ルソー『社会契約論』

2018年07月09日

一応、全編読了しました。
思想・哲学書、あるいは論文といったたぐいもそれなりの数を読んできたが、最も感動した一冊になった。

もちろん、その感動は『社会契約論』という媒体についてだけでなく、ルソーという一人の人格や人柄、そしてなによりその生き方に大変感動したのだ。

『人間不平等起源論』でルソーは、人間が絶対的に肉体の面において不平等であり、不自由であることを説いた。そして『社会契約論』では、その絶対的な不平等がある肉体(物質)世界という面から成り立つ半面をもつ現実社会を見据えつつ、不平等ではない人間の中にあるもう一つの半面である精神性によって、現実社会のなかで、どのように物質的かつ精神的な平等を実現するべきかを提唱した。もちろん、その平等(社会契約)は、一人一人が自由を感じるための手段なわけだが。

そして『エミール』によって、人類の宿業である肉体的不平等を寛容に受け入れあっていける自由な精神を育てるにはどうすればいいかを提唱したわけだ。
つまり、人間の半分は肉体に左右され、そこには絶対的な不平等と不自由があり、残りの半分は精神であるから、絶対的に平等で自由だという矛盾する人間存在が、双方を両立させようとして営んでいる、現実社会のなかでどのように生きれば、自由であり平等たりえるのかを生涯にわたって思索し、またそれを社会に提示してきたのがルソーの生涯だったといっていいのだ。

こうしたことからルソーは、社会は肉体的・物質的な面では決して自由でも平等でもありえない、しかし、そうであっても精神的に自由に生きることは出来るということを人類に悟らしめようといした偉大な人物であったことがわかるだろう。

だから、この『社会契約論』を熟読すれば、理想の社会や政治体が、決して実現しないのをルソーは知ったうえで、それでもあえて著したことが明白に読みとれるわけだ。実現しないと知ってもあえてそういう理想を追い求めざるを得ない人類の宿業を、ルソーは知っており、そうした悲しみを少しでも和らげて生きていけるようにという慈悲と大きな優しさから『社会契約論』を顕しれのだと気づくと、ルソーの前に跪いて、足に接吻したくなるのではないだろうか。
それは、生れてきた以上死ぬと知ってしまう人類の宿業があったとしても、肉体に束縛された悲しい人生であっても、精一杯、楽しくいきよう! と説いた仏教のような慈悲と大きな優しさと同じであろう。


さて、内容にもどります。

Q:では、どんな政府が理想的でもっとも良い政府なのか?
A:それは、決定しえないことであるから、人は解決しえない問題を提出しているのである。あるいは、もしお望みなら、この問題は、それぞれの人民の絶対的状況と相対的状況との、ありとあらゆる組合せの数と同じだけの、正しい解答をもっている、ともいえよう。

つまり、絶対的状況というのは、誰の中にもある神聖な精神性であり、相対的状況というのは、物理的な面、政府構成員の身体的特徴だとか、一日に行動できる限度だとか、人民の数と国土の比だとかいった物理的なもの全てを指しているわけだ。
したがって、解答しえないといっているわけだ。


Q:じゃあ、その不完全でしかない政府のやるべきことって何?
A:それは、構成員の保護と繁栄である。では、彼らが保護され繁栄していることを示す、もっとも確実な特徴は何か? それは彼らの数であり、人口である。

しごく当たり前の論理ですよね。より多くの人が飢えもせず、ふつうに暮らしているうえ、生命を犯されたり争いあう危機に瀕していない。それ以外の指標で豊かさを示すものなどないだろう。より正確にいえば、人口密度のことになるだろう。

Q:でも人工密度が高まれば、人と人の距離が縮まり、争いは起こりやすくなるんじゃないの?
A:少しくらいの動乱は、魂に活動力をあたえる。そして、真に人類を繁栄させるのは、平和よりもむしろ自由である。

何いってんの? ルソーさん……と思うだろう。だが正しいことをいっている。
魂が活動的になるということは、つまり他者との差異を受けいれる寛容性の発露――それこそが双方にとっての“自由”――だからだ。


さて、ここから先が難しい。
主権者は、政治体(政府)を一般意志から設立させようとするのだが、ここに大問題があるとルソーは述べている。
非常に難しい論理展開なので、二回読んだのだが、正しく解釈しているかどうかは知らない。
なので、興味のある人は、自分で著作を手に取って確認して欲しい。

つまり、主権者が主権を行使して政府の構成員を決めるということは、一般意志に反するということなのだ。
わかりやすくいえば、主権者が主権を行使するということは、自分が正しいと思ったことを行為し、した行為を自分で正しいと判断しているということだ。つまり、こうした形で一般意志が行使されると、それは独裁そのものに落ちぶれてしまうということだ。

したがって、こうした事態を避けるためには、自分が正しいと思ったことを行為し、した行為を自分で正しいと判断するのではなく、その行為を他者によって「それは正しい」とされる承認を得るべきだとルソーはいっているわけだ。

日本の場合でいえば、このような制度は一応行われている。
例えば、内閣や大臣が組閣され天皇によって承認・任命されるのがそうであり、政策を協議するときに、主権者にとって重要な政策を審議する場合、国会や内閣だけでおこうのではなく、第三者という特別委員会を組織して、その政策や審議過程が一般意志に叶っているかを確認するということだ。

まあ、日本は今やそういう委員会も内閣が人事権を振り回して、御用学者を集めて、内閣や国会過半数による恣意的運用がされちゃってるんですけどね。

他には内閣の組閣や総理指名というのも、主権者が主権を行使している例にあたる。
だから、日本の場合、内閣が組閣されると、一応は主権者の代表として天皇が承認して任命しているが、いわばこれは形だけなわけだ。天皇はあくまでも国の象徴であって、一般意志の代弁者での代表でも下僕でもないですからね。

したがって、現在の日本のような政府の作り方は、ほぼ一般意志から逸脱して、特別意志を作り出してしまっていることになる。
また、このように主権者がどんなに細心な注意をしても、政府の人員を決めるとき、あるいは政府による行政が行使されるときには、主権者が主権を行使するという、いわば独裁に陥る部分をほぼ払拭できないのが共和制だとルソーは解明しているわけだ。
つまり、俗にいう「権力の魔性」というのはまさにこの部分にあるわけだ。

こういうことをルソーが、人間の肉体に喩えて説明している部分があるので、引用しておこう。

政治体の生命のもとは、主権にある。立法権は国家の心臓であり、執行権は、すべての部分に運動をあたえる国家の脳髄である。脳髄がマヒしてしまっても、個人はなお生きうる。バカになっても、命はつづく。しかし心臓が機能を停止するやいなや、動物は死んでしまう。

つまり、主権というのは一般意志であるから、あくまでも意志であって行使力はなく、その意志にもとづいてあれこれ考えるのが政府という脳髄であって、それら政府さえ束縛するのが憲法(正確にいえば、政府の行動範囲を決める立法)だといっていいだろう。

そして政府という脳髄は、ときに主権者の意志を無視して暴走する危険性が非常に高いということだ。
つねに脳や自律神経を思いどおりにできる人間(意志)など存在しないのであり、もし仮にそういう意志があるのだとしたら、すべての生きとしいけるものに働いている意志といっていい。つまり、一般意志というのは、悟性に近い意識だということが、この辺の論理から窺われるのだ。


ここまで述べてきたことをより簡単にいうなら、政府人員その他、執行権をもつ人事を行うさい、主権者の一般意志である「世論」の介入なしに済ませてはならないとルソーはいっているわけだ。
ルソーのいっている「法」といのは、われわれがふつう思い描く「法律」という概念でないことに注意がいるのだ。


Q:ていうか、政治なんかにそんなに熱中して何か意味があるの?
A:国家について誰かが「わたしに何の関係があるか?」などといい出すやいなや、国家はもはやほろびたものと考えるべきである。

まあ、日本なんて国は、衆参の投票率が60%を切ってしまうことさえあるので、その時点ですでに政治に一般意志が適用されているとすらいえないわけで、日本のそういう投票率を見ただけでも、日本が独裁国家であることは容易にわかるわけだ。絶対得票率で見れば、政権与党は30%台とかですからね。


天皇による内閣の承認と任命もおかしな制度ですしね。
なぜなら――
主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存在する。しかも一般意志は決して代表されるものではない。
と、ルソーは述べているわけだ。

代議士を国民の「代表」だとか思ってるような国民ばかりだと、共和民主制は成り立たないのだ。代議士は主権の下僕なのだから。


Q:じゃあルソーは一体どんなかんじの政治体が理想だといってるの?
A:はっきりいえば、直接民主制なのだ。

ということで、ここから先ルソーは古代ギリシャからはじまり、ローマ帝国に引き継がれ改善された共和政治がいかなるものだったかを詳細に述べている。
だからといってローマの共和政治が完璧なのではないが、一番まともだとルソーは語っている。

昨今の国々であればスイスが直接民主主義の例でしょうがね。

ただまあ、このローマの共和制っていうのは、相当程度に初期ローマ帝国の政治を知っていないと、多分ルソーのいっていることは理解できないだろう。
地区ごとに分けるとか、貧富の差で分けるとか、軍と民の関係とか、貴族と平民、賤民、奴隷の関係とか、元老院とか、護民官、独裁官、様々あるローマの政治の歴史を知らないと、ほぼ理解できないと思う。

とはいえ大事なのは、護民官、独裁官あたりの概念なのだろう。
護民官というのは、平民の権利を守るために、拒否権をもつ役職のことであり、独裁官というのは、国家が存亡危急の事態に非常時特権といったものを発動させられる官職だ。
またこれらの職権は直接民主主義の欠点である、非常時なのに決めるのに時間を要するという欠点を補ったりもし、平時はそうした欠点を補うために貴族制(議会)も持っておくという風にふつうはなっているわけだ。

またこの非常時特権というのは、とてもセンシティブな性格をもち、昨今の日本の政治でいうならば、自民党が提出した「緊急事態条項案」にあたろう。
つまり、独裁官の権限というのは、かつてナチスドイツが憲法を停止させて独裁に走った経緯をもつような、大変にセンシティブなものだと思っておけばいいだろう。


で、この先でルソーは宗教を徹底的に批判している。
読んでいて、すぐに思った。これは発禁になるよね……と。
それぐらい凄まじく、宗教というものが社会契約にとって害あって益なきものだと批判しているというわけだ。
詳細を説明してもいいが、ここの部分は是非とも自分で手にとって読んでもらいたい。宗教には三種の形態があるんだという理論は相当に鋭いわけで。
だからといって、ルソーが宗教を全否定していたのではなく、彼は「寛容な宗教」であれば、一般意志に相当することもきちんと認めていることに注意が必要だろう。


結論するならば、ルソーの思い描いた共和民主主義を実現させる鍵は、政治参加しようとする意志をもち、実際に政治参加してゆく、人民の政治的資質という部分なのだろう。
考えてみれば至極あたりまえなわけだが。
多くの人が多くの人の自由と平等を考え、実際に行動を起こす、それが政治参加するということなのだから。



個人的には、ルソーが『社会契約論』で提唱したような国家が現実化するには、500年、1000年単位で見ていかなければならないだろう……と思いましたがね。



結局のところ、自由と平等! それがすべてなのだ。

ipsilon at 14:21コメント(0) 

2018年07月08日

Q:なぜ立法者が必要なのか?
A:個人については、その意志を理性に一致させるように強制しなければならない。公共については、それが欲するところのことを教えてやらなければならない。そうすれば、公衆を啓蒙した結果、社会体の中での悟性と意志との一致が生まれ、そこから、諸部分な正確な協力、さらに、全体の最大の力という結果が生まれる。この点からこそ、立法者の必要が出てくるのである。

『社会契約論』(1)のところで述べたが、立法者という存在がいかに神がかりな者であるべきかは、上述のルソーの言葉から容易に理解できよう。
政治に「悟性(換言すれば良心)」という概念を見ているあたりが、実に高邁だといえよう。
理性が善悪の判断であるならば、悟性はそれより高次元の精神であり、善悪を超えた判断を悟性と解釈しているわけだ。
残念ながら、多くの人がこの概念に到達しない以上、政治はいつまでたっても善悪、つまり損得でしか動かないままだということだ。

ルソーは民主主義は最も「徳」が必要とされる政治形態だともいってますからね。
もちろん、ここでいわれている「徳」は「悟性」のことだ。善悪や損得や利害を判断する低次元のものではない。
アリストテレスのいっている「徳」のことだ。

すべての人々の最大の善は、あらゆる立法の体系の究極目的であるべきだ。それが正確には、何から成り立っているかとたずねられるなら、われわれはそれが二つの主要な目的、すなわち自由、、平等、、とに帰すことを見出すであろう。自由――なぜなら、あらゆる個別的な従属は、それだけ国家という[政治]体から力がそがれることを意味するから。平等――なぜなら、自由はそれを欠いて持続できないから。


Q:では翻って、優れた立法者をもつにはために人民に必要とされている資質があるのか?
A:ある。人民に必要とされる資質はあるし、要約もできる。

例えば、土地と人民の比率(人口密度)であるとか、人民と気候風土の関係性だとかルソーは述べているわけだが、とりわけ重要なことは以下の一点に集約されている。
その全構成員が構成員の一人一人をよく知りぬいており、一人の人間にたええないような大きな負担を、一人の人間に負わせなければならぬことのない人民、他の人民なしにすますことができ、他のすべての人民もそれなしにすますことのできる人民、金持ちでも貧乏でもなく、自給自足できる人民、要するに、古代の人民の堅実さと近代の人民の従順さとをあわせもった人民こそ、それである。

つまり、個人が個人として自立しつつ協調性をもって全体に奉仕する意志があり、そうした意志からおこる行為によって貧富の格差を是正し、全体が衣食住に窮しないように配慮できる、高い精神性をもった人民ということだ。
ようするに、いかに神がかった立法者がいても、自分のことしか考慮しないような人民ばかりであれば、まともな国家運営は不可能だとルソーはいっているわけだ。

民主制、もしくは人民政治ほど、内乱・内紛の起こりやすい政治はないということをつけ加えておこう。


Q:立法者と人民の関係はわかった。では、実際にはどのような法が必要なのか?
A:大きくわけて4つである。

第一には、自分自身に働きかける全体[政治]体の行為、すなわち、全体の全体にたいする関係、いいかえれば、主権者の国家に対する関係である。
つまり、「憲法」がそれにあたる。主権者が国家権力(立法者)を縛るための法がまず第一ということだ。

つづく二つは、いわゆる立法者が国民に対して課す法だ。
つまり、刑法と民法がこれにあたる。

そして最も重要なのが4つめの法であるとルソーはいっている。
人民にその建国の精神を失わしめず、知らず知らずのうちに権威の力に習慣の力をおきかえるものである。わたしのいわんとするのは、習俗、慣習、ことに世論である。
つまり、この4つめの法というのは、言語によって成文化されるものではなく、「民主共和制とは、あるいは一般契約にもとづく国家運営とはいかなるものか」をつねに忘れず、立法者(執行権をもつ権力)が暴走を防ぐために、習俗、習慣、とくに世論(知識人やマスメディア)によって、主権者がつねに、共和民主制(一般契約)とはいかなるものかを自覚しているために啓蒙にあたってゆくという法になるわけだ。
繰り返しになるが、この4つめの法は、成文化されておらず、常に人々が自覚し自らを啓蒙してゆくという“流れ”の中にあるというところを肝に銘じるべきだろう。


Q:じゃあ政府って何?
A:簡単に言えば、これまで述べてきたように、主権者の意志に従い、それを現実に執行するための人間集団のことだ。

政府とは何か? なぜ政府が必要かは、ルソーの言葉を引用すれば、もっとわかりやすいだろう。
どんな自由な行為にも、それを生みだすために協力する二つの原因がある。一つは精神的原因、すなわち、行為をしようと決める意志であり、他は物理的原因、すなわち、この行為を実行する力である。

わたしが何度も政治とは「力」であると言ってきた意味はこういうところにある。政治が物理的「力」であるからこそ、暴走したり、支配を(あるいは力による屈服を)強いようと働いたときに恐ろしいことが起こると述べてきたわけだ。
したがって、政治の最終手段は物理的な力、つまり、警察力や軍事力に訴えるということは自明の理なわけだ。
ゆえに、わたしは政治を信用していないのだ。なぜなら、わたしは非暴力主義者だからだ。

またルソーは政府について、こうもいっている。
人間において魂と肉体との結びつきが果たすことをば、いわば公人において果たす、適当な代理人が必要である。これが、国家において政府が存在する理由であり、この政府は不当にも主権者と混同されているが、政府は主権者の公僕にすぎないのだ。

当たり前のことだ。個人における意志が個人の手や足を動かすのが当たり前なのだから。
個人の意志の思いどおりに手足がしたがわなかったなら、どういうことになるだろうか。
だから、政府は主権者の意志(実際には憲法や世論)に従って行為しなければならないのだ。
でなければ、意志に従わず、あるいは逆らって手足が動くという、人体ではありえなことになってしまうのだ。

わたしからすれば今更の話なんだが……。
安保法制のときに、この点については散々記事を書いたわけで。


ということで次は、実際の政府国家の形態にうつっていく。
いわゆる、専制制、貴族制、民主制だ。
それぞれに長所短所があり、完全な政体は存在しないとルソーは述べている。

無論、そこには先に述べてきたとおり、人民の資質や国土の広さ、人口密度、気候風土、土地の肥痩、産業化できる限度、自給自足の可否(現代の視点を入れれば資源・エネルギー)など、様々な項目が影響を及ぼすので、簡単に、民主制がよいとか、専制制がよいとはいえないと分析している。
いわば、その国にみあった制度を採用するのがよかろうとルソーは述べているわけだ。

しかし、制度だけ眺めて一応順位をつけるならば、どれも悪いところが払拭できない制度だが、一番まともなのが民主制であろうと結論している。

また、単純に考えてしまう人は先制は先制の制度だけ、民主制は民主制の制度だけで執行されていると考えがちだが、実際の政府や政体は、それらが同居したものだと述べている。
だから、現実には元首の人数、貴族院の人数、人民の人数の比率を考慮しなければならないとも述べている。
国会議員は国民の人口を考慮して、時代時代にあわせて変えなさいということだ。
ま、日本はそこも顧慮されておらず、一票の格差問題すら抱え続けているというわけだ。

ともあれ、日本の政体を制度として見ればこうなるだろう。
先制君主(内閣総理大臣)、元老制(大臣や内閣官房)、貴族制(衆議院・参議院)、民主制(国民主権、全国民への参政権の付与)という併存に実際はなっているわけだ。

従って、先に述べた「第四の法」の精神を人民が維持できなければ、日本のような議院内閣制民主主義は、容易に、専制制にも貴族制になりうるということだ。

実際の昨今の日本は、そういうことになっており、それも最悪の形、内閣(安倍首相)と国会(自公過半数+維新)が一体化、つまり行政官と立法官が一体化してしまっているわけだ。
こともあろうに、それにおまけして、司法までもが国民に対してスラップ裁判を平気でおこない、一体化した内閣と国会に忖度して媚びているわけだ。

まあ、今の日本の民主政治なんてそんなものです。

ルソーのいった第四の法が失われれば、一気にゴミ政治になるというわけだ。
そしてまた現在の日本は、その第四の法を取りもどすべく勢力になりうるミドルクラスがほぼ壊滅し、そうした階級同士の共同体もほぼ壊滅してしまったので、政治の力学は予算を獲得するために富裕層有利にしか舵を切っていないというわけだ。

ルソーの思想は鋭敏で、きちんと中間階級が多ければ多いほど、民主政治は安定すると述べてたんですがね。

ipsilon at 22:03コメント(0) 
Q:主権の及ばない範囲はあるのか?
A:ある。だがそれは非常にセンシティブな問題を孕んでいる。

2018年7月6日、地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教の麻原彰晃を含む7人の死刑が執行されたが、主権の及ばない範囲とは、まさにこの「死刑」なのである。

つまり、殺人などによって一般契約を破った者は、その時点で主権を失い、国家の構成員として認められなくなる。それゆえに、いかな国家や司法といえ、主権が及ばなくなった犯罪者に対して、死刑という処罰することは出来ないとルソーは述べているからだ。

であるから、まともに法を順守していた国家は、極刑を国外追放としていた歴史がある。
しかし、グローバル化した現在にあっては、もはや国外追放という措置もとれないことは容易に理解できよう。

では、いかなる方法が残されているのか? ルソーはこう答えている。
刑罰が多いことは、つねに、政府が弱いか、怠けているかのしるしである。なにかのことに役立つようにできないというほどの悪人は、決していない。生かしておくだけでも危険だという人を別とすれば、みせしめのためにしても、殺したりする権利を、誰ももたない。

ようするに、そもそも自然状態にある個人というのは、いかなることがあっても、死刑にされる権利を誰人にも与えていない。したがって犯罪により、主権の範疇から逸脱した者を、主権によって死刑に処することは出来ない。
だが、主権を維持していた時に犯罪を犯したという見方も可能であるので、そうした視点であれば、生かしておくのも危険だという者に限って、死刑に処することはできるのではないか、と。
もちろんこの場合、国外追放に出来ないという条件が整っていなければならない。

また、主権者は例え自分の生命が害されるとしても、自己防衛する権利を有するという点においてのみ、死刑を用いることが可能である、ともルソーはいっている。

しかし、ルソーがこの主権の及ぶ範囲と生死に関する問題で本当に語りたい部分はこうした刑の執行に関する可否ではなく、そもそも死刑を行なわなければならなくなった根本に、殺人を犯すような主権者を生みだした国民と政府の無能こそ責められるべきだといっていることは間違いない。

つまり、死刑制度に賛成するということは、国民と政府という国家の総体が、己たちの無能さを証明しているのだといっているわけだ。
まあ、そうでしょう。執行の前日に法務大臣を含む人びとが酒宴を開いたり、執行される者の顔写真をパネルで見せて、「いま執行されました!」などといって「執行」というシールを貼り、死刑をショーのように演出するメディアをもつ劣悪な人権感覚の国民や政府が無能でなくてなんであるというか。こんな報道こそまさにルソーのいっているところの「みせしめ」ではないか。
平成という元号のうちにという憶測もされているが、それだって一種の「みせしめ」であり、新天皇を権威づけするための死刑の政治利用ではないか。

ともあれ、日本人というのは何十年経っても、「目には目を歯には歯を」という感情論しか言えず、犯罪者は死刑にすれば世の中が丸くおさまると思いこみ、犯罪を少なくしていくために自分たちや自分たちの政府に出来ることはないのか? すら考えないのだろう。また日本以外で唯一死刑制度を維持しているアメリカ人もそういうレベルなのだろう。
そもそも、死刑に犯罪抑止力がないことなど、既にほぼ実証されていてさえそういうレベルに居座っているのが日本人とアメリカ人いうわけだ。

ようするに、一般契約というのは、あくまでも人と人、つまり社会契約なのであって、その上位概念にあたる自然の摂理からすれば、いかなる理由があるにせよ、人は他人の生命を奪う権利など無いということをすべての主権者の思想に教えるような教育ができない国家は野蛮である、無能であり文明的でないとルソーはいっているのだ。

じゃあ、人が人を殺めるのが駄目で動物はいいのか? と屁理屈をいうのだろうが、ならばこう言おう。
人が自己の生命を維持(生きるための自己防衛を)するために、人を殺すことに意味はあるのか?
食人族であるならそうだろう。
だが、植物や動物を食べて人が生きることはある種の自然の摂理に叶った自己生存のための自己防衛ではないのか、と。もちろんそれとても、自己に必要なだけという節理が自然界には働いているのだろうが。
そういう点に目を向けていけば、自然界において生存に不可欠以上の余剰をもち備蓄し、それらを再配分することではじめて国家が営める人類のもつ罪業というものにも気づけるというものだろう。


ともあれ、わたしは死刑制度に反対だ。人間のやっていることに完全などありえないし、冤罪による刑死もあるし、死刑は不可逆な刑罰ゆえに。だから昔からずっと反対の記事も書いているしね。
じゃあどうすればいいと思ってんっだと聞かれれば、大体こう答えてきた。
仇討ち制度を復活させればよい、と。被害者は怨みをはらしたいんでしょ。だったら、自分ではらしなさい。
事件に関係ない人にまで死刑制度を維持させるようなことをさせずにね。

けれども、今のような状態になれば、それは現実的には無理だろう。
であるなら、国外追放はできなくとも、流刑地をつくってそこに島流しすればいいと思う。
そうすれば、加害者は社会契約の不履行によって契約外に追放したことになるし、自給自足でしか生きていけないような流刑地にしておけば、人や社会が裁くことなく、自然の摂理によって裁かれるであろうから。
まあ、そういう流刑地の整備や警備、維持に多少の税金は必要だろうが、死刑執行にあって刑務官たちが受ける精神的な苦痛(下手をしたら生涯のトラウマ)を与えることもないだろうし。

だいたいにおいて、重犯罪者などぶっ殺せばいい! という殺人を容認し肯定する死刑制度からくる精神風土が、鬱憤をはらしたくて「誰でもいいから殺したかった」という風潮を生む原因になっているのだろうし。
人間というものは、自分が見たり聞いたりしたことは、自分も行っていいと思考してしまう生きものなのだから。
虐待されてみればわかりますよ。自分では暴力はいかんと思っていても、自分が体験したレベルまでは他人にやってもいいと心の奥底に情動がインプットされているのが人間なのだから。

だからわたしは死刑制度に反対なのだ。

ipsilon at 19:39コメント(0) 

2018年07月07日

Q:ルソーはなぜ社会契約論を書いたか?
A:わたしの発言が公の政治に、いかにわずかな力しかもちえないにせよ、投票権をもつということだけで、わたしは政治研究の義務を十分課せられるのである。

簡潔明瞭な理由だが、国家や政治体の所属員であるなら、政治について考えたり発言することは、当たりまえの「義務」であるということだ。
政治なんてどうせ変わりはしない、という態度が最も問題だということでもあろう。


Q:社会契約論のもっとも大きな主題は?
A:人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか? わたしはこの問題を解きうると信じる。

つまり、ルソーが社会契約論を書いてまで解決したかった社会問題は、もともと自然状態にあれば、必ず保証されている自由が、人と人が関わって社会をつくったとき、必ず互いの自然状態を束縛しあい、自由を失い互いが互いに隷属する関係に陥ることを、なんとしても解決したいと思ったし、また解決できると信じたということだ。
従って、ルソーが何にもまして最重要視していたのが、教育論である『エミール』でも述べられていたとおり「自由」であることがわかろう。

いいや、俺は支配する側になるから、不自由にはならないなどという論理は通用しない。ルソーはそういう過誤の芽をきちんと潰している。例え支配する側になったとしても、被支配者を支配するということに隷属している事実があるのだ。したがって、支配者になった=自由ではなく、むしろ不自由になったといってるわけだ。
わかり易い言葉でいえば、支配・被支配の関係は「共依存」状態だと述べているわけだ。

よりわかりやすくいうなら、奴隷を使う主人になったところで、その奴隷に命じてやらせていることは奴隷によって制限され束縛されているのだから、主人であろうが、所詮は他者の奴隷なのだということだ。


Q:では、互いが奴隷にならない社会関係ってなに?
A:いかなる人間もその仲間に対して自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利も生みだすものでない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけが残ることになる。

いいや、何の約束もしないでも、俺は権威や力によって他者を従わせられるなどという論理は、ルソーにいわせればクソ理論だ。
彼はいっている。そういうのは権威でもなければ力による支配でもない。なぜなら、そういう行為はただ単に「暴力に屈した(屈させた)」に過ぎないのだ、勘違いすんなよ阿呆! というわけだ。
例え暴力に屈したとしても、それがそのまま屈した側が、権威を受けいれ、支配を受けいれたということにはならないのだ、と。
したがって、互いに自由を犯しあうことなく互いが権威をもち力を行使できるのは、双方同意のもとにおいて取りかわされた約束がある状態においてのみなのだ。
この約束という概念こそ、のちにルソーが「一般契約」という語句をもって説明するものなわけだ。

そしてまた、社会における最小の約束(契約)こそ、家族関係であり、父と子、母と子、あるいは夫と妻とのあいだに交わされた約束だということになる。実際には約束という名の信頼関係になるだろうが。
もっとも現実には結婚にしろ親子関係にしろ、そういう約束は暗黙のものであり、契約書を交わすわけでもない。そして、そういう暗黙状態ゆえに、なにか問題が起こったときに約束があることすら顧慮できず、感情的に衝突しあって破局に至るということが多いのだろう。

何か問題が起こったなら、再契約するくらいのつもりで話し合えばいいのだろうが、こういうルソーの思想などを学んでいないと、そういうことにはなり辛いのだろう。

細かいことをいえば、子が成人に達し親元から独立したりすれば、それはある種の契約の解除でもあるなどと、ルソーは非常にきめ細やかに述べていますがね。

人間は体力や、精神については不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になるということでる。



Q:では、先に述べた「暴力に屈する」ということでない争いというものが存在するのか?
A:存在する。それが国家間の戦争というやつだ。

戦争は人と人との関係ではなくて、国家と国家の関係なのであり、そこにおいて個人は、人間としてでなく、市民としてでなく、ただ兵士として偶然にも敵となるのだ、祖国を構成するものとしてでなく、祖国を守るものとして。

つまり、戦争の定義は約束(契約)したもの(国家どうし)の争いだということだ。
この約束を守らないなら、武力を行使するぞという約束があって行われるのが戦争だということだ。
したがって、兵士は祖国の構成員ではなく、国家の構成員として戦うのであり、結果、国家の中心機関(政府や軍司令部)を守るという意味で祖国を防衛するという意味になる。
こういう定義を考えると、戦争がいかに政治(国家)的であり、国土や人民を愛する心とは無縁かが理解できよう。

戦争にはこういった約束ごとがあるので、約束の交わされていない国家(実際には国家に準ずる集団)どうしの争いは武力によったとしても、それは「紛争」と呼ばれるわけだ。
先に述べたような、約束の不履行に対する約束事の行使ではなく、ただ単なる「暴力による屈服」を相手に強いる行為を、「紛争」と呼んでいるわけだ。
もちろん、テロもこういった行為の一種であり、約束どころが、誰が誰を狙ったかすらはっきりしない、無差別さがあるだけに、自由や人間性から最も遠い卑劣な行為であることが理解できよう。

だから、国家としての約束ごとを取り決めている国際連合などから見れば、テロほど卑劣な行為はないとなるわけだ。


Q:でもさあ、本当に契約って必要なのかな?
A:人間は新しい力を生みだすことはできず、ただすでにある力を結びつけ、方向づけることができるだけであるから、生存するためにとりうる手段としては、集合することによって、抵抗に打ちかちうる力の総和を、自分たちが作り出し、それをただ一つの原動力で働かせ、一致した働きをさせること、それ以外にはもはや何もない。

いってみれば、最後は数だということだ。しかしこれは理の当然であるし、現実の歴史にも事実として記録されている。政治力の行使のゆきつく先は武力行使、近現代の戦争が物量戦、総力戦だったことを顧みれば、ルソーの理論に一点の曇りがないことがわかろう。
だが、そういう理論は理解できない愚者がいる。それが宗教の狂信者だ。
例えば、日蓮のいった「祈りとして叶わざるはなし」といった言葉を馬鹿正直に信じて、物事には必ず限界があるということを理解しない輩がたくさんいるからだ。

そもそも仏教というのは、どこまでは実現できてどこからは出来ないということを明らかに見極める教えだったことさえ理解していない似非仏教団体が政治に“直接”コミットしているという恐ろしさがあるのだ。
いわずもなが、創価→公明であるとか、日本会議→自民云々、そういう輩だ。

実際問題、宗教団体の役割は政治への直接的介入ではなく、宮台真司さんが既に散々訴えてきた――もとはトクヴィルの提唱した――知識階級や宗教団体、余暇をもって政治・経済を学べる中産階層が運営している各種団体、そうしたコミュニティどうしの切磋琢磨が、政治や社会に対しての啓蒙役になるべきなのだが、残念ながら、時代はもはやそこを通り過ぎているようだ。

資本主義のゆきすぎで、格差が広がりすぎ、その余暇をもって政治・経済を学べる中産階層がほぼ崩壊してしまっているのが現状だからだ。
宮台氏曰く――、もはやそうした中産階層のルネッサンスは不可能であるところまで来ているということだ。
ルソーはそうなるだろうことを予見していたということが、この『社会契約論』では語られていますがね。
それが以下の部分だ。

これらの団体の各ゝの意志は、その成員に関しては一般的で、国家に関しては特殊的なものになる。その場合には、もはや人々と同じ数だけの投票者があるのではなくて、団体と同じ数だけの投票者があるにすぎないのだといえよう。

つまり、いかな中産階層が運営している各種団体・コミュニティが充実していようが、その団体が政党でいうところの党議拘束が働いているような状態にあれば、それはもはや一般(契約)的――すべての人びとにとって必ず有益――ではなく、特殊(契約)的な――一部の人びとにのみ有益――なものになってしまうということだ。

創価学会がその典型ではないか。どの政党に投票することも自由だなどという建前をひけらかし、いかにも人々に政治的関心を抱かせ、人々を社会的に啓蒙しているように見せかけて、その実、創価会員であるならば、公明党を支援するのが当たり前、それ以外の選択肢などありえない、そういう圧力を会員に加え、しかも愚かなことに、その会員もそれを受けいれて、功徳だ! 功徳だ! などと叫んで、公明以外の選択肢など考えることもしない。いわんや、啓蒙などどこふく風というわけだ。

宮台さんが、つくづく感心したように、「ルソーはそういうところまで見通していたんだよねぇ……」といっていた映像が目に浮かぶというものだ。

つまり、結局のところ、政治をよくしたいと思うならば、個々人が自分自身の迷妄を打ちはらって、自己を啓蒙していく以外に方法はないと見極めていたということだ。
そして、それを「啓蒙とは何か」という表題で言葉にしたのが、カントというわけだ。

啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。
この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。
したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である。



ともあれ、この辺まではそんない難しくないのだが、(一般)意志や主権が説明されはじめると、とたんに難しくなる。
主権は分割できるか? とか 主権の及ぶ範囲はどこまでか? とか、そもそも主権とは何ぞや? など、われわれが主権=主役みたいな感覚で捉えていることがいかに間違ったものかを抉りだされるわけだ。

簡単にその辺りを述べるなら、こんな感じになるだろう。

主権とは一般契約によって「あれはこうしたい」といったように起こる、一般意志のことである。
そしてその主権は譲渡することも出来なければ、分割することもできない。
なぜなら一般意志は、その国家の構成員全員の同意のものであるからだ。譲り渡すべき存在が存在しないからだ。
同様に、主権は分割することもできない。なぜなら、一般意志は国家の構成員全員の同意であるから、一般意志以外の意見(意志)というものが存在しないからだ。

Q:しかし、現実の政治を見ると、ああいう場合にはこうやって、こういう場合にはこうやるといった形になるが、それはどういうことか?
A:それは、一般意志の(主権)が分割されたのではなく、意志の行為が分割されただけであり、一般意志(主権)それ自体が分割されたわけではない。
大前提として主権(一般意志)があり、その意志にもとづいて、司法、行政、立法、軍事、官僚制という行為に分割されたのであって、主権(一般意志)それ自体が分割されたわけではない。
つまり、主権とは自由であることを望むという意志と考えればわかりやすい。
現実政治にあらわれる、司法、行政、立法、軍事、官僚制などは、すべて自由を保障するための機関であり手段であり、意志から起こった行為だと理解すればよい。

他方、意志とは約束(契約)によって現れる方向性であるが、意見の相違があったとしても、前提として一般契約(約束)を交わしたという状態であれば、多数決がその集団の意志であると見做すことができる。
つまり、一般契約において重要なのは意見の相違ではなく、一般契約を交わした構成員であるという同意が根底にあるので、多数決も一般意志であると見做せるということだ。

ここからがまた難しい。
前述したように、主権・意志という概念は、ある意味で受動的であり、それだけでは現実には何も行使できないということだ。
したがって、意志を行使する代表者が必要になるというわけだ。
そしてそれが、君主、あるいは元首とか呼称は様々あるが、そういう人物が現実に必要だとルソーは述べてゆく。もろん言うまでもなく、司法には司法の、行政には行政の長となる人物が必要であるわけだ。

だが、この君主などになるべき人物の定義が誠に厳しい。
自分のことは一切考えず、博愛精神に溢れ一般意志をなんとしても現実的な行為として実現していける、神のような人物でなければならないというわけだ。

いわば、ここに民主主義の限界が既に存在しているわけだ。
なぜってそんな有能な人物は何千年に一人くらいしか現れないような人物だからだ。
そして、そういう人物が現れると、形式としては民主制であっても、必ずその有能な人物による専制制という実態をもつようになるというわけだ。
ローマ帝国の五賢帝時代を見れば、そういったことは容易に理解できるだろう。
もっとも五賢帝時代は、すでにローマ帝国が抜群の安定期に入っていた時期なのだが。しかしそうであっても、「もはや版図拡大すべからず、現状維持が帝国にとって最も重要だ」と判断できたからこそ、彼らは有能であったのだし、彼らはロ−マが絶頂期にあったという幸運にも恵まれていたわけだ。
有能だけではだめ、幸運に恵まれてかつ有能であらねばならないのが、神がかった主君というわけだ。
そういう主君によってのみ、共和制であっても先制的に人民に安穏と自由を享受させられたというわけだ。

そして、そうした神のごとき人物であるべく存在のなかで、最も重要なのが、法をつくる立法者だとルソーは述べているわけだ。

ははは、日本の国会議員を見て、神のようだなどととても思えないのだが、まあ、こういうところに代議士制民主主義の限界がはっきり見てとれるということなのだろう。

そして、こういった神のような主君……という概念から、宗教の政治利用が起こったのだと、ルソーは述べているし、それはまたマキャベリの理論でもあったと注釈されているわけだ。

政治と宗教とが、われわれの間では共通の目的をもつ、というべきではなく、むしろ、諸国民の起源においては、宗教が政治の道具として役立つ、と結論しなければならない。

だから、政治利用されたくないならば、宗教家は政治の世界に足を踏み込むべきではないのだ。

ようするに、神がかった君主がつるく法というものは、例えば人間の内側にある言語化できないような法であるから、便宜上、君主がそれを言葉にできたとしても、一般ピープルはその法を理解することはできないし、その法が有益であることさえ判断できないということだ。
したがって、有能な君主というのは、立法した法を実施すること=君主の行為であるというわけだ。

小説の『銀河英雄伝説』の登場人物、ラインハルトのように、民事、刑事、はては家庭内のいざこざから戦争まで、すべての事象に対して、当事者の話を自ら聞いて、仲裁できるような人物こそ、神がかった君主だと描いているのが、ルソーの言う理想的な立法者なわけだ。
まあ、そんな超人はいないんですがね。

したがって、ルソーの弁をきちんと考えると、いかに完全に見える法律であっても、決して完全ではない。神ならぬ人間の立法した法とはそのようなものであるという大前提のもとに行政を執り行うべきだと言いっているわけだ。
だから、何がなんでも法律厳守だとか馬鹿なことを言う人間は信用しないほうがよろしい。
法治国家なんだからと絶叫する馬鹿も信用すべからずだ。
大事なのは文言にされた法律の外にも法があるという感覚であり、それがどのような法であるかをきちんと見極めていける非常に賢明な主権者であるべきだということなのだ。

わたしが勝手にそう言ってるのではなく、ちゃんとルソーがそう言ってるということだけ断っておく。



また、諸国民の起源にある政教一致の国家のなかで、恐らくもっとも成功したのは、古代エジプト文明だろう。
その理由は、エジプトという国家と宗教の関係にある。
かれらのもった宗教は、あらゆるものに神が宿るというものであり、その象徴がファラオであったわけだ。
それゆえに、ファラオは人民がなにを信仰しようが許したし、その逆にそういう寛容なファラオゆえに人民は王に絶大の信頼を抱いていたという構図があるわけだ。

こういう点を見ると、マキャベリが『君主論』で皮肉りながら述べているように、ある面では、古代エジプトのような政治と宗教の関係性がある政治体ほど安定したものはないことも理解できよう。

しかし、エジプトの場合、ローマ帝国とは違って、周囲からの他民族の侵入が少なかったということも、文明が長寿した原因であるわけだ。
そうしたエジプトに対して、かれらの宗教と異なる一神教的宗教をもつ蛮族が侵入したらどうなるだろうか?
エジプト側は、あらゆるものが神だと見て受け入れるだろうが、一神教の蛮族は決してそうはならないわけだ。
エジプト文明は異教徒だと見て、征服し、改宗させようとするわけだ。

そうして考えてみるならば、決して政治の道具にならない宗教であるためには、あらゆる宗教を認め、受け入れるという宗教であらねばならないわけだ。
だがそうした宗教が現れることは危険なことでもある。
なぜかなら、世界が一つの宗教にまとまってしまったなら、宗教的思想や哲学の進歩がそこで停止してしまうからだ。

したがって重要なのは、各宗教が他宗教を認めて受け入れる信教の自由をもつことなのだ。
が、宗教とはそもそも、そういう存在ではないのだから、やはり政治に直接コミットすべきではないのだ。
そして、各宗教間の争いを極力減らすためには、政治の側も宗教から離れ、信教の自由を保障し、宗教を政治利用しないでいるべきなのだ。
議席欲しさに宗教団体に働きかけている場合ではないのだ。


そうそう、カントが『永遠平和のために』で語っていた、世界が一国家になる形態より国家連合のかたちであるほうが平和を作りやすいと述べていた概念も、すでにルソーが『社会契約論』で述べている。
つまり、意見の相違があってぶつかりあうことで、一つの妥協点に辿りつき、それが一般契約や一般意志になるのだから、と。
もちろん、それと対をなす悪しき思想が、全体主義だ。

したがって、大事なのは対話であるし、ぶつかりあいながらもある妥協点(共通感覚)を見出せる、ある種の寛大な人間性こそ、平和や安穏、そして自由を勝ちとれる人間の本性だということになる。

ipsilon at 17:49コメント(0) 
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