小説・短編『恋する冥界の王』――おとめ座

2015年10月20日

 天上と地上の世界がなりたつまでに、かつて大きな戦争があったこと知るものは少ない。それ以上に神々と人間と妖精たちが楽しく暮らすふたつの世界の底に、冥界が存在することを知る者もまた少ないのである。
「きたきたー、これで新しい装置の設定は大丈夫みたいだなー」
 天上界で全知全能の神といわれるゼウスの顔はほころんでいた。
「なんでございますか、そのごたごたした機械は?」
 みたことのない装置に興味深々なのは、ゼウウの正妻、ヘラである。
「ああこれね、パソコン――パーナル・コンピューターの略称らしいよ。いまね、兄貴からメールが来たんだよ。メールって手紙のことね。ほらこれ、これね」
 といいながら、ゼウス神は卓上にある掌くらいの大きさのものを動かしていた。
 ヘラがのぞく画面には、手の動きにあわせて動く矢印のようなもの――カーソル――があり、それがゼウス神の操作にあわせて動いているのだった。
「でも貴方、この機械には手紙を運ぶあの筒のようなものがありませんが……」
「これね、無線通信なの。インターネットっていうらしいよ。儂のびかびか雷にさ、手紙が添付できるような感じっていえばわかりやすいかなー」
 ヘラの美しい碧眼に薄く怒気の曇がかかっていくのがわかった。
「貴方まさか!」
「しなし、しない! もうしないよ! ちょっと前に筒で手紙送りあったのとか、ちょっと懐かしいけどねー。恋愛寝殿とさ、ここの王宮を筒でつないでさー、デメテルと恋文交換したの、あれ楽しかったんだけどね」
 それを聞くと、唇を尖らせ頬をふくらませ、ヘラは抗議の態度をしめしてみせた。
「もうしないってば。今はね、インターネットの時代だしさあ、それにこれ、今のところ冥界としか繋がってないからさ。写真も送れるらしいんだけどね」
「さようでございますか。――それでお兄様からなんて?」
「いや実は困った相談を受けてさあ……」
 と、急にゼウス神は深刻な表情を浮かべて、椅子に腰かけたのだった。
 ヘラの聞いた話はこうだった。
 かわり映えのしない闇につつまれた地底世界、冥界の王ハデスが恋をしたのだという。相手は豊穣の女神デメテルの娘であるペルセポネだと。デメテルはかつてゼウス神に見初められて子を産み、そののち恋愛寝殿と王宮を結ぶ筒でゼウス神と恋文交換したあの豊穣の女神であり、その娘ペルセポネはヘラの怒りをかい、今は地上で暮らしている美しい姫君である。ようするにヘラからすれば、不倫した女神の娘であるペルセポネに、冥界の王であるハデスが恋をしたという、なんとも複雑な感情を呼び起こす話であった。しかもその冥界王のハデスは、ゼウス神の実の兄であるのだから、目も当てられたものではなかった。兄弟そろって、女っ気の多いことおびただしい! と呆れるしかなかったのだ。それでも、大獅子退治事件以来、心を入れ替えたヘラは、不機嫌な顔ひとつせず、夫のゼウス神とともに、なにかうまい方法はないものかと考えあぐねたのだった。
「なににせよ嫉妬心もそうですが、心許せぬ者に娘を嫁がせるという親心というものも痛々しいのではなかろうか……そうは思いますね」
 ヘラはかつて自分が味わった嫉妬心の苦みを噛みしめるようにそう言った。
「確かにそうじゃなあ。けどあの兄貴だよ、兄貴。わがままなハデスからのお願いなんだよ。困ったなあ……」 
 思案すること数時間。何杯かの紅茶や珈琲が運ばれ、時は過ぎていった。
「儂もう無理ー。これ以上飲んだら水っ腹になるー」
 ゼウス神が悲鳴ともつかない他愛なさを曝け出したころ、ヘラは妙案を思いついたのだった。
「いい方法があります。妖精ニンフたちを使うのです」
「それってどういうこと!?」
 狡知に眼を光らせながら、ヘラはこう言ったのだ。
「誘拐させればいいのです!」と。
 こうしてヘラが考案し、ゼウス神が承認した誘拐計画は、天上中央情報機関――CIAH――の諜報秘密工作妖精に伝えられ、冥界の王ハデスには、メールでその詳細が知らされたのだった。
 作戦名は「水仙の花に隠れて忍びよれ!」と決まった。またの名をオペレーション・ナルキッソス――雪中花せっちゅうか作戦――と呼ばれたのだった。
 それはとても美しい歌声だった。ペルセポネが妖精たちの奏でる調べにあわせて歌う声は、まっ白な水仙の花を微かに揺らしていた。白い花びらの中心では、黄色い花冠が喜びに微笑んでいるようだった。
「お姫様、もう随分とお摘みになられましたね。でもいったいそんなに一杯、どうなさるおつもり?」
 傍らにいた妖精の一人がこれもまた歌うような声色で訊ねた。
「あらいけない。ついつい調子にのってしまったみたいね。春を告げる花だからかしら、こうして際限を忘れさせられてしまうのは」
 といって、ペルセポネは色白で可憐な顔をほころばせた。
「あらあら、いけませんこと。お日様もあんなに傾きはじめていたなんて」
 いいながら水色の空を仰ぎ見ようと、薄手の帽子をずらしたとき、はらはらと落ちてきた金色の髪が日の光を煌めかせて反射させた。落ち着きを秘めた橄欖石かんらんせき色の瞳には、たなびく雲が浮かんでいた。
「今日はこれでお開きにしましょう。さあみなさん、帰るとしますかね」
 両腕いっぱいに水仙の花を抱えたペルセポネは、妖精たちと歌いあいながら、城へと続く草原につけられた小路に、ゆったりした足取りを運んでゆくのだった。
 地平に橙色の光が射しだしたころ、ペルセポネは城まであとすこしという林をすぎていた。湯けむりの林をぬう小路は、やがて丈低い草を茂らせた湿原へと続いてゆく。あなたこなたを見わたせば、ほうぼうに水面の照りかえしが見られ、ところによっては温泉が湧きでているのか、霞のような湯気をゆらゆらとのぼらせていたりする。妖精たちとペルセポネは、不思議な景観に心惹かれながら足を運んでいた。歌やお喋りをしながら、水仙の香りを漂わせつつ。
「あらまあ、地震でしょうか、いま大地が揺れませんでしたか?」
 繊細なペルセポネは、足元の微妙な変化をみのがさず、妖精に話しかけた。
「さてどうでしょう……」
 空中を飛翔していた妖精は羽をとめ、大地の変化を読みとろうとし、小路に足取りをとっていた妖精は地の底を確かめるかのように、大地に顔を近づけ耳を澄ましたりした。
「なにごともないようですが」
「うんうん」
 妖精たちは次々に肯きあい、ペルセポネに微笑んだ。もっとも妖精たちのなかには、大地が震動していたことに気づいていた者もいたのだが、CIAH諜報員である彼女たちは、そしらぬ素振りを決めこんでいたのだ。
「では気のせいですね。先を急ぎましょう。――さておつぎの歌は……」
 そういって歩きはじめたとき、紛れもなく大地が揺れるのがわかった。
「なにごとでしょうか。春うららのこの季節に。お母様がなにか新しい種類の力でも試されているのかしら?」
 ペルセポネは豊穣の女神である母デメテルが、秋の実りを盛んにしようと、土に魔法を与えたのかと思いついたのだ。
「気にせずまいりましょう」
 白皙の姫は、腕いっぱいに抱えた水仙の香りを吸い込み、不安も見せずにまた歩き出した。
「ペルセポネ様、なんだか泉の様子がおかしいようですが……ほら、あそこ」
 カリンバ奏者の妖精が気懸かりそうに、あたりを見ると、そこかしこにある湿原の様子は確かにおかしかった。湖水は泥色に濁り、どの湖面からもゆらゆらと湯気が立ちのぼっているのだ。ペルセポネは立ち止まってしゃがみこむと、靴をぬぎ、裸足の足と掌を大地に触れさせ、もって生まれた感覚をとぎ澄まそうとした。そのとき、また大地が揺れた。こんどは姫も妖精たちも、それが地面からくる振動であることに間違いないことを感じ取っていた。
「なんでございましょう。大地の神ガイア様のご機嫌が優れないのでございましょうか……」
 呟くような声が橙色に染まりわたった大気に消え入ろうとしたとき、また大地が揺れた。いや、ゆれたというものではなかった。激震しだしたのだ。
 かと思うと、ペルセポネのいるそばの大地が裂け、濁って湯気をあげていた湿原のひとつから、泥を喰い破って咆哮をあげる、みっつの頭をもつ真っ黒な皮膚をした、獰猛そうな犬が姿を見せたのだった。
「ケ、ケルベロスだ!」
 恐怖に震える声で物知りな妖精が叫んだ。
「じ、地獄の番犬だ! みんな、姫を守るんだ!」
 大地からくる突き上げるような衝撃的な揺れのなかで、妖精たちはペルセポネの周囲をかこんで輪を作った。しかし、果せるかな、楽器や歌を生業とする妖精たちが、姫を守り切れるようには見えなかった。がうがうと呻りながらケルベロスが近づいてくると、彼女たちはただあたふたとするだけだった。手にしていた楽器をおしげもなく投げつける勇者もあったが、虚しく地面に落ちて壊れるだけだった。思いもよらぬ音があたりを喧騒とさせた。ひしゃげたカリンバの音、鈍いティンパニーの音、耳障りなシンバルの音、それぞれが悲鳴のような音だった。そうした喧騒のなかで、ペルセポネは蹄の音を耳にした。見れば、避けた大地の底から。疾風にように駆けあがってくるのは、隆々とした艶をはなつ黒馬を馭す、黒い鎧兜に身をかため、茫漠とした空気を漂わせる姿だった。誰もがそれが何者であるかはすぐに気づいたが、その名前を口にすることなく、恐怖のあまり、つぎつぎに失神してゆくのだった。気のいい妖精も、音楽好きの妖精も、諜報員の妖精も、そしてペルセポネも……。
 全身黒ずくめの男は姫の傍らで愛馬の手綱をひき、ゆき足を止めると、大地に倒れる寸前のペルセポネをなんなく小脇に抱え上げ、黒馬の片腹を蹴り、裂けた大地の底へと踊り戻ってゆくのだった。“見えない者”ハデスのことを憶えている妖精は一人もいなかった。太陽が沈み切った野辺で、正気にもどった妖精たちは、あたりの惨状にただ口をあけ、ペルセポネがいなくなったことだけを知ったのだった。
 ――you've got mail!
「おお、メールが来たー! 誰からだろう? ていうか、きっと兄貴からだね。名づけて『冥界通信』――なんてね!」
 最近、とみに出来た女房になったとヘラにご満悦なゼウス神は、嬉しそうに卓上の装置に手をのばした。
「どうやらうまくいったみたいだな、『誘拐成功! Thank you !』 だってさ。そっけないなあ、兄貴ったら。――そんなことより、これはどうかな?」
 ゼウス神は、パソコンに新たに設置した実況生中継機――ライブチャット――の画面を開いて枠内にうつる映像を見つめたのだった。
「あらまあ、ご熱心でいらっしゃること。陛下の新しもの好きは、いいことなのか、わるいことなのか……」
 ちょうどお茶の時間であった。姿を見せたのは盆を手にしたヘラであった。
「陛下とかやめてよ、こそばゆい。――どうこれ、面白いじゃろ?」
「これは……恋愛寝殿ですか。ほほう、便利なものですね」
 画面の枠内に映りこんでいたのは、いまもデメテルの住居となっているドーム型の天井をした後宮だった。
「あのね、地上の連中ともね、メールできるようにしたのよ。これでさあ、いちいち馬車とばして、巡察にいく必要もなくなったのよ。儂、太っちゃうかもしれないけどね」
「そうともいかないものじゃありませんか。人も神もしょせんは顔を合わせて話さないことには、どうにも腹の中まではわかりあえないものでございましょうから」
「まあそうだろうけどさあ、腹の中までわかりあう必要もないでしょ。いや、それはちと困るしね」
「…………」
 ヘラが唇をとがらせ頬をふくらませてみせると、ゼウス神とその妻はとたんに可笑しさがこみあげてきたのか、二人しておおらかに笑いあうのだった。
 こうして、天上の世も、地上も、また冥界すらも幾日かは平穏なときが流れていったのだった。
 やがて夏がやってきた。寝殿に暮らすデメテルは、この季節の楽しみをひとつひとつ胸にひきだしてみては、窓辺に佇んでいた。娘を乗せた馬車が、整然と植えられた並木道をとおって、いつ現れるか現れるのかと。しかし夏が終わりに近づいても、車輪が軋んだり、馬具がたてる音も、ましてや蹄の音さえ聞こえてこなかったのだ。胸騒ぎを覚えたデメテルは、何度か地上に使いの者をさしむけて、自らの軽はずみを諌めはしたのだが、日没が早くなってゆくように、心のざわめきを抑えることができなくなっていった。そうしてついに、自ら馬車を仕立て、地上へと向かったのだった。しかし、愛娘ペルセポネの姿は、寄宿先の邸宅のどこにもなかったのである。あり余る不安に気圧されたデメテルは、馬首をめぐらすと、まっしぐらに天上にある白亜の王宮へととって返した。
「ゼウス様、ゼウス様は、いらっしゃいますでしょうか! ご拝謁かないませんでしょうか!」
 いつにななく焦燥にかられ、悲痛さの滲み出た声で、陛下の侍従に面会を願い出たのだ。求めはすぐに応じられた。だが、ゼウス神はどこふく風。不安と心配のあまり蒼白な顔で訴えるデメテルを宥め、
「儂のところにはなんの知らせもきてないよ。儂にもわからんのじゃよ。――まあまあ、とにかく落ち着いて」
 などというばかりだった。
 秋のあいだじゅう、デメテルの王宮訪問は繰り返された。だが、ゼウス神は同じことをいい、慰めるだけだった。
「あれではいかにもお可哀相すぎる……」
 立場は異なれど、女として、愛人として妻として、また母として、デメテルの悲壮な姿に同情を禁じ得なかったヘラは、ある日、心を決めて、恋愛寝殿にデメテルを訪ねたのだった。
「よいですか、落ち着いて聞いてください。実はですね――」
 坦々と物静かにヘラが語ったことを耳にしたデメテルは、瞳を曇らせ、蒼白になった頬をひきつらせ、唇をわななかせた。
「それでは、ゼウス様は何もかもご承知で、あのような態度をお取りになっていたということですか?……」
「ええまあそういうことになるでしょう……」
 それまで俯いていたデメテルは、はたと顔をあげると、眼を見ひらいてヘラを睨むようにして、
「ではヘラ殿、貴方様もそれをご存知だったということですね……」
「まあその……」
「帰ってください!!」
 デメテルの上唇はめくれあがっていた。首筋から耳から顔までを真っ赤に染め、憤懣やるかたない怒声を放つと、椅子を蹴って会見の場を去っていったのだった。
「絶対に許さない!!……」
 憤りに震える拳を握りしめながら、豊穣の女神デメテルは高い高い尖塔の螺旋階段を登っていった。床につくほどのドレスの裾は、階段を登りきったとき、汚れて擦り切れていた。すでに脱ぎ捨てていた裸足のあしは、どす黒い血に滲んでいた。それでもまだ怒りに震え続けていた拳を開くと、甲高い音で軋む扉を押しあけ、デメテルは自らを幽閉の身に貶めたのだった。尖塔の頂きにある部屋の扉に、重々しくかんぬきの落ちる音が響いた。
 ことの始終をヘラからきいたゼウス神は、さすがに粛然とした顔をして眉を曇らせた。少しでもデメテルの激昂を和らげられぬものかと、夫妻は八方手をつくしてはみるのだが、彼女は誰に何をいわれようが無言の沈黙をもって応えるだけだった。
「デメテルちゃんが、あんなに強情だったなんて、儂、知らなかった……」
 ――you've got mail!
「こんな時に、メール。……きっと兄貴からだな。どれどれ――」
 とゼウス神は困りはてながらも、持前の几帳面さでメールを速読して、傍らにのこっていたヘラに向きなおった。
「近況報告。とくに異常なし! だってさ」
「…………それにしても――」
 それから二人は、喧々諤々、知恵をしぼって妙案はないものかと考え尽くしてみるのだが、たどりつく答えはやはり一つしかないのだった。ペルセポネ奪還計画である。しかしそれは、
「でも兄貴が承知しないよなあ……」
「お兄様が首を縦に振りませんでしょうに……」
 という同意にゆきつくのでもあった。
「仕方がない、今日のところはここまでにして、少し時間がかかっても、うまいこと奪還できる方法を考えよう」
「そうでございますね」
 こうして、毎日のように、白亜の王宮にあるさじきで、ゼウス神とヘラが妙案の捻出に励みはじめたのだった。はじめのうちは、穏やかな静けさのなかで二人の声がしているのだったが、やがてそこに機械的な人の声が混じることが増えていった。
 ――you've got mail!
「あちょっと待ってねヘラちゃん、メールだわ」
「どなたからでしたの? お急ぎの要件で?」
「いや、急ぎではないみたいよ。ギリシャ官吏からの苦情……んで、どこまで話したっけ?」
 ヘラは気を取りなおして、途中まで語っていた『ペルセポネ奪還計画』の骨子を、ふたたび話し出した。
「――ということをお考えになられたほうが得策かと思われるのです」
「それはあるんだよね。でもあの妖精たちだよ。前にも失敗した諜報員は信用おけないよ」
「それではこれでは如何でしょうか? つまりですね――」
 ――you've got mail!
「わ、またメール。ちょっとごめんね。――こんどはフェニキアからの苦情……」
「さようでございますか。――そうそう、つまりですね――」
 こうした日々が何日か過ぎてゆくにしたがって、苦情のメールは増えていく一方だった。
「さて、ヘラちゃん、昨日の続きだけどね――」
 ――you've got mail!
「ああ、もうー。またこれか! ちょっとごめんね」
「…………」
「おっけーおっけー。苦情処理してきた。でね――」
 ――you've got mail!
「わわわー、メールだあ!」
「…………」
「それでね――」
 ――you've got mail!
「またか……」
「…………」
「――だからね、という風に考えることもできるわけで……」
 ――you've got mail!
 ――you've got mail!
 ――you've got mail!
「あーもううるさーい!! このバカメールがあ!! 便利すぎるのも、考えものじゃわい!」
 続々と訴えてくる苦情のほとんどは、穀物に関するものがほとんどだった。ギリシャ、トロイア、ミュケナイ、フェニキアなどなど、あらゆる地方から届く知らせは、作物の不作を訴えるものだった。その原因として考えられることはたった一つしかなかった。豊穣の女神デメテルが自らの身を幽閉してしまったことによる、大地の痩せ衰えである。しかし、苦情の内容はしだいにエスカレートしていった。租税関係の相談にはじまったものが、納税免除の訴えに変わり、大飢饉や餓死の報告に変わり、やがてそれは人々が食を争って起こした暴動とその鎮圧という悲痛な報告となり、このままの状況が続くようでは、紛争にさえなりかねない気配すらあったのだから……。さすがのゼウス神も戦争の気配を感じ取ったとき、毅然たる態度にでることを決意せざるを得なかった。ハデスを説得しようというのである。
 こうして、ゼウス神は苦情メールの殺到する合間をぬって、実況生中継機――ライブチャット――を使い、冥界のハデスとの会見に挑んだのだった。
「はろはろー、兄ちゃん声聞こえるー?」
「聞こえるぞ」
「あいかわらず顔色わるいねー。仕方ないか、そこ日射ないもんね」
「うむ」
 世間話からはじまった対話は、長時間に及んだ。だがハデスはなかなか納得しようとはしなかった。
「だからね兄ちゃん、このまま飢饉が続くとさ、人も動物もいっぱい死ぬんだよ。そうしたらさ、冥界てんやわんやなるじゃん。それじゃ面倒くさいでしょってことなんだけど、どうかな?」
「それはわしのところまでは影響せんよ。臣下も大勢いるし、下僕もいるからね。そうそう最近決まった大きな公共事業にさ、人手もいるから、そこは困らんよ」
「…………」
 人口、衣食、居住、経済、流通、教育、逓信、議会運営など、あらゆる方面から説得を試みるゼウス神、またそれをあらゆる盾で受けながすハデスの押し問答は、いつ果てるともつかなかった。ときには次男の海神ポセイドンを回線に呼び出して救援を請うたりもしたゼウス神だった。だが、ハデスは手ごわい相手だった。そもそもあまりにも社会規範のちがう冥界に、地上や天上の常識など通用しようがなかったのだから、ゼウス神の気苦労は並大抵ではなかったのだ。冥界の世界では、生産など考慮のほか。そもそもみながみな死人なのだから、食物という概念にも乏しい。冥界で食物を口にするのは、神々の戦争後、冥界を住処としたハデスをはじめとする一部の人々だけなのだから。生産が顧みられないということは、その後に繋がってゆく全ても顧みられないということである。輸送も分配も、貯蔵もまことに気楽な世界が冥界なのである。人権といったところで、死人に人権などそもそも存在しなかったのだ。一応、裁判をうけ、果すべき務めなや罰などが与えられるものの、それとても生真面目に遂行されることなど稀れだったのだ。刑期をつとめあげ新たな生にゆくもよし、罰という労働をさぼって冥界暮らしを続けるも、本人の意志にかかっていたのだから……。すべてが緩慢な世界、ではあっても意外にも平和な世界、それが冥界だったのだ。長い交渉を繰り返す日々に、ゼウス神はようやく冥界というものを理解するようになっていったのだ。そこで彼は、鋭い一手を打ったのだった。
「ねえハデス兄さん。昔の戦争憶えてる? あのあとさ、誰がどこの世界を治めるのか決めるときのジャンケン、あれは楽しかったよねー」
 突如、画面に映っていた顔色の悪いハデスの表情が輝くのがわかった。
「あれは、真剣な7本勝負だったな。いまでもあの興奮は忘れられんよ」
「そこですよ、それ。ギャンブル楽しいよねー、スリル満点だもんね! けど冥界ではご法度でしょ。ってそれは儂たち三人がそう取り決めたことだけどね。でもさ、変更はできるよ。もっともハデス兄さんと、ポセイドン兄さんしだいだろうけどね。どうかな?」
「…………」
「ペルセポネをさ、返してくれるなら、儂、カジノ作るのに反対しないよー」
「……うーむ」
「娘っ子、ペルセポネは半神半人だからさあ、長生きはするよ、けど老いもするし病気にもなるよ。でもほら! カジノは一回つくれば永久に遊べるんだなあー。儂ら死なない不死身の神。暇つぶしも大事な福利厚生だと思うけどなあ」
「……うーむ……でもなあ」
「じゃんけん、ぽん!!」
 思わず声に反応して握り拳を出していたハデスは、開いた掌のゼウス神に負けていた。戦略の面でもである。
「ねね、ゼウス、もう一回」
「じゃんけん、ぽん!!」
「く、悔しいなあ……けどなあ……そうだこうしよう。一年のうちにさ、数か月だけペルセポネの冥界への帰宅を許してくれたら、わし、ゼウスの言うとおりするよ」
「それは無理だと思うなー、なにしろね、デメテルちゃん、かんかんなのよ。そりゃもー凄い怒ってるからね。じゃんけん――」
「ぽん! うっほ、勝った勝った! ま、いいや。わし、カジノのほうが好きだしね」
「さすが冥界の彷徨さすらいギャンブラー! んじゃ、用意ができたら、ペルセポネちゃん、送り返してねー。カジノの件はポセイドン兄さんに話して、承諾とっておくからさ。また連絡するねー」
 こうして、ハデスの博打好きにつけこんで、ゼウス神は説得に成功したのだった。しかしハデスも愚かではなかった。ある作戦を思いつき、そこにひとつの望みを賭けてみることにしたのである。
 どこの世にいても出来た人というものはいるものである。ペルセポネは柔軟に冥界の生活に馴染み、人々の想像を裏切り、冥界での生活を愉快に暮らしはじめていたのだ。
「ともかくね、そういうことになったのだな」
 そういう顔色の悪いハデスの淋しそうな顔を見ると、胸が痛む姫なのである。
「せっかくここの暮らしにも慣れ、ケルベロスの散歩も楽しくなってきたところなのに、少し残念です」
「わしもじゃよ、ペルセポネ……」
「でも、お母様のご衷心と地上の人たちの困苦窮乏を耳しては、致しかたなきことかと思います。冥界にあの水仙のような花があるのなら、惜別の念を込めてお贈りいたしますものを……残念でございます、ハデス王、わが君」
 すでに夫婦の契りを結んだ者たちの別れである。足下に控えているケルベロスも淋しそうに鼻を鳴らし、別れを惜しんでいるのだった。
「そうじゃ、ペルセポネ、道中は長い。冥界の門までは遠いからな。これを」
「なんでございましょう、これは?」
 長く日射を浴びていない、蒼白いふたりの手から手へと、いくつかの果実か渡されていった。
石榴ざくろじゃよ。道中、空腹を感じたなら、食べておくれ」
「まあ、ありがとうございます」
「渡し守のカロンにも会ってゆくのじゃよ」
「はい。それではごきげんよう、ハデス王」
 こうしてハデスとペルセポネは別れの挨拶をすませたのだった。黒漆塗りの馬車が見えなくなるまで、あたりにはケルベロスの淋しそうな声が木霊していたのだった。
 ――you've got mail!
 それはハデスからのメールだった。
「ペルセポネ帰還させたよ。カジノの件、よろしくたのむ! 賭博仲間、募集中!」
 しかし、見事にハデスは賭けに勝ったのだった。冥界には冥界の天上には天上の、また地上にも規範があり、全知全能の神ゼウスであっても、それを逃れるわけにはいかなかったのだ。冥界の食物をたべた者は冥界の住人たるべし。地底世界にある僅かな規範に賭け、見事に勝ったのだ。門へと向かうあいだ、空腹感をおぼえたペルセポネは、王より賜った石榴を食べてしまったのだ。ではあっても、無事に天上に姿を現したペルセポネは、すぐに母デメテルの幽閉先を訪れ、豊穣の女神を日のもとに戻し、痩せ衰えた大地を蘇らせたのだった。しかし、規範は規範である。四粒の石榴を口にしたペルセポネは、一年のうちの四か月を冥界で暮らすことは、避けようがなかったのだ。そのことを悲しむデメテルは、その四か月のあいだだけ、寝殿の塔にある頂きの部屋に閉じこもるのだった。見かねたヘラがゼウスに進言したのは、豊穣の女神が部屋にこもってしまったある寒い日のことだった。
「ゼウス様、あれではいかにもお可哀相です。せめて、あの尖塔の窓から見える夜空に、ペルセポネが母や大地や、真白き水仙を想う姿を、星で描いてやってはいかがでしょうか」と。
 ゼウス神は有無もなく肯いて、さっそく真珠星スピカを中心とした九つの星を煌めかせたのだった。これが世にいう、おとめ座なのだとか。
 春と恋は水仙とともに咲き香る。冬は大地と人の心を凍らせ、恋に終止符をうたせる。巡りゆく季節の裏側には意外な挿話が隠されているようである。
 その後、恋愛寝殿は、風紀上の理由から処女宮と名を改めたられたのだとか。しかしその神話は、またいつか、誰人かによって語られるのであろう……。

―完―


【橄欖石】黄緑色をした宝石、ペリドットのこと。






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