小説・短編『マイ・ロスト・ビリーフ』

2017年02月08日

 その時、僕は閉じていた目を開いた。
 泣く女の喚声はまだおさまっていなかった。鼻をすすり、しゃくりあげる音がする。
「あなたが……あなたがいなくなったら、何の意味もないんだよ」
 いきなり、耳朶をうった掠れ声が、知茄子といるという今に僕を幾分か引き戻したが、まだそのときは完全に現実に帰っていなかった。
 少年時代を見ていたのはいったいどれくらいの時間だったのか? 人は死を前にしたとき、人生を走馬燈のように思い出すという。でも、あれはそう長い時間ではなかったはずだ。生と死――。少年時代を死だとすれば、今が生ということになるのか? いったいどちらが本物なのだろう?
 そらしていた視線を知茄子に向けると、泣きはらした眼が赤く充血していた。悲しく、憐れだった。
 そうだ、僕は知茄子のためになら犯罪にさえ手を染めるかもしれないと、このホテルの一室で彼女に語ったのだ。しかしそれへの反応は予想外だった。
「あたしのためにそこまで……嬉しいな」
 そういって抱き着いてくるのを想像していたのだ。馬鹿げた妄想だ。現実はまったくその逆といってよかった。あまりの衝撃に僕はわれを忘れた。不信の言葉を投げつけ、泣きぬれる女を見て、なにをどう考えたらいいのかわからなくなったのだ。今さっき言葉として口にされたことの意味はわかった。例えどんなにあたしのことを思ってなにかをしてくれても、それであなたがいなくなってしまったなら、してくれたことには何の意味もなくなってしまう。それが知茄子の思いだろうと。
 しかし本当にそうなのだろうか? 僕の中で一気に彼女に対する猜疑心が爆発する感触があった。これまで二人で過ごしてきたことに意味はなかったのか? それが過去だとしてもそんなことはないだろう。だけど、彼女の言ったことの意味もわかる。今と未来という場所に僕がいないのなら、何をしてくれても意味はないということも。
 だけれども、人はいつか必ず死ぬではないか。そしてそれは「いなくなる」ということに他ならない。ならば、この僕が知茄子を幸せにすることなど絶対に出来ないではないか……。
 幸せっていったい何だ? なんなんだ?……。
 僕は混乱し、惑乱した。誰かがどこかで、「それでも、お前はこの場を乗り切らなければならない。それも今すぐに」と言っている声が聞こえた。
「ごめん、すまなかった。もうああいうことは言わない。それに犯罪に手なんか染めやしないよ。約束するよ」
 と、借り物のような声で知可子に語りかけた。
 それを聞いた彼女は、少しずつ落ち着きを取りもどしていった。
 だが、僕の心はよどんでいた。何が二人にとっての幸せであるのかは闇の中にあったのに、とり繕い言い繕ったことを知っていたのだから。お前はあのとき悪魔に魂を売ったのだと非難されても仕方がない。
 だけれども、あなたがいないことであたしが幸せになれることが信じられないといった知茄子と、何が二人にとって幸せなのかがわからなかった僕に違いがあったのだろうか? どちらも何かを信じていないという点において同じだったのではないだろうか。そうであるならば、彼女もまた……。

 今になって彼女と別れたことを振りかえってみると、その原因はあまりにも短い一瞬にあったのだとわかる。そして僕は、あの日おかした過ちのどこに間違があったかに気づいている。答えは暫くのあいだ眼を閉じていた少年時代に見た、聖域で孤独のうちに感じたことにあったのだ。あの日あの瞬間に僕は答えを垣間見ていたにもかかわらず、悪魔に魂を売ってしまった。自分から目を閉じてしまったのだ。しかし答えはその閉じているときに見たもののなかにあったのだ。あの時の僕にいったいなにができたというのだろう。必死に生きているつもりになっていた僕は本当に大切なものをいつのまにか失い、それを忘れてしまっていたのだから。フィッツジェラルドの作品を拝借していうなら『マイ・ロスト・ビリーフ』――見たものを見たままに感じ、誰かがそこに居なくても、ただそこに居ればいいという信念を――。(了)

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――#4――


ipsilon at 21:10コメント(0) 

2017年02月07日

 しかし、のちに原体験とでも呼べそうな廻りあいはごく稀でしかなかった。偶然であるにせ必然であるにせよ、それは奇跡とでもいえそうな稀さだった。だから、その時は本との出合いが、いかなるものになるかなど微塵もわかってはいなかった。あの頃の僕にとって本当の宝物というのは、屋上から見える空と街の全貌を見わたす爽快感だったのだ。
 少年にとって屋上という場所は魅惑的であり、また危険でもあった。なにしろ少年というもののなかには冒険心が漲っているのだから。学校のグラウンドと同じように開けたところ。しかしなぜこうも感じるものが異なるのか? 不思議でさえあった。多分そこには危険があったからだろう。一人でいるということは、あらゆる意味で自由でもあるのだから。普段なら大人の目を気にしてできない悪事さえしでかせたのだ。
 屋上にある落下防止の柵、手摺りを乗りこえ、直下を見る。
「うわー、怖ッ!」
 吸い込まれそうな感覚と眩暈と、ずっと見ていたいという狂気じみた快感が混じりあったものが襲ってくる。
 落ちたら死ぬ、飛び降りたら死ねる、やってみたいようなみたくないような。もしかしたら生還できるかもしれない。いや無理だ、絶対死ぬ。遠近感を失ったときに見えるような光景から目が離せなくなる。落ちていく姿が見える。大気を切り裂いていく空恐ろしさが肌を粟立たせ、駆け抜けてゆく。今では見慣れて愛着あるポプラの木にぶつかり、波打った駐車場のポリカーボネイト製の屋根を突き破って地面へと。そんな映像が脳裏に浮かんだとき、固まって動けなくなっていた足に、熱いものが流れだし、一歩後ろに下がって、忘れかけていたように息を吸った。なぜだか、落ちたあとの僕の体からは一滴の血も出ていなかったのだが。
 それでも懲りずに、
「オレは落ちないんだー!」
 などと誰に叫ぶでもなく思って、柵の外にある死と隣り合わせな場所を小走りに駆け抜けることもあった。
 そうかと思えば、その頃興味をもちはじめた飛行機が飛ぶしくみを実際に確かめたくて、100円で買った戦闘機のプラモデルを垂直降下させて観察したこともあった。地上約20メートルを落下するあいだに、すこしざらついた表面をした白い合成樹脂でできたマクダネルダグラス、F-4EJ“ファントム”が機種を引きおこした姿を見たときの感動。
「こんなプラモデルでも翼断面形の影響をうけてちゃんと揚力が発生するんだ!」
 という声なき絶叫、発見という喜び。階段を駆け下りて生贄にされた“ファントム”を手にとったときの憐れみと哀悼、満たされた好奇心と垣間見えた惨忍さ。
 僕にとって屋上とはそういうことと出合う場所だったのだ。
 照柿てりがき色に染まって暮れゆく東京の街々の全貌。鉄紺色につつまれてゆくなかで灯ってゆく家々の明り、超高層ビルが点滅させはじめる深緋こきひとも猩々緋しょうじょうひともいえない赤い明滅。それと対をなすように無機質な白と黒で描き出されてゆく超高層ビル群。右手には新宿副都心、左手には池袋のサンシャインが静かにものいわずそそりたっているのが見える。都心の象徴に背を向ければ、天気の良い日には、霊峰富士とそれにかかる、長く横に棚引く雲や霞というパノラマさえ眺めることができたのだ。
 しかし富士の見える方角は、視界を妨げる給水塔とそこへ入ってはいけないという意思でつくられた金網によって雄大な景観が損なわれていた。色褪せたクリーム色の給水タンクにはきっと死体が入っているんだ。ならオレらはその水を飲んでるのか!? と、富士を遮るタンクをそんな目で睨んだこともあった。悔やしい思いは、金網に塗られたペンキの被膜が欠けたり剥げて、むきだされて真赤に錆びた色を心に焼きつけた。
 それでも少年はそこで、様々なものを満喫した。家屋に灯った明りを見て、かすかに届いてくる生活の音や人声を耳にして、住人の暮らしぶりを空想してみたり、どこからか漂ってくるカレーの香辛料が届けてくる匂いに空腹を覚えたり、しだいに温みを失い肌寒さを募らせてくる風に身震いしたり、沈みゆく太陽、のぼってくる月や宵の明星が放つ力強い瞬きを見つめたり、音もなく高空を飛びながら赤と白の光を明滅させる旅客機を追いかけたり、人口衛星が宇宙から投げかけてくる白い燈火を寂しがったり、三つ並んで輝くオリオン座の星々の光を頭をあげて眺め、
「宇宙のでかさと比べたら、オレの悩みなんてちっぽけだよな」
 とつくづく思ったり。……そして、馴染みぶかい仕草で自転車に乗って帰ってくる母をまごうことなく見つけだすのだった。
「もうそんな時間か。じゃ、降りるかな」
 そんな風にして僕は聖域を後にするのだった。
 たった一人でいて、誰かと何かを分かち合うことなどなかったが、あれは間違いなく僕の居場所だったのだ。見たものを見たままに感じ、ただそこに居るというだけのことだったのだが。
 だから、少年が薄緑色の非常ドアを開けて帰ってきた母親と顔を合わせ、
「おかえりー!」
「ただいま。なんだお前また屋上に行ってたのか。鍵忘れていったのか?」
 と少々意地悪な質問をされようと、
「ちがうよ。行きたいからいってただけ」
「そうか。寒くなかったのか?」
「平気だよ。上から見てて帰ってきたのわかったから降りてきた」
「そうか」
「買い物これからだね」
「一緒に行くか?」
 といった言葉を交わしながら靴を脱いで玄関を入っていくとき、僕の心は水晶のように澄みわたっていたのだ。

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――#3――


ipsilon at 20:27コメント(0) 

2017年02月06日

 扉をあけると腰の高さほどあるコンクリートのブロックでできた踊り場とでもいえるような場所に出た。西日を含んだ石の塊がぬくまっているせいか、ブロックが置かれているところから土の匂いがして鼻腔をくすぐった。同時に雑草の香ばしさが呼吸に混じるのがわかった。どちらも大地からの贈りものだった。
 それまで虚ろだった靴音が変化する。まるで追いかけてくるような足跡を残しながら、僕はいつものように土の上を歩いた。しばらくすると、屋上へとつづく階段が左手に見えてくる。眼の前にというのではない。Uターンをすると、階上へとつづく段々があるのだ。
 落下防止の手摺りは円柱を組み合わせた金属製で、どこででも見かけられるいたってシンプルなもの。その手摺りは淡い青いペンキが塗られていた。きっと昔は鮮やかだったのだろう。日に焼けて褪めてしまい水浅葱色をしている。握ると、排気ガスや塵埃がもたらす感触をいつも伝えてきて、それまで掌にあった潤いを奪ってしまう。少年の歩幅には少々きつい、むきだしのコンクリートでできた階段も時の流れに晒されていた。ところどころにひび割れがあり、それが幾何学的な曲線を階段をカンバスにして描きだされている。
「今日はなにかあるかな」
 屋上へと至る非常階段は誰にも知られることのない聖域だった。聖地に足を踏み入れた喜びが全身に湧きあがってくるのがわかった。
 五階建ての社宅は、一階と二階は所帯を持ったり、子どものいる家族持ちが暮らし、三階から五階までは、少年の父親と同じ会社に勤める独身者が住むという割り当てになっていた。だから興味はもっぱら三階から上にあった。独り暮らしってやっぱり寂しいの? 独身男性の生活って一体どんななの? ということは僕にとって未知の世界だったのだ。
 運動靴を履いた両足は軽快にステップを駆けのぼり、あっというまに三階の踊り場についた。
「あるじゃん!」
 自然と呟きが声になった。
 僕のお目当ては、いわばガラクタといってよかったが、それは宝物でもあった。非常階段の踊り場には、働く独身男性が不要になったものを捨てる暇をつくれず、そこに放りだした品々が時々置かれていたのだ。壊れた家電製品、古着やら食器やら種々様々な生活の中にあったもの、そして読み捨てられた週刊誌や雑誌、単行本といった物が。
「革靴かァ……これ、どんな人が履いてたのかなァ。このコート綺麗じゃん。まだ着れるのにもったいないなァ」
 などと、少年はうち捨てられた物たちを眺め、かつての持ち主を想像したりした。
 だけれども、そうした禁断を覗き見ることは、一種の恐怖を伴っていた。
「こらァ! なにしてるんだ!」
 と誰かに見つかる恐怖だ。
 だから、少年はわくわくしながらも、踊り場から廊下につづく非常ドアが開くことや、ドアにはめ込まれた針金入りの曇りガラスに人影が写ることや、人が近づいてくるような音や気配をいつも警戒していた。
 見つけたものを自宅に運びこむことはまずなかった。親にバレてどのように叱られるかわからなかったからだ。そんなわけで見つけた物を心ゆくまで眺めるのは聖域の中心とでもいえる屋上だった。なにしろそこには、視界を遮られることなく空と街の全貌が見わたせる爽快感があったのだから。父親にいわせれば「そうだな、『馬鹿と煙は高いところが好き』っていうからな」とでも揶揄われる気がしたが、少年はそこであれば、誰にも咎められることなど決してないという謂われなき理由を信じられたのだ。それにもし見つかってしまっても、平謝りに謝れば、必ず許してもらえると固く信じていたのだ。屋上とそこから見える景色は彼にとってそういう存在だったのだ。
 時にはどうしても手元に置いておきたい物があって、そうした掘り出しものは鍵っ子の特権を使って、誰にも見られないように学習机の抽斗にしまいこむこともあったが、たいていの場合、満足したならそっと元の場所に戻しておくのだった。
 そんな僕にとっての宝物は雑誌であり本だった。手にしたものの中には難しすぎて全く興味をひかない本もあった。雑誌や週刊誌にしても記事の内容がわかったわけではない。少年の気をひいたのは、手触りのあまりよくない頁に刷られた、まだ直接みたことのない煌びやかな世界――遠い異国にある城とか、その一室に住む人に提供される贅をこらした料理の写真など――であり、たいていは絵心の琴線を振るわせるものだった。そして、いつの時代もそうであるように、思春期の心を刺激する艶めかしいカラーグラビアだったりしたのだ。しかし、そうした一品に出会う機会はそう多くはなかった。
「でも今日はめっけもん発見!」
 そう言って袋とじ頁のあるような週刊誌を手に持ち、さらに階上へと登っていける日は、胸のなかが上天気だったのだ。
 そんな日常のある日、僕は一冊の本に出合ったのだ。
 その本は単行本だったが、背表紙が弓なりではなく平らに製本されていた。縦20センチ、横は13センチ半ほど。厚みは2センチをわずかに切るくらい。そう分厚いとはいえない。かつての持ち主がそうしたのかはじめからそうだったのかはわからないが、本には透明なビニールのカバーがかけられていた。真っ白な表紙にはシンプルに、タイトルを含めて三行の文字が印刷されていた。その下に絵がある。裏表紙は装丁そのままで白一色になっていた。
 なぜその本に惹かれたかのはまったくわからない。ぱっと見て、ただただ美しさと儚さを感じたのだ。
 表紙の絵は、クロスの敷かれたテーブルの上に、シャンペン、ブランデー、ウイスキーといった瓶が並べられ、封の切られた煙草の箱と、灰皿の上で煙の筋をたてている一本の煙草なんかが描かれている。
 『マイ・ロスト・シティー』、それは作家であるフィッツジェラルドという名前より、訳者である村上春樹という表記が目立つ、奇妙な本だった。そこに違和感を抱きはしたが、装丁や手触り、表紙などデザイン全体が醸しだすどこか冷たい空気に圧倒されてしまったのだ。
 目次のある頁を開くと、肌寒さ感じさせる言葉が並んでいた。

 残り火
 氷の宮殿
 哀しみの孔雀
 ……
 ……
 マイ・ロスト・シティー

 その刹那、えもいわれぬなにかに満たされていた。それはきっと孤独な人がこの本のなかに居るという確信めいた共感と安堵だったのだろう。あの頃の僕がそれを言葉にすることはできなかったのだが。
 僕がフイッツジェラルドと村上春樹に廻りあったのはそんなふうにしてだった。

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――#2――


ipsilon at 19:59コメント(0) 

2017年02月05日

「信じられない!」
 借り物のホテルの一室の壁がピリピリと裂けるような声で叫んだかと思うと、知茄子ちかこの目は茫然自失なる滝の水源地となった。
 泣く女を前にして、僕はただ視線をそらすことしかできなかった。
 その部屋のごとく、すべてが虚構で頼りない気持ちがした。二人の状況にそぐわないメルヘンな色づかいの内装。ベッドに腰かけていること、傍らに彼女がいる現実、肉体があるという感覚すら。本当のものはどこにあったのだろう? 聞こえつづけるすすり泣きを耳にしながら、僕もまた濁流に引きずられるように茫然自失の滝壺に呑まれ、目を閉じた。
 溜息――。それとともに、少年時代が脳裏に甦ってきた。

 あの頃はこんなんじゃなかった。学校にも家にも居場所などなかったが、それでも少年だった僕には居場所があったのだ。それはとても孤独なものだったが、間違いなくあれは居場所だったはずだ。
「じゃあな!」
 どこか乾いた感じのする友だちの声、明日までの別れを告げる木霊が耳の奥から消えると、聞こえるのは背負った鞄が軋む音とアスファルトから伝わる鈍い靴音だけだった。
 色の薄い水色、スモッグのかかった空へと伸びる電信柱。木製のものもあればコンクリート製のものもあった。電信柱に括りつけられた看板や広告。そんなものを何となく見上げたり、柱と柱をつなぐ電線のたるみや捻じれを見つめながら、僕は口を閉じたまま家路をたどった。人工的な空は翳を投げかけているようだった。
 五階建ての社宅の入口は、車が曲がるためのスペースを確保するために、斜めに入口へとつづくように三四段のきざはしを刻んでいた。階段から上には少し汚れた荒いセメントが壁となって固まり、触ると掌に痛さを感じた。壁には風雨で黒ずんだ木の表札がかかっていて、筆文字で『瑞西スイス荘』と書かれいた。
 両開きの扉は全面ガラス張りだったが、どうしたわけか社宅の玄関ホールと呼ぶべき場所はいつも薄暗かった。縦に長いアルミ製の把手を掴むと、いつもバタンという音がした。ホールを入るとすぐ左手には、目の高さに共同ポストがある。一軒家の門先にあるようなポストだ。一階から五階まで、あらゆる住民への郵便や物販広告のちらしがそこに投げ込まれる。だから、家族宛てのものを探すのはひと苦労だし、家族宛て以上に自分宛ての葉書きを見出したときは小さな喜びがあった。けれども、顔さえ知らない同居人とも呼べる人たちのプライバシーを覗き見るような罪悪感がいつもそこにあった。
「今日も何もなし、か……」
 粛然としていた玄関ホールはいつでも呟きさえ妙に大きく膨らませた。
 それが一層のこと居場所を奪ってるいるように感じながら、唇を引き締めて規則正しく並べられた薄っぺらい正方形の化粧板の床を踏み、自宅と呼ぶべき場所の扉へと廊下を歩いた。
 しっかりと貼りつけられていない化粧板の浮いた部分を踏むと、泡が立つような音と感触がした。それがとても厭だった。
 どうせまだ誰も居ないんだよね。
 胸の中でありきたりの現実を確認しながら、僕は自宅の鉄扉の前を通り過ぎ、その先にある非常階段へとつづく薄緑色に塗られたドアのノブに手をかけた。
 少年の力には重い扉だったが、その先には禁断なものに触れられる儀式の場があったのだ。

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――#1――


ipsilon at 23:24コメント(0) 
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