小説・短編『仇も情けも我が身から』――しし座

2015年10月18日

 ヘルクレスは思った。遠からず戦いの時がくると。まだ見ぬ相手を心に感じ、大地を蹴った。身の丈七尺に匹敵する巨木にむかって。己という大樹にむかって。
 ぶあつい胸板に強圧を感じ、足の裏が大地を掻いてゆくのを覚え、全身を鮮烈な雷光が突きぬけてゆく痺れに打たれた。それは噴きあがる歓喜や感激とも、渓底へ叩きつけられる悲しみや絶望ともいえない感覚だった。
「ヘルクレスきょう、ヘルクレス卿! ――王がお呼びです」
 まだ痛みも痺れも、どこからともなく湧きあがってくる喜びからも覚めやらぬまま、ヘルクレスは伝令の声を耳にしていた。
「いま行く。そう時間はかかるまい」
 服やむきだしの肌に、立ち上り降りつもった砂埃をはらいながら答えた。喜びがわが胸中からのものであることを感じながら。
 ここは地上にある、ミュケナイの国。いまその国璽こくじに刻まれている名はエウリュステウスであった。ヘルクレスは匂いたつ林を抜け、王の御す宮殿へと急いでゆく。初夏の空気は澄みわたり、心地よい温もりをおびている。遠く、近く、カッコウが鳴くのも聞こえる。ヘルクレスはその声を耳朶に受けながら卑屈な笑みを浮かべていた。
 他の鳥の巣に卵をおき、わが子の養育をまかせる図太さ。だが彼はそれを笑えなかった。いかなる理由があろうと、記憶さえおぼろげであろうと、ヘルクレスの胸にはいつもわが子をあやめた、どす黒い罪の意識という塊が巣食っていることを忘れようがなかったのだ。王宮をまもる水壕にかかる橋をわたりながら、一瞬、黒々とした流れを見たような気がしていた。だがヘルクレスは、橋をわたりきると、慌てて首を振り、まといつく罪悪感から逃れるように、王宮へ向けて力強く一歩を踏みだしていった。
「あいつ、暗いなー」
 天上の世界で、白亜の宮殿にあるさじきで、ヘルクレスを見つながら堂々とした神性を漂わせる男が言った。全知全能の神、ゼウスである。
「なんでこうもっと自然にしとられんのだろうね、なんか悩みでもあんのかね?」
 爽やかな陽光と風のとおるさじきにはゼウスの正妻、ヘラの姿もあった。
「いかがなものでございましょうか。人間というものは、何かしら捨てておけぬ執着だとかいうものを持っているようですが」
「しゅーちゃくねー。面倒くさいね。――じゃあさ、ヘラちゃんはあいつが何かに執着してると思ったりするわけ?」
 ゆうに、寝台にでもなるほど豪奢な背凭れのある寝椅子にすわったままヘラは、
「そうですね……おそらくは、息子のことでございましょうかね」
 と悪意のこもった視線をヘルクレスに投げかけた。
 ゼウス神は、しばらく口を閉じてなにごとかを思案していたようであり、ヘラはひじ掛けにある金襴たる紋様を――とぎれることなく続き、互いが絡みついている糸を――なんとはなしに指先でなぞっていた。すると、鼻下に伸びた髯をひっぱりながら、思いついたようにゼウス神が口を開いた。
「息子かー。あいつは儂の息子。ということはあいつの息子は儂の息子の息子だからして、儂にとっては孫だね。――でもさ、あいつは儂の息子だから、半分不死身だよ、死なないんだよ。何が不満なんじゃろね」
 わが夫ながら、無邪気すぎであると思いながらも、ヘラはそれに答えた。
「きっとお優しい貴方様にはおわかりにならないのでしょう。憎しみの果てにとってしまう自らの愚かさを恥じるという気持ちが……」
「ヘラちゃんそれわかるの? それってどんなの?」
 王妃は小さく嘆息したあと、
「いかほどかは……なんとなしには……。もっともそれが貴方様にわるようであれば、わたくしもそういった憎しみなど……呪いをかけようなどとは……」
 と囁くような声で漏らしただけだった。しまいのほうは密やかな独り言のようであり、ゼウス神には聞こえないほど小さな声だった。
「まあいいや、儂ねヘラちゃん――退屈だったからちょっとあいつに悪戯したよ。仕上げは見てのお楽しみー!」
 そのときヘラは気づいたのだった。そういえばほんの少し前に、夫の指先から雷光が地上へと放たれたのを。
 鬼が出るか蛇が出るか――王妃は自分のかけた呪いと、夫の放った雷光を秤にかけ、ふと首を傾げて、裏には裏がある――とも考えたのだった。
 そんな天上世界でのやりとりなど露しらず、ヘルクレスは王宮の玉座のまえに跪いていた。
「よくぞまいった」
「御意」
「まあよい、きまりきった形式などどうでもいい。楽にするがよい」
 ミュケナイ王、エウリュステウスは自らも纏った分厚いローブを跳ね上げて、気安い姿勢であることをしめしながら、先を続けた。
「そのほう、ネメアの洞窟に一頭の大獅子が住んでおることは知っておるな」
「人や家畜を食い荒らし、鋼のような皮膚とばねのような筋肉をもつ不死身の獅子がいるという噂は耳にしております……」
「そうじゃ、そやつだ。領民からの苦情も絶えない。最近も家畜が大量に殺され、王宮への租税が減っている。何度かは討伐の部隊も送りこんではみたのじゃが、全滅するばかりじゃて、放っておくしかなかったのじゃ。――そのほう、なにかいい方法を思いつかんか?」
「…………」
 玉間にしばし沈黙が訪れた。王も従僕も、部屋にある何もかもが、なりをひそめてヘレクレスの言葉を待っているようであった。
 王は何をわたしに求めておられるのだろうか? ヘレクレスは跪いたまま視線を床におとして考えていた。常識で考えれば、部隊などという規模ではなく軍を率いて討伐に赴くという答えしか残されていない。だが王はそういう答えは期待していないのだろう。ヘレクレスは考えた。考え続けた。そして閃いた。
「エウリュステウス王、わたくしにお任せください」
 ときっぱり言ったのだった。
「いま何と言った? わたくしにということは、お前ひとりでという意味か?」
「さようでございます。大した手ではございませんが、思うところ大獅子に剣は通用しないでしょう。よって矢を放ち、棍棒で追い詰め、洞窟に封じこめるのが宜しいかと」
「なるほど。――しかしてその後はどうするのじゃ」
「それが思いつきません。しかし何か方法はあると存じます」
「よかろう、その案に目星がつきしだい、やってみてくれようか?」
「御意!」
 こうして、ヘルクレス一人による、大獅子退治が決まった。のちの世にいう、十二の大業と呼ばれるはじめの試練であった。しかしその背後には、ヘルクレスを憎み、殺してしまおうとするヘラの呪いに操られる、エウリュステウス王の陰謀がいつも隠されていたのだが、ヘレクレスははかりごとなど意中になかった。彼の心中にあったのは、いかにして止めを刺せばいいかという一点だけだったのだ。
 ヘルクレスは、夜明けととも巨木と格闘し、日暮になれば寝台に身を休めつつ輾転とし、一点を見つめ続けた。三日過ぎ、五日が過ぎていった。しだいに苛々とした表情と声をつのらせる王、エウリュステウス。一週間が過ぎたとき、ヘルクレスは死を覚悟して王宮をあとにしたのだった。
 もはや猶予は許されぬ、という思いに駆られながら……。
 その朝は抜けるような青空だった。長弓と巨大な棍棒をもった身の丈七尺の男が通り過ぎてゆくと、噂を聞きつけていた人々が彼を追って、ネメアの洞窟へと進んでゆく群衆ができあがった。森深い中に切り立った崖と海が突如ヘルクレスの眼前に見えはじめたとき、群衆は百千を超えていた。潮の香りが鼻腔をさしはじめた頃、断崖にぽっかりと口を開けた洞窟の入口が視界に現れた。
 暗闇の奥で、異様な気配に気づいた大獅子はふたつの眼を鋭く見開くと、立ち上がり、入口へと向かいはじめた。
 いるな……。大獅子の荒々しい吐息を感じ取ったヘルクレスは、用意してきた長弓を構え、鉄でできた矢を次々に大地に向けて打ちかけはじめた。鈍い音をたてて矢は次々に大地に突き刺さり、いっときにして洞窟の入口あたりは、鉄柵に囲まれたような場所が出来上がっていた。獅子は咆哮とともにヘルクレスに襲いかかってきた。間一髪、彼は鋼鉄の棍棒で牙と爪を防いだ。眩いばかりの火花が散った。大獅子はしだいしだいに洞窟へと追い詰められてはいったが、ヘルクレスの思うように、追いたてられはしなかった。助走をつけながらヘルクレスに突進を繰り返すばかりだった。絶え間なく火花が散り、鋼と爪がぶつかりあう音と咆哮が大気を切り裂いていた。
 ヘルクレスと変わらず、体長七尺はあろう大獅子である。にらみ合い、ぶつかり合うこと数時間、次第しだいに形勢は逆転していったのだった。空腹感を覚えたのであろうか、ネメアの大獅子は鬣をいからせ、涎を垂らしながら烈風のように突進してきたとき、さしものヘルクレスも受け止めることができずに、大地に腰を落としてしまった。
 百千の群衆の口々から声にならない声が発しられた。が、その瞬間、ヘルクレスは意識したともしなかったともいえる神速さで大獅子の首にしがみついたのだ。
 己の手首をしっかと握りしめたヘルクレスはもう何も感じていなかった。いや、そうではなかった。視野はかすみ、群衆の声も聞こえてはいなかったが、大獅子との奇妙な一体感だけはかんじとっていた。額に張りつく濡れた髪の不快感、滴る汗が眼に沁みる痛み、己の両の拳に込められた力、両腕をつたって這い上ってくる大獅子の息遣い。肉体を切り裂こうと躍動する大獅子の爪のありか、右に左に輾転として入れ替わる体位といったものだけを感じていたのだ。
 ヘルクレスは奇妙な一体感だけを捉えようと必死になった。時折り皮膚を切り裂かれる痛みと、傷口から流れ出る血の熱さを感じながら、心の中で叫んでいた。我はヘルクレスなり! 我はまた大獅子なり! と。神経は研ぎ澄まされ、互いの体温や、触れ合う肌触り、吐きかけあう息の臭いまでもを感じとっていた。それと同時に、大地との一体感や、口から気道をとおり、肺が生みだす力が、筋肉へと流れ込んでくる血潮さえ感じ取っていた。
 ヘルクレスは奇妙な一体感の中でひたぶるにそうした全てを感得しながら大獅子の首を絞め続けた。戦いは三日三晩にわたって続いた。とうに限界を超えていたヘルクレスの双眸には何も見えていなかった。その耳も何も聞いていなかった。鼻と口は呼吸を忘れたかのようだった。全身の筋肉は疲れ果て、神経もまた何ものをも脊髄や脳髄に送ろうとしていないようだった。もはや自分に骨があるのかさえわからなかった。ただ残されたなにかに突き動かされて、極小の細胞のすべてがまだ何かを感じようとしているようであり、胸の真ん中に気のようなものだけがあるようでもあった。
 そのとき、ヘルクレスは突如として噴き上がるような歓喜と、渓底へ叩きつけられるような絶望を感じとった。
 生という喜びであり、死という悲しみであった。
 彼はぼやけた視野に色が戻ってくるのを見つめながら、己が拳を大獅子の首から解き放したのだった。その両の掌へと伝わってくる感覚に彼は涙した。わが子を締め上げたあの感覚を思い出したのだ。そして大獅子と格闘しあった一体感がまた全身にこみあげてくるのを抑えることすら忘れ、ただ涙にくれたのだった。
 獅子よ、そしてわが息子よ、ありがとう。お前たちは俺が生きているということを教えるために死んでいったのだな……獅子よ、息子よ、ありがとう!
 天上の世界から、咽び泣くヘルクレスを見つめる視線がふたつあった。
「あいつ強いなあ、やっぱ儂の息子じゃ、ばんざーい!」
「…………」
「あのねヘラちゃん、儂のぴかぴかズギューンっていう雷光はね、あいつと獅子の決闘が見たいんだけど、どうよ!? というエウリュステウスへの問いかけだったのよ」
「そうでございましたか……」
「さて、儂は寝る! ごきげんよー!」
 ヘラが夜空を見上げると、そこには満点の星空があった。
 ゼウス神の寝室へと続く回廊から、
「あそうじゃ、大獅子の供養、忘れないうちにしとかないとなー」
 という、欠伸まじりの声が小さく聞こえていた。
 天の川を浮かべた夜空の一角に、星が輝きはじめるのが見えた。のちにレグルス、デネボラ、アークトゥルス、スピカと名づけられた、しし座の星々である。
 その夜ヘラは、透き通るような美しい肌を一陣の寒々とした風が吹き抜けていったような気がしていた。
 ヘルクレスよ許せ。わたくしはお前が自分自身と戦い続けた姿をよもや忘れまい。わたくしはあの夜、わたくし自身に負けたのだ。高く掲げられた両手の先で星が瞬いていた。
「獅子よ許せ、ヘルクレスよ許せ、わたくしを許せ!」
 風に吹かれたヘラの頬に涙が光っていた。
 
―完―


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