小説『逆行する星々』宇宙シリーズ【外伝】

2014年08月23日

 憤怒と怨念という、九つの頭をもつ毒蛇に呑まれたヒュードラーはそれからというもの、ネバダにあるバベルタワーに毎日のように姿を現し、真面目に業務を遂行するようになった。だがそれは仮の姿であり、どこからみても愚図で馬鹿な男に見えた。かつては周囲から高評価され特待生として宇宙に飛び出したヒュードラーはどこにもいなかった。ときには高慢な態度で人を見下し、気障な振る舞いをして周囲を辟易させもした。
 所詮、用が済んだらおさらばなのさ。俺様はこんな連中にへーこらする気などないのさ。DOXAこそ腐臭の元凶だ。待っていろ、必ずこの手で叩きつぶし、踏みにじってやるからな。待っているがいい。
 それがヒュードラーの本懐だった。進んで悪評を買うために色の違う瞳をコンタクトレンズで偽装して、毒牙を隠した男は、天邪鬼を武器にしてひたすらDOXA本部にある情報を引き出しつづけた。ゆっくりと時間をかけて。
 誰も彼の行動に注意を払うものはいなかった。あんなにも無能になって落ちぶれただらしのない男になにができる。誰もが怪訝な視線でヒュードラーのことを見ていた。かつての彼を知る者の中には「あれはヒュードラーじゃない。九つの頭をもつヒドラだ。堕落もあそこまでいくと救いようがない」といって気の毒そうに見つめる者さえあった。
 だが、そうした印象を与えたことは情報を引き出すためには甚だ好都合だったのだ。
「DOXAが開発した最初の準光速宇宙船ねえ。なんて読むんだ、これは? コイズニックでいいのか?」
「コズミックだ」
 同僚が呆れた声をだして鼻であしらった。
「そうかい、サンクス!」
 そ知らぬふりをして、ヒュードラーはデータを黙読してゆく。

 コズミック型一番艦<コズミック・ヴォルケ>号
搭載人格コンピューターはペンテロス1(雄型)
運航状況:木星宙域にて謎の黒雲に接触して、その後行方不明
特記事項:木星宙域探査中にストレスによる自殺者一名あり
 コズミック型二番艦<コズミック・レーゲン>号
搭載人格コンピューターはペンテラー1(雌型)
運航状況:木星宙域にて謎の黒雲に接触して、その後行方不明
特記事項:木星宙域探からの帰投中に原因不明の自殺者一名あり
 コズミック型三番艦<コズミック・シュネー>号
搭載人格コンピューターはペンテラー2(雌型)
運航状況:木星宙域にて謎の黒雲に接触して、その後行方不明
特記事項:木星宙域探からの帰投中に発狂による自殺者一名あり

 最高議会における事故調査委員会の最終報告
黒雲との遭遇に関しては、人格コンピューターが一台であったことから、緊急回避が遅れたものと推測。
全ての船で自殺者が出たことは誠に遺憾である。原因の究明は今後の最重要課題といえる。
原因の可能性として、プロジェクトP―RAによるものであることも考慮のこと。

 恐ろしい状況じゃあないか。木星宙域に行くたびに黒雲に遭遇して、自殺者とはな。
 一体この原因はなんだ? おそらく……プロジェクトP―RAというのと、人格コンピューターが一台しか搭載されてないことが原因だろう。邪推すれば、自殺したものがさらなる自殺者を呼び寄せたとも言えるんだろう。なんたる無気味さだ。――さて次だ。

 アンドレイア型一番艦<アンドレイア・フォルス>号
搭載人格コンピューター:ペンテロス2(雄型)及びペンテラー3(雌型)――非連動型
運航状況:運航中
特記事項:特になし
 アンドレイア型二番艦<アンドレイア・スエーニョ>号
搭載人格コンピューター:ペンテロス3(雄型)及びペンテラー4(雌型)――非連動型
運航状況:運航中
特記事項:特になし
 アンドレイア型三番艦<アンドレイア・フィーリア>号:
搭載人格コンピューター:メール(雄型)及びフィメール(雌型)――雄雌の回路を連動型に改修
運航状況:運航中
特記事項:特になし
 アンドレイア型四番艦<アンドレイア・エスポワール>号
搭載人格コンピューター:ペンテロス4(雄型)及びペンテラー5(雌型)――非連動型
運航状況:運航中
特記事項:特になし
 アンドレイア型五番艦<フライング・ダッチマン>号(特殊任務艦)
搭載人格コンピューター:ファザー(雄型)及びマザー(雌型)――連動型
運航状況:厳重保管状態・永久凍結予定
特記事項:秘匿名称のみ公表(秘匿名:<キンダーハイム・アキレウス>号)。人格コンピューター二台を二代目<ダッチマン>号に移植済み。

 アンドレイア型には特に変わった様子はないな。だがなぜ三番艦だけ連動型なんだ? 特に意味はないだろう。修理やら船体や装備の小改修の都合で、たまたま三番艦が連動型になっただけのことだろう。<アキレウス>号か……こいつに関しては要調査が必要ってところだろう。おそらく容易にデータへのアクセスは出来なくなっているはずだ。それにしても腹立たしい。生身の人間を移植して人格コンピューターとしたくせに、型式番号で呼ぶこの腐った感覚は許しがたい愚行だ。――さあ次だ。

 フライング型一番艦<フライング・ケイローン>号
搭載人格コンピューター:ペール(雄型)及びメール(雌型)――連動型
運航状況:木星宙域にて謎の黒雲に接触して損傷するも帰還。その後PETUにより拿捕され行方不明
特記事項:木星宙域探からの帰投後に精神衰弱による自殺者一名あり(推定)
 フライング型二番艦<フライング・アイレース>号
搭載人格コンピューター:マーチ(雄型)及びアチエーツ(雌型)――連動型
運航状況:木星宙域にて逆行小惑星に接触して損傷するも帰還。現在修理中
特記事項:木星宙域探査中に原因不明の自殺者一名あり。事故死一名あり。
 フライング型三番艦<フライング・ダッチマン>号(特殊任務艦)
搭載人格コンピューター:ファザー(雄型)及びマザー(雌型)――連動型
運航状況:運航中
特記事項:秘匿名称のみ公表(秘匿名:<キンダーハイム・アキレウス>号)。人格コンピューター二台を初代<ダッチマン>号から移植済み。

 問題のフライング型か……。ペール、メール……我が父と母なる船。行方が知れないのは承知のことだ。そしてこの自殺者はトゥラキアだ。こうして見ると<ケイローン>という船は我が故郷と言えるわけだな。必ず取り戻してみせるぞ。<アキレウス>号に関してはいい。問題はこの<アイレース>号の自殺者と事故死している二名だ。名前を知る方法はないのか? 恐らく……リビュアはこの二名に含まれているのだろう……今さら恐れるものはない。俺様は真実を知りたいだけだ。
 ヒュードラーはこうして事実を知っていった。驚くべきものは無数にあった。プロジェクトP―RAとは、元々志願制であった人格コンピュータへの移植希望者が絶たれたために行われた計画だった。PETUという組織を編成し、それを隠れ蓑にして奴隷商人を動かし、一般人を誘拐して無理やり人格コンピューターに移植するという、あまりにも非人道的なものだった。ヒュードラーは知ったのだ。自分の両親がその犠牲となり、本当の名前を奪われ、ペールになり、メールになったことを。そしてもちろん、奴隷商人に誘拐され監禁され、人格コンピューターへの移植に堪え得る年齢になるまで、彼と彼の姉は監禁生活を強いられていたことを知ったのだ。それまでどんな情報に接しても、顔色ひとつかえなかったヒュードラーだったが、この時ばかりは違った。職員たちのいる前ではなんとか感情の爆発を抑えはしたが、アパートの部屋は滅茶苦茶になった。何もかもが破壊され、残ったのは壊れかけた宇宙船のおもちゃと、傷だらけのデータパッドとトゥラキアの遺影だけだった。
 それから数年のあいだ、ヒュードラーはDOXAの内偵者としての日々を送り、姉の死とその状況を知ったのだった。半ば確信していたこととはいえ、ショックを受けた彼は、目指していた情報局の二重スパイになる道を踏みはずしはしたが、司法局の二重スパイへの切符を手に入れ、<アンドレイア・エスポワール>号の乗員資格をも手中にしたのだ。
 復讐には時間がかかるものだな……。
 胸の中でそうつぶやきながら、ヒュードラーは<アイレース>号に乗る機会を待ちつづけた。姉の遺品である日記を手に入れるために。そしてそれは果たされた。だがまだヒュードラーの憤怒も怨念も満たされてはいなかった。次なる手は、DOXAの腐敗を探るために被っていた愚鈍の仮面を少しずつ脱ぎ去ることだった。そうして、最新型準光速宇宙船<ネーデルランダーズ・スペランツァ>号の乗員資格を得たのだ。
 DOXAの記録では、ヒュードラーという男の履歴は「航行中行方不明」という部分で途切れてしまっているが、ヒュードラーは生きつづけていた。九つの頭をもつ毒蛇として。

 数年後、一人の男が唐突に暗黒崇拝教ツァオベラーという狂気の集団で頭角を現しはじめた。男はその頃から、海賊とかしていたPETUを凌ぐ凶暴さで、DOXAやUNFEの艦船に襲いかかってきた。時にはPETUの船さえ男の餌食となって宇宙の塵となっていった。その凶暴さと徹底した破壊行為と、隙のない機敏な戦術は地球人テランたちに畏怖の念をもって迎え入れられた。
 ある時期から男は深緑色に塗られた船を操るようになっていた。誰もその船の名を知らなかったが、男はその船のことを知り尽くしていた。<ケイローン>号のことを。我が故郷を掌中に納めたことで、水を得た魚のように、男は宇宙狭しと暴れ回った。ビームを放ち、ミサイルを撃ち、強襲揚陸艇を疾駆させ、戦闘機を縦横に指揮して見せた。
「マフデト、準備は整っておるか」
「ぬかりは御座いませぬ」
「ならば往け、目標はわかっておろうな」
「もちろんで御座います」
「ならば言ってみよ」
「地球軍第三艦隊旗艦<ヨーロッパ>で御座います」
「よろしい。古代の話らしいが『東欧ヨーロッパを制する者が世界を制す』と言ったものがおるそうだ。完全撃破とは言わぬ、せめて半壊くらいのダメージは与えてみよ。失敗は許されぬぞ。償いは貴様の頸をもって購え」
「ナアム・ファヘムト!」
 その男は「逆行の巨星」と綽名され、またの名をヒドラといった。
 かつて、ヒュードラー・アル・ファルドという名をした少年の変わり果てた姿だった。

―完―


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 トゥラキアが他界して数週間が経ったころ、抜け殻のようになっていたヒュードラーは、導かれるように彼女が暮らしていたアパートへと足を向けていた。
 なぜここに来たんだろう? 見れば思い出すものばかりある部屋に。
 問いかけてみたところで答えはでなかった。ハウとエリスがアパートの部屋を借り上げていたから、トゥラキアの残していったものは、何もかも変わらずもとあった場所でひっそりとそのままの姿を見せていた。
 不思議と何を見ても胸に痛みは感じなかった。心が麻痺してしまったのだろうかとも考えたが、すぐに考えるのをやめて、ただそこにあるものをぼんやりと見て回った。
 姉さんを探すにしても、どこかに居場所がなければ無理だ。ならボクはここで暮らそう。そうすればきっと母さんの魂も慰めてやれることだろう。一緒にいてあげれなかったことで自分を責めるのにももう疲れたんだ。どこにいても悲しみの海が惹き起こす浪をかぶらないでいることなんて不可能なんだ。病室のベッドにいても、ハウとエリスの家にいても、どこにいてもだ。あの人といたって逃げ出そうとした。そして知ったんだ。居場所がどこにあるかを。だったらその居場所であった人を懐かしんでなにが悪いっていうんだ。何も悪くなんてない。ああ、これ、懐かしいなあ。時々読んで聞かせてくれたっけ。あの人の孤独だった心は今もここにあるんだ。それを知る手がかりもすべてここにある。だから目をそらしたりはしない。姉さんもきっとわかってくれる。ここに居たいという気持ちを……。
 しかし、トゥラキアが借りた部屋で暮らしはじめてからも、ヒュードラーの憂鬱は消えなかった。茫然自失して朦朧としている。週に何度かDOXA本部に出向いて、なんとか職員としての資格がはく奪されないようにはしていたが、それ以外の時間はアパートの部屋に閉じこもっては、薄気味悪い笑いを口元に浮かべながら亡き母の形見と話していた。
 母さん懐かしいね。この本のこと憶えてるかい? 毎晩のようにせがんで読んでもらったっけね。終いには内容を丸暗記してしまった。今でもすらすらと口から零れでるように朗読できるんだ。やってみせようか。
 ――それでははじまり、はじまり。
「ある日、畑の近くにはえていたカシの木が神様に不満を申し立てました。
『神様! 私は農民から嫌われた、枝を斧で切られるなどして、酷い目に遭っています。私はこんな目に遭うために生まれたのですか?』
すると、神様はこう答えました。
『お前は何か勘違いしているようだな。お前の境遇は自分自身で招いたものだ。もし、農民に切られるのが嫌だったら、自分の性質を変えることだ』
こういわれて、カシの木は反省しました。いわれてみれば、枝をどんどん伸ばすために、畑が日陰になって作物に悪い影響を与えてしまっていたからです。作物を守るために、農民はしようがなくカシの枝を切っていたのです」
 おしまい。――母さん、ちゃんと聞いてたかい?
 そういってヒュードラーは飾られた遺影を見つめた。そこには、はにかみながら笑っているトゥラキアがいた。
 母さんは素直じゃなかった。もちろんボクもだ。だからぶつかりあった。ボクが逃げ出そうと思っていることは誰よりも早く察知していた。母さんが警戒すれば、ボクも警戒した。このお話のようにね。相手のあなたに対する態度は、あなたの相手に対する態度そのものである、二人で一緒に、お話のうしろにあった解説を読んだとき、ギクリとして目をそらしてしまったんだ。
 この話を読んでもらっていたころは、本当の意味で理解なんてできやしなかった。でも今はわかる気がするんだ。
 嘘だ、嘘をいうな! ただ憎いだけなんだ。父さんと母さんをどこかに連れ去った奴らが憎い。ボクと姉さんのことを鞭打った奴らが憎いんだ。そうだ、ボクと姉さんを離れ離れにした奴らが憎いんだ。あいつは何一つ苦しみを背負わずに生きてるんだろう。名前さえわからないあの男。偉そうに母さんに言ったんだ。「ラキア、連れて行ってくれ」ってね。今でもはっきり覚えてるんだ。殺してやるんだ、いつか。
 <ケイローン>号の奴らも芥屑だった。火星の連中もそうだ。人殺しどもめ! 月で暴動を起こした奴らも人殺しだ! あいつらは、ペールとメールさえも奪っていきやがったんだ、殺してやるんだ。いつかこの手で。
 終いには母さんを追い詰めて殺したんだ! 必ず見つけ出して殺してやるぞ!
 ヒュードラーの腹の底で多頭の毒蛇が、いくつもの鎌首を上げて憤怒の舌を吐いていた。
 ――俺様は空腹なんだ、貴様の恨み辛みをよこせ――と。
 黄ばんだ薄汚い牙から、濁ってどろりとした黄土色の液体がぽとりと落ちた。
 全身が燃えるようにカッカと熱かった。沸騰して毛穴という毛穴から蒸気が噴水のように吹きだしているようだった。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ!」
 ヒュードラーは恐ろしい考えをふり払おうとして激しく首をふってから、激しく狼狽した。
 母さんはこんなボクを喜んで抱きしめてはくれない。行かなくちゃ、本部に行って姉さんの行方を探すんだ。動悸がするけど行かなくちゃいけないんだ。
 ふらふらと立ち上がりヒュードラーは部屋を出ていった。
 ハウとエリスが<アキレウス>号に搭乗して地球を留守にしていたあいだ、三年以上の期間、彼は憂鬱な日々を送りつづけた。母に語りかけ、ほんの数瞬だけ温もりを感じたあと、憤懣を吐き散らし、恐怖して狼狽する日々を送りつづけたのだ。
 そんなある日、エリスがひょっこりとアパートに姿を見せた。
 夫婦そろって地球に帰還していることは耳にしていたのだが、ヒュードラーは会いたいという気持ちにはならなかったのだ。
「ヒュー、顔色がよくないわ。ちゃんとご飯は食べてるの?」
「うん……」
「夜は眠れてるの?」
「まあね」
「背、だいぶ伸びたわね。いくつくらいあるの?」
「わからない」
 エリスが何を聞いても、短くおざなりな言葉しか返ってこなかった。
「しかたのない子ね。でも今日はあなたにどうしても渡したい物があってここへ来たのよ。受け取ってくれる?」
「…………」
「受けとらないといっても置いていくわよ。あたしが帰ってからでいいわ。データカードを読んでみて。約束できる? そのあとどうするかは、あなたの自由よ」
「わかった」
「半年後にはまた航行クルーズに出るのよ。ごめんねヒュー、何もしてあげられなくて」
 エリスは持前の明るい顔で、お土産を渡すようにカードを置いてきたことに罪深さを感じていたのか、アパートの階段を降りたあと、振り返って「ごめんね、ヒュードラー」と囁いたあと、胸元で握った拳を掌で覆ってからもう一度囁いた。
「ヒュードラー、あなたを信じてるわ」と。
 データカードには意外なものが記録されていた。リビュアが書いたらしい日記が記録されていたのだ。
 ――今日はマーチ先生が前にお話してくれた童話をもういちど読み聞かせてくれました。忘れないように書いておきます。内容はこうです。
 それでは、はじまり、はじまりー!
 ある日、牛飼いが牛に荷車を引かせながら、山道をタラタラと歩いていました。ところが、カーブに差しかかったとき、曲りきることができず、車輪の一部がくぼみに落ちてしまいました。
 しかし、牛飼いは、どう対処していいかわからず、ボケッとつっ立ったままです。しばらくして、
「あっ、そうだ。自分が崇拝している神様にお願いして助けてもらおう」
 と神頼みしたところ、神様からこういわれたのでした。
「くぼみに落ちた車輪をもち上げ、牛が前に進むように、突棒で突け。そういう努力をしてから神頼みをするがいい」と。
 おーしまい。
 なんでもマーチ先生の言うには、このお話は――ただ神頼みするだけでは問題は解決しない。自分がやれることはすべてやったうえで天命を待つ姿勢が大切である――ということを教えているのだそうです。ふふふ、白状すると、難しい言葉がいっぱいあって本当は意味が良くわかりませんでした。てんめいってなんだろう? でもなんとなくお話の内容はわかりました。とにかく一生懸命やりなさい。好きなことをとことんやってみなさいということなのだと思いました。すうはいとか、かみだのみとかいう言葉の意味はちっともわかりませんが、きっと尊敬とそんなに変わらないのでしょう。でも、努力という意味はちゃんとわかるのです。なので、何かを頑張るときは、そのことを尊敬して一生懸命に努力しなさいということなんだと思うのです。マーチ先生のことだから、あたしが少しくらい間違えて憶えてしまってもきっと怒らないと思います。明日はまた楽しみにしているぜんしんりょうほうの日です。まえに泳いでしまって叱られましたが、明日もきっと泳いでしまうことでしょう。泳ぐことを努力するのが良いことなのか、泳ぐことを我慢するのが良いことなのか、明日憶えていたら先生に聞いてみようと思います。
 ヒュードラーは涙した。追いかけつづけた姉があまりにも幼い姿になって目の前に現れたからだ。もう何年も前のものであることは明白だった。日記に書かれた日付がそれを証明していた。
 リビュアより物知りになり、幾分冷静にものを見つめられるようになっていたことが、無情な月日が流れてしまったことがたまらなく悲しかった。
 だが日記は、取り戻しも巻き戻しも出来ない、時間というものの厳格さを教えてくれていたし、トゥラキアの形見を抱いて過去を彷徨い、現実の中で戦うことを忘れきっていたことにも気づかせてくれたのだった。
「姉さん、ありがとう。ボクは腑抜けになっていたようだ」
 母さんボクは母さんに教わった一番大切なことを忘れていたよ。戦いなさい。何度も何度もそう教えてくれたっけね。
 耳の奥で怒涛のごとくトゥラキアの声が蘇えった。
 ――誇りをもちなさい。体中に傷があるからって、あなたの価値が下がることはないのよ。大切なのは、あなたがこれからやること、やってみたいことを見つけること。そして何よりもこれをやったんだと言えることなのよ、わかる?
「ああ、わかるよ、母さん!」
 ――俯かないの。顔を上げなさい。胸を張るのよ!
「わかってるさ、ボクできるよ!」
 ――なによ、あなたのされたことはその程度なの。そんなはずないわ。さあ、もっと叩きつけなさいよ、お前のしたことはこうだって、教えるのよ!
「そうだ! 恨みをはらさずにおくものか! やってやる、やってやるんだ!」
 だがそれはかつてのヒュードラーではなかった。
 長年月のあいだ、腹の底に飼いつづけてきた、九つの頭を持つ毒蛇が完全に彼を呑みこんだ瞬間だった。
 かつては安堵と信念をかねそなえていた虹彩異色症ヘテロクロミアの瞳から二つの光が消え去り、憤怒と怨念という真紅の炎が灯った瞬間だったのだ。
 ――さあもっと。もっと出来るはずよ。あなたの怒りはそんなものじゃなかったはずよ!
「母さん、わかってる。仇は必ず取ってみせるさ!」
 ――悔しいことがあったら立ち向かいなさい。黙って耐えていては駄目なのよ。欲しい物が手に入るまで戦うの。わかる?!
「ああ、やってみせるよ、欲しいものが手に入るまで戦ってみせるさ! 俺様にまかせておけ!」

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―#50―





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2014年08月22日

 ヒュードラーは一人だった。とてつもない孤独の中にいた。深く暗い闇の中にいた。
 誰を頼ったらいいのかももうわからなかった。たった一人「助けて……」と残ったわずかな息を吐き零せる人がいるとしたら、それは姉のリビュアだったが、彼にはもう姉を探す力など残されていなかった。
 なんとか気力を振り絞って幽鬼のような顔をして、ハウとエリスにトゥラキアの自死だけは告げた。だがそれからというもの、ヒュードラーは悲嘆に暮れてその夜はトゥラキアの亡骸とともに、まんじりともせずに過ごしたのだった。
 夫妻とは長いこと話していたようだが、「すぐに行くから、おかしなことをせずに、じっと待っているんだよ」という言葉だけしか憶えていなかった。
 倒れたビンとグラスの横には、手書きの手紙と、医師の診断したデータカードが残されていた。残酷な知らせばかりだった。医師の診断によれば、トゥラキアはリノにあるハウ夫妻の邸宅を訪ねたあとの精密検査で、すでに回復不能の損傷を脳に負っていることを宣告されていたのだ。
 誰にも語らず一人そのことに耐えて「ヒュー、あなたに先をこさせはしないわ。一緒にケイローンに乗るんだからね」と笑っていた底にどれほどの悲しみを仕舞い込んでいたのかと考えたとき、ヒュードラーはとめどなく溢れる涙もそのままに、肩を震わせて号泣したのだった。
 何もかも知ったうえで、飛行士の訓練をつづけ、その一方で無駄なことをしていることを熟知していたトゥラキア。酒と煙草だけが亡き母の楽しみだったのだと思うと、それを嫌がったことは許されざる罪を犯したような気もした。
 どうして正直に「あたしの体は壊れてしまってるの。ごめんねヒュー」と言ってくれなかったのだろうか。そういう恨めしさに襲われて、トゥラキアに憤懣やるかたなさを抱いたりもした。
 そんなこと、あの人が出来るはずがない。そのことを誰よりも知っていたヒュードラーの心は引き裂かれるように痛んだ。
 手紙には、震えるような筆跡で数行にわたって文字が書き連ねられていただけだった。

 
  ヒュードラー、ごめんなさい。
  淋しかった。
  それに負けました。
  お別れの言葉はいえません。
  自分勝手でごめんなさい。

  PS.あなたの本当の御両親は生きています。
  お姉さんと仲良くやってください。

 最後の二行は文字が乱れていた。おそらく、先の五行を書いたあと、煽るように薬を飲み、朦朧とする意識のなかで追伸を書いたのであろう。
 最後の最後までトゥラキアは彼の母であろうとしたのだ。もちろん、ヒュードラーはそれに気づかぬほど鈍感ではなかった。しかしそう思えば思うほど、ヒュードラーには彼女の抱えていた孤独の深淵さが理解できた。
「あなたには本当のパパもママもいるのよ。お姉さんもね。だから、淋しくなったら往きなさい。あたしを捨ててでも往きなさい。あたし? あたしは平気よ。いままでずっと一人で生きてきたんだもの。あなたがいなくなったからって何も変わらないわ」
 感情に起伏を見せない、あの独特の声が耳の奥でそう言っているのを、ヒュードラーは聞くことができたのだ。
「馬鹿野郎! 何も変わらないどころじゃないじゃないか。変わってしまうのが嫌だったから、一人になるのが嫌だったから母さんは自分で……いつかわからないでいきなり捨てられるより。自分の意志で去る方が……馬鹿野郎……」
 どうしてだよ……ボクは母さんを見捨てやしないって伝えたくて、飛んで帰ってきたんだよ……どうしてもう少しだけ待っていてくれなかったんだ……。
「うるせえんだよ! いま何時だと思ってんだ! 三日に一度はこうだ――」
 時折り、隣室からわめく声がして、ドンドンと壁を蹴るような音もしていたが、ヒュードラーの耳には届いていなかった。
 彼は、残されたデータから、<ケイローン>号の人格コンピューターのペールとメールが、実の両親であることも知った。詳細な理由や経緯はまったく記録にはなかったが、そのこともまたヒュードラーを縛りつけ、身動きがとれないほど苦悶させた。
「ペールとメールのことも忘れないでね」と言ったトゥラキア。はたしてそう言ったとき、彼女は事の真相を既に知っていたのだろうか? それも永遠の謎となり闇の中に消えてしまった。だが事実がどうであってもヒュードラーにとっては同じことだった。悔恨と悲嘆の色を深めただけだったのだ。
 両親が人格コンピューターになった詳細な経緯もおそらくトゥラキアは調べつくしていたはずだ。もちろん姉の行方や居所も。しかしそれすらも彼女はひとり抱えていたことに思い至ったとき、ヒュードラーは怒号のような声で泣きわめいた。
 やがて考えるだけ考え、思考力を失ったヒュードラーはただ茫然として、部屋に座っていた。
 ふと人の気配を感じたが、なにかをしようという気はまったく起きなかった。
 ハウとエリスが到着したとき、彼は極度のショック状態に陥っていたのだ。
 数日間、ヒュードラーは夢を見ることもなく病院のベッドで眠りつづけた。そのあいだに、ハウとエリスはトゥラキアの葬儀を終わらせていた。
「最後のお別れはさせてあげたかった気はするけど、残酷過ぎる気もしてた。これで良かったのかもね」
「隠しておいたこと、彼のお姉さんのこと。それだけが彼を生かしているんだろうね」
 ハウとエリスの顔にも疲れと沈鬱さがあった。
「彼は全てを失ったのかもしれない……」
 ハウは灰色の瞳を震わせながら、空を見やっていた。
「なぜそう思うの?」
「実の両親も、育ての母も失った。まだ彼は知ってはいないが、お姉さんも失っている。彼にとってケイローンはただの船じゃない。それ以外の船に彼が乗ると思うのかい?」
「無理ね。あたしがここまでこれたのは、アキレウスという船のファザーとマザー、そしてハウ、あなたがいたからだもの。彼の絶望の深さはわからないわけじゃないわ」
 エリスも淡褐色の瞳で空を見上げていた。
「もうボロボロになっているウサギの縫いぐるみ。憶えてるかい?」
「ええ」
「ヒューにとってはおもちゃのケイローンとボロボロのデータパッドがそれだろうね……だけど悲しいことに、物っていうのは人を過去に縛り付けようとするんじゃないのかな」
「そうかもしれないわね。正直、縫いぐるみのことは忘れてたわ」
「わたしらは彼の力にはなれないんだろうね……」
「なぜそう思うの?」
「彼のあの猟犬のような眼。あの光の強さはわたしらには無いものだよ」
 ハウとエリスは抜けるような空の向こうへといつまでも視線を向けていた。
 まるで<ケイローン>号を探しているかのように。

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―#49―





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 <アキレウス>号はフロリダにあるDOXA宇宙センターに無事着床した。
 ヒュードラーは<ケイローン>号とは一線を画するような新型の宇宙船や、ペールやメールとはまたちがう感性をもった、マザーやファザーの出来の良さに少しばかり圧倒されていた。ハウたちにすれば当り前のようなことも、彼の過ごしてきた歩みでものを見るとまた違った印象を受けたのだろう。物心ついたころから苦汁ばかり舐めつづけてきた者の見る風景とはそういうものなのだろう。おのずと変わってしまうのだろうと思いながら、ヒュードラーはハウやエリスを見つめてきたのだった。
「わが儘ばかり言ってすみませんでした。お世話になりました」
 そういってヒュードラーがハウに別れを告げようとしていたとき、エリスが血相を変えて艦橋に走り込んできた。
「まにあった……」
 エリスは両腕を膝において突っ張ったまま、激しく息を切らせながらなんとか立っている風だった。
「どうしたの? 何があったの? そんなに急いで」
「ヒュードラー、落ち着いて聞いて」
 息も整えぬまま、エリスは彼の肩に手を置きながら言った。
「ケイローンがPETUに拿捕されたわ」
「まさか……」
「マザーもファザーも確認したわ。救難電波SOSを発信できたのはわずかの時間だったみたいだけど」
「それで拿捕されてどうなったんだ?」
 とハウが尋ねるまでもなく、エリスは話つづけた。
「修理を終わって火星を発ったケイローンは、どうやら船内に不満分子を抱えていたみたいよ。はっきりはわからないけど、そうでなければあの聡明なペールとメールがなんとか出来たはずだもの」
「父さん……母さん……」
 ハウもエリスも、ヒュードラーがそう呼んだとき、彼がどれほどペールたちを慕っていたかを感じとった。ハウたちもずっとアキレウス号の両親をそう呼んできたのだから。
「あたしとしてはあなたが巻き込まれなかったことにホッとしたんだけど、なんだか胸騒ぎというかね。あたしは宇宙船の中で生まれ育ったから、人格コンピューターへの感情っていうのかな、少しはわかるつもりなのよ」
「それで、ケイローンは取り戻せそうなの? ねえ、またDOXAの船に戻れそうなの?」
 悲痛な叫びだった。ヒュードラーの顔には青ざめた哀願に色があった。
「わからない……けど状況は深刻らしいわ。ペールとメールは一時的にシャットダウンされた可能性もあるし、月であった暴動のあとセレーネはPETUの拠点になってしまっているしね」
「救援隊は?」
「無理だ。DOXAは非武装が原則だからね」
 ハウが沈んだ声でこたえた。
「軍隊はどうなってるの? こんなときこそUNFEが助けてくれるものじゃないの?」
「ヒュー、その軍が何もしようとしないのよ。あたしだって悔しいわ。けど事が重大なこともわかって。PETUの勢力は馬鹿に出来ないのよ。下手をしたら、地球と月が全面戦争なんてことにもなりかねないのよ。以前のように、PETUが弱小なテロリスト程度だったなら軍も即応したんだと思うんだけど」
「そんな……そんなことがあるもんか!!」
 ヒュードラーの腹の底で毒蛇が咆哮した。鎌首をあげて怨念の舌をチロチロと出していた。
「落着いて、落ち着くのよ。ヒュー」
「大丈夫だ、あのペールとメールだ。DOXAの船にあっては一番優秀で高潔だと言われてきた彼らだ。必ず窮地を脱してくるよ」
「気休めはいいんです……ボク、もう行きます」
「ヒュー、待って、待ってよ。あたしだって何とかしたいのよ、それにはあなたの力がいると思ったから、こうして話したのよ。待ってってば!」
 気休めはいいんですよ……エリスさん。
 彼にはわかっていた。誰よりも知っていたのだ。ペールとメールという“人たち”を。その彼らがまんまと出し抜かれた。拿捕を企んだ連中が綿密に計画し実行しただろうことも、それとなく嗅ぎつけていたのだ。ただの海賊行為ではない何かを。宇宙船の運行方法やシステムを熟知したものの影を彼は鋭く嗅ぎとっていたのだ。
 巨大な無力感に苛まれながら、ヒュードラーは船内通路を進んで昇降ハッチへと向かった。
 今は何も出来ないんだ。けど、絶対に取り戻してみせる。なんとしてもだ。でも今のボクにはその力がないんだ。許してね、父さん、母さん……。
 耳の奥で、厳粛だが温厚に話すペールに声が木霊していた。優しく包み込み、時折りへそを曲げて叱るメールの声が響いていた。
 助けて……誰かボクを助けてよ……トゥラキア……トゥラキア。そうだあの人ならボクのこの淋しさをわかってくれる。今すぐ行こう、会いにいくんだ。
 だからってPETUもUNFEも許さない。決して許さないからな。
 腹の底で毒蛇が悲しげに呻き、いくつのある頭をもちあげては憤怒の舌を吐き出していた。
 ヒュードラーは、体にできた虚無の穴を木枯らしが吹き抜ける寒さと、穴の底で怒りのマグマが滾らせる灼熱を感じながら、暴走列車のようにサクラメントを目指した。DOXA職員としてのあらゆる特権を行使して、あらゆる交通手段を駈って、あらゆる方法を駆使して、昼も夜も無くひたぶるにサクラメントを目指した。それはトゥラキアと疾駆したあのアメリカ縦断の再演のようでもあり、郷愁を激しく煽りたて、疲れた体に鞭を打たせた。
 ふと足を止めた瞬間、姉のことを忘れていたことに気づき、情けなくもなった。その非情さが腹立たしく、不完全で未熟なことに悲嘆して忸怩たる思いに涙した。淋しさのブリザードに襲われ凍えてしまいそうになり、怒りの熱射を受けて干からびてしまいそうになりながら、ヒュードラーはひたすらサクラメントを目指した。一目散にサクラメントを目指したのだ。母なるトゥラキアに会いたくて。
 雨が降っていた。雷鳴をともなって横殴りに降る雨が。廃工場のような場所に寝とまりして、ようやく走るようにした錆とへこみだらけの車。フロントグラスのない車内は水浸しになっていた。全身ずぶ濡れのままヒュードラーはアクセルを踏みつづける。
 何も見えない。いまのボクと同じさ。これが運命だというのか? 冗談じゃない。突き破ってみせる。試してやる、見ていろ! 弾も槍もボクを止められやしない。やれるものならやってみるがいい!
 神に挑戦するかのようにヒュードラーはアクセルをさらに踏み込んだ。段差にハンドルを取られ、何度も危うくなりながら、前へ前へと突き進んだ。稲光と雷鳴が交互に襲いかかってきた。腹に響く轟音。数瞬視力を奪ってゆく閃光。それでもヒュードラーは床を突きぬかんばかりにアクセルを踏みつづけた。
 サクラメントの郊外に達したとき、ようやく彼は車速を緩めて市街地に入っていった。雨はまだ激しく降っていた。もう落雷の音は聞こえなかったが、静けさが異様な無気味さで肌を刺してくるようだった。
 あと少しだ。十字路を四つ超えてその先を曲がればアパートがある。番地はニ六番地だ。忘れるわけがない。もう焦らなくていい。母さんはすぐそこなんだ。二階建ての煉瓦造りのアパート。薄汚れていて少しゴミの臭いがするんだ。
 目ヤニをためた野良猫がのんびり日光浴をしているのが、隣の部屋のベランダごしに見えたっけ。そうだ、あいつに名前をつけてやろう。母さんと話して二人で決めるんだ。二人の名前を取ったっていい。トゥードラーでもいいし、ヒュラキアだっていい。あんちょこな気がするけど、構いやしない。ボクたちがほっこりできればいいんだ。二人でミルクをあげたり、濡れタオルで目ヤニを取ってやるのさ。きっと喉をゴロゴロ鳴らすだろう。もうやめろ、くすぐったいというくらい薄汚い頭や背中を擦りつけてくるかもしれない。臭かったら洗ってやろう。母さんと二人で水を恐がって爪を立てる猫を挟み撃ちにして、風呂場に追いこむんだ。きっと猫だって石鹸の薫りに包まれたら気持ちよくなってぐっすり眠れるだろう。野良猫だからときどき喧嘩もするだろう。あっちこっち傷だらけになって、耳を切ったり、足を引きずって帰ってくるかもしれない。あわれな声をだして鳴くこともある。でもそれでいい。ボクも母さんもそれほど野良猫と変わりはしないんだから。
 もう見えるはずだ。濃い水色のペンキの塗られた手すり。所々剥がれて赤茶色の錆止めの染みがあって。その手すりのあるコンクリートの階段は恐ろしく急なんだ。なんど心配したことか。母さんがお酒を飲んで酔っ払って、あの階段から落ちたらどうしようと。だから痛んだ手すりが頼もしく見えたんだ。黒ずんでどんな色だったかもわからなくなっている檜葉ひばでできた分厚い扉。
「ヒュー、あなた知ってる? 檜葉の謂われ」
「なにそれ?」
「なんだか夢見がちだってあなたに馬鹿にされそうだから、言いたくないわ」
「なんだよ、途中まで言っといて、狡いじゃないか。気になるよ」
「うん……檜葉はね、翌檜あすなろともいうらしいのよ」
「それで?」
 あのとき僕はなんだか急に甘えたくなって、あの人の膝に乗って話のつづきを聞いたんだ。
「あすなろ。そうねえ、英語でいえばmay be tomorrowになるのかな」
「つまり?」
「明日こそって意味ね」
「なんでそれが夢見がちなの?」
「明日こそ、明日こそ、そう思って暮らしているうちにね、いつのまにやら歳を取ってしまい、賢人に笑われてお終いってことらしいわ」
「でも夢を持って明日こそいい日にするんだって思うことは、悪いことじゃないと思うけどね」
「そう思えたら幸せね」
 雨に濡れ寒さに震えながら、ヒュードラーはその檜葉の扉の前に立っていた。
 鍵はかかっていなかった。軋む扉を引き開けると、目の前には暗がりがあった。
 こんな時間だ。寝ててあたりまえか。
 時間は十二時をまわっていた。ヒュードラーは濡らさないようにと厳重にビニールに包んできたデータパッドの電源を入れて、仄かな明かりを頼りにトゥラキアのいる寝室へと向かった。
 やっぱり寝てるか。
 込みあげてくる懐かしさに突かれてヒュードラーはベッドの脇へと歩いていった。
 パッドの発する光に照らされているせいか、トゥラキアの顔はいやに青白く見えた。
 ヒュードラーは、傍らに投げ置かれていたタオルを掴むと、手足と頭を拭きながらじっとトゥラキアの寝顔を見つめつづけていた。
「母さん……」
 奇妙な胸騒ぎに襲われたヒュードラーは、トゥラキアの頬に手をのばした。
 氷のように冷たかった。
 掌を口元に動かしてみても何も感じ取れなかった。
「母さん?」
 慄然たる衝撃が駆け抜け、ヒュードラーは振り返った。
 そこには空になった瓶と空になったグラスが転がっていた。
「嘘だ……嘘だろ母さん」
 トゥラキアの肩を掴みヒュードラーは張り裂けんばかりに叫んだ。
「嘘だー! ……あすなろじゃなかったのかよ、母さん。どうしてこんなことしたんだ。なんでだよ……」
 ぽとぽとと涙が落ちても、トゥラキアは瞼を閉じたまま押し黙っていた。
「嘘だと言ってくれよ……」

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―#48―





ipsilon at 20:43コメント(0)トラックバック(0) 
 赤い惑星、Mars(マーズ)、いくつかの呼びをもつ太陽系第四惑星の火星。
 その呼び音の中でもっとも火星を的確に表しているのは、神話にある「城壁の破壊者」というものであり「破壊と狂乱」というアレスという名の神ではないかとヒュードラーは思った。
 酸化鉄を含む赤い地層は見るものを畏怖させ、直径は地球の半分ほどだというのに、地表の起伏は激しく荒ぶれている。
 かつてこの星では惑星規模の戦争があった。鉄でできた戦いの機械たちは互いを破壊しあい殺しあい、なだらかだった美しい地表に穴をうがち、眠れる火山を怒らせて地球の規模とはくらべものにならない高さで屹立する山と冥界のように深淵な谷をつくった。そして人々は滅亡した。残ったものはそれでも生きつづけた季節だけなのだろう。ヒュードラーはギザ基地の宇宙港にほど近い部屋で、風に吹かれて赤銅色の砂が渦を巻くのを見つめながらそんなことを考えていた。
 戦い、戦い、戦い……いつもそればかりだ。腹の底から憤怒が湧き上がってくるのがわかった。
 いまのギザ基地だって何も変わらない。嫌われものの軍隊が目障りだと言って、地球人テランは戦いの地を火星へと追いやった。そこで軍人たちが作り上げたものといえば、地球の二分の一サイズのピラミッドとスフィンクスと、この宇宙港だ。過酷な労働条件だったのだろうに、ピラミッドやスフィンクスの配置は地球のそれと寸分も違わぬほど正確だ。エジプト五千年の歴史にあやかって「滅びざるもの」を作りたかったというのか? 馬鹿馬鹿しい。滅びを恐れているから、あんな城壁を作ってギザは我が身を守っているんじゃないか。自信のないことおびただしい。それでも自分たちが愚かで憐れな存在だとさえ気づけない。人間てなんなんだ。戦っている人間ていったい何なんだ!
 ヒュードラーは、鞭打たれたときに感じた、瞬時に肌を焼かれるような痛みを思いだし、叫びたい憤怒に駆られて、赤茶けた風景をじっと見つめていた。
 つかの間の平和。家庭? それだって怪しいものだ。あの城壁はどうだ。誰人の侵入さえ許さないような分厚さと高さをもって頑強に築かれた城壁。だがそこで何があった。数か月前、見知らぬ集団の襲撃を受けて、レーザーに焼かれ、手榴弾を投げ込まれ、閃光で視力を失い、腹や背中に火傷をおい、腕や足をひきちぎられ、死んでいった人がいるっていうじゃないか。
 遠く霞む城壁には、焼け焦げた痕や削れ落ちた部分がまだ修復されぬまま、侘しい姿を曝け出していた。
 火星が悪いんじゃない。この星がつけられた呼び音に罪なんてない。かつて美しかっただろう楽園を破壊し、それにちなんだ名を与え、見下しているのは人間だ。人間こそが悪じゃないか。腹の底でいくつもの頭を持つ大蛇が殻を破ろうとして暴れているようだった。まだ生まれたばかりであろう小さな存在だと感じはしたが、多頭の蛇はいつか凶悪な怒りを爆発させるような気がした。それほどヒュードラーの中にある憤懣は熱せられていたのだ。
 それでも彼は、血眼になって赤い世界で心安らぐものを探し出そうとした。
「あるとしたら……」
 視線の先には、船体や各種装備の試験と完熟訓練のために、ギザにやってきて、<ケイローン>号の隣で翼を休めている<アキレウス>号があった。
 ハウとエリス。でも違うんだ。生来ボクとあの人たちは人種がちがうんだ。あの人たちは温かい、とても温かい。ともするとあの人たちの中にいることで、ボクは自分を失ってしまいそうになるのをこれまで何度も感じてきたんだ。だからあの人たちはボクの家族にはなりえない。信じてこの身を投げだせるのは……。
「姉さんとあの人……そしてペールとメールなんだ」
 ヒュードラーは視線を<アキレウス>号から離して、デスクの上にぽつんと置かれているポンコツ宇宙船のおもちゃと、その横にあるいまも使っている傷だらけのデータパッドを見つめた。
「帰りたい……あの人と姉さんのいる地球に」
 ……そうだ、方法はあるじゃないか! <アキレウス>は地球に帰るんだ。何も修理のはかどらない<ケイローン>で帰ろうとすることはないんだ。だけど、父さんと母さんはどうするんだ。いいや平気だ。父さんと母さんはボクなんかが心配する必要なんてありはしない。それにボクはDOXAにいる限り、この船のクルーでありつづける、そう決めてるんだし。よし帰ろう。帰ってあの人に会って、姉さんを探しだすんだ。あの人がボクの願いに首を振るはずんなんてない。またアメリカじゅうを走り回ることになったって一緒に旅をしてくれるさ。いや、アメリカだけじゃない。アジアだってヨーロッパだって行ってくれるさ。あの人はきっとボクの傍にいてくれる。
 何かに弾かれたように、ヒュードラーはインターホンのもとへ駆けだすと、受話器を上げて、
「アキレウス号への直通回線を開いてくれ」
 と明敏な声でいった。
 その<アキレウス>号と<ケイローン>号の人格コンピューターは情報交換のために、直結回路を接続していた。厖大なデータがやりとりされていたが、作業はもう終盤に差しかかっていた。
「なあおまえ、アキレウスが送ってよこしたあのデータはもう知っているのかい?」
 人格コンピューター間の直通秘匿回路を流れたペールの声は沈んでいた。
「あれと申しましても、何のことなのか……」
 メールはそっけない素振りをみせたが、「あれ」がなんであるのかは十分にわかっていた。
 咳払いのような信号を送ったあと、ペールは悲痛な感情を回路に流しながら、
「娘のことだよ」
 と囁くようにいった。
「名前というものだけであれば、あたくしも同姓同名ということを考えもしました。でもあのアキレウスの寄こしたデータには、あの娘の出生地も、生年月日も、生育履歴もありました。もちろん家族構成も。事実として受け入れるしか……」
「では君はヒューのこともわかっていたんだね」
「はい。黙っていて申し訳ありませんでした」
 ペールは思った。いまこの耐えがたい苦痛を乗り越えるためには、メールの顔を見て、体温を感じとって、涙に泣きぬれたいと。メールもまた同じ感情を抱えていた。
「忘れるはずがありません。ヒュードラーはわたくしの息子です。そしてリビュアはわたくしの娘なのですから。どんなに忘れようとしても忘れられるはずなどありません」
 メールの神経回路は涙滴で満たされていた。
「その息子も、どうやらこの船を去っていくようだがね……」
「さっきアキレウスとの回線を開いたようですからね。もちろん話した内容まではわかりませんが」
「リビュアのこと……彼に伝えるべきだろうか」
「そんな残酷なことは出来ません。あの子はまだあたくしたちが死んだと思えていないでしょうし……ましてや……」
「名のりあうことも叶わず、ただ黙って見守るのがわたしたちの勤め……か」
「ヒュードラーはきっとリビュアの死も受け入れらないでしょう。あの子はまだ子供なんです。ようやく十一歳になったばかりの子供なんです。残酷すぎます。神は憐みをたれてくれないものなのでしょうか……」
「おまえ、感じたかい? あの黒雲に遭遇したときに、なにかを」
「ええ……幽かにというか、気のせいとも思えましたが」
「人格コンピューターに、気のせいなど介入のしようはないよ」
「そうです、わたしはリビュアの声を聞いたのです。聞こえましたとも。『ごめんなさい……ごめんなさい……』と泣く声を……」
「もうよそう。考えたところで何も出来ないことをわたしたちは誰よりも知っているのだから」
「恨めしいんです……」
「よしなさい、メール」
「自由に歩きまわれる体が恨めしいんです。今すぐあの子を抱きしめられる腕が恨めしいんです。あの子を抱いて『大丈夫よ、あなたは一人ぼっちなんかじゃないの』と言ってあげられる口が恨めしいんです」
「よせ、よすんだメール、よしなさい。少し寝るといい、君は疲れているんだよ」
 ヒュードラーが何も知らぬまま<キンダーハイム・アキレウス>号に移乗して、地球に向かって飛び立ったのは、それから数時間後のことだった。
 星空では火星の衛星フォボスとダイモスがまなじりをあげて船を睨んでいた。狼狽と恐怖の眼で。
 少年の腹の底で毒蛇が殻を破って、恨めしそうに怒りの咆哮をあげた。毒蛇を制する毒はまだ少年の手に握られていた。

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―#47―





ipsilon at 17:48コメント(0)トラックバック(0) 
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