小説・短編『あたたか〜い極寒』

2013年03月31日


 それでは、この男の経験した、もうひとつの「あたたか〜い極寒」を見ていこう。
 当時、男は二十代の前半だった。一人暮らしを満喫しつつ、仕事もそれなりに順調だった。日々に白いカバーロール――つなぎの作業着――に痩せた身を包んで、つま先に鉄板の入った黒い安全靴をはいて、航空関係の整備という仕事に従事していたのだそうな。毎日が肉体労働であり頭脳労働であったそうな。面白おかしい先輩や個性的な上司に囲まれて楽しく働いていたんだそうだが、なにか物足りなさを感じていたこともまた確かだったのである。
 おうおうにして、そうした職場にあっては女子が希少である。まあそうした他愛のない理由がこの男の抱えていた物足りなさだった。して、そうした小さな虚無感を埋め合わせるために男はスナックに通うようになったのだ。
 わが城の主人として――一人暮らし――の視線で見てみれば、天守閣の居心地だって決して悪かったわけではない。しかし、本能には逆らえない。まあ、そういったことだったのだろう。
 ともあれ、夜な夜な店に通うということは、この男にとってはマイナスであったわけではなかったのだ。
「今日こそはユキちゃんに逢うぞー! おっしゃ、効率よく仕事を終わらせて飲みいくべさー!」
 てな具合に、作業の励みになっていたこともまた事実だったのである。しかし、仕事はハードだった。できるかぎり頑張って天守に帰ると、とたんに眠けに襲われて――
「ちょっと寝る。起きたら店いく……」
 などといって起きると、深夜……などということもあったのだそうな。かとおもうと――
「今日は塗装かー。シンナー臭い体で店いきたくないんだよねぇ」
 とボヤキながら仕事を終わらせると、部屋にもよらずに店に直行するなどという日もあったのだ。

 そんなある夜、男はあさちゃんに出逢ったのである。あさちゃんは、男より六つ七つ年上であった。細い茶色がかった髪は軽くウェーブを描いて背中まで流れていた。眉にかかる前髪はストレートで美しい曲線を描いて額に垂れかかっていた。そのしたにある瞳はブラウン。日本人であるからこれは普通のことである。ぱっちりとした目は優しさとともに、生きていることにたいする楽しさがいつも宿っていた。笑うと目がなくなる。そういった印象を強くあたえたのである。背丈は男より少し低く、どちらかというと、ぽっちゃり系の美人といえるだろう。
「でもね、あの夜どんな服を着ていたかとか、ぜんぜん覚えてないんだなぁ。瞼に浮かぶのは、白地に小さな花がプリントされたワンピースなんだよね」
 それは、男があさちゃんと一緒にうつった写真にある服装である。まあ記憶とはえてしてそんなものである。
「あの晩も凄い雪だったんだよ。店にいるときは全然気づかなかったのね。ほら、雪ってさ、降ってるときはやたらと静かじゃん」
 で、ラストまで飲んで終電を逃したわけですね。
「それもあるんだけどね、店から家まではさ、歩いて二駅だったのよ。だから、あの当時は終電とか考えて呑んでなかったんだなぁ」
 そして、あさちゃんの住む場所は店と男の家の中間にあったのだそうな。中間地点。どっちつかずの距離。こうしたものは、人の恋愛感情を揺さぶるものだ。例に漏れず男も恋心を夜毎にぐらつかせたのだそうな。
「うわーすごい雪! あさちゃんどうします? タクシー拾うならそこまで送りますよ」
「どうしよう。でもここまで積もっちゃうとタクシー乗り場にいってつかまえるだけでも大変そうだね」
 典型的な呑み屋のお姉さんと、その女に惚れている客の会話である。にしても同意を求める女性の心理とはいかがなものであろうか。某とて、「だね」とか言われたら……である。
「どうしますぅ? まあ僕はどっちみち歩いて帰りますけどねー」
「じゃああたしも歩こうかなぁ。一駅だしね」
 そういう展開でしたか。意外といえば意外ですね。女心が滲み出ていますね。このあさちゃんという方は。理屈は間違ってないんです。大雪という状況で、タクシー乗り場までいって帰るのと、歩いてしまうのとはさして時間的な差はなかったと言えるのだから。
「でも、この積もりかたですし、それ以前に寒いですよ、これは」
「だいじょうぶ。誰かと歩いてればそんなに寒くないと思うし」
 そうですか、そうですか。そうきましたか。それはあれですか? あさちゃんは暗に男のことは「嫌いじゃないよ」と言ったということですね。
「じゃ、歩きますか。というより、歩きながら途中でタクシー拾ってもいいですしね」
「うん、そうね」
 嫉妬深いお雪さんは、そんな二人にを見て、情け容赦なく体当たりやら、膝蹴りを加えて翻弄したのだそうです。
 ――これは口で言うほど楽じゃなかったなぁ……。
 それでも男と女は幹線道路の歩道に積もった新雪を鳴らしながら足を進めていた。
「タクシーぜんぜん走ってないね……」
「うん、拾う前に着いちゃいそうだね」
 道路を行く車はまばらで、忘れたころにチェーンが雪とアスファルトを踏みしめる音をさせていた。二人の吐く息は白く、手は真赤になっていた。足元はずぶ濡れになり、タクシーを掴まえても乗車拒否されそうな有様だった。
 男はなぜそうなったのかもすでに覚えていないのだそうだが、いつしか二人は寒さをしのぐために一つの傘にはいって、体を寄せ合っていたのだそうな。しかしそれでもお雪さんの嫉妬と羨望で血走った眼は見逃さかったのだ。
(こうなったら、肩にのしかかってやるわ……)
 そうして、一つの傘にはいった二人は互いに違うほうの肩を濡らしながら深い雪道をせっせっと、とは言えないまでも、歩き続けていたんだそうな。
 そのとき、男は温かい光景を見たのである。
「リンガーハットがありますね」
「うん、あそこね、よく息子と行くんだよ」
 ちょっと待って!? あさちゃんはそういう人なの? 某ちょっとびっくりしましたよ……。
「へぇー、ユウくんと行くんだぁ。なんかいいですねー」
 ――無視すんなよ……。まあよい。
 ともかくも、少しずつ少しづつ近づいてくる赤くとんがった塔とそこにある看板が、男の目にはやけに温かくて明るく見えていたのだ。深夜だというのに、真昼の光景で思い出せるのだそうな。真白の世界。暗い星空にぽっかりと浮かんだ赤い塔と黄色い看板を。
「ねえねえ寒くない? まだ一駅歩くんでしょ。少し温まっていったら」
「え、でも時間とか平気なんですか?」
 男の記憶は風化し、本当のところ、どちらがどう誘ったかは覚えていないのだそうな。だが、互いにあり余る寒さをどうにかしたかったことだけは事実だったようである。
 何を注文してなにを食べ、何を話したかもすでに塵とかしてしまったが、とにかくあの赤い塔と、すぐそこにあった、あさちゃんの弾んだ声と笑顔だけは忘れられないのだそうな。
「もう二十年近くたつけどね、あれほど寒い思いと、あれほど、あたたか〜い心が一体になったことってないんだよねー」
 で、そのあさちゃんとはどうなったのでしょうか?
「それなりの期間それなりに良い関係だったよ。けどねー決定的に無理だ……と思うことがあってさぁ。そのときのことも忘れてないけどね」
 男から聞いた話はこうである。
 初夏のある日、男とあさちゃんは公園デートをしたのだそうな。ですが、その日は二人だけではなく、あさちゃんのお子様であるユウくんがいたのだそうな。
「珍しいなぁ。ユウね、人見知りがすごく激しいの。でも懐いたね」
「え!? そうなの」
 公園にあった軽食喫茶で会計をしようとしていた男は、レジの近くにあるお菓子を物色しているユウくんに目を向けた。
「ユウだめよ。今日は買わないからね」
 男は母子がしばらくお菓子をめぐって争っているのを見ながら言った。
「なんか一個買ってあげますよ。ユウくん、どれ欲しいのかなぁ?」
「だってよー、ユウ。良かったねー。どれ欲しいの?」
 お目当てのお菓子を小さな掌にのせて伸ばしているのが見えた。
「ほんと珍しいんだよ。この子初対面の人にはほとんど懐かないから……凄いね」
「…………」
 男が別れを決めたのはこのことがあったからだそうな。気弱といえば気弱な理由なのだ。でも、わからないでもない気もする。
「だってさぁ、当時はまだ若かったしねー。俺……こんな可愛い子の親になれる自信も責任感もないや。なら傷口が大きくならないうちに……」
 とまあそうした理由だったのだそうな。
 けれども、そのあともそれなりにあさちゃんとは友達の関係はつづけたのだそうな。
「なにしろね。歳の差もあったし、別居はしていたんだけど、旦那さんと離婚していたわけでもなかったからねぇ……。もしも俺がそのことを言いだすとしたら、それなりの責任感、つまり、ユウくんも含めて絶対に幸せにするという責任感がないとだと思ったしねぇ」
 切ないですな。大人な判断といえば大人な判断ですが、色恋というものは勢いでもありますからね。
「そうなの。でも後悔してないよ。俺も惚れっぽかったけど、あさちゃんもそうだったしね。だからどっちかがしっかりしてないでいたら、いつかは暴走したと思うしね。まあ当時は子供だったのさ。でも、あたたか〜いことに変わりはないってとこだね」
 もしも、このあと男と女が泥沼になるようなことがあったなら、赤い屋根も長崎ちゃんぽんも、見たくもないものになっていたのだろう。人の心は機微である。
 そして、過ぎ去った恋とは儚くも美しいものである。

――完――


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2013年03月29日


 冬の風物詩といえば雪であろう。雨ヨ! と書いて雪である。納得ができないのである。けれど、東京に降る雪というのはどうもいただけない。
 しんしんと雪玉が落ちてきている時はよい。あのしんとした寒さの中にいても、なぜか温かい不思議な心持ちになったものだ。泰然としていながら静穏なあの空気。雪の結晶がいらざる音という音を運びさってしまったかのような静寂しじま。曇った窓をこすって掌を濡らしがら、目ばかりぎらぎらさせて銀世界に心を奪われたことが懐かしい。
「いや、今でもそうだけどね。あのサイレントさはさ、何年かに一度くらいしか味わえないものだよね。もの、、としかいいようがないんだよね。別のいいかたをすればあの、、感じ。そんな風にしか言えないんだなぁ」
 あのね、小説ってものはね、そういう「もの」とか「あの」とかいうのをだ、しゃんと言葉にするのが小説なのね。
 この男、小説で一花咲かせようと本当に思っているのであろうか?……。
「しゃーないでしょ。いんだよ。言葉にできないものもあるんだからさぁ」
 …………。
 まあよい。無駄なことに行を使っている場合ではないのだ。
 そう、雪である。東京に降る雪である。白氷が舞っているときはいいのである。だが、いただけないのはやんだあとなのだ。
 なぜなら、すぐにべっちゃりとなってしまって気持ちが悪いからだ。さっさと積もる時は良い。風流なのだ。普段であれば、鳥や猫くらいしか登らない場所に雪がこんもりと可愛らしく積もっている。あのでこぼことも、ゆるやかともいえない雪塊がつくる曲線は実にいい。美しいのだ。優しさを感じるのだ。
 ――あらま、あんなところにも積もってらっしゃる。
 とまあ、大事なお客様が土産をさげて訪問してくれた気持ちになるのだ。
 だから中途半端に降ってはいけない。降るならふる。降らないならふらない。どちらかにはっきりと意志表示すべきなのだ。だから――
「おい、はっきりせいよ、お雪さん……」なんてぐあいに、いもしない着物姿の控えめな娘さんをそこに見いだして、話しかけたくもなるのだ。お雪さんからしたら、ごたくさい事であろう。
「どうせあたくしがどんな身の降り方をしてみても、てて様は満足な顔をなさらないのですから……」とでもうつむくのであろう。しおらしいのである。
 そう、お雪さんというのは、さながら明日が見合いだという晩の娘の心情そのものなのだ。会ってみたいやら会うのが怖いやら、どうでもよい気もするものやら、親を困らせたくないやらと、どうにも落ちつかない心持ちなお雪さんなのである。
 哀れ。まさにその哀れである。儚くも美しいのである。どうのこうのと難癖をつけたくなるものの、結句お雪さんは、どうしてなかなか憎めない娘なのである。急に冷たい態度になったかとみれば、急に痩せ細ったり、湿っぽくなったりして心痛を感じさせる。
「あら、おこんばんわ。ごめんなすって」なんていいあいながら、すれ違うだけであるのに、何故か気になる冷温入り混じった印象を残すとでもいえばいいだろうか。
 掴みどころがないといえばそうなのだが、これもまたお雪さんの一面でしかないのである。
 ときには大玉のように凝り固まっていつまでも頑なな態度を崩さない。しかもそうした大玉が積み重なることすらある。心の奥底に小さな遺恨という石なんぞを持っていて、その小石でごくまれに人様を傷つけたりもすれば、あの人にもこの人にも真正面からぶつかっていって、人を笑わせる陽気さもあるかと思えば、好きなお方の足元をすくったりするような意地悪な面もあるのだ。ともるすと愛する人の足をさらったり、馬乗りになって弱った心臓をずんずんと圧迫させて死なせてしまう冷酷極まりない暗部も垣間見せるのだ。まったくもって多面的な性格なのがお雪さんなのである。
「あれでしょ。ようは雪は降ったと思ったら溶けるとか、溶けた雪に足をズボっと入れると、とたんにびしょ濡れになるとか、凍って滑るとか、雪だるまを作れるとかさ、雪合戦して遊べるとか、たまに雪玉に石入れる悪たれ坊主がいるとかさ、そういうことを言いたいんでしょ?」
 ――まあそうなのだが……わかっていても口にしてはいけないものがあるのですよ。詩情とはそういうものなのですから。せっかくそれがしが見本をみせてやっているというのに。けったくそ悪いことを言いおる、この男は……。
「詩情とかいうけどさ、伝わらなきゃ意味ないでしょ? 解りやすいのが一番だよ」
 ――あんたに説教されとうないわい……。まあよい。話を戻そう。
 雪である。この男の心中にある雪の思い出を見ていこう。
 ここに一枚の写真がある。男と男の姉と、雪だるまが写った一葉だ。誰も彼もこれぞ満面の笑みという顔をしている。男は白と黒の毛糸で編まれた長袖のセーターを着て薄緑色の半ズボンをはいている。足元はよくある黒いゴム長であり、頭には読売ジャイアンツの帽子をかぶり、これもまたジャイアンツのカラー――黒とオレンジ色の――手袋をしている。帽子には黒字にオレンジの刺繍色でYGとある。時代ものである。ジャビットなんてまだ受精すらしてない時代である。柳田とかが活躍していた時代なのである。ちなみに、当時男はショート河野に憧れていた野球少年だったのだそうな。投手なら堀内や小林が大好きだったのだそうな。
 話を戻そう。雪である。
 その写真に焼きつけられた雪だるまの目はマジックで塗りつぶした丸い紙でできており、なぜか手の部分には割り箸をもっていて、鼻は蜜柑だ。箸で蜜柑を喰え! そういうことなのか? と、発想を疑いたくなるが、子供時代――多分小学校三、四年生――であろうから、そこは目をつぶろう。
 この当時は大きな雪玉が作れる量の雪がそれなりに降ったものである。ときには身の丈を超えるように雪を固めて中をくりぬいてかまくら、、、、を作ったこともあったそうな。
 白くでこぼことした天井を見ながら狭い空間にいると、これがなかなか温かい。雪でできているのに温かい。男はそういう奇妙でほんわりした思い出を時々懐かしがるらしい。
 とくに印象深かったのは、高校の入学試験前夜に降った雪だそうな。それはそれは派手に降ったんだそうで、駅から試験場の学校まで歩くのも大変だったんだとか。その高校にはずいぶんと離れた場所から通っていた生徒もいたぐらいだから、試験の日もそういった中学生たちのために、試験開始時間を一時間遅れさせるということになったのである。
 男は、なかば不透明になった窓ガラスから外を眺めて時間をつぶしたのだそうな。傍らではその一時間を使って試験直前の追い込みに励んでいる者もいたのだが、男はそしらぬふりをして過ごしたのだそうな。どうせ窓外にお雪さんでも見つけて口をぽかりと開けて見とれてでもいたのが本当のところだろう……。
「懐かしいねー。もういいよ。今更勉強したところで大して変わりはしないよ。あん時はそう思ったんだよねー」
 諦観してらしたのですね。ですが、少々時期的にはやすぎる諦観かと思いますが……。
「いやね、そこは私立だったんだけどさ、一応自分のレベルより低めの、いわゆる滑り止めだったからね。だから、まあ何とかなるだろうなんてね。そんな感じだったのよ。でもあのとき聞いたガス・ストーブのシュー、シューという音は忘れられないねぇ。雪景色の静けさと重なって風情があったのよ」
 ほうほう。で、入学してからはそのストーブでパンを焼いたり、いろいろと悪さをしましたよね。
「そんなこともあったね。それがさ、ちゃんと焼いたパン喰わないやつがいてね、それが数か月たって夏になったときに腐ってさぁ、教室中悪臭……。授業にすらならないほどの悪臭がしてさ。あれは笑ったよ」
 馬鹿ばっかですね……。大体ね、食べ物をそんな風に粗末にしてはあきまへん。
 ――おっと、男と思い出話に花を咲かせている場合ではないのである。
「いわゆるさ、林間学校みたいのでね、スキー教室にもいったんだよね。中学の時だけどね。あれも懐かしいね」
 ボーゲンやってましたね。帰る直前にはかなり直滑降もできるようになってましたし、ちゃんと曲がれるようにもなってましたよね。それと止まれるようにもなっていて、わざとあまり上手く滑れない女子のとこに滑っていって急ブレーキをかけて黄色い声をあげさせていましたね。仕方のない中学生でしたねぇ。
「あったねぇ。けど、やっぱ雪といって一番思い出すのはあの夜だろうなぁ。あの晩というか深夜だったんだけどね、まあ寒かったんだ、あの夜も」
 どうせ酒飲んで電車なくなって、帰れなくなって……でしょう?
「まあね」

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2013年03月28日


 あの男が感傷に浸っている。部屋じゅうが不穏な空気をまとわせている。家具や床がまとうのは埃だけで十分である。「掃除でもして体を動かして感傷の列車など途中下車してしまいなさい」という訓戒を垂れてやりたいところだが、勘忍袋の口をぐぐっと縛って辛抱してやろう。さあ話せ、何がいいたのだ?……。
「いや別にさ、そんな大袈裟なことじゃないんだけどね、ちょっと書き出していない思い出が湧きあがってきてね、書いたらスッキリするかしら、なんて思ったりしてね」
 相変わらず言い訳がましいのは、この男の特徴ではあるが、短所でもあるとそれがしは思うのだ。
 ――いいから早くいえ。待っているほうも楽じゃないのだから……どうせろくでもない内容なのは……。
「今までさ、寒かった経験は数々してきたんだけどさ、格別なのがあるんだよね」
 この男、いままで何度も支払いを忘れて電気が止まった経験をしている。いや、それだけでなく電話はもちろんのことガスも水道も止まった経験があるのだが……。
「世の中って不思議だよね。誰かがいると余計に寒かったりする。その反対にさ、寒いはずなのに誰かがいることで指先が真赤になって感覚すらなくかじかんで、口が回らないほど青紫色の唇を震わせていても、心はあたたか〜いってことがあるんだよね」
 あたたか〜いですか。冬場はそうですね。自動販売機のあの赤い地色に白抜きの文字で書いてあるやつですね。「あたたか〜い」ね。たいていの場合、書体が丸ゴシックになっているやつですね。たまに、「あったか〜い」とか「あったかぁ〜い」とかいうバージョンも見かけますね。自販機のメーカーさんは談合して「あたたか〜い」一本に統一しましょう! とかしないのかしらね?
 とまあ、この男をからかっていても埒があかないので、話を先に進めよう。

 まだ若かったこの男が、無病息災、身体強健、栄養良好であり、心身壮健とはいいがたかったが、なんとなく一人前になった頃の挿話らしい。
 ひとり暮らしは淋しいものである。仕事場では同僚や先輩後輩たちにかこまれて、それなりに愉快だったらしいのだが、灯りの消えた部屋にもどると、心がたちまちにして、どよよーんと沈殿する夜が多かったのだそうな。
 この男、それなりに真面目なところもあって、数日のあいだは何かしら気晴らしを探し出して、どよよーんをぼよよーんくらいにはしたらしい。だが、そうした夜が何日も続くと膨れ上がった水疱から水を抜こうとするかのように、酒を飲みに出かけていたんだそうな。水疱の水を抜くために水を飲むというのも、馬鹿げた話ではあるが、まあいいだろう。
「寒い……死ぬ……」
 おい、どこに寝ているんだ……凍死するぞ……。
 この男、母親と暮らしはじめても胸の皮膚のしたに溜まった水からの圧迫を感じると、郷愁の念に打たれて一人暮らしをしていたころの遊び場に足を運んでいたのだ。いわゆるスナックという場所だ。
 まあ何てことはない。終電を逃した愚か者がそこにいるだけなのだ。都会によくある一場面に過ぎないともいえる。
 晩秋が初冬に移ろっていく季節の深夜だったので、あたりは漆黒に包まれているはずである。しかし、都会の丑三時というものは街燈が滲ませている明るさのせいで、それなりに明るいものなのだ。
 もっともそこは駅の構内であったから、当然のごとく白じんでいたのだが、それでも階段に続く空間は灰色のシャッターに遮られて見慣れた温かさはなかった。
 風がびゅーびゅーと鳴って、丸く太い柱のあいだを吹き抜けていった。褐色の大理石風の柱に貼られたポスターの端が風に煽られて宿酔ふつかよいのような悪寒にはためいていた。
「マジ寒い……酔いが醒めるべさ。けど我慢ならん!」
 男は構内からすこし離れたところにある、「あたたか〜い」という表示の下にあるボタンを押した。金属がぶつかりあう冷酷な音がして、一本の缶コーヒーが落ちてくるのが見えた。
「うっほ! 天国、天国!」と、言っていられるのはほんの僅かのあいだだった。
 紫煙をくゆらせながら、ごくりごくりとする。しかし、缶の中身は無情な早さで冷めていったのだ。
「うえ……よけい寒くなった気がする……失敗ぶっこいたかなぁ……さーむぅーい!!」
 あらゆるものを引きちぎるような横柄な風が、我が物顔で暴れまわっている寒さに耐えかねていた。
 ――歩こう。そうすれば少しはましだろう。
 だが、不幸なことに男が歩きはじめると、夜空が暗くなって雨を降らしはじめたのだ。
 ご愁傷様です。終電なくなるまえに帰ればよかったのにね。
 男は着ていたGジャンの襟を立て、いよいよ強まってきたからっ風を避けようとコートを着た肩に力を入れて、首を縮め、ポケットに手を突っこんで、前かがみになって歩いていた。
 方向さえ定めず行き交う車のヘッドライトを横目に幹線道路を歩いていった。光の玉が通り過ぎるたびに、斜めに降りしきっている細く尖った雨粒が見えた。タイヤが地面を擦る音も冷たく湿っていた。
「あわわわわわ……」
 濃い紫の唇がばたついて、寒気を呪う陀羅尼だらにが吐き出されていた。男は酒気が醒めてゆくのを感じていた。
 ――まじぃーよ。マジで凍死コースだよ、これは……。
 コースってなんだよ。どんなコースだ。ディナーにもそんなコースなどない。食べたら凍え死ぬのか? この男の言葉づかいは時々面白い。男がそれだけ寒かったという証拠なのだが、見ているこっちは思わず滑稽さに失笑を禁じ得ない。
「あー、何ここ! なんかいいね」
 男は電柱を挟んで、ガラス張りになったビルのエントランスを目にしていた。比較的近代的で広いエントランスには贅沢なスペースがあり、その奥には階上へと続いているであろう通路が見えていた。
 男は迷わずに雨と風で冷え切ったアルミ製の銀色の取手を押して中に入っていった。
「あー天国、天国ー! あったけ〜!」
 いかにも動物的で本能のままの言葉だ。味もそっけもない、もちろん工夫もない。詩情などという美的なものは絶無であり無縁の言葉が血色の悪い唇のあいだから滲み出していた。
 なにかというと天国とか神とかいう。本当のところ神も奇跡も信じていないくせに。どちらかといえばこの男、現実主義者リアリストなはずだ。神や天使からすればいい迷惑であろうに。
 いや、それよりもここでは、「あたたか〜い」と言うべきだろう。いちおう三度くらい繰り返せば、読者もここは笑うべき所だと気づいてくれるのだから。小説にはそういうテクニックが必要なのである。
「あたたか〜い! あたたか〜い! ここ、あたたか〜い! とっても、あたたか〜い!!」
 あてつけに四回も言う必要もなかろうに……。しかも一回多いではないか。どうも某とこの男は相性が悪いようである。まあよい。凍死しない程度に見守ってやろう。
 ともかくも、男からすればそのビルのエントランスはそれだけ温かいと感じる場所だったのだ。
「でもさ、微妙に風はいってくるよね……」
 男はエントランスの先に階段を見いだして、そろそろと足を進めていった。
 ――足音、響くなぁ……。
 人気のない雑居ビルの一角である。しかも時間は深夜である。妖しい男に襲われても不思議ではない。いな、この男のしていることがそもそも妖しいのだが……。
 階段の先には広い踊り場があり、壁の高い位置には閉めきられた窓があった。微細な雨粒が水玉模様を描いていた。階段は踊り場を基点として方向を変えて螺旋を描くように上階へと続いていた。
 ――まあいいか。始発までここで休もう。
 男は壁に背をあてて座り込んでしまった。時々雨交じりの風が窓を叩く音が聞こえていた。体が内側から温まってくるのを感じていた。酒はすでに半分は抜けていたようだった。
 こんな状態になれば、次に起こることは予想ができよう。そう、眠けである。じつに本能的であり、動物的な現象に襲われたのだ。
 ――ちょっと横になるか。
 ……どうせちょっとじゃないだろう。なんたる呑気さであろう。ビルの住人だとかが階段を利用しないとも限らないというのに……。もちろん、男もそうしたことには気がついていたのだが、抱擁してくる睡魔の腕をはらうことが出来なかったのだ。この男にいわせればこう言っただろう。
「だって〜しょうがな〜いじゃな〜い♪」――旋律が聞こえたことだろう……もしかして、カラオケがしたりなかったのか?
 時々、夢でなのか、現でなのか、男は足音を聞いた気がしていたのだが、寒さに負けじと、しだいしだいにくるくると丸まってゆき、最後には母親の子宮に帰ったようになって眠りつづけた。
 幸いなことに、男は不審者として通報されることもなく、朝を迎えた。
 高い位置にある窓からまばゆい陽光が差しこんで、踊り場に浮かんでいる塵をきらめかせていた。
 ――もう懲り懲りだ……こんどは終電で帰るようにするぞ!
 とまあ男は自分にいい聞かせたらしいのだが、それからも度々終電を逃したことは言うまでもない。
「仲間と酒を飲んで楽しい思いをしたあとだったからね。だから余計に寒かったんだと思うんだけどね。あの時以上に寒い経験なんてさ、数々あるはずなのよ。でも、今でもあれがナンバー・ワンだね」――だそうです……。
 しかし、あの男のした経験は無駄ではないとも感ずる。人の温もりというものは、それだけ有難いものなのだから。それを知ったあの男は幸せであろう。もっとも、そうした体験をしなければ有難味に気がつけなかったことには、お気の毒様としか言えないのだが……。

(つづく…… 次へ この記事の最初に戻る

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