ルソー『エミール』

2016年12月13日

『エミール』全3巻、読了ということになりました。
ということで、あと所感を書いていないのは、第五篇の「旅について」と、巻末付録の「マルゼルブへの手紙」になるが、この付録については割愛させてもらう。

ということで「旅について」。
しかし、旅といっても前に記事で述べたように、いわゆる観光旅行ではない。下記にのような目的の旅なのだ。

一国人しか見ていない者は、人間というものを知ることにはならないで、一緒に暮らしてきた人々を知っているだけだということを、異論の余地ない格率とわたしは考えている。(中略)
「立派に教育された人間が自分の同国人しか知らなくてもいいのか、あるいは、人間一般を知る必要があるのか」ということだ。

なんの説明もいるまい。読んでもらえればわかることだろう。


それでは様々な国や人々を見て具体的には、いかなる土地に安住するべきか? またいかなる土地を避けるべきなのか?

乱暴な政府や、迫害を加えてくる宗教や、背徳的な習俗があなたを不安に陥れることにならないように気をつけるがいい。あなたの労苦の結果をむさぼりくう過酷な税金、あなたの資産をすりへらしていくきりのない訴訟を避けるがいい。
ここでルソーは古代史などを引いて語ってゆく。「かつての地球は広かった。たくさんの王国があり、その土地に不満があれば、ほかの国に移り住むことで、生涯平穏な生活もできただろう。しかし、近現代ではもう無理なのである」と。いわゆるグローバリゼーションの害である。地球は狭くなったのだ。地球のどこにいようと、もはや乱暴な政府や迫害する宗教から逃れられる地はこの地球にはないのである。情報の共有化、その速度、世界各国が互いに経済などで結びついている状況になれば、もはや古代のように、移住すれば安住な生活ができる場所はないということだ。

であるから、自分や家族の人生を安穏たらしめようと思ったなら、必ず悪政をほどこす政府や、横暴な宗教と戦い、それらを正していくことが絶対的に必要なのだ、とルソーはいっているのだ。むろん、宗教とは関わりをもたないでいることはできる。ではあっても政治に関しては無理なのだ。
誠に残念なことだが、いまだ民衆はそのことに気づいていない人が多い。政治なんて……何も変わらない……興味ないんだよね……というわけだ。

汝須らく一身の安堵を思わば 先ず四表の静謐を祷らん者か(立正安国論)



では実際に、政治や政府に対してどう対処していけばいいのか?

自由になるためにはなにもすることはないのだ。とわたしには思われる。自由であることをやめようとしなければ十分なのだ。

ちょっと! ルソーさん、極論すぎ。しかし理屈は間違っていないだろう。政府の役人にしろ議員にしろ誰にしろ、何もしないでいれば、おそらく世界は平和だろう。しかしそうもいかないわかけで。だとしたら?――。
ルソーはその問いへも、この一文で答えている。自由であることをやめようとするな、と。つまり自由を侵す存在と戦って自由を勝ちとれといっているのだ。

しかし、そういう自由はある意味では身体の自由であり、財産の自由といっていい。
だからルソーはそれ以外にも自由があると述べている。


自由はどんな統治形態のうちにもない。それは自由な人間の心の中にある。自由な人間はいたるところで自由をもっている。卑しい人間はいたるところで隷属している。卑しい人間は〔共和国〕ジュネーヴにいても奴隷であり、自由な人間は〔専制君主国の首都〕パリにいても自由でいる。

そういうことですね。しかし、心の自由を得るためには、まず間違いなく宗教が必要であることは論を俟たないだろう。従って、心身財ともで自由であろうとするならば、宗教と政治への監視は絶対的に必要ということになる。

此を去って彼に行くには非ざるなり、(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり(御義口伝)


少なくとも、ここまでわかったうえで結婚しなさい、というのがルソー先生からの、それはそれは優れたアドバイスだということだ。
もちろんルソーは、わたしがここで述べたほどはっきり「こうだ!」などと表現してはいない。丁寧に説明し、下手をしたら回りくどいと苦言を呈されることだろう。

最後に旅をおえたエミールはソフィーのもとに戻ってくる。そして本当に最後の助言になるやもしれない事々をルソー先生は二人に語ってゆく。もうなんというか、先生の慈悲、心の温かさをしみじみ感じながらの大団円となる。

エミールは先生から学んだことを、きっとソフィーとの間に生まれた子どもたちに教え、彼らを導いていくのだろう。現実に人類もそのようにして今という時代まで生きのびてきたのだろう。しかし現代に山積している難問の数々を目にすると、人類がいかにルソーの人間と社会の教育論から遠い道を歩いてきたかがわかろう。

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そうして考えてみると、日蓮大聖人の本当の凄さが見えてくると思う。
まずは身の財・蔵の財の自由を得るためには、自由を侵さない政府をつくらなければならない。だから国家諫暁された。というよりも、根本的には為政者の心が変わらなければ、いつか必ず為政者は自由を侵してくるのだから、心を清らかにできる法華経に帰依しなさいと勧めたことになる。当然、日蓮は権力の魔性の強靱さなどはじめから承知していただろう。しかしまずこれをやる必要があったのだ。なぜかなら、いくら為政者を諫暁しようと、彼らはそう簡単には受け入れないという「事実」を庶民大衆に知らしめることが必要だったのだろう。そして、国家諫暁のあと、日蓮はいよいよ大衆の中へ民衆の中へと入っていくわけだ。

日蓮「いいですか皆さん、これまでわたしがしてきた国家諫暁を見てどう思われましたか?」
村人A「そうさのォ、あんたさんが一人でとか、ちょいと無理があったんちゃいまっか?」
日蓮は微笑みながら、
「では、皆さんはわたしと一緒に幕府に抗議してくださいますか? そうであれば、わたしはもう一人ではない」
村人A「そりゃー無理だっぺ。オラたちには野良仕事もあるだべよ。なにしろ……」
村人B「なにしろ生活がかかっとるじゃね!!」
日蓮「ではその生活を重税などで貧しくしているのはいかなる存在なのですか?」
村人B「そりゃー幕府や役人じゃがな!」
日蓮「ならば、彼らにそういうやり方はやめて欲しい、こういうやりかたこそ公平ではないか? と訴えるべきですよね?」
村人A「だどもなァ……」
日蓮「もういいでしょう。皆さんがたは、いまわたくしがお話したことで、幕府のしていることを許すというお考えかたかと察しました。しかし皆さんには許さない、われらの生活の自由を侵すことはまかりならん! と声をあげることもできる。今日はひとつそのことを憶えておいてほしく思います」
村人B「…………」
村人A「日蓮はん……あんたっちゅーお人は……」

こんなふうだったかはわかりません。あくまでもわたしの想像です。
しかしそれまでは支配され服従することが当たり前だと思っていた庶民たちに、自由というのはそういうものではない。不当なものは不当であると訴える権利があるというように、民衆に自由とは何かということに目覚めさせていったのではないだろうか。
そうした地道な日蓮の行いが、やがて熱原の法難へとたどり着いたのだろう。

俺たちにゃー、あんたら(幕府)にものをいう権利っちゅーもんがあるだで。そしてわしらにゃー宗派を選ぶ権利もあるんじゃ! 例え殺されたっておらっちの心は奪えんばい! さあ! 殺るならやってみー!
まさに、彼らが心の自由を獲得したのはこの時だと誰もが認めざるをえないだろう。

いくら政府にものをいっても聞かない。そうした姿を見せたうえで庶民を啓蒙してゆく。あなたがたにも、わたしと同じように政府にものをいう権利はあるんだ! 自由とは何ですか!? 蔵の自由、身の自由、そして心の自由! みなさん、よく考えてみてください! どう考えていいかわからないなら、わたしがお教えします。人はそれを宗教と呼びます。わたしの場合、日蓮宗です!


さて、世界の歴史を鑑みて、たった一人で立ちあがり、政府に正面からぶつかっていき、さらにまた一人で民衆の中にわけいり、地道に一人一人を自由へと目覚めさせていき、そして遂には、殺されても心の自由は奪われないという境地に人間を導いた。こんな偉大な人がいるだろうか? いまい。


あれこれ『エミール』の感想だったんじゃ? どんまい、どんまい。
ともあれ、この第五篇「旅について」は、『社会契約論』で詳しく述べたものの核心を『エミール』の中で再度述べているものと思われる。となると、やっぱり『社会契約論』も読んでおきたいものである。もちろん『人間不平等起源論』もなのだが……。というか『言語起源論』も読みたいのだが……。

そして最後まで残った疑問。エミールという名前はどういう意味?
これがわからない。スペルは最初のEのうえに「’(アクサン・テギュ)」があるので、ウと発音するのを(実際は発音しない)、エと発音しなさいということらしい。わたしが調べた範囲では、あとはエミールという名は、古代ローマのアエミリウス氏族の家系の名前であることしかわからかった。女性であればエミリアとなるとか。
どなたかご存知の方がいらしたら、ご教授願いたいものである。





ipsilon at 14:15コメント(0) 

2016年12月07日

もし第五篇を章にわけろといわれたなら、わたしは3つにわける。
第一章を「女性論、男女論、恋愛・結婚論」としたなら、第二章は「その実例――エミールとソフィーの場合」と命名する。そして多くの読者はこの第二章のあまりの美しさに微笑せざるを得ないはずだ。それぐらい美しい場面と物語が綴られている。ルソーの恋愛小説『新エロイーズ』が発表当時、爆発的に売れて人気を博したということに肯ける。わたしはまだ『新エロイーズ』は読んでいませんがね。

しかしそれは、第一篇から第四篇(上中巻と下巻の約80ページ)までにわたって、ルソーと読者が営々と積みあげてきた努力があったからといっていい。こういうところに長編小説だけがもつ醍醐味、言葉では説明できない滲透性が間違いなくあるのだろう。哲学者・三木清もそういっている。「長編には固有の滲透性がある」と。

わたしはここで「美しい」や「滲透性」という言葉をつかってそれを表現したわけだが、なんとも陳腐であることよ。陳腐というのではない。言葉では説明できないものをいおうとするとどうも滑稽になってしまいがちだといいたいのだ。

ではなんとか自分の感じたものを正確に伝えんとしたいなら、どうすればいいか?
まず正確な字義語義を知ること、そしてそれを駆使できる自分になるしかないだろう。これは信仰においても同じであろう。様々な福運に恵まれて功徳の体験があったとしても、それを伝える術というのは意外と限られているからだ。そしてそういう意味でいえば言葉とそれを用いた表現力というのはなかなかの力があるといえるだろう。しかし、それが難しいわけだ。
「とにかく凄いの、あなたもやってみなさい、やればわかる。信じればいいだけだよ。学会にはいっていわれたとおりにやればいいの」大体こんな調子になる。あるいはそれまで記憶してきた指導を引っ張りだしてあれこれいう。
記憶してきたもの、正確にいえば暗記してきた指導を、あるいは聞きかじった他者の体験を話して、それを折伏と呼んでいる。おかしくないですか?

ネットにあるいわゆる学会員の書いた記事なるものを眺めてみればいい、ブログでもツイッターでもいい。ほとんどがそういう内容だから。
自分がしてきた体験を顧て、そのことを宗教的にまたは哲学的に思索し、あるいはまた自分個人の感受性からなにを思ったのか、そうして見出したものがいかに価値あるものであったかということを具体的に言葉にしている学会員の少なさよ。

聖教新聞や大白蓮華で読んだ内容を書く。その内容とやらには既に釈がついており、「こう考えるべきだ」または「こうすべきである」というのがほとんど。そして多くの学会員が語ってるのは釈のとおりだよね、凄いよね。だから学会は素晴らしい。こういうことですよね? つまりは賛意というよりは同意をしめしているだけ。ひどい言い方をすれば、読んだ内容に便乗して「そうだ、そうだ」といっているだけ。

それはそれでいい――そうしたい人は一生そうしていればいい。
では、解説はあっても内容のすべてに釈のない長編文学を読んで、自分なりに釈をつけたりしている人はいるのだろうか? まずいない。だから読書をしても自分が感じたものさえ言葉にできていない場合がほとんどだ。もちろんこうしたことは学会員であるなしではなく、実は多くの人がそうであろう。

その証拠に、多くの人が文学作品ではなく新書やハウツー本から知識を得ようとしている姿勢から窺いしることができよう。場合によっては長編文学を読む前に副読本に目をとおし、まず他人の釈を得ておいてから読むようなことも見受けられる。これでは、その作品を先入観なしに読んだときに自分が感じるものに、はじめからバイアスをかけてしまっているようなものだ。わかりやすくいえば、「この作品はこう読んだほうがいい」というマインドコントロールを自分にしているのであって、はじめから自分の感受性、あるいは解釈力に疑問を感じていることを曝け出しているようなものではないか。

だから読書メーターの感想なども感想ではなくレビューやあらすじを書いている人がおおい。そこで自分は何を感じ、いかに物事の見方捉え方を深めたかを綴っている人は非常にすくない。それが悪いとはいいませんがね。
あらすじは読んで字のごとくである。レビュー(書評)とは、この記事であれば冒頭に書いたように、自分なりに書かれている内容を体系化してそれを伝えることであり、そうして体系化したもののうちで「ここには価値があるが、ここの部分は偏見を生む(反価値)」といったように、ある程度の評を下すことといえよう。
こうしたレビューにたけた人はそれなりにいる。中には毎回素晴らしいレビューを書いてくださる、ありがたい方もいる。
だが、自分の心がどう感じ、どのように思想哲学を高め、深めたかを語るとなると、どうやら相当に難しいようだ。こういえばいいだろうか。本を読んでも「心の糧」となったものを言語化できる人は僅少である、と。

じゃあどうすればいいか? 自分の頭で考えればいいんじゃないですか?
そんな乱暴な――といわれるかもしれないが、最終的にはそうなる。本なら読んでみればいいんじゃない。信仰ならやってみればいいんじゃないというしかないですからね。

いやそれこそ乱暴だろ……というのでしょう?
だったら、自分の頭で考えて自分で判断されたらどうですか?
そういう以外にどういえるのだろうか。ほかにい言い方があるなら、むしろ教えて欲しいくらいだ。

何かあるだろ……何か?
だったら感じてみればどうです? 考えて判断するためにはまず感じないと無理でしょ? 体験もなしで考えてもそれは観念妄想ですからね。
だから感受性を高めたらどうですか? としかいえないわけだ。
なら感受性を高めるにはどうすればいいのと訊きますか?
お答えするなら、やってみればいいでしょ。本なら読む、信仰ならやってみる。そういうしかないんですよ。

堂々巡りやないか! というのでしょう。
そのとおりですよ。つまり、大事なのは順番や優先度などではなく、いくつかの物事を関連付けて、それら複数のものを同時にやっていくということなんですよ。そして倦むことなくそれをつづけていく。この継続がね、また大きな難問なんですが……。

毎度のごとく脱線した――。
だから正確に表現するなら、こういうことになろう。
本なら読みながら感じながら、考えながら価値観を自分の中に作りだせばいいんじゃない、と。
信仰も同じ、実践しながら感じながら、考えながら価値観を自分の中に作りだせばいいんじゃない、と。
だが、こうしたことをきちんとやっている人は僅少のなかでも僅少だと、わたしなどはお見受けしている。

じゃあルソーは恋愛とその先にある結婚についてであれば、そこにどういった価値観があるのが理想だと結論づけたのか? そうしたことを読みとり、そのあとそれを生かすか殺すかは読者しだいというわけだ。

わたしの場合、ルソーさん、あなたの言ってることでこことここには大変感動しました。是非わたしも自分が生き、もしも恋をして愛に落ちて、まんがいちにも結婚などを考えることがあるなら、あなたの忠告を忘れず、なおかつもし出来るならその教訓を普段の暮らしのなかで、さらに高いものとしていく努力を怠りたくないと思う。そういうでしょう。

そういうことを感じさせた文章がどこかと訊かれれば、ここだといいます。

わたしは、男女いずれにたいしても、ほんとうに区別されるべき階級は二つしかみとめない。一つは考える人々の階級で、もう一つは考えない人々の階級だが、このちがいが生じるのはもっぱら教育によるものといっていい。

非常に重々しくわたしの中に響いた箇所です。
ルソーはこの結論を書く前に、恋愛や結婚を阻害するものには階級意識がある。裕福だとか、貧乏だとか、生まれた家の貴賤だとかいう話をもちだす。
え……ちょっと待ってよルソーさん、あなたの思想はそんな次元が低いの? 読んでいてちょっとちょっと大丈夫ですかという厭な気持になったものです。しかしそれは、この一文を光輝あるものにするために用意したミスリードともいうべき伏線だったと見破ったとき、大きな感動に包まれた。

大事な人に大切なことを伝えたいなら、場合によっては相手に恐怖や不安を募らせ、こっちの話を真剣に聞かせる技術も必要なのだということを、わたしはここから学び取り、また書いてある内容にも非常に賛同したということだ。

そりゃあそうだよね。考える人と考えない人が夫婦になったなら、こんな不幸はないですからね。想像してみればいい。また考えない人同士であったなら、これは人間的ではなく動物的結婚といっていいだろう。であるならばいかなる人物どうしの結婚が優れてめでたいのかというのは必然的に答えは見えてくるはずだ。答えが偶然見つかるなんてことはないのです。いつも必然なのだ。
一点注釈をくわえるなら、「このちがいが生じるのはもっぱら教育による」とルソーがいっている部分だ。あえていうならルソーはそう信じているとかそんな甘いことはいっていない。「みとめない」といっているのだ。ある意味断言。ここ注意がいりますよね。

実は彼、この前文で多くのものが自然状態にあることが素晴らしいが、こと教育においては自然のままにしているということはほとんど学んでいないということである、動物的に過ぎるのだと述べている。

ほかの物事――例えば善とか徳とかいう直感できるもの――は学ぼうとせずとも自然に任せていけば必然的にわかってくるし良いものとなるが、教育だけは違うんだといっているのだ。よくよく心すべきことだと思う。
「学は光」美しい言葉じゃあないですか。そしてそれがさす意味。


感じやすい心、誠実な魂それだけがあればいい。
結婚して幸福になれる二人のもつべき徳性はこのふたつだけ。そのとおりだ。


(時間に)おくれてくることも、早くからやってくることも、望ましくない。正確に来ることを彼女は望んでいる。早く来るのは、彼女のことよりも自分のことを考えているからだ。遅れるのは彼女を軽く見ているからだ。
生涯にわたって公平であれる二人でいなさい。自分を優先しすぎたり、相手を見下してはならない。こういうことを誠実というのであって、結局は上に抜き書きしたことに収斂されるのだ。感じやすい心がなければ、自分の欲得を優先していることにも気づけないし、また相手を軽んじていると気づくこともできないからだ。
ここでいう公平とは二人が「ありのまま」でいられるということだ。またそういう状態を維持しようと学び、努力しているということだ。

またここではルソーは時間を正確に守るという事例を出しているが、ここにある本質を人間関係に当てはめると「約束を守れる人が偉大なのだ」といっているといっていい。嘘をつく人はろくでなしなのだといっているのだ。約束を守る心とは誠実さに収斂されるとは思うが。

わたしの体験からいっても、これは真実である。広告代理店で営業をしていた頃、わたしはアポイントメントの時間に非常に正確だった。早く目的地について喫茶店などで時間を調整し、訪問先のチャイムをオンタイムで鳴らすくらい正確な行動をとっていた。
そうしたことをつづけていたある日、顧客がなんとはなしに「あなたいつも時間に正確だからね、まるで時計見ながら計ったようにチャイムならすからね、とても楽なんですよ。だから仕事も気持ちよくできるんだよね」と笑顔で褒めてくれたことがある。そりゃあ嬉しかったですよ。
「暇があってテレビを見てようが、書類に夢中になっていようが、あなたが時間ぴったりに来るから、仕事にも集中できるんですよ。ああそろそろかな? とかいって時間を気にしたこともないしね。遅れもしないし、早くも来ないからね。あなたがチャイムを鳴らしたら午後3時、多少ズレても2、3分、まず5分以内だからね。ほんと助かってるよ」なんてね。

ルソーを読んで感動したというカントは毎日おなじ時間に散歩するから、それが窓から見える人はカントを時計代わりにしていたという挿話を読んだとき、「わかるー!」そういう人って重宝がられるんだよね。堅物に見られがちだけど、などととても共感したことも懐かしい。

またこんなこともあった。俺は日本海軍式で行くんだ! とか信念を燃やし、会合の5分前には必ず会場に入っているようにしていた。でもそれをつづけていて気づいたんですね。なんだか婦人部長とかが少し遅れてくると、会場につくなり異様にそわそわして、ちゃっちゃっと動いて、ちゃっちゃっと喋りだすのを。
(これはいかんな……)とそのとき気づいたわけです。
海軍式に5分前集合が当たり前なんていう原理原則に忠実なことをしていると、この場合、余計なプレッシャーを与えるんだなと。それからは、なるべくオンタイムあるいは少しだけ遅れて会場につくようにした。見事に婦人部長はそわそわしなくなったという。
仕事をしながら活動している婦人も多い。また家庭のことをやり切ってから会場にくる場合も多い。とにかく婦人部というのはいそがしい。婦人部にとってみれば、オンタイムを守ること自体、現実的に難しいことが多い。
そして敏感な人は、そういうことを気にかけすぎてしまう。へたをすると委縮してしまう。これでは意味がない。そう思ったわけです。のびのびと朗らかに。大事なのはそこ。旧海軍式もいいけどほどほどにね! ほどほどを知るのを中道というわけで。
これもわたしの中の事実の体験による揺るぎない確信である。すなわち時を知ること(人の心を尊重すること)こそ、最も大事である、と。

こうしたことも、互いに感じやすい部分があるから気づけたし、女性が女性らしく言葉では「あなたのそれ、ちょっとプレッシャーになってるんだけど……」といわずながらも態度でいってしまうあたりに、ルソーの女性論が真実であることもわかるわけだ。

相当に自画自賛だが、どちらも実話です。
以上は暴走特急による脱線の自画自賛の余談だ。


人間であれ。きみの心をきみにあたえられた条件の限界に閉じ込めるのだ。その限界を研究し、知るがいい。それがどんなに狭くても、そこに閉じこもっているかぎり、人は不幸にならない。
是非に及ばす――。ひとことでいうなら、「魂の自由を勝ちとれ」ということだ。「自分自身を完全に制御できる人だけが自由を勝ちとれるのだ」ということだ。

欲にも嫉妬にも、そして愛する人との死別にもくじけない心。そういう心であれ。そういう心であるためには何をすればいいかを考え感じ、実行しろ。そのために学びあう最高のパートナーが夫婦であり、愛人という友人である。そうルソーはいっているのだ。そしてそのパートナーを失ったとしても、絶対に壊されない心である自分たれといっているのだ。

ゆえに、このあとルソー先生はエミールにこういう。
「ソフィーと別れなければならない。断じて、と」
ちょっと待てよ! 鬼教師!! とか思いながら読んでましたが、なぜルソーがそういったのかはすぐに理解ができた。
結婚生活というのは、日々の終わりなき日常生活というのは、二人だけで過ごしていけるわけではないからだ。ゆえに鬼畜先生ルソーは、社会の中における夫婦、市民としての結婚生活、ひいては国家における結婚生活とはいかなるものかを学ぶために、ひとまず別れなさいといったのだ。
なんとも厳しい先生だが、なんとも慈悲深い先生ではないか!
「かわいい子には旅をさせろ」なんですな。

また、彼ら二人だけで恋愛が育まれ互いがありのままの気持ちをうちあけられたのではないという表現にも注目すべきかと思う。エミールとルソーの周囲には、ルソー先生、ソフィーの両親、幾人かの親切で純朴な知人がいるわけで。
だが主要な人物を抜き出してみると、4、5人になる。
かつて古の時代、仏法では僧(僧伽=サンガ)のことを、4人以上が集まって法を学ぶ集団としていたのだが、その本来の意味に戻って考えると、なるほどよく出来ているなと感心させられるのである。
4人というのは、おそらく比丘、比丘尼、優婆夷、優婆塞ということを指すのだろう。

また僧伽の「伽」は分解すればわかるが人、力、口となり、人々が意見を出しあい、それが力となる。善き人間交流という意味になる。宗教施設のことを(大)伽藍とも書くが、これも本来の意味を考えるといいだろう。
伽=善き人間交流。藍=弟子が師以上に優れた存在となること(いわゆる従藍而青ですな)であり、宗教施設というものがいかなるものであるべきかを明確に物語っているといっていい。

余談であり蛇足だが、学会の会館もなんだか豪華になったものですよね。
戸田先生は「質実剛健」であればいい。そういわれていたんですがね。それが今では3階まで吹き抜けで、シャンデリアなんかあってね。個人的には、なんかおかしくね? キリスト教の寺院などが豪勢になっていったのとそっくり……とか思って、冷めた目でみてるんですけどね。
なぜ先生がそうした会館を見ても「よかったね、素晴らしいね! おめでとう!」とみながやってることを褒めるかといえば、本心をいって「あれもだめ、これもだめ!」などといおうものなら、先生は独裁者になってしまい、それこそがファシズムへの道だと熟知されているからなのだが、そういう先生の真意をわきまえず会員は真似をして、なんでもかんでも「おめでとう!」といってるってことですよね。

また現在では僧といえば坊さん、大伽藍といえば豪華な宗教建築物をいいあらわすように言葉の意味は“変節”してきているのだ。そして多くの場合変節した意味で物事を判断してしまうから、結果は偏見と思い込みになるわけだ。しつこく字義語義が大事といっている所以はそこにあるんですがね。まあそれ以上に文脈も大事なんですがね。

ちなみに、曽は世代が積み重なっていく、そうしたことでますます伸びるという意味。そこに人偏があるのだから、これ以上説明する必要もないだろう。仏法僧の僧もこうした意味で考えるのが法を根源的に知るきっかけになるのだろう。


ともあれ、第三章はわたしが命名する必要もなく、ルソーが文字にした「旅について」となるわけだ。
『エミール』もようやくあと60頁ほどで完結です。
思えば、エミールが赤ちゃんのときからルソーと共に見守ってきた感覚があり、『100分 de 名著』のなかで伊集院光がいっていたように、エミール君もとうとう結婚かい……という、なんともいえない感慨、祝福の気持ちというものをもって読んでいた、これまでの第五篇であった。だからこそ、わたし流に分類した第二章「その実例――エミールとソフィーの場合」が美しいと心に響いたのだろう。ちょっとばかり堅苦しいタイトルですがね。

細かいことをいえば、嫉妬とは何か? とかそれはもういろいろある。動物も嫉妬はする、であるならば自然な嫉妬と情念に憑りつかれた嫉妬の違いはどこにあるか? という難題も提示してたので。
これについては少し思索したので、稿を改めて記事にしたいと思っている。


どう考えたって『エミール』の内容とはあわないよという曲をここで――。


この曲をきくと、大きく頬がゆるむ。とくに歌詞をしっているとね。
わたし流に大意をいえばこうなる。うん。
「やべーよ、なんか出会っちまったんだ。アイツに。そう、ソフィーにね。もう引き返せない。どうすりゃいいかもよくわからん。でもこいつは素晴らしいナイスなんだ! ごめん! 素晴らしいとナイスは同じだな。だけどそういうことにも注意がまわらねーんだよ! 膝がぐにゃぐにゃになりそうだぜ。ひとことでいいあらわせって?」

そうさな……

電撃ビリビリさー!(Thuderstruck !)

いい大人が、演奏に夢中になってボーカルなんてシャウトしまくっている。こんな馬鹿らしいくらい楽しい曲ない。でもって歌詞がああですからね。でも実際、エミールはソフィーに出会ってしまった場面はこんな感じなんですよ。伝わるかなぁ? 伝わるといいんだけど。

Yeah〜ってどんなイェーなんだよ! 溜息ともなんともいいようのないYeah〜っていってるとこ? 歌ってるとこ? 聞くたびに思わず楽しくなる。うん。

ルソー曰く、人間はただ何もせずにはいられない。だったら“今を”楽しめばいいんです、それだけすればいいんです、と。
そうこの何もせずにいられないというのも、常日頃わたしは考え、けどそういう気持ちはなくならないし、何がしたいかはっきりわからないと焦りに呑み込まれるんだよね……どうしたらいいべさ……なんて、何百回も思索したことなんですけどね。
衆生所遊楽――。


さて――
『100分 de 名著』の中で朗読されていた部分を抜き書くか悩んだのだが、例によって例の如く、悩んだならやればいいということで書いておきます。確かにここは非常に有意義なことを述べてますからね。

エミール、幸福にならなければならない。これはあらゆる感覚をもつ、存在の目的なのだ。これは自然がわたしたちに感じさせる基本的な欲求であり、けっしてわたしたちになくならないただ一つの欲求でもある。だが、その幸福はどこにあるのか。だれがそれを知っているのか。みんなそれをもとめているのだが、それはだれにもみつからない。人々は一生をついやして幸福を追っかけまわしているのだが、それをつかまえることもなく死んでいく。若い友よ、生まれたばかりのきみをわたしの腕に抱きあげたとき、そして、至高の存在者をわたしがあえて結んだ約束の保証人として、きみの生涯の幸福にわたしの生涯を捧げたとき、わたしはどういうことを約束したのか、わたし自身知っていたのだろうか。いや、わたしはだた、きみを幸福にすることによって自分も確実に幸福になれるということを知っていたにすぎない。

そう、現実の娑婆世界においては、その人の生涯のために自分の生涯を捧げることで自分とその人は幸福を感じるのだ。しかしこれで幸福になったといえるのだろうか? 否だ――。

なぜかなら、その人も、自分もいつか死んでいくからである。必ず別れはくるのである。その人と自分が同時に死の床に召されないかぎり、捧げて捧げられてという関係は、いつか必ず破綻をきたすからだ。
ここで「愛と死」、恋愛を肯定すれば最後は情死に至るという森鴎外の言葉が真実であることがわかる。

だとしたら、生涯にわたって生涯を捧げあったとしても、幸福にはなれないではないか。同時に死なない限り、共に情死しない限り……。
であるなら、その人と自分を永遠なる存在にしなければ、幸福を実現することは出来ないのだ。

はたして心中した太宰と富栄を非難したり軽蔑したりすることができるだろうか? 私にはできない。
彼らが辿りついた境地はある意味では至高の感情の場といっていい。
不幸だったのは、彼らが正しい宗教にめぐり会えなかったことなのだ。

ここに宗教の必然性が証明されるのだ。
ゆえに、永遠普遍性のない宗教は偽物であることもわかるのだ。
現世利益ばかりを追求することも極端なことなのだ。
現実の暮らし中で利益をうけ、また常に生命は永遠であると覚知していける、そういう信心が正しい信心なんですよ。現実の暮らしの中での利益とは「今楽しめている」ことですよ。決して、決して成果でも結果でもない。


御書に曰く――。
妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし(開目抄)

「法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて」とは生命は永遠であると感得し確信しなさいという意味だろう。それを確信して妻や子にも教えるのです、と。
この御文の前にあるのはあまりにも有名な一節だ。

我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし

なにをもって成仏というのですか? 生命は永遠であると確信するためですよ。御本尊を疑わないということも、信心を途中で投げ出さないということも、所詮は生命は永遠であると確信するためですよね。違うんですか? 違いますか? 違わないでしょ。戸田先生は生死の問題を解決するのに20年かかったといわれていますよね。いわんや我々においてどれだけかかることやら……。
その目的を忘れて、「我並びに――」ばかりを強調するのはおかしいんです。
もちろん、今世で覚ることが出来ない場合、生涯信心を貫くことが最重要であるから、先生は「この御文だけ憶えておけばいい」とまで仰せなわけでしょ。

生命が永遠であることを覚り、それを妻子に教え、彼らもそれを覚れたならどうなりますか?
ルソーの求める理想の結婚とは、こういうことをいっているんですよ。
だからルソーはある日エミールにこういうんです。
「ソフィーは死んだよ」と。だから鬼畜先生とかいうユーモアをわたしはわざと入れたのだ。
少なくともわたしは理想の結婚とは永遠の絆を創ることだと読みましたし、確信しましたけどね。

生命が永遠であるなら、焦る必要もないでしょ。過去を悔いることもないの。小さなことにいちいち怒るのも馬鹿らしいってわかるでしょ。人の悪口や陰口をいう必要もない。意見の違いだって永遠の時間の中でいつか妥協できたり一致していくんじゃないですか?
ましてや出し惜しみしたり、分け与えたくないとか、貯めこみたい、搾取したいなんて思うはずもないんですよ。
病気? 永遠に治らないの? いつか治るだろ。諸行無常だし自然治癒力だとかあんだから。肉体が病気になろうが障害があろうが、心さえ――生命そのものさえ――病気にならなければ、それでいいじゃない。健康な生命とはありのままってことじゃないんですか? 肉体なんていつか宇宙にお返しする借り物でしょ。精神の病だってね死ねば意識失うんだからそこですべて解決するんですよ。もちろんこれらは生命が永遠であると覚ればのお話ですがね。死ねば解決するんじゃないですよ。この相違をきちんと弁えることが最も重要なんでしょ。
びくびく怯える必要もどこにもないし、恐怖という妄想を抱く必要なんてさらさらありませんよね? 違うの? 違くないでしょ? 違うわけがない。
そうなれば今が楽しくて仕方なくなるんですよ。どんな境遇にあってもね。

ipsilon at 14:35コメント(0) 

2016年12月06日

付箋を貼った部分を抜きがき、所感を述べておく。


実例! 実例! 実例を示さなければ子どもにたいしてはぜったいになにごとも成功しない。
これはなにも子どもに対してだけではないだろう。大人に対してもまた同じではないだろうか。
議論をするにあっても、自分が体験したことを語るのが道理。観念や概念を持ちだしても意味はないのだ。
簡単にいえば、やろうと思えば出来るではなく、「やるか、やらないか」「やったか、やってないか」で議論をしなければ、結局のところ、卓上の空論なんですね。仏法は実に峻厳で厳格なり。

こういうことも、太宰のいった言葉を引用して何度も何度も語ってきた。
じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。
“革命”を起こすためには「体験」に基づく以外ないわけです。

偏見を拒否したり承認したりするまえに、その重みをはかってみる。偏見の源に遡って考え、それにそなえたり、それを自分に有利なものにしたりすることを学ぶ。
そう、偏見の多くは「源」に遡ることをせず、それがさす本来もっていた意味を顧ることなく、自分がこれまでいきてきて自分の中に出来あがった印象――つまりこれこそが偏見なのであるが――に基づいて物事を判断していることによって生じている。蘇生とは結局、本来のものに戻ることをいうのであって、それまで自分が積み上げてきた偏見をいかにして捨てて「蘇生」していくかということになろう。南無というのにも「帰命」という意味があり、本来のあるべきものに帰るということであることは、多くの人が知識としてしっていることであろう。
キリスト教の言葉でいえば「復活」。一般的にいえば「再生」、英語でいえばInvoge ね。
しつこくいいますよ!

御書にある一節「根ふかければ枝さかへ源遠ければ流れ長し」というのに、随分と悩んだものです。これは本当のところどういう意味なのだろうか? と。しかし今は自信をもって確信している。法華経だけが根源的であるという意味。偏見とは根源に基づかず流れの途中にあるものから導き出されるということ、つまりそれらは枝葉である、と。また法華経以外の経教は枝葉だということですね。その枝葉を本尊にするからおかしくなるんです。そう大聖人は一生涯、訴えに訴えつづけてこられた。そういうことですよね。

ゆえに謗法を責めるにしてもその「根源」を責めなければ意味はない。逆に正しいことをいうなら、正しいものの「根源」をいっていかなければ意味はない。意味はないどころか根源悪を責めなければ、根源善を説かなければ、かえって悪を増長させていることになるということを『守護国家論』で改めて学び直しもしたのです。

先に述べたことを補足するなら、法華経は総体観であり、諸経教は部分観だということです。部分に拘るとどうなるか? なぜかえって害悪になるか?
心臓は大事。だから心臓を超強いものにしよう。そうやってみたらどうなりますか? 異常に強く打つ鼓動、心室から送り出される血圧は250とかになってごらんなさい。血管が破れて死に至ることは自明の理ですよね。ゆえに、枝葉末節に拘ることは害悪なのです。根源的であってこそ善なのです。
こうした内容は『守護国家論』から読みとることができます。

話を戻します――。
じゃあ肉体を総合的に強くすればいい? そうですか? その肉体を支えているのは肉体だけではありませんよ。大気、水、土、鉄分、ビタミン、はては塵埃に至るまで、すべての“もの”が肉体を支えているのです。ゆえに環境保全も重要とわかるわけです。つまり仏法用語でいうところの依正不二ですよね。
つまり“もの”はものであってものではないわけです。われわれの生命そのものだということです。そのビタミンや鉄分はいつかあなたの肉体になり生命になるのではないのです。今げんにここであなたの肉体と一体不二であるのだから、塵埃さえあなたの生命そのものなんですよ。いつかではなく今ね。
そう説いてるのが法華経。
ヘッセの『シッダールタ』で、彼は釈尊にそういわせていますから、お読みになってみればいいんじゃないですか。

そしてこうした思考をつづけていけば、まてよ、ということは地球規模で何かせんといかんね……いやまてまて、地球というのは太陽系の一惑星に過ぎないではないか、いやまてまて、太陽系は天の川銀河の極一部……ということは、宇宙そのものを大切に保全していかなければ、俺自身を保全することにならないのか……。
こうして我即宇宙、宇宙即我に至るはずです。法華経というのはそういう教えです。大聖人がみなに教えたかったことは実はそういう壮大で次元の高いものです。
しかし法華経以外は地球のことしか説いていない。あるいは月のことしかなわけです。そういう枝葉末節に拘ると害悪が生まれることは、心臓の例で説明しましたよね。

では諸経教なんて捨ててしまえばいい。なんでわざわざ必要のない部分観を説いたんや。迷惑やないか! というのでしょ。先に私が述べたように――ようするに人から環境、そこから地球、太陽系、銀河系、大宇宙といったように帰納的に――思考しないと真実にたどり着けない面を人間は多くもっているからですよ。だから諸経教は間違ってもいないし、地球を説いた経の中ではこれが最第一であるという見方もできるわけで、そこに書いてあることを否定するのも間違いなわけです。それはそれで部分観における真実なわけです。

ただしそうした地球だけを見て、これこそ本当に敬うべき尊いものだと執着してしまっては部分観に陥るんだ、害悪をもたらすんだよと大聖人は教えてくださってるわけで。その典型が念仏(浄土宗)である、それが『守護国家論』でいわれていることですよね。
もちろん帰納的にではなく、自分を顧て、「もしかして俺って宇宙そのもの?」と気づく人も極々稀にいるわけです。こういうのを演繹的といいふつうは聖人というんですよね。仏法の悟りは演繹的なんです。一瞬ですべての真実がわかってしまう。
しかしそれを帰納的な思考を重視している人に話して教えていくには、帰納的に説いていくしかないわけです。

「聖徳太子は一度に10人の話を聞くことができた」とかいうのは、ようするに、一を聞いて10を知れるような演繹的な思考思索が出来る人であったという意味なんでしょうが、こういうことも俗世間では「すげー耳だよな。てかそんな人間いねーし」みたいな低次元な解釈になっているんじゃないですか。

ともあれ、法華経を知っていても、それが素晴らしといっていても、ここまでのスケールで考えておらず、それを確信しておらず、「自分と自分の周囲だけ幸福ならいいや」と思っているなら、それはむしろ他者に害悪をもたらすわけですね。もちろん依正不二から考えれば他者に害悪をもたらせば自分にも害悪が降ってくるわけです。逆もまたしかり。自分を大切にしないことは他者をも蔑ろにしているということです。一面的な批判(根源性を欠いた批判)をするなかれ。くだらない枝葉末節に固執するなかれ。なぜわたしがそういってるか、ここまでいってもわからない人が多いのでしょうがね。

残念で悲しいことですが、仕方ありません。機が熟しわかる時がこないとわからないということも、すでにわたしの中では確信ですからね。そしてその時はいつか必ず絶対に訪れるという確信を揺るぎなくしていくのが信心する意味なわで。自分だけ確信したのでは駄目。自分が確信したことを人もまた確信できるという確信があって本当の信心だということに過言はないでしょう。それが本当の自行化他ですからね。それが生きとしいけるものの仏性を肯定するということですからね。

ともあれ、これまでもわからないながらに、目的の手段化、枝葉末節に拘ったり、手練手管に走ることで、根源的に大事なものを見失うべきではないという思想はほぼわたしの中で確固たるものになっていたが、今は確信である。


女性のほんとうの傾向からいえば、うそを言っているときでも、うそつきではないのだ。なぜあなたがたは女性の口からその考えを聞こうとするのか、口が語るのではないのに。目、顔色、息づかい、おびえた様子、弱々しい抵抗、そういうものによって女性の考えを知るのだ。
ただしこれは向き合って相手の動作や仕草が見える場合においてであろう。ではネットのような言葉文字だけの世界ではどうだろうか? 言葉づかい、言い回し、そこに込められたアイロニーなどを読みとっていけば、相手の本心はわかるのではないだろうか。

もっともそれ以前に個々人の間にある字義語義に関する感覚のズレがあって、まずもってそれを確認し合わない限り、その言い回しは!? とか、ここはアイロニーだろうねといういうことさえ正確に伝達しあえないのですがね。しかし文学の世界、作家というのはそういう字義語義を一般人より相当正確に使っているわです。だから時代がかわろうが国がかわろうが、人種がかわろうが、本質的に同じことをいっているじゃん……ということにしばしば出会えるわけです。そしてそうした経験から字義語義が言語によるコミュニケーションにおいていかに重要であるかにも気づけるんですがね。
西洋の作家で、最も字義語義に慎重であり正確な文章を書いたのは、トーマス・マンだといわれていますがね。『トニオ・クレーゲル』『ヴェニスに死す』『魔の山』が代表作ですかね。
日本なら、芥川、漱石、鴎外、やはりこのあたりではないですか。現代作家でも正確な言葉を使う人はいますが、日本語自体が劣化したので、やはりあの時代の人たちから学ぶのがよろしいのではないでしょうか。

ともあれネットなら、ある程度は画像(とくに動画)などで仕草や表情は読み取れますが、著名人でもない限り、ふつう顔を晒したりしないわけで。そういう意味では著名人の場合、如是相である程度判断もできるんでしょうね。とはいえそれには、自分の感受性を錬磨していなければ無理でしょうがね。

(女性は)自分にとって好ましい感情を彼ら(男たち)に起こさせることができなければならない。彼女にくらべてかれらはもっとよく人間の心を哲学的に考察する。しかし彼女はかれらよりもっとよく人々の心を読みとる。いわば、倫理の実験をするのが女性の仕事で、それを体系的にまとめるのがわたしたち男の仕事なのだ。
すでに「『エミール』第五篇を読みはじめた(1)」で、わたしなりの言葉で説明してきた箇所だ。
ひどく簡単にいうならこういうことだとルソーはいっていた。
女性は人に好感情・喜びを与える能力を持っている。男性はこうした場合喜ぶ、こうした場合怒るということを体系的にまとめる能力を持っているのだと。
女性は感情的、男は理屈で動くというのも、そういうことなのでしょう。
「男は度胸、女は愛嬌」も似たような印象を受けるのではないだろうか。
しかし度胸も愛嬌も度が過ぎれば厭味であったり、横暴になる点は注意がいるのだろう。何事もほどよい、あるいはその時(TPO)に見合った、中庸を意識することが重要であるといっていいだろう。
しかし、いつでも相手にあわせてしまうと、それは自分の人生を歩んでいるのではなく、他人の人生を歩むことになる。中庸といっても奥が深く、難しいのですね。とにかくまず「極端」から脱する、そこからはじめるしかないのでしょう。

恋愛においてはすべては錯覚にすぎない。たしかにそうだ。ただ、現実にあるのは、恋を感じさせるほんとうに美しいものにたいしてわたしたちを興奮させる(わたしたちの中に起る)感情にすぎない。その美しいものは愛する対象の内にはない。それはわたしたちの心の迷いから生まれる。
( )の部分はわたしが追加した注釈です。

そしてここで嘆息――。
この文章を読んで「そうなんだよね、ルソーの言ってる通りなんだよ」と思える人がほとんどいないということをわたしは知っている。長嘆息――。

これまで何度もここでも書いてきたことだ。他人というのは自分が自分で自分の中に作りあげた印象にすぎない、と。他者と他人は違うんだよともね。他者とはその人に対するある程度の印象が自分の中にあること。他人とはその人に対する印象が自分の中にないこととね。もっともこれは哲学的解釈であって、世間一般では他者=それなりに親しい人。他人=全く知らない人(赤の他人)という意味で、ほとんどの人がそう解釈しているんですがね。

ともあれ、ルソーまたはわたしのいっていることを心から信じ、応用力のある賢い人であれば「するってーとあれかい? すべての事象は自分が自分の中に作りだした印象(妄想)ってわけかい? であるなら恋愛以外もそうだよね」と、あらゆるものが、自分の心の迷いであったり、自分の印象に基づいた判断(偏見)であることに気づき、愕然とするはずなのだ。
ルソーははっきりそれを言葉にしているわけですしね。

われわれは鈴木花子という女性を見て、彼女に恋していると思いこんでいるのだが、真実は違う。花子を見て、自分の心の中で興奮という感情が起り、その感情を自分で感じて、「わたしは花子に恋している」と思い込んでるだけなんですね。いわば、自分の感情を好いているにすぎないのに、花子が好きだと思いこんでいるわけですよ。
逆もまたしかり。嫌いな人といて不快感を抱く、この不快感も自分の中の感情にすぎない。ゆえに、強い嫌悪感を抱くことは、自分で自分の感情を否定していることになる。自分で自分が嫌いだといっているのだ。だから、一方的な批判はやめるべきだと、もう耳タコどころじゃないくらいわたしは言ってきたんです。それは自己嫌悪であり、ひいては自己破壊につながるんだよ、と。だから所詮敬うしかない。どんなに嫌いで腹立たしい感情が湧いても、現実には常不行菩薩の行いをするしかないとも、散々にいってきたわけです。
まあ、いって聞いて、それをみながすぐ実行できるなら、この世のなか仏だらけになるわけで。だからこそ仏になるのは困難なわけですがね。

ようするに、恋愛だけでなく、ほとんどすべての事柄に対してわれわれはそうした妄想を抱いているわけだ。ゆえにルソーも「心の迷い」といっているわけで。
いえば、ありのままという言葉も偏見、思い込み、勘違いで使われているのがほとんど。
本来のありのままというのは、所詮は自分の感情なんだから、人にぶつけて愚痴や文句にするのではなく、自分でよろしきに従って処理すべきなんです。そういう処理のための努力をしているのを「ありのまま」といい、自分の感情を何も考えずにストレートに表現することは「そのまま」というわけで。
つまりありのままとは縁に紛動されないこと。そのままとは縁に紛動されてその時々の感情を発露させてしまっているに過ぎない。
もっとも仏法において一番難しいのはありのまま、縁に紛動されないで生きることなので、これは難事中の難事ですがね。

まあ、ある時期からわたしはありのままの意味を間違って言い張る人をつかまえて「ありのまま詐欺」などというアイロニーを飛ばしてきたのですがね。

もっともこうした真実を説いて聞かせると、狂人呼ばわりされて迫害されて、孤独になり、下手したら殺されるんですがね。
こうしたことを覚り、みなに教えようとした代表に四聖がいる。釈尊、キリスト、ソクラテス、孔子といわれている。もう何度も何度も記事に書いてきたことですがね。

しつこいようだが、いかにも仏法がわかったと自分で思っていても、結局のところこうしたソクラテスのいうところの「無知の知」がわからなければ、わかったつもりになっているという慢心なのだ。
そして世間の人の90%以上か95%がその慢心をしているわけで。

悲しい現実であり、その悲しい現実を正したいと思うと迫害される。しかし気づいてしまった以上、声にしなければ無慈悲極まりなし、つまりわたしは堕地獄決定なわけです。

意外と過酷というか、凄まじく過酷な道を、独り歩いているんですけどね。
まあ、↑こういうのを愚痴というわけですが。



ipsilon at 09:12コメント(0) 

2016年12月03日

第五編は冒頭から80ぺーじほどまでは、ルソーの語る女性学となっている。
というか、冒頭の数行からしてかなりなインパクトがある。

大人が独身でいるのはよくない。エミールはもう大人だ。わたしたちはかれに妻を約束した。かれに妻をあたえなければならない。その妻はソフィーだ。
――と。

読んでいて自分を顧て、あ痛たたたたたた……となったわけだが、このことはなにもルソーの個人的思想ではないということが、その後に書かれてゆく。つまり、男女というのは、世界の半分を互いに違う形態でになっているのだから、男であれ女であれ、独身でいるというのは自然の摂理に逆らうことであり不自然であるといっているのだ。

ではどんな女性が妻にしたとき優れて目出度いのかといえば、そのヒントは名前にあるようだ。
ソフィーはフランス語による女性名だが、意味は「叡智」である。その叡智とはいかなるものか、またそうした自然が女性に与えた叡智をいかに偏屈にせず薫発させて(育てて)いけばいいかについて、ルソーの思想が語られていく。
そしてそうした叡智をまなぶ学問が「フィロソフィー」、つまりは「哲学」ということになる。


仔細に、いつまでつづくのこの話? というくらい、かゆいところが無くなるくらいにルソーは様々な側面から、叡智の薫発のしかたを語っている。
しかし、要点はここまでルソーが何度も語ってきた2点につきる。

自然に任せること。体現化こそすべて。――に。
要約すれば、ルソーは『エミール』でこの2点しか言っていないといっても過言はない。
だが、自然というありのままは、われわれ一般の感覚では「そのまま」というふうに思うのだろうが、ルソーはそうはいっていない。人間が社会の中で生きることは、それだけですでに不自然であり、ありのままではないことは、彼が『エミール』の冒頭でいいきっていることなのだから。
すなわち、自然に任せるにしても、ありのままであるにしても、そこには必ず人間の努力や精神的営みが必要だということを決して忘れるべきではないだろう。


一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり(恩義口伝)

教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ(崇峻天皇御書)

日蓮もまた2点を強調している。そして彼らがいう努力すべきものや精神的営みはどういうわけか一致している。
その正体の究極は「忍耐」である、と。
そして、女性というのはその忍耐する技巧を生まれ持って与えられ、それを叡智としているのだと。

ルソーは面白おかしくこういっていた。
男というものは、欲しいものがあると、「これが欲しい」という。だが女は違う。欲しいものを直接口にしないで、今もっているものを列挙してゆくのだと。

(何やら物欲しげな態で)「んとね、あれとこれは持ってるの。あそうだ、このあいだあれも手に入れたよ。でもね……」といった具合に。
つまり、言わずながらも、欲しいのはこれとわからせる智慧を賢明にも用いているわけだ。
ルソーはこういう所作を「慎ましい」といっている。

出来る男というのは、そうした慎ましさから察して、「あいつの欲しいのはあれだな……」と感じとり、内緒で買ってプレゼントとかをするわけです。

読んでいて笑ってしまった。
あまりにも見事に男女の違いをいい当てていたから。

コレクターなどにある男女の違いにも、こうしたことは明確にあらわれているのではないだろうか。
例えばお菓子の景品を集める男の子と女の子。男というのは、「コレが欲しいのになかなか出ないんだよ!」という。そして手元にあるだぶっているものをあまり顧みない。すなわち理想主義。
わたしも食玩とか集めたので、すごくこの感覚はわかります。手に入れてしまうと、どうでもよくなる。しかしまだ手に入っていないもののことになると、もうそれしか考えられないというね。

だが女の子の場合、すでに持っているものが出ても「あー、これは持ってる。そういえばあれとこれも持ってるなー」というわけで。どちらかというと手元にあるものを見ている。つまりは現実的であり、実用的なんですね。
このように女性というものは、自分が本当に欲しいもの、したいこと、なりたい自分を直接的には表現しないのだと。
もちろん近現代のように、男女の自然なありかたを教えてこなかった教育を受けた現代の世代にあっては、こうした論が通じない側面もあるだろう。

例えていえば、積読本。
積読本が自然に増えてしまうというのは、その人の生命の傾向性が男性的であると見ていいだろう。
手に入ったものより、いまだ手に入っていないもののほうに気が向きやすいということだから。
現代では、こんな面からも、自分が男性的なのか女性的なのかを知れるのだろう。


ようするに、男というものは、自分が本当に欲しいもの、したいこと、なりたい自分をはっきり表明するが、女は表明しない。だから、既にここいらあたりに男女間には互いにうかがい知れない深い川が横たわっていることがわかろう。深い川、英語でいうと Deep River ですな。溺死に注意です!

でも、わかると思いますけどね、男にも女の気持ちは。
そう! 言葉ではなく彼女が見せる態度、仕草、振舞いを見ていれば彼女の本音はわかるのです。
仏法でなぜ竜女がはじめに成仏したかも、実はこうした面をいっているといって過言はないだろう。

女性は本心を態度や振舞いで表現する。つまりは女性はわずか8歳(竜女が成仏したときの年齢)にして「法の体現化」を自然にできる才気を誰もがもって生まれているということになるのだ。法華経を正確に解釈するなら、即身成仏とは「法の正しい体現化」にほかならないわけであり、その点に関していえば、女性のほうが有利であるといっていいだろう。

翻って男性はどうかというと、この体現化が実に難しい。本当に難しい。言葉でもって自分が本当に欲しいもの、したいこと、なりたい自分(理想)を直接表現してしまうのだから、そういう自分になろうとしない限り、体現化は非常に難しいわけだ。

ルソーはこうも違う男女を無理矢理に制度という枠におさめて論じる近現代の「男女平等」はおかしいよ、ともはっきりいっている。これにはわたしも同意だ。
彼の言葉は誤解を招きやすいのだろうが、男女とは、「服従させる男と隷属する女」の関係が絶妙な調和を果たしていくことが真の男女平等だという意見に同意なのだ。

しかしこれはただの隷属関係ではない。女性は男性の思い描く理想(男は理論構築は得意なわけだから)の中から、自然の法則にのっとっている正しきものを選びとる叡智を賢明に働かせていけばいいという意味である。そしてそれを体現する術を、女は自然とわきまえているのだからそうすればいいというだけのこと。そして体現した女の振舞いを見た男はそれを讃嘆し、「じゃあ次はこの理想をやってみよう!」と提言すればいいだけのことなのだ。
こういえばいいだろうか。理想の男女関係とは、男女が鎖で環をつくるような作業だと。
男が理想を提示→女がそれを体現化→男が新たな理想を提示→女がそれを体現化→以下、無限ループ。

演劇でいえばこうなるだろうか。
男は脚本家でありプロデューサーなんですね。こういう演劇を作りたいといってつくる。女性がそれを体現として演じる。そしてそれを見た男は、自分の脚本に、いいとこもあるが未熟な部分もあったと気づき、さらなる高みを目指そうとして、新しい脚本を書く。そして女性がそれをまた体現化する。
このように男女が互いに高め合う依存がルソーのいう理想的男女なのだろう。

もっともこれ、よく見ると男は頭脳労働しかしていなく、女は肉体を駆使しているという不公平があるようにも見えるが、いやいや奥さん、そうとばかりはいえないのですよ! 思考する、これだって大変なんですよ。作家が鬱になるくらい考えるとかそういう面から察してくださいましませ!
そういう意味では平等なんだとわたしなどは思うのです。役割りが違うだけだと。

しかし勘違いして欲しくないのは、何でも男のいうことを聞けばいいということでは決してない。女性からすれば「それは本当に納得できる!」という正しさを感じるものだけを聞けばいいとルソーはきちんと言っています。
だからこそ、女性にもっとも必要なのは正邪善悪を見抜く「感受性」であり、その感受性を育てることが女性をもっとも女性たらしめるのだと。

なぜ男女がこうした関係にならざるを得ないかというと、女性は理想を思い描く能力は男性には敵わないからだ。
これは、先に説明したことから納得できることだと思う。が、ルソーは実例として哲学者・科学者・宗教家など、いわゆる論理家というのはほとんどが男性だということをあげている。
マザー・テレサがなぜ評価されているかといえば体現としての実践をとことんやったからであり、ローザ・パークスが黒人差別を訴えたのも座り込みという体現をとおしてしてなんですね。

翻ってキング牧師はどうかといえば、理想を叫んだのです。「I have a dream !」と。リンカーンも理想を叫んだんですね。「of the people, by the people, for the people」と。本当は of の前には government(政府)があるんですが、彼の本心は政治的なものだけをさして言っているのではないと私は考えたいので、of から引用したんですけどね。
どちらにしても、歴史的実例が男女の役割をよく表現しているのではないでしょうか。

そうしてみると、偉大な宗教家というのは、この男女の特性双方を実践していることも見えてくるのではないだろうか。
ガンジーなどその典型といっていい。彼は数々の名言を叫びもしたし、塩の行進という肉体をつかった体現化も示してみせたのだ。もちろん、日本人にあっては日蓮がその典型である。

作家でいえば、わたしが惹かれる太宰というのは、そういう意味では非常に男らしいわけです。理想を叫びつつも思ったとおりに体現できない情けない自分を余さずさらけ出して見せているのだから。
そして女性ってのはだから凄いよね! だって体現化させちゃうんだぜ! と言外に語ってるわけですから。

またもっとも理想家と体現化という役割の違いを明確に証明していることに妊娠出産があると思う。
男はこんな子どこが欲しいと思い描くことはできるし、一応は種つけくらいは出来るが、現実に胎児を体現化させるのは女性にしか出来ないわけです。自然がそういうふうに男女を作っていることの明らかな証がここにあるのではないでしょうか。
だからといってどっちが偉いとはもちろんいいきれない。種つけしかできなくても、男がいなきゃ子どもは生まれてこないわけで。そういう意味で比べようがなく平等と見るべきなのでしょう。もっとも男にあっては、生まれてきた子どもが法規や格率にのっとり正しく生きられる道を敷くという使命を果たしてこそだという面も忘れるべきではないのでしょう。本来、そういう社会をつくるために男は働いているというのが正しいのだと思うわけです。種だけつけて放置はいかんのですな。家計がそれなりに潤沢であればそれでいいではいけないのでしょう。

ともあれ、自然が与えた役割分担にあって依存しあっていくしかないのが男女なわけだ。
だからそういう意味では、理想家である男こそ、例えば政治の腐敗であるとか、権力の横暴だとかに対して声を大にして「No !」といわなければいけない存在として生まれついているのだが……。

繰り返しいうが、わたしにしてもルソーにしても、男が上で女が下というのではないということは、くれぐれも誤解なきようにしてもらいたい。

じゃあ、男が間違った理想を提示した場合、女はどうすればいいか?
ルソーはこういうことも、きちんと語っている。
黙って無視しとけばい、と。そう体現すれば(振舞えば)いいと。態度で示せばいいと。
そしてそういった言葉にしないでいられる部分こそ、女性が本来もつ才気のひとつ「忍耐力」に優れた部分なのだと。
叡智にしても、賢明にしても、忍耐にしても、女性にはそういう才覚が自然に与えられているのだから、それを使えばいいのだ、と。

そして男も、そういう女性の態度に秘められた本音を感じとる「感受性」を養い、女性が押し黙ったなら、「あ、俺間違ったこと言ったな……」と反省すべきではあるのだが。これがなかなか出来ない!
でもこれ、困難なことなのです。わかってください!! 女性諸子。

なぜかなら、女性はいつなんどきも本音をいわずに体現だけであらわすのだから、その提示が正しかろうが正しくなかろうが、基本的には何も言っていないのに等しいわけで。なにごとも言葉で判断する傾向をもつ男からすると、本音がまるでわからねー……トホホのホー……となるわけで。
いやまじでそうなんですよ。恋してるときの男ほど情けないものはない!
ある時いわれた短い科白がずっと頭の中でループ。
「あれは結局なにをいいたかったんだろう?」と、いつまでも悩んじゃうんですからね!
笑いごとじゃあないんですよ、お客さん!

じゃあ男はどうすればいいのか? といえば、彼女が体現した所作、振舞い、動作、表情、そして何よりも目から彼女の本音を読みとる能力を養うしかないのだ。
どこか違う方を向きながら「いいと思うよ」といったなら、彼女にとっての本音は「どうでもいい」ということであり、黒目勝ちに瞳を輝かせながら、「いやだよー、そんなのー!」といってきたなら、彼女の本音は「大賛成だよ!」ということを読みとれるのが、優れた男なわけでしょう。

つまり、男であろうが、女であろうが、互いの関係を善きものにしようと思うなら、「感受性」を育てる以外に方法はないといっていいのだろう。

目は口ほどにものをいう。特に女性の目は。
「いやよいやよも好きのうち」などという言葉もあるわけで。

だから、わたしは言う――
「死ぬまで、いや死んだって、女性が本当は何を考えているのかなんてわかりません!」と。
あんまり悩ませないでー! と。女性とは永遠の謎だと。

そんなわけで目指すべきは、何をいわれても何を見ても「よきように考えられる自分」――よろしきにしたがって考えられる自分――なんですな。
特に夫という立場にある男性諸氏にあっては、よろしきにしたがって考えられなければ、夫婦生活もおぼつかないのではないだろうか? 

結婚したことないから、わかりませんがね。

ipsilon at 12:00コメント(0) 

2016年11月26日

第四篇は、そのまま中巻一冊の内容となっている。

感想は読書メーターに書いたもので充分わたしの読みとったものを言いきれているので、それを掲載しておきます。

中巻は青春時代についてである。歴史から学ぶべし。しかし歴史は悪についての言及は多々あるが、善についてのそれはないと……。だから、正しい知恵を養うためには、歴史=人間という観点でもって伝記からも学ぶべきだと。実に卓見。また盲目な恋に走らせる情念に対しては、理想の相手像をしかと描いて探求する情念で打ち勝てというのも卓見である。また趣味といえば、誰かと共有できるものと考えがちだが、ルソーのいう趣味は自分自身であることを追及するためであると。人と違うことを恐れず、ありのままであれ! これが常にルソーの理想なのだ。

全般的に目から鱗なことに出会う一冊だが、中巻の醍醐味はやはりなんといっても「サヴォワ助任司祭の信仰告白」といって過言はない。あらゆる宗教、宗派はその違いを乗り越えて最高善である宗教を目指しているという思想は、十字軍戦争的思考を打破する重大な鍵であると思うからだ。それはまさにジョン・レノンの『イマジン』の思想といっていい。


付箋を貼ったところが多かったので、順にその部分も抜き書いておきます。

人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

人類を構成しているのは民衆だ。民衆でないものはごくわずかなものだから、そういうものを考慮にいれる必要はない。人間はどんな身分にあろうと同じ人間なのだ。そうだとしたら、いちばん人数の多い身分こそいちばん尊敬にあたいするのだ。

苦しみをわかつことは自分の意志ですることで、快いことだ。かれは人々の不幸にたいして同情をおぼえると同時に、そういう不幸をまぬがれている自分の幸福を感じる。

ルソーのこの言葉を短絡的に「嫌なことをいうな……」と捉えてはいけない。ルソーは正直なだけである。他人の苦しんでいる姿を見て自分はあんなことになっていないから幸福だと感じるのは人間の性である。しかしルソーはこの抜き書いたあとにこうもいっている。
そうした幸福を感じられたことに感謝し、その苦しんでいる人に尽くすことを出来るのが善意のある人間である、と(趣意)。

わたしも何百冊と本を読んできたが、「他人が苦しんでいるのを見て、自分は幸福だと思った」とはっきり言葉にした人物は今のところ、二人しかいない。ヘッセとこのルソーである。それだけ彼らは正直であり、自分の心をありのままに見ていたといっていいだろう。
またそうした幸福感への感謝が自然に利他の気持ちになり、慈善の行動になるのも、人間のあるがままの姿だとルソーはいっているわけだ。
宗教をもっているのだし、その宗旨には利他行為をすべきだとあるから、何か無理に善いことをしようとする。そういう偽善とは一線を画していることに留意しながら読むべき個所であろう。


教師よ、ことばはすくな目にするがいい。しかし、場所、時、人物を選ぶことを学ぶがいい。そして、あなたの教訓をすべて実例によってあたえるのだ。そうすれば効果は確実だといっていい。
もうわたしも何度もいってきたことだ。TPOが大事であると。口で言うのではなく、やって見せることが大事である、と。山本五十六もそういっていたとも記事に書いたこともある。


歴史を通してかれは人の心を読み、哲学の授業などうけなくてもすむことになる。歴史を通してかれは人の心を見るのだ。たんなる観客として、なんの利害も情念も感じることなく、仲間として検事としてでもなく、裁判官として見るのだ。
さすがはルソーである。普段、自分にもたらされる現在のニュースに対して、利害や情念に捕らわれず、どちらかの陣営側であるといった偏見をもたずにニュースを見ることなど我々にできるものではない、ということを見抜いている。だからこそ冷静に正確にありのままに物を見る力を養うためには、感情や偏見が入り込みにくい数百年前の歴史で、正鵠をえたものの見方を鍛えておく必要性があるわけだ。
そういう意味では前大戦などは、未だ感情のしこりをもたらすのであるから、かの大戦を冷静に、正確に読みとこうとするのは未だに無理なのだということも理解できよう。もっとも、ありのままに物事を見れる人からしたら、今さっき起ったことでも、正鵠な知見で捉えられるということなのだが。


(すべて語りきってしまうような)作者にはなってもらいたくない。いつでも自分の言うことをわからせねばならないが、いつでもなにもかも言ってしまってはいけない。すべてを語るものはわずかなことしか語っていなのだ。
これもそのとおりなのだが、ここに書き手にも読み手にも必ず葛藤や読み違い、ひいては歪曲が生まれるということを知っておくべきだろう。
なぜすべてを語ってはいけないか? そうすることで、読み手は「自分の頭で考えなくなる」からだ。かといってすべてを語らなければ、未熟な読み手は必ず我見をもちこみ、書き手の伝えたかったことを歪曲する。
かつて偉大な宗教家たちが語った真意がことごとく未熟な弟子たちによって誤釈され歪曲されてきた歴史を見れば明らかなことだ。だからこそ、語義や語句の歴史的成り立ちや、何よりも文脈を読む力を読み手は持たなければならないのだが、過去においても現代にあっても、そういうことは蔑ろにされてきているのだ。


自分のことのほかにはぜったいに手を出さない者、あんまり自分にばかり熱をいれるので、ものごとを健全に判断することができない。なにごとも自分本位に考え、善悪の観念を自分の利害だけできめているかれらは、無数の笑うべき偏見でその精神をみたし、ほんのちょっとしたことでも、自分の利益を傷つけることがあると、たちまち全宇宙がくずれさったと感じるのだ。

まるで、どこぞの執行部と政党のことを言っているようであり、その執行部と政党は絶対的だと勘違いしている、妄信・狂信者たちのことを言っているみたいだ。


わたしの尊敬すべき師の私生活には、いつわりのない美徳、弱さをともなわない人間愛、いつもまっすぐで純粋なことば、そして、いつもその言葉に一致した行動がみられることだった。
言行一致。すべてはこれに尽きる。本当に言行一致しているのか見られないネット世界で、わたしが正しい、俺がいってるのが善だとか、言い争っても虚しいだけです。もっともそういうことにさえ気づいていない人も多いようですがね。


神に対するはなはだしい冒涜は、神のことを考えないのではなく、神について間違った考え方をすることだ。
無知も恐ろしいが、もっとおそろしいのは、歪曲、誤謬であり勘違いと思いこみの我見である。


教会は決定する権利をもつ、と教会は決定する。みごとに証明された権威ではないか。
この短い文を読んで、しばらく爆笑が止まらなかった。
どこぞの執行部が宣っていた科白を思い出したからだ。
「正しい御本尊がどれであるかを執行部は認定する権能がある」ということを、つまりは執行部自身が決めたんでしょ。
それはつまり、自分にはこういう権威と能力があると自分で自分を偉いといい、自分で自分を権威者に祀り上げたってことでしょ。
こういう悪どい道理にさえ気づけないのが、騙されている会員というわけですね。だから目覚めて見抜いている人たちからしたら「お花畑」とも言いたくもなるわけで。

いつの時代もこうだ。
ナポレオンは自ら皇帝になったし、ヒトラーも自ら総統になったようなものですからね。
そういう危険が我が愛する創価学会では起こりえない。そんな神秘思想をしているのが、騙されている学会員というわけですね。


宗教のほんとうの義務は人間のつくった制度とはかかわりがないこと、正しい人の心こそほんとうの神殿であること、どこの国、どんな宗派においても、なにものよりも神を愛し、自分の隣人を自分と同じように愛することが法律の要約であること、道徳的な義務をまぬがれさせるような宗教は存在しないこと、そういう義務のほかにはほんとうにたいせつなことはないこと、内面的な信仰はそういう義務の最初にくること、信仰なしにはほんとうの徳は存在しないこと、こういうことを念頭におくがいい。

この部分こそ、わたしが感想の中で、ジョン・レノンの『イマジン』の思想であると言っているところだ。
少なくとも、信仰をもつ立場にあって、隣国の脅威を訴え、そのためには抑止力が必要であるなどとほざく輩は信仰者にも値しないということだ。それは隣人の善性を信じずに否定していることになるからだ。


学者というものは一般人の考えかたを軽蔑する。それぞれ独自の考えをもとうとする。盲目的な信心は狂信に導くが、傲慢な哲学は反宗教に導く。こういう極端をさけることだ。真理への道、あるいはあなたの心を素直にして考えるときそう思われる道に、いつも踏みとどまるがいい。

あなたがたの生徒の弱点をなおしたいと思ったら、あなたがたの弱点をかれに見せてやるがいい。かれが心のうちに感じている闘いと同じ闘いをあなたがたの心のうちに見させるのだ。あなたに見ならって自分にうちかつことを学ばせるのだ。
自分の弱い部分や、不甲斐ない部分を見せながら、それを乗りこえようと必死に記事をかけば、「お前のやってるのは愚痴と文句だ」と罵倒される。あげくの果てには「病気を言い訳にするんじゃねえ!」とかね。
じゃあと思って、これこそ原理原則だ! こうように生きねばと記事を書けば、「お前は観念の遊戯をやってるだけだ!」と罵倒される。
で、そういうことを言ってくる人がなにを書いているかと見ていると、大体は見栄をはっていた。そして自分の弱さと闘っている姿は隠しに隠していることに気づいた。

いやはや、このブログに記事を書き続けてきたことで、どれだけ嫌な目に遭い、酷いことを言われてきたことか。しかし、そこから学びましたけどね。存分に。
だから今は何をいわれてもひるまないし、動じなくなりましたよ。
いやそもそも、私にあれこれ言ってくる人がいなくなった。

まあルソーの言ってることが正しいんですよ。
彼はこの部分のあとでこう言っている。
ほかの者が言ってくるようなことを言わせないことだ、とね。

ipsilon at 11:27コメント(0) 
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