小説・短編『パンドラの悪戯』――冥王星

2015年11月11日

 ひろしは一人、冥界について沈思黙考する日々をすごしていた。
 そこは死者の魂を裁き、善行には賞を、悪行には罰をあたえるところだという。つまり冥界とは、暗黒の世界を統べる王ハデスの権能によって、信賞必罰をくだされる場所であるようだ。そしてそれは、いみじくも蘇りの時を見越しての裁きであり、罪を償うものであるのだから、魂を洗い清める場所にほかならない。しかし人々は、冥界とその統治者を忌みきらい、わけもなく避けようとする。これは奇異であり滑稽なことではないのか。
 確かに「見えない者」と綽名されるハデスである。生の途次にあって寸暇でもまみえることが出来ぬゆえに、見えざる恐怖を抱くのはわからなくもない。しかし、冷静に考えてみればみるほど、そうした忌避が彼の目には滑稽に映るのだった。
「じゃあ、生きてるときに人は何らかの裁きを受けていないとでもいうのか?」
 そんなことはありえない。であるなら、因果応報などという言葉が世人の口にのぼることはないだろうし、わざわざ裁判などという制度を作って、人が人を裁いているのをどう説明すればいいのか。場合によっては判事や陪審員の手に生命さえにゆだねられていることをどう考えればいいのか。冥界とこの地上の世界、とりわけ地球上での生活とで、どこに差があるというのか。太陽があるかないかの違いではないか。
 闇は恐ろしいというが、ではなぜ人は眠るときに明かりを消すのだろうか。光あるところから突如闇に入れば、戦慄を覚えもしようが、それとても目や耳が慣れるにしたがって、消えてゆく戦慄ではないのか。いなむしろ暗いほうが落ち着くときすらあるではないか。
 ときには、
「ダーリン、おねいだから明かりを消して……」
「OK、ハニー……」
 などと囁きあうではないか。
「住めば都? じゃあ、人々はなぜ冥界を嫌悪するのだろうか?」
 こう考えてゆくと、冥界を奇怪なものと見ていることに特別な理由は見当たらない。
 宗教でいわれている地獄。悪行をおこなった者の魂がゆく地獄とそれは、まったく異質のものに思えるのだった。
 仏教でいう中陰――いわゆる四十九日――や、キリスト教でいう、煉獄れんごくといったような、天国へゆくのか、地獄にゆくのかの分水嶺ともちがった世界が冥界だと、彼の目には映った。
「実際、冥界ってどんなところよ?」
 それは、世界の西の果ての地底にあるという。冥界を司る政庁は冥府とよばれている。もちろん滉であっても、それが大阪府とか京都府とは違う意味であろうと想像した。だが意外や意外、どうやらそういう意味で間違いはないといえるようだった。府とは、古来大都市の機能をもった地域をさしたようだが、今でいう行政区画といっていいようなのだ。つまり、冥界独自の規則により行政がおこなわれている地域といっていい。もちろん、ハデスの居する宮殿そのものをさして冥府という場合もあるようだが、その冥府がいかなるものかという記述はみあたらない。
 ゼウスの御するオリンポスのように、白亜の宮殿であるとかいった描写に、彼はついと出会った試しがないのである。それでも宮殿はあるらしい。そこには前庭もあるらしいし、ハデスの妻ペルセポネを歓待するために、ポプラと柳の並木があるらしい。きっと花壇などもあるのだろう。
 ポプラも柳も生命力の強い木だといわれている。ほかに共通点といえば、学術的に分類の難しさをもっていたり、雌雄異株という特質がある。こうしたことは、冥界が男女の営みを禁忌としていることを思わせる。ということは、冥界の辞書には「誕生」という言葉がないのかもしれない。そしてポプラ、柳ともに、少しおどろおどろしい。ポプラは春の終わりにまっ白な綿毛をまきちらし、柳が風にゆられるさまは、怪談でおなじみの「ひゅ〜どろどろどろ……」といったあれである。ポプラはマッチの柄、柳はつまようじなどに使われているが、木の色それ自体は白っちゃけているところもにている。いわれてみれば少々不気味ではある。普段見かけている木樹の枝が折れたときに垣間見るあの真白の生命感、そういう生々しさといえばいいか。こうしたところに冥界が気味悪がられる一因があるのだろう。
 さてその先には何があるのか。足を進めてみると、閑散とした丘陵に聳えるように立つ門があるという。特別名前は附されていないようだ。普通の門でもかまわないし、怪物の口が門扉になっていてもよい。とりあえずお好みで想像すればいいのである。フランスにある凱旋門もどきでもエッフェル塔もどきでもいいのである。
 冥界の詳しい様子がわからないということは、滉の想像力を刺激してやまなかったのだ。
 どちらにしても、遠目には寂寥として茫漠たる印象をあたえる丘に立つ門なのだろうが、近づいて見ればそこは美しく――といってもそれは冥界の美的感覚なので、ポプラや柳に準じた植物で飾られた――庭園があり、草木ととのいしそのに隣接して夢の国があるという。この門と庭園のあたりに地上から沈んだ太陽が沈む場所があるという。なんというか、太陽が素通りしているといえばいいのか。この光景を目の当りにしたならば、相当にショックを受けるかもしれないが、慣れれば何ということもないのだろう。
 というよりも夢の国とは何であろうか。
「もしかして冥界の遊園地ですか? 冥界ディズニーランドとかなんとか……」
 いや、夢の島の間違いかもしれない。だとしたら埋立地であって産業廃棄場なのだろうか。疑問は深まるばかりの滉だった。
 ともかく、その庭園のどこかに白い岩があるという。そして、その近くで二流ふたながれの川が交わっているという。これは決して十文字のようなものではないだろう。川が合流していると想像したほうがいいようである。とにかく詳細はわからないが、二筋の川が合一する辺りから視野が忽然とひらけ、砂、砂、砂とつづく不毛の平野「アスフォデルの原」が見渡せるという。東西南北、見るのもすべて灰色かと思えば、不死の花とよばれる純白なるアスフォデルの百合が咲き誇っているという。しかし、この原野は色も香りもない土地であり環境であるという。無色透明な大地なのに、足の裏には砂を感じるということだろうか。色も香りないということは、突き出した岩に躓くとか、あるいは灌木にぶつかる、そうしたことがあっても、いきなり激痛に襲われ、その原因は一切掴めない、無性に腹が立つということだろう。だとしたら、なかなかに不便であろうし、精神衛生上好ましからざるところはあるかもしれない。アスフォデルの花も愛でられず、少々どぎついいといわれる臭いを嗅ぐこともないということでもある。
 思えば不思議である。色も香りもないのに、いったい誰がそこにそうした風景があると知ったのだろうか。きっと赤外線や紫外線でものを見られる種族あたりからきいた噂なのだろうか。いや、もしかしたら冥界に降った魂は視力を持たないのかもしれない。 
 滉はこうしたくだりを知るにつけ、「決定版・冥界エリアマップ」だとか「冥界の歩き方〔付録:冥界が見える4D眼鏡つき〕」とか「冥界植物図鑑」なる本がないことに、やり場のない苛立ちを覚えたりもしたのである。
 そもそも地図がないので、死後冥界に第一歩をふみ入れる場所も、実際問題どこだかわからない気がして、不安に駆られもしたのだが、この地上世界に生まれてきたときも、自分がどこで産声をあげたのかなど記憶にないのだから、さして問題にもならないと結論しはしたのである。だが、そう思って見ると、冥界といっても地上と変わらぬ原理が息づいていることに彼はまた驚嘆し、欣喜しもしたのだ。
 気がつくと彼はステュクス(憎悪)川あるいはアケローン(悲嘆)川――例の交わっている二本の川――のほとりに立っている。それがステュクス(またはアケローン)川であり、ここが冥界なのかと知れるのは、まだ生前と変わらぬ記憶があるかららしい。だが、飢渇にあえぎ、川の水を飲んだり、子ども心に誘われて川に飛びこんでしまうと、とたんに自分が何者であったのかを完全に忘却してしまうのだという。冥界に生まれなおしたとでもいえばいいか。
 ということは、冥界の辞書にも一応「誕生」があってもおかしくないわけだ。いったいどっちだ?
「誕生といってもさァ、赤ん坊に戻るわけじゃないんでしょ。大人のまま記憶失うだけ。それってただの災厄じゃないの?」
 もちろん、あせって水飛沫をあげて川を渡ろうとする必要はない。なぜかなら、そこにはカロンという背中が曲がった白髪白髯をたくわえた渡し守の老人がいるからだ。いや、冥界に降り立った場所がよければ、たまたまカロンに出会えるというだけ。彼岸の地も運しだいなところがあるのかもしれない。死してなお、運は大事なようである。

  歩いても歩いてもまだ出会えぬぞ
  寡黙なるやは我かカロンか……。

 などという短歌を滉は吟じたりもしたのである。相当に楽しんでいるようだ。
 カロンとても気さくな老人ではない。ボランティアではなく、仕事をしているのであるから、渡してもらうには船賃がいる。三途の川と同じシステムなのだろう。三途の川の場合、信州真田家の紋章であった六文銭が賃料であり、冥界では一オボロス銅貨でいいようだ。しかし元来、三途の川の場合、善人は金銀瑠璃玻璃るりはりなどでできた七宝の橋をわたり、中庸な人は浅瀬を軽やかに徒渉し、悪人は逆巻く波に圧されながら、足もつかない深みを溺れそうになりながら渡るのものなのだとか。水着や浮袋を用意して臨終にのぞむほうがいいかもしれない。
「いや、水着はいらないだろォ、どうせ誰も見てないし、見られて困る世界でもないだろ。フリチンでいんじゃね?」
 ともあれ、冥界にあっては、こうして川で記憶をうしない、憶えてもいないことで裁きを受け、罪あるものは罪を償うわけだ。
「なあんだ、この世界となにも変わらないじゃないか!」
 でもアフロみたいな可愛いやつは……いるいる。少々見てくれは悪いが一杯いるではないか。三つの頭をもつ地獄の番犬ケルベロス、ボールを三つ投げたらさぞかし楽しいことだろう。最大最強の噂に聞こえしテュポン、オルトロス、ヒドラ、キマイラ、スフィンクスの彼(彼女?)は謎謎が得意、暇つぶしにはもってこいだ。ヘルクレスに退治されたネメアの獅子、百の頭をもつカッパードラゴンのラードーン、不死の鷲や猪と、けっこう賑やかそうで退屈はしなさそうだ。
 滉は考えに考え、冥界を隅から隅までを知るにつけ、
「冥界に恐ろしいものなんてないんだなァ。だったらこの地上世界にも恐れるべきものなんてないね!」
 となかば自意識過剰ともいえる自信を抱いたのだった。
 こうして彼は最愛の女性ひとさちに結婚を申し込んだ。
 もちろん答えはイエスだった。これで滉は母をも安心させらると思った。
 行末に幾多の困難があるにしろ、それがパンドラの匣をあけてしまうようなむこう見ずであっても、結局はどこの世界にあっても、天上であろうと、地上であろうと、冥界であろうと、最後に希望があればやっていける。そう確信しての船出だった。
 もちろん、冥界のことに関して、倖には何ひとつ語っていない滉なのである。
 しかし彼は、パンドラの匣にある希望が、ときに妄想にかわり、それに執着することで諦めの悪い地獄のような苦悩に陥ることもあるということをまだ知らない。
 嗚呼! 幸いなるかな、無知もまた希望なのである。

(了)







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