『スッタニパータ』

2018年05月20日

前の記事で「平等」こそ、仏教の極意のように語ったが、経典を読みすすめていくと、その平等の境地よりさらなる上の境地があることがすぐにわかる。
だから、急ぎ、誤解を招かないように、こうして記事を更新しているわけだ。

つまり、こうしたように、初期仏教の仏典は、読み進めれば読み進めるほど、「あ、それも執着だったか、ああ、それもそうだったかと、あああ、そのことも……」と気づいていける醍醐味があるのだ。

何ものかを神聖視して、それが唯一無二絶対の真理だなどと見てしまっては、こうした無上道を歩むことはもはやできないわけで、イコールそれは仏道を歩んでもいないし、仏教ですらなく、ただの妄信ということだ。
ゆえに初期仏典には「信じることもまた執着」とさえあるわけだ。



『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、――かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、――かれには『等しい』とか『すぐれている』とか(あるいは『劣っているとか』)いう思いは存在しない。


つまりは、そういうことだ。
平等であることに拘れば、こんどは平等でないことに怒り、やがて論争に至るというわけだ。
実に見事な人間観だ。

では、何をもって賢明であるというのか?
そう、ありとあらゆるものを“ありのまま”に見れる人を賢者というわけだ。
もうすこしわかりやすく賢明であることをいうなら、禅語にあるようになるだろう。

「歩くときは歩け、座るときは座れ、死ぬときは死ね」――と。

何をするにしても、じたばたして何かれと執着するから、何をしてもあさましくなるのだ。
来るものは拒まず、去る者は追わないといった“無為”に住すればいいし、その時その時になすべきことをただなせばいいわけだ。
病気になったら、病気に取り組み、災難にあったら災難に取り組めばいいし、仕事をしているなら、仕事に取り組めばいいし、遊んでいるときは思い切り遊べばいいだけだ。

梨木さんの言った「場に生きる」ということが、すなわち仏教の教えなのだ。
そうすることによって、いつも執着から離れ、妄執のない境地に住しつづけられるのだ。

無為になって生きばいいのだ。

ipsilon at 18:43 


音声動画だけで学ぼうとすると見えない部分がある。この欲望の節などその典型だろう。
だが、書籍になった経典を眺めていればそういったことにも気づけると思う。
例えば、この「欲望」のあとにには、「洞窟についての八つの詩句」「悪意についての八つの詩句」などといったような節がつづく、こうした流れから、それらの節は大きく分けて色界・無色界・欲界という立てわけがされていることが推察できるといえる。

無論、この「欲望」の節は欲界に相当するものだろう。
また、「洞窟についての八つの詩句」は色界であり、「悪意についての八つの詩句」は無色界であろう。

その欲界、色界、無色界というのは――
欲界とは、基本的に姿形あるモノに対して欲望を抱いているものが住む境涯=界。
したがって「欲望」の節は欲界について説かれているのだろう。

色界とは、欲望を捨て去ってはいるが、いまだ自分の肉体そのものに執着している境涯。
したがって「洞窟についての――」の節は色界について説かれているのだろう。
やれ、ダイエットであるとか、やれ、自分のこの部分がコンプレックスだなどと執着しているのが簡単にいえば、色界の境涯といえよう。

もっとも、現実には執着を捨てろといっても、捨てられるものではないので、これはこういう欲であるとか、これはこういう執着であるということを、明らかに見極めて(明らめて)、それに対処しなさいと経典にはきちんとあるわけだ。
激流をまっすぐ渡りきるとはそういうメタファーなわけだ。
この流れがどれくらい早く、どれくらい深い、そう知っていれば、激流の川であってもまっすぐ渡ることは出来るわけだ。
つまり、捨てるとは知り尽くす、考え尽くしたうえで、(足るを知ったうえで、それに見合った)対処をするということだ。

また、無色界とは、身体とは諸行無常の仮の実存だと知り尽くし、自分の肉体への執着も捨て去った境涯。
だが、まだ心による偏見や先入観が捨て切れていない境涯。
したがって「悪意についての――」の節は無色界(心=意)について説かれているのだろう。
ここで捨て切れていないのは、物に対するものではなく、いわゆる正邪善悪といった観念・概念のことだ。

このように、三界というのは法華経でいう十界論のような構造になっているわけだ。欲界が最も執着の多い境涯で、色界、無色界へと修行を進めることで、少しづつ執着を捨てていくということ。

したがって、心の世界での執着を捨てる方法が、「悪意についての――」のあとにつづく「清浄についての八つの詩句」から先になるわけだ。

そして、「清浄についての八つの詩句」とそれにつづく「最上についての八つの詩句」では、非常に大切なことが説かれている。

「清浄で無病の、清らかな人をわたしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを清浄であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

――と。

つまり、ものの見方(認知・認識のしかた)で最上の境地に達せるのだと釈迦は言ったということだろう。
したがって、最上になれないものの見方とはすなわち偏見であると、釈迦はつぎの節で説いている。

世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないもの」と説く、それ故にかれは諸々の論争を超えることはない。
――と。


法華経こそ最第一の経典である。仏教は「平等」こそ真理と説いてはいるが、法華経が最も優れていると説いてよいなどといった「法華の慢」だけは許されるとかなんとかいって、他を見下す「見解」をしてる時点で、日蓮の見解など信用が置けないということだ。
それは確かに、あらゆる経典を披見してみれば、法華経が各種経典にある部分観を総まとめした総体観にたっている面で優れているといえばそうだろう。だからこそ聖徳太子をはじめとする賢人たちが法華経を釈し尊んできたのだろうから。

しかしだからといって、他の経典に真理がないわけではないわけだ。空を知りたいなら、法華経より般若心経のほうが優れているともいえるし、縁起を知りたいなら、華厳経のほうが優れているともいえるわけだから。

法華経狂信者はその辺りを考慮せず、釈迦の言葉も顧みず、自分たちの信じている経典こそ最第一だなどと他を見下し、傲慢になり慢心しているわけだ。そしてこれこそが、真理を見抜く智慧(正しい見解)に至れぬ大きな執着なわけだ。

したがって、そうした見解はもはや仏教ですらないと言えるわけだ。



すべては平等であるという見解を示せない者は、仏教徒ではない。

ipsilon at 14:31 

2018年05月07日



一応、以前から続けていた形式にそってタイトルをつけたが、もう以前のように記事を書こうとは思っていない。
だから、今回で言えば、書き残しておきたいのは、「因と縁」についてのわたしの気づきである。


この「因と縁」についてはもう何年も考えてきたのだが、どうもすっきりとした答えらしきものに辿りつけていなかったのだが、今朝、スッタニパータを読んでいて、わかった。
無論、それはわたしなりのわかったであるから、それが正しい解であるなどとは言わないが。

つまり、端的にいえば、因とは物質的な原因のことであり、縁とは非物質的な原因だと思ったわけだ。
五感という器官が感じとるあらゆる感覚、痛いとか痒いとか気持ちいいとかいう、現実にある物質(自分の細胞)から起こる結果。これをもたらすものを因と言う。

また、そうした物質的原因によらず、例えば、あまり好感をもっていない人に出会ったとき、「ああ、嫌な奴に出会ってしまった」などと思う、非物質的作用、つまり精神作用という原因によって起こるものが「縁」なわけだ。

物質的な原因(五感)からくる因によって、これはこういうものであるという結果があらわれる。
非物質的なものにって、これはこういうものであるという結果があらわれる。
仏教はこのように非常に厳密に原因というものを分別しているのだと気づいたわけだ。

でなければ内道にはなりませんからね。
他人に関わって、その他人が縁になった、などとよく人は口にするが、それでは外道になるわけだから。
(外道とは原因と結果を自分の外側に求める思想、内道はその逆のであり、原因も結果も自分の内側にあるという思想)


例えば本を読むことで因と縁を考えればこうなるだろう。
本というものは物質である。しかしこれは因とはいえない。ただのものだ。
仏教でいうと、その本を読める我々の肉体に備わる五感の機能(識別、認識、感知、判断など)を因と定義し、その読んだ内容をどう意識で思考したかが縁であると説いているというわけだ。

もちろん、その思考というのも脳の中に起こる電気信号=物質とも言えるが、例えそうであってもクオリアという概念がある以上、心に起こる感覚というのは非物質であると言えるわけだ。なぜならクオリアは脳内に電気信号として現れないからだ。

まあ、そんな難しいことはわからなくてもいいのだ。
ようは、物質的原因が「因」。
非物質的原因が「縁」だということが納得できればいいのだ。

だから、物質的原因=因を正しく見るということで「迷い」から離れられ、
非物質的原因=縁を正しく見れることを「悟り」というように、仏教ではそこも厳密に分別しているわけだ。
したがって、「迷いから離れること」と「悟りの境地に達する」ことは違うということになるのだ。

まあ、現実的にはこの「因」と「縁」はどちらか一方が原因となって結果が現れるのではなく、因と縁が混然一体となり結果が現れるのだろうが。

ともあれ、この『二つの観察』では、
自分の五感が何をどのように感取しているか――原因はなにか?――を見極め、自分の意識が何をどのように思考したか――因にどう縁したか?――を見極めていけば、輪廻という迷いから脱して、悟りの境地に達することが出来ると説いているわけだ。

より簡単に言えばこうなるだろう。
向こうから見知った人がやってくる。そういうことを捉えているのは自分の五感(主に視覚)だ。その人が山田太郎だと認識した、これが「因」だ。
山田太郎に対してのあなたの先入観が働き、「ああ、嫌な奴に会っちまった」と思った、これが「縁」。

この縁によって自分で自分の中に「嫌な奴と会った」という苦しみが生じ、自分で自分を苦しめているというわけだ。

当然、嫌な奴にあったという見方ではなく、あれは山田太郎だ。それ以上でもなく、それ以下でもない。ありのままの山田太郎だと思い直すことも出来る。
だが、違った見方ができるということを実践するのは理屈として知っていても実際には非常に困難なわけだ。先入観による感情が邪魔をするから。
だから、仏道を歩むことは「修行」なのである。

いわれてみれば、至極当たり前のことなのだが……それに気づけないのが凡夫なのだろう。

ipsilon at 09:40 

2017年12月31日




この章節はなかなかに難しいと思う。仏教最古の経典と言われる『スッタニパータ』にしても、すでに仏陀の神格化が行われていると見て、経典に説かれている真理を読みとらねばならないと思うからだ。

まずはじめに天帝である帝釈天が喜ぶ場面が説かれる。
さて、この意味はなんであろうか?
こうであろう。
「人」として生まれてくることがいかに素晴らしいことかを経典は説いている、と。

なぜ「人」に生まれることが尊いのか?
経典は告げる。
「人」は諸人の利益と安楽のために「人間世界」に生まれたからだ、と。
また「人」に生まれたからこそ、諸人を利益と安楽に導ける、未来の仏(菩薩)という行為を行なえるのである、と。
つまり、初期仏教では、仏陀を特別な神だとか、本仏などという立場におかず、一人の人として一応は見ているのだ。

ここで注意したほうがいいのは、「人」と「人間」という違いだ。
言うまでもなく「人」は一個人、わたしであれば、わたしだけのことである。
「人間」というのは少なくとも「人」と「人」が関わること――社会活動――であり、わたしを主体とするなら、わたしと誰か(客体)ということでる。
しかし、「人」というのは、「人」であっても実は己の内面で「人間」たれる生きものであるわけだ。
そしてそういった思考――つまりは自己を主体者としながら自己を客体視=いわゆる自己を客観視――できる生きものは、あらゆる生き物のなかで「人」だけであることを帝釈は喜んでいたわけだ。
だから経典の真意は、のちに仏陀になるゴータマの誕生だけが尊いというのではなく、「人」として生まれてきたあらゆる人々が尊い存在だと説いていると考えるべきだろう。
であるからして、経典はその後、いかなる人も殺すなと述べているわけだ。

ともあれ、このような思考ができないと、仏陀が本仏であるとか、日蓮が本仏であるとかいう特定の個人を神格化し、その人物が「人」であったことを見失わせるわけだ。
従って、わたしは本仏論など無用の長物だと確信している。
(そもそも、こんなことは相対性理論の当てはめでわかることだ。本仏が偉くて迹仏は偉くない? 愚かな思考である。迹仏があるから、本仏という定義ができる。時間と空間も同じ、弟子と師匠も同じだ。善と悪とも同じだ。わたしに言わせれば、相対性理論などすでに古典の領域であるが、どうやら妄信的だったり宮台氏の言う「言葉の受動機械」的な人は、相対論からものを考えることが出来ないようですがね)

そもそも、この経典にある帝釈というのも、ある人物が自分を観察してみて、動物と人間の違いに気づいたことを、帝釈と仏陀という名前の関係性に置き換えていっているということだ。
だから、帝釈などという神は本当は存在しない。帝釈というのは、自分を客体視した自分のことを本来はいうわけだ。

本仏・迹仏も同じだ。
迹仏という定義があるから、それより偉いという本仏が定義できるのであって、この世界に迹仏という定義がなければ、本仏などそもそも定義できないのだからね。本仏しかなくて、この仏こそ宇宙根源の仏だってどうやって証明するんだ? そんなことは誰にも出来ない。
つまり、本仏・迹仏にしてもそれは関係性(縁起)のうえでしか語れないし、関係性とどちらが根源的かは別の問題だということですよ。正確にいえば、迹仏・本仏というのは、相互補完しあっているのだから、どちらかを優先すれば、かならず偏りが起こるということだ。
ま、言ってる意味がわからないなら、一から相対論でも学ばれればいい。

そもそもこの経典でも、仏法の根幹は「平等」だと述べているわけだ。
偉い仏がいて、偉くない仏がいる。そんな馬鹿な仏法があるものか。

つまり、間違った仏教を信仰しているような人々は、なにか帝釈という偉い神がこの世界のどこかにいると信仰しているわけだ。そして祈れば、その神だとかいうものに守ってもらえると愚かにも思っているわけだ。

南無妙法蓮華経にも同じことがいえる。
題目をなにか特別な永遠不滅の宇宙森羅万象を貫く絶対の法だなどと見てしまえば、唱題しながら自己を客観視するための題目という本来それがもっていた真意を見失っているということである。
当然、真意を理解せずにただ呪文のように何千万遍と唱え祈ったところで、その御本尊とやらに守られるわけではない。
すなわち、御本尊を拝して唱題行(止観)するということは、自己の心身をどうすれば平穏かつ安楽にしておけるかを自ら知り、自らの力で自らを守ろうとする行為であると理解することこそが、正しい仏法だと言えるわけだ。

そもそも、御本尊様が守ってくださるとか諸天が守ってくださると祈っているのは、「他力本願」であるのだが、何十年も妄信してしまうと、そういうことにすら気づけないわけだ。
そのように「他力本願」になっておきながら、念仏は「他力本願」だから駄目なんだとか、他宗を破折している傲慢さよ。


ともあれ、人として生まれてきた最も価値的なことは、自己を客体視できるということだ。
であるならば、瞑想も止観も内観も直観も唱題行も、言葉は違えども、そういうことを指していることはわかろうというもの。
そしてこうした客体視は「人間」という自分と誰かの次元においてもまた同じなのである。

ではなぜ経典では、それでも一人で道をゆけと勧めているのか?
簡単なことです。
自分で自分のことを正しく客体視できていなければ、自分の主観でありのままに他人を客体視などとうてい出来ないからだ。
他人をありのままに客体視できずにその人と関わり、その人を利益し安穏に導けるかどうかなど、考えるまでもなく「不可能」という答えを導きだせるはずだ。

ipsilon at 11:25コメント(1) 

2017年12月30日




この章節では、さほど難しいことは語られていない。
簡単にいえば、すべては自業自得であるということが語られている。

批判すれば、いつか自分も批判され、そのことによって苦悩する。
中傷すれば、いつか自分も中傷され、そのことによって苦悩する。
敵意をもてば、いつか自分も敵視され、そのことによって苦悩する。
嘘をつけば、いつか自分も嘘をつかれ、そのことによって苦悩する。
嘲笑えば、いつか自分も嘲笑われ、そのことによって苦悩する。
あげていけばきりがない。
もちろんこの反対もある。
褒めれば、いつか自分も褒められ、そのことによって歓喜する。
では何でも褒めればいいかと言えば違う。
誤った見解をしている人を褒めることは「虚偽」であると仏陀は述べているからだ。
つまり、真実を語ることが最良といえるだろう。

であるなら、他人を批判したり非難する生きかたを改め、自分が向上するためにはどうすればいいかという自己批評をし、自分に嘘をつかず、自分を愛し、自分と他人に好意をもち親切な生きかたをすればいいだけだ。
しかし、こうした生きかたが、最も困難な生きかたであるとわたしは思っている。

経典では地獄についても語られているが、賢明な人であれば、それが死後赴くところではないことはわかるだろう。
そもそも仏陀は地獄の真相については語れないと言ったあと、比喩を用いてなら語れるだろうと説いている部分にも注意がいるだろう。
(日蓮も御書で、そもそも仏陀は地獄の真相については説いていないと述べている)

つまり、地獄とは自分の行為によっておちる境涯なのだから、その行為をした人物にしかわからないということを述べているわけだ。
そしてその最たるものが「孤独」だと言っているのだ。

もう何年も前からわたしは、自分が思ったことを億千の言葉をつかって語ったとしても、絶対に他人が理解することなど、ましてや100%理解することなどありえないと言ってきたが、それはこういう視点に基づいていたのだが、ほぼ誰一人としてその真意に気づいた人はいなかった。
しかし、わたしは気づいたことを言い続けた。
なぜ言い続けたか? なぜなら、真実を語ることが最良であるという信念があったからだ。

わたしたちは必ず理解しあえるなどと思い込んで人に語る行為は、仏法に照らしてみれば「虚偽」を人に教えているのであり、そうしてついた嘘はいつか必ず自分に返ってくるわけだ。
だから、わたしはどんなに語っても我が意が他人に理解されることなど絶対にないと言い続けてきたわけだ。
ただし、そういう言いかたをすると、親身になってくれる人の心を傷つけるということもその後、体験を通して学んだので、理解しようと努力してくれているとか、その努力を信じることは大事だと思っている。

思い起こせば、当時は日蓮の御書を日々拝しており、地獄について深く思索をしていた時期である。
そして心療内科に通っていた時期で、その待合室で地獄の最たるものは「孤独」のことか!? と電光のように気づいて、持ち歩いていたメモ帖に急いで書きつけたんですがね。


また経典では、譬喩によって地獄で過ごす時間が長大で計ることも出来ないと述べているのは、自分の行なった行為を反省し正さずに死んだならば、その人は自分がいかなる行為によって地獄の境涯に堕したかを知れないのだから、計り知れないあいだその業によって苦しむとしか言えないと説いているわけだ。
つまり、仏陀が比喩を用いて教えようとしたことは――
生きているあいだに、自らの行為を顧みて、「敵意」をもつようなことがないよう、自分を制御して、行為を正していきなさいということにほかならないだろう。

死んでから行為を正そうとしても、それはできませんよ。
生きていてこそ、行為は正せるのだということだろう。

ipsilon at 08:44コメント(0) 
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