小説・短編『酒と恋のはてに』――さそり座

2015年10月22日

 オリオンは高慢な男だった。狩りの技術は超一流でぬきんでていた。だがそれを誇りすぎたゆえ人に嫌われ、虚しさから旅の暮らしを選んだのかもしれない。もっとも、彼の高慢さにはそれなりに理由があったようである。
 オリオンの父は海神ポセイドン、自身のもつ強烈な力を自覚していたのか、トロイア戦争でギリシャ側にたって参戦するまでは、武勇伝も少ない。比較的温容で、争いを好まぬ性質だったようだ。母は、ミノス――今でいうクレタ島――の国王の娘エウリュアレーである。オリオンの母エウリュアレーは不幸な人で、女神アテナの怒りをかい、姉妹たちとともに怪物にされてしまったという。怒りをかったのは三姉妹の末娘メデュウサであり、エウリュアレーはそのとばっちりを受けたのだ。ゆえに、オリオンの高慢さは、両親から受け継いだものではないようである。
 彼の高慢さはおそらく、最初の妻シーデーの影響だったのだろう。シーデーは稀にみる美貌を誇り、あるとき天に向かってこういったといわれている。
「世界で一番美しいのはこのわたしよ! わたしシーデーなのよ! わ・た・し・! そう、この美しさの前では、あのヘラでさえ跪くのよ!!」と。
 白雪姫の継母ままははそこのけ! 美しい花には棘があるとは、このことであろう。驚くべき高慢である。シーデーがヘラの怒りをかい、冥界――タルタロス――へと落されたのは当然といえるだろう。似たもの夫婦という。オリオンが、このシーデーとどれくらい長く一緒にいたのかはわからない。だが、彼の心に高慢であっていい! という心を、芽生えさせたとしても、おかしくはなかっただろう。そんなオリオンは、最初の妻シーデーを失い、狩りを枕に彷徨ほうこうの旅にでたのである。

 オリオンは海神ポセイドンの子という生まれもっての特技をいかし、海を歩き、やがてキオス島へと辿りついた。澄みきった彩りこきサファイアブルーのエーゲ海に浮かぶキオス島は、東西に約七キロ、南北に約五十キロという島だった。日本にある佐渡ヶ島とほぼ同じ面積をもつ島である。気候は温暖ですごしやすく、海から吹く風は爽やかそのもの。気温は一年をつうじて、東京より少し低く、夏の降水はほぼなきにひとしかった。冬はそれなりに篠突く季節だが、雨は東京の梅雨より少なめだった。かわいた爽やかな初夏の風と、雨にそぼ濡れながら薄日のなかエメラルドに縁取られた緑の島が、紺碧の海に浮かんでいるといったところである。
 丘が連なり、草木がはげた淡いチャコールブラウンの地表が見えるあたりには、白っちゃけた砂岩色の建物が、傾斜に負けじとしがみついている。その一画には、桟敷台に翩翻へんぽんとひるがえる旗がいくつもたてられた、オイノピオン王の居城も見える。
「素晴らしいじゃあないか。アテネもトラキアも、イノニアもミノスもわるくなかった。だがこのキオスの島のなんたる美しさよ」
 オリオンはしばしわれを忘れて、彩りこき島の海岸にたたずみ、言うにいわれぬ、自然と人々の暮らしに秘められた調和の美を端倪していたのだった。太陽は中天をすぎていたが、日差しは溢れかえらんばかりだった。オリオンは、さらなる見晴らしを求めて、なだからな岩肌の丘をのぼりはじめた。ようやく丘の頂に近づいたとき、彼は目前にひとつの人影をみとめたのだった。女のようである。半ば逆行ではっきりとした様子はわからなかった。だが、風まかせに揺れる白い長裾の薄衣から透けて見えるシルエットが描きだした、流麗な線に目を奪われずにはいられなかったのだ。オリオンは鼓動が高鳴るのを感じながら、一目だけでもという誘惑に駆られて、女の表情が伺えるほうへと向きをかえ、丘をのぼりつづけた。そのとき、人影が振り向いた。
「……美しい」
 彼は立ち止まり、うっとりと女の美貌に酔いしれていた。
 すらりとのびた手足。薔薇色を秘めた透けるような白い肌。一見して整った顔立ち。編み上げられたこげ茶色の髪は光をうけ、金色に輝いていた。頬から顎はほどよく肉づいて艶めかしい造形美をみせ、閉じた唇は小さめではあったが、存在を誇るような厚みがあり、真っ直ぐにのびた鼻筋は純真さをあらわすかのよう。微妙な曲線を描いて吊り上がった眉にある芯の強さを、優し気な蒼碧色ブルーグリーンの瞳が和らげていたのだった。
「こんにちは」
 声もまた美しかった。エーゲ海の碧さを連想させる、オオルリのようであった。
「あ……あなたは?」
「……わたくしですか? メロペと申します」
「メロペ……」
 オリオンの一目惚れであった。彼は恋の虜になったのだ。
「わ、わたしはオリオン……わが父は誇り高き海神ポセイドン、わが母はミノス王の娘エウリュアレー、そしてわたしは狩りの天才――」
 メロペは聞きながら小首を傾げて微笑んでいた。
「オリオン様、そのご様子は……」
「あ、はっ、こ、これは失礼いたしました!」
 頭の先からつま先まで、彼は自分を眺め、旅から旅でよごれきっていた、惨めな姿にようやく気づいたのだ。
「わたくしのところに、きっとお似合いになる服があるかと思います。もしよろしければいらっしゃいませんか? あなた様さえよろしければ……」
「そ、それは申し訳ない気がします」
「遠慮ならご無用ですわ。宿泊所さえない小さな島なのです。島人たちを驚かせる必要もないでしょう。幸い、わたくしは城に住んでおりますので、空いたお部屋の一つくらいはご用意さしあげられるのですし」
「と、というと、あなたは……」
「ええそうです、ご推察のとおりオイノピオンの娘で――」
 そういいながら、メロペは高々と旗を翻している城を指さしながら、
「あそこがわたくしの住んでいるところでございます」
 と春風のように微笑んだのだった。
「こ、これは失礼いたしました。旅から旅の生活だったもので……」
「さあ、まいりましょう。些細なことはお気にされませんことです」
 それは好機といえた。心優しきメロペからの愛情は、オリオンの高慢を溶かし、永久に葬り去ることさえできるかもしれないのだから。しかし気まぐれな運命は、まだその方向を決めかねていた。
 こうしてオリオンは、オイノピオン王の居城に逗留することになったのである。

 恋の魔法によるのか、キオス島とエーゲ海の自然と海山の幸の美食によるのか、居城での日々にオリオンは温和であった。しかし、酒宴となると必ずといってよいくらい高慢を露見させるのだった。
「卿、もう今宵はその辺になされなさい」
 オイノピオン王はしかめっ面をしてオリオンから盃を奪おうとした。
「王も小粒でござりますな、この程度の酒であれば、わが矢は百発百中というものですぞ」
「それはどうじゃろうか。わが輩はそちの腕前をこの目でみたことはないからのお」
 狩りにはめっぽう自信のある王である。酒の席とはいえ言葉のうえだけでも負けられないと意固地になる。
「王殿、あれがご覧になれますか、ほれ、あそこに貧弱な鹿が」
 オリオンの指さす先に鹿がいるはずはない。ここは居城の大食堂なのだから。
「鹿などおりはせんよ」
「いるではありませんか、あの痩せた給仕女でございます。胸と尻ばかり肥えてはおるようですが、きっと色好みなのでしょう……盛りのついた鹿め、天罰じゃ! ――王殿とくとご覧あれ! わが腕前を!!」
 すっくと立ちあがったオリオンは大声をはなち、紅も鮮やかに焼きあげられエビを投げつけ、
「見事に仕留めたり!!」
 と呵々大笑したのだ。
 それを目にしたオイノピオン王は、オリオンの傲岸不遜さに眼を閉じて首をふり、
「今宵はこれまでじゃ、お開きとしよう」
 といって椅子を蹴って、食卓を後にしたのだった。
 哀れなるかなオリオン。それが王にとって不愉快だったと気づくこともなく、むしろ、狩りの腕前では勝てないだろうという口惜しさからの態度だろうと、有頂天になっていつまでも盃を傾けていたのだ。
 それでも恋は恋だった。愛する人の前では善良であろうという人の性か、単なる見栄坊か、オリオンはメロペの前では、なにかを喪失したように、温和に振る舞うのだった。その極端さは、王の目からしてみれば、不愉快極まりなく、殊更にオリオンの不逞ぶりに嫌悪感を募らせたのだった。こうした日々は、オリオンとメロペの愛の絆を深めさせ、オリオンとオイノピオン王の懸隔の溝を深めていった。城内では、アテネからきた若者とわが島の王女の結婚はまぢかであるという思いしは風に乗り、あれでは舅の苦労は計りしれない! という噂も、千里を走るようにひろまっていたのだ。そんなある晩餐のおり、オリオンは酒の勢いにまかせて、かねがね訴えつづけてきた王女との結婚承諾を口にしたのだ。
「まあまあ、オリオン殿、そうした話はまた別の機会にでも」
 王はすかさず場をとりなそうとする。しかし相手は酒を嗜んでしまったオリオンである。しばらくは婚姻の話題から離れはするものの、執拗に話を引き戻そうとする。
「ですから、今はまだ、そのお話は……」
 それでも柔和な表情をつくって、オイノピオン王は若者の盃に酒をついでゆく。
「儂とてそちの気持ちも、娘の気持ちもよーく知っておるわい。――よしわかった! 今宵は存分に語りあおうではないか、なあ……」
「そうこなくててはなりません、父君」
 もう父君と呼ぶか! と、ふてぶてしさに反吐さえはきかねない王であったが、頬をひきつらせて自らを抑えてはいた。だが、王の憤りは給仕女や臣下たちの眼には明らかだった。
「話題は変わるが、婚礼への祝儀は本国からいかほどな物があるのかのお? 自然ばかりが豊富なこの島ゆえ、経済的なことはいつも念慮しておるのでな」
「それでございますか――でございましたら……」
 王はあっちへ話題を変えこっちへというぐあいに、克己のかぎりを尽くしてオリオンとの会話と酒盛りに自身を供していた。あまりの痛々しさに、時折り王の耳元へお開きを進言する臣下すらあった。
「しかしでごじゃいまふ……ほうではごじゃいまひても……」
 オリオンが泥酔状態になり、食卓に伏して睡魔に敗れたのは、深夜から余程たってからだった。疲労困憊のていのオイノピオン王の顔は嫌悪に歪んで、浮き出た青筋が治まることもなく、憤りつづけた眼は瞋恚に赫々たる炎が揺らめいていた。
「われに矜恃ありと自負する者ども、ここへ!」
 王の声は凛として快哉を呼び起こすものだった。
「レアンドロス、ここに!」
「メトロファネス、参上しました!」
「テミトクリスに、ぜひ下知を!」
 つぎつぎに名のりでた臣下たちが王とオリオンを囲むように集ってきた。
「もうよい、十分だ。こやつを仰向けにせよ、どこでも構わん」
 一喝の意を正確に心得ていた男たちは、オリオンを乱雑に床へと放りだして忠誠心を示してみせた。
「この男は狩りが得意だという……ならばそうした技が奪われる苦悩を教えるのが筋と思うが、どうだろうか。儂がこの不逞な輩に、目に入れても痛くない娘を奪われる恐怖や苦悩が、いかなるものだったか教えてやろうと思う……どうか?」
「御意、御尤もであります!」
「者ども、こやつの腕を押さえろ。レアンドロスにはこやつの視力を奪う栄光を与える。本来であれば、命も亡きもの。だが儂とて人の親よ。それだけは見逃してやらねばなるまい。眼を潰したうえ、半殺しにして、海に棄ておけ!」
「御意のままに!」
 オイノピオン王は刑の執行に立ち会うこともせず、去っていった。大食堂の扉が閉じられたとき、王の耳に絶叫するオリオンの声が聞こえたのだった。

 島の僻地にある切り立った岩壁からつながる海で、小舟に乗せられた半死半生のオリオンは、気を失ったまま、沖合で海中へと投げ棄てられた。一巻の終わり。誰もがそう信じたのだが、オリオンには意外な力が残されていた。海神ポセイドンの息子だけに、彼は海中にあっても、半ば水に触れないという特異さをうけ継いでいたのだ。それでも息苦しさは否めなかったのだろう、意識を取りもどしたオリオンは、わが身に降りかかった不幸の全貌を知り、視力を失った闇のなかで、自ら昏睡の眠りをつづけ、どこかの島に流れつくことに生への望みを託したのだ。強運が助けたというよりも、この場合、俺はこんなことじゃあ死なない! また狩りの名人と呼ばれてみせようぞ! という矜恃が、効を奏したのかもしれない。オリオンは眠ったまま無意識に祈っていた。
「全知全能なるゼウス神よ、わが願いを聞きとどけ給へ! われに再び、光をさずけたまえ!」と……。
 ギリシャのキオス島といっても、地図をひろげてみればトルコ領といってもおかしくないくらい、トルコに近い。そんなわけでオリオンはトルコ国のチェシュメの海岸に流れ着いたのだと考えるのが妥当だろう。だろうというのには理由がある。手元にある書物を調べたかぎりでは、彼は神託をうけてレムノス島に向かうのだが、おかしなことに、レムノス島はキオス島の北にあるのだ。狂ったかオリオン!? と首を傾げざるをえないのだ。いや、そういってしまったらはじまらない。そもそも書物には「海に投げ棄てられた」などと書いていないし、当時のギリシャ人の方向感覚からしたら、キオス島の東にレムノス島があったということなのだろう。どこまでが本当でどこからが嘘か。その辺りを眺めながら文字を追うことこそ、神話の面白味ではある。しかし、その神話に忠実であろうとして書かれる小説こそ、読み物としての醍醐味があるのだろうが、当然小説には嘘が書かれている。困ったものだ。もう何もいうまい。
 とにかくも、この場合、神託にある「東」というキーワードに従って話を進めてみよう。どちらにしてもこれは論文ではなく、フィクションなのだから気にすることもあるまい。
 さて、そんな訳で、チェシュメの海岸に漂着した盲目のオリオンは、まだ意識を取りもどしてはいなかったが、耳の奥で囁かれるような神託を聞いたような気がしていたのだ。
「そうねー、どうしようかなあ……まあいいか。儂は寛容な大神だからね。お願い聞いちゃうよ。でも、とーっても大変な試練を乗り越えたらね! 耳の穴かっぽじってよく聞け―! ――『東の国』にいって、朝の光を浴びなさーい! そしたらね、眼、見えるようになるよ! ゼウス嘘つかない! 信じるか信じないかは君しだいだけどね」と……。
 神託というのは往々にして曖昧である。というよりも、願った者による祈りの緻密さ具体性にそって応えられると考えれば、由なきことともいえよう。それにしても「東の国」というのは、あまりにも曖昧である。いったいどこの国をさしているのであろうか……。盲目のオリオンがそんなことを考えたかどうかを詮索してみてみ仕方がない。とにかく彼とて必死だったのだ。ひたぶるに信じて歩く。光を取りもどしたいなら、信じて歩きつづけるしかなかったのだ。
 そもそもギリシャ神話に登場する神々人々は超人ばかりである。素手でばかでかいライオンの首を三日三晩絞めつづけたヘルクレスとか、常識で考えたらありえないことだろう。だが、現実を見てみると、これもまた常識を超えたことを成し遂げている人はいるものだ。ある作家(トルストイ)など、作品を書くために、図書館にある蔵書すべてというくらいの本を読んだという。超人というのはいるものなのだ。とにかくオリオンは歩いたのだ。暗闇のなかにあって方角すらわからなくても、自らの直感を信じ、勘を頼りに歩いたのだ。途中の食糧はどうしたの? どこで寝たの? やっぱり野宿? 着替えは? 防暑服や防寒具はあったのかしら? 道程には大きな湖とかあるのでは?……そうしたことを考えたら、誰が彼を馬鹿にできようか。いなむしろ、大した男であるとさえ思えてくるではないか……。

 トルコのチェシェメから歩きはじめたオリオンは、まず東西に相当の国土をもつトルコを横断した。その距離約千六百キロ。東京から九州南端までが約千キロである。もうこれだけでオリオンがどれだけ頑張ったかはわかる。その先は、イラン、アルメニア、アゼルバイジャンの国境が入り乱れいる。ここまでは緑もあり川もあり、比較的高低もある地域だから、さほど苦労はなかったかもしれない。緑と川があるということは食物と水には困らないということである。大木にぶつかって、道を取りなおすとか、段差に蹴躓けつまづいて転ぶとか、そうしたことは数え切れなかった……。こうして彼はカスピ海に至った。二百五十キロもの幅をもつ世界最大の湖だ。だがオリオンは動じなかった。足先に水を感じ取とった彼は塩辛さに微笑をうかべ、海上を歩けるわが身の特技を駆使してカスピ海を横断、さらに足を進めていった。そこから彼はトルクメニスタンを横切ってゆく。これは困苦な旅だった。千キロを超える砂漠をひたすら歩いたのだから。オリオンが苦しめられたのは水と食糧の入手と、昼夜の寒暖の激しさだった。ウズベキスタンに入り、緑地を感じたときの彼の心情はいかほどのものだったのか。
「水だ! 食べ物だ! ああ、懐かしきかな、地中海のような穏やかさ!」
 喜びを爆発させ、「青の都」と呼ばれるサマルカンドでは、まだ続くであろう旅に必要なものを手に入れ、神学校が三面に並び立つレギスタン広場では、イスラムの神に視力の蘇生と旅の安全を祈ったかもしれない。
 ともかく、オリオンは見違えるように溌剌として、また足を進めたのだ。ウズベキスタンに別れをつげると、こんどはタジキスタン、キルギスという二国にわたって東西へと峰を連ねる脊梁山脈に翻弄された。さすがのオリオンもこれには閉口した。最高峰は七千メートル級の山なのだから、四千メートルを超える山など珍しくもないわけだ。山頂は氷点下三十度など普通である。仕方なく彼は、道々で案内を請い、山裾を辿って渓道を進んでいった。長い旅路のあいだ、盲目のオリオンが人と関わり、親切というものを心に知ったとしたら、おそらくここの行程であったのだろう。いや、彼が本当に親切を知ったのはこの先かもしれない。なにしろ、その先には、広大な中国が横たわり、その行程の半分は新疆しんきょうウイグルの砂漠なのだから。その距離約二千七百キロ……途方もない砂漠である。それでもオリオンは歩いた。またしても、飢えと渇きと、昼の酷暑と夜の極寒を感じながら……。彼がモンゴルの巴彦淖尔バヤンノールの地で、
哪些已经关闭或ナーシェ・イージン・グアンビィ・ホウァ(どうしましたか?)」
 と親切なモンゴルの村人に声をかけられたときの気持ちは筆舌に尽くしがたいだろう。オリオンが言語の違いを乗り越えて喜び、この先の旅への援助を身振り手振り求めたのは間違いない。
 ここまでの行程距離は、約五千五百キロ。これを平均的日本人男子の歩速で換算してみると、オリオンはここまで到達するのに、百四十日を要したことになる。もっともこれは順調に一日約四十キロをほぼ直線行程で歩いての話である。高低差は考慮のほかである。もちろん日曜日も休まず歩いてである。だがまだ彼の眼は見えるようになっていなかった。「東の国」とはいったいどこにあるのだろうか?……。
 しかし諦めを知らないかのように、オリオンは旅をつづけた。モンゴルの巴彦淖尔バヤンノールからはそれなりに整備された道もあり、要所要所に町や村もあったのだから、ここからの行程はそれほど苦しくなかったであろう。ではあっても、包頭パオトウ呼和浩特フフホト乌兰察布ウランチャブ张家口ハルガを経由して北京までが約八百キロ。そこからロシアのウラジヴォストークまで約千四百キロを、オリオンは歩きとおし、その先は海という地点に辿りついたのだった。
 彼はいったいどんな気持ちで朝を迎えたのだろうか。察するにあまりある。ウラジヴォストークのヴォストークとは「東」という意味である。しかし、彼の眼は見えるようにならなかったのだ。
「…………」
 オリオンは沈黙したまま、この海の先に東の国はあるのだろう……と精神力をふりしぼり、海上へと足を進めた。あった、「東の国」はあったのだ。彼は日本の土を踏み、さらに足を進め岩手県、釜石の地――海が見渡せる緑濃き丘の上――に立ったのである。そこからは太平洋が見渡せた!
「見えた! 海が見える! 青い海が見える……大神ゼウスよ……」
 そのあとは言葉にならなかった。彼は、太平洋の大海原に昇る太陽をどんな気持ちで眺めたのだろうか。嗚呼!
 総行程約八千七百キロ、総日程二百十八日に及ぶ、オリオンの長い旅は、日本国の岩手県釜石を終焉の地にしたのだ。考えてみれば、そこはギリシャからすれば、「東の国」なことに間違いはない。
 ちなみに、彼の漂泊の起点となったキオス島と釜石の緯度は同じである。つまり、彼は真東の国で視力の蘇生を叶えたということになる。神託とは意外に当てになるもののようだ。

 こうして視力を取りもどしたオリオンは、闇とともに旅した日々の悪夢のなかで誓った、オイノピオン王への復讐を果たすために、キオス島に帰る決意をしたのだった。岩手県釜石から東に進路をとり、太平洋を超え、アメリカ大陸を縦断し、大西洋を股にかけ、ジブラルタル海峡を通りぬけると、そこはもう地中海だった。キノス島まであと一歩というクレタ島へ辿りついたのだ。恐るべき執念というべきか、郷愁というべきだろうか。
 クレタの空と海は美しかった。しかしオリオンはそこで再び恋に落ちてしたっまのだ。相手はたまたま島を訪れていた狩猟と貞操の女神アルテミス。開眼してから長い旅のあいだに狩りの腕前を取りもどし、一層磨きをかけていた狩り名人のオリオンである。また、メロペの前で見せた純情で温和な振舞いを考えれば、これほどの相思相愛などないといえるのだから、無理もなかろう。
「ああ、オリオン。――オリオン、どうしてあなたはオリオンなの……」
「その言葉どおりに、恋人と呼んでください。それがぼくの新たな名前、これからはもうオリオンではない」
 と歯の浮くようなことを言いあったとしても、仕方がなかったのだ。
 二人はクレタの燦々とふる太陽を浴びて、狩りを楽しみ、美食に舌鼓をうつ愉快な毎日をおくりはじめた。愛する人に獲物を捧げあおうとする二人の狩りの手腕は、いよいよ目覚ましいものがあった。幸福な日々はいつまでもつづくように思われた。そよ風も潮騒も、波に煌めく光の乱舞も、皆がみな二人を祝福しているようだった。どの花も薔薇のように美しく咲き薫り、食卓や窓辺に飾られた色とりどりの花々は微風に羨望を囁いてみせた。鳥は謳い、蝶は舞い、雲は流れ、夕暮れはそれらすべてを黄金色にそめあげる。世界に二人のほかになにが必要だというのだろうか……と思わせるような恋の季節といえた。しかし、悲劇は起こったのだ。それは決して、酒のうえの戯言でもなく、思わず口をついてでた言葉でもなかったのだが……。
「世界で一番の狩人はオリオン、このわたしである! よもや、神もこの腕前には叶わぬだろう!」
 ある日、そう口走ってしまったのだ。彼からすれば、その腕前をもってアルテミスに愛を捧げるという気持ちであったのだろうが、天上の神々はそう受けとらなかった。
「貴方、いまの言葉を聞きましたか?」
 とヘラが怒りに眼を見開いた。
「聞いたけどね、そんなに怒ること?」
 とゼウス神は、いつものとおり、どこふく風。
 いくぶん表情を和らげたヘラは、
「よくあの言葉の意味をお考えください。『神もこの腕前には叶わぬだろう』ということはですよ、あの狩猟と貞操の女神、アルテミスを愚弄することになるのです。自分の愛する男に嘲られて我慢ができるものですか?」
「理論的に考えればね、そういう意味になるよね。でもあいつ、そんなつもりでいってないでしょ」
 嘆息して一度は黙したヘラだったが、どうやら納得がいかないようだ。
「わたくしは嫌です。もしも貴方様が『君が僕を愛するよりも、僕は君を愛している!』とかいわれたならば、腹が立つわけです」
「うーん、微妙……。そんぐらい愛してるよー! ぶちゅー! って意味にとればいいと思うけどなあ。――だってヘラちゃん、人や神は平等とかいうけどさ、そうでもないんだからしょうがないでしょ」
 ヘラはそれでもまだ納得しないようだった。
「比べるということが嫌なのです」
「で、どうするの?」
「そうですね、すこしおどかしてあげましょう」
 こうして、二人のもとに巨大なサソリが送りこまれた。
「ねえ、オリオンあれを見て!」
「アルテミス、逃げるんだ! サソリはまずい。いくら僕らの腕が確かとはいえ、危険すぎる」
 サソリは恐ろしい速さでオリオンばかりを狙って、毒を放つ尾を突きかけてくる。
「海へ逃れるのです。サソリは水には入れないのですから」
「君はどうするんだ、君は!」
「狙いはあなたのようです。とにかくはやく!」
「わかった!」
 オリオンは疾走して海へと逃れ、アルテミスは家に駆け込み、弓を構えてサソリの襲来に備えた。やがて喧騒は沈まり不気味なほどの静寂がやってきた。そこへ、サソリを撒いて心配のあまり無造作にオリオンが疾駆してきた。
「おのれ化物め!」
 アルテミスの放った矢は外れようはずがなかった。だが彼女が耳にしたのは意外な声だった。それは愛するの男の呻きだったのだ。
「おお、なんという! わたしはなにをしてしまったのでしょうか……」
 自分の矢が貫いたのがオリオンだと気づいたアルテミスは、すぐに矢を抜き去ったのだが、すでにやじりに塗ってあった毒はまわりはじめていた。
「死んではなりませぬ! 気をしっかりもつのです! おお、なんということでしょう……」
「アルテミス……ぼくは、君を……」
 オリオンは絶命した。地球を一周してまで手に入れた愛によって死んだのだ。いや、彼の死は彼自身が発した高慢な言葉によってかもしれない。
 天上の世界でことの成りゆきを伺っていたゼウス神とヘラも唖然としていた。ちょっとしたお仕置きの結果がこうなろうとは、全知全能の神ですら予想外だったのだ。恋愛とはそういうものかもしれない。
 オリオンを憐れんだゼウスは彼をすぐに天へと昇らせ、オリオン座となした。また、恋愛のもつ不可思議さを神々や人々が忘れないためにと、ヘラが地上へ送った巨大なサソリも天にあげられたのだった。
 いまでも、夜空でオリオンがサソリを警戒しつづけているのは、そのためだといわれている。

―完―




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