小説・短編『彼ら人間とは』――てんびん座

2015年10月20日

 わたしがいつ生れたのかは、わからない。ぼんやりとした記憶をたどっていくと、あの懐かしき黄金時代を思いだすだけだ。身近にはほとんど動きというものはなかった。感じる温もりもほとんど変わるということはなかった。ただそこにある、鮮烈な明るさがもたらす安穏さと、暗さがもたらす静閑さがあっただけだ。その明るさと暗さを比べてみたとしたら、だいたい変わりがなかったように思う。そもそも、そのころのわたしは、自分の使命だとか目的というものが、なんなのかすらわかっていなかったのだ……。そう、ただ感覚に流れこんでくるものたちを、混沌とした意識でおいかけていただけだったのだから。
 はじめて珍妙なかたちの生き物を目にしたのはいつだっただろうか。いまでは海とよばれている場所に、奇妙な生き物はたくさん暮らしていた。透きとおった胡麻粒のように小さなものたち、鮮烈に隠微にいろづく光をはなつものたち。寄り集まって泳ぐものたち、じっと岩陰や珊瑚にはりついているものたち。ときどき海のうえへ跳躍するものたち、それこそ数え切れぬ奇妙な生き物の、今はなき姿々を思いだせるのだ。しかしあの生き物はそうしたものたちとは随分と違っていたのだ。そのころのわたしは、自分が目で見ているということに気づいていた。少し詳しくいうならば、わたしは心に流れこんでいたもの一つ一つに名前をつけることを思いつき、そうした名前あるものが心になにかを伝えてくる場所を、目と名付けていたということになる。くわえていうならば、わたしは目には見えていなくても感じとれるもの一つ一つにも名前をつけていったのだ。そう、さまざまな“感覚”あるいは“感情”というのもに……。
 あれは陸とよばれる場所ができてから、相当にたってからのことだったはずだ。珍妙なかたちの生き物をはじめて目にしたのだ。今では人間と呼ばれている生き物である。なぜわたしがすぐに人間という名前を口にしたかおわかりだろうか? それがあまりにも珍妙だったからだ。人間という生き物を説明することがひどく困難なことを、嫌というほど実感しているからなのだ。それほど人間という生き物は変わっていた。珍妙だったのだ。彼らはとても弱々しい生き物だった。もっとも、そのことはずっと後になってから気がついたことなのだが……。
 思いだしてみれば、この黄金時代というものは、海に暮らす生き物にとっても、人間たちにとっても平和な世界といえたのだろう。大気の変化はゆるやかであり、気温の高低もまことに穏やか。昼と夜の長さもほとんど変わらなかったのだから。それだけに、陸ではやがて土と呼ばれる場所は草木を茂らせはじめ、それらは果実というものをたわわにみのらせ続け、弱々しい人間たちですら、一つの憂いも悲しみも抱くことなく、ただ楽しく果実を食しては、生きてゆけたのだから。海の生き物たちも同じであった。彼らは共食いとよばれることをなしたが、わたしの目にはそれが罪であるとなど映らなかったのだ。何もかもが誰もかれもが不老不死であった。ただそこには平和があった。それが黄金時代だったのだ。輝かしさはいつまでも尽きることはない。わたしはそんなことを感じたものだったのだが……。

 わたしが世界に大きな変化が起きていることに気づいたのは、いつのことだったか……。それは驚きともいえた。それまで一つであったものが分裂するという恐懼を、わたしははじめて知ったのだ。世界に神と呼ばれるものがいつ現れたのかは、わたしにもよくわからない。はっきりしていることといえば、わたし自身にも神というか神性というものがあったことに気づいたともいえるのだが……。わたしの神性はふたつあった。そのご、アストレイア、アイドスと呼ばれるようになった女神たちである。ともかく、わたしは世界と自身のなかに分裂を見いだし、恐懼したときの心持ちを忘れえないのだ。平和な黄金時代は去った……。なにかがわたしにそう囁くのが聞こえたような気がするのだ。
 かといって、わたしや、わたしの目と心に映るものたちが、平穏を乱されたかといえば、そうともいえなかった。世界は分裂した。一つだったものが、天上と地上に別れ、二つの世界の下には冥界という、目には見えないが、なにか心に取り入ってくるような瘴気を感じさせる世界ができあがったのだ。とはいえまだ世界は平和だった。生き物たちも人間たちも、そして新たに生まれた神々たちも、まだ地上での暮らしに満悦の微笑みをたたえていたのだ。それでもわたしの心は騒めいた。耳元では慈悲の女神アイドスが、
「大丈夫、大丈夫なのですよ。安心しなさい。心を一処に落ちつけるのです。さすればなに一つ恐ろしいものなどないのですから。大丈夫なのですよ」
 と、わたしを勇気づけはしたのだが……。
 しかし悲しいことに、わたしの胸騒ぎは的中したのだ。新しき者たち、神々は人間やあらゆる生き物よりも遥かに強い意志でもって、やがてこの三つに分裂した世界を支配しようと、争いをはじめたのだ。争いとは何であろうか? わたしは、生まれてはじめてそれを知り、恐怖した。九日九夜、怖気づいたわたしは、涙にそぼ濡れたことを忘れていない。それでも、そののちに繰り返されてゆく人間たちの争いの非情さと比べれば、まだまだ平穏な争いだった。愛というもの欲しさの、神々の争いだったのだから。
 そのころから、わたしは、善悪の天秤をつかさどる女神アストレイアの声を、よく耳にするようになったのだ。アストレイアは神々の行いの善悪を量った。右の天秤にヘラをのせ、左の天秤にはデメテルをのせるといった具合に。天秤は傾く。善き行いをした皿はあがり、悪しき行いをした皿は下がるのだった。アストレイアと共にあった慈悲の女神アイドスは、それを見ていうのだった。
「汝、善きかな。ありのままであれ!――汝、悪しきかな。行いを顧みよ、ありのままであれ! されば汝も善くあるらん」と。
 姉アストレイアも、妹アイドスも、決して裁くことはなかった。わたしにはそれがなんだか嬉しかった。ただ善くあれと促すだけなのだから。
 しかし、神々のなかにはそうした姉妹の心を感じ取れぬ者もあったのだ。そして、悲しい出来事が起こった。豊穣の女神デメテルの幽閉によって、四季が生みだされたのだ。移りゆく季節によって、変わりゆく気候によって、それまで常にみのっていた果実は、秋にしか実を結ばなくなり、あらゆる生き物が――神々も人間も動物たちも――餓えや寒さという不安を抱きはじめたのだ。黄金の時代は過ぎさり、銀の時代がやってきたのだ。

 神々にとって、四季の変化などとるにたらないものだった。しかし、弱々しい人間たちにとっては違っていた。寒さから身を守るために衣服を着、雨風を避けるために住居をもち、果実を入手しつづけようと彼らは労働をはじめざるを得なかったのだ。それは悲しい光景だった。人々は果実をもとめて奪いあい。衣服をもとめてまた奪いあう。しまいには住居ほしさに隣人を追払おうと争いをはじめたのだから。不老不死は夢となり。肉体の老いと病を忌んだ者たちは、労働を嫌って隣人を奴隷のように働かせることもはじめたのだ。悲しい光景だった。
 アストレイアとアイドスの懇願を耳にしない日はなかったほど、姉妹たちの声は、繰り返し繰り返しわたしの耳朶をうったのだった。それでもまだ銀の時代は、よい時代だったといえた。だが、わたしはこの時代の終わりを予見することができた。人間たちが、それまで自由を謳歌していた動物たちを束縛しはじめたのを目にしたときに。
 彼らからすれば、仕方のないことだったのだろう。地上の一部はとても寒かった。そうした場所にはごうごうと雪が降りつもり、つねに湖水は凍ったままの所さえあったのだから。果実のとれない大地を棲家とした彼らが、餓えた口に動物たちの肉を運んだからといって、誰が彼らを責められようか。しかしそれはわたしにとって悲しい予見だった。海の生き物たちがしていた共食いとは、なにか異質なものをそこに感じたのだ。銀の時代のあとにいかなる時代が来るのかは、まだわたしにもわからなかったのだ。

 わたしの心に焼きついて離れないものがある。赤と黒。血と死である。ついに彼らは隣人を殺すという行為に及んだのだ。あの純朴だった人間たちが……。わたしは忘れないだろう。はじめて鮮血と暗澹たる死を目にした瞬間を。悍ましいのだ。憐れに思えるのだ。そしてなによりも愚かであると確信したのだった。死とはなんであろうか? 人間たちには、なぜ自分や隣人に死があると思うようになったのであろうか? なぜアストレイアの善意やアイドスの勧めに耳を澄まさないのか? なぜだ? 人間たちよ、よく見るがいい。その双眸を開いて見るがいい! わたしは絶叫していた。はじめて血と死を見たときに。
 この世界は一つである。三つに分裂したとはいえ一つなのだ。死によって冥界へと旅立ったとしても、そこは一つの世界の一部なのだ。わたしが目にしてきた世界に陸と海があるように。この地上の世界に大地と空があるように。燃えあがった火がすべてを焼き尽くせないように。
 そうだ、彼らを変えたのは火であり炎だ。熱と力が彼らをこんな風にしてしまったのだろう。青銅を溶かし武器を、盾と矛を作り出した人間たちは、自らの中にも憎悪という最強の武器を作りあげてしまったのだろう。世界は一つであるということを信じられないだけのことで。死など存在しないということを信じられないばかりに。
 賢明な神々たちは、彼ら人間の愚鈍な姿、行いと考えに呆れ、ほんとどの神々は天上へと昇っていった。堕落のはじまりといえよう。しかしまたそれは闘争のはじまり、青銅の時代のはじまりだったともいえるのだ。
「汝、善きかな。ありのままであれ!――汝、悪しきかな。行いを顧みよ、ありのままであれ! されば汝も善くあるらん」
 アストレイアが、休む暇もなく天秤の皿に彼ら人間を、次からつぎへと乗せかえ、アイドスは喉をひりつかせながら枯れ果てた声で、善くあるよう勧めようが、衆にもって寡であることは虚しいばかりだった。姉妹は絶望にうちひしがれながらも、彼ら人間に善くあることの勧めを諦めようとはしなかった。いやそれは、わたし自身の心だったのかもしれない。
 争いは増え、戦いは止まず、合戦に合戦が重ねられていった。英雄と呼ばれるものがもてはやされはじめた。ヘルクレス、ペルセウス、アキレウス……。神々も愛というもの欲しさに、地上の闘争に介入し、やがては国土と国土を血に染める戦争へと堕落していった。耳障りな剣戟、矢が飛ぶ笛のような音。青銅の鎧はひしゃげ、槍が盾を貫く。馬はいきりたち、戦車は軋む。男は咆哮し、女の悲鳴が聞こえる。もはやなすすべはなかった。わたしも、あの公平と慈愛に満ちたアストレイヤとアイドスの姉妹も、眼前に映しだされる惨禍を、身動できぬような縄目にとらわれながら、ただ茫然と見つめていることしかできなかったのだ。しかし、彼ら人間の愚かさはまだはじまったばかりだったのだ……。

 それから長いあいだ、わたしと天秤の女神は、戦いの歴史を見つづけた。もういい、もう十分だ。涙は枯れ、言葉は失せた。わたしは小さく肯いた。すでに心のなかで決めていたことを確かめあうように、アストレイアもアイドスも小さく肯いてみせた。
「さあ、わが娘たちよ皿に乗るがよい」
 天秤はどちらにも傾くことなく、静謐にとまったままだった。
「汝、善きかな。ありのままであれ!――汝、悪しきかな。行いを顧みよ、ありのままであれ! されば汝も善くあるらん」
「さあゆこう、わが娘たちよ。われらは星となるのだ」
 天に昇ったわたしたち――天秤――は星となった。永遠に傾くことを知らない星の天秤になったのだ。永遠に裁くことを知らない天秤になったのだ。
 遥か地上では、まだ争いはつづいている。なお一層の狂気を加えながら……。しかしそれは本当なのであろうか? わたしがこの目を閉じてしまえば、天上にも地上にも冥界にも、なにものも存在しないといえるのではないだろうか。では、わたしの見たものはいったいなんだったのだろうか? わたしが目を閉じてしまっても見えるこれは、いったいなんなのだろうか? もしも、現実というものがあるのなら、どれが現実なのであろうか? わたしにはわからない。そもそもこのわたしは一体なにものなのだろうか? いかなる理由があって、使命と目的があって、わたしはこんな思いをしなければいけなかったのだろうか?
 わたしはてんびん座になったまま、いまだにそれを考えている……。

―完―




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