仏教観・正しい瞑想

2019年02月16日

随分と自信たっぷりなタイトルだが、それなりの確信はある。
瞑想をしはじめて、瞑想について思考してきて、ある点に到達したので、備忘録として記録しておく。

これまで何度か語ってきたように、瞑想は大きく分ければ、サマタ瞑想(止)とヴィッパサナー瞑想(観)にわけられる。
で、大体の瞑想の勧めでは、この二つの瞑想のうちのどちらかに偏っているのが実際だ。
多くの場合、ヴィッパサナー瞑想に偏り、場合によってはサマタ瞑想には全くふれず、ヴィッパサナー瞑想こそが、釈迦が成道した瞑想法であると謳っているが、これはまず間違いなく誤りといって過言はないだろう。

以前、マンイドフルネス瞑想の教則本について触れたとき、感情と思考を見ている「本当の自分」があることに気づくのが瞑想の目的だと述べたが、今となれば、こうした瞑想もまだ浅い瞑想であると気づいた。

では正しい瞑想とはいかなるものか?
簡単にいえば、サマタとヴィッパサナーの両瞑想を使ったものが、釈迦の行なった瞑想であるのだろう。

まずは、この絵を見て欲しい

有名なだまし絵だ。
若い女性にも老婆にも見えるというあれだ。

これのどこが瞑想に関係するんだ? それがあるのだ。
つまり、われわれの意識や思考は、普通、このだまし絵を見ているのと同じ状態にあるということだ。
そして、そのことに気づき、このだまし絵を「ありのまま」に見ることが釈迦の行なったであろう瞑想であろう。
つまり、若い女でもなく、老婆でもなく、“どちらでもない”、ただの絵だと認識するのが、釈迦の瞑想なのだ。
もっというならば、絵というものは存在しない。これは白と黒のコントラストによって作られた像にすぎない。
それを絵とみ、若い女とみ、老婆とみるのは、わたしの意識が全体の一部しか捉えられていないからだと気づくということが「ありのまま」に見るということになろう。
勿論、こうした思考展開はいくらでも深めることができる。
白と黒という色は存在しない。それは光の当たっている量の違い、あるいは白と黒の部分に光が反射してわたしの視神経に到達したものに過ぎない。
いや、そのわたしの視神経に到達したものは、存在しない。わたしは目でものを見ているのではないから。脳で見ているのだから。いや、そうではない。脳で脳を見れるはずがない。脳を見ているのはわたしの心である……とまあ、いくらでも思考は深められるわけだ。
そして最後には、結局のところ、縁起によって起こってるだけだに到達するしかないはずなのだ。

一部と全体は縁起の視点によって見るから一部にも全体にも見える。一部があるから全体がいかなる概念かがわかる。全体という概念があるから一部というのが何を指しているかがわかる。つまり、これは縁起という関係性にあると見るわけだ。

他もすべて同じだ。
白と黒の関係も、照射と反射の関係も、視神経と脳の関係も、脳と心の関係もすべて縁起という思想に基づくことによって感知できるということだ。
したがって、われわれが認識するものは、いかなるものも単独で存在しないということだ。

実際にだまし絵で確かめてみればいい。
若い女に見えてるということは、そっちの側にわれわれの意識はフォーカスされて、老婆に見えているときは、そっちの側にフォーカスされている。決して、両方を同時に見ることはできないのだ。
しかし、われわれは視覚的にはそのように、フォーカスした側しか見れないが、「思考」によってどっちにも見えるし、どちらでもないという「ありのまま」の認識に到達できるということだ。

音に関しても味覚や触覚にも意識(感情と思考)に対しても同じ理論が成り立つ。
不快と思う音があるのは事実だが、それはあらゆる音の一部。その一部の音だけを嫌っても嫌うことに執着して苦しむ必要はないと思考すればいい。味覚も触覚も意識も同じだ。
自己を鍛えれば、あらゆる感覚と意識を「ありのまま」に認識できるということだ。

生きとしいけるものが生存していくために、このフォーカスというのは絶対的といっていいくらい重要なものだ。
しかし、それゆえにわれわれは全体観を欠いた一部を見て、それをすべてだと思いこむ愚も犯してしまうということだ。

この、常に自己保存にとって重要な部分だけにフォーカスする機能は難しい言葉でいうと、ゲシュタルトという。
つまり、正しい瞑想とは、このゲシュタルトを意識的に思考でとりはらい、フォーカスされている部分を含むありのままの全体像を見たうえで、そのうえで部分に対して今自分はこの部分に対してどのようにするのが最善かを考えて行為するということである。

これをサマタとヴィッパサナーに当てはめるなら、サマタという止、一点集中は、いま自分の中で起こった感情や思考が何にフォーカスされているかに気づくものであり、ヴィッパサナーはそのようにして気づいた部分を知ったうえで、その部分が全体のどこにあたっているかに気づくということになろう。いうならば全体観察。

これが正しい瞑想であり、また常に正しい認識をするために行うべき思考の訓練ともいえる瞑想だといって過言はないだろう。

理屈はそう難しくない。
しかし実践となると、なかなか難しいのだろうが。

例えば、こんな思考が起こったとしよう。
「Aの野郎、ほんと腹立つんだよ! ムカツクんだよ!」

これをサマタ瞑想で見るなら、読んで字のごとくのように「特定の個人や物事にたいしての怒り」にフォーカスされているわけだ。
そしてこれを含む全体像を見て、自分が今全体の一部のどこに執着した思考が起こっているかを見るのがヴィッパサナー瞑想なわけだ。
実際の思考はこんな風な思考になるだろう。

「まてよ、世の中にはAだけ存在するんじゃない。BもCも、いやいや世界には70億人もの人がいるじゃないか。しかもだ、この怒りっていう感情も永続的なものではない。いわば諸行無常だ。それにAへの怒りに駆られてイライラしているより、BやC、あるいは道端で出合うどこかの誰かに親切するほうがよほど価値的ではないのか? そうだ、そうにきまっている。いやそれ以上に、Aにかかずらわっているより、今自分がしたいことをするほうが遥かに自分のためにならないか? しかも自分のためにやったことが、どこかの誰かに善い影響を与えるとしたらどうだ?……一粒で二度おいしくなるんじゃないのか?……確かにAと続けてきた関係が壊れるのは遺憾なことだ。しかしすべては諸行無常だ。いずれAとは死によって引き離される。だったら、Aとの関係を今考えてあれこれ悩むより、BでもCでもいいい、あるいは道端で会う人でもいい。誰かに何か善いことをしたほうがいいだろう。つまり、いつまでもAに腹を立てていて何もできないよりは、今ここで自分でできることをやるほうが遥かに価値的じゃないか!! たまに人に『死ね!』という人がいるが、あれは馬鹿だ。死ねと言われようと言われまいと、いずれ全員死ぬんだからな。だからそういう意味じゃ、死ねと言われて憤る必要なんてこれっぽちもないわけだ」
(最後の死ねのところは蛇足なのだが)

このように、普段はゲシュタルトによって見えている、ある一部を捉えながら、そのあと思考によって、、、、、、ゲシュタルトを崩壊させ、知りうるべき全体像を認識したうえで、今なすべきことをなすというのが、正しい瞑想というものだろう。

そして、そのような瞑想をするための基本的な思考が「諸行無常」であり「すべては縁起によって起こっている」というものだろう。
ただし、気を付けなくてはいけないこともある。
変性意識状態のようになるのがゲシュタルト崩壊だなどと思って瞑想しないことだ。
無念無想を目指して瞑想しないことだ。

自動車を運転しているときに、ゲシュタルトが崩壊したらどうなるか?
危険極まりないのだ。
あそこに犬が、あっちにはお婆ちゃん。こっちからは赤ちゃんをつれた奥さんが来るな。
じゃあ、こっち寄って、しばらく止まって、で次は……というような思考はゲシュタルトがあるからこそできる思考だからだ。
すべてのものが一度に見えているようなゲシュタルト崩壊状態にあるなら、あそこに犬が、あっちにはお婆ちゃん。こっちからは赤ちゃんをつれた奥さんが……などという見方が出来なくなっており、ただぼんやりと全体が見えているのだから、何が危険かもわからないのだから危険なのだ。

仲のよい友人と喫茶店でお茶を飲みながら歓談。
このときゲシュタルトが崩壊したらどうなるだろう? 大変なことになる。
自然に友人にフォーカスできているから、友人との会話が楽しめるわけだ。友人とその背景にある喫茶店の風景の区別がなくなってしまったら、もはや友人との会話どころではないのだから。
テーブルに置かれたティーカップをあやまたず手にとり口に運べるのも、ゲシュタルトのおかげなのだから。

ただし、全体像が見えることによって比較化や相対化が失われ、すべては平等であるという真理に気づける面もあるわけだ。なので、ゲシュタルト崩壊にも非常に有益な部分もあるのだ。

このように、人間は常に部分にフォーカスしながら生きている。しかしそれはあくまでも部分であり、全体の一部だ。
したがって、その部分に判断をくだすにしても、全体を見たうえで、その一部を含む全体にとって最善の判断はなにかを徹底思考し認識し、行為行動するのが、正しい瞑想だというわけだ。

したがって、瞑想には神秘もなければ、変性意識状態を目指すものではないし、無念無想を目指すものでもないということだ。
釈迦はそういう点を明確にするために、正しい瞑想(徹底思考による全体認識とそれへの最善の判断と行為)を行えるのは五蘊の範囲だけであると言ったわけだ。
五蘊とは簡単にいえば、五感と意識だ。

正確にいうならば、色・受・想・行・識だ。
五感を通して感じられるもの=色
五感を通じて受け取った情報をどのように感受しているか=受
個々人の感受性の違いはあれども、その受によって起こる想念、思い=想
想念や思いによって起こす行為=行
行為にしたこと、あるいは行為の結果(成功・失敗)によって刻まれる記憶=識

つまり釈迦は、人間が思考できる範囲はこの五蘊の範囲だけであり、その範疇を超えたものは語れないし、語らないという姿勢を取ったわけだ。
したがって、正しい瞑想はこの五蘊の範疇での徹底思考だということになる。
だから、正しい瞑想は、無念無想や変性意識状態や神秘主義とは決して相容れないということだ。
これが正しく理解できるなら、仏教は哲学であり徹底思考であり、信仰でないこともすっきり理解できるのだろう。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。
(ウィトゲンシュタイン)


曼陀羅にむかって祈れば願いが叶うなんてのは仏教ではなく、迷信だということだ。
なぜなら徹底思考すれば、誰でも必ず「縁起」や「諸行無常」に到達し、最善を尽くした以上、あとは全体の流れに任せる、人事を尽くして天命を待つという諦観、すなわち「涅槃寂静」に至れるというのが仏教だからだ。
そしてそのように仏教を実践している人の内側で起こっている法の流れを仏法というのだから。
正しく仏教を学び、正しく仏教を実践すれば、それは「縁起」と「諸行無常」といった真理の法にしたがって生きている姿(行為)となる。それが仏法であり、仏法者だということだ。
だから安易に仏法などという言葉を使うべきではないのだ。生きた人間が正しく仏教を実践していることそのものを指して仏法というからだ。
文献だの宗学だの教義にまつわる理論理屈を指して仏法だなどと、間違ってもいうべきではないだろう。

ともあれ、仏陀の次元になると、繰り返し繰り返し何度も徹底思考した場面(パターン)であれば、何も考えずに最善の行為が行えたのであろう。
そのような無意識の習慣をつくるために行うのが瞑想であり、正しい瞑想だといって過言はないと確信している。
というよりも、あれこれと世間的な徳や利益(つまりそれは相対的である)ものを語るより最高善である仏教(絶対的である諸行無常と縁起という真理法則があると)説くことが最も人間として偉大だという次元に仏陀はあったのだろうが。

なので、座禅やマインドフルネスのような、じっと座って行う瞑想をするにしても、湧いてきた思考を「これは全体の一部であるから、全体として見るならこの思考はこの位置にあるのが理想だ」と処理していく訓練だと思ってやらないと、真の意味での涅槃にはたどりつけないのであろう。
無論、何もしないで座っていることを心掛けることで、普段、阿呆のように高速で流れ去っている思考の流速を遅くして、ゆっくりしっかり考えられるスペースを脳に作りだせるという効果はあるし、それはそれで有意義であろう。


いろいろとここまで論理的に語ってきたが、「正しい瞑想」というのは――
決して後悔しないように生きていくということになろう。

本から学ぶのは有益だ。しかし本に書かれていることを安易に信じてそれを絶対視するのは危険極まりない。
大事なのは、読んんだ本、あるいは文字や文章から受けて、自らのなかに起こった感覚を信頼することだ。
100人のうち99人までが、ここに書かれていることは真理だ真実だ! と言おうが、自分にはそうは思えないと感じたなら、その感覚を大事にし、なぜ自分はそう思うのかを探求することが重要なのではないだろうか。

そのように生きれば、誰に何をいわれようと、何が起ころうと、自分が納得しているのだから、決して心が揺らぐことはないからだ。絶対的幸福というものは、そのようなものを指していうのだろう。

仏典にだって間違いはある。

瞑想においては、いっさい何も考えないこと。
もちろん、記憶すら上がってはこない。
この深い瞑想を多くなせば、もはや自分において何も揺らがなくなる。
激流を渡りきったのと同じだからだ。

(『サンユッタ・ニカーヤ』第己埖3章)


切り文であるから、わたしの考察が正しいなどとは断言できないが。
この文から、正しい瞑想は「思考停止」だと読んでしまえば、間違いだろう。
しかし、もはや考え尽くして、それ以上思考できないところまで考えることが正しい瞑想だとしたら、「この深い瞑想を多くなせば、もはや自分において何も揺らがなくなる」というのは嘘ではないだろう。

徹底的に学び、学び尽くし、自分なりの真理に到達したなら、学ぶために使った材料は捨てろということだ。
なぜかなら、学んだ材料にしがみつくこともまた執着であるからだ。

You must unlearn what you have learned.
お前が学んだものから学ぶことを止めるのじゃ!

これはスターウォーズのヨーダの言葉だ。
さすがジェダイ・マスター。よくわかってらっしゃる!
知識はただの知識だ。しかしその知識を実践して確かめて、自己の確信として血肉にすれば、それは智慧になる。だから自己信頼が一番大事なのだ。

ipsilon at 08:05コメント(0) 

2019年01月09日

仏教でいう涅槃、いわゆる悟りとは、変性意識状態を体験することである。
わたしが辿りついた結論はそういうことだ。
では仏教では涅槃をどのように立て分けているのだろうか? まずそれを見ていこう。

有余涅槃――涅槃に辿りついてはいるが、まだ完全な悟りではない状態。
つまり、生きているゆえに身体から起こる欲から完全に脱し切れていない状態での悟りが、有余涅槃だ。
したがって「余」とは身体をさす意である。

無余涅槃――涅槃に到達した人が死によって身体から起こる欲からも完全に離れた状態。これが無余涅槃だ。

ここまでが初期仏教で説かれた涅槃といっていいだろう。
つまり、「有余涅槃」とは、釈迦が35歳のときに菩提樹の下で得た悟りであり、また涅槃を得たあとに生きた80歳までの状態である。
したがって、「無余涅槃」は当然のごとく、有余涅槃に対比されるものであり、釈迦が80歳で入滅(亡くなり)、身体によっておこる欲からも離れた完全な悟りの状態のことになる。だから、釈迦の入滅を説いた経典の名は、『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』つまり、「大般涅槃経」と訳され、それがいわゆる生きた人の辿りついた有余涅槃ではなく、無余涅槃であることを示しているわけだ。
有余涅槃=バリニッバーナ(般涅槃)、無余涅槃=マハー・バリニッバーナ(大般涅槃)といったぐあいに。
もちろんニッバーナは、昨今の表記ではニルヴァーナに当たるわけだ。

繰り返しになるが、ここまでが釈迦のといた仏教である。
したがって、涅槃とはいかなるものかの起源を知るには、正しく訳されたパーリ語の原文を読む必要があるわけだ。それがこれだ。


『マハー・バリニッバーナ・スッタンダ』第6章、第23節「臨終の言葉」 訳:中村元

朗読を聞いて、「おや?」と思った人は、それなりに仏教を学んでいる人だろう。
そう、パーリ語の経典には、日本人がよく知る、自灯明、法灯明を語った、

「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生き なさい」
という部分がないのだ。

あるのは、というよりも仏陀最期のことばは、
「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい』」
なのである。


だからといって、漢訳によって意訳された経典(大乗仏教)なんて信用できないんだよ……というのはいささか早計でもあるのだ。
確かに、意訳によって誤解をあたえたのは歴史的事実であり、鎌倉時代の祖師たちの説いた大乗仏教を信仰するということは、もうそれだけで誤謬から逃れ得ないことではあるが、先に貼りこんだパーリ語訳をよく聞けば、「自灯明・法灯明で行きなさい」といった内容のことを釈迦は語ってもいるのだから、誤訳とまでは言えないし、漢訳したといわれる曇無讖どんむしんや校正や訂正をほどこした慧厳や慧観だけを責めるのは酷というものだろう。

ともあれ残念なのは、鎌倉時代の祖師たちが、釈迦の真意を読みとれない漢訳経典を拠りどころとし、その後の時代の日本人、わたしも含むほとんどすべての人々が、誤謬まみれの仏教に浸りきっており、そのことにさえ気づけていない実情があるという現実だろう……。

とはいえ、パーリ語による経典をしっかりと聞けば、そこに「自灯明・法灯明」という意味あいがあることもわかるということだ。
第6章、第23節にある内容を要約すればこうなるだろう。
わたし、釈迦亡きあとは、戒・定・慧の三学、つまり戒律(を守ること)・禅定(瞑想すること)・智慧(によってあるがままを知る)という三点を厳守していきなさい。またこれまでのように誰もが平等に議論を交わすのではなく、悟ったものを師とし、悟りに近い人を敬い、いまだ悟りにいたらざる修行者は身分をわきまえ、修行者は言いたいことをいうのではなく、悟りを目指すにあたって少しでも疑問があるなら、徹底的にその疑問を先に仏道に入った人から教えてもらいなさい。一抹の疑問もなくなるまで問い続けない。またその逆に悟りにいったった師の立場にあるものは、いかなる言い回しを使ってでも、修行者が悟りに至れるように、全身全霊で教え導きなさい、と。

つまりこの、修行者が徹底的に疑問がなくなるるまで問い続けるというのが、すなわち自灯明であり、また悟った者がいかなる言い回しを使ってでも教え導くというのが法灯明の意味あいにあたると考えられるということだ。
そうすれば、500人のうち500人が必ず悟りに到達できると釈迦は言い残したわけだ。
そして最後に――、ではあっても、結局のところ悟りの究極とは、「もろもろの事象は過ぎ去る」という「空観、縁起」を体験によって知るものであると言い残したわけだ。
つまり、自灯明・法灯明というのは、すべては縁起によって起こっている、その縁起もまた縁起によって起こっているという空を体感するための方法論であると言っているわけだ。
したがって、仏教が悟りを目指す教えであることは、こうしたことから明々白々のうえにも明瞭なことがわかるのだ。

しかし実際、日本で広まった大乗仏教を眺めてみると、そのように仏教を弘めているとは思えないのだ。
日蓮しかり、法然しかり、道元しかり、別の祖師もまたしかりであり、彼らが説いた教えは、悟りという涅槃に到達することを勧めているようには見えないのだ。

南無阿弥陀仏と唱えていればいい。あるいは南無妙法蓮華経と唱えていればいい。悟りは修行そのものの中にある。だから「只管打坐しかんたざ」、つまりひたぶるに坐禅に打ち込めばいいといったものなのだ。
無論、詳細に検討していけば、鎌倉仏教の始祖たちの言わんとしていることは理解できるし、究極的には少なくとも始祖その人にあっては、悟りに到達しようと仏道を歩んでいただろうことはわかる。
だが彼らは、現実問題として、「こうすれば必ず悟りに至れる」という論理を、釈迦ほどには明瞭にしていないのだ。各祖師が説いたのはあくまでも、方法論で止まっているということだ。
もっともそれは無理もないことなのだが。
なぜかなら、悟りの体験というのは個人の内的世界でしか起りえないし、悟りの感覚を味わえるのも、個人の内的世界に限られているからだ。

したがって、方法論しか説かなかった鎌倉仏教の祖師が悪いわけでもないし、大乗仏教が誤謬まみれの無意味なものであるわけでもないのだ。

大乗仏教には大乗仏教の立場があるということであるし、大乗仏教は釈迦仏教では到達しえなかった涅槃を提示していたりもするからだ。
それが、「無住処涅槃(生死即涅槃)」という思想なのだ。

では、無住処涅槃とはいかなる思想なのか。
生きているときの悟りが有余涅槃であり、死んだあとの悟りが無余涅槃であるというのはわかる。でも考えてみると、究極的にいうならば釈迦仏教というのは無余涅槃を目指しているのだから、無慈悲である。大乗の無住処涅槃というのはそういう思想なのだ。

生きているときは説法して衆生を悟りに導いてきたのに、死んだあとは自分一人だけ完全な涅槃に住するだけで、釈迦は説法を一切しもせず、衆生を悟りに導くこともない。こんなものは独善的であり、自己中心的であり、なにより無慈悲だ。釈迦がそんな無慈悲なはずがない。そう考えたのだ。

であるならば、釈迦が本当に教えたかったことは、生きているとか死んでいるとか、悟ったとか悟っていないとかいうことに執着するのではなく、生きていようが死んでいようが、悟っていようがいまいが、仏の教えを永遠に説いていくという菩薩道を歩むことが最も正しい道だと説いたのが、無住処涅槃という思想なわけだ。

そしてこれは、ある意味で正しいのだ。
有余、無余のどちらかに偏るのは空の思想ではないからだ。有余でもなく無余でもない、どちらでもなく、その双方を含むという空観とか有余でもなく無余でもない中道こそ真の仏道であると見るなら、大乗仏教が提唱した無住所処涅槃というのは紛れもなく正しい思想なのだ。ただしそれは理論としてである。観念としてである。
実際、われわれは死んだあと、自分が生きとしいけるものに対して、仏心をもって教化している存在であるということを知れないからだ。それゆえに無住処涅槃というのは論理としては完璧かもしれないが、観念の産物だともいえるわけだ。
だから、無住処涅槃というのは、釈迦が嫌った、知りえないことに対しては語らないという無記の態度を超えて、人にとって不可知な形而上の世界に踏み入っている思想でもあるのだ。

そしてまた、無住所処涅槃にある思想は、悟ることの重要性を蔑ろにしてもいる。
だから、ある意味で正しいと述べたのだ。

つまり大乗仏教にある無住処涅槃という思想は、生死とか悟る悟らないに拘らず、菩薩道を歩みつづけることを理想としたのであるから、悟りに至っていない始祖たちが説いた教えだともいえるわけだ。菩薩であるということは仏になることを目指していることであり、菩薩=仏ではないからだ。
したがって、大乗仏教は釈迦の説いた徹底的哲学思考にもとづいたうえでの悟り体験を目指すのではなく、「信じるか・信じないか」に最重点を置いた教え、というよりも信仰すること、信仰心に篤い者が救われるし、他者をも救うという教え、つまり世間一般でいう信じることで救われるという宗教なのだ。
したがって大乗仏教というのは、釈迦仏教にあった理性による徹底的な論理的思考を否定してる面が非常に強いのだ。

蛇足だが、こういう点から、日蓮本仏論などというものが、完全に間違っていることなど容易にわかるということだ。
そもそも大乗仏教では、仏になるという悟り(涅槃)を目指していないからだ。むしろ、生きている死んでいる、悟っている悟っていないなど問題にせず、そういう範疇を超越し、常にどんな状況状態にあっても法を説き続けることを涅槃だと考えたのであり、またそういう境涯にいつづけるということは、仏になることではなく、永遠に菩薩道を歩むということに他ならないからだ。いわゆる本有常住とはそういう意味だからだ。
だから、日蓮が上行菩薩としての自覚があったのは間違いないだろうが、日蓮が自分が仏であるなどと考えるはずがないのである。
それを後世の弟子たちが勝手に日蓮=本仏だとかいいだしたに過ぎないということだ。出来の悪い弟子が日蓮の真意を捻じ曲げたのが日蓮本仏論であるということだ。


ともあれこれで、無余涅槃、有余涅槃、無住処涅槃は概略ではあっても理解できたことだろう。
そしてここからは、もはや個々人がどう考えるかの問題になるわけだ。
俺は有余涅槃に生きようかなとしてもいいし、いやいやわたしは無余涅槃を選ぶとしてもいいし、いやいやあたしは無住処涅槃に生きることを選択するよでもいいわけだ。
ただし、無住処涅槃に生きるということは、論理的思考を捨てて、盲目的に信じるという行為であるということを肝に銘じておくのがいだろう。
そんな非論理的な理性のかけらもない生き方は認めないというなら、有余涅槃に生きればいいのだ。

そしてわたしはどうかと問われれば、まずは有余涅槃を目指す。そのうえで、無住処涅槃を実現する生き方を選ぶということだ。
そのような生き方があるという考えを、先に『わたしの仏教観』で述べたわけである。

つまり――、
涅槃に達して死ねば、いかなる執着も残していないから、自分を形つくっていたもの(情報と物質とエネルギー)が、新たな生命体を形作る材料になったとしも、その生命体を一切苦しめないだろうと、考えるのだ。

それじゃあ、本有常住で説法してることにならないのではと問われたならこういう。
死後どんな世界から法を説こうが、この娑婆世界に住む人は、常に二面性をもってものを見ており、ほとんど全ての人は、その双方のどちらかを選ぶのだから、必然的に彼らに偏りをもたらすことになる。そういう生き方をしている人に聞こえるようにあるいは見えるように法を説くなら、それはむしろ中道という仏の道から逸らさせることになるからだ。であるなら何も説かないことをもって法を説いていくという説法が最も優れていると考えるわけだ。禅宗の教えにある「拈華微笑」だ。もっともこの思想は中国で作られた、いわゆる偽書らしき経典にあるものだが、だからといって論理が間違っているとはいえないわけだ。
日蓮宗のように、偽書であることすら認めない姿勢と比べたら、禅宗はそうとうに謙虚だといえるわけだ。
偽書であろうと、書かれていることに真理の欠片はあるだろうというなら、多くの人も肯くだろうが、日蓮宗の人びとはどうもそのようには謙虚になれないようである。

蛇足が過ぎたが、いうなれば、太字部分で述べたことこそ大乗仏教にある無住処涅槃の理想的なありかただと、わたしは思うわけだ。

したがって、まずは有余涅槃に到達することが早急の課題だと考えたわけだ。
そうして思索したすえ、辿りついた悟り体験というのが変性意識状態だということになる。


ということで変性意識状態。面倒なので以下、トランス状態と記すが、なぜ悟りなのかを説明してみよう。

釈迦の場合どうだったか?
彼は大別すると二つのことを体験することによって、中道の重要性に目覚めたと考えられる。
一つは、至福と絶望だ。
彼は王族の生まれであり、城に住んでいるときは、何不自由ない至福を体験している。
そしてまた彼は、激しい苦行により、どん底の絶望も体験している。

二つ目は瞑想の方法だ。
彼ははじめアーラーラ・カーラーマに師事し、自我意識を消滅させる瞑想法を学んだ。しかしこの瞑想法では涅槃に至れないことに気づいた。
つぎに彼は、ウッダカ・ラーマプッタに師事し、ものをありのままに見る瞑想法を学んだ。しかしこの瞑想法でも涅槃に至れないことに気づいた。

この二つの瞑想法は、昨今の瞑想やマインドフルネスでさかんに紹介されている、サマタ瞑想とヴィッパサナー瞑想である。漢訳されたものは、止行と観行にあたり、二つの瞑想を同時に行うことを止観というわけだ。
禅と定もまたそのような意味あいがある。ふたつを併せて禅定というとことだ。

しかし、この二つをもってしても釈迦は涅槃に達し得なかったのだ。
簡単にいうならば、サマタ瞑想とはひとつのものに集中することであり、極度に集中することによって五感や思考が無くなる状態に身をおくことだ。ヴィッパサナー瞑想は、次々に心に現れてくる感情や思想をありのままにただ見つめつづけることだ。

つまり釈迦はこの二つを使って瞑想して涅槃に達したのではなく、この二つの瞑想法の中道にある瞑想法を見出したのであろう。
恐らく釈迦はこう考えたのだろう。
集中して五感や思考を止めることは不可能だ。そもそも、五感からの情報は流れ続けるし、思考もまたそうである。それがどこかに行き着くとしても、感覚も思考も流れつづけるものだと。
またこうも考えただろう。そのように流れ続ける感覚や思考をありのままに見たとしても、それは決してありのままではないだろう、と。なぜかなら、感覚や思考を言語化した瞬間にそれはありのままではないからだ、と。

であるならば、まず感覚や思考がもたらすものを言語にしないことが必要だ。その為には……と考えたのだろう。
そして見出したのだ。であるならば、言語化されていない状態の感覚それ自体を見つめていればいいのだと。
その具体的方法は、ただただ呼吸を見つめることだと気づいたのだろう。

そのようにして呼吸を見つめることで、彼、釈迦の精神に変調が起こった。
五感の感覚が失われ、自分=宇宙という感覚を感じとったのだろう。つまり、五感が統合を失い、意識もまた統合をうしなうようなゲシュタルト崩壊が起こったのだろう。
そう、この意識のゲシュタルト崩壊こそトランス状態であり、釈迦の到達した有余涅槃だとわたしは考えるわけだ。

このことを証明するのはそんなに困難なことではない。
なぜなら、人類は古代からずっと現代に至るまで、日常生活においても、宗教儀礼や祈祷においても、そのようなトランス状態を求め続けているからだ。

日常社会にあってのそれらは、絵画鑑賞、音楽鑑賞、文学鑑賞などがそれである。
絵を見ているうちに、自分が絵の中に溶け込んで一体となる感覚。音楽を聞いているうちに、自分が音楽と溶けあってゆく感覚。小説を読んでいるうちに小説の世界に身を置いていたり、登場人物の体験が我が体験と感じられる感覚。そういったものだ。
無論、見る立場でなく、絵を描き、曲を演奏し、詩なり散文を書くといった能動的な状態にあっても、トランス状態に入ることはある。

宗教の世界にあっても同じだ。
仏像や曼陀羅、十字架やダビデの星といったシンボリックなものを見ながら、それと溶けあおうとすることで、人はトランス状態に入ろうとしてきたのだ。
聖像、聖遺物、宗教絵画、これらは意識変化のために視覚を重視したものだ。
読経や題目や祝詞、宗教音楽といったものは、意識変化のために聴覚を重視している違いがあるだけだ。
日蓮の遺した曼陀羅に向かって、題目を唱えることは、視覚と聴覚の双方をつかって、意識変革しようと試みているに過ぎない。
そして瞑想の場合、これまで述べてきたような対象を必要とせず、自分の呼吸を見つめることで意識のゲシュタルト崩壊を起こそうとしているということだ。いうなれば、こうした瞑想の場合、視覚、聴覚だけでなく五感のすべてをつかって呼吸を見つめることで意識変革を起こそうとしているのだ。

そして、こうした日常、宗教双方にみえる共通点は、一定のリズムや韻律を重んじているということだ。
音楽はもちろんそうだし、詩が韻律やリズムを重視しているのも周知のことだ。経典にも韻がふまれている。
なぜか? それらはしょせん、生きた人の体に自然に起こっている、比較的規則的な呼吸のリズムを模したものにほかならいからだ。
であるなら、無理に宗教的シンボルだとか経典だとかその内容に執着して拘る必要はない。
己が呼吸を見つめればいいではないか!
日常における絵画、音楽、詩や韻文、また宗教における読経や題目や写経は、そこにあるリズムを感じることで、トランス状態に入るための、呼吸の代用品に過ぎないのだから。

ともあれ、矛盾しているように思えるだろうが、五感のすべてを使って呼吸を見つめることによって、湧きあがってくる思考と思考の言語化を抑制しつづけると、五感が崩壊して、脳が脳自身を見ている状態になるということだ。
すなわち、変性意識状態というのは、われわれが五感を使いながら意識で見ている、見るものと見られるものという通常意識状態から脱し、見るものと見られるものが一つになった意識状態だといえよう。目玉は目玉それじしんを見れないというのが、通常意識であるなら、目玉でもって目玉それ自体を見るというのが、変性意識状態なのだ。
とはいえ、完全にそうした深いトランス状態に至れる人など僅少であろう。
だが、完全とはいえなくとも深いトランス状態に入ることは可能であろう。

ただし、先に述べてきたようにトランス状態には危険性があることは肝に銘じておくべきだろう。
自分と自分の呼吸だけでできる瞑想なら構わないが、いわゆる宗教に見られる、対象物を必要としながらトランス状態を得ようとする行為には非常な危険があるからだ。
その危険がはっきり現れたのが、オウム真理教の起こした事件であろう。

心理学における変性意識の、社会学的な写像(カウンターパート、対応物)がカリスマである。
(宮台真司)


視覚をもちいるにせよ、聴覚をもちいるにせよ、その双方を持ちいるにせよ、五感すべてを用いるにせよ、トランス状態に入るために対象物を用いることは危険なのだ。
言い方をかえるなら、トランス状態に入るための対象物を必要とするということは、そのものに対してカリスマ性を求めていることになり、それがその対象物に対する妄信と狂信を生みだす危険があるからだ。

日蓮の曼陀羅にむかって題目を唱えることでトランス状態に入ることを求めるということは、日蓮の思想と曼陀羅と題目こそ自分にとって絶対の存在であるという思考を生みだすということだ。というよりもそのような思想をもったうえで題目をあげることでトランス状態に入りやすくなるということだ。
なににせよ、多かれ少なかれ対象物を必要とする宗教にはそのような弊害があるのだ。

対象物にカリスマ性を求めることによって、トランス状態に入りやすくしようとしているということだ。
しかし、その宗教が完璧であり完全であろうはずがない。
いわんや、特定の個人を神格化し、そこにカリスマ性を見ながら、トランス状態に入ろうとするなら、そういう信仰は、特定の個人の思想に支配されかねないということだ。
そう、このようなことによってオウム真理教の事件は起きたのだ。

したがって、現段階でわたしが最もすぐれた宗派はなにかと聞かれたなら、禅宗と答える。
自分の呼吸を見つめることでトランス状態を体験しようとする思考が基本にあるからだ。

そういう意味では、偶像崇拝を固く禁じているイスラム教も、なかなか優れた思想だといえる。
が、そのイスラム教もコーランに書かれた言葉に執着していることを見るなら、やはり、なんらかのカリスマ性を求めていることには変わりがないわけだ。

だからこそ、「文字不立・教外別伝」という禅の思想が素晴らしいと今は思っているわけだ。

言葉でもって思考・思索できることをし尽くしたなら、言葉をすべて捨て去る。
五感でもって感得できることをし尽くしたなら、五感をすべて捨て去る。
それが釈迦の教えの根本にある涅槃であると思うからだ。
そのためには少なくとも、言葉でもって徹底的に思考し、『マハー・バリニッバーナ・スッタンダ』にあるように、一切の疑問がなくなるまで、まず考えることが必要だということだ。
そして自分が見つけたものが完璧に信じられるなら、もはやそのことについては一切考えることを止めるのだ。
実際には、死ぬまで確信を求め続けて、考え続けなければならないとしても。

自分という存在、その自分の身に起こっている呼吸を見つめる。
これこそが変性意識状態に入るにあたって、最も弊害の少ない行為であることは間違いないだろう。


言葉では伝わらないものが確かにある。しかしそれは言葉を使い尽くした人だけが言えることである。
田中芳樹『銀河英雄伝説』(ヤン・ウェンリー)


どれもが梵である。(中略)
そのことこそ、私の意にかない、讃嘆すべく、礼拝に値するように思われる。だが、これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。

ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』



真理は言葉によって語れるものではない。
しかし、言葉は真理がどのようなものであるかの輪郭や概略を表現すること、、、、、、はできる。
しかし、それは真理そのものではない。
南無阿弥陀仏も、南無妙法蓮華経も、南無大師遍照金剛も、南無釈迦牟尼仏も、真理そのものではない。
この言葉と言葉にならない真理のあいだにある葛藤を抱えながら語るのは苦しい。

読書もいいだろう。しかしそれでもって言葉に対する執着が増えるようなら、読書などはむしろ害悪であり、言葉によって抱え込む苦悩が増すだけなら、読書などするな。瞑想によって到達できる精神の高みからどんどん遠ざかるような読書になんの意味があるんだというのが、ショウペンハウエルが『読書について 他二篇』で述べたかった真意だということだ。

だから、もうあまり語りたくはないのだ。
あとは実践あるのみ。変性意識状態に到達することを目指すのみ。

わたしなんかの文章を読むより、ゲーテの詩を読むほうが数万倍もいい。
ゲーテは言葉で表現できる意味と、韻律で表現できる高揚感を与えるリズムを絶妙のバランス感覚で整えているからだ。
書かれた言葉で難解なことを語りすぎて、読み手を言葉でからめとりすぎることなく、かといって強烈な韻律でもって読み手を引っ張り、言葉から心がそれることもないという調和がゲーテの詩にはあるからだ。
いうまでもなく、シェイクスピアもそうだ。ワーズワースもそうだろうし、テニスンだってそうだ。
夏目漱石の『草枕』はそのような作品のお手本だ。
だから、そういう言葉と韻律の調和が絶妙な古典を読めとショウペンハウエルは言っているわけだ。
むろん、そうした古典は古代ギリシャ・ローマから生まれたのだから……ということだ。
初期仏教の経典なら『ダンマパダ』が、一番、言葉と韻律の調和のとれたものだろう。

くだらない娯楽小説や独善に満ちた本など、焚書にしてしまえばいい!
最近でいうなら百田なんとかとかいう人の書いた『日本国紀』なんかがその典型だろう。
言論の自由があるっていいですな!! 最高だ!! 素晴らしい!!

瞑想を「心の声に耳を傾けるもの」という根本的なまちがい

変性意識状態の可能性 瞑想、座禅で変性意識にならなければ意味はない。簡単に変性意識状態に入る方法

世の中には一歩も二歩も先んじている人たちがいて、親切なことに無料で教え諭してくれているわけだから、こんなありがたいことはない。


『みえるだろうバイストン・ウェル』作詞:井荻鱗=富野喜幸(由悠季)。
西武新宿線の井荻の隣は、ガンダムやイデオンを作った会社、日本サンライズがある上井草だってわけだ。
だから井荻鱗!!
バイストン・ウェル? それもようは上井草をさしてるんだそうな。
by(〜のそば)stone(石)well(井)、つまり上井草は上石神井のそば(隣り)だっていう洒落らしいという。

海と大地の間にあるのがバイストン・ウェルかぁ、なんかロマンティックだなぁとか子どもの頃思ってたのに、見事に夢をぶち壊す富野さんのギャグのセンスがたまりませんわ。

それはまた、子どもにでも絶対に嘘をつかない富野さんのセンスでもある。
そんなさぁ、バイストン・ウェルなんてファンタジーな夢の世界なんてないんだよ、現実は厳しいのよ。
その現実の厳しさを僕に引き当てて言うなら、僕が働いている上井草=日本サンライズこそ、今の僕にとってのバイストン・ウェルなんだよというメッセージだったのだろう。

イデオンのあとに作られたこの『聖戦士ダンバイン』はバイストン・ウェルでも、そことは違う現実世界の地上界でも、そこに住む人々は権威権力を振りかざしたり、争いあい殺しあってばかりいるという、これまた救いのない物語で、最後はやっぱり登場人物がほぼ皆殺しにされてゲッソリしたのだが、今なら富野さんが伝えたかったことはわかる。

どこにも夢のような世界なんてないよ。厳しい現実があるだけということを伝えたかったのだろう。

でも歌詞は美しい。
子どものころ、うまく言葉にできないけど、楽しさ面白さを必死に友だちに伝えようとしてたあの頃。輝いてたよね。昆虫が指先に感じさせるくすぐったいような楽しさを伝えようとして、「いいから持ってみろよ!」なんていって、友だちに昆虫をわたしたようなこと、誰にでもあるでしょ。
言葉に頼らなくたって、あんなに輝いてたのに、大人になることに夢中になっているうちに、気がついたら言葉にばかり拘る嫌な大人になっていた……。屁理屈はこねるは、言葉で人を傷つけるは、批判や非難することにばかり言葉を使っている……。
でも、とりもどせるよ! って歌詞ですからねぇ。

ipsilon at 13:27コメント(0) 

2019年01月08日

先にエントリーした『わたしの仏教観』を理解できた人ならついてこれる内容になるだろか。
ともあれ、『わたしの仏教観』で述べたことは基本的な縁起(空)の理解には必要であって、そのうえに立たなければ、これから述べることは恐らく理解できないので、興味のあるかたは、この記事を見てみて欲しい。

『わたしの仏教観』で、縁起とは因縁果が鎖状になった一直線状ものだと述べた。
しかし、そうであると、われわれの思想のなかに、なぜ輪廻という思考が生まれるかは述べていない。
今もし、その理由を述べるとしたら、輪廻の思考を起させるものは「記憶」であるというだろう。

これはそれほど驚くべきことではないだろう。
それまで生きてきたときに五感と意識で感じたものの記憶が集積され、統合化されたものを、われわれは「わたし」とか「自分」と呼んでいるに過ぎないのだからと説明すれば、納得できるだろうということだ。

したがって、当然のごとく、そういった「わたし」は真のわたしではない。
真のわたしとは、今ここで、五感と意識が捉えた感覚に対して、記憶からの情報を一切付加しないで、、、、、、、、、、、、、、、、、今ここで五感と意識が捉えた「あるがまま」の感覚こそ真のわたしであるといえるだろう。

しかし、われわれの認識能力(五感と意識)はそういうものの見方が決して出来ないように、通常、制限されているのだ。またそうした制限は生得的といっても過言はない。
それがカントの言った、われわれが時間と空間の概念でものを見てしまう理性の働きであり、事象を見るとそこに因果関係を見ようとする働きであったりするわけだ。
それ以外にも、われわれの五感には制限があり、赤外線や紫外線は捉えられないし、可聴できる周波数にも制限があり、触れて感じられる振動の周波数も制限されているのだから、われわれがいかに不完全な感覚や知覚でもってものごとを判断し、わかったつもりになっているかは、こういうことから理解できよう。

賢明な人は気づいただろうが、われわれは五感が違った感覚器官だと思いがちだが、実は目、耳、皮膚という器官は、振動を捉えるという本質があるというわけだ。
視覚は光の振動を、聴覚は大気の振動を、皮膚は物質の振動をという具合に。
では舌と鼻はどうか? 恐らく皮膚の性格に近いのであろうが、舌と鼻の場合、そこにある科学的な組成を感じとっているのだろう。
正直、臭覚と味覚に関しては、いまは極端に思索不足なので、確たることは全くいえないに等しい。だが、科学的な組成を感知しているといっても、それを微小の世界で考えるなら、原子や分子の振動を捉えているのが、舌と鼻であると考えることは、それほど不都合ではないだろう。

ともあれ、このようなことから、普通われわれは、通常の意識状態で五感と意識が捉えたものを「ありのまま」に見ることがほとんどできないのだ。不完全極まりないのだ。

真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まる。

(ソクラテス)



さて、これからがややこしい。
ここまで述べてきたのは、われわれの五感と意識についてであり、これから述べるのは、そうしたわれわれの感覚がどのように環境と関係(縁起)しあっているかの述べてみたい。

まず、この図を見て欲しい。

そして想像してみて欲しい。
縦糸の一本がわたしの感覚に起こっている直線状の縁起の連鎖であると。
つまり、一番左の縦糸が、わたしが生まれてから死ぬまでに起こる縁起の連鎖であると見て欲しいわけだ。
そのとなり、わたしの隣の縦糸は、他人――親であったり、子であったり、息子であったり、娘であったり、孫であったり、叔父伯母、友人などなど。ようするに個体をもつ個々人それぞれが縦糸の一本一本だと見て欲しいのだ。

では、横糸は何をしめすかといえば、環境である。
横糸の一本は大気であり、また違う一本は大地であり、また違う一本は水であり、また違う一本は熱(エネルギー)であると見て欲しいのだ。
無論、大気は様々な元素が結びついたものだから、一本一本を詳細に見ていけば、ある横糸は水素であり、ある横糸は炭素でありと、細分化でき、現在化学で解明されている素粒子のクォーツを一本の横糸と見ることもできる。

ただ、そこまで微小の世界で想像するより、仏教でいう地、水、火、風という四大をそれぞれ一本の横糸と見た方が、われわれと環境の関係性(縁起)は理解しやすいだろう。

おそらく、これが真に真実の縁起の世界だろう。
われわれは自分と環境を別のものと分けて考えがちだが、われわれの体を作っているのもまた地、水、火、風という四大であるからだ。
したがって、われわれ=環境であり、われわれが偉くて、環境はわれわれの道具ではなく、両者は平等の存在であるといえよう。
われわれには意識があり、環境には意識がないという差異があるように見えるが、われわれはそれを確かめる術を持たないのだから。われわれと環境は基本平等だといって過言はないだろう。

ともあれ、われわれの一人一人を縦糸、環境にあるそれぞれの物質を横糸として縁起を見るならば、そこにわたしなどという自我は存在しえず、すべてはひとつに繋がっていることは理解できよう。
つまり、仏教の縁起観でもって正しくものを見るなら、まず間違いなくこのように世界が見えるというわけだ。

しかし、どうもこれだとしっくりこないような気がすることだろう。
そう、縦糸と横糸はどこまで伸びてるの? という部分、つまり無限とか永遠といわれる概念をわれわれの意識や思考は捉えにくいというか、ほぼ捉えられないからだ。
そしてこうした意識(理性)の限界から、永遠や無限を理解しようとして、輪廻や環状を思い浮かべ、それを永遠や無限として見ようとするのだろう。

では、そういう人の理性や思考の限界にあわせて、先に提示した網目模様を考えてみればよいだろう。
そうすると、恐らく人はこのような図を思い浮かべるはずだ。

そう、球だ。

縦糸の一本一本が、わたしでり、あなたであり、彼や彼女という個々人であり、
横糸の一本一本が、地水火風とか原子とか素粒子あるいはそれらが結びついた分子だとか、特定の形をとる物一つ一つと見るということだ。横糸の一本は机、べつの一本は椅子、そう見たっていい。

このように、われわれと環境の関係性を球にあてはめ、それぞれを縦糸と横糸として見れば、なぜ輪廻思想が生まれてくるかが理解しやすくなるだろう。
もちろん、網目模様と同じように、われわれは一体であり、われわれと環境も一体であることは変わらない。


しかし、これでは龍樹のいう縁起論をきちんと説明しきれていない。
なぜなら、このような球に縁起を当てはめることは、縦糸は輪廻や魂を肯定し、横糸は永遠に変わらない壊れない物質をあらわし、仏教にある「諸行無常」に反するからだ。

だが、結論を急がずに、地球儀をよく見て欲しい。
縦糸と横糸の違いに気づけましたか? そういうことです。
縦糸は地球でいう、北極点と南極点で一点に収束されているが、横糸は一点に収束してはいないのだ。横糸どうしは決して交わっていないのだ。
また、北極点を生まれてくること、南極点を死ぬことと見ることもできよう。
しかしこれでは龍樹の縁起を全くもって説明しきれていないことになる。

とはいえ面白いですね。
こうした球を眺めながら意識や記憶をもつということを考えれば、しょせんわれわれの意識は無意識や生死で繋がっているということを縦糸が一点に収束されることで雄弁に物語っているように思えてくるだから。

そして、仏教でいう無情の存在(爪や髪もそうだが)、意識や感覚を持たないであろうと想像される物質(横糸)はある一点に収束していないと見ることができるわけだ。机は壊そうとしなければ机のままありつづけると見えるわけだ。

ただし、こうような地球儀に見られる縦糸、横糸(緯度、経度)という視点で見ているかぎり、輪廻から抜け出せる方法はないわけだ。輪廻はあるし魂もあるという思想に陥り、仏教ではないわけだ。
いわんや、諸行無常も全く説明できていないことになるのだ。
机が永遠に壊れないわけはないですからね。机もあらゆる物質も風化や腐蝕を免れ得ないのだから。


しかし、人間というのは不思議な生き物で、必要にせまられて、実はそうではない方法で球を描く術をすでに見つけだしているのだ。

それがこれだ!

3DCGのモデリングを少しでも齧ったことがある人なら、呟くことだろう。
「ああ、ポリゴンメッシュね」と。

そう、そうなのだ。
縦糸も横糸も一点に収束しないでいながら、すべてが繋がっており、なおかつある点は、今ここということを表現でき、そのように理解できる図面を人はすでに描いていたのだ。

ある点がわれわれの今ここ、そして次の瞬間には、環境と自分が縁起して、違う点に移動している。
われわれは死ぬまで、点という今ここを移動しながら、一人一人が唯一無二の人生の軌跡――線を描いていくというわけだ。なんとも素晴らしいではないか!

このようなポリゴンで描かれた球であるなら、人間であるとか、環境であるとか、犬であるとか、猫であるとかいうことに完全なまでに差別はなくなるというわけだ。どれが縦糸でどれが横糸という概念をポリゴンでできた球に当てはめることは出来ないからだ。
そして生きものが死んだとしても、意識が消失するだけであり、われわれを作っていた肉体、そして肉体を維持していた物質、情報、エネルギーは縁起のなかにありつづけるというわけだ。
このように考えられ、理解し納得できたなら、死など恐るるに足らぬと思えるだろう。
ただ意識や記憶を失うだけなのだから。

え? 意識も記憶も失いたくない?
わからない気持ちではないが、そういう執着こそが人に拭えない苦しみをもたらすのではないのだろうか?
何の心配もなく寝ているときは意識も記憶もないんだから、別に恐れることはないではないか?
多分、人は「わたし」という概念を統合している記憶を無くすことを最も恐れるのだろう。それゆえに、記憶が引き継がれるという魂の存在を求めてやなまい存在なのだろう。
でも、仏教は魂の存在を基本的に否定しているのだから、どうにももどかしいのだろう。


ともあれ、これは理屈である。
重要なのは、このような意識状態を実際に体験して、、、、、、、知ったうえで生きるということだろう。
それは、恐らくトランス状態と呼ばれる、変性意識(状態)であろう。

よくよく観察してみれば、結局のところ、瞑想にしろ、宗教にしろ、音楽にしろ、絵画にしろ、ドラックにしろ、シャーマンの行なう儀式にしろ、臨死体験者の語ることにしろ、そうしたものの奥に垣間見れるのは、変性意識状態を体感しようとしてきた人類の性であると気づくだろう。

しかし、そういった意識状態に留まることは非常に危険でもある。
すべてのものが一体になっているのだから、わたしと他人と環境に区別がなくなるのだから、すべてはわたしの一部と見えるのだから、空腹を感じたなら、その辺にあるものを何でも食べてしまうようなことが起こえるからだ。
そしてそれは、われわれが通常意識状態で営んでいる社会生活においては「窃盗」になるからだ。
そういうことが起こりえるゆえに、都市化、文明化が進んだ社会の多くでは、ドラッグなどを禁止しているわけだ。

だが、人が理想的に生きようとするなら、変性意識状態を体験することは必要であろう。いや、必要不可欠といってもいいだろう。
つまり、通常意識状態と変性意識状態の双方を体感したうえで、双方の「中道」に生きることこそ理想、、、、、、、、、、、、、、、、、だと、釈迦は考えたのだといえるからだ。
通常意識状態を知り尽くしたからといって、その意識状態から二つの意識の「中道」を判断することは出来ないのだから。

人生にいい換えるなら、己にとって至高の幸福を感じた体験はどれかを知り、かつまた己にとって最悪な絶望を感じた体験はどれかを知ったうえでなければ、真の意味での中道に生きるということを知りえないということだ。

極度の貧困を「体験し」、なおかつ至高の富裕を「体験し」て、はじめてその間にある「中庸」を知れるといい換えることもでようし、極度の空腹を体験し、なおかつ極度の満腹を体験したうえで、己に見合った中庸な食事量も真に知れるということだ。

多くの人は、両極にある双方を体験することを拒むことだろう。
であるならば、体験は出来なくとも、極度の貧困というものがどのようなものであるかを学び、かつまた、至高の富裕とはいかなるものかを学ぶことで、中道とか中庸といった「足るを知る」ということを真に知れるのではないだろうか。
もっともそれはあくまでも知識である。
だから最終的には、己自身の体験知という範疇で己にみあった中道を知るしかないのだ。


記事が長くなるので、変性意識とそれに関係するであろう有余涅槃、無余涅槃、無住処涅槃(生死即涅槃)をからめた記事は、またの機会にでも。

余談だが、わたしの場合、全身で音楽に没頭したとき、変性意識状態になりやすいようだ。
例えば、少し揺れながら坦々と繰り返されるリズム(音楽用語でいうなら、重くてグルーヴ感の強い音)をずっと聴いていると、気分が自然に高揚し、自分が溶けてしまい、音楽と世界と自分が一体になって流れていっている感覚に陥るのだ。
またこういったトランス状態は「動的」なものといえるだろう。
そしてその対極にあるのが瞑想による無念無想にある「静的」なトランス状態といっていいだろう。



ヘッドフォンをして、ちょっと煩いというくらいの音量、つまり耳だけでなく五感で感じながら聞けば、この曲で変性意識状態になれる人は多いと思うのだが……。
でも、試してみてヤバイことになったからといって、責任はもてませんので、あしからずに。
個々人には感受性があるので、変性意識になりやすい音楽はそれぞれにあったものがあるのだろうが。

感覚的にいうならば、そういう曲というのは、その人が大好きで、何百回、何千回も聞いてきた曲ともいえるだろう。しかしまた、変性意識に導く音楽には恐らく共通点があるとも言えるのではないだろうか。

無論、誰でも過去の体験の記憶から、変性意識状態がいかなるかを追体験することもできよう。
例えば、交通事故に遭った人は、ほんの数秒かもしれないが、自分と世界が一体になるような、すべてが溶けあったような感覚と、嘘のようにゆっくりと時間が流れる感覚を味わったことがあるはずだからだ。
このような体験は、自己の記憶を遡ってみれば、誰でも一つや二つくらいはあるのではないだろうか。



世のなかには本当に優れた感受性をもって生まれてくる人がいる。
このよよかちゃんは現在9歳だが、音楽の何たるかをしっかりと感じとっている。
わたしが気持ちいいのはグルーヴ感があって重いドラムとかいっているし、実際、出してる音はそうなのだから。
自分の演奏で自分が気持ちよくなり、さらに多くの人をも気持ちよくさせ、わずかしか生きてないのに、変性意識にある精神の高みを垣間見せてくれるのだから。

そんなよよかちゃんにとって、一番楽しい時間はドラムを叩いているときではなく、
家族と一緒にいるときなのだそうだ。次が美味しいものを食べているときなんだとか。
ドラムは5番目くらいなんだそうな。
おじさん、感動して涙こぼしながら、動画見まくったわ。

ipsilon at 18:03コメント(0) 

2019年01月06日

もう何度も思索してきたことだが、現時点でわたしが考える、空とか縁起とか、十二因縁についてまとめておこうと思う。
別にわたしの思考が正しいなどとわたしは言わない。
ただわたしは、自分の思索を現時点で、体系的にまとめて整理しておきたいだけだ。


「空」。
空とは、この世界で起こっていることは、すべて縁起によって起こっているという概念、、だ。
概念は人が頭のなかで作りあげた思考である。したがって色も形もない。
だから、概念を証明するためには、現実に誰もが納得でき、あるいは理解できるかたちで、言葉、あるいは現実世界にある物質をつかって説明する必要がある。
このように言葉や現実世界にある物質をつかって空を説明したものが「」だ。

こうして概念であった「空」が「仮」によって示されたわけだが、これではまだ「空」をほぼ完全に説明したことにはならない。
なぜなら、「空」という概念が「仮」を使って現実に証明されたとしても、「空」そのものが起こる原因を説明してないからだ。

普通の人はここで、だったら空が起こる原因は、空を起こす法則のようなものがあると考えるだろう。
しかし、龍樹はそうは考えなかった。超人的というか、凄く頭がいいというか、なんと言えばいいのかわからないが、彼、龍樹はこう考えたのだ。

空を起こしている原因もまた縁起、すなわち「空」である! と。
この論理を「中」というわけだ。

これを縁起でいいかえるなら、縁起を起こす「縁起の法則」とか、「永遠の因果」とか、「永遠の生命の法則」があるのではなく、縁起もまた縁起によって起こっているということだ。
いい換えるなら、この世界で起こってることは縁起の連鎖にすぎないということだ。

Aという原因にBという条件付け(縁)が働いて、Cという結果が起こる。
これがふつうわれわれが思考する因果律とか因果論だ。
しかし、龍樹はそんな単純なものじゃないと考えたわけだ。
縁起を起こしてる原因もまた縁起だと考えた。
そしてこれをABCを用いて説明するとこうなる。

ABCという結びつきによって因縁果が起こる、その結果のCにDという縁が拠ってEという結果が起こる、その結果EにFという縁が拠ってGという結果が起こる。……以下無限ループだと。

つまり、龍樹のいう「空仮中」ともに縁起によって起こっているというのを、ABCで表すなら――
Aという原因にBが縁し、Cという結果になり、Cという原因にDが縁し、Fという結果になり……永遠に縁起が続いていくであろうことがわかる。

となると、因果の法則というのがあるなら、必ずはじまりがなければならないことになる。
Aという原初的あるいは根源的原因がなければならないことになる。
ビッグ・バン説でいうならば、ビックバンが起こる原因がなければならない。
しかしそうやってビッグ・バンの起こる原因があると仮定するなら、ビッグ・バンが起こる条件付けが必要になり、結局のところ原初的あるいは根源的な原因に辿りつけないことが理解できるというわけ。

これが龍樹の空観なわけだ。
したがって、この世界には因果の法則などないことが理解できるというわけだ。
はじまりも終わりもなく、ただ次々に事象が起こっているだけだということになる。
原因、縁、結果というのは、便宜上のものであって、はじまりもおわりもないなら、原因は縁でもあり、また結果でもあるということも理解できるわけだ。
だってそうでしょ。どこまでいっても原初の原因に辿りつけないなら、これが原初の原因であるということを規定できないなら、それに連鎖して縁と結果も規定しようがないのだから。

日蓮本仏論というのは、日蓮が根源的な仏であり生命であり、すべてを生んだ根本原因であるという思想だ。
じゃあ訊くが、その日蓮の生命を生んだ原因はないのかい? もしもないと言うならば、それは因果論の破たんになるのだが……。だってそうでしょ。その根本仏を生みだした原因がないのに、因果の法則は厳然だとか言ってるわけだから……。
こういうことに気づけば、いかに日蓮本仏論が馬鹿げたものかはわかるというわけだ。
したがって、縁起は縁起によって起こっているという龍樹の空観のほうが、よほどまともな思考であることもわかるわけだ。

日蓮=釈迦の生まれかわり説こそ正しいと言ってる人もいるが、これも龍樹の空観に当てはめて考えれば、まともな思考とはいえない。もし仮にそうだというなら、輪廻を肯定することになるということだ。

龍樹の空観にのっとって考え、日蓮=釈迦の生まれかわりだとかいうなら、相当に奇蹟的な確立であることになる。
龍樹の空観がもし円環になっているとするなら、日蓮=釈迦説という理論はなりたちはするが……。

ABCで表現するなら、ABCという縁起は最終的にZに行きついたあと、またAに至り、輪廻しているというなら、日蓮=釈迦説はまあ納得できるが……ということだ。
けれども、龍樹のはじまりも終わりもない、直線的な空観で見るなら、日蓮=釈迦説など奇跡のなかの奇蹟のような事象になるだろう。

ともあれ、日蓮本仏論というのは、神がこの世界を創ったという一神教の思想と変わらないということだ。
したがって、こんな論は仏教でも何でもないということだとわかるということだ。


そして、こうやって考えてくると、「輪廻」があるのかないのかが非常に重要な問題として浮かび上がってくるのだ。
しかし、そんなことを考えるのは無意味でもあるのだ。
十二因縁を見てみれば、それがわかる。

図があるほうが理解しやすいので、失礼してこのサイトから拝借させてもらう。

さて、図を見てまずわかるのは、無明→行の部分が過去であり、不可知であり認識できない範囲であることは納得できるだろう。
不可知ではあるが、われわれは今ここに生きていて、生命活動が起こっている。これが過去(われわれが決して干渉しようのない範疇)である。
そして識から有までは、われわれが知り、認識できる五感と意識上で起こっていることである。したがって現在でもある。
そして、生(生まれてくること)と老死は未来であり、これもまたわれわれが決して干渉しようのない範疇だ。

十二因縁はこうなっているわけだ。
だから、無明と行、生と老死の部分に関してわれわれは干渉する術をほとんど持っていないということであり、またこうした無明と行、生と老死の部分がどのように行われているかも知れないということだ。
したがって、十二因縁から、輪廻があるとかないとかは、われわれには知れないということが理解できるわけだ。

ではわれわれの知れることはなにか?
そう、識から有までなのだ。
では、その識から有までのあいだで、ほぼわれわれの意志によって制御できるところはどこなのか? と考えてみれば、それは(渇)愛→取の部分だけであることがわかろう。

だから、釈迦はわれわれが知れたうえで、なおかつわれわれの意志によって制御できるのは、渇愛(つまり執着)から離れようと出来る部分だけであると考えたのだろう。
滅茶苦茶、頭がいいとしかいいようがない。
このように、十二因縁は我々が知れる部分、知れない部分を提示したうえで、われわれに出来る部分を明瞭に提示しているというわけだ。

したがって、輪廻があるとか、ないとかはどうでもよいし、知れないということが、十二因縁から理解できるということだ。
だから、日蓮=釈迦説という、いわゆる魂の輪廻説、それが鳥になったり虫になったり、あるいは人間に生れ変わったりというのも、願望だとかそうであったらいいのにという我執でしかないことも理解できよう。

そもそも龍樹の空観もそうだし、釈迦の教えも自性(自分)なんてないという思想なのだから、自分が死んだ後に、自分を形作っていた魂が残るはずがないのだ。

じゃあなんで自分もなければ魂もないのに、涅槃を目指す必要があるんだ?
そうだよねぇ。自分も自性も魂もないんだったら、涅槃を目指す必要はないよねぇ……。

ところがあるのだ。
それを解く鍵は「欲」や「執着」によって「苦」が起こるという釈迦の教えにある。
つまり、われわれが執着によって苦しみ、悲しみの記憶を積みあげ、さらには怨みや妬みや後悔を抱いたまま死んだらどうなるか?

われわれが味わったそうした記憶(執着)やらが、物質のなかにエネルギーとして残るとしたらどうなるだろうか。
そしてそれが新たに生まれる生命体の心や体を作る材料になるとしたらどうなるだろうか。
例えそれが自分だとか自分の魂でないとしても、新たに生まれた生命体に引き継がれることはまず間違いないだろう。

自分がものごとに執着し、苦しかった、悲しかったという思いや、怨みや妬みや後悔を残して死んだなら、そうした思念が、新たに生まれてくる生命体を形つくることなって、その新しい生命体を苦しめることにならないだろうか。

だから釈迦は、執着を捨てて、すべてに満足し、安穏で平安で、一切後悔のない涅槃の状態になり、それで死んでゆくことを勧めたわけだ。
そのように死んでいけば、満たされているという思念しか残さないのだから、そういう人が死後残した肉体を形成していた情報にも、物質にも、エネルギーにも、満たされているという安穏と平安しかないわけだ。

で、そうしたものを材料にして新たに生命体が生まれたなら、その生命体を苦しめることもないというわけだ。
そう、これこそが、本当の利他だということになろう。
無論、生きてるあいだにも利他行為はできなくもないが、自分が善だと思ってやったことは、他人にとっては悪になるという二面性を知っていれば、この世界で現実にできる利他行為が真の利他にはならないことを知っているのだしね。

涅槃に達して死ねば、いかなる執着も残していないから、自分を形つくっていたもの(情報と物質とエネルギー)が、新たな生命体を形作る材料になったとしも、その生命体を一切苦しめないというわけだ。

そんな理屈と思うだろう。
しかし、こうしたことは歴史が証明しているといえる。
理想に到達した文明があったとするなら、そこに住した彼らは何か記録を残すだろうか?
否だ。
すべてに満足し、すべてが叶ったと思ったなら、人は何も語るべきことなどもたないからだ。

もしも人類が理想国家を築きあげたなら、その国家に住した人々は、何の記録も残さないであろうということだ。
実際、釈迦はそうだったではないか。
口伝でだけ思想を残し、記録を残さなかったのだから。

人類の歴史を見てみればいい。
こういう悲惨なことがあった、こういう差別をうけた、理想は多分こうだろうが、俺たちが生きた国家はそういう理想とはほど遠かったということが、綿々と残されてきたことなど、明瞭であるからだ。

輪廻転生はあるのか?

ipsilon at 16:38コメント(0) 
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