時に激しい怒りを感じた――笑っていやがる。アイツが笑っていやがる。許せない――と。
 天地はそれから顔を上げて、空を仰ぎ見はじめた。彼の周囲には誰もいなかった。
「もう結構です」
 慈子はそれだけいうと、血が抜けたように白くなった拳を握りしめて、その場所を後にした。
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、天地の瞳に何かを見た気がしたが、それを正視したいとは思わなかったのだ。

 それから数年間、慈子の生活は平穏だった。同僚達との時間も楽しめるようになり、隣家の婦人とも仲良くなっていた。だから、儀式のお茶会と入浴という時間以外は、苦痛を感じることもなかった。まだ充分に張りもあり、艶もある肌。そこに残った傷跡は体の傷であり。お茶会ごとに垣間見たのは心の傷であった。
 慈子にとってはその二つで充分だったのだ。天地との繋がりは。
 しかしある日、そんな関係を崩す出来事が起こったのだ。
 天地に死刑の判決が下りたということを老弁護士から聞かされたのだ。慈子は動揺した。激しく動揺した。
 確かにあたしは天地に酷いことをされた。そしてそれは一生消せないかもしれない。それ以前にアイツは他の人を殺している。でも、あたしは殺されたわけじゃない……。なんなのよ、この気持ちは。なによこれは。わけがわからないわ!! もうあたしをこれ以上苦しめないでよ!! いい加減にしてよ!! 誰か……誰か助けてよ……。
 涙は枯れてしまっていた。また冬がやってきていた。庭は真っ白な雪に覆われていたのだった。
 重みで頭を垂れた灌木からドサリと一塊の雪が落ちる音が聞こえた。
 もう一度会おう。話なんてとても出来ないけど、もう一度会おう。でないと、あたしは後悔する。そんな気がするのよ……。
 慈子はすぐに弁護士に連絡を入れて、手続きを依頼した。
 老紳士はもう何も言わなかった。

 その朝、ポストを開けたとき、慈子は葉書きを見つけた。
「貴女様と私が、真の幸福を得て、解脱の道へ導かれますように」
 裏書にはそうあった。
 あなたは死ぬことが幸福だっていうの? あたしがこのままで幸福だっていうの? 真の幸福って何よ? 回りくどいこと言わないで教えてよ! どうしてあなたはいつもそうなの。教えてくれればいいじゃない……。天地四郎。あなたは狡いわ。そうやって黙ったまま死んでいくのね……。
 慈子は昼過ぎに天地と再会を果たした。とはいっても、陰から囚人服の男の表情を伺っただけであった。
 空は二人を嘲笑うように晴れ渡っていた。天地はまた空を振り仰いでいた。
「彼ね。随分変わりましたよ。来た頃は酷かった。まるで反省の色なし。よく暴れて独房入りしてましたよ」
「…………」
 慈子はただ頷きながら刑務官の話を耳にしていた。
「でもね、聖書とかお経なんかを勉強しはじめましてね。変わったんです。ここにいる連中の中じゃ一番の勉強家になっちまったんです。……ああも人間が変わったのは珍しいんですよ。それも、刑が決まる前にね……」
「…………あの、これどう思いますか?」
 慈子は朝届いた葉書を刑務官に見せた。
「この、真の幸福って何だと思います? 解脱って……」
「……そうね。幸福なんて人それぞれ。解脱もそうでしょう。教義的にいえば答えはあるんでしょうけど、自分で考えるしかないんじゃないですか。あの男みたいに……」
 そういって刑務官は天地の方に顎をしゃくった。
 慈子の視線の先には、済んだ目の男がいた。別に笑っているわけではなかった。であるのに、そういう空気を感じたのだ。
「あたし……。許せるような気がしてきました……。まだ時間はかかりそうですけど……」
「それは良いことじゃないですか。しかしあの男は許されなかった。死をもって許すと言えるんですかね。償えるというんでしょうかね。少なくとも私はそうは思わんのですよ。……まあ世の中、あなたのような心の広い人ばかりでもありませんから、本当はこんな事を口にすることさえ憚るんですがね……」
「そうですね……」
 慈子は白い世界で紙の雪を散らしている自分の姿が目に浮かんだ。その時だった。
 それまで空を見上げていた天地がいきなり動いたのだ。
 ポケットから紙片を取りだし、握るのさえ大変そうな短い鉛筆を取りだして何かを書きつけているのだ。
 そしてそのあと、紙片を両手で大事そうに包んで空に向かって祈りはじめたのだ。
 紙片は葉書きであった。

 天地の刑が執行されたことを知ったのち、慈子の元に一通の葉書きが届いた。
 そこにはたどたどしい鉛筆で書かれた文字があった。これまで目にした中で一番短い一文が記されていた。
 「ありがとうございます」とだけ。
 差出人の名は無かった。だが、慈子には、その葉書きの差し出し人が誰であるかを確信できた。
 自分がこの世に存在しくなってから届くだろう。天地はそう考えたのかもしれない。慈子はそう思った。

 その男の目の前には階段があった。その段を一段一段登り終えたとき、男は何を見たのだろうか?
 慈子には想像すら出来なかったし、したくもなかった。

 あたしはいつか、あなたのことを許せると思う。でもまだ時間はかかるわ。とうとうあなたとの糸は切れてしまったのね。あなたの凧。自由になれたならいいんだけどね……。あたしの凧はどうなのかな。まだ少しあなたに繋がれている気がするわ。でも必ず糸を切って見せる。そうは思うわ。正直、あなたに感謝の言葉なんていえない。でもそういう気持ちがないわけじゃないわ。これで勘弁してね。天地四郎さん……。

 翌朝の月曜日。慈子はいつものように階段を駆け上がってオフィスのドアを開けた。
「おはようございまーす!」
「ヨッシー、おはようー!」
 そこには、同僚たちの笑顔があった。

――完――


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