『法華義疏』

2018年04月19日

如来神力品は、神力というものが人の心が読めるとか、未来を予知できるといった超能力ではなく、当たりまえに人間に備わったものであることを説いている。

つまり、相手の機根や状況、相手の置かれている環境や心情を慮て、自在に法を説けるということを教えているわけだ。
梵天にさえ届く長広舌を見せるとか、あらゆる毛穴から光を放つとか、経典の表現はぶっ飛んでいるが、それらは梵とはなにかということを時宜にあわせて自在に説ける能力の譬喩であり、毛穴からというのは、時宜という微妙なものを肌で感じられる能力の譬喩なわだ。換言すれば、その場その場の空気を読んで、相手にとって最も適した法の説き方ができるということを説いているわけだ。


つづく属累品は、仏は先に述べた神力ほか、様々な智慧をもって法を説くのだが、究極的には『経』にして説くということを教えている。
なぜ経にするか? それはひとえに滅後の衆生のためなわけだ。
この属累品に上行菩薩があらわれるが、特別、上行菩薩に経の流通を付属しているわけではない。
(属累とは付属するという意味だ。)
むしろ、このあとにつづく、薬王(菩薩)本事品、妙音(菩薩)本事品、観世音(菩薩普問)品に付託されているように読める。

この薬王、妙音、観世音という各々の菩薩は、利他行の方法そのものを説いているのだが、その共通点は、彼らがすべき修行が一種の「苦行」であるという部分だ。

それはすなわち、娑婆世界というのが苦悩に満ちた世界であるということの裏返しなのであって、釈迦は決して無理な苦行勧めているのではない。

薬王品においては、あらゆる供養の中で最も尊い供養は、自分の身をもって行うことだということを説いている。例の有名な自分の臂を焼くということが説かれているわけだ。
またこれは別の言いかたをすれば、「不動」の心こそ重要であるということも言わんとしているのだろう。

で、妙音品は何を説いているかというと、娑婆世界に住む衆生と国土はとんでもなくねじ曲がっているがそれでも、衆生や国土を敬い教化するという「不軽」や「忍辱」の精神を教えている。

で、観世音品では、衆生の苦しみの声を聞いて、苦を抜き楽を与えるという役割をになって娑婆世界で生きる菩薩が説かれる。したがって、観世音品では、慈悲行の実践を勧めているわけだ。

これらの菩薩にあって、大事なことは、あらゆる衆生の色心に変身できるという部分だろう。
教化する衆生が餓鬼なら、自分も餓鬼の姿と心をもって衆生を導くというわけだ。
つまり、相手の立場にたつことが、利他行の基本中の基本だと経典は説いているわけだ。
薬王品にも、妙音品にも、観世音品にも、このことが説かれていることから、相手の立場にたつということが、いかに重要かはわかろうというもの。

で、陀羅尼品は、法華経を信仰する衆生を様々な衆(毘沙門天や十羅殺刹女など)が陀羅尼をもって守護することが説かれている。
この陀羅尼の解釈はなかなか難しいだろう。
現実的には、法華経を信仰する衆生を守るために、様々な人が励ましと労わりの念をもってかけてくれる声のことを「陀羅尼」と言っているのであって、いわゆる仏教用語にある、お経=陀羅尼という意味ではないだろう。

ようするに、陀羅尼品では、正しく法華経を信仰していれば、諸天の守りは必ずあるということを説いているわけだ。

で、妙荘厳王本事品は、例え他宗の人であろうとも、最終的には結果として自分の「善智識」になることを教えているわけだ。
より正確に言うならば、善智識というのは、相対的な関係から生まれるということを説いているわけですがね。
父親が外道の信仰をしていることで、息子二人は悩む、どうにか正しい法華経の道に導きたい、と。
そう、この導いきたいと思う心を起こさせたのだから、外道を信仰している父親は息子たちにてっては善智識なわけだ。
もちろん、その後法華経に帰依することになる父親からすれば、息子たちもまた父にとっての善智識なわけだ。
つまり、善智識というのは、自分にとって都合のいい人を指すのではなく、あらゆる人が善智識となれる関係性にあるということを教えているわけだ。
またこうした関係性においてはじめて生まれるのが「恩」であると妙荘厳王本事品は教えている。

で、最後の普賢菩薩勧発品は自行の勧めであり、この品によって法華経は終わりになる。
その自行というのは、法華経を信仰している人を主体的に敬い守護してゆくという修行である、と。
ただし、法華経を正しく憶念し、正しく信解している人を守護するのであって、法華経を捻じ曲げて憶念し、捻じ曲げて信解している人を守護する必要はないわけだ。

つまり、結局のところ、まず自分が正しい憶念に至るのが先なわけだ。
もちろん、これまでの経の流れから、誤った憶念や信解している人であっても、不行菩薩がしたように、そうした人々を礼拝することはやぶさかではないのだが、守護する必要はないわけだ。

若し能く自の行が具足せば、すなわち他を化することは自在なり(聖徳太子)

ということで、最終的には自行に集約されるわけだ。
ゆえに、自分自身に生きるしかないのである。

ipsilon at 19:20 
先の記事に書いたとおり、法師功徳品第十ハは「六根清浄」について説かれていた。
ただし実際の経典は五種《目・耳・鼻・舌・意(心)》という項目で説かれているが、ようするにこれは六根清浄こそ仏の境地に至り、経を説くために必要な条件だと経典は述べているわけだ。

父母所生の耳は 清浄にして濁穢無し
この常の耳を以て 三千世界の声を聞かん


そういうことですよね。生まれたばかりの赤ちゃんのときは誰でも、すべてを“ありのまま”に見て、聞いて、嗅いで、味わって、感じているんですからね。
でも大人になるというのは、そうした純真さから離れて、偏見と先入観でものを見るようになるということなわけだ。
だから、まずは子どもの感受性である六根清浄に至って物事を体験することが最第一の修行なわけだ。


そして、つづく常不軽菩薩品第十九では実際にどのようにして六根清浄を得る修行をすればいいかが説かれている。

曰く――
専らに『経』典を読誦せずして、、、、、但だ礼拝を行ず。

――と。

つまり、修行とは、この「法華経」こそが最大一の経典なのだとか南無妙法蓮華経こそ最高の経なのだとか説かないわけだ。ただただひとえに他者を礼拝することが六根清浄へと至る道だと説かれているわけだ。
当たりまえですよね、すでに大人になったりなりかかったことで穢れてしまった六根をもって経を読誦しようとしても、正しく読めませんからね。だから、「専らに『経』典を読誦せずして」という姿勢が大事なわけだ。

したがって、現実には何ものをも軽んじない姿勢を貫き、悪罵や暴力を加えられようと、それは自分が生きていることを証明することだと感得していくなかで生まれたそのときの感覚を取りもどすことが修行になるわけだ。そしてそうした体験を積みあげることで、はじめて正しく「経を聞く」ことが出来るようになっていく、と説かれているわけだ。

さあ、そういう信仰をしているのはどこの宗派だろうか?
ほぼそういう宗派はないでしょうね。
まずもってこの経が正しいとか、この本尊がとかいうのから信仰の道に入らせる宗教ばかりだということだ。

ともあれ、六根が清められ、様々な経(言語・音声ひいてはあらゆる振動)を体験によって聞き、それを自分の中で言語化し、仏の境地に辿りついたと思えて、はじめて経を説きなさい、そう仏は教えているわけだ。

またそうすることによって、不軽菩薩を悪口罵詈し誹謗した衆生にさえ最終的には経を説き、衆生を仏のもとに導けると説かれているわけだ。
経典では、現にここにいるこれこれの菩薩たちは、私がかつて不軽菩薩だったときに私を誹謗した人たちだ! でもそういう人たちでさえ、こうやって経を聞き、法を説く場所に会座できているではないか! と釈尊は語るんですがね。
素晴らしい慈悲だと感動した部分ですがね。

こういうことを学ぶと、これらの品をきちんと解釈して信仰に活かしている宗教団体がほとんどないということに気づいてしまうわけだが、まあそんなことはどうでもいいのだ。今さらそういった団体と関わって何がしかを得たいなどと思っていないのだから。

ipsilon at 16:12 
功徳について説かれているが、功徳はあくまでも「方便」であることを押さえておくのが大事だろう。
そもそも仏の寿命は無量なのだから量れない(分別できない)のを、言葉にして語るために、説かれているので分別という語句があるわけだ。

ようするに分別とは、二項対立のある娑婆世界にあって物事を説明するためにはどうしてもそれをもって語るしかないということだ。
右の反対は左、善の反対は悪といったように。
しかし、ここで説かれている功徳とはそういうこと指しているわけではない。

自分がいかなる印象を受けたとしても、その印象を「今自分は生きているんだ!」という証であると見るのが功徳なわけだ。厳密に言えば、今生きている実感である現在の寿命が無量であるなら、自分の過去と未来の寿命もまた無量であり、自分は三世にわたって無量の寿命を生きているし、死なない(決して滅しない)という実感こそが功徳だと説いているわけだ。

褒められて嬉しいと感じるのも、貶されてムカツクのも、撫でられて癒されたと感じるのも、殴られて激痛を感じるのも、感官が受けとったものはいかなるものであろうと、今自分が生きている証だといって実感することが功徳だと説いているわけだ。

だから、究極的には刃物で刺されて、「ああ、これは死ぬな……」と思えるような状況になっても、この激痛は今生きていることの証だ! と実感できるのが功徳に浸っている境地なわけだ。
もっとも、わたしも含めて多くの人は、そう簡単にそういう生き方が出来ないのですがね。
悪口を言われればムカツイて言いかえしたりしてしまうのだから。
だから、仏になる人は少ないわけだ。

何も見ても、何を聞いても、何を嗅いでも、何に触れても、「ああ生きてるんだ!」そうしみじみをと実感できるのが功徳なわけだから。そしてその先もあるわけだ。どんな悪罵を吐き掛けられようと、そのことで自分が生きていることを感じられたのだから、その悪罵した人にさえ感謝できるというのが仏の境涯なわけだ。


ともあれ、分別功徳品は、既に究極の教えである「寿命無量」を説いたあとだから、あとは現実娑婆世界のうえで(分別や方便として)「ではどのように説かれた法を伝えていくか」という流通分の内容へと移り変わってゆくわけだ。

そのはじめが分別功徳品であり、自分がどのように感じて生きていけばいいかが説かれ、つづく随喜功徳品では他者に法を伝えたとき自分が受ける功徳がどれくらいかを教えているわけだ。
もちろん、その功徳というものは方便である。ようするにこの両品は、仏が功徳があるよという方便を用いて、「他者に法を説きたい者はおらんか?」というように呼びかけているといえるわけだ。

そして、つづく法師功徳品・常不軽菩薩品では五感の明利を説いてそれをどう使っていけばいいかを説き、如来神力品から妙荘厳王本事品までは、実際の流通の方法を説き、最後にそのようにして利他に生きた場合に受ける自分の功徳を普賢(菩薩)勧発品で説いて終わるという流れになる。

五感の明利というのは、無意識の世界を無意識で見ることはできないので、意識をもって無意識を見るためには、五感を清浄にする必要があるということを説いているのだろう。いわゆる六根清浄の意味を説いているのだろう。

ともあれ、分別功徳品・随喜功徳品では、六波羅蜜のうちの五波羅蜜までは自分だけの修行で完成させられるのだが、六つめの波羅蜜(般若の智慧)は、自分だけでは完成させられないということを述べているのに注目すべきだろう。
勿論、その六つ目というのは、真理を正しく他者に伝える智慧なことは言うまでもないだろう。
だからこそ、仏は自行と化他を勧めているわけだ。またそれゆえに、まず先に利他行を勧めているわけだ。
般若の智慧に限って、自分だけで到達できない悟りなのだから。

こういったことを真剣に思索すれば、六つ目というのは、時宜にかなった意識や言葉の使いかたであることはわかるはずだ。


世は皆牢固からざること 水沫泡や焔の如し
汝等よ咸く応当に 疾く厭離の心を生ずべしと
諸人は是の法を聞いて 皆阿羅漢を得
六神通と三明と 八解脱を具足せん


諸行は無情である。だから執着するな。
これが「法」なわけだ。
宇宙を貫く永遠普遍の絶対の因果の理法なんて法はないし、いわんや妙法蓮華経という法も実存しない。だからそういう法に執着していたら、いつまで経っても悟りは得られない。

ipsilon at 14:27 
以前のように細々としたことは書かない。
個人的に重要と思えることについてのみ触れておく。

従地涌出品にあっては、地湧の菩薩が何者なのか? が最大のポイントになるだろう。
いえば、地湧の菩薩とは過去仏だろう。
自分自身の過去である。
その過去は無始から今につらなる長遠なものだということを表現するための譬喩が地湧の菩薩といって過言はないだろう。

なぜそう言えるか?
現在・過去・未来にあって、確実に事実であると断言できるのは過去しかないからである。
したがって、法を説き他を教化するにあたっては、自分が経験した過去を語るということがそのまま地湧の菩薩の働きということになるわけだ。

これは至極当たり前の道理であり、『夜と霧』の著者、V・フランクルもそのように言っているわけだ。
過去だけが確実だと。だから過去の事実をもとに今と未来への道を見出すのが最も道理に叶うのだと。
宮台氏もそのように言っているわけだ。未来よりむしろ過去をきちんと見ていくことのほうが重要なんだ、と。

で、従地涌出品からつづく寿量品では、過去は量りきれないほど長遠(決して永遠だとか無限だとは言っていない、どれくらい長遠なのか思義「心でも言葉でも量れない」と言っているの)であるから、同様に現在も未来もまた過去と同じように長遠なのだと、したがって、仏の命は便宜上は永遠であると説かれていくわけだ。

道理に叶っています。
過去が長遠であるのに、現在と未来に限りがあるというのは、道理としておかしいですからね。
だが、この辺の論理になると、もはや常識では理解できない範疇になるので、こういうことは信じることでしか納得できないと説いてもいるわけだ。
形而上の概念は結局のところ、信じるか信じないかになるからだ。

しかし、寿量品で最も重要なのはそこではないだろう。
大事なのはここで説かれる「理」と「事」の関係性と意味性といって過言はないだろう。

もちろん、ここで説かれていく「理」と「事」は、わたしが創価などで教わってきた「理」と「事」ではない。
「理」理論理屈。「事」事実としての実践という意味ではないということだ。

「理」=普遍性をもった智慧。「事」各人各様の機根に見あった法の説き方、つまり方便というのが正しい解釈であったわけだ。

もう少し噛み砕いて言えばこうなるだろう。
「理」=原理原則としてはいかなるものにも当てはまる形而上の理論(諸行無常)。
「事」=その原理原則を衆生に理解させるために、衆生の理解力や性質などを考えて、その人にあった言いかた・表現をもって法を説くこと、とね。

まあ、ほとんど多くの人が「理」と「事」のこうした正しい解釈が出来ていないというわけだ。
正しく理解していれば、しょせんは仏の立場(智慧)からすれば、「理」と「事」の双方はしょせん方便にすぎないということがわかるはずなのだ。

しかし現実の世間では、その「理」と「事」のどっちが優れているとか言って、罵り合ったりつまらない議論をし続けているというわけだ。

そういうことを明確にあらわしている経文が寿量品の長行にある
「諸善男子。如来所演経典。皆為度脱衆生。或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事」なわけだ。

仏は衆生を導くために、或いは我が身について説き、或いは他の身について説き云々……。
つまり、寿量品では、「事」というのはこのように、適宜、相手にあわせて説くとことだと言っているわけだ。

では「理」とは何か? と言えば、そのように説かれた自身も他身もそのほか様々な事象も結局は「空」であるというのが「理」になるわけだ。

また、寿量品では、こういったことが良医病子の譬えをもっても示されてもいる。
本来、生死などないのだから、仏は入滅する必要はどこにもないわけです。
ではなぜ入滅するのか? 生死に執着して生や死があると思い込んでいる衆生に生死などない、すべては「空」だと教えるために入滅するわけだ。

師匠である仏が死んで眼前から肉体が消えてしまっても、衆生は自分の心の中に変わらず師匠がいることに気づくからだ。
そういう体験をしないことには気づけない衆生のために、仏はわざわざ入滅しているのだ。

例えば、仏の説法を聞いて、「ああ、そうかそういうことか!」と空を悟る衆生もいるわけだ。
そんな時、仏は方便として「功徳」を説く。
逆に、仏の説法を聞いて、「んなわけあるかよ!」と反発する衆生には、「罰」という方便をもって説くと言いかえることもできるわけだ。

だが、狂信・妄信、あるいは利害損得現世利益に執着している衆生は、そういう功徳や罰というものが仏の方便であることすらわからず、功徳を求める愚行に走る、あるいは罰を恐れて慄くというわけだ。
酷い場合、罰をもって他人を恫喝したり、自宗や自分の正当化に走っているわけだ。

むろん、「事」という部分で体験的実践的に「空」を感じとれなければ、「空」を概念として理解すら出来ないのだから、「事」は大事なのではあるが、「事」こそが重要なのだなどという執着にとらわれてしまえば、結局のところ仏が本当に教えたかった「(有無ではない)世界は空でるある」という究極「理」には到達できないわけだ。

したがって、「理」と「事」には優劣はないわけだ。これもまた「空」の関係性にあるということだ。
すべては「空」である。
いえば、すべてが相対的な娑婆世界にあっては、「空」という極理に向かっていないのだとしたら、そういう信仰はおかしいと言わざるを得ないのだ。

誰それの教義は素晴らしいけど、誰それの教義は間違っているとか、関西人と東京人というくだらないセクトをもちだしてに人間をあれこれ言っているようじゃ、話にならんということだ。
そういうことをしている間は、結局は全体主義を育てているのであり、二項対立するもののどちらかを排斥し、全体を全体として見ることさえ出来ないまま、この世界と自分自身を破壊し、分裂させているわけだ。

読書感想で、この本はすっげーくだらなかった、二度と読まないなどという具合に、その行為をしたときに起こった心境を本のせいにしている人を見かけるが、可哀想だと思う。
なぜかなら、本を読んでそのような感想しか持てないということの最大の原因は、自分自身の感受性であり、ものの見方にあるということに気づいておらず、結果、自分の感受性は鈍いんですと告白していることになっているからだ。

何事も楽しもうとしていないものの見方をしていることを、その人自身が感想によって語ってしまっているということだ。
わたしはこの物語を楽しめるほど豊かな感受性をもっていない人物です、わたしの感受性のアンテナはオンボロですと言っているようなものなのだ。

自他に対する愚痴も批評も非難にも、こういう構図があるわけだが、まあほとんどの人は気づけないみたいだが……。

どんなに瑣末なものを見ても、「これはこれで面白れーじゃん!」といって楽しく生きていくのと、何を見ても、「くだらない」とか「そんなのは駄目だ!」とか言って、楽しめない人生を歩むのと、どっちがいいかなんてまともに考えればすぐにわかりそうなものだと思うのだが。

ipsilon at 08:24 

2017年08月08日

安楽行本もいよいよ佳境です。
ということで、今日は最後に説かれており、なおかつ最も重要な「慈悲行」とはいかなるものかを思索していきます。
とはいえ、経典にはこれが「慈悲行」です! とはっきり書いてあるので、別に悩むこともない。


在家や出家の人の中に於ては、大慈悲の心を生じ、菩薩に非ざる人の中に於ては大慈悲を生じて、応に是の念を作すべし。
是の如きの人は、則ち大いなる失を為せり。如来が方便して、宜しきに随いて法を説きたまえるを、聞かず、知らず、覚らず、問わず、信ぜず、解せず。其の人は、是の『経』を問わず、信ぜず、解せずと雖も、我が阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、随って何れの地に在りとも、神通力と智慧力を以て、之を引いて、是の法の中に住むことを得せしめん、と。


つまり、法華経ならびに方便の経々を信じない人々に対して、わたしが究極の悟りに達した暁には、その人々がどこに在ろうとも、神通力と智慧力をもって必ず、最上の法に導きますという誓願が「慈悲行」だということだ。

こんなことはすでに何度も書いてきた。
当たり前のことだからだ。
自分が悟りを得てもいないのに、「この経は凄いんだよ!」なんて言えるはずがないし、悟って体験すればこそ、その素晴らしさを方便(自分の言葉)を使って話していけるのだし、そのことで疑い深い人々を教化できるわけですからね。
いわんや、自分が悟ってもいないのに、「この経は凄いんだよ!」なんて言うことは、知りもしないしわかってもいなにのに、知っているしわかっていると言っているようなものだ。そしてこういうことを傲慢というわけですよね。
「空」や「縁起」とはいかなるものか? 有と無と空の関係、そうしたことを自分の言葉で説明さえ出来ない者が法華経やら信心は素晴らしいと説くなど、傲慢そのものということだ。


前にも紹介したが、戸田も安楽行品の内容と同じことを言っていたわけだ。
「俺には南無妙法蓮華経しかないんだ。これを末法の折伏という」とね。
池田氏だって、こんなことはきちんと池田氏の言葉で一応は指導している。しかもここで指導されている内容は安楽行品に説かれる三つの自行と一つの化他行と一致しているわけだ。

まあ、折伏の意味すら、きちんと把握せず、自分勝手な思い込みで「人に勧める」とか「悪を責める」ことが折伏だと思っている人がほとんどだということですよね。先生は絶対に正しい。創価でしか正しい信心はできない。それのどこが自身の悟りなんだ? 単なる思い込みでしかないではないか。何の論理性もない妄信であり、狂信ではないか。


ともあれ、このあとは「髻中明珠」の譬えが説かれ、これで安楽行品は終わる。
守護や功徳という言葉も出てくるが、さして重要ではないだろう。
安楽行品において、最も重要なのは、結局のところ自分がまず成仏するということ以外にありえないからだ。
もちろん、日蓮も開目抄でそう言っている。

妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし、と。
この御文は、有名な「我並びに我が弟子――」に続く部分だ。
けれども、こういう大事な部分を教えないのが創価クオリティーなわけだ。
もちろん日蓮は悟りのためには家族など顧みるなと言っているわけではない。それはそれとして大切にしつつも、それでも最高の目的はまず自身が悟ることだと言っているわけだ。
そりゃそうでしょ。自分が悟ってもいないのに、どうやって他人を悟りの道に導けるというのだ?

ともあれ、この「髻中明珠」の譬えでは、そんな簡単に衆生は法華経を信じやしないのだから、実知である法華経を説く(髻の中に隠した明珠を渡す)のは、最後の最後ですよと説かれているわけだ。

無理やり数人で囲んで、入会させるとか、嫌がっているのに無理強いして聞かせたり、あげく聞かないとなると相手を罵倒したりしながら法を説くのではなく、相手が、「是非とも信心をしてみたい。できるならご本尊を頂きたいんです」と言ってくるくらいになってはじめて法華経を説きなさいと、安楽行品は言っているわけだ。

加えて言えば、そのように法を説いていくなら、一般人はもちろん、大臣や国王に迫害されるようなことにはならない、法を説くことで刀杖瓦石には遭わないと言っているわけだ。
まあ、至極あたりまえの道理ですよね。

ipsilon at 17:22コメント(0) 
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