小説・短編『思ひ出のにおひ』――やぎ座

2015年10月29日

 忘れられない本がある。その本に出会ったのは、ぼくが中学二年生のときだった。
 季節はたしか秋だったはず。学校と自宅マンションを往復するぼくは、近道のためにいつも公園を突っ切っていた。まばらに立ち並んだ銀杏の木が差しだしたハート形もどきの葉が、ほんのり黄いろく色づいていたのを憶えている。
 学校から帰ったぼくは、公園にたむろしていた木と花と土を混ぜこぜにした匂いを漂わせたまま、机にむかい本を開いた。
 学校の図書室から借りてきた本だったから、手垢に汚れて痛んでいた。飲み物でも零したのか、頁のところどころに染みがあったり、隅が折られていたりした。
 だけれども、ぼくのなかに強く印象に残っているのは、沢山の人が触れた紙だけが持つえたような香ばしい、あのなんともいえない臭いだった。あえていうなら、へんな臭い。ずっと嗅いでいるとお尻がむずむずするようなあの臭いだ。
 ぼくの中では楽しむこととへんな臭いは、今でも違えることなくしっかりと結びついている。
 題名を目で追ってから頁をめくり、本文を読みはじめると、誰とはいえない誰かが、とたんにぼくに語りかけてきた。
「牧畜の神パーンは、少し変わった風姿をしていました。
 上半身は人間ですが、頭には山羊の角と耳が生え、垂れた目尻とあがり気味の口角の傍にできるえくぼ、、、が、彼を屈託のない陽気者に見せていました。ごっそり隙間なく生えた髯は、もみあげに繋がるくらい立派でした。下半身は山羊なのですが、足は人間と同じように二本です。
 パーンの父は伝令の神ヘルメスだといわれています。ですが、卵から生まれた両性具有の神であり、天の神ウラノスと大地の神ガイアを生み出したことから、全てを創世した原初の神がパーンだともいわれています。
 彼は自由奔放な性格でした。情熱家なのに飽きっぽく、好奇心が強いくせに臆病というように、極端な性質をもっていたのです」
 情熱家ねェ……。何かをやりはじめたら、馬鹿みたいに熱中するけど、厭になるとすぐ放りだす。ぼくの性格に似てるかもなァ……いってみれば、三日坊主!
 今でも、ぼくのこの性格は改善が見られないらしい。笑うなかれ!
「もしかするとパーンの性格は、親譲りだったのかもしれません。彼の父ヘルメスは商業の神であり、貿易の神であり、旅人の神であり、泥棒や山賊の守り神でもあったことから、パーンは多岐にわたる才能に恵まれ、善悪をあまり気にかけない、自由を愛する神だったようです」
 親譲りか……なきにしもあらずだ。
 当時はそんなふうに思ったことなどなかったが、今のぼくは後姿が父親にそっくりだなどといわれると、なんだか理由もなくムッとするのだ。
 そういえば夏目漱石の作品にもそんな書き出しがあったような……。
 親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて――。
 ぼくの記憶にはないのだが、子どものころ変身ヒーローになりきって、えいやッ! と高いところから飛び降りて怪我をしたそうなのだ。そのとき作った傷痕はいまでも残っている。
 今のぼくにも親譲りがあることは認めざるを得ないようである。
 ついつい追想に耽ってしまった。パーンが自由を愛する神だというところからまた読んでみよう。
「そんなパーンでしたから、歌や演奏にも優れたところがありました。特に上手だったのは、シュリンクと呼ばれる葦でできた笛を吹くことでした。シュリンクと聞くと知らない楽器に思えるでしょうが、ハーモニカの元になったといわれているので、パーンの笛は特別変わったものではなかったのかもしれません。おそらく多くの人々に演奏されていた楽器だったのでしょう。
 覚めやらぬ朝には霧をはらうように笛を吹き、昼は歌とともに野山を駆け回り、夕暮れには静かな宵を招く長閑のどかな調べを奏でるパーン。彼の暮らしは旅から旅の生活であり、人や自然と戯れる愉快な毎日だったのです。
 そんなある日のこと、パーンは噂を耳にしました。なんでも神々がナイル川のほとりに宴をもうけ、歌や演奏はもちろんのこと、美味しい料理や珍しいお酒をたらふく楽しんでいるというのです。英雄伝や珍奇譚が語られ、女神や妖精ニュンペーたちが踊りを披露しているといいます。なかでも太陽神アポローンの竪琴と歌は素晴らしく、美しい声で詠われる詩は心を澄みわたらせるという噂でした。
 居ても立っても居られなくなったパーンは、俊足を飛ばしてナイル川のほとりを目指しました。そうして彼は宴の仲間に加わったのです。ときにはアポローンと競い合うように、ときには賞賛しあうように、パーンはシュリンクを吹き鳴らしたり歌ったりしました。二人の共演はそれはそれは見事なもので、神々は大喜びです。口々に大歓声をあげ、宴の歓喜は最高潮に達したのでした。
 そのとき、突如天空に暗雲が沸きたち、大地には亀裂が走り、いたるところから炎と溶岩が吹きあがりました。怪物の王テュポンが現れたのです。楽しそうな神々に嫉妬したのか、大歓呼の声に目を覚まされて怒ったのか、あるいは宴に参加したかったのでしょうか、それはわかりません。しかし、全知全能の神ゼウスですら敵うかわからない、最大最強の怪物テュポンが現れたことだけは誰の目にも確かでした。
 普段であれば、神々はゼウスを中心にして、テュポンを追いはらったかもしれません。ですが、今は無理でした。ある者は美食にお腹を膨らませ素早く動けず、ある者はお酒に酔って千鳥足なのです。とても追いはらえるような状況ではありませんでした。
 何よりもナイル川の幅ほどもある巨体をしたテュポンの恐ろしさに圧倒されています。いやそれだけではありません。その醜悪な容姿の恐ろしさといったら……。
 上半身は人間と同じなのですが、両肩からは百匹もの蛇が鎌首を持ちあげています。下半身は蛇なのですが、蛇腹がくねくねとのたうつ不気味さは悪寒をもよおさせました。そのテュポンがだんだん近づいてくるのですからたまりません」
 蛇ですか……。
 いつでも蛇は嫌われもの。蛇だって生きている! なんだか可哀想になる。
 ギリシャ神話だけでも、メデューサ、ヒドラ、ゴルゴーン、ピュートーン、オピーオーン、ラミアなどがいる。世界各国の神話を繙けば、蛇神は間違いなくいるといっていい。日本なら八岐大蛇ヤマタノオロチが有名だ。生命の象徴として太古から信仰の対象とされていたらしいのだから普通のことなのだろう。
 蛇といって思いだすのは、これもまたぼく自身の記憶にはないのだが、両親に山登りに連れていってもらい、山道を這う蛇を捕えようとして、彼らをどぎまぎさせたことくらいか……。
 いや、もうひとつある。これは大人になってからだし、かなり最近のことだ。どうということはない、蛇を見て驚いて転んだのだ。
 やっぱり突然現れると蛇には驚くものなのだろう。もっともぼくが見たのは青大将だったので、毒を持たないやつだった。今のぼくが蛇に抱く印象といえば、そんなところかもしれない。
 蛇足はここまで。続きを読もう。テュポンが出現した場面へと。竜頭蛇尾にならないように。
「さあ大変です! 誰かが叫ぶ声がしました『変身して逃げるんだ!』と。誰が大声をあげたのかはわかりません。誰も彼もが逃げながら変身してゆきました。
 ゼウスは鷲に、アポローンは鴉に、アルテミスは猫に、ヘラは牝牛になって、それぞれ思いおもいの方向に逃げ散っていきます」
 凄まじい光景だ。
 空を飛べる鳥に変身するのは賢いと思う。でも猫や牝牛っていうのはどうなんだろうか……。猫はジャンプ力もあるしすばしっこいからいいだろう。でも、牝牛はどうかと思う。牛の全力疾走って速いのかしら? 
 普通に読みとれば、それぞれがそれぞれの個性にあった動物に変身したのだと思える。だけど現実的に考えてみると、馬鹿らしさがあって面白い。
 そういえば、理科の授業で牛の目玉を解剖したことがあった。みんなが恐いとか気味が悪いとかいった声をあげていた。けれども教師が、命あったものであること、よく見ればとても可愛いものだといっていた記憶がはっきりとある。
 今でもぼくは動物たちの睫毛と透きとおった目を見ると、心が洗われるのだ。
 モォーそろそろ本に戻ろう。
「もちろんパーンも変身しようとしました。近くにはナイル川があるのですから、魚になって逃げればいい。彼はそう考えました。ですが、テュポンがもたらす恐怖に焦り、変身に失敗したことに気づかず川に飛び込んだのです。
 ようやく騒ぎが収まり、逃げた神々が次々に戻ってきました。変身をといた神々はなんとか宴を再開します。そこへ変身したままの姿でパーンがやってきたのです。神々も妖精たちも彼の姿を見て大笑いしました。なんとパーンの上半身は山羊、下半身は魚という格好だったのです。慌てて変身したための失敗でした。
 彼は皆に笑われることが少し悔しかったのですが、自分でも自分のしたことが可笑しくて、愉快な気分になりました。彼もまた大笑いしたのです。
 大混乱のあったこの日、集っていた神々を一番楽しませたのはパーンだったのです。こうして彼はゼウスに讃えられ、珍妙な姿で天に描かれました。これが今も夜空に見えるやぎ座だといわれています。
 混乱して思ったことと違うことをしてしまう。パーンの挿話からパニックという言葉が生まれたともいわれているのです」
 捨てる神あれば拾う神あり。ハッピーエンド。良かったよかった。
 どんな事であれ、楽しもうとおもえば楽しめる。愉快に生きるには自由であろうすればいい。くよくよしないで笑っていればいい。
 ぼくはこの本から大事なことを学んだことをよく憶えている。だれけども、良い本にめぐり逢うことはなかなか大変なことかもしれない。ぼくはたまたま中学二年生のとき、良き出逢いに恵まれた。幸運だったのかもしれない。そうでなかったのかもしれない。どちらなのかはわからない。いや、良いとか良くないとか決めようとは思わない。自由とは柔軟の異名であろうから。スポンジのようであればいい。あっというまに吸収し、必要なときに必要な形にくにゃくにゃする。いわば変身。笑われたっていいじゃない。自分はガチガチに固まって動かないまま、人が変わることを求める。それが自由だとは思えない。
 親譲りのところは仕方がない、明らめよう。でも蛇のようにくにゃくにゃと、それでいて牛の如く慌てず。性格を解剖されたからって愛されてればいいじゃない。空想も現実も楽しんで、ハッピーエンドを迎えられればいいいじゃない。
 やぎ座の物語があった本は、随分とぼくを変えたのかもしれない。
 そんなぼくだからか、今でもぼくの鼻は、へんな臭いに敏感なようだ。

―完―







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